「知らなかったでしょ、あなた」
   
〜 ある朝の情景から 〜

あなたは、あの角を曲がるまで

何度も何度も振り返って

手を振ってくれたわね、毎朝

私は、あなたの姿が見えなくなるまで

玄関口に立って、手を振りかえした、毎朝

あなたが角を曲がった後も

ひょっこり戻ってきて、また手を振るんじゃないかって

なかなかお家には入れなかったのよ、私

あなたは知らなかったでしょ

あなたが、いつ顔を出してもいいように

こんな風に手をちょっとあげかけて

笑い顔もそのままで

そんな自分がおかしかった

知らなかったでしょ、あなた

 

あなたの禿げた頭も

ずんぐりの体も

たるんだお尻も

短い足も

みんな愛してたのよ、私

知らなかったでしょ

あなたとの何気ない日常

何時までも続くものだと信じていたから

つっけどんにしてたのは

あなたの事を愛してたから、本当よ

 

私、あなたに言えない秘密

いっぱい持ってるわ

あなたに会うまでのこと

あなたに会ってからのこと

会うまでのことは、全部話したつもり

いいえ、話してないわね

私が、いろんな男と付き合ってたこと

あなたは、知っていたと思うけど

その男達と、どんな風に愛し合ったのか

どんな風に私が感じていたのか

あなたは、何も聞かなかったもの

聞けなかったの?

確かにヘタクソだったわ、あなた

一番ヘタクソだったわ

でも、それさえも愛してたのよ、私

知らなかったでしょ、あなた

そんなのどうでもいい事なんだって

あの寒い冬の夜、傷ついて酔いつぶれた私に

風邪引くよって、優しくコートをかけてくれた

見ず知らずだったあなたが、気づかせてくれたのよ

 

あなたと一緒になってしばらくして

冷たい風が吹き始めたわね、二人の間に

私の裏切りのいくつかを

知らなかったでしょ、あなた

新しいネックレスや

新しい下着や

いっぱいいっぱい買い込んだので

うすうす感じていたかしら

知らない振りしてただけなの、あなた

あなたは、それでも受け止めてくれた

外で傷ついて帰ってきた私に

黙ってコーヒーを煎れてくれたわ

何も言わずにジャズを聞いて

二人でコーヒー飲んでたわね

そんなあなたの優しさに

とっても腹が立った頃もあったわ

あなたの心の中の全てを

引きずり出してやりたいって思ったわ

あなたは、それでも受け止めてくれた

いいえ、一度だけ私をぶったわね

そう、あれは私の計算違い

あなたは、私の体と、生まれて来れなかったもう一つの

命のために、本気で私をぶったわね

でもその後で、もう一度私を受け止めてくれたわ

私、それから、あなたの事傷つけるのやめたの

知っていた、あなた?

 

あなたとの生活がいつまでも続くと

ずっとずっと続くと、心のそこから

信じてたわ、私

毎朝、あなたに手を振って

なかなか帰って来ないあなたを

食事も取らずに待って

玄関先で寝てるところを

起こされた事もあったわね

お休みの日には散歩がてらに

お買い物

桜のきれいな公園や

噴水のある池のまわりや

すてきな紫陽花の咲くお庭や

そのまま映画を見に行ったりして

やっと自分を振り返る余裕ができて

あなたの優しさに、私、毎日心ときめいていた

知らなかったでしょ、あなた

 

あなたが居なくなって、しばらくは

私、二度と外には出ないと思った

あなたと歩いた小道や

あなたとながめた綺麗なお庭や

何よりまして、あなたが毎日曲がった

曲がり角

あなたが、ひょっこり戻ってきて

もう一度手を振り返すだろうなんて

そんなありもしない事

考えれば、涙しか出ない

私、あなたに手紙を書いたのよ

ごめんなさい、ごめんなさいって

今まで、あなたに謝れなかった事の

いくつもを、そして

ありがとうの言葉を

ベットに横たわるあなたの隣で

私、いっぱい手紙書いたのよ

知らなかったでしょ、あなた

そんな手紙の束を

私、今日もポストに入れられずにいる

立ちすくむ私の側を

お客さんの乗っていないガランドウのバスが

駆け抜けていく

裸電球がチロチロと揺れている

 

ね、もうすぐあなたの七回忌ね

私、今でもあなたが側に居るって思っている

知らないでしょ、あなた。

 

 

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