ばあちゃんの不思議なラーメン」

 

ばあちゃんは、今年七十五歳だ。十人ばかしの小さな老人ホームに住んでいる。亭主の残したラーメン屋を売って、ここに移ってきた。ばあちゃんは、天涯孤独だ。亭主は、十数年前に、息子は、それよりももっと前に、亡くなっている。

亭主は、七十歳で死んだが、死ぬまでラーメン屋だった。脳溢血で倒れたときも「ラーメンがのびちまうじゃねぇか。」と言いながら倒れたし、臨終の時も、ばあちゃんに「湯は沸いてるか。客が腹空かせて、待ってるぞ。」と虫の息ながらに言ったのが最後だった。それから十年、死んだ亭主に世話になったという源さんに手伝ってもらいながら何とかラーメン屋を続けたが、源さんの故郷の母親が倒れたとかで、奥さんや子供を引き連れて帰ってしまって以来、いい人が来てくれず、とうとう手放さざるを得なくなってしまった。

老人ホームに住み始めて、しばらく経ったころ、思い切って、一度だけラーメン屋を尋ねてみたが、店内はきれいに改装され、ばあちゃんの見覚えのあるしみやら、傷は、跡形もなかった。カウンターの中では、三十歳くらいの髭を生やした男の人が、二十歳前くらいの女の人と一緒に汗水たらして働いていて、それが、ラーメン屋を切り盛りしていたころの自分達の姿とオーバーラップして、自分一人が世の中から取り残されてしまったようで、ズシンとさみしさを感じた。

老人ホームは、一人六畳の部屋に共同炊事場、共同便所、共同風呂、それに二十畳ばかりの共同の居間があって、四十過ぎのよく肥えた住み込みの家政婦のマサさんが一人いるだけで、それも、食事を作ってくれるでもなし、各部屋を掃除して回ってくれるでもない。隣の部屋のおときばあさんが夜中に倒れたときでも、おろおろするだけでてんで役に立たず、結局一番元気なスエばあさんが近くの病院まで走って、背負うようにして先生を連れてきて、手遅れにならずに済んだ。それでも、だれもマサさんに文句を言わないのは、彼女がやたら朗らかで、何事にもこだわらず、例えば、ウメさんがしょっちゅう失禁しても、「年をとるってのは、赤ん坊に戻るってことだね。」と言ってカラッと笑って始末をしてくれるし、家政婦のくせして人のおやつをつまみ食いして、昼間っからテレビを見てキャッキャと笑っているのが可愛くて仕方がない。世話をされているのか、逆にしてあげているのか、このあたりの不明瞭で微妙なところが、ばあちゃん達と世間を結び付けている寄り所となっているようだ。

食事は、各自が共同炊事場で勝手気ままに作ることになっている。材料は、マサさんに言えば買ってきてくれるし、元気な時は、自分で買いに行けばいい。この老人ホームは、町の繁華街に比較的近く、ショッピングセンターまでは、軽い散歩の距離だ。

町の繁華街の近くに位置するから、賄いもついていないのに、結構な入居費用を取られる。ばあちゃんは、亭主の残してくれた一切合財を処分して、やっと三年分の費用を前払いした。それ以後の事は、考えないことにしている。

ここに住んでいる人は、皆そうだ。身寄りもなく、財産と言っても、亭主が残してくれた僅かの額で、ただ、他人様の世話にはなりたくない。動けるうちは、自分で最低の事はしたい。だから、三食完全看護付きの老人ホームを選ばずに、町に近いここにやってきた。だが、ここに入居してくる最も大きな理由は、亭主の墓が近くにあるということだろう。このホームにはいる人のほとんどが、亭主の墓も近いし、何より、長年暮らした町の近くに住めるのが魅力で、入居してくる。ただ、死ぬまでそこで暮らせるだけの資金を持って、入居する人は少ない。

先日も、ツネさんが行方をくらました。来月からの入居費用が支払えなくなったからだ。ホームから東京に住む息子さんあてに入居費用振込の依頼連絡が行ったのを知って、その日のうちに姿を消した。息子さんにも行方不明の連絡が行ったはずだが、なしのつぶてで、むしろ、せいせいしているのではないかと、悪意のこもった感想を口々に言い合い、ミチばあちゃん等は、朝夕の読経の時に必ずツネさんの息子さんの身の不運を祈っている。

 

ばあちゃんにしてみれば、亭主の墓と息子の墓がこの町にあるので、余計に離れられない。週に一度は、必ず墓まいりに行く。亭主と息子の墓の前で、うたうたと思い出に旅する以外は空白の時間を過ごすのが生きがいだ。それも、しかし、暖かいうちはいいが、冬が近づいて来ると、神経痛で思うように外出できなくなり、週に一回が、一か月に一回になり、二月三月等は、全然墓参りができなくなるので、秋のうちに、できるだけ機会を持つ。

その日も晩秋とは言え、暖かい日だったので、ちょっとした用事を作って、墓の近くまでやってきて、おとついお参りをしたばかりだが、寄っていこうと思った。バス道から山に向かっておれると、たけやぶに囲まれた長いだらだらした坂道が続く、寺はその行き止りにあるのだが、何と言ってもこの坂道がつらい。このところ体調を崩しぎみなので、休み休み登っていく。それでも、寺の門をくぐり、亭主と息子の墓にたどり着くころには、妙に息が弾んで、俄かには直らない。墓の前にべったりと座り込んで、呼吸を整えようとしたが、かえって、何だか気が遠くなるようだ。やがて、スゥッと目の前が真っ暗になって、暗やみの向こうの方で、誰かが手を振っているような気がしたが、どこの誰やらわからず、「すんませんが、どなたさんですか。」と声をかけたところで、あたりが明るくなって、目を開けてみると、老人ホームの自分の部屋で、スエさんとマサさんが心配そうにのぞき込んでいた。「閻魔様がお迎えの人を間違えたみたいだよ。」と言うと、

「それは、残念なことでした。」と、スエさん。

「阿呆な事を言ったらいかんで。」と、マサさんが言うのが、ほとんど同時だった。

 

ばあちゃんのところにその差し入れがあったのは、墓場で倒れた翌日だった。

差出人は、全く不明で、昔世話になった者の使いですとしか言わず、ばあちゃんにも会わずに帰ってしまった。ダンボール箱の中身は、袋に会社名も銘柄も印刷されていないインスタントラーメンだった。五十袋ばかりあった。ばあちゃんは、息子が、生前、インスタントラーメンの会社に勤めていたので、その時に世話した誰かだろうと思った。手に取ってみると、死んだ息子の事がいつもより懐しく思いだされたので、そういった差し入れがあるときは、ホームの皆と分け合うのだが、この時は、「どうやら息子と因縁の深い事らしいので、かわりに果物を買ってきましたので、この差し入れの代わりに果物で堪忍してもらいます。」と、丁重に皆に説明して、納得してもらって、自分一人で食べることにした。

ばあちゃんは、居間で皆がお昼のニュースを見ているのを尻目に、自分一人部屋にこもって、ラーメンを一つ、箱から取り出して、しみじみとその袋の表面を撫でてみた。

「和幸。」と、息子さんの名前を呼んだ。

「これは、あんたが作ってくれたラーメンかも知れないね。そういえば、おとうちゃんは、あんたがインスタントラーメンを作ってるって聞いて、猛反対したよね。」

そうすると、どこからともなく、息子と亭主の言い争う声が聞こえたような気がした。ラーメン屋のカウンターの熱気が、ばあちゃんの頬をなぜて通ったような気がした。

インスタントラーメンを手に取って袋をやぶいてみた。袋のやぶける音と同時に、今度は、はっきりと、息子の声が聞こえた。

「何で、そう、わからず屋なんだ。」と、怒鳴っていた。

「和幸、そんなに喧嘩ごしにならなくてもいいじゃないか。」

久しぶりに会ったのにと、ばあちゃんが言った。すると、亭主が目の前にいた。ばあちゃんは、嬉しくなった。

「ラーメン屋がこんな擬物のラーメンなんか食えるかい。とっとと、出てけ。」

「その考え方が古いんだよ。一口でいいから食ってみろよ。」

「ばかやろう、よりによって、ラーメン屋のせがれのくせに、インスタントラーメンなんかで、世間様をごまかしやがって。そんなにしてまで、金儲けがしてえのか。」

あっ、こんな喧嘩、そう言えば、昔したことあった。と、ばあちゃんは、思った。この喧嘩のおかげで、和幸が出ていくんだよ。そして、二度と返って来ないんだよ。

「ラーメン屋のせがれだからこそ、いいインスタントラーメンが作れるんじゃないか。」

「庇理屈言うんじゃねぇ。とっとと出ていきやがれ。二度とこの敷居をまたぐんじゃねぇぞ。」

「ちょっと、あんた、そこまで言わなくても。」

和幸の死に目に会えなくなってしまうじゃないか、と、しかし、声には出ない。

「わかったよ。出てってやらぁ。」

「ちよっと、和幸、待ちなさい。和幸.....。ばか、あんたがあんな風に言うから、出てってしまったじゃないか。」

そのまま、あの子は、五年後に交通事故で死んじまうんだ。死に水も取ってやれずに。

そう言って、亭主の胸倉を掴もうとした時、ふと我に返った。相変らず自分一人で、口の開いたインスタントラーメンの袋が畳の上に転がっていた。

 

夕食にもわくわくしながら、ラーメンを作った。また、亭主や息子に会えるかも知れない。嬉しいことに、この時も一瞬ではあるけれど、亭主がその頑固な顔を見せてくれた。まだ戦争の傷跡の残る辛い時期だった。二人して、必死で働いた時だった。息子の和幸は、まだ二歳になったばかりで、ばあちゃんの背中でスヤスヤと寝息を立てていた。一瞬ではあるが、確かに和幸の温もりを持った重さを感じることが出来た。

インスタントラーメンの袋を開ける度に、色々な思い出に会えた。ばあちゃんは、食事の時間が待ち遠しくなった。ただ、数に限りがあるので、一度に一袋づつ、一日に二食だけ食べることにした。それ以外の食べ物は、喉を通らなくなった。

まだ二人とも尋常小学校で、口も聞いたことがなかったころの思い出にも会えた。朝鮮人の子供がいじめられているのを助けているところだった。「そういえば、」と、ばあちゃんは思った。「あの人は、やたら、正義感が強かった。」

それにしても、あの朝鮮人の子、どこかで見たなと思って、はっと気がついた。あれは、確かに源さんだ。そうに違いない。

新婚初夜の思い出にも会えた。お祝いに集まってくれた近所の人達が帰って、二人きりになると、亭主はいきなりラーメンを作り始めた。

「食え。」と差し出されたラーメンは、食料不足でたよりなげな麺がほんの僅か入っているだけの物だったが、人生の中で一番おいしいラーメンだろうとおもった。二人でラーメンをすすりながら、これからのことをいろいろと話し合った。何時かきっと、二人で大陸に渡ろう。モンゴルの草原に行こうと、亭主が言った。本当に行けそうな気がした。

亭主が兵隊に取られていった思い出や、帰ってきた日の事、空襲で店が焼け落ちてしまった思い出や、終戦を何とか乗り切って、新しい店が完成した思い出もあった。和幸の誕生の思い出もあった。俺は、こいつと一緒にモンゴルに行くんだと、亭主は、嬉しそうだった。

 

一番悲しかったのは、一人息子の和幸が死んだ時の思い出だった。出前の注文を取るために店に電話を付けたばかりの頃だった。病院からの連絡で、和幸が交通事故で瀕死の重症とのことだった。店にいたお客さんに車に乗せてもらって、慌てて駆け付けたが、間に合わなかった。包帯でぐるぐる巻にされた、息子の顔を撫でさすりながら、大声で泣いている自分の背中が見えた。自分の背中を見ながら、やはり泣きだしてしまった。が、ふと見ると、病室の片隅にまだ若い女の子がやはり肩を震わせていた。そうか、と、ばあちゃんは思った。あの時は、自分の悲しみが先にたって気がつかなかったが、この娘も、同じくらい辛い思いをしていたんだねぇ。そう言えば、三年後くらいに見合で嫁いでいったんだったねぇ。ばあちゃんは、娘の肩をしっかりと抱きしめてやった。

葬式が終わると、亭主と二人だけの空間が、とてつもなく広すぎて、どうにもこうにも、埋めがたいもののように思われた。

ばあちゃんは、深夜の店のカウンターに座っていた。そこへ、亭主が降りてきて、カウンターの中でなにやらゴソゴソし始めた。亭主は、インスタントラーメンを作っていたのだった。へぇ、こんなことがあったのかと、驚いた。これは、ばあちゃんの知らない思い出だった。亭主は、鍋から直接ラーメンをすすり始めた。時々、鳩の泣くような声を出すので、あまりに慌てて食べるので、てっきり喉に詰まらせているのだと思っていたら、実は、亭主が泣いているのだった。空襲で店が焼けたときでも泣かなかった亭主が、深夜のカウンターの中でインスタントラーメンを食べながら泣いていた。

「あんた。」と、思わず声をかけたら、振り向いた亭主は、目にいっぱい涙を浮かべて、それでも照れ笑いしながら、鍋を差し出して、「食え。」と言った。

「うめえじゃないか。な、うめえよ。いい味だしてるよ。」と、亭主は、何度もつぶやいた。その日から、店のメニューにインスタントラーメンが加わった。一袋三十円で仕入れて、葱とチャーシューをのせて、三十円で出したら、近所の高校生が毎日食べに来た。

 

「ばあちゃん、最近顔色悪いよ。」と、マサさんが言った。

「散歩にも行かないみたいだし。どっか具合でも悪いの。」

そう言えば、このところ、部屋から外に出ていないし、老人ホームの他のばあちゃん達ともほとんど話をしていない。

「あのインスタントラーメンばかり食べてるからじゃないの。」

ばあちゃんは、それには答えずに、

「もう、お迎えが来てもいいころだしね。」と、捨てゼリフを残して、部屋に戻った。折角皆が心配してくれているのに、申し訳ないと思ったが、今は、思い出に浸っていたかった。

とうとうラーメンが残り一つとなってしまった。。これを食べてしまったら、もう二度と思い出には会えなくなってしまうと思ったら、辛かった。いつものように袋を破ろうとして、躊躇した。これは、このまま置いておこうかと、思った。そして、もう、明日なんか来なくてもいいと言う時になったら、食べようか。すると、「かあちゃん、頼むから食べてくれよ。」と、どこかで和幸の声がしたような気がした。思い出ばかりに浸るこのごろだが、まだ現実と思い出とを区別できるだけの意識の明瞭さは、あった。だから、その声が、自分の内部からの声であるのは確かだった。溜息を一つつくと、ばあちゃんは「よし」とばかりに、袋を破った。

そこは、見たこともない場所だった。一見屑鉄置き場のようだった。地面は、しっとりと湿っていて、所々油が浮いていた。科学薬品の匂いが、充満していた。ふと足元を見て、びっくりして跳びのいた。そこには、目玉が一つ落ちていた。良く見ると、作り物の目玉だった。足音がした。一人の少年が現われた。大きなずた袋を持っていた。少年は、屑鉄の山をしばらく捜し歩いていたが、やがて、ボロボロの上半身だけになった人間の死体を引っ張りだした。ばあちゃんは、身を隠したかったが、どうにも体が動かない。やがて少年がこちらに歩いてきた。ばあちゃんは、心臓が止るほど怖かった。が、少年はそこに誰もいないかのように知らぬ顔して、通り過ぎようとした。その少年の顔を見てびっくりした。その、思いつめたような顔は、少年時代の亭主そっくりだったからだ。

「あの、もし。」と、ばあちゃんは、少年の背中に声をかけた。少年がゆっくりと振り向いた。その顔は、やはり少年時代の亭主と瓜二つだった。

「あんたは、もしや。」

「俺は、このロボットを生き返らせてやらなくちゃならないんだ。」

「ロボット。」

「この前から、気になってたんだ。この近くを通る度に誰かが呼びかけてたんで。それが、こいつだったんだ。ほら、まだ電池が残ってるんで、微かだけど、音がする。」

「生き返らせてどうするの。」

「ちゃんと、与えられた仕事を全うさせてやるのさ。」

「仕事。」

「ロボットは、与えられる仕事がなければ、生まれられないし、与えられた仕事を全うしなければ、安心してスクラップにはなれないんだ。こいつは、仕事の途中で、事故かなにかで壊されてしまったんだと思うんだ。でも、人間とは違って、この程度のことじゃあ、意識は無くならないから、残った電池で自分を直してくれる誰かを呼び続けていたんだろう。それが、俺の通信機と同調したんだ。俺、ロボット工学やりたいんで、自分の力でこいつを直してやることにしたんだ。だから、このことは、誰にも喋らないでくれよ。

俺ね、何時か仕事を与えられなくても自由に生きていけるロボットを作るのが夢なんだよ。まるで、大昔の草原を自由に駆け回ってた馬っていう動物みたいなロボットをね。

そんなロボットが出来たらばあちゃんに真っ先に見せてやるから、ここで会ったことは絶対内緒にしててくれよね。」

そう言って、少年は、去っていった。ばあちゃんは何かが理解できそうだと思った。自分の体内に息づいて、芽生えてくるものがあった。それは一体何だろう。答えは、薄靄の中だが、手を延ばせば届きそうに思えた。

「俺達、もう一度会えるね。そんな気がするよ。」

何時の間にか戻ってきていた少年がそう言った。

 

誰かが、体をゆするので目を開けると、マサさんと行方不明になったはずのスエさんがのぞき込んでいた。

「あらスエさん、帰ってきたんだね。」と、ばあちゃんが言った。

「あらスエさんじゃないよ、全く。やけに静かだと思ったら倒れてるんだもんね。」

「倒れてた。寝てただけなんだけどね。」

「真青な顔をして、寝てるって感じじゃなかったよ。まるで、あれだよ。あの世に行っちまったって、感じだったんだからね。」

「縁起でもないこと言わないどくれ。あたしには、まだ仕事が残ってるんだ。」

「仕事。」

「そう、仕事、仕事。」

 

スエさんは、食うや食わずの頃に、息子さんを育てるために妾をしていたことがあった。息子さんは、そのことを大変恥じていて、「あたしのことを憎んでるんだよ。」と言うことだ。スエさんは、行方をくらまして、その昔の愛人のところにお金を借りに行っていた。今や大企業の名誉会長になった本人が会ってくれなかったので、奥さんの方に会いに行ったとのこと。「もう、死んじまいたいくらい情けなかったけどね、息子に迷惑かけるわけにいかないし、亭主の墓を守ってやらなくちゃならないし、行き場をなくして死んじまうにはまだ早いし。」

奥さんは、わざわざ招き入れて、「御苦労をおかけしました。精一杯のことをさせていただきます。」と、その場で小切手を書いてくれた。

「良かったじゃないか。」と口々に言うと、

「いい事あるもんか。丁重に手切れ金を渡されたんだよ。七十歳を過ぎてだよ。あたしゃ、その場で破り捨てたかったよ。」

だが、小切手の額を見て、破り捨てられなかった。

「たかだか五百万だよ。」

ばあちゃんは、その夜、こっそりと、スエさんの部屋を訪ねた。老人ホームの生活の残り二年間を買い取ってくれないかという相談だった。

「いくらでもいいよ。あたしも、実はまとまったお金が急に入り用になってね。恥を忍んで、交渉にあがったって訳さ。」

ばあちゃんの言葉にスエさんは、一つ一つうなずいて、交渉はまとまった。スエさんは、お仕入れのなかから秘蔵の酒を出してきて、二人で乾杯した。

 

それから二日後、亭主と息子の墓の前で、一心にお経をあげる旅姿のばあちゃんがいた。ばあちゃんのすがたを見たのは、それが最後だった。

老人ホームでは、ばあちゃんの事を皆、心配した。スエさんだけは、平然としていた。

ばあちゃんがいなくなって、一週間後、マサさんが、ばあちゃんの部屋を掃除していると、こんな手紙が出てきた。

 

「インスタントラーメン、もうお手元に届きましたか。日本にいたころは、大変お世話になりました。御主人には、小さいころから何かと面倒を見ていただきました。大変感謝しています。ところで、私は、今、故あって、ウランバートルと言う町で、インスタントラーメンの工場を経営しています。日本の技術を輸入したものです。和幸さんの働いてらした会社の技術なんですよ。だから、懐しい味がするんじゃないかとおもって、一番最初に出来上がったものを食べていただきたくて、日本に住む知人を通して、お手元にお届けします。それが、一番早いルートです。

御主人は、昔、よく私に、俺もモンゴルにすんでみたいと、おっしゃってました。生きておられるうちにお招きできなかったのが残念です。

ウランバートルにて。源」

 

ばあちゃんの消息が分かったのは、それから半年もたってからだ。老人ホームにいきなり、ばあちゃんからの手紙が舞い込んできた。それも国際便でだ。

ばあちゃんからの手紙には、今ウランバートルにいること、亭主や息子のお骨と一緒であること、息子の作ったインスタントラーメンの屋台を経営していること、ウランバートルの市場の名物になってしまって、忙しくて、体がいくつあっても足りないくらいであること、大草原の降るような星空の下にいると、何時か必ず、亭主や息子と再び巡り合えるという確信が持てること、等が、したためてあり、写真が一枚同封されていた。それは、信じられないくらいに若返った、ウランバートルの市場に立つ、ばあちゃんのポートレートだった。

 

  

 

 

 

 

 




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