「張り付いた男」
寝覚めのいい朝だった
昨夜の蕎麦焼酎の余韻を楽しみながらベットを抜け出し，
マンション5階の出窓のカーテンを開けた。
太陽が東の空から顔を出し，地上に光を与えていくのを，
白亜紀の恐竜のような眼差しで見ていた。
温まり始めた大気を経由してメールが到着した。
いつものスナックの女からだった。
ケーキをおごる約束を思い出して，
下心で下半身をいっぱいにして再び窓の外に目をやると，
その男がいた。
男は，仰角４０度くらいの空に，下向きに張り付いていた。
恐怖と驚愕からか，目をむいて，声も出さず，
約一秒間隔で，カエルのような動きを繰り返していた。
あわてて子供を呼んで指差して見せたが，興味も示さない。
私一人，騒ぎ立てるのも恥ずかしかったので，何も無かったことにした。
男は，通勤電車からも，会社からも見えたが，
興味が無いのか，
リストラで仲間が減った分忙しくて，それどころじゃないのか，
誰も，その事を口にしない。
私も，「君，精神的に，あれじゃないか．．．。」等と，
上司に言われたくなかったので，何も喋らないでいた。
夜になると，男の姿は，ネオンに照らされる事も無く，闇に溶けたように見えたが，
よくよく目を凝らしてみると相変わらずの姿で張り付いていた。
そして，深夜。
いつものように，私一人しか残っていないオフィスに，陰湿な気配が漂いはじめる｡
ガタンと聞こえよがしの音がする。
姿は見えないが，左遷されて自殺したあいつだろう。
たまに背筋が寒くなることを除けば，慣れているので，気にはならない。
いつもは知らぬ振りをするのだが，その日は，
あいつのいるらしきあたりにズカズカと歩み寄った｡
見積書を書いているらしい姿がぼんやり浮かぶ。
死んでも，会社にしか帰る場所を見つけられなかったあいつの
驚いた顔が目に浮かぶ。
とにかく，私は誰かに喋りたかったのだ。
あの空に張り付いた男の事を。
死んだあいつが相手なら問題あるまい。
死人に口無しって言うし，変な噂もたつまい。
私は，あいつの顔のあたりを見つめ，男の方を指差した。
すると，あいつの気配が消え，
窓の外を薄い光が流れて，
あの男の姿も消えた。
徹夜明けの電車の窓からも，
自宅に向うタクシーの中からも，男の姿は見えなかった｡
マンションの近くの人ごみも目に入らないほど疲れ果てた私が自宅に帰り着くなり，
女房が，昨夜，飛び降り自殺があった事を告げる。
男が，屋上から，我が家の出窓の前を通過して，下の生垣にダイブしたらしい。
テレビ局がやってきて，ニュースでも流れたが，私はそれを見ていない｡
それよりも，
最近，やたらと張り付いた男が目に付く。
空や，川や，線路にも｡
