「ある愛の詩」
古い映画である。
が,今でも,泣かせてくれる映画でもある。
そんな自分が,やたらと乙女チックに思えるのだが,
感動するものは,するのだから仕方が無い。
特に,あのテーマ音楽。
テーマ音楽で泣かせてくれる映画は,多かった。
例えば,「禁じられた遊び」
少女が,駅の構内を駆けて行く。
そこに流れる,哀切のメロディー。
「ある愛の詩」のラストシーン。
公園のスケートリンクのベンチにうつむいて座る主人公,
そこにフランシス・レイの音楽が優しくかぶさっていく。
見るたびに新しい思いが加わる。
アメリカに白人と黒人以外の人種差別,階級差別が歴然と存在した時代。
今でもあるんだろうな,階級差別。人類の避けて通れぬ命題だものな。
イタリア移民の貧民層の娘と,上流階級の出身の男。
我々の持つ自由の国アメリカのイメージは,そこには無い。
まるで,ヨーロッパの貴族階級の物語を見ているようだ。
そう言えば,「華麗なるギャッツビー」も,そんなアメリカをえがいていたなぁ。
古きアメリカの世代間の隔絶に二人の愛が絡んでくる。
同時代に作られた「イージーライダー」が完全にぶっ飛んでて,ニューシネマのはしりを担ったのに対して,
「ある愛の詩」は,きちんと定石を踏んだクラシックバレーみたいなもんだった。
それでも,同時代性を感じたのは,切ない物語でありながら,お涙頂戴に走るのをぐっとおさえて,淡々と物語は進行する。
それが,田舎の高校生には,さらにカッコよく見えた。
“Love means never having to say you are sorry ”
は,「愛とは決して後悔しない事」と迷訳されて,いっそう涙を誘ったが,
あの時代の文学作品としての翻訳だったからこその名文だったと思う。
今なら,もっと端的に「愛しているんだから,ごめんなんて言わないで」とか,
もっとシンプルに,「謝らないで,それが愛ってもんでしょ」
白血病に冒され死んでいくヒロインのその言葉は,文学的に訳されてこそ涙を誘うペギー葉山の歌う“学生時代”が流行したような時代から,やはり様変わりした。
ヒロインが死んで,主人公と,最後まで二人の結婚を反対していた主人公の父親とが,病院の入り口で対面するシーン。
父親 「すまない。こんな事になると,もっと早くに気がついていたら...」
主人公「父さん,愛とは決して後悔しない事だよ。」
これでも,わかるんだが,
主人公「いいんだよ,とうさん(愛してくれていた事は,充分にわかっているから)。」
()内は,言わずもがなの部分。
こちらの方が,噛み砕いていて現代風だと思うんだが。
しかし,言語ってやっぱり難しい。
英語なら,同じセンテンスを持ってきても,シチュエーションが違うと,まるで違う言葉に思える
この,“Love means never having to say you are sorry ”が,良い例だ。
ある時は,ヒロインが恋人をいたわる言葉。
ある時は,父を息子が乗り越えて,男と男のいたわり合いを描いた言葉になる。
同じセンテンスだからこそ生きてくる言葉の典型が,日本語だとわかりにくくなる。
逆のケースだってあるはずだ。
ちょっと,秋の夜長に考えてみませんか。
2003/10/27