「ブレイン・イーター その一」
白状いたします。
あの日,人間の脳味噌の細胞の小さな塊を,口に入れたのは,
私でございます。
ああ,そのように引かれなくても。
そのように,犯罪者のように遠巻きにするのは,
やめて下さいませ。
なにも,巨大なナットロッカー様の道具で,人の頭蓋骨をバリバリと砕き,
表れ出でた白い脳味噌をスプーンでジュルジュルと
食べ散らかしたわけでは,ありませぬ。
解剖学の実験室より供与された,頭蓋より取り出され
ホルマリンで固められた後の脳の一部を齧っただけでございます。
ショックでありましたのは,そうまでしても破る事のできなかった,
脳の持ち主の沈黙でございました。
その日,私は,朝から異様に興奮しておりました。
今日,僕は,何十年分の愛や,歓喜や,悲哀が詰まった
人間の脳を解剖するのだと。
それは,宗教家が,荘厳な教会の中で感じる崇高さを秘めた
興奮と同質でありました。
父や母との思い出,恋愛,わが子への愛情,もしかしたら悲しい別れ,
伴侶との生活,戦争,そんな物が既に脳より沁み出で,
私の周囲を取り巻いているかも知れぬ。そのように感じました。
今聞く猫の声も,実は,何十年も前に
脳の持ち主が聞いていた声かも知れぬ。
実験室へと向う道々の空気にも,普段は混じるはずの無い
「時」という要素が混じりこみ,
濃密な大気を形成しているように思えました。
それは,肉体の不在を超越した,魂の不滅を,
まさに体現するものでありました。
その時点では,まだ,信じていたのです。
人間には魂があり,人間がこの世で経験したあらゆる事は,
なんらかの形で継承されると。
そして,今日の継承者は,僕だ と。
実験室に行くと,「脳」が,私の前にありました。
が,それは,荘厳に輝く気品溢れるレーゾンデーテルではありませんでした。
青いポリバケツの中に,ホルマリンを入れ,
その中にいくつかの「脳」が入っており,
それは,まるで単なる物質ではありませんか。
ホルモン焼き屋の肉の塊の方が,まだ,有機質でございました。
やがて,解剖学の教授が,死刑執行人のような顔をして現れ,
ポリバケツの中の「脳」の一つを取り出し,一連の説明をした後,
私の手元に投げました。思わず受け止めた私は,その固さに愕然といたしました。
血液を抜き,ホルマリンで乾留しているので,当たり前ではございますが。
かつて人生と言う重荷を背負って歩いた筈の尊厳など,
どこにもございませんでした。
2003/08/22