「ブレイン・イーター その二」

 

 

 

脳刀と言う堵殺人夫が持つような鋭利な刃物で

脳をスライスしてまいります。

ご存知と思いますが,右脳と左脳の間には何億本もの

神経の束がございまして,それが左右脳の中心から辺縁にむかって

延びております。それが白質。

辺縁には,脳細胞がぎっしりと房をなしており,これを灰白質と呼んでおります。

これらが,ホルマリンで黄疸をおこしたようになっておりまして,

白質は松茸の茎そっくり,灰白質は卵豆腐そっくりでありました。

あ,いえいえ,だから口に入れたのではございません。

誓って申し上げます。

 

私が解剖した方は,女性だと言う事で,推定死亡年齢65歳。

脳の各所に萎縮の跡が見られ,老人性痴呆が進んでいたと思われました。

特に,左脳の言語野の部分が激しく萎縮しており,

死の間際は,言葉がかなり不自由だった事でしょう。

 

死亡推定年齢65歳。

解剖させていただいた年が1980年でございますから,

その方がお生まれになったのは,1915年。第一次世界大戦勃発の

翌年でございます。

つたない歴史の知識が頭の中を経巡ります。

成人式の翌年が二・二六事件。

何処で生活されていたのか定かではありませんが,

都市部に住んでおられたのならば,まだまだ,物資の豊富な時代です。

阪神地区の裕福な方ならば,宝塚歌劇に感動したり,芦屋浜の海に足をひたして,

季節を感じたりされた事でしょう。

万一,東北の農村の貧農の出の方なれば,1930年前後の大凶作で,

悲壮な青春時代であったかも知れませぬ。親兄弟を助けるために,

まだ幼さの残るうちに都会の女郎屋に身売りし,

ひそかに恋心を抱きたい時代に,はや,大人の男のおもちゃとなり,

夜毎,故郷の空を想いながら,足を広げておられたやも知れませぬ。

はたまた,普通の田舎の家庭で,早くに嫁入りされ,もう子供などを

成しておられ,時折,顔を会わすだけの郵便配達夫に,

淡い恋心等を抱いておられたやも知れませぬ。

ともあれ,時代は,その辺りからきな臭さを増してまいります。

太平洋戦争勃発が1941年,26歳。

赤紙一枚で夫を戦地に送り出し,軍国の母たらんと額に汗して

出征兵士に旗を振り,焼夷弾の下を命からがら逃げ惑い,

子供の一人くらいは亡くされたかも。

 

敗戦がその4年後,30歳。

白い木箱で帰ってきた夫に涙ぐみ,しかし,日々,

自分達が生きていく事に必死で,何処でどのように死んだやら,

お国のためにお役に立ったのか,はたまた,

上等兵に理不尽に殴り殺されたのか,そんな事に思いを致す余裕も無く,

着物を売り,闇物資を手に入れ,子供達を育てられた事でしょう。

 

そして敗戦から10年。40歳。

社会も安定し始め,街頭テレビで力道山を見たり,

再婚相手と一緒に銭湯に通ったり。

万一,早くに女郎屋に身売りされていたとしても,

親の借金を返せる程度には金もたまり,身体を鬻ぐ生業を続ける年齢でもなく,

愛しい人の一人もできて,場末に小さな飲み屋を開いて,

細々とではあるけれども,それなりの幸せを築いておられたやも知れませぬ。

 

さらに10年。1965年。50歳。

東京オリンピックの翌年。

子供達は,既に皆成人し,家を出,高度経済成長の中で,

日々の暮らしが続いていきます。

ベトナム戦争が始まり,ふと,過去の悲惨な戦争が頭をよぎる事もありますが,

概ね,幸せな時代を享受された事と思われます。

やがて,孫が何人かできた辺りから痴呆症が始まります。

最初は,小さな物忘れから。やがて,自覚できるほどに物忘れが

激しくなり,自分で動けるうちにと,親族の了承を受け,

今までの人生を人様に役立ててもらおうと,献体登録されたのでしょう。

痴呆症は,さらに悪化し,夜中の徘徊,糞食,

人の顔の見分けがつかなくなり,たまの意識が清明な時には,

自分の過去を振り返り,涙ぐまれた事でしょうけど,

それを言葉に出す機能は既に破壊されており,思い出す人生の様々な事柄が,

脳内に記憶と言うエキスとなって溜まって行った事でしょう。

そして,1980年のある日,看護に疲れ果てた親族が寝静まるうちに,

かつての夫の魂に迎えられ,天に召されたのです。

遺体は,65年の記憶を抱いたまま,本人の意思を尊重して

大学の医学部に提供され,医学を学ぶ若者の解剖実習に使用され,

切り刻まれました。

そこから取り出された,65年の記憶を抱いた脳は,その年の夏,夢多き若者であった私の手の中にあったのでございます。

 

 

2003/08/25