「ブレイン・イーター その三」

 

 

一期一会と申しますが,これは,すごい事でありました。

65年の人生と,若干20年の人生が,このような形で交差するのです。

そこに,何も起こらないわけはございません。

一天俄かに掻き曇り,雷鳴の一つもあり,他の大学院生は逃げ惑い,

突如暗転した実験室の中で,私と老婆の互いの感情がスパークするくらいの事があっても,

何の不思議もございません。

二人で,豪雨の中,アルゼンチンタンゴを踊っても良かったくらいです。

 

が,しかし,現実は非情でございます。

老婆の脳は,黙して何も語らず。

切っても,切っても,卵豆腐のような灰白質の断面が現れるのみ。

切っても,切っても金太郎飴なら,まだ救いがあります。

少なくとも,金太郎が「ほら,ポッキン金太郎」と,微笑みかけてくれます。

「もしや,あなたは,わたしのおっかさん」と,答える事もできます。

(つげ義春「ねじ式」より)

 

切っても,切っても,卵豆腐。

これは,無情でございます。

そこにスパークするものは,ございません。

私の脳髄に語りかける言葉の一つもございません。

 

と,その時,具体的に接触すれば,と思ったのでございます。

具体的な接触,

互いに生きてあれば,セッ,セッ,セックスでございましょうが,

相手が乾留され,スライスされた脳ならば,かなわぬ事でございます。

突如,私の体内を,太古の,言葉を獲得する以前の人類の記憶が駆け抜けました。

その時代,人類は,死した英雄の魂を自分の身内に呼び入れるために,

カニバリズムを常套としていた筈です。

 

私は,手近にあった一番小さなスライス片を口に入れ,そっと齧ってみました。

ああ,しかし,現実は,さらに無情でございます。

私の口中に広がったのは,65年の歳月などではなく,

口の曲がりそうなホルマリンの味だけでございました。

もちろん,飲み込んだりなどしておりません。

丁重に吐き出させていただきました。

 

その夜,もちろん,私の部屋を訪ねる老婆の魂も無く,

魂の不滅を中途半端に否定された私は,それから半年ばかり,

卵豆腐のみならず,鳥肉,かまぼこの類を口にしても,

ホルマリンの記憶が蘇り,吐き気をもよおす羽目となったのでございます。

 

以上が,人脳を食した事の顛末でございます。

これでも,なお,私を,そのように犯罪者のような目で見られるのですか。

では,あなた方が一体,私を非難できるような何をなされたと言うのですか。

え,教えてくださいまし。

あなた方は,一体,生前に何を成された事によって,

この審判の座にいる私を非難されるのですか。

それ,そのような沈黙が,あの日の私をして,あのような行動に走らせたのでございます。

その沈黙自体が,罪ではございませぬか。

人類を非行に走らせる根源ではございませぬか。

ええ? そこに並び居る,神や仏と言われる方々よ。

 

 

    突っ伏する主人公

    刺すような眼差しが,彼を取り囲む

    いきなりの雷鳴,そして,

暗転

 

(終り)

 

 

 

2003/08/26