「走り出す事」
走るのが好きだ。
好きだが,得意なわけではない。
好きなのと,得意なのとは,ちょっと違う。
はるか昔は,大嫌いだった。
学年で一二を争う遅さだったので,体育の授業,体力テスト,運動会,マラソン大会,すべて嫌いだった。
マラソン大会なんかは,何日も前から,風呂上りにわざと裸で長時間過ごしたりして,
体調を崩し,なんとか出場しなくてもいいようにするのに,必死だった。
遅いし,しんどい。
それが,出たくない理由のすべて。
が,いつもトップで駆け抜ける奴の楽しそうな顔。
それは,憧れでもあった。
例えば、「炎のランナー」のベン・クロスのように走ること。
未だに,それは叶わぬ夢だが,走る楽しさは分かり始めたかな。
でも,遅いものは,やはり,どこまで行っても遅い。
遅いように体が出来上がっているのだ,たぶん。
二年ばかし走りこんで,そろそろ走るのにもなれた頃,会社の人間を無理やり誘って,
マラソン大会に出た。
誘った相手は,生まれつきスポーツをするように出来上がった人間だ。
ただ走るのなんて面白くないというのを,説得したのだが,
走る姿を見て,こりゃ敵わないと,即座に分かった。
走り方が違う。
体全体のバネから発生するエネルギーを,地面を蹴るエネルギーに変換する,
その変換過程に無駄が少ないのだ。
非常に親馬鹿な話だが,わが娘の走りは,もっとすごい。
その無駄の無い走りは,後ろから見ていて惚れ惚れする。
まぁ,これから,体が出来上がって行く過程で,それが,いい方向に伸びればいいのだが。
無駄なく出来上がったものは美しい。
例えば,第二次大戦時代の日本軍のプロペラ機。
同時代の米軍のプロペラ機に比べて,どれだけ美しいか。
それを,美しいといっていいのかどうかは,賛否両論だろうが,
航続距離と旋回性能を引き出すために,無駄を極力省いたそのフォルムには,
その時代のその国家の持つ,航空機力学のありったけが,注ぎ込まれていたのだろう。
そのために,飛行士の命を守る防御板までをもそぎ落としてしまった。
美しいといえるかどうかの賛否の部分は,そこにあると思うが,
単純にプラモデル作りを楽しんでいた身としては,確かに美しいと思いながら
作っていたのは事実だ。
特に,斜め後ろから見た機影。
軍靴の響きの中で造られたにしては女性的なそれに,
米軍の飛行士は,軽いサディズムを覚えながら機銃の引き金を引いたことだろう。
ありゃりゃ,へんな方向に話が跳んだ。
無駄の無い物に美しさを感じるのは,私が,
自分に無駄が多い事にコンプレックスを感じているからだろうと思う。
とすると,リーフェンシュタールに「民族の祭典」を作らせたヒットラーなんかも,
やはり,無駄だらけの自分を抱えて,コンプレックスに苛まれ続けた一人なんだろうか。
ありゃ,また,話がそれた。
走る話だ。
何のために走るのか?
体力づくりのため?
健康のため?
それもある。
散歩と同じで,四季折々の街の姿を見るため?
それも大きな理由。
私の選んだコースは,夙川沿いに海まで出て,宮川沿いに上ってくるコースで,
どの季節も変化に富んで,目を楽しませてくれる。
調子がいい時は,ヨットハーバーまで足を伸ばし,海と,海から見た六甲山を堪能し,
芦屋川沿いに坂道を駆け上がり,今度は山の中腹から,さっき走った海を見下ろすというコースだ。
大阪の街を遠目にできる岩園隋道の上がゴール。
いつ走っても,素晴らしいコースだと思う。
でも,それだけでも,ない。
何となく,自然に,体が走ることを要求してくるのだ。
その事に,特に理由は無さそうだ。
昔,楽しそうに走っていた連中への羨ましさが,
積もり積もって,自然に走りたくなるのかも知れない。
無理はしない事。
楽しむ事。
これが,走り出す時に自分に言い聞かせる言葉だ。
楽しめれば,それでいい。
2003.12.01