「ヒ・ロ・シ・マ」

 

それは,まったく予測していなかった事だった。

たしかに,最近,涙もろくなっているんだが。

 

そのモニュメントを見た瞬間に顔が歪んだ。

嗚咽が漏れそうになった。

初めて見たわけでもないのに,

当の本人には,その感情の理由が全くわからない。

わからないから,「まいったな」と,呟いてみる。

 

呟きの消え失せた先に,半壊のモニュメントが,雨に濡れて立っていた。

 

何年に,いや,何十年になるんだろうか,

そのモニュメントが,建物として機能していた時代,

そして,機能しなくなった瞬間と,その後の阿鼻叫喚を想像してみる。

建物のすぐ横を流れる川,その川にかかったT字型の橋が投下目標だったそうだ。

その上空何百メートルかで,火球が見る間に成長し,地にある尽くを焼く。

 

川には,火から逃れる人,水を求める人が群れ,

その全ての人が無傷ではなかった。

重度の火傷で皮膚が垂れ下がり,顔は誰とも見分けがつかないくらいに腫れ上がり,

息も絶え絶えに,川に入っては,そのまま流されていったのだろう。

今は,静かに流れる川。

平和公園には,小学生や中学生の群れ。

デジカメで,互いの姿を写しあう。

その何十年も前には,同じ場所で,同じ年恰好の子供達が,火に焼かれて亡くなった。

「時」の残酷さと優しさが垣間見えた。

 

平和公園は二度目である。

いつ来ても,静かに語りかけてくる何かがある。

それは,激しく主張する何かではない。

広がりの中で,静かに俯き,思いを馳せるような何か。

今までに,ここを訪れた人々の想念が堆積して,語りかけてくるのだろうか。

前回は,時間が無くて足早に通り過ぎた。

今回は,できるだけ時間が取れるようにした。

足早に通っても,ゆっくりと通っても,平和公園は,静かに語りかけてくる。

 

平和記念資料館には,原子爆弾の恐ろしさが,切々と語られている。

戦前の広島から,戦時中の広島,そして,原子爆弾投下,

投下後の広島,

さらに,核爆弾の現状と,その恐怖について。

反核が最も激しく叫ばれたのは,70年代から80年代であったろうか。

ビキニ沖の実験,第五福竜丸事件が1964年である。

今は,核というものへの意識も薄れている。

が,核保有国が現存している以上,核戦争が起こる可能性は十分にある。

またもや,悲劇は繰り返されるのだろうか。

核の下で無差別に発生する多くの悲劇が,何ら認識されぬままに。

 

前に一度訪れた時は,時間が無くて,足早に回っただけであった。

それでも,グッとくるものがあった。

今回は,一つ一つ,じっくりと見ようと思った。

中身が真っ黒焦げになった弁当箱や,子供の着ていた焼け焦げた衣服,

三輪車,めがね,裁縫道具。

しかし,無理であった。

一つ一つ,じっくりとなど,見ていられない。

一つ一つの遺品には,かつて持ち主があった。

そして,たしかに,この世に生きていた。

名前があり,生活があり,夢もあり,悲しいこともあっただろう。

また,その人を取り囲む人々の笑顔もあったことだろう。

そして,その遺品を手にした時の悲しみ。

家まで,なんとか帰り着いて息絶えた人もいる。

家に帰り着けずに,沢山の死体と一緒に焼かれる寸前で家族に見つけてもらえた人。

何日か後,遺品だけが見つかった人。

わが子の遺体を,三輪車と一緒に埋めた父親。

その後ろには,遺品すら見つからずに行方不明のままの人も多いだろう。

ともあれ,そんな遺品の数々が,語りかけてくる。

涙があふれて,ガラスケースから顔が上げられなくなる。

目の前の小学生が,興味深げに見ているから余計だ。

そのまま顔を上げずに,次の遺品に目を移すと,嗚咽が漏れそうになる。

「こりゃ,たまらん」と,

先に進みたいのだが,一つ一つから目をそむけてはならないという

変な声が,心の奥から聞こえてくる。

 

一つ一つの遺品の持ち主には名前があり,

生活があり,

悲しみや,喜びがあり。

 

愛しいわが子の変わり果てた姿を見た時の

親の気持ち。

 

何を恨んでよいのやら,

行き場の無い憤り。

 

誰も人がいなければ,私は,その場で号泣していた。

 

広島の平和記念資料館,それと,沖縄の摩文仁の丘の平和祈念館,

どちらにも一度は,行っていただきたい場所だ。

 

そして,時間の許す限り,ゆっくりと過去からの声に耳傾けていただきたいと思います。

 

 

 

2003.11.26