「国際化 その二」
どんなに人間嫌いの人でも,たまには無理して,誰かと付き合ってみるのはいいもんだ。
自分のいいところ,悪いところが,いろいろ見えてくる。
それを,どのように活かすかは,その人しだいなので,一概に言えないとは思うけど,
少なくとも,同質な人々との日常もいいが,異質な人々と日常を形作ろうと努力することは,それなりに,価値ある行為だと思う。
特に,自分の余裕の範囲で,それをするのではなく,自分の日常生活の一部として,結構すったもんだする事。
今回,我が家が受け入れた留学生は,裕福な人達のグループからの紹介による。
我が家以外の受け入れ先は,そのグループのメンバーの方々で,グループ構成員でないのは,我が家だけ。
グループ構成員の方々の中には,働かなくとも,私の倍近い年収を得ておられる方もおられる。
そのことに,とやかく文句をつけるつもりは無い。
人間が平等なのは,生まれた瞬間と,死ぬ瞬間だけで,後は,ことごとく不平等なのだから。
そういう方々は,家も大きく,結構,余裕の中で受け入れていらっしゃる。
ただし,置いてあげてる意識が強くて,彼らと何かを真剣に語ろうと言う意識は少ないようだ。
でも,まぁ,雪が見たいという留学生のために,北海道まで旅行するのだから,
うーん,留学生にとっては,そっちのほうが幸せかな。
我が家は,ただでさえ狭い家に招き入れるのだ。
とりあえず部屋は,娘の部屋を明け渡したが,便所も一つなら,風呂も一つである。
贅沢と言えば,焼き鳥屋とか,ラーメン屋に連れて行く,あるいは,おやつを沢山用意する程度だ。
ただ,できるだけ,お互いの理解しあえる言葉でしゃべろうと心がけている。
片言なれど,英語でしゃべり,相手の生活や国の事を聞こうとする。
ほとんど聞き取れていないし,日本の事も満足に教えてあげられていないのは事実なので,
あまり偉そうには言えないんだけど。
留学生達が集まって,日本の学生も交えて,お互いにおしゃべりをしたらしいのだが,
よその国から来た人達は,たまさかしゃべって帰ったのに,日本人だけが,
ほとんど何もしゃべらなかったとか。
よく聞く話である。
今回も,そういう状況があったらしいのだが。
確かに,我が家の留学生も,沢山,近所の子供たちが遊びに来て,日本語しかしゃべっていない状況でも,
浮いた存在には,なっていない。
積極的に,何かを聞いたりしているし,英語を教えてあげたりしている。
周囲が皆,外人の時のそう言う身の処し方が,我々にはできないのか知らん。
訓練の問題であるのかもしれない。
以前,学校の参観日で,ディベートをやると言う事だったので,興味津々で行ったが,
一番よく喋っているのが先生で,こういう場合はこう言うんですみたいな説明が多く,
おいおい,ディベートの基本を先生自身が理解しているのかいと,うんざりしたことがある。
教育そのものを見直さないといけないのだろうか。
留学生にクリスマスのプレゼントをあげようと,百貨店の陶磁器売り場や,着物売り場を
見て回った。
陶磁器を見るのは好きなのだが,こういう事でもないと,なかなか足が向かない。
見るだけで,買えないのだから余計である。
価格も手頃で,日本的なものを探して歩く。
そうすると,見えてくる。
日本人がいかに,細やかな気配りで,工芸品といわれるものを作り上げているか。
陶磁器は,安いものでも,それなりに手を抜いていない。
箸なども,実に様々なものがある。
その良さを,きちんと掴み取る能力を,私は持っていない。
着物にいたっては,さらにそのことが言える。
その淡い色合い。生地の質感。
なんと,知らない事,触れていない事の多いことか。
書籍を買いに行った。
「家庭画報」の英語版が出ていた。
異国人の目で,その写真の数々を見る。
かつて,日本経済好調な折に,ジャパネスクなる造語で日本再発見する風潮があって,
バブルがはじけると,たちまちしぼんでしまったが,
日本再発見。
バブリーだろうが,ポンピーだろうが,大事な事である。
異質な人々と日常を形作ろうと努力することは,それなりに,価値ある行為だと思う。
それを習慣にすると,さらに,いい。
今までタブーとされているような問題でも,異質の人とどんどん語り合い,
あえて自分とは反対の意見の人の側に立って,つまり,立場を入れ替えて討論してみるとかすれば,
暴力に訴えるのではなく,互いに妥協しあえる道筋が見えてくるような気がするのだが。
学校教育が,そう言う事に気がつき,言論の力を確信し,言論の自由を守る尖兵にならない限りは,
日本の夜明けは遠い。
留学生の後姿を見ながら,そのような事を考えた。
2003.12.29