「坂田明」
背の低い,はげ頭の,下町の銭湯の近くの碁や将棋を打っている縁台のまわりには必ずいるタイプの親父が,
マウスピースに息を吹き込むと,みるみる空間が違うものに変わっていく。
そこにピアノが加わり,ウッドベースが全体をリードしていく。
ウッドベースは,常に冷静だ。
ピアノは,静かに,時に激しく,ささやく。
テナーサックスは,実に情熱的に情景を語る。
アバンギャルドな曲想の中で,体を揺すってコンセントレートしながら,目を閉じると,
かつて行ったことのある,しなびた漁師町が浮かんでくる。
あれは,越前海岸の北の並び,小松空港から少し先の海岸の町だ。
曲がりくねった道の片端は日本海,もう片端はひなびた家が立ち並ぶ。
海のグレイ基調の微かな蒼と,家々の焦げた茶色が支配する町。
冬の激しい北風の中を,一人の老婆が,ほっかむりをして歩いている風景。
日本の頬擦りしたくなるような原風景の一つ。
音楽,というか,魂の叫びのような塊が私の脳髄を刺激して,そのような記憶の中の風景を
いきなり引きずり出してきた。
無性に旅がしたくなる。
坂田明の演奏から私が感じたものは「海」であった。
いや,「海」に近いもの。
羊水の中の胎児のイメージであるか。
あるいは,彼の好きなミジンコの記憶。
ともかく,大きな波のうねり。
その中で拡散する音。
音が,JAZZ喫茶の中を跳ね返り,うねり,
狭い喫茶店の空間に集合した見ず知らずの聴衆の耳から脳髄に達し,何かの塊を引きずり出し,
さらに増幅する。
それ自体が,一枚の陰影となる。
目を開くと,
その波動の原点にいる禿げた小柄な親父。
坂田明の音楽を,こんなに真近に聴いたのは,始めてである。
というか,坂田明の音楽そのものを誤解していたので,
そんなに真剣に聴こうと思ったことすらない。
ミジンコの好きな親父という意味では,身近さを感じてはいたが。
私も,小学生の頃,学校の池でミジンコを見つけて以来,高校卒業くらいまでミジンコを含む微生物にはまっていた一人だ。
畑正憲に憧れたのも,彼が,私にとって新しい微生物の世界を目の前に広げて見せてくれたからだった。
ミジンコから始まり,アメーバに至る壮大な微生物の世界。
おっと,話をもとに戻そう。
たしかに,ミジンコには,高等生物の原点のようなものを感じる。
あの小さな体で多細胞生物であり,生殖機能を有する。
さらには,通常は胎生で,メスが小さな子供のミジンコを体いっぱいに抱え込んでいる様子を顕微鏡でみる事ができる。
ところが,環境が悪化すると,これが卵生に変化する。
あの小さな体で,このような機能を有しているのである。
他の小さな微生物を捕食し,エネルギーを作り出し,その残り滓を排泄する。
顕微鏡のレンズの下のほんの一滴のしずくの中に,そのような生命体が存在するのだ。
あれ,全然,話が戻っていない。
CDのジャケットにミジンコを描いて欲しいと頼んだら,本当に丁寧にミジンコの絵を描いてくれた。
やがて彼は,貝殻節を歌い始める。
JAZZ喫茶の中に,かれのサックスならぬ,どら声が響き渡る。
還暦を前にした男の,長い人生の遍歴の後に見出した,ルーツの姿がそれであるか。
そして,それは,サックスの叫びへと変化していく。
サックスと「ヨイヤサノ,サッサ」が,融合する。
ピアノの分散コードが絡み付く。
ベースがしっかりと,それらを支える。
2003年12月19日 神戸 元町 JAZZ喫茶「木馬」にて。
サックス 坂田明
ベース バカボン鈴木
ピアノ 黒田京子
ボーカル 深川和美
私は,狭いステージのすぐ横にいた。
途中で,たまらなくトイレに行きたくなって,仕方なく彼の前を通ってトイレに行く途中に,握手をしてもらった。
話は,まったく変わるが,途中で三曲ばかり歌ったボーカルの深川和美さんは,本当に美しかった。
美しさは,それだけで,一つのストーリーとなる。
そんな美しさだ。
さらに言えば,アドリア海の離島のバーの歌姫であって欲しいような
そんな美しさだった。
この女性は,上海太郎とも一緒に公演したりしているらしい。
上海太郎。あの劇団「そとばこまち」の元座長。
ああ,JAZZ喫茶の一夜は,そこにまで到達するか。
私は,今の人生をかなぐり捨てたい衝動を抑えるのに四苦八苦。
ついでの話で申し訳ないが,今回のライブに誘ってくれたフジコに感謝,感謝。
フジコは,最近珍しい型破りでエネルギッシュな女性だ。
オヤジの視点からすると,こういう女は,いつまでも結婚せずに,どんどん冒険をし,
最後に何かを生み出して欲しいものだが,本人の幸せは,どこにあるんだろうね。
フジコよ,君の活動力と頭の良さを大事にせよ。
2003.12.22