上野
東京で時間ができると,たいてい上野に行く。
上野には,関西とは異質な,しかし,どこか懐かしい匂いがある。
まず,上野駅の正面玄関,広小路口に立って,目を閉じる。
あちらこちらで聞こえる東北弁に,ここから東北が始まるんだと,
当たり前のようだが,実は,関西では決して味わえない感慨。
“ 東北 ”。 関西人からすると,別世界だ。
秋も深まると,雪を追って,北へ,さらに北へと,進みたい衝動に駆られることもある。
広小路口から,高架をくぐって,西郷隆盛像へと向う途中の階段。
僕は,いつも,ここで,デ・ジャブを味わう。
幼い頃に両親と旅行した,どこかの温泉地に,これと似た風景があったのだろう,
この階段を登ると,お祭りみたいに屋台がいっぱい出ている,
幼心にも誘惑の多い場所に行けるんだと言う,確信のような思いにとらわれる。
階段を登るのが楽しくなる。
昔,山神祭の夜に狐につままれたまま,そのままつまみ続けられている,
そのままの自分が,登りきった所で待っててくれているような気持ち。
とでも,言おうか。
西郷隆盛像の前を過ぎ,
不忍池に出て,弁天様にお参りする途中の露天にも,
寺山修二あたりの映画のワンシーンに出てきそうな雰囲気を感じるのは,
昔,唐十郎が,ここでテント芝居をやっていたと言う,
実際に見てもいないのに,憧れだけでその事を思う,
その,派生的感情からだろうか。
ともあれ,足は,下町風俗資料館に急ぐ。
懐かしい町に会う為だ。
下町風俗資料館には,20年前には,まだ存在しただろう下町の
町屋の幾つかが再現されている。
東京の下町の町屋の筈なのに,どうしようもない郷愁を感じる。
柱や壁のそこここに,本当に頬擦りしたくなる。
多分,子供の頃に生活した古い木造の家の柱等に使われていた材質が同じなんだろう。
住んだ事も無いのに,ここで指にトゲが刺さったんだとか,
この上り框には,まだ祖母の温もりが残っているんだとか,
そんな擬似的な回想に浸ってしまう。
ここを訪れる人は,少ない。
だから,へたすると,自分の思い出の世界に入り込み,1時間以上滞在してしまう。
下町資料館を出て,次は国立西洋美術館に向う。
運良く常設展の時は,ロダンの作品に会える。
初めて,この美術館を訪れた時も,常設展の最中で,
ロダンの《美しかりしオーミエール》という萎びて俯いた老婆の彫刻と,
題名は忘れたが,若く,はちきれそうに胸を反らした裸婦像が
背中合わせに置いてあった。
その対比に,いかに芸術音痴の僕でも,息を呑んだ。
この世の無常と無情が無上に配置されている。
高さ40センチばかしの二対の裸婦像の間に,大河のような時と運命と哲学の河が
垣間見え,生の激しさが鋭角に胸に飛び込んできた。
カミーユ・クローデルと言う,若く美しい弟子であり愛人を持つロダンならではの,
人間感なのだろうかとは,ロダンへの嫉妬が出すぎた感想か。
僕の上野めぐりは,これで終わる。
アメ横を闊歩するとか,
も少し足を伸ばして,“谷中の森に日はかたぶきぬ”の谷中霊園,
その途中の黒田清輝資料館に行くとか,
もっと,上野らしい歩き方もあるのだろうが,
時間が出来たとは言え,出張なので,いいとこ半日しか自由になる時間が無いので,
やはり,このコースに終始してしまう。