第十章
夢の最果て
「そうや、ちょっと、あんたら。」
悠美とおかんの住んでいた家の前を通りかかった時の事。
その隣の二階家に住む女がベランダから声をかけた。
「わいらか?」
シゲが振り向いて自分を指差す。
「あんたらしかいてへんやろ。」
「何や。わしら、年増には用はないねんけどな。」
「よう言うわ。罰当るで。」
「当ってみたいもんやな。」
「まぁ、ちょっと待っとり。」
「おお怖い。何ぞ悪い事したかな。」
女は、悠美が住んでいた家の玄関に向かい、ドアを激しく叩いた。
「何や、戸が壊れてまうがな。」
老婆が戸を開け、中の暗闇からのそのそと姿を現す。
「おばあちゃん、あの葉書、この人らぁに見せたりぃな。」
「葉書て?」
「ほれ、自分宛てちゃうからて、捨ててたやんか。差出人の書いてない奴。」
「ああ、あれなぁ。」
「この人らと関係あるんとちゃう?」
「どやろなぁ。あの葉書なぁ、ちょっと待っときや。」
老婆がのそのそと家の中に入り込む。
「半年前くらいから何通か来てたらしいねんけどな、差出人も書いてないし、何の文書も書いてないんで、おばぁちゃん、皆捨ててしもうたらしいんや。この間、初めてその話聞いてな、あんたらの知り合いの人からの葉書とちゃうやろか思うて、おばぁちゃんに置いとき言うたんやけどな。」
「あて先は?」
「住所はここに間違いないねんけど、あて先の名前はおばぁちゃんと違うねん。ほんでもな、おばぁちゃん、自分あてに来る郵便物なんか無いから言うて、郵便局に何の登録もしてないらしいねんな。そやから、郵便配達の人も、何も知らんとこの家に葉書配達しはったんやと思う。」
やがて老婆が戸内の暗がりから姿を現す。
「これかいな。」
そう手渡されて宛名を見ると、悠美のおかんの名前が認められている。
「あいつの名前やな。ほしたら、差出人は悠美か。」
覗き込んだシゲが言う。
「ほしたら、なんで差出人に自分の名前書けへんのや。文書も書いてへん。」
「郵便局のハンコ、何処になっとる?」
「滲んで読めんわ。」
「ばぁさん、他に無いか?」
「ちょっと待っとり。」
老婆が再度戸内に引っ込む。
「この前見たんは、絵葉書やったな。海の写真やった。」
隣の女が言う。
「海か。どこの海やろ。」
「そこに悠美がおるてか?」
女は暫く何か思い出す風で、
「どこそこの春の風物みたいな事書いてあったわ、確か。」
やがて老婆が再び姿を現して、
「これやな、絵葉書。」
「おばぁちゃん、捨ててなかったんや。」
「そうや。海の絵が綺麗から置いてあったんや。」
「何やこれ。」
受け取ったシゲが、写真をひっくり返したり横にしたりして見ている。
「シゲやん、何の絵や?」
「海やな。海やけど、変な海や。」
「綺麗やろ。」
老婆の言葉にシゲが「ふーん」と返す。
「結局、何やねん。」
「分からん。」
「裏見てみ。」
「何か書いたある。春の風物、次、これ何て書いたあるんや?」
シゲが、読めない字を差し出す。
「見してみ。ああ、しんきろう。蜃気楼やな。」
「何やそれ。」
「海の上に向こうの風景が逆さまに映るやっちゃ。」
「そんなけったいな話、聞いたことも無いわ。」
消印を見ると、六月となっている。
「これ、消印、四ヶ月前やな。こっちの何にも書いてないのは、いつ来たん?」
「さぁ、一ヶ月か、そんなくらい前やなぁ。ここんとこ見てへんなぁ」
消印が滲んで読めなくなっているが、八月か九月の数字が読める。
消印の住所は同じ地名で、氷見。
「何て読むねん、この地名。」
シゲが何とか読もうと見えるほうの目を葉書に擦り付けるようにする。
「あかんな、近目にしたかて読めん漢字は読めん。」
「ヒミやと思うで。」
「へぇ、ほんまか。これでヒミて読むんか。さすが、よう知っとるなぁ。それ、どこにあるんや。」
「何処やったかなぁ。」
「それは、北陸の方やな。富山や。」
中年の女が言う。
女は、いつもの地下鉄の階段上がりきったところの踊り場で、仲間の女達と客を待ってたむろしていた。
「どない、あのコの消息分かったんか?」
横を通り過ぎる時に、挨拶のように声をかけてきた。
「いや、音沙汰無しやな。」
「あきらめて、新しいの探しいや。どや、世話したろか。ほれ、この前の女の子、人気上々やで。どや、ほれ、あそこにいてるやろ。」
指差した先の喫茶店の窓際の席に、ストローを噛んでいる娘の姿がある。
「いや、ええわ。そうや、悠美がこんな葉書出してきよったんやけど、何か知ってる事てないか?」
女は、葉書を受けとると裏返し表返して、
「何も書いたれへんなぁ。」
しかし、葉書が投函された場所を富山だと言う。
「氷見て、富山にあるんか?」
「それが何処にあるかは知らんけど、その蜃気楼の写真は確かに富山やで。昔、テレビか何かで見た事あるで。」
「さよか。しかし、悠美の奴、何で富山なんやろ。」
女は、暫く遠くを見ていたが、
「あれ、そう言うたら、トミちゃんの田舎も富山やなかったかな。春先のホタルイカが美味しいねんて、よう聞かされた。ホタルイカて、富山やんなぁ。」
「ホタルイカなぁ、食べに行こか。」
シゲが気楽に言う。
「そこまでの金は無いなぁ。」
「悠美の奴、そこにいてるんやろか。」
彰やんが床に落とした吸いかけの煙草を拾い上げながら言う。
「わからん。しかし、氷見て、確かに富山の近くやな。昨日、図書館で地図帳見た。」
「何しにそんな所に行きよったんやろ。」
「それもわからん。なんで差出人の所に自分の名前も書かんと、メッセージさえも書いてない葉書を送って来よったんかも不明やな。」
「送り先は悠美のおかんやな。ほしたら、差出人は悠美に間違いないな。」
「しかし、悠美のおかん、もう死んでるで。」
そう言いながら、シゲは彰やんの煙草に手を伸ばす。
「葬式にも出えへんかったらしいから、死んでる事すら忘れてるんとちゃうか。」
「ともかく、行ってみるこっちゃで。」
「誰が?」
「あんたや。悠美を探してんのあんたやろ。悠美、見つけてもらうの待ってるのかも知れへんで。」
「隠れんぼやあるまいし、待っとらんでも、いつでも帰って来たらええねん。」
「帰って来れん事情があんのかも知れへんで。」
彰やんがシゲの煙草に火をつけてやりながら言う。
「どんな事情やろ。新しい男ができたとか。」
「そんなんで、あんな意味深な葉書送って来るか?しかも、確実に何処にも届かへん住所にやで。この葉書見つけたんも、たまたま天下茶屋の昔の家の前通りかかったからやろ。そうでなかったら、永久に見つけてもらえんところやで。」
「さすが、彰やんやな。推理が冴えとる。」
シゲが煙草の火のお礼に彰やんを煽てる。
「なぁ、行かな。悠美のために行ったってくれや。」
「彰やんが行ったらどうやねん。」
「女房子供いてるのに、わいが行けるか?金やったら出すで。」
「ほんまか、行こ行こ。」
シゲが身を乗り出す。
「あほ、前払いや。原稿の前払いや。帰ってきたら、ええもん書いてもらうで。」
大阪駅を朝一番くらいに出て、京都。冬の衣装を纏い始めた比叡山を琵琶湖の向こうに見、米原で乗り換え、長浜、福井あたりで、昼過ぎになる。福井で一旦改札を出て、立ち食い蕎麦を掻き込み、また乗り継いで金沢を過ぎる頃遠くに真っ白な北アルプスの山が見える。
「あれ、立山やな。」
金沢から乗ってきた向かいの年老いた夫婦が言う。
氷見へは富山まで行かず、手前の高岡で下車。そこから一時間に一本あるかないかの氷見線に乗り換え、何駅かコトコト揺られると終着駅が氷見だ。
冬場が殊更寒々しく見えるのは、その駅が夏、海水浴客で賑わっている証拠なのだろうか。
小さな土産物屋と、乾物屋。後は、海へと続く細い道の両側に店仕舞いした夏場の海水浴客目当てのたこ焼き屋、ラーメン屋、お好み焼屋がポツポツと立ち並ぶ。
風が時おり激しく吹きすさぶ。
東屋のトタン屋根がカタカタと音を立てて震える。それが、なお寂しさを増す。
その寂しさの中で立ち往生する。
どこへ行けばいいんだ。
どこで悠美に会えるんだ。
氷見にさえ行けば悠美に会えると言う安易な望みは打ち砕かれた。
そのまま海へと向かう。
行く宛ても見つからない時は、とりあえず、もっとも分かりやすい場所、理解しやすい場所に行くに限る。
この場合、どう考えても海だと思った。
海辺に立てば、何か打開できるように思えた。
風は海から吹いていた。
細い路地の向こうから海鳴りが聞こえる。
電車の中にまで入ってきた潮の香りがさらに濃厚になり、風を辿り鼻腔に充満する。
道が終わり、砂地に続き、歩きにくくなり始めた頃、崩れかけたとしか思えない海の家と家との間に、海はあった。
風に煽られ、逆巻き、泡を吹いて迫る海。
ここは地図の上では半島に囲まれた内側の海で、本当ならば波穏やかなはずだが、冬の低気圧はそれを許さない。
おそらく、半島の外側の海はさらに激しく陸地に攻め込んでいるのだろう。それを波の華というらしい。半島の外側での冬の名物だとか。
風に吹き散らされた波は白い泡となり、それがさらに吹き上げられて海面を花弁のように漂い、宙を舞う。それらが一斉に陸を侵食する。
その様を思い描く。
眼前に広がる海は、冬の灰色の空を映しこみ、荒れているが、波の華とまではいかない。
それでも時折の強風に波の飛沫が顔に降りかかる。
僅かの間に体温が奪われていく。
ポケットからウイスキーの小瓶を取り出し、一口二口。大阪の駅近くのコンビニで買った奴だ。
腹の一部にだけ火がつき、すぐに消えかかる。
さらに一口二口。
「何しなさっとるね。」
いきなり背後で声かけられる。
背が低く、細い体、しかし真っ黒に日焼けした顔の老人が立っている。
老人は、顔だけでなく体中真っ黒である事を想像させる。
若かりし頃は、体は小さくとも精悍な漁師だったと思わせる。
七十は超えていそうだが、背筋がやや曲がり気味なだけで、立ち姿はまだまだ矍鑠としている。
「海を見てます。」
大阪エリアから外に出て、関西弁を喋る勇気が無い。
ついイントネーションだけは関西弁のおかしな標準語が出てくる。
「どこから来なさったかね。」
「大阪です。」
「そうかね。」
“か”の音にアクセントを置いて老人が言う。
暫く、そのままに海を眺める。
「何しなさっとるね。」
もう一度、老人が聞く。
何度同じ事を聞くんだと、老人の顔を見て、そこに稚気溢れる瞳を認める。
老人は、既に心を幼少にとばしているらしい。
母親がやっかいになっている老人ホームにも、こういう瞳の老人は何人もいる。
母親ですら、その域に達しつつある。
何度か「あんた誰や?」と、尋ねられた。
痴呆になったと世間は言うが、次の生のための下準備に入ったような気がしてならない。
離れて暮らしているからそんなのんびりした事を言ってられるのだと、老人ホームのボランティアの少女に言われた。
老いから来る痴呆の現実は、もっと悲壮であるらしい。
しかし、目の前の老人にそんな悲壮感は無い。
「飲みますか?」
老人にウイスキーの小瓶を差し出すと、嬉しそうに受け取り、一口二口飲んでむせた。
「大丈夫ですか?」
「・・・・・。」
地元の言葉で何やらつぶやくが、聞き取れない。
おそらく心配要らないとでも言ったのだろう。
「あんた、金は持っとられるか?」
「僅かですが。そうそう、今夜泊まる場所を探したいんですが、どっか安い旅館無いですか。」
「わしんとこに泊まりゃあいいて。うまい酒を飲みに行こう。」
そう言うと、すたすたと歩き始める。
あっけにとられて見ていると、暫く歩いて振り返り、手招きする。
仕方なく、後をついて行く。
老人は、狭い路地を通り、他家の庭先を通り抜け、たまに曲がり角でどちらに曲がろうか思案する。
「道、わかりますか?」
さすがに心配になって声をかけるが、
「大丈夫だがね。」
そう言って歩き始める。
二、三十分も歩くうちに、初めて地元の人間らしき人影を見る。
酒屋の若者らしかった。
「じぃさん、また道に迷ったかね?」
気さくに声をかけてくる。
「大丈夫だがね。」
老人が答える。
それから何十分も、あっちを曲がりこっちで曲がり、同じ道をぐるぐると回っているとしか思えなくなって来た頃、
「ここだがね。」
と、指差した先に今にも崩れそうな軒下に暖簾を吊るした汚い居酒屋があった。
暖簾には『北の潮』と書いてある。
「何て読むんですか?」
「きたのうみ。」
カウンターだけの店で、中で包丁を握っている男は、今しがた船から下りて来ましたという体。
「なんだ、じいさん、また来たかね。」
老人は、それには答えず、
「酒だ。」
「酒はええけど、金あるかね?」
「こっちが持っとるがね。」
店の亭主は、こちらを一瞥すると、
「ほどほどにさせて下さいよ。」
と、まるでこちらが保護者であるかのような口ぶりで言う。
「じゃあ、二合だけもらいましょうか。」
こちらもそれを受けて答えざるを得ない。
「それと、刺身、適当に。」
「ええかね?」
亭主がこちらを伺う。
うなずくと、いそいそと店の奥にもぐり込む。
「この店の魚は美味いがね。まぁ、食ってみてくれ。」
「そうですか。」
奥から出てきた亭主が、
「まぁ、毎朝、漁港に行ってぇ、その日に出してしまえそうな量しか買ってこねぇだかね。美味いかどうかは知らねぇけんども、そんな悪い味でないのは事実だかね。」
そう言いながら二合徳利と銚子を置く。
「うちの酒は、冷やだけど、えかったかね?」
「いいですよ。」
そう言いながら、老人の銚子に酒をついでやる。
老人は乾杯もせずに口から酒を出迎えに行く。
こちらもぐいと一口あおる。
新鮮な水かと間違えるような液体が喉をするりと駆け抜ける。
麹の香りが後を追いかけて来る。
「どうですか?」
亭主が腕組みしてこちらの反応を待つ。
もう一杯銚子を満たして、出迎える。
清浄な味。するりと抜ける喉越し。
「これは。」
「ええでしょ。うちは、残念ながらこの酒しか置いてないがね。」
刺身が出てきて、酒の魅力が倍増する。
アジを一口。
酒を含むとその生臭さが消え、洗い流すのではなく包み込むように喉を駆け抜ける。
アジの美味さを思い浮かべながら、その次のシロエビの甘さをしっかりと堪能できる。
「美味い。」
食べつ、飲みつ。老人ともども声を無くす。
「毎日来ても、うまいがね。」
老人がつぶやく。
「わかります。」
そのまま酩酊し、店の主人に教えてもらいながら、老人を家に連れ帰り、着の身着のままで適当にその辺りにあった毛布か何かを被って記憶は途切れていく。
海の中に悠美が立っていた。
海は、身を切るように冷たい筈だが、悠美は笑っている。
― 美味い酒見つけたで。飲みに行こう。
― 知っとるよ。
― 早よあがっておいで。
悠美はいやいやと首を振る。
― こっち来いや。
― 悠美、聞き分けの無い事言わんと。
― そこにおかんが、うちの子供抱いていてんねん。
― そこて、どこや。
― そこやん。ほら。
指差す方に目を凝らすが、何も見えない。
― 蜃気楼やん。
確かに、海の向こうが揺らめき始め、対岸が俄かに立ち上る。
そこにおかんが子供を抱いて立っていると言う。
― うちな、幸せになりたいだけやねん。
― わかっとるよ。
― おかんもそうやってん。
― そうやな。
― おかんも、幸せ求めてただけやねん。なぁ、幸せて、こんな冷たい海の中にあるん?
― 幸せは、こっちや。
― そっちの夢は見飽きたわ。毎日、夢見ても全然叶えへんや無いの。
― 悠美のかなえたい夢て何や。
― 夢なぁ、何やろ。うち、わからん。うち、何がしたいんやろ。毎日、楽しいに暮らしたいだけなんやけど。何やろ、一体。うちの夢なぁ。
悠美は、呟きながらだんだんとその姿が小さくなる。
― 悠美。
― また、葉書出すでな。待っといてな。
やがて荒波の中に消え去る。
先ほどまで聞こえなかった波の音が急激に戻ってくる。
― 何しなさっとるね。
声に振り向くと、老人がいる。
― 悠美がおったんです、そこに。
体が冷え切って、寒い。
何かを掻き集めて体に巻こうとして、目がさめた。
「起きなはったか。」
老人は既に目覚めていて、上り框に腰掛けて煙草を吸っている。
「すいません。すっかり世話になってしまって。」
老人の家は二間と台所の土間があるだけの小さな平屋だった。
よく片付いている。
持ち物が殆どないからだろうか。
奥の部屋に仏壇だけがある。
「あんた、どちらさんでしたかね?」
老人がこちらに身をよじって、まじまじと聞く。
「じいちゃんが正気なのは、飲んでる時だけだがね。」
と、昨夜の居酒屋のおやじも言っていた。
「旅の者です。昨夜はお世話になりました。」
そう言ううちに玄関が開いて
「おじいちゃん、起きとるかね?」
丸々と太った色黒の女が顔を覗かせた。
目が合い、慌てて互いに挨拶を交わす。
「どちらはん?」
「旅の者です。昨夜は、こちらのおじいさんにすっかり厄介をおかけしました。」
それを聞いて女は、
「いやぁ、逆だがね。おじいちゃん、この人に迷惑かけたでしょ。」
「あんた、どちらはんでしたかね?」
老人は、女にも言う。
「嫌やわ。毎日世話しとるのに。」
こちらを向き、
「いっつも、これですがね。ほんまに瀬が無い。」
「でも、美味しい店に連れて行ってもらいました。」
「あら、もしかして、また奢らせたん?」
老人は、そ知らぬ顔でもう一本煙草に火をつけた。
女は、隣家のおかみで、老人の面倒を見ていると言う。
手に持った盆には老人の朝食が載せられ、布巾がかけられていた。
「おじいちゃん、先に食べといて。ちょっと待っといてくださいよ。お宅の分も持って来ますから。」
「いや、お構いなく。適当にその辺に食べに出ますから。」
「この辺には、そんな店ないがね。夏場はお客も来るから開けてる店もあるけんど、冬はね。歩いて国道辺りまで行かねば。ちょっと待っとくがね。一人分も二人分も一緒だから。」
そう言うと、女はいそいそと出て行く。
老人は、黙々と食事を始めた。
「昨日の店、美味しかったですね。」
そう言うこちらを見た老人の瞳は、妙に澄んでいて、昨日と言う過去さえも霧の向こうに霞んでしまっているようだ。
やがて女が食事を運んできてくれる。
「気を使わせまして。」
「ええのよ、おじいちゃんの相手してもらえるんやったら、こっちも安心だがね。」
「ご老人とは血縁か何か?」
「違う違う。昔から隣近所だからね。そのよしみで世話させてもろうとるがね。もう何十年も知っとるからね。ほったらかしにはできんでしょ。」
「ご老人のご家族は?」
「奥さんもお子さんもお亡くなりになってね。奥さんは十年くらい前だかね。娘さんが自殺してぇ、後を追うように亡くなってぇ。息子さんは五年ほど前だがね。漁船が外国船に当て逃げされてね、転覆してぇ。それからだね、おじいちゃん、ぼけてきたの。」
「息子さんのご家族は?」
「それがね、理由はよく分からんけんど、子供連れて出てっちゃったがね。それでぇ、息子さんが荒れた生活を始めてぇ、おじいちゃん無理して働いて病気になって、息子さん、それで気を入れ替えて漁船に乗り始めて、その矢先だがね、転覆したの。それからだね、おじいちゃんのボケが始まったの。」
「それで、御面倒見てらっしゃるんですか。」
「お隣だからね。放っとけないでしょう。」
「きれいに片付いてるんで、何でかなと思ってたんですが。」
「私らが交代でやったげてるんよ、掃除。」
「私ら?」
「この近所同士何軒かでね。もともと、おじいちゃん清潔好きでぇ、整理も良かったからね。そんな苦痛じゃないよ。」
女の話を聞きながら、ほんのり香ばしい出汁の効いた味噌汁を飲み干す。
「美味しい出汁ですね。かつおでもないし、煮干でもない、昆布でもない。」
「シロエビだがね。」
「シロエビ?」
「この辺りでは普通に食べるんだけど、これくらいの透明なエビでね、出汁をとったり、かき揚げにしたりして食べるがね。」
そう言いながら、親指と人差し指の間を十センチばかし開く。
富山湾では地形と水質の関係で、とりわけ沢山生息しているらしい。
「ホタルイカも有名だけどね、最近はこのシロエビにも結構注目集まってるがね。」
老人は、この会話を聞くでもなくボーッと天井を見上げている。
「ところで、あんた、どこから?」
「大阪です。」
「何しに来なさったがね?」
「人を探してるんです。」
「氷見で?」
「ええ。」
と相槌を打ちながら例の葉書を取り出す。
「富山湾だね、これ。消印も氷見だぁ。でも、文面も差出人の名前も無いね。あて先は?」
「悠美と言う女の行方が半年ほど前から分からないんですけど、あて先は彼女の母親なんですよ。だから、差出人は、その悠美本人じゃないかと思って探しに来たんです。」
女は慌てた様子で、上がり框にいる老人の元にすっ飛んでいく。
「おじいちゃん。あのコ、名前なんてったかね。」
「はぁ?」
老人は、きょとんと女を見る。
「駄目だぁ、完全に忘れてる。悠美って言うのかね、そのコ?」
「ええ。」
「年は、いくつくらい?」
「本人は二十三なんて言ってますが、実際は二十七か八です。日頃の不摂生がたたって、ちょっとやせ気味。でも、第一印象は丸っこい感じを与えます。」
「悠美じゃなかったね、そのコの名前は、何て言ったっけか。」
「マスミだぁ。」
老人がいきなり口を開く。
「マスミはおじいちゃんの亡くなった娘さんの名前だがね。でも、あれだね、自分が誰だかわかんなかったみたいだからね。おじいちゃんがマスミって呼び始めてぇ、そのうち私らもマスミちゃんって呼んでたからね。おじいちゃんと半年ばかり一緒に住んでたんだよ。あんたみたいに、朝来ると、そのコがおじちゃんに添い寝してたがね、真っ裸で。あたしゃ、びくりしちまってぇ。おじいちゃん、現役だったんだって。でもねぇ、後で、そのコに事情を聞いたら、海辺に居たんですっかり服が濡れたんで、寒いから裸になっておじいちゃんに添い寝してたんだって。あんたみたいに拾って来たんだよ、海から。」
「そりゃあ、海だもの。何でも流されて来るがね。」
「あれ、おじいちゃん、今日は正気なんだ。」
「私も流されて、拾われて来た一人なんですね。」
「生きてる年数が違うがね、わしと。わしから見たら、若いもんは、みんな流されてくるがね。」
「で、そのマスミと言うコは、今はどこに?」
「いつの間にか居なくなって。でも、半年はいたね。」
「何をしているコだったんですか?」
「それがね、記憶を無くしてたからねぇ、何にも覚えてないんだって。警察に届けようかって言ってるうちに何日も立っちゃって、結局届けずじまい。おじちゃんのいい話し相手ができたって、わたしら喜んでたんだがね。ただ、部屋の掃除や後片付け、料理なんかも、全然できねぇコだったな。暖かい日は、一日中おじちゃんと海辺に座って、ボーッ。最初は、おじいちゃんの面倒見てくれるかって期待したんだがね。全然。」
女は、そう言って顔の前で手をヒラヒラさせる。
しかし、目は穏やかに笑っていた。
「結局、私ら、二人分の料理こしらえる事になってぇ。調度あれだね、今年の二月くらいから、九月の半ばくらいまでだったね。マスミちゃんがいたのってぇ。
おっかしなコでぇ、夏の夜に、いきなり素っ裸になって海まで走って行ったりして。
そうそう、赤ん坊を見ると無理やり抱いて、どっかへ持ってこうとするの。何度かあったよ。」
「赤ん坊を。」
「親が怒って、怒鳴り込んできた来た事もあったよ。あんな頭のおかしい女、追い出してしまえなんて人もいて。その度におじいちゃんがかばってぇ。マスミの頭はおかしくなんかないって。」
「あいつは、子供が欲しかっただけだがね。子供ができねぇからってぇ、嫁ぎ先追い出されてぇ。」
「おじいちゃんの娘さんの話だよ。」
女が老人に聞こえないように小さな声で囁く。
「おじいちゃんもね、そんな見っとも無い娘を家に置いとけんって。娘さんは富山で水商売始めたんだがね。その後、宇奈月温泉で見かけたって人もいてぇ、結局、投身自殺しちまったぁ。」
「投身自殺?」
「何でも、男に騙されたって噂だけどね。」
そのマスミと呼ばれた女が悠美であるかどうかは、分からない。
赤ん坊を見ると抱きたがったと言うが、悠美は、赤ん坊を恋しがってはいたが、それは女の本能の部分で恋しがっていたとしか見えなかった。
別に取り立てて子煩悩という感じでもなかった。
他人の赤ん坊を見ても、抱きたがるなどという事はなかった。
むしろ無関心であったと言える。
隣に赤ん坊を抱いた母親が座ると、汚い物でも見た時のように体をよじり、少しでも距離を作ろうとした。
― 服、汚されるやろ。ほんま、無神経な母親やねんからなぁ。
聞こえよがしにそう言った。
もしかしたら、そういう無関心の裏には、子供を愛する気持ちを隠していたのかも知れない。
それを認めてしまうと自分が惨めになるので、あえて逆の態度を取っていたとも言える。
もしそうならば、悠美に詫びねばならない。
― 本当は、あんまり子供、好きやないねんろ。
そんな風な言葉を悠美に投げつけた事もある。
― 悠美は、子供持つほどに精神が成熟してないやないか。
こんな酷い言葉を吐いた事もある。
何かの他愛も無い口げんかの中ではあったが、内心悠美は激しく傷ついていたのかも知れない。
悠美は悠美で、色んな事と必死で闘っていたのではないか。
精一杯に気を張って、他人に負けまいと意地張っていたのではないか。
その事をどれだけ理解してやれただろう。
女は、いや人間は、雄々しく闘って自分の道を切り開ける者ばかりではない。
そういう女は逆に少なく、ほとんどの女は、いや男も、悠美のようにあっちこっちに頭をぶつけながら、自分自身を持て余しつつ、必死でジグザグに生きている。
それを旨くさらけ出し、他人の助けを求められる者は多い。
さらけ出し、助け合いながら生きていくのが通常だろう。
悠美は、生まれ持った激しい負けん気のためにそれが出来ず、孤独に肩肘張って生きていくしかない女だった。
そのために随分と自分に無理をし、随分と疲れ果てていただろう。
もし、マスミと呼ばれた女が悠美ならば、かの女が何故この町に流れて来たかは不明だが、この老人の側で、何に構える事なく、自分自身を含む誰と闘争するでもなく、一日海を見つめながら暮らし、自分自身を見つめなおす事ができただろうか。
いやいや、記憶をなくしていたと言う。
そうであるならば、見つめなおす対象すらも失っていたのか。
「どちらにしろ」
と、女のいれてくれたお茶を口に含みながら、言葉を繋ぐ。
「そのコは、いつの間にかいなくなったんですね。」
「そう。ここに来た時も着の身着のまま無一文。出て行く時も着の身着のまま無一文だったがね。」
「何も持って行かなかったんですか。」
「ここには持って行ける様な物がないがね。」
「そうですか。悠美は酒が好きで、ほとんどアルコール中毒並みに飲んでたんですが、そのコはどうでしたか?」
「お酒ねぇ、飲んでなかったねぇ。飲みたくてもねぇ、お金が無かったからねぇ。ほとんど毎日、おじいちゃんとブラブラしてたねぇ。狭い町だからね、結構評判になってぇ。おじいちゃんとそのコの事を知らない人はいなかったね。」
「じゃあ、町の誰かに聞けば、そのコの行方もわかりそうですね。」
「そのコが、あんたの探してる女かどうか分からんでしょ。」
女が向き直って言う。その口調の勢いに、老人がびっくりてこちらを見る。
そうなのだ。
悠美の行く先を見つける何の手がかりも無い状態で、つい、目の前の可能性にすがってしまう。
そのコが悠美である確立は本来ならば非情に少ないはずだ。
「あたしらにしたら、あれは、あのコは、おじいちゃんの娘だって事にしときたいがね。おじいちゃんには言っとるんよ。もう少ししたら、娘さん、また帰って来るからって。そりゃね、おじいちゃん、ボケちゃってるから、誰が何してくれたかなんて片っ端から忘れてくけど、それでも、何だかうっすらと希望だけはあるみたいで、あのコが帰ってくるって言うと暫くは元気になるがね。」
「あいつは、マスミは帰ってなんかこんがね。」
老人が真顔で言う。
その目には強い理性が宿っている。
「おじいちゃん。」
「あいつは、死んだがね。自分に負けて自殺したがね。もう随分昔の事だぁ。」
そう言い終えると、暫く天井を見上げている。
再びこちらを向いた時は、出会った時の何もかもを靄の向こうに押しやってしまった、あの澄んだ瞳に戻っている。
「もうすぐ哲夫が戻って来るがね。」
「哲夫って?」
「おじいちゃんの息子さん。」
「例の遭難された?」
「そうそう。」
その日は一日、老人の傍にいた。
昼前まで、殆ど何も語らず部屋にいて、淹れてやった茶をすすっている。
正午過ぎに朝とは別の女が二人分の食事を持ってやってきて、一時間ばかし話をして帰っていく。
その女からも、マスミと呼ばれた女が悠美であるのかどうか、何の情報も得られなかった。
マスミと言う女は、忽然と老人の前に現れ、忽然と姿を消した。
そのあり方が、確かに悠美に似ていると言えば言えなくは無い。
マスミと言う女が悠美であるとして、悠美は何故その町に現れたのか。
何をしたかったのか。
昼食を終えると、老人はよっこらせと立ち上がる。
そのままのそのそと草履を履き、外に出かける。
その様子を何処で見ていたのか、路地から朝の女が現れ、老人にジャンパーを着せてやる。
「あんたも風邪ひかんようにね。」
こちらにもそう言って家に引っ込む。
そうすると、町は風だけが吹きぬける、人っ子一人いない町となる。
老人は、海とは反対に歩いていく。
その後ろに黙ってつき従う。マスミという女もそうしたのだろう。
海と国道の間にある小さな山の中腹にお地蔵様があって、そこで手を合わせる。
「津波が来んようにな、このお地蔵さんが見守ってくれるがね。」
小高い所にあるお堂から町を見る。
町は風の中に眠っている。その向こうに冬の冷気を溶け込ませ押しては返す海が広がっている。海鳥が一羽、凍えながら空を舞っている。
お堂の前のベンチに座り煙草に火をつける。
老人にも勧めると、旨そうに吸う。
老人が、澄んだ瞳で、自分の人生を抱え込んだ町を見下ろしている。
やがて、再びのそのそと歩き始める。
お地蔵様の前の石段を危なげに下り、僅かの田畑残る斜面を降りると、町中に入っていく。
町には、相変わらず人影が無い。
昨日降り立った終着駅の横を過ぎ、海へと続く細い道を辿る。
昨日より風は穏やかだ。それでも、夏の行楽客の途絶えた町中の締め切られた店先のそこかしこで、風が通り過ぎるたびに色々なものが音を立てる。それが、町をなお侘しく見せる。
海に辿りつく。
海は、何十年もの間、老人の思いを抱きとめ、うねり、引いて行く。
老人は、何十年前にもそうしたように、僅かの砂浜に腰をおろし、足を抱え込み、うずくまる。
妻と結婚した時、息子が生まれた時、娘が生まれた時、
その娘が結婚した時、自殺した時、息子が遭難した時、妻が死んだ時。
その時々の思いをこうやって海に投げ込んで来たに違いない。
今、それら思いは、海の底深くに眠り、時折老人の元を訪れる。
それら思いから開放された時の老人の澄んだ瞳は、おそらく海がお返しに、老人に授けたものなのだろう。
そう思わせる海の色が、老人の澄んだ瞳の中で揺れている。
やがて、
「あんた、どこから来なさったかね。」
老人にいきなり尋ねられ、返す言葉も無いうちに、
「あんた、お金持っとるかね。」
ニヤリと笑いかけ、老人を促して、昨日の店へといざなう。
昨日と同じ酒に舌鼓を打ち、酒精に連れ去られつつあるぼんやりとした意識の向こうで、「ここは、北国。最果ての。」と、誰かが歌っている。
カウンターの上に置かれた小さなテレビからだ。
もしかしたらと、思う。
ここは、夢の最果て。
ここから先にあるのは、捨ててきた夢の数々。
悠美は、それを拾いに来た。
そして、拾う事を諦めて、また帰っていった。
何処へ?