第十一章  日の当る街角

 

 

「ほんで、どないしたんや。」

シゲやんが話の先を急がせる。

「どないもこないもあれへん。二、三日、老人の厄介になって帰ってきた。」

「悠美の行く先は?」

「わからずじまいや。」

「その、なんちゅうたか、暫くおじんの家に住んどったっちゅう女なぁ、それて悠美ちゃうんか。」

「そうかも知れへんし、そうでないかも知れへん。その女が悠美やっちゅう証拠が無いねん。」

「仮に悠美やったとしても、もう何処に行ってもたかわからんのやろ?」

彰やんが口をはさむ。

「そうやな。行くだけ無駄やったのか。」

「無駄やないやろ。旨い酒が飲めたやんか。」

シゲやんが羨ましげに言う。

「土産に買うてきたがな。」

「うまい刺身がないなぁ。シロエビやったかなぁ。」

「シロエビなぁ。あれは旨かった。せんべぇ買うてきたで、食べぇや。」

「わい、刺身がええなぁ。」

「シゲやん。何も遊びに行ってたんとちゃうで。」

彰やんが怒り始める。

「せんべぇ、シゲやんがいらんのやったら、全部わいがもらうで。」

「冗談やがな彰やん。ほんでもなぁ、悠美の足跡、どこにものうなってもたなぁ。」

「悠美から葉書が来たら連絡くれて、おばんには言うたあるけどな。」

「悠美なぁ。でも、あの海見たっちゅうのんは確かな事やねんな。何処で見たかは別にして、氷見の海を見たんや。わいが見たんは冬の海やったけど、悠美は夏の海を見た筈や。」

「誰と見たんやろ。」

「さぁ、どこぞの男とか、それとも一人でか。」

 

悠美が氷見の海辺に立つ夢を何度か見た。

悠美は、おかんに会い来たと言う。

― おかんて、もう死んでるやんか。

― 何言うてんの。おかんは、まだ生きてるわ。おかんな、氷見に戻ってきてん。好きな男がいてるんやて。

― 好きな男?

― それが、うちの本当のおとんかも知れへんし。

― 好きな男か。

― 幼馴染の漁師や言うとった。

― もう会うたんか。

― いや。会う勇気がないねん。おかんが本当に好きな男と住んでる所、見たないし。うちの本当のおとんかも知れん思うたら、ますます会えん。

― 住んでる場所、知っとるんか。一緒に行たろか。

― ええわ。うち、勇気が出たら自分一人で会いに行く。

― おかんに会えたら、悠美、必ず戻って来いや。

― うん、ありがとう。必ず戻るし。

夢は、そこで終わる。

いや、前後合わせたらもっと長い夢の筈が、そこしか思い出せない。

その夢を見るたびに、悠美はきっと帰って来ると確信する。

そのようにして、年末をやり過ごし、新年を迎えた。

 

年が明けると、さすがに大阪の街にも白いものが舞い始める。

「よう冷えるな。」

彰やんがストーブに手を翳しながら言う。

「あれから悠美からの葉書は来うへんなぁ。」

さらに蜜柑を剥きながら言葉を繋ぐ。

「やっぱりなぁ、あの氷見のじいさんの所にいたんは、悠美やったかも知れへんなぁ。」

窓の向こうに町が見える。

さすがに、この寒さで物見遊山の客はいない。

客引きの女達は所々で石油カンに薪をくべ、そこに寄り集まって寒さをしのいでいる。

平和な空気が新年の町を覆っていた。

 

彰やんの実家で新年会するからとシゲやんと一緒に呼ばれて行って、へべれけに飲んでタクシーで住処に辿り着いたのが午前二時。

シゲやんもついて来て、そのまま二人とも前後不覚になる。

早朝、激しく揺すぶられて慌てふためいたのはシゲやんだった。

「何や、ガス爆発か?」

「シゲやん、まだ酔うてんのか。」

と言い終わらぬうちに積み上げた古本が崩れかかる。

それを手で払いのけながら、

「地震や。」

初めて経験する激しい揺れに体を揺さぶられ、立ち上がることすらできない。

シゲやんが意味不明な叫びをあげる。

アパートの上の部屋の何かが倒れ大きな音がする。

ようようおさまり、慌てて部屋を這い出す。

「頭、気をつけや、上から何が落ちてくるかわからんで。」

先に走り出たシゲやんに声をかけながら、部屋を振り返り、物が飛び散り散乱した様子に唖然とする。

とにかく外に出てみるが、あたりはまだ暗い。

近隣の住人も三々五々這いずり出てくる。

「えらい地震やったな。かなり揺れたで。」

「とりあえず、この辺りはべっちょ無さそうやな。」

着の身着のままで、寒さも忘れて飛び出したが、そんなに酷い様子でも無く、一安心すると寒さが身に染み始める。

「ともかく、明るうなったら、彰やんとこ行って見ようや。」

「地震に二日酔いや。とりあえず昼過ぎまで寝してもらうわ。」

散乱した部屋の物を適当にどかしながら、布団にくるまってシゲやんが言い、見る間にいびきを立て始める。

 

「神戸がえらいこっちゃ。」

昼過ぎに町の飲食組合の建物に辿りつくと、崩れ落ちた書類などで散乱した組合の中を片付けながら、彰やんが言う。

「神戸が?」

「ほうや。高速道路が倒れてしもうて、えらい数の怪我人が出てるらしい。火も燃えとるて。」

「そんなひどい地震やったんか。」

「ニュース見てないんか。」

「テレビ無いもんなぁ。」

「この町の中もなぁ、何軒かは屋根瓦が落ちたりしてるでぇ。」

見れば、倒れて壊れたりした物を道に運び出している店が多い。

「ほんでも、大阪の街はたいした事にはなってへんで。」

確かに地下鉄が動いてなかったので歩いて来たが、街はいつもの通りの活気に見えた。

地下鉄が使えなかったので、地上の道路を歩くサラリーマンの姿がいつもより多かった。

飲食組合のテレビが、中継を映し出している。

「何処やあれ。」

それは、まるで戦争でもあったかのように、街のいたるところで黒い煙が立ち昇っている光景だった。

「神戸や。ほれ見てみぃ、高速道路が横倒しや。」

「怪獣でも出たんかいな。」

シゲやんが言う。

「地震や言うてるやろ。」

「嘘やろ、地震であないにはなれへんで。」

「朝方は、怪我人が出た模様て言いよったけどな、さっき見てたら死人もようけ出てるらしい。」

カメラがようやく街中に入ったらしく、画面に崩れ落ちたビルが映し出される。

「おいおい、あれ見てみぃ。あんな事になっとるやないか。」

その日、夕方まで、彰やんが組合の中を片付けるのを手伝いながら、テレビに釘付けになる。

地震の被害の様子は、刻一刻と明らかになり、夕方には死者二百人近くと発表されたが、その数は見る間に増えていく。

「とりあえず、町の女の子は全員連絡がついたで。」

町の様子を見回りに行っていた彰やんが、組合のドアをガタガタ言わせながら帰って来る。

「やっぱり、えらい揺れやってんやな。これ見てみぃ、ドアの枠が歪んどる。」

翌日は、さらに悲惨な光景がテレビに映し出される。

私鉄の線路が飴のように捻じ曲がり、崩れ落ちている。

長屋の建物がペシャンコにつぶれ、その前で真っ白に埃を被った老婆が佇んでいる。

ビルが倒壊し、中に閉じ込められた人を必死で助けようとしている。

商店街が火の海で、泣き叫ぶ人、逃げ惑う人、助けを呼ぶ人。

「戦争やな。」

シゲやんが呟く。

「神戸て、わいが生まれた町やねん。」

「神戸の何処や。」

彰やんがシゲやんにたずねる。

「兵庫や。小学校上がるまで住んどった。」

「長田のあたりが酷いらしいで。」

「長田て、兵庫の隣やで。」

「誰か知り合いいてんのか?」

「いや、もう誰もおらんけどな。」

三日もすると、被害にあった神戸の街の隅々にまでカメラが入り込み、被害の凄さが明らかになって行く。

― 水が出ない。

と、人々は言う。

水や生活用品を求めて、歩ける人達は電車に乗れる所まで歩いていく。

逆に、野次馬達の車が被害のあった街に入り込み、ただでさえ崩れたり倒れたりして車が通行しにくい道路をさらに混雑させている。

大阪の町に出ると、被害地から来た人と、そうでない人が一目でわかる。

頭から埃を被り、身の回りに構っていられない風の人と、いつも通りの身奇麗な生活を続ける人。

神戸方面から来た人々はリュックサックを背負い、中に飲み水を一杯詰め込んで被災地に戻って行く。

「わいら、大阪に住んどってよかったなぁ。」

シゲやんがその姿を目で追いつつ、そんな無責任な言葉をはく。

 

「悠美がおったで。」

地震から一週間ばかし過ぎたある日、あらかた事務所の片づけを終えた彰やんがいきなり切り出した。

「悠美が?」

「神戸やて。」

「ほんで、無事か?」

「わからん。鷹取の市民病院にいてるらしい。さっき、そこから連絡があったんやて。」

「病院て。怪我でもしとるんかいな。」

「どやろな。」

彰やんが煙草の火を消しながら言う。

「病院というからには、何ぞあったと考える方が妥当やろな。元気やったら本人が出るやろうし。」

「悠美とは話できてないんか。」

「そうや。病院の看護婦さんからの電話やったらしい。悠美と言う人が入院してる。できるだけ急いで来て欲しいて。」

「誰宛や?彰やんか?」

シゲやんが身を乗り出す。

「誰宛でもなかったらしい。事務のおばはんが電話取ってくれた。わいに伝えます言うたら切れたらしい。」

「向こうも怪我人だらけで忙しいんやろな。」

「行かな。」

「そうやな。早よ行こ。」

とシゲやんが立ち上がった所を

「あんたら行ってくれ。」

彰やんがソファーに腰掛け、俯いたまま言う。

「何でや、彰やん。皆で行こうや。」

「シゲやんと二人で行ってくれへんか。」

「行きとうないのんか?」

「そう言うんやないねん。わいは、ここを守ったらなあかん。この町のコらの面倒見たらなあかんやろ。地震の後始末に手ぇ貸したらなあかんコもいてるねん。ほっとかれへん。」

「分かった。悠美に何て言うとこ。」

「ほうやな、早う戻っておいでと言うといてくれるか。」

「分かった。」

 

行くにしても、鷹取は被災地の中を通り過ぎた向こうだ。

大阪からJRに乗り、ともかく西宮まで辿り着く。

車中は、被災地に入る緊張した雰囲気が漂っていた。

「ネクタイした人が多いな。」

シゲやんが耳打ちする。

「神戸の会社に用事のある人らやろな。」

淀川を越えたあたりから街の雰囲気が埃っぽくなる。

民家の所々が白いのは、屋根瓦が崩れ落ちているからだ。

いきなり車両内にどよめきが走る。

見ると、ビルが一つ、丸ごと崩れ落ちている。

そこに何人もが取り付いて作業しているが、ほとんど人手で瓦礫を掻き分けているだけのように見える。

「何やこれ。」

「崩れとるなぁ。」

「中に人いてへんのやろか。」

「分からんなぁ。」

「わい、何か悲しいなってきた。」

シゲやんが涙をこぼし始める。

「どなしてんや。」

「分からん。ほやけど、悲しいねん。こんな事があってええのんか?」

西宮に近づくと、事態はさらにひどくなる。

民家が道路に向けてガッサリと膝つくように倒れこんでいる。

木造アパートが、一階部分を完全に押し潰して斜めに傾いている。

電車は途中までしか走っておらず、そこからは徒歩となる。

ある速度以上では物事のディテールは薄められる。リアリティが無くなる。

人間は歩く速度でこそ物事の真実を見極められるように出来ているようだ。

逆に、歩く速度でないと何も見極められないという事か。

身の丈で物事を見て、知ると言う事が重要なのだろう。

電車の中から見た瓦礫の山は、近づくと、それが人間に対して敵意剥き出しとなっている事を認識する。

引き裂かれた梁や、粉々に飛び散ったガラスの破片、日頃目を楽しませてくれるテレビでさえも、全てが凶器となり、人々に襲いかかった事を知る。

狂気を帯びると、全ては止めようも無く牙を剥き、情け容赦も無く相手の体を、心を引き裂き、なおその暴走を止めようとしない。

その瞬間、人は信じていたもの全てから裏切られるのだ。

瓦礫には、なお狂気の残滓が感じられる。破壊のエネルギーが、その一つ一つの中で行き場を失い小さく唸りを上げ、道路上に散乱している。

見ればシゲやんは、涙出尽くしたようで、それでもなおしゃくり上げていた。

道路に、真っ白な長い物体が二体、並べられている。

それは、人だった。

瓦礫の中から引き出されたばかりの人の死体だった。

頭から足先まで土埃で真っ白になっている。

その足元で老婆が一人、悄然と座り込んでいる。

「わい、もうあかん。これ以上、よう行かん。」

シゲやんが大声で泣き始める。

「なぁ、大勢のわめく声が聞こえんねん。」

「わめく声?」

「そうや。」

「何て言うてんのや。」

「言葉ちゃうねん。ワーでもない、台風の風みたいなゴーみたいな声やねん。」

「シゲやんには聞こえるのんか?」

「聞こえるやろ、ほれ。」

「シゲやん、ここで引き返すか?」

「いや、行くで。ほんでも、ちょっと休ませてくれるか。」

到底耐えられない光景でも、やがてその感覚は麻痺し始める。

三宮につく頃には二人、俯いて黙々と歩いている。

土埃が容赦なく鼻腔や喉を襲う。大阪で買い込んだペットボトルはとうに空となり、足の痛みと喉のひりつきを耐えながら歩く。

途中、ワゴン車の男が何やらブツブツ言っている。

「水や、水あるで。カップヌードルもあるでぇ。」

「何ぼや。」

「水、ペットボトルで千五百円。カップヌードルは八百円や。」

「何やて、それぼったりやないか。」

「何がぼったくりや。需要と供給や。今日び常識や。法と正義さえも金次第の世の中じゃ。甘えた事ぬかしとる奴は、とっとと死んでもたらええねん。」

「わい、あいつ、どついてったる。」

「やめときぃや、シゲやん。誰も、あんなもん買えへんわ。」

そう言う間に、何人かが買い求める。

そのうちの一人をシゲやんがつかまえる。

「おばぁはん、何で、あんなもん買うねんや。」

「そやかてなぁ、おじぃはんが、喉かわいた言うてなぁ。若い人らぁやったら買出しに行くんやけど、わてら、行けしまへんやろ。それになぁ、この先、もうちょっと行ったら、物の値段、倍になってまっせ。」

その先、シゲやんは何一つ言葉を発しなくなる。

ビル街に入ると、車酔いにかかったようになる。眩暈がし、吐き気すら感じる。

暫くその理由が分からなかったが、山から海に向かう大きな道路に立った時に理解できた。

ビルが、どれ一つまっすぐに立っていないのだ。

いや、本来ならきちんと真っ直ぐである筈のビルディングが、あっちに傾き、こっちに傾き、途中のフロアが押し潰され、白い日除けが小腸のように大量にはみ出したりしている。

そうなると、視線は何を頼りに垂直を認識してよいのか分からなくなる。

まっすぐ歩いているつもりで、なんだかふらふらと、右に寄ったり左に寄ったり、シゲやんと、何度も無用に肩ぶつかる。

道路には車がごった返している。

救急車が、その車の中で立ち往生している。

瓦礫で道が狭くなっている上に車が多すぎて、二進も三進も行かないのだ。

車の中には報道関係もある。上空のヘリコプターと地上の中継車と、中から場違いにメークした女がマイクを片手に走り出てくる事もある。

そればかりでなく、一般車の中にも、助手席に座っているものがビデオカメラを回している、見るからに野次馬然としたのもあった。

「怪我人がいるんだ。通してくれ。」

叫んでいるが、救急車ですら通れないのだ。車はクラクションを鳴らすしかない。

「うるさい。」

ビデオカメラを回していた男が叫ぶ。

その車の前に一人の男が飛び出して来る。

「こっちよけんかえ。」

「よけられるか。」

「何言うとんじゃ、お前ら野次馬やろが。怪我人優先じゃ。もっと、こっちによけるんじゃ。」

男が、こっちの車、あっちの車を避けさせ、隙間を作って救急車と怪我人を運んでいる自家用車を通し始める。

「あいつ、警察か。」

と、シゲやん。

「そうでも無さそうやな。」

「偉いやっちゃ。」

暫く行くと、右翼の車が水を配っている。

「あれも、ぼったくってんのか。」

「いや、ただで配ってるみたいやなぁ。」

年寄りが手を合わせて水を受け取っている。

戦闘服の若者が、それに丁寧に頭を下げて応えている。

「世の中、まだまだ捨てたもんちゃうねんなぁ。」

「売名行為かもしらへんで。」

「売名行為でも何でも、ここまで水運んできてもろうたら嬉しいで。」

「そうやなぁ、手もあわせとうなるやろなぁ。」

「わいらも喉渇いたなぁ。」

「わいらは大阪帰ったら、浴びるほどに水が飲めるねん。我慢しよ。」

「それ、シゲやんらしからぬ意見やなぁ。」

三宮を通り過ぎ、国道沿いに歩く。

やや、被害も下火かと思われた矢先に、その焼け跡はあった。

何もかもが焼け果てている。僅かに残った商店街のアーケードが火災の影響で飴のようにねじくれている。時計が、止まったまま焼け焦げている。

焼け跡の中の生活道具類が、かってそこに人々の生活があった事を物語っている。

そこかしこ、まだ焦げ臭い匂いがする中に、花が手向けられている。

ここにも、報道の車がひっきりなしに訪れていた。

女性が一人、花を抱え、うつむきながら焼け跡の中に入る。

テレビカメラがその後を追う。

「ニュースキャスターかな。」

「それにしては、化粧気ないで。髪の毛もぐちゃぐちゃや。」

女性が花を置き、ひざまずくと、そのまま咽び泣く。

カメラがそれを追う。シャッター音がする。

「可哀想に。静かに泣かせたったらええのに。」

「さっきの水売ってた奴らと同じやな。金のためや。人の心なんか考えたれへん。」

焼け跡を通り過ぎ、図書館で借りた地図を見つつ、市民病院に辿り着く。

市民病院の中は、さらにごった返している。

通路にまで怪我人が寝かせられているのだ。

医者や看護婦が走り回っている。

受付らしき前に人が列を為している。

その最後尾に並ぶが、何十分たっても列は前に進まない。

「すんまへん。」

シゲやんが、走りすぎようとした看護婦を呼び止める。

「悠美っちゅう女の人がここでお世話になってると聞いたんですが。」

看護婦はそっけなく、

「すいません。ここには沢山の人が入院してはりますねん。受付で聞いてもらえますか。」

「その受付に中々辿り着かれへんのやけどなぁ。」

シゲやんの言葉を無視して、看護婦が行ってしまう。

「えらいこっちゃなぁ。怪我人だらけやねん。」

仕方なく、シゲやんはこちら話しかける。

「まぁなぁ、あれだけのひどいこっちゃってん、どこもかしこも怪我人でパンパンやで。」

「悠美、大丈夫なんやろか。」

「電話連絡があったっちゅう事は、何とか大丈夫なんちゃうやろか。」

「彰やん、なんで来おへんかってんやろ。」

シゲやんがいきなり彰やんの話を始める。

「さぁなぁ。」

「悠美に会いとうなかってんやろか。」

「そうかも知れへんなぁ。今更、会うのん照れくさいってな。」

「彰やん、悠美の顔見たら泣いてまうから、その顔、悠美に見られとうなかったんちゃうやろか。」

シゲやんが大発見したように言う。

「ほやろか。」

「気強いからなぁ、二人とも。悠美もなぁ。」

「まぁ、ともかく、早う連れて帰ったろうや。」

ようやっと順番が回ってきて、悠美の名前を告げる。

看護婦は帳面をパラパラと捲っていたが、ふと手を止め、廊下の先を指さす。

「あそこの階段から地下に降りてください。その突き当りです。」

「地下ですか。」

看護婦はもう、後ろの人に声をかけている。

地下へと通じる薄暗い階段を下りる。

地下は人も少なく、足音がわびしく響いている。

「大怪我してる人ほどええ病室に入れたらなあかんから、悠美の怪我は軽いねんな。地下の病室やて。」

シゲやんが、言い聞かせるように言う。

言われた先には、締め切った大きな扉があった。

その扉を押して開けると、線香の匂いが鼻をつく。

奥にさらに扉がある。

「ここて、何や。」

作業服の男が寄ってくる。

「何か用ですか。」

「受付でここやて聞いてきたんですけど。」

「お名前は?」

悠美の名前を告げる。

「ちょっと、待っててください。」

男は背を向けると、机の上のノートを確認し、

「こちらです。」

と、さらに奥の扉に案内する。

二人の足が止まる。

「あのぅ、ここて。」

シゲやんが恐る恐る切り出す。

「霊安室です。」

「霊安室て、死んだ人がいてはる所ですか?」

「そうです。」

「悠美て、もう死んでもうたんですか?」

「ご遺族の方ですよね。」

「はぁ、まぁ。」

「ご愁傷様です。こんな状態なもので。ともかく、中へお入りになって、辛いでしょうがご自身で御確認いただけますか。」

奥の扉を開けると、そこは思ったより広く、布に包まれた沢山の物体が床に並べられている。

あっちこっちに人の塊が出来ていて、すすり泣きが聞こえる。時折人の名前が混じるのは、亡くなった人の名を呼んでいるのだろう。

作業服の男に案内されて、一つの布の塊の前で立ち止まる。

その脇で、見たことの無い男が一人、座り込んでいて、こちらを認めると頭を下げた。

こちらも我知らず頭を下げている。

作業服の男が布をの前を開く。

ここに辿り着くまでに見たのと同じ、埃を被った人間の死体が包まれていた。

「悠美か?」

シゲやんが呟く。

面影は、確かに悠美に似ている。

しかし、拭われているとは言え、化粧気もなく、ところどころ白粉のように埃の付着した顔では、どうにも確証が得られない。

「悠美かな。」

「わからんのかいな。」

「どうやろ。」

「悠美ちゃうんとちゃうか。人違いやで。」

シゲやんが期待をこめて言う。

「自分の名前を悠美ですと言いました。ほんで、あんたらの電話番号を言うたんです。」

脇に座り込んでいた男が始めて口を開く。

「あんたはんは?」

「ここ二ヶ月ほど、一緒に生活してましてん。」

「悠美と?」

「へぇ。最初は、名前も忘れたいうて。」

そこでは話も聞けない。

作業服の男には後でまた来ると言い置いて、もう一人の男を外に連れ出す。

 

「金沢のちょっと手前くらいでしたわ。」

と、男が話し始める。

病院の玄関口のロータリーの片隅。腰を降ろせそうな場所はそこしか無かった。

男はトラックの運転手で、主に瀬戸内の海産物を北陸に運び、そこで荷を降ろした後、今度は逆に北陸の海産物を瀬戸内に運ぶ事を仕事としていた。

その日は、富山に荷物を運び、あいにくの時化続きで北陸から乗せる荷物の無いままに瀬戸内に引き返している最中だった。

国道8号線を西に走り、富山県から石川県に入る手前、倶利伽羅峠の手前のドライブインに立ち寄ったのは深夜。

夜通し店を開けているドライブインはそこしかなく、日頃はトラック運転手で賑わっているのだが、その日はどのトラックも積荷が無いせいか、ドライブインにも立ち寄らず、そそくさと峠を越えていく。

客は、男一人だった。

冬型の寒気が日本海上空に忍び込み、時折、突風のような風を吹かせ、雪もちらほらまじり始めていた。

と、ドライブインのドアを開けて、女が一人入ってきた。

この寒空に薄着で、さりとて車でやってきた様子もない。髪は風で乱れに乱れており、顔は真っ青だった。

一瞬、幽霊かと思えた。

女は、給茶機に駆け寄ると、熱い茶を紙コップに注ぎ、両手で抱え込むようにして、暖をとるのと一緒にお茶を飲み干した。それを何度か繰り返し、ようやく顔に赤みが差してきて、その女が生きている生身の女である事を確認する。

女は、暫く厨房の方をじっと見ていたが、やがて何も言わずに出て行く。

厨房の中でドライブインの亭主が首をかしげる。

女は、外に出ると、躊躇いつつ暗闇に足を運ぶ。

そこに突風が吹いて、女の体は地面に叩きつけられた。

男は見るに見かねて、ドアを開け、女を抱き起こしてやる。

女の体は嘘のように軽く、冷え切っていた。

今の突風で立ち上がる気力も失せたのか、女は男の腕の中で、薄く目を開けて震えている。

男は女を抱えると店の中に入り、

― おやじ、何か温かいもの作ったってくれや。

厨房に向かって声を上げる。

― うどんでよろしいか?

― おお。早うしたってくれ。

女は、出されたうどんを瞬く間に平らげる。

― 腹減ってたんか?

女がうなずく。

― もう一杯食うか?

さらに女がうなずく。

二杯目のうどんを平らげて人心地つき、ようやく女はほっと息を吐いた。

― あんた、何処に行くところやねん。

女が頭を振る。分からないと言っているのだろうか。

― 分からんのか?

また頭を振る。

― 声、出やへんのか?

さらに頭を振る。

― さっぱりわからんなぁ。名前は?

やはり頭を振るだけだった。

― どっち行きたいねん。こっちか?

男が東を指差すと、女は西を指差す。

― 同じ方向やな。乗せて行ったろか?

女は、うんともいやとも言わず、男の顔を見るだけだった。

 

「ほいで、乗せたりましてん。」

「何か言うてましたか?」

「何です?」

「いや、大阪に帰りたいとか、何か。」

「何にも喋りまへんでしたわ。」

「何にも?」

女は、黙ったままトラックの助手席にいた。

― 自分で降りたいとこに来たら、手ぇあげて言うねんで。

女は、分かっているのかいないのか、じっと前を向いているだけ。

― 幽霊でも載せてもたんかいな。

男の独り言にも応えない。やがて、軽い寝息を立て始めた。

そのままトラックは金沢を通り過ぎ、福井の県境を超え、彦根から北陸自動車道に入り、京都南インターで一休みのために高速を降りる。

まだ夜明けには早かったが、空腹を押さえきれず、早目の朝食をとった。

その後、男はひどい眠気を感じた。

― ちょっと、寝せてもらうで。あんた、好きな事して時間つぶしとき。

そう言って、運転席の後ろに潜り込んで睡眠をとる。

それから何時間か眠り込んで、脇に妙な柔らかさを感じて目が覚めると、女が男の横に潜り込み、男のシャツの中に手を入れて、腹を撫でさすっていた。

― あんた、何してんねん。

女はそれには応えず、手をさらに下にずらし、ズボンの中に手を入れ、股間を撫ではじめる。

― ちょっと、それなぁ。

女は妖しげな目線で男を見る。

男は、その目線に捕らえられてしまった。

「相手が、変な色情狂や、最悪の話し、強盗でもええと思いましたわ。」

「そらそやろなぁ。」

シゲやんが相槌を打つ。

男は、そのまま女のしたいままにさせ、女の手の中で果てた。

「そら、もう何週間もご無沙汰でしてん。しゃあないですわ。」

男は、女を連れて近くのホテルに潜り込み、そのまま三日間も居続けた。

「わし、香川に家内も子供もおりますねんけど、そうなったら、帰られせぇへんですやろ。」

「しかし、悠美の奴、何でそんな事しよったんやろ。」

「さぁ、あいつなりの感謝の仕方かも知れまへんなぁ。

それから、京都に安いアパート借りて住み始めましてんけど、そら、すぐに生活費も底をつきますわな。」

― うちが面倒見たげる。

一緒に暮らし始めて初めて喋った言葉がそれだった。

― 面倒見るて、どないして面倒見てくれるねん。

― まぁ、任せて。

そう言うと、プイと家を出て、半日たって帰ってきた手には、札束が握られていた。

― 前借してきた。

そう言って男に金を渡すと、死んだように眠りだす。

― 何処へ行ってたんや

と、聞いても答えてくれず、次の日も昼過ぎにいそいそと出て行く。

そして、帰ってくると死んだように眠りこける。

男もさすがに心配になって、五日目に後をつけた。

女が入っていったのは、大きな店構えの特殊浴場だった。

金メッキのドアに裸の女神の像が出迎える。

見るからに安物臭いが、訪れる者の目的は彫刻鑑賞ではないので、その程度で十分で、高かろう、しかし、いい女の子が揃っておろうと、期待を持たせる効果はあった。

― お前、あんなんしてたんか。

― あれが一番手っ取り早いんよ。

帰って来た女に詰め寄る。

女は、さらりとかわし、涼しい顔で熱燗を徳利ごとあけた。

男はそれ以上何も言えず、どこでその生活を打ち切るかの目処も無いままに女に養われる身を続けた。

― 神戸行くで。

ある日帰って来た女が突然切り出す。

― 何やて。

― 神戸や。神戸。うち、引き抜かれてん。もっと、ええ金くれるて。

自分の名前すら思い出せない女が、体を売って、大金を儲ける。

― あっちの世界は、名前なんかどうでもええのんや。場合によったら、女で無くてもええかも知れへん。極楽見せてあげれたらお客さんはよろこぶし、店も歓ぶ。うちらもお金が入ってうれしいやんか。

― どこでそんなん覚えてんや。

― 知らん。忘れた。覚えてへん。けど、ええやん、もう。昔の話なんか。

神戸に移って、女は夏美と源氏名をつけた。

「そやから、わいにとっては、あの女は夏美ですねん。」

年明け早々に神戸に引っ越した。

とりあえず、開いてる所という事で、安いアパートの一階の部屋に転がり込んで、二人の生活が始まった。

新年のお年玉目当ての景気に女は引っ張りまわされ、ようやく落ち着いた頃、あの地震が来た。

天井がドスンと落ちてきて、男は柱の隙間に体が挟まって、何とか命拾いをした。

女は、落ちてきた天井の梁に体を挟まれ、身動きとれなくなった。

― 大丈夫か?

女に声をかける。

― おかん、助けて。おかん。

女が苦しそうに呻いている。

― 手ぇ出せ、手ぇ出してみ。

― 誰?おかん?彰やん?あんたや、あんたやんなぁ。助けて、痛い。

― 分かった。手ぇ出してみ。痛うないようにさすったろ。

ようやく伸びてきた手を握りしめ、力づける。

― なぁ、うちなぁ悠太に会いたい。一目会いたい。

― 会えるでぇ。絶対あえるから、頑張るんや。

暫く静かになる。

― 大丈夫か、生きてるか?

― なぁ、うちなぁ、ちょっと家開けてええか。

― 何や。

― 北陸行きたいねん。

「北陸て、言うたんか。」

シゲやんがたずねる。

「そうです。北陸て言うてました。」

「何で北陸なんやろ。」

― 北陸のなぁ、おかんの生まれた町を見に行きたいねん。おかんなぁ、そこに本当に惚れた男がいてるねんて、深酔いするたびに言いよった。

― あんまり喋ったら、体力なくなるで。

― その男て、どうやらうちの本当のおとんみたいやねん。面と向かって聞いたこと無いけどな、本当のおとんやと思う。

― そうか、助かったら一緒に行こな。

― うち一人で行きたいねん。一人で行って、おかんが死んだ事告げたいねん。ええやろ。

― そら、かまへんでぇ。

「やっぱり、悠美は北陸に行ってたんや。」

「そしたら、何でわしらに連絡くれへんかったんやろ。」

それから、いきなり視界が開け、人の手が伸びて来た。

― 大丈夫か、生きてるか。今、助けたるさかいな。

何人もの手が、上に覆い被さっている物を取り除き、助け出してくれる。

見ると、アパートの一階は完全にぺちゃんこになっていた。

― 大丈夫か、よう頑張ったな。

隣近所の殆ど交流も無い人々が、助け合いながら埋まっている人々を助け出していた。

― 火が出てるでぇ。

向こうで声がする。

二ブロックくらい向こうの屋根から火の手が上がる。

― 中に、もう一人いてますねん。

― 分かった。中にまだいてるぞ。早う助けな。火が回ってくるぞ。

しかし、二階がもろにのしかかった梁はびくとも動かない。

― あんた、名前は?

男が尋ねる。

― 悠美です。

はっきりした声が聞こえる。

続いて電話番号。

― ここに連絡してもらえますか。悠美、言うてもろたら分かります。

「その番号て、悠美が離婚前の番号やな。」

何人かが、大きな梁を引きずってきて、隙間に入れる。

― ええか、こじ開けるねんで。

声を合わせて梃子の要領で隙間をこじ開ける。

男は、その間に体をねじ込む。

― 力抜いたらあかんぞ。この人が潰されてまうぞ。

男は、隙間に無理やり体をねじ込んで、女の体に手を伸ばす。

― 手を掴め。ええか。ちょっと痛いかも知れへんけど、我慢するねんで。

そして外に向かって、

― おおい、誰か、足、引っ張ってくれ。

梁に取り付いている以外の者が、男の足を引っ張る。

少しずつ女の体も引きずり出されてくる。

― もうちょっとや。

― 早うせな、そろそろ熱うなってきたでぇ。

ようやっと女の体が隙間から出てくる。

― やった。助かったなぁ。

女は、途中、梁や何かで服引き裂かれ、丸裸に近い状態だったが、そんな事気にもしていられない。

― 火が回ってきたでぇ。

― まだ、こっちにもいてる。

男は、女に

― 助けるの手伝って来るからな。ちょっと、その辺で待っとけや。

それから結局、三人ばかし助けて、後は涙を飲む。

「もう地獄絵でしたわ。」

熱気が顔を焼く。

― おばぁ、待っとれ。

― もうええで。

― 何言うてんねん。

― もうええよ。行ってくれてええよ。

― あほな事言うな。もうちょっとや。あきらめるなや。

― もう、よう生かせてもらいました。あんたはんまで危ないやろ。早う逃げて。

その瞬間、それまで轟々と聞こえていた炎の音が一瞬にして遠ざかる。

色々な障害物にさえぎられているはずの老婆と男の間に、物体を超えた透明なパイプが出来上がる。

老婆の思考が男の中に直接飛び込んでくる。

― ありがたい、ありがたい。

老婆の無意識の声だと思った。

男の中に、一瞬、現実とは違う世界が広がる。

それは、奥の深い、恐れも苦痛も無い、安らかな世界だった。

現実から、そちらの方向にグラデーションのように世界が広がっていた。

と、煙が建物の隙間から突風のように押し寄せる。

むせながら体を隙間から離す。

― ありがとうな。

それは、既に老婆の声であったのか、炎の音であったのか分からない。

男の顔は涙でぐしょぐしょになった。

病院の玄関先で、暫く男三人、声も無い。

「骨も残ってませんでしたわ。」

男が、ポツリと言う。

男が女の元に戻った時には、女は意識を失っていた。

それを背負って病院を探す。

病院は、どこも混乱していて、明確に怪我をしていない限り診てもらえない。

血を流した人、泣き叫んで痛みを訴える人が続々と運び込まれ、目の前を通り過ぎて行く。

最後に辿り着いたのが今の病院で、男自身が疲れ果て、それ以上歩く事も出来なくなったので、二晩廊下で寝かせて順番を待った。

ようやく診てもらった医者の開口一番、

― 何故もっと早く診せなかったの?

どうやらショック状態が長すぎて、打つ手が無い状態らしかった。

それから、昏睡状態が続き、ようやく目を見開いて、

― 悠太に会いたい。あんた、悠太に会いたい。

と、呟く。

― 会わしたるで。会わしたるから、頑張れ。

― 悠美。

と、女が言う。

― 悠美やな。お前の名前は悠美やな。

それから電話番号を言い、そこに電話してくれという。

― 分かった。

しかし、そのまま女が手を離さないので、看護婦に頼んで連絡してもらった。

「それから暫くしてですわ。苦しがって、慌てて看護婦呼んだんやけど、あきまへんでした。」

「さよか。」

「やっぱり、悠美やってんな。」

それから彰やんに電話する。

電話の向こうで、彰やんが絶句する。

「切るで、彰やん。ええな、切るで。」

「分かった。早う悠美の骨、持って帰って来たってくれな。こっちで、葬式も墓も準備しとくさかい。」

 

それから、火葬場で長い長い順番を待つ。

被害者同士連帯感が芽生え、近くで亭主の火葬の順番を待っていた女が食べ物を分けてくれたりする。

「あんたら、お腹空いたやろ。これ、食べぇな。」

「おおきに。助かります。」

「何処に住んではったん?」

「大阪です。知り合いの女が神戸に住んでて被害に合うたいうて聞いたんで、慌てて来ましてん。」

「ほんで、あかんかったん?」

「へぇ、わてらが着く前に息引取りよったんですわ。」

「ほら、可哀想に。気の毒やなぁ。」

女は、他人のためにさめざめと涙を流してくれる。

「人間て、優しいねんなぁ。」

シゲやんが感激して、別の意味で涙を流す。

女の亭主の火葬の番が回ってきて、一緒に手を合わせる。

「あんたら、ありがとうな。」

「おばさん、気い落とさんとな。」

「あんたらもな。」

女は、白い箱を受け取って帰っていた。

やがて順番が回ってきて、最後に悠美の顔を見る。

そこに苦しさの欠片も残っていなかったのが、せめてもの救いか。

「悠美、おかんによろしゅうな。」

「また、後で会えるわな。寂しがらんとな。」

悠美の棺桶が火葬場の中に吸い込まれ、バーナーが点火される。

やがて出てきたのは、かつて悠美を構成していた残り滓であった。

「えらい人生やったなぁ。」

「もっと楽しみたかったやろ。」

シゲやんが、ブツブツいいながら涙をボロボロ流し、骨をはさむ箸がまともに持てないでいる。

「シゲやん、大丈夫か?」

何とか目ぼしい骨を拾い上げ、壷に蓋をする。

「お経は、大阪に持って帰ってからあげてもらいますわ。」

「ほな、わては香川に帰ります。」

「一緒に大阪に来まへんか。」

「いや、女房、子供がいますもんで。」

「そう言うてやったなぁ。」

「おかげで、ええ目見させてもらいました。ありがとうさんでした。」

男は、悠美の骨壷に頭を下げると、町に向かって坂を下りていった。

 

それから、シゲやんと二人で、交互に悠美の骨壷を持ちながら、元来た道をとぼとぼと引き返す。

電車に乗り、大阪に辿りつくと、大阪は別世界だった。

人々は、笑いながら、あるいは忙しそうにきれいに片付いた街路を歩いている。

日がさんさんと照りつけている事に気がつく。

神戸では、この日光に気がつく余裕も無かった。

街が壊れる時に舞い上がった大量の埃が、日光を遮っていたようにも思える。

「わいらは、何処に行ってたんやろ。」

シゲやんが言う。

「神戸や。神戸やで。ちゃんと、あの神戸の姿、覚えとかなあかんな。」

「そうやな、別世界でもなければ、外国でもない。すぐそこの神戸の姿やってんな。」

白木を箱を交互に持って歩いている埃っぽい男達の姿は奇異に映ったのだろう、何人もの視線が振り返る。

途中のカフェテラスのテーブルに腰を降ろし、ビールを注文する。

「そやけど、やっぱり別世界やで。」

ビールを飲みながらシゲやんが呟く。

にぎやかな音楽が鳴っている。

「あれ、この曲なぁ。」

聞き覚えのある曲だった。

「何や。」

「オヤジの葬式の時にかけたった。」

「オヤジの葬式?」

「そうや。会社倒産させて首括りよった。前から、事あるごとに、わいが死んだらこの曲かけてくれて言われとってん。思い出した。」

「何ちゅう曲や。」

「ルイ・アームストロングいう黒人のおっさんのなぁ、サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート言う曲や。」

「にぎやかな曲やな。」

「昔は日の当らん所ばかりをうつむいて歩いとったけど、今は、日の当る所を軽やかに歩いとるっちゅう曲やな。そうしたら、人生も明るうなるて内容や。」

トランペットの音が高らかに鳴る。

人々の歓声が聞こえる。

シゲやんが、悠美の白木の箱を少しずらす。

「どないしてん。」

「悠美、日の当る方に向けたろ思うてな。」

陽射しの中を音楽にのって悠美の魂が軽やかにスキップする。