第二章   シゲ

 

 

「今日は来とらんなぁ。」

教えられたとおり、職業安定所の前で、適当に人をつかまえて聞いてみた。

「いっつもやったら、その辺で寝とるんやけどなぁ。」

指差された先には、一様にやせ細った男達が、ありったけの持ち物を詰め込んだリュックサックを枕にして寝転んでいる。

ここは、そう言う場所だ。

確実に仕事が手に入るわけでもない。

が、他にする事もないので、その日の仕事にあぶれた男達が、早朝から、仕事にあぶれたままの格好ですごしている。

百人はくだらない。

する事も無いので、こちらの会話にほとんどの目が集中する。

失望と諦観と生への執着の入り混じった、どんよりとした大量の目がこちらを見ている。

と、ライトバンが道路脇に停車する。中から、どうみても危なげな男が二人現れる。

寝転んでいる男達の間を歩き、まだ体の動きそうな男に声をかけていく。

声をかけられた男は、リュックを持つと、ライトバンのところによたよたと歩いていく。

羨望の眼差しがそこに集まる。

「にぃちゃん、わいにも声かけてぇな。」

「あかん、おっさん、歳行き過ぎとる。途中で倒れられたら、また、探しに来(こ)なならん。」

「そない言わんと。」

「うるさい。」

一括された老人は、黙って狸寝入りを決め込んだ。

ここは、そういう場所だ。

「玉屋っちゅうドヤにいてると思うでぇ。」

「玉屋か。」

「ほうや、玉屋や。」

職業安定所の裏手に入ると、昨日、仕事にありつけたか、比較的割のいい仕事ができているかの、どちらかの男達が、うろうろと歩いている。

概ね、薄汚れて、みすぼらしい。

高架下の立ち飲み屋には、日も高いうちから何人かがたむろしているが、それが、この町の富裕層だ。

ここに流れてくるのに、資格はいらない。

昔は、脛に傷持つ者が多いと言われ、僅か一ブロック向こうに住んでいてさえ、この町には近づかなかった。

実際は、犯罪者の温床などでは無く、どこかで道踏み間違えたか、借金がかさんで夜逃げしたか、そういう気楽な生活しか送る気が無いかの、いずれかの理由で、流れて来た者ばかりだ。女なら体を売るが、売るものの無い男達は、ここに静かに身を潜める。

だから、凶悪な犯罪が起こるはずも無く、行き倒れた凍死体はたまには見るが、それ以外では犯罪の匂いは他人の荷物に手を出す程度。今時、公立中学校でも日常茶飯の事件が関の山だ。

ただ、人間、餓えれば目つきが荒む。目つきの荒んだ者の多いこの町に、流れてくるもの以外、自らすすんで足を踏み入れるのは、昔からの住人と慈善団体のボランティアか宗教者ぐらいだ。

若者達は、近づきもしない。

そこから目と鼻の先の繁華街で、ギターかき鳴らし、腕を組み、パステルカラーのタンクトップにピアス付きの臍を出して歩き、スタバでフラペチーノのストローをくわえ、たこ焼屋の店先にたむろし、夜もふけるとネオンの輝くラブホにしけこむ。

一方で、戦場帰りのようなくすみ薄汚れたグレーや茶系統の古着の亡者達。

見事に切り分けられた陰と陽。政治すらも入り込めない。

その落差の激しさが、この街の特徴の一つと言える。

教えられた通り、玉屋のフロントらしき木枠で囲んだ小さな小窓のベルを押した。

老婆が向こうからいざり出てきて、

「泊まりか?」

「いや、人を探しとんねん。」

「何や、誰や。誰探してんねん?」

「シゲっちゅうおっさん、いてへんか?」

「シゲやんなぁ、この廊下の突き当たりの右やったと思うで。しんどい言うて寝てるわ。今日の家賃、早う払えと言うといて。」

暗い、じめじめした上に妙に小便臭い廊下を突き当たり、右手のドアをガタピシと開けると、さらに廊下が続いていると見えたのは、そこが、両サイドに二段ベッドがおかれ、明かりは、その奥の小さな天窓から微かに入り込んでいるだけで、やたら薄暗い部屋だったからだ。

左側ベッドの下段あたりからのぞいているのは、どうや人の腕らしい。

「シゲっちゅうのは、あんたか?」

手をベッドの外に突き出して寝ていた男が薄目を開け、こちらを見る。

左目が白く濁っている。

男の顔を覗き込んで、もう一度たずねる。

「あんたが、シゲさんか?」

「そうや。」

口を開くのも辛そうに男が答える

胃に穴でもあいていそうな口臭だ。

「聞きたい事があんねん。」

「今日は、堪忍してくれ。しんどいねん、ほんま。」

そう言うと、再び目を閉じた。

木賃宿、通称ドヤでは、油断すれば靴さえも盗られるという。

そのため、靴を枕代わりにし、持ち物は胸にしっかりと抱いて眠るのだと聞いたことがある。

シゲという男は、その作法通りに眠っていた。

このみすぼらしい男が、悠美の実の父親か?

酒にふやけきった頭で、あらぬ事を口走っただけに過ぎないのじゃなかろうか。

「悠美て、知っとるか?」

「しんどい言うてるやろ。」

目をつぶったまま、力ない声で答える。

暫く待ったが、それ以上の言葉が出て来ない。

「わかった。明日、また来るわ。」

男は、小さくうなずいて、動かなくなる。

たまに首の筋がピクピクと痙攣しなければ、死んでいると思われても不思議無い。

が、部屋を出ようとする私に、

「おい、金、払っといてくれや。」

やはり力ない声で言う。

「金?」

「部屋賃や。必ず返す。」

「何で、わいが払わなあかんねん。」

「頼むわ。」

それを無視して部屋を出る。

フロントの前を通り過ぎ、日がまだ高い道路に出たが、もう一度引き返し、窓口から老婆を呼ぶ。

「なんや。」

老婆が、煎餅でも食べていたのか、口をもぐもぐさせながらいざり出てくる。

「あの部屋、家賃何ぼや?」

「泊まんのか?」

「わいちゃう。あのおっさんの分や。何ぼや?」

「千二百円。」

「ぼったくりやな。」

「あほいいな。ちゃんと、掃除もしとる。」

「とりあえず、二日分や。」

老婆は、目やにをこすりつつ丁寧に勘定し、

「おおきに。」

と、皺をさらに深くして笑う。