第三章  悠美

 

 

三年ばかし悠美と暮らした。

悠美は、明るいところと、暗いところの両方をあわせ持ったおかしな性格の女だった。

悠美と出会ったのは一緒に暮らし始める半年ばかり前だったか。

その頃は、友人の小さい出版会社を通して、生活に困らないだけの金が入ってきていて、その金で毎晩飲み歩いていた。

悠美とは、ミナミの小さいスナックで出会った。

道頓堀から心斎橋に向けて、その昔、遊郭が立ち並んでいた辺りには、今、スナックの看板灯りが夜空を照らす。

スナックがびっしりと詰め込まれた雑居ビルと、タバコ屋、ケーキ屋、花屋、たこ焼屋、コンビニが、夜な夜な徘徊する者を魅了する。

夜だけ光り輝く街。朝になると、化粧の剥げた年増女の顔と匂いを持つ街だ。

悠美は、そんな街の片隅の、雑居ビルの奥まった所にある小さなスナックで働いていた。

まだ二十歳そこそこ過ぎたばかりだと言っていたが、その割には老けていた。五つも六つもサバを読んでいると思っていたが、後で、免許書などで確認すると、最初に本人が言っていた事に間違いなかった。

出会いとは、不思議なものだ。

何故、その店を見つけ、何故、その店に入っていったのか。

何故、数人いた女の子のうちの悠美に声をかけたのか。

そもそも、スナックに入っても、人とは、あまり喋らない性質だ。

人がカラオケでがなりたてるのを横目で見ながら、ちびちびと水割りを飲んでいる。

それが、タバコをくわえ、悠美がそれに火をつけてくれたのを切欠に、二言三言話をした。

何の話だったかもう忘れてしまった。

「ちょっと待っといてな。」

二言三言話した後に、悠美はそう言って、別の客に話に行った。

おそらく、向こうの客の方が面白そうだと思ったのだろう。

それから一時間ばかしほったらかしにされ、

「あら、まだおったん?」

「ちょっと、悠美ちゃん、まだおったんは無いやろ。お客さんに失礼やないの。」

そう言って、ママが笑いながら、こちらに頭を下げる。

「ごめんな。そんな変な意味で言うたんちゃうよ。」

「ええよ、別に。」

「すねたらあかんで。」

「すねてへんよ、別に。」

悠美との会話はそれだけだった。

次の日も足を運んだのは、その店が、愛想付き合いせず、ほったらかしにしてくれる店だったからだろう。

時間も早く、客は一人もいなかったが、ママと女の子で話し込んでおり、こちらには、たまに水割りを作りに来てくれる程度。

暫くして悠美が出勤してきた。

入りっぱなで椅子に足をぶつけ、大きな音がした。

「どないしたん悠美ちゃん。」

「どないもせぇへんよ。」

どないもせぇへん割には、その後、随分と客と酒を飲み、仕事を忘れて大はしゃぎを始める。

「あかん、今日は、あのコ荒れとるわ。」

こちらに避難してきた女の子が言う。

「どないしたんや。」

「家庭裁判所の日やとか言うとったしなぁ。」

「家庭裁判所?」

「そうや。あのコ、あの歳で子供いてんねんで。子供の養育で、元ダンナともめとるねんて。こんな事、うちが言うたやなんて内緒やで。」

はしゃぎ過ぎる悠美に辟易して客が早々と退散し、そのうち、店の客は自分ひとりであることに気がついた。

「なぁ、あんまり荒れんときいや。」

酩酊している悠美にママが声をかける。

「今日は、もう引き上げたらどない?」

「嫌や、うち、一人になりとうないねん。」

呂律が既に回っていない。

「ちょっと休み。」

そう言われてカウンターに腰掛けた途端にモドし始めた。

「ちょっと、ちょっと。まだ、お客さん、いてはんねんで。」

それから、

「すいません。」

と、こちらに頭を下げるのを、

「わいは、ええよ。気にしてへんよ。それよか大丈夫なんか、そのコ。」

「なんや、荒れてるわ。うまいこと行けへんかったんやろなぁ。」

「なんや、うまい事て。」

「離婚した亭主とな、子供、どっちが引き取って育てるかでもめてんのやて。」

「そうか。」

「子供、亭主に取られてしもたらしいねん。」

「そら、しゃあないわ。悠美、こんな生活しとったら、子供なんか育てられるわけ無いもんなぁ。」

別の女の子が言うのを聞きつけて、

「何やて。うちが、あの子を育てんねん。何で、あんな奴に子供渡さなあかんねん。」

そう言って、掴みかかる。

「ちょっと、待ちいな。」

ママが止めるのを振り解こうとして、そのまま床に倒れ込むと、

「何でやねん。」

と一言呟いて、前後不覚になってしまった。

「ああ、あかんわ。もうしゃないな、今日は閉店やなぁ。」

「まだ、これからお客さん来はるのに。」

「そやかて、このコ、ほったらかされへんやろ。連れて帰ったらな。」

そうママが言う。

「うち、嫌やで。このコ、酒癖悪いねん。」

「うちも嫌やけど、しゃないなぁ、ほんま。」

「このコ、どこやねん。」

見かねて口を出す。

「高津はんの近くやなぁ。」

「わいもそっち方向や。家に放り込んできたろか。」

「いややわぁ。お客さんにそんな事頼まれへんで。」

「わい、かめへんで。別に、酔いつぶれた女に何かする趣味持っとらへんし。」

「ほんま?頼めます?その代わり、今日の飲み代とタクシー代、サービスするわ。」

ママがタクシーを呼び、酔いつぶれた悠美を乗せて、住所を書いた紙を運転手に渡した。

それから、悠美は辿り着くまでに何度かもどし、ズボンを胃液で汚された。

アパートの前でタクシーを帰し、とりあえず部屋に連れて入る。

「ええか、ハンドバックから、鍵出すでぇ。財布には手ぇつけへんからな。」

「すいません。お願いします。」

と、フラフラの頭で、かろうじて礼を言う。

二間とキッチンだけの小さなアパートだった。

ベッドに寝かしつけ、

「ほな、帰るで。明日も、ちゃんと出勤すんねんで。」

そう言って、部屋を出ようとして、片隅のベビーベッドに気がついた。

ベッドの上に洗濯物が山積みされているのは、使われなくなって、やや時間がたっているからだろう。

と、部屋に明かりがつけられた。

悠美が、後ろに立っていた。

「赤ちゃんのベッド。悠太言うねんよ。うちの漢字をとったん。」

「さよか。」

「かわいいねんよ。」

「大事にせななぁ。」

「なぁ、もう帰るん?」

「おう。」

「ビールあんねん。飲まへん?」

「そんな酔うとって、もう寝ぇや。」

「あかん、寝られへん。子供の顔がちらついて、寝られへんねん。」

「さよか。」

「なぁ。一杯だけ付き合うて。一杯だけでええねん。」

「分かった。」

「ありがとう。」

そう言うと、冷蔵庫からビールを五つばかし抱え出し、テーブルの上に置いた。

「一杯だけ言うたんとちゃうんか?」

「寝るまでの間のな。」

そう言うと、コップにビールをついで差し出す。

それから、カチンとコップを合わせて、一息で半分ばかし飲み干した。

「ああ、おいしい。」

「あれだけ酔うてて、まだ、おいしいんか。」

「入る所がちゃうさかいな。」

「別腹っちゅうやつか。」

「そうや。」

フフッと笑うと、八重歯が出、笑窪も少し見えて、幼い可愛い顔になる。

「なぁ、あんた、家族いてる?」

「田舎に、母親な。老人ホームに入ってもろうとる。」

「奥さんや子供は?」

「生活能力無いからな、来手がないねん。」

「そらあかんわ。早よええ人見つけな。」

「ほうやな。」

「子供て、可愛いよ。」

「さよか。」

「うちの顔見て、笑うんよ。」

「さよか。」

「今日もな、うちに手、差し出すんよ。」

そう言うと、もう、目が潤み始める。

「あんな女に育ててもらうより、うちと暮らしたほうがええに決まっとる。」

「あんな女て?」

「うちの元亭主の、今の女や。イケズでインケツな女やで。悠太、いじめらてぇへんやろなぁ。」

 

― 虐待の跡が見受けられますねん。

― 虐待?

― はぁ、まぁ、つねったり、たたいたり。一番ひどいのはタバコの火を押し付けた跡ですな。背中や腕の、人の目に着きにくい場所に、何箇所も。

― それ、ほんまですか?

― 医者の診断書もあります。そやから、子供をお渡しするわけにはいきませんのや。

― ほんでも、子供、えらい可愛いんやって、涙ながらに訴えてましたで。

― 子供が可愛いんと、虐待すんのとは、また、違いまっさかいなぁ。子供が可愛いても、虐待する人はおりまっせ。

― ほんでも、こっちは、本当の母親ですから。

― 優しいしてもらえるんやったら、子供は、実の母親より、育ての母親の方がええに決まってまっしゃろ。なんせ、先方さんは普通にOLやってはった人ですから。

― そらまぁ、そうやろうけど。けど、また、なんで虐待なんか。

― 子供の頃に、親から虐待受けはったんちゃいますか。そう言う人は、自分に子供出来たら、可愛いのとは裏腹に虐待しますさかい。

 

「お前、子供、虐待してたんか?」

「何で、うちがそんな事せなあかんの。」

「ほやかて、調停委員の人が。」

「嘘や。それ、絶対に嘘や。」

何度か店で会ううちに、一緒に住むようになっていた。

悠美がこちらのアパートに転がり込んできたのだ。

子供との思い出の残るアパートに一人いるのがつらかったのだろう。

「あんた、優しいねんもん。」

それが、一緒に住むようになった悠美なりの理由らしかった。

こちらも生活能力無かったが、悠美は、それに輪をかけていた。

掃除、洗濯、料理すらもできない。

「もうええわ。わいがやったるさかい。悠美は、パチンコ屋にでも行っといてくれ。」

部屋の掃除を始めても、足手まといにしかならなかった。

「ごめんな。」

そう言うと、そそくさとパチンコ屋に行き、三十分もすると、一万円ばかしすって帰ってきた。

「生活も駄目、ギャンブルも駄目か。」

「そない落ち込まんでもええやん。何とかなるで。」

逆にこちらが慰められる始末だった。

悠美は、夕方になると、いそいそと化粧を始め、店に出て行った。

それを見送って、友人の会社から依頼された原稿を書き始める。

その頃は、結構仕事が入ってきていた。

資料を読んで、あたかもそこに旅行したかのような文書を書いたり、誰かの書いた下手糞な文書を手直ししたり、内容はざっくばらんだったが、生活には困らないだけの収入があった。

深夜一時を廻り、悠美が酩酊して帰ってくるまで、原稿書きに没頭した。

 

― あの女と住んではるんですか?

男が尋ねる。鼻筋の通った、どこか冷たい感じのする、しかし、なかなかの色男だった。

男は、悠美の元亭主で、悠美が子供の養育権を巡って争っている相手だ。

― ええ。

― そうですか。まぁ、人様の事に口出すんは、趣味やないんで、聞き流してもろうたらええねんけど。

そう前置いて、男は、悠美とのかつての生活を語り始める。

その多くは、概ね予想された内容だった。

つまり、料理もできないとか、掃除、洗濯とかも駄目。

― それだけや無いんですよ。あいつ、悪い癖持ってまして。

悠美には、気が狂ったように男漁りをする時期があるのだという。

― これは、誰にも止められまへん。病気ですわ。あいつ自身も、それを気に病んでたんですが。私も、こう見えてもあいつの事、惚れとりましたんで、何とかしてやろうと思てましたんですが、そのうち、何ともしようがないのがわかりまして、ひたすら耐えてましてんや。いや、その、相手と肉体関係を持つとかやないんでっせ。そやから、耐えれましてん。いろんな男にちやほやされたくて仕方なくなるらしいんですわ。そうでないと、すごい不機嫌になりまんねん。そんで、主にホストクラブ通いですわ。ホストにえらい金使うんです。一年に一ぺんか、二へん、まぁ、一週間ばかしで治まるんですけどな、その間に二十万ほども使いよりまっせ。

 

一緒に住み始めて半年もたった頃、悠美の機嫌がだんだん悪くなっていった。

やたら落ち着かなくなり、日中もそわそわし、夜中も、仕事をしていると後ろで起き出し、ことさら音を立てて何かをし始める。

体を抱こうとすると、それまでのように反応してくれず、鬱陶しそうにされるので、こちらもそれ以上に事を起こせず、不発に終わる。

お互いに欲求不満が溜まっていった。

ある日。

「うち、もうアカン。限界や。」

そう言うと、さっさと荷物をまとめ始める。

「何や、どうしたんや。」

「うち、もう、あきまへん。これ以上、あんたみたいな人とは、よう住みません。一日、何処も行かんと、家の中にいてるだけ。あんたみたいに退屈な人、ほんま、うち、知らんわ。もう出て行かしてもらいます。」

「出て行くて、お前。」

「実家に帰らせてもらいます。」

「実家て、もう無いやろ。」

「ほっといてんか。ほな、さいなら。」

「勝手にさらせ。」

そのようにしてプイとでたまま、行方が知れなくなる。

三日も過ぎると、さすがに心配になる。

何処かで事件にでも巻き込まれてやしなかと、やきもきし始める。

ミナミのスナックに電話したが、やはり出勤していなかった。

「ここんとこ、無断欠勤やで。もう首にするでって言うといてよ。」

ママが出て、半ば怒り声で答える。

「えらいすんまへん。あいつが現れたら、せめてこっちに連絡入れるように言うといてもらえますか?」

帰って来たのは、出て行ってから五日後だった。

「ただいま。」

と、いきなり帰ってきて、

「豚マン食べよな。いっぱい買うてきたで。」

「何処行ってたんや。」

「豚マンいらん?」

「何処行ってたんやて聞いてんのや。」

「まぁ、落ち着きいや。豚マン食べながら話したげるさかいに。」

「人、心配させといて、なんやねん、それ。」

「何ぼ食べる?二つ?一人五つ食べれるで。」

「三つくれ。」

「ちょっと待っときな。」

新聞屋に持ってこさせた安物の電子レンジで豚マンを温めにかかる。

やがて、皿にテンコ盛りで湯気を上げた豚マンを差し出す。

「これ、醤油な。」

「ほんで?」

「ちょっと待ちいな。先に豚マン食べるねん。男やったら、ごちゃごちゃ言いないな。」

一人で豚マンを五つ平らげると、

「ああ、お腹いっぱいや。なぁ。」

「なんや?」

「しよか?」

「しよ、て。」

「なぁ、しよ。」

「その前に、何処行ってたか聞かせぇや。」

「言うたげるさかいに、先、しよ。」

そう言いながら、いざり寄り、こちらの股間に手を伸ばす。

こちらは、実は、既に臨戦態勢で、そのまま悠美を押し倒した。

「うちなぁ、男買いに行っててん。」

「なんやて?」

「男や。」

「男んとこに泊まってたんか?」

「あほ、泊まんのはレディースサウナや。」

「男は、どないしてん。」

「ホストクラブでな、適当に見繕って、適当に遊んで、ほなさいならや。後腐れ無いで。」

「そらそうやろ。ホストクラブやったら、金の切れ目が縁の切れ目や。」

「その代わり、金さえあったら、ごっつうチヤホヤしてくれんねんで。まるで、女王様や。一緒にカラオケ歌うたりな。」

「もしかして、家出てた間、行きっぱなしか。」

「肉体関係持ってません。」

「そんな話ちゃう。五日間、通いづめか?」

「そうや。あかんのか。」

「なんぼ使うたんや。」

「知らん。忘れた。」

「金、何処から持ち出してん。」

「店に借りた。」

「何ぼ?」

「二十万ほど。」

「で、何ぼ残ってるねん。」

「五千二百円。」

「あほか。」

「何が、あほかや。うちが働いて返したらええねんやろ?あんたに迷惑かけてまへん。」

「十分、迷惑かけとるわ。店に連絡したんか?ママ、心配しとったで。」

「心配しとる振りだけやな。毎度の事や。よう知っとるくせに。」

「なんやねん、それ。」

「今度に始まった事っちゃないちゅうこっちゃ。」

悠美はフンという顔で起き出し、真裸でタバコに火をつける。

話には聞いとったがと、言いかけて止めた。

余計な事は言わない事だ。

 

「シゲさん、いてるか?」

次の日も玉屋を訪ねる。

シゲという男は、昨日と同じ姿勢で二段ベッドの下段の、すえた布団の上に横たわっていた。

「ああ、おるで。」

「今日は、気分どないやねん?」

「うん、まぁまぁやな。」

「家賃、払うといたったで。昨日と今日の分。」

「ほうか。今日の分も頼もうと思とったんや。丁度、手間省けたな。」

「人に親切してもろとって、それかい。」

「ちゃんと返すがな。」

その言い方が、悠美に似ている。

やはり、親子なのかも知れない。

「金は返さんでええ。それよか、悠美の事、聞かせてくれや。」

「悠美?悠美て誰や。」

「おっさん、知らんのか?」

「知らん。」

「おっさんが、悠美のおとんやて、聞いたで。」

「わいには、子供なんかおらんで。」

「なんやそれ。悠美のおとんやと思て親切にしたったのに。」

「そら残念やな。」

「しょうもないな。」

「帰るんやったら、明日の家賃も払うといてんか。」

「あほか。」

そう言って立ち上がりかけた所に、

「ちょっと待ちいな。悠美てか?」

「何か思い出したんかいな。」

「おお、思い出したで。悠美なぁ。思い出した。」

「ホンマかいな。怪しいもんやな。」

「ホンマや。疑うんやったら、勝手に疑えや。その代り、何にも話たれへん。」

「わかった。聞くがな。疑うてへん。」

「可愛いコやったで。」

「おっさんの子か?」

「あほ言いな。あんな可愛らしい子がわしの子であるわけないがな。」

「ほんでも、おっさんの子やっちゅう噂を聞いたで。そやから訪ねて来たんや。」

「一時期な、確かに一緒に住んどったが。」

「おっさん、あのコと同棲してたんか?」

「あのコのおかんと、暫くな。」

「おかん?」

「おかんな、わては女一人で生きてくねんちゅうて、女手一つであのコを育てよった。あのコのおとんは誰やっちゅうて、何人かで話した事があるなぁ。みんな、可能性があってんや。男に手の早い女やったからな。」

「で、誰のコやってん?」

「結局、わからずじまいや。あのコのおかんが言うてくれなんだ。あのコは、神さんが授けてくれてんやっちゅてな。阿倍野神社の境内で、いきなり雷に打たれて身ごもったっちゅうてな。

なんや、お前、あのコの生い立ち聞きに来たんか?」

「ちゃうちゃう。今、何処にいてるか、知りたいねん。」

「あのコの居場所なぁ。知らんなぁ。」

「今までに住んだ事のある場所とか。」

「そらぁ、すぐそこや。天下茶屋やな。おかんの家があった。」

「もういてはれへんがな。」

「そやな。ええ女亡くした。気が強うてな、本当は弱い女やねんで。そやけど、一生懸命我を張って生きとったなぁ。」

「さよか。」

シゲは、そのまま目をつぶると、もう何も言わなくなった。

暫く、向かいのベッドに腰掛けて、目を開けるのを待っていたが、その様子も無いので、窓口の婆ぁさんに後二日分の家賃を払って、玉屋を後にした。

 

「見つかったんかいな。」

昨日の女が声をかけてきた。

最近できた高層マンションから駅に向かうアーケード街の真ん中辺り。

女は、オープンカフェで、ストローを噛み砕きながら暇を持て余していた。

「なんや、今日は仕事ちゃうのか。」

「競馬も競輪も無い日やしな、おまけにパチンコ屋も休んどる。こんな日に声かけてくる客なんかいてへん。久々の休みや。」

「さよか。」

「ほんで、会えたんか。」

「シゲっちゅうおっさんか。会えたで。」

「ほな、あのコの居場所、わかったんか。」

「いや、シゲっちゅうおっさんは、あのコのおとんちゃうて。」

「シゲが、か?」

「おう。他にも、可能性のあるのんは何人かおるて。」

「そうやな、トミちゃん、男の出入りが激しかったからなぁ。」

「トミちゃん?」

「あのコのおかんの名前や。」

「トミちゃん言うのんか。」

「なんや、知らんかったんか。」

あきれたという顔で噛み砕いたストローを振り回す。

「他のおっさんは、何処に行ったら会えんのやろ。」

「あかんな。もう、皆死んでもたり、どっか流れて行ったり。ずっといてるんはシゲだけやな。」

「行き詰ってもたな。」

「しかし、あんたもしつこいなぁ。何であのコを追い掛け回してんの?」

何故?

数ヶ月前、行き先も告げずにいなくなった女の事を諦めもせずに探しているのは、何故?

「若い子ぉやったら、なんぼでもおるやんか。」

そう言う問題ではなさそうだ。

「そらまぁ、あのコ、そこそこ美人やけどなぁ。若い頃、結構無茶しよったでなぁ。体、ボロボロやろ。」

「そういう問題ちゃうねん。」

「何か弱み握られとるんか?」

「ちゃう。」

「握られたんは、チンポだけか。」

「おばはん、昼真っから。」

「なぁ、たまには遊んで行きいな。ええコ、いてるで。」

「わかった。今度な。」

 

悠美は、たまに、夜中に目覚めると、朝までさめざめと泣いた。

「もう寝ぇや。」

「あかん。子供の顔がちらついて寝られへん。」

結局、こちらも付き合って朝まで起きていてやる。

「あの女がな、うちのお腹引き裂いて、赤ちゃん持って行く夢見てん。」

夜中目覚める時の夢は、たいてい、そんな夢だった。

沢山の男が、悠美の赤ん坊と腹を蹴り付けるというのもあった。

幼い頃受けたかもしれない虐待というのが、そういう感じなのだろうか。

悠美は、必死で赤ん坊を守ろうとするのだが、体が動かず、守りきれないらしい。

「ほんでな。」

「ほんで?」

「赤ん坊がな。」

そこからは、言葉にならない。激しい嗚咽が悠美の食い縛った歯の間から漏れてくる。

頭を撫ぜてやりながら、しかし、股間が突っ張るのが情けない。

悠美がそれに応じて、泣きながら体を合わせる事もあった。

悠美の手首には、リストカットの跡がある。

二筋交差して、片一方は長く、片一方はもう一方の半分ほどの長さで、そこの皮が縮れて引きつっている。前戯で、そこに舌を這わせると、悠美は激しく興奮した。

さすがに深い悲しみの中では、そこまでの余裕も無かったが、少しは気分を落ち着かせることができた。

嗚咽が弱まり、ヒクヒクと喉を痙攣させながらも目をつぶり、手首に這う舌の冷たさを感じている風だった。悠美の心の傷に直接触れ、その傷だらけの心を優しく愛撫し、揉み解してやれた気分になった。

朝まで泣き続けた時は、たいてい昼過ぎまで二人とも眠りこける。

やがて目覚めると、そのまま、夕方まで激しく交わる事もあった。

悠美は、下で何度かいった後、さらに上になる。

上にまたがって、自分の股間を愛撫させながら、こちらの股間に舌を這わす。

舌這わせながら向きを変え、そのまま、臍、乳首へと舌を這わせ、乳首を激しく責めた後、手でペニスを自分の場所へと誘う。

亀頭がピッチリとした入り口を感じ、その先、しっとりと湿った襞の絡まりを知る。

今にして思えば、本当は、悠美の心は、そのさらに先、肉襞を分け入った先のどこかに、密かに息づいていたのかも知れない。

その悠美の心に、ついぞ触れられず、いつも快感を前にして屈してしまった。

悠美の行方を捜し求めているのは、悠美そのものであるよりは、彼女の秘所の奥に潜むであろう心そのものに、もう一度触れたいからではないのだろうか。

それは、激しく悲しく滴り落ちる性を含んだ、蜜蝋のような物なのだろう。

それが、こちらを捉えて止まないのだ。

しかし、悠美に、そのように感じ、そのように触れていく男は多かった筈だ。

その男なりの色々な触れ方があったとしてもだ。

優しく愛撫したいという欲求もその一つ。蹴りつけ、踏みつけたいと言う欲求もあったかも知れない。真反対に見えるそれらの行為は、実は同じ感情だ。

つまり、悠美を、悠美そのものの持つ、傷つきやすさ、か弱さと、対極にある淫乱さと、時折、伏流水のように現れる激しさとを、全て包括して抱きしめたいという感情の発露と性欲が合体して表出されるという意味においては、同質と考えてよいと思う。

抱き合った後、夕方まで布団の上で物憂い時間を過ごし、悠美は、出勤の支度を始める。

悠美が出ていくのを待って、卓袱台を引き出し、原稿書きに没頭する。

そのような日常が続いた。

約三年ばかし。