第五章   おかん

 

 

町の外れ、地下鉄の駅に近く高層マンションが立ち並ぶ側には、壁こそ無いが、さすがに一般の世界とは違う印に、壁の跡を利用し、上町大地のなだらかな上り坂に沿ってレトロな感じの低いコンクリート塀が続く。

町へは、塀の切れ目切れ目の小さな階段で降りていく。

町は、やや歪な碁盤になっており、東西に比較的広い通りが四本、南北にも四本。そこに百件近い店が軒を連ねる。どの店も同じ木造二階建ての造り。中に、古風な料理屋が二つ。それがここに作られてからの代わり映えの無い町の基本だ。

一番南の外れに大通りがあり、そこに向かう階段の上から、町の全貌が見渡せる。

昼間だと、子供達の自転車も見える。

整然と二階家の立ち並ぶ町ではあるが、子持ちが住む家は無い筈だ。住み込みの住人すらいない。

とすると、近所に住む子供なのだろうか。小学校三年生くらい。数人で徒党を組んで、町中を走っている。

確かに大門も大壁も無くなり、町と他所とを隔てるものは何も無い。

が、さすがに、子供の頃は、その町に近づくことを親から厳しく止められたものだ。

今や、東の高層マンションからは、町のすべてが見渡せる。

そこに住む一般家庭の子供達も、出入りだけは自由だ。

学校でも、昔のよう足運び込む事を厳しく止めたりはしないのだろうか。

生業の具体的な中身は別として、昭和が色濃く残る町並みは、歴史的な遺物とも言える。その中で、昔ながらの営みが続いている。

ネオン街には見出せない風情だ。

そのため、町そのものを愛する者も多い。

ごくたまに、観光客らしき一団が迷い込み、他所には無い異質な町の佇まいに歓声を上げ、写真を撮ろうとする。そうすると、顔の怖い若者が近寄り、二言三言、注意する。

町の姿を持ち出すなと言っているのだ。不用意に町の姿を持ち出されると、いらぬお節介を受ける事がある。政治的に働きかけるものもいる。女を開放しろと、叫ぶ者もいる。それを避けたいのだ。

町は、そうやって生き残ってきた。

また、その秘密主義が町を淫靡に保ち、男達の興味を引き続け、経済的に成り立ってきたのだ。

相変わらず、物見遊山も含め、町をうろつく男の数は多い。

店を覗き込み、女を物色し、予算に合えば上がり込み、女を抱く。

昔は、どこか陰のある女が多かった。

自分の体を売る事への罪の意識と、それに相反した諦観とが、女の陰影のそこかしこに塗りこめられていた。

今は、アッケラカンとしている。援助交際の延長で店に身を寄せる者もいれば、手っ取り早く金を作り海外旅行でもしたくて志望する者もいる。たまに学費稼ぎという女もいる。勿論、悠美のように借金に追われ、仕方なく働きに来る者も多い。

町の近くの、女達が酒を飲みに来る居酒屋も、しっぽりと陰の中で酒を飲む女が似合う店作りのまま、今風の若い娘達が、今しがたの男の匂いを引っ下げたまま生ビールと焼き鳥に舌鼓打ち、薄荷タバコの煙を立ち昇らせるため、いわゆるアンティークな店として週刊誌に取り上げられる。

つまり、都市の辺縁に追いやられていながら、実は繁華街にある、あえて古風を醸す店の手本となっている。そこに集まる女達も、繁華街の中心だろうが、町で仕事する女達だろうが、結局のところ、金が絡むか否かだけで、男に体を開く事に大きな抵抗などありはせず、そういう意味では、ほぼ同質化してしまっていると言っても大きな外れは無い。どちらがどちらに近づいたか、という問題ではなく、もともと同質であったものが、片や元から開け広げられ、片や社会的良識と言う鎧の向こうに押し込められていただけの違いだろう。

今、同質化する躊躇いが町には、ある。

それは、同質化する事により、わざわざ町に足を運ばなくてもいい時代が来つつある事への躊躇いだ。そうなると、町が町として維持されてきた基盤的理由が拡散し、都市の辺縁に押しやられている意味が無くなるのだ。秘密主義と、それにより醸される淫靡さが薄らいでしまう。

いつか町は、都市の中心に躍り出るか、秘密主義をやめ、観光名所として商業主義に走るか、のどちらかの選択を強いられる。

淫靡な町が、淫靡で無くなる時がやってくるに違いない。

「最近は、店に出てるコも買うて食べて帰ってくれるで。」

四つ角のたこ焼屋の亭主が言う。

そこに屋台を置いて、もう二十年近い。

屋台の横のブロックにミニスカートの女が三人腰掛けてたこ焼を頬張っている。

大きく開いた胸元の谷間や、短いスカートから伸びるしなやかな太腿が、道行く男の視線を引き付ける。

「昔は、こそっと買いに来て、店に持ち帰って食べるネーチャンが多かってんけどな。最近は違うな。皆、開けっぴろげや。ほれ、そこのネーチャンみたいに、平気で道端に座って食べよる。」

「さよか。」

「それ目当てに、若い者が来よる。」

「儲かるがな。」

「そやな。子供も買いに来よるで。町ん中に子供が入るの止めんでええんかいな。」

「そんな時代とちゃうんやろ。」

「悠美ちゃんの事、聞いとったな。」

「何か知ってるか?」

「まぁな、この町を通り過ぎて言った女の子は、何百人といとる。よう買いに来てくれとったコやったら、だいたい覚えとる。」

「悠美は、よう買いに来よったんか。」

「いや、一ぺんか二へんやな。」

「なんや、ほな、ほとんど覚えてないっちゅう事っちゃがな。」

「それがな、一つだけ覚えとる事があんねん。」

男は、たこ焼をくるくると返しながら喋り始めた。

 

それは、その年の最後の台風が近づいた夕暮れだった。

序々に強くなり始めた風に、紙くずが飛ばされていく。

男は、早々と店をしまい、屋台が風に無茶苦茶にされぬようにと、ロープで結わえる準備をしていた。

と、向かいの店と店の間に女が一人身を潜めているのに気がついた。

両の店は、台風で客足も遠のき、早々に戸締りを終えていた。

最初、店に忘れ物でも取りに戻り、入れずに困っているのかと思われた。

が、そういう様子でもない。

隠れて誰かを待っている様子だった。

暫くして、向こうから女が一人、ハンケチで口元を押さえ、風に飛ばされてきた砂埃を吸わぬ様にしながら早足で近づいて来た。

 

「それが、悠美ちゃんやってん。」

「この店の常連客でもないのに、何でわかってん。」

「そら、その時の売れっコやで。ピカイチの花魁みたいなもんや。この町のもんで、知らんもんがおったら、相当もぐりやってんで。」

 

悠美は、身を潜めている女に気がつかずに通り過ぎようとした。

と、女が壁の間から姿を現し、悠美の背後から声をかける。

「えらい羽振りええなぁ。」

風の音で、かなりの大声でないと相手には届かない。

その声に悠美が立ち止まる。

振り返り、

「はい、おかげさんで。」

「よっぽど畑が良かったんやろなぁ。」

「さぁ、うちも努力させてもろたし。おかげで、借金、あっちゅう間に返せましたわ。」

「そら良かったなぁ。ほんでもなぁ、所詮、売女の子は売女っちゅう事かいな。」

吐き捨てるように女が言った。

「売女って何や。」

悠美が肩怒らせて女に近づく。

「売女やないか。売女に売女言うて、何が悪いんや。この売女。」

「あんたも売女やないか。」

「そうや。そやから言うてんねん。せっかく生んだったのに、売女になんかなってまいよって。」

「あんたが、売女になる教育を、うちがこまい時から、せっせとしよったんやろ。」

「うちは、何にも、そんな教育してへん。あんたが、勝手に身を落としよっただけや。」

「あれだけ、好き勝手に男引きずり込んでか。」

「あんたの父親の役目のできる男を捜しよっただけや。」

「どれも、ろくでもないのばっかり。」

「そらな、こんな町で拾う男にろくなのおらんわ。しゃあないわ。」

「それで、何の用事やねん。台風来るから、早う帰らなあかんねん。」

「いつまで、ここにいてる心算や。」

「どういう意味やねん。」

「いつまで、この町で体売る心算やねん。」

「そんなん、あんたに言う筋合い無い。」

「悠美、自分がやっとる事が、どういう事かわかっとんか?」

「あんたが、若い頃にしよった事と同じや。」

「そやから、早うやめな、言うとんのや。今やったら普通の生活に戻れるやろ。」

「いつでも、戻るで。自分が、そう思た時に。」

「匂いは染み付くねんで。いろんな意味でな。消そうと思ても消せんもんが残るようになるねん。それでもええのんか?」

「おかん、あんた何言いたいねん。うち、さっぱり分からんわ。」

「すぐ止め、言うてんのや。」

「あんたに、そんなん言われる筋合い無いわ。」

「あんたの為思て言うてんねんで。」

「うちの為やったらほっといてんか。うち、今、えろう幸せでっさかい。」

「あほ言いな。ちやほやされんのは今のうちだけやっちゅうのんが分からんのか。」

「うちは、あんたみたいにヘマこけへん。あんたみたいに、みすぼらしいに、この町にしがみつくような女にはなりまへん。」

「アホ。」

激しい音がして、悠美が頬を押さえる。

いつしか、降り出していた雨が激しさを増し始めていた。

「何すんねん。」

雨の音が、悠美の声を掻き消す。

「あんたが.......。」

おかんの声は、既に聞こえない。

悠美が、おかんに掴みかかる。

おかんが悠美の髪の毛を引っ張り、二人とも地面に倒れ付し、泥だらけになりながら組み合う。

男は、あわてて駆け寄り、二人を引き離す。

「もう二度とうちに近づかんといてや。」

悠美が引き起こされ、捨て台詞を残して歩き去る。

「ふん、恩知らずが。あんな女、地獄に落ちたらええねん。」

おかんが泥だらけの姿で、悠美とは反対の方向に去っていく。

 

「まぁ、互いに気の強いもん同志やったからなぁ。」

「その後、どないなったん?」

「さぁ。人の話やと、二人とも二度と町中では顔合わしとらんのちゃうかっちゅうこっちゃ。あの台風の中の親子喧嘩の話も町中の評判や。そら、今の一番の売れっ子と、そのおかんも、昔は一、二を争うとったからな、その二人の掴み合いの喧嘩、まさに泥仕合や。みんな、面白がるがな。」

「それ見とったん、おっさんだけやろ。」

「そうや。」

「なんで、町中の評判になるねん。」

「そやなぁ。」

「そやなぁちゃうがな。おっさんが喋りまくったんやろ。たこ焼売れるように。」

「バレたか。」

「そらバレるわいな。」

 

「トミちゃんも、気強かったからなぁ。」

私鉄の百貨店の地下食料品売り場から、エスカレーターで地上に上がる。

地上が近づくと、白い都市が見えてくる。

例えば、消費経済の中で人間の幸せの行き着く先がこの百貨店なら、その百貨店の中から垣間見る都市は、まるで砂漠だ。

人間の様々な感情や想いや仕草まで、怒りや、悲しみや、吐息や、嘆息や、愛も、幸せも、地団太も、せつなさも、一切合財が乾燥し、砂埃となって都市の中に舞い上がり、そして地に落ち、さらに吹き寄せられる。

この都市は、上町台地と言う、長い長い歴史の中で人間が踏み固めてきた台地の上に位置する。人間の営みの全てがこの上で脈々と続いているのだ。

女が男を抱きしめ、涙の中で愛し合い、傷つけあい、落とし入れ、別れて行く。

そんなシーンが、そこかしこに埋め込まれている。

それが、愛しい。頬ずりしたくなる程に愛しい。

「なんや、今日は、ここで客引きか。」

「ここでそんなんしたら、警察に引っ張られるがな。」

ここは、暇と金を持て余した若者や、買い物帰りの主婦でごった返す、近隣で一番の繁華街だ。

「今日は、面接や、面接。」

「何の面接?」

「仕事したいっちゅう女の子に会うねん。ここで、待ち合わせや。」

「えらい、まぁ、今時。」

女は、ひそひそ声で、

「闇金でな、借金ようけこしらえさせられた子が、売られて来よんねん。」

「えらいこっちゃな。あっちの町には行かへんのか。」

「組関係やからなぁ。あっちは、組嫌がってるねん。」

「おばはん、組と関係しとんか。」

「そら、どっかに守ってもらわな。」

女は、かつては、町の売れっ子の一人だったが、ある組の男に惚れてしまい、男恋しさと金欲しさに、組の下で客を取るようになる。

「うちも若かったからなぁ。きっちり騙されてもてん。後悔してもしゃーないわな。」

一度、町を裏切った者は、二度と戻れない。

一旦堅気になって再び舞い戻ることは出来ても、組関係に身を寄せた後、町に戻る事は、ご法度だ。それが、町が身につけてきた自分達を守る方法なのだ。

だから、そのまま、女は組の下で客を取り続ける。

「あのコ、トミちゃんの葬式の時にも顔出さなんだんとちゃうか。」

「ほんまか。実の母親やで。」

「そやかてなぁ。」

 

おかんの葬儀は、天下茶屋の公民館を借りて行われた。

近所の世話役と、町の組合員数名、店が同じで非番だった女達。女達は、ほとんど呼び込みの女。若い女は一人か二人。

坊主が、ひょこひょこと一人でやって来て、お経をあげると、帰って行った。

「悠美ちゃんは?」

「さぁ、今日は、仕事ちゃう?」

「あのコ、売れっ子やしなぁ。」

「通夜でも見んかったで。」

しばらく、悠美が顔を出すのを待っていたが、世話役が痺れを切らせて、

「ほな、そろそろ出棺しまひょか。」

その声を合図に、みんな、ぞろぞろ立ち上がる。

若い男は、飲食組合の数名。それに葬儀屋の営業マンが一人加わって、よっこらしょと持ち上げる。

近くの斎場で荼毘に付され、墓が無いので、斎場の隣の寺が骨を預かった。

 

「結局な、あのコ、トミちゃんとこに一ぺんも顔出してへんのとちゃう?」

「冷たいやっちゃなぁ。」

「そやなぁ。」

そこに、若い娘が近寄ってくる。

「こんにちは。」

ぺこりと頭を下げる。

向こうに、陰を大量に身に纏った男達の車が停まっていた。中の男達が、こちらを一瞥し、車は軋みを上げて走り去る。

娘は、別に何か薄暗い所があるわけでもない、普通の街の娘だった。

「あんたかいな、うちの下で働くいうのん。」

「はい。よろしくお願いしまーす。」

やや不安げではあるが、今後、体の隅々まで金蔓にされてしまうような、そんなきな臭い運命は少しも感じさせない。

「何ぼ借金したんや。」

つい興味をひかれて尋ねると、

「あんた、そんなん聞いて、肩代わりでもしてやれるんかいな。」

女が慌てて遮る。

「あほな。」

「七百万です。」

娘の屈託の無い答え方に女も唖然とした顔でこちらを見る。

「七百万も何に使うん?」

「バッグや時計買ったり、海外旅行したり。」

「それだけで、七百万?」

「それと、仕事するために必要やからって、サトシに四百万。」

「サトシって、彼氏か?」

「うん。」

「それって、詐欺やな。」

「そんな事ないです。すぐに迎えに来るから、それまで我慢してくれって。」

「信じてるんや。」

「ちょっと、こんな所で立ち話しててもしゃあないやん。あっち行くで。あんたも、悠美の尻ばっかり追いかけとらんと、どや、このコの最初の客になったらんか?」

女が、こちらの話を遮りにかかる。これから裏の社会に誘い込もうという矢先に、変な事を吹き込まれて邪魔されないようにだ。

「いや、ええわ。またな。」

女はこれから、若い娘に仕事をするにあたっての心得なんかを言って聞かせるのだ。

面接など名ばかり。もしかしたら、このまま客を取らされるのかも知れない。

それとも、面接場所と言われて連れて行かれた場所には、組関係の上層部の男が待っていて、一番最初の客兼教育係として、娘にあの手この手を教え込むのだろうか。

どちらにしても、そうやってまた一つ、悲しい女の話が作られ、都市の片隅に塗り込められていくのだ。