第六章 酒のある風景
町で働く娘達を、外界から隔てていた大門跡の隣に、今風のショットバーがある。
ドヤ街が目と鼻の先にしては、綺麗な造りの店で、町で働く女達が主な客層だが、シゲを誘ってよく飲みに来るようになった。
今時の、金ラメとパステルカラー、冬でもコートの下はミニスカートにノースリーブで、肌を惜しげもなく晒した娘たちが、出勤前や一仕事終えた後にカクテルを飲みに来る。そのような店で、隻眼の浮浪者と目的喪失した中年フリーターが肩並べてビールを飲む。
勿論、シゲに自分の飲み代を支払う財力は無く、すべてこちら持ちとなる。
それでも、悠美のいないアパートでじっとしているよりも気が紛れる。
シゲは、町の交通整理の仕事を回してもらって、とりあえず三週間はもっている。
「今度は、仕事続けられるで。」
と、シゲが何度も繰り返す。
シゲには、同じセンテンスを二度も三度も繰り返す癖がある。
今回は、五度目で、よほど仕事を続けられている事が嬉しいらしい。
「よかったやんか。」
「楽やねん。道端に立って手を動かすだけやからな。」
それも三、四度聞いている。
「ビール、もう一杯、ええか?」
「ええで。」
もう、自分の懐の勘定する事にすら興味が無い。
悠美が居なくなったからではなく、どうやら、悠美にかこつけ、生来の怠け癖が出てきているだけのような気がしないでもない。
向こうの席に二人連れで座った女のうちの一人が、何度もこちらを見る。ちょっと前ならそれだけで、気があるんじゃないかと手前勝手な勘違いをしたものだが、そういう事を考えるのすら億劫だ。
年は、二十七、八か。それなら、悠美と同い年くらいか。
薄茶色に染めた髪をカールさせ、黒いTシャツにジーンズ。Tシャツに大きな金ラメの文字が入っているのは、当世お定まりのようだ。
その女が席を立ち、こちらに近づいてきたが、後ろを通り過ぎトイレに入る。
暫く、シゲとぼんやりカウンターの向こうの酒壜を見ていたが、トイレから出てきた女に声かけられる。
「悠美の事、探してんのん?」
「何で知っとるねん。」
シゲが代わりに質問してくれた。
「昨日、彰やんと話してて。」
「喋りやなぁ、あいつ。」
仕事を紹介してもらった癖に、随分横柄にシゲが言う。
「悠美、いてたん?」
と、女。
「いや、いてへん。」
前に大きく突き出したTシャツの胸には、『キャンディー』とキラキラした英文字で書かれている。
胸を見られている事に気がついた女がさらにその胸を大きく突き出す。
胸の谷間が目の前に迫り、陰毛が見えそうなまでに低い位置にあるジーンズのベルトが、回転椅子の背にあたって音を立てる。
「どっかで、悪い男に捕まってるんやで、どうせ。」
「あんた、悠美の友達か?」
「前な。同じ店で働いとった。」
「さよか。悠美の行きそうな場所があったら教えてくれんか。」
「あんなん、もう、放っておいたら?」
と、女が言う。
「そういうわけには行かんで。あいつ、そんなんしたら、どんな事になるかわからんで。」
気ばかり強くて、計画性が無い。自分で自分の弱みを見たくないので、自分に対しても威勢ばかりはり、その結果、自身の体や人の記憶の方々に傷跡を残す。
「手に負えんコやからなぁ。天下茶屋に戻ってるて事ないわなぁ。戻ってたら、すぐそこやから、なんぼなんでも誰かが姿見掛けとるやろうし。」
「一辺、天下茶屋、行って見るか。」
そう言えば、悠美と知り合った頃には、もう既に悠美のおかんは亡くなっていた。悠美は天下茶屋へ近寄りたがらず、一度も悠美の育った家を見た事が無い。
貸家で、狭い、汚い平屋だと、悠美は言っていた。
「それがええで。」
シゲが、しゃしゃり出る。
「明日、わし、休みやし。一緒に行ったるで。」
「場所知っとんのか?」
「当たり前や。一年ちょっとやけど、住んだ事もある家や。」
「そやったな。」
「うちなぁ。」
と、悠美と同じ店で働いていた女が口を開く。
「明日で、この町出るねん。」
「出ていくんか?何処行くねん。」
「高知の方。うちの常連さんが、一緒に住もて。前の亭主の借金も返したし、それもええかな、て。」
「優しい男なんか?」
と、シゲが疑わしそうに聞く。
幸せになると誓って町を出、不幸になって帰ってきたり、行方不明になる女を何人か見てきているのだろうか。
「当たり前や。ええ人や。高知の田舎やけど、ちゃんと広い土地持ってはる。山もあんねんで。」
「そらすごいなぁ。」
「歳は、ちょっといってはるけどな。」
「なんぼや?」
「六十前くらい。」
「それ、遺産狙いちゃうのか?」
そう言うこちらの胸を平手で突いて、
「ちゃうよ。ちゃんと愛してんねん。うちかて、幸せ欲しいねん。」
そう言いながら、笑って済ませるのは、本当に幸せを感じているからだろう。
「幸せになれや。」
と、シゲ。
「そやな。」
そう言って、待たせていた仲間の所へ戻って行った。
「ちょっと兄さん。」
シゲがカウンターの中の若い男を呼ぶ。
「あのコらにビール三本ほど持って行ったってぇな。わしらからや言うて。」
そして、こちらを向き、
「ええやろ?」
「ええで。」
頼んでもいないビールをテーブルに並べられ、ビックリしている女達に男が耳打ちして、こちらを見る。女達がこちらに会釈する。先ほどの女が投げキスをする。
「あいつなぁ、これで三回目や、この町出て行くの。」
「なんや、シゲやん、知ってんのか?」
「そら、まぁ、この町も長いからなぁ。あいつ、男に優しゅうされると、すぐにコロっといてまいよるんや。ほんで、騙されて戻って来んねん。」
「今度は、大丈夫やろ。」
「そうやったらええけどな。ようおるやろ、男の愛情に飢えとる奴な。男の体やのうて、優しさが欲しい奴な。あいつは、そういう女やな。悠美も、そういう女やろ。マンが悪い事に、そう言う女ほど悪い男に出会いやすいねん。ほんで、悪い男につくして貢いで、売られて来んねん。ほんでな、あんたみたいに、ええ加減で人のええ男ほど、そういう女にコロっといてまい易い言うこっちゃな。ほんで、女の不幸を見てられんようになって、ついつくしてまいよるねん。不幸やな、お互い。」
「人の金で飲んどる癖に、言いたい事いいよるねんな。」
「ほんまやで。」
「さよか。」
「彰やんは、悠美と一緒になろとは思わんかったんか?」
「一緒になるには、お互いに知り過ぎとったからなぁ。あかんで、まるで兄妹みたいなもんや。」
「妹を強姦したわけやな。」
「それ、言わんといてぇな。悠美には悪い事したと、心底思うてるねん。」
シゲと、明日の約束をして別れたすぐ後で、彰やんに出会った。
「飲みなおさへんか。おごるで。」
そういうと、返事も聞かずに、スタスタと歩き始める。
高層マンションの下を横切り、小さな商店街を抜けて、電車通り沿いを暫く歩くと、赤提灯のぶら下がる居酒屋があった。
彰やんがガラガラと引き戸を開けると、なかからやや太目の人のいい顔をした初老の男が、
「らっしゃい。」
と静かに声をかける。
カウンターと、長目のテーブルが五つ。テーブルはいっぱいで、ようやく開いているカウンターの端に体を捻じ込んで座った。
「町からちょっと離れとるけど、ええ店やろ。安いねんで。」
カウンターの奥に樽が置いてあり、中年の痩せた女が、そこから酒を注いでいる。
「冷や、二つな。」
幾つか料理を頼んで冷やで乾杯し、暫くは二人とも黙って飲んでいたが、やがて、彰やんが、
「わいなぁ。」
と、口を開く。
「悠美の事、好きやってん。」
「さよか。」
別に、それは、あってもおかしくない話だ。
家が近くで、幼馴染で、気心も知れている。
しかし、互いに分かり過ぎて兄妹みたいになると、なかなか一緒になる切欠が掴めないらしい。
「悠美の事、やってもたやろ、それからますます、声かけれんようになってもてなぁ。悠美が男連れて歩いとったら、こっちも違う女連れて歩いたりしてなぁ。ますます、お互いにそっぽ向いとった。」
「あんたら二人とも、気ぃだけは強いからなぁ。」
「そやな。互いの性格が邪魔して、やっぱり一緒にはなれんかったやろなぁ。それでも、悠美の事は好きやねん。今でもな。こっちにも子供までいてるのにな。女々しい話かなぁ。」
「悠美も、彰やんの事、好きやと思うで。」
「ほんまか?」
「酔い潰れるとな、彰やんの名前呼びよる。」
そう言いながら、おでんの卵を半分に割った。
「さよか。ほんでも、それ、昔のわいやろな。昔な、子供の頃な、よう悠美守ったってん。よその町の子に苛められとるやろ、わいら、あんな町に住んどったらな、他の町の乱暴な奴に、よう絡まれんねん。悠美が絡まれた時は、必ずわいが助けに行ったってん。」
「さよか。」
「喧嘩は強かったからな。」
「さよか。」
カウンターの向こう側の角の席で、いきなり馬鹿笑いが起こった。
大学教授らしき初老の男と、若者の四人組が、赤い顔をして笑っている。
暫く、それに気が引き付けられる。
「ほんでもな、わいの存在価値は、そこまでやな。悠美の人生に、何の助けにもなってやっとらへんでな。」
「そんな事ないやろ。」
「あんたの方が、悠美にとっては、よっぽど救いや。」
「わい、喧嘩でけへんで。」
「喧嘩より、優しさやな。」
「きつうに、よう言えへんだけや。ほんまは、腹立ってんのにな。」
「それが、ええねん。わいやってみ、絶対に口げんか絶えへんで。あげくに掴み合いの喧嘩やで、きっと。」
「それでも、今みたいに姿くらます事は無かったかも知れん。退屈やってんやろな。男遊びしに行っても、何も文句言わんかったからな。」
「大丈夫やて。悠美、すぐに戻って来るて。帰る場所て、あんたのとこしか無いねんから。」
「そやったら、ええねんけどな。」
「頼むわ。あいつの事、幸せにしたってくれや。」
「ほやな。」
「頼むで。」
路面電車のブレーキのきしむ音が、道路に面した引き戸の向こうから聞こえてくる。
古さが、方々に顔を見せ、名残を惜しみながら、新しいものに変化していく。ここは、そういう街なのだ。