第七章  天下茶屋

 

 

上町台地の歴史は古い。

一万年前、都心は湾の底にあった。

その湾を大きく囲む半島が、今の上町台地だ。

そこには早くから人が住み着いており、狩猟や漁労の生活を営んでいた。

今、海は、遥か西に遠いが、少なくとも二千年前は、まだ上町台地が海に面した高台であった事は、四天王寺を作った聖徳太子が、そこから見る夕陽を好んだと言う記録から伺える。通称愛染さんで知られる勝鬘院近くの大江神社の『夕陽岡』の碑に、その事が刻んである。碑は、その辺りを夕陽丘という地名にした由来でもある。

ともあれ、都市は、この上町台地を基点に発展したといって過言ではない。

上町台地の地形的な跡は、生国魂神社へと向かう参道の大きくカーブした坂道に始まり、源聖寺坂、学園坂、織田作之助が好んだと言う口縄坂、愛染坂、清水坂、天神坂、そして逢坂と、夕陽丘の寺町沿いの西に下る坂が多い所に見る事ができる。

台地は、一心寺から先、天王寺駅界隈で一見、途切れたように見えるが、女達が働く色町と、一般繁華街を区分けする境界線として確かに残っており、さらに南下し高速道路を過ぎると、もう一度越えがたい傾斜を伴って現れ聖天山まで続く。

高速道路の南には、高台に千日前から移設された阿倍野墓地があり、その南には閑静な住宅街。

墓地から西向きに急な坂道を下り、下った所に、これまた静かな住宅地がある。墓地の下方にあるという地理的特質が関係しているのだろうか、都市開発から完全に乗り遅れた感のある町並みが続いている。

都市が、かつて、その機能として持っていた住宅地である下町の匂いが色濃く残っており、人の生活感のある懐かしい風景が、そこかしこに垣間見える。

たとえば夕刻、阿倍野墓地の西角に立って、この町を見下ろすといい。

子供達の歓声や、老婆達の大きな話し声、犬の遠吠え、家庭内の口喧嘩までが風に乗ってやってくる。

それは、頬擦りしたくなる程の懐かしい、遠くなりつつある昭和を思う事ができる原風景だ。

この町の特徴は、もう一つ。夕闇の中、通りに立って北を見る。高速道路の高架の向こうに、繁華街のネオンほどには派手で明るくないが、ぼんやり艶やかな町の灯が見える。悠美や悠美のおかんを始めとする、女達が働く色町の、店先に点灯された無数の看板の明かりだ。

色町から程近いこの町にも、かつては多くの女達が住み着き、ここを人生のどんづまりとして、そこから抜け出るべく必死の人間模様を繰り広げていた。

それが、風紀上の問題として外部からの流入者を阻害し、この町を容赦ない都市開発の荒波から護ってくれていたのも事実だ。

今は、色町の女達も、電車やタクシーで通える範囲に散らばり、この町に住む者は、ほとんどいない。

女達の拡散は、バブル経済真っ只中に起こった。バブルは、旧来の価値観を一気に崩壊させ、外に出て住む事をためらっていた女達にプライドを与えた。

『金』という絶対的なプライドである。

女達は、そのプライドを後ろ盾に、背負っていた後ろめたさを脱ぎ捨て、胸をはって繁華街を闊歩し、一般市民の中に生活の場を移した。

そのため、この町は一気に老いた。

年寄りと、数少ない子供達と、木造二階建ての家並みが、そこにこびり付いた下町の匂いと共に残った。

 

「ここや、ここや。」

シゲが一軒の平屋を指差して言う。

墓地のすぐ下の、一軒だけ残った崩れそうな平屋だ。

「誰か住んどるんかいな。」

「洗濯物、干してあるしな。」

中から、老婆が顔を出す。

萎び、平屋の奥の暗がりに皺の一本一本に刻み込まれた陰の部分から溶けて行きそうな、そんな老婆だ。

「誰?」

「あやしい者ちゃうで。ちょっと、懐かしいなったもんで。」

「なんのこっちゃ。」

皺に埋めこめられた瞳には、疑いの光が濃厚にある。

「わしな、ここに住んでてん。何十年も前に。」

「さよか。ほんで?」

「久々に、近くまで来たから、ちょっとよってみてん。」

「嘘言うて、年寄りだましたらあかんで。」

「嘘なんか言うてへん。」

「ここには、わいがずっと昔から住んどるんやで、あんたの顔なんか見た事も無いわ。」

「わしも婆の顔なんか知らんで。」

「ここに住んどったんやったら、わしと一緒に住んどったいう事か。そら願い下げや。」

「そら、わしもこんな婆と一緒に住みとうないわ。」

「シゲやん。シゲやんが勘違いしとるという事ないか。」

「そんな事あるかい。ここは確かに、わいとトミが住んどった場所や。」

「おばあちゃん、いつから住んどるんや。」

「ずっと、昔からや。」

「昔て、いつや。」

「昔は、昔や。」

「それ、どれくらい昔や。」

「覚えきれんほど昔や。」

「この婆、ちょっと頭に来とるで。ボケとる。」

シゲが耳打ちするのを

「ボケとれへんわい。」

と、見かけよりもしっかりと答える。

シゲの方が歩が悪いと思い始めたところに、隣の二階家から女が顔を出す。

「どないしたん?」

「ちょっと助けてぇな、この人ら、おかしいんやで。」

と、老婆が加勢を求める。

「助けて欲しいのはこっちやがな。」

と、シゲ。

女は、シゲと老婆を交互に見る。

「わいなぁ、この家に昔、住んどった者やねん。」

「わしも、この家に昔から住んどるわいな。」

女が、

「おばあちゃん、この家に引っ越してきたん、最近やんか。」

「ほれ見い。」

シゲが勝ち誇る。

「ほんでも、前の、前の、前くらいは、この家やってん。」

「それて、おばあちゃんが、もっと若い頃やろ。」

「そうやったかな。」

「この前、そう言うとったやん。」

「そうやな。」

「婆、年なんぼや。」

シゲが笑いながら聞く。

「七十や。」

「そうか。それにしては、老けとるなぁ。」

「大きなお世話じゃ。」

「ほな、昭和十年の生まれか。」

「計算早いな。」

と、シゲ。

「そや。」

「大阪の生まれか?」

「鳥取や。わしな、東京オリンピックをテレビで見とうてな、村にひょっこり遊びに来た男に、大阪行ったら見れるでぇ言われて、ひょこひょこついて来てん。ほしたらな、こんなとこに売られてん。」

「こんなとこて、あそこか?」

シゲが色町を指差す。

「そやそや。その頃は、門の外へは出してもらえなんだな。店の大将に身請けしてもろて、ようやっと、ここに住まわせてもらえてん。それ以来やな。」

「ほな、この家、五十年くらい建っとるいうわけか。」

「そういうこっちゃな、計算ではな。」

「そうや、ここには何年住んどったやろ。大将の店が火事で焼けてもて、スッテンテンになってもて、子供抱えて、ここから追い出されたんや。」

「そら、可哀相に。子供おったんや。身請けしてくれた大将の子か?」

「そや。十で、交通事故で死によった。」

「気の毒やな。」

「ほんまや。」

「その後、もう一ぺん帰ってきた。」

「この家にか。」

「この家ちゃうけど、あの町にな。お金が欲しいて帰って来てん。この家も見に来た。ほしたら、別の人が住んどった。」

「悠美と、おかんかな。」

「小さい可愛らしい女の子がいてへんかったか?」

「そこまで見てへん。つろうて、すぐに離れた。それから、お金作って、男に騙されて、また戻って来て、お金作って、今度はええ人に知り合うてな、その人が死ぬまで連れ添った。」

「良かったやんか。」

「ところが内縁でな。その人、妻子と別居してたんや。二、三年、寝たきりで、ずっとうちが看病してたんやで。ほんでもな、その人が死ぬやいなや、骨まで全部持って行かれてしもた。」

「取り返したれ。」

「ええねん。ええ思い出もろうたからな。子供が死んだ時、後を追うて死のと思うたんや。ほんでもな、思いとどまって良かったで。結構長い間、幸せな思いさせてもろたからな。」

「ほんで、なんでまた、この家に戻ってきてんや。」

「ここにな、息子がいてんねん。」

「お化けか?」

「あほ。息子の思い出が、ようけあるねん。その人が死んだ時に、今度こそ死のうて思たんや。どうせ死ぬんやったら、息子の近くで死のて思てな、この家に戻って来たんや。」

「ほな、婆、死ぬんか?」

「いや、死ぬのやめてん。息子と、あの人の供養したらなあかんでな。丁度な、この家、住む人もおらんかってな。」

「そら、こんなお化け屋敷みたいな家、誰も住まんわ。」

「大家はんも、つぶすにも金かかるし、困ってはったんや。ほんで、うちが格安で借りたってんや。」

「そら良かったな。」

「あんたらも、我慢して生きとったら必ずええ事あるで。」

「そないなもんかいな。」

 

「ほな」と言いながら這うように家に入る老婆の後姿に、悠美の未来の姿を見るような気がする。

「あいつも、ああなるんかな。」

「あいつて、悠美か?」

「そや。」

「そらないで。」

「このまま帰って来んと、どっかで男と暮らしててやな、年食ったある日、ひょっこり戻って来んねん。」

「ほんで、この家に住み着くのんか?」

「そや。」

シゲも、変に押し黙ったまま、ぼんやりとその家を眺める。

やがて、

「ここに住んどったねんなぁ。トミちゃんと一緒に。わいも、若かったなぁ、あの頃は。」

「さよか。」

「わいなぁ、駐車場の整理係やっててん。整理係しながら、トミちゃんに食わせてもろとってん。」

「さよか。」

「他にも女、こさえてな。昼間、その女とやって、夜はトミちゃんとやるなんか、へぇでも無かったで。やりまくっとった。」

「そんなええ目してたら、今は、文句言えんな。」

「今は、今や。まだまだ、ええ目し足りん。」

「欲かいたら、碌でも無いで。足るを知る言うてな。」

「知らん、知らん。そんなん知らん。」

「救われへんな。」

シゲは、その言葉を無視して、

「悠美は、ようもてたで。結構、可愛かったしな、気も強かったやろ。気ぃ強い方が、もてるねんな。あの頃な、トミちゃんも男出入りが激しゅうてな、ある男と話ししてたら、そいつも昔、トミちゃんの男やったみたいなのもあってな、なんや、お前もか、なんちゅうてな、義兄弟やな、なんちゅてな、知り合いの中にも何人か義兄弟がおった。概ね、みんな、死んでもたけどな。わしら、義兄弟の間では、悠美言うたら、共通の娘みたいな気持ちがあってな、守ったろ、みたいな意識が強かってん。ちやほやしたってんけど、あれが、あかなんだんかな。けど、彰やんがおったから、ちゃんとしてくれると思うとってんやけどな。彰やん、喧嘩強うて、結構頼られとったからな、皆から。悠美は彰やんの女やて、わしら、ずっとそう思ててんやけど。悠美もな、うち彰やんと結婚すんねんって、言うとったしな。」

「いろいろあってんやろ。」

「彰やんに腹たてへんのか?」

「何でや。」

「悠美が惚れとった男やで。」

「ええやないか。彰やん、ええ男やで。」

「ほなな、もし、ここに悠美がおったら、取り合いせぇへんのんか?」

「せぇへんやろな。悠美が彰やんを選ぶんやったら、それはそれでしゃあないで。悠美が好きになった男や。」

「そんなもんか。ほんならな、もし、悠美があんたを選んで、彰やんが喧嘩売ってきたら、どないすんねん。」

「彰やんは、喧嘩売るような事はせぇへんやろ。」

「もしやで。」

「受けて立つで。」

「彰やん、喧嘩強いで。ぼこぼこにやられるで。」

「それもしゃあないわな。ほんでも、そんな有りえん事考えてもしゃあないでな。分かってんのは、彰やんも悠美が好きやったし、わいも悠美が好きやし、悠美は、わいと彰やん、両方好きやっちゅう事だけや。ほんでな、わいも、彰やんも、それぞれなりに悠美の事を気にかけとるっちゅうこっちゃ。」

「悠美も幸せなこっちゃな。」

「ほやな。」

そんな他愛も無い話をしながら、歩くうちに、シゲがある一軒を指差し、

「ここ、彰やんの家や。」

「ほうか、ここか。」

「彰やんのおかんが住んでるねん。声、かけてみよか。」

「止めとき、止めとき。急に来たらびっくりしはるで。」

「かまへんよ。昔、この辺は、そんな風に開け広げやった所や。急に家に入って来てもな、誰もびっくりせぇへん。ああ、来たんか、てなもんや。」

そう言いながら、家の玄関を開けて、中を覗き込む。

「まいど。誰もいてへんのかいな。おーい。」

「シゲやん、あかんて。寝てはるかも知れん。」

「なんや。」

出てきたのは、頭にカールを巻いたままの五十過ぎの痩せた女だった。

「おお、久しぶりやんけ。わいや。」

「わいて、誰や。」

「忘れたんか、シゲや、シゲや。」

「シゲ?ああ、シゲやんか。久しぶりやな。何や、今日は。」

「何やて、ごあいさつやな。久しぶりに近くまで来たから、寄ったったんやがな。」

「ああ、さよか。そらそらやなぁ。」

「どや、元気しとるか?」

「ああ、お蔭さんでな。シゲやん、暫く見んかったけど、また、町で働き始めてんてなぁ。」

「おお、よう知っとるやんか。」

「彰に聞いたで。」

「彰やん、よう来んねん。親孝行やな。」

「この前、久しぶりに来た。ヨメがこわぁて、なかなか足向けよらん。今日は、どこに?」

「昔、住んどった家、見に来てん。」

そこで、始めてこちらに気がつき、

「誰や。」

と、シゲに小さな声で聞く。

「ああ、こちらはんな、つい最近まで悠美と住んではってなぁ、今、悠美の事、探してはんねん。」

「悠美ちゃん、どうしたん?」

「聞いてへんのか?家出や。行方不明や。」

「さよか。」

「さよかて、なんや言い方冷たいなぁ。」

「今に始まったこっちゃないやん。昔からや。あのコのおかんがそうやったからなぁ。男こさえては、町から出たり、入ったりや。悠美ちゃんも、どこぞで、うまい事やってるで。そんで、蹴躓いたら戻ってくんねん。振り出しに戻るや。」

「うまい事やってくれてたらええねんけどな。」

「悠美ちゃん探すより、新しい相手探したほうがええで。」

と、こちらを向く。

「あんまり悠美に、ええ印象持っとらんやろ。」

「そんなこと無いけどな。あのコが、他の男と腕組んで歩いてんの見て、彰、どれだけ傷ついたこっちゃら。」

「やっぱり、あんまりええ印象ちゃうな。」

「小さい頃から、彰やんと結婚する言うてたくせにな。」

「そら、子供の戯言やろ。」

「うちは、随分、楽しみにしてたんや。」

「そら、残念やったな。」

「そやそや、悠美ちゃんなぁ、一回だけ見たで。」

「どこで。」

「ここで。」

「いつくらい?」

「ずっと、前や。」

「なんや、昔むかしの話かいな。」

「そうや、何しに来てたんやろな。あのコなぁ、トミちゃんの葬式にさえも顔出さんかってんで。薄情なコやで。」

「なんか事情があってんやろ。」

「どんな事情があったんか知らんけど、実の母親の葬式くらい、顔出さんか?」

「ほなあれか、悠美見たんも、葬式の前か?」

「そんな昔の話とちゃうで。」

「ほんでも、あんまり参考にはなりそうにないな。」

「火事の日やったな。」

「火事?去年のか?」

「そうや。店のな、何軒かが焼けたやつな。火事の日やったから、憶えてんねん。ここから、ほれ、町が見えるやろ。二階の窓から見ててんや。大きな炎が見えとったで。煙もようけ出てな、消防車が引っ切り無しに走って行きよった。ほしたらな、向こうから、この家の前通ってな、町に向かって走って行きよんねん。」

「何が?」

「悠美ちゃんやがな。」

「向こうからっちゅう事は、昔住んでた家の方角やな。」

「『おかんが焼けてまう。おかんが死んでまう』ちゅてな、泣きながら走って行きよってん。」

「悠美のおかんは、脳溢血で死によったんやったなぁ。焼死ちゃうでなぁ。」

「そうや。そやから、うちもおかしいなぁ、おもてんや。」

「なんでまた、なぁ。」

「確かに、あの火事で焼けた店の中に、トミちゃんの働いとった店もあったけどな。」

 

火の手の上がる店に向かって、走っていく悠美の姿が彷彿と浮かび上がる。

舞い散る煤と、乱れた髪が、汗で湿った悠美の顔に付着している。

スカートの裾跳ね上げながら、必死に店に向かって走る。

店は、既に炎に包まれ、音を立てて燃えている。

必死の消火活動が続けられている。

― 近づかないでください。

消防士が止めるのを振り払って、悠美は店に近づく。

― おかんが、おかんが。

― 誰か、まだ中にいるんですね。誰がいるんですか?

― おかんや、おかん。

― あなたのお母さんですね。

― 早う、早う助けて。死んでまう。

と、隣の店の女が、悠美を見止めて、

― 悠美ちゃん、悠美ちゃんやんか。あんた、何言うてんの。

― おかんが、まだ中に居てる。

― 何言うてんの?あんたのおかん、とっくに死んでるやろ。

― ほれ、ほれ、そこにおかんが。早う助けて。

やがて店は、大きな音を立てて崩れ落ちる。

翌朝、まだ燻る焼け跡を、警察と消防署が掘り返す。

もちろん、何も出てくるわけがない。

その焼け跡に、悠美がぼんやりと立っている。

 

「悠美、来てたんやな。」

独り言を、シゲが捉える。

「何が?」

「いや、悠美な、やっぱり何度もここに来てたんや。おかんに会いに。」

「天下茶屋にか。」

「そうや。」

「一人でか。」

「そうや。」

「おかんに会いにか。」

「そうや。」