第八章  町の女 その一

 

 

 

「悠美、何回か見たで。」

悠美のおかんが働いていた店の焼け跡に立っていると、でっぷりと太った近所の八百屋の女将が声をかけてきた。

「悠美のこと、知ってはんのか?」

「同級生や。」

とても同い年には見えない。悠美より十ばかし老けて見える。

「うちなぁ、悠美のこと、格好ばっかしつけて嫌いやったから、声かけなんだけどな。店の女に身を落としよったのも、ざまぁみぃ思ててん。」

「さよか。」

“店の女になる”事と、“身を落とす”事が、どうしても繋がらないままに生返事をする。

「あんた、悠美の事、探してんねやろ。」

「そうや。」

「あんな女、放っとき。身勝手なだけやんか。どうせ、どっかで、また、ええ格好して生きてんねんで。」

「そうやったらええねんけどな。」

「人の事、ブタ、ブタ、言いくさって。」

「誰が?」

「悠美や、悠美。わての事、ブタ言いよってな。掴み合いの大喧嘩してん。」

「最近か?」

「あほな。中学校の時や。あんな女、地獄に落ちたらええねん。」

「悠美見たんは、いつや。」

「最後に見たんは一年くらい前やな。そこで火事があってからこっち、何回かな、そこに立ってたで。」

「何しに来よったんやろ。」

「さぁ、それまでは、絶対に近寄らん場所やってんけどな。おかんが生きてる間はな。死んでからもや。火事の後やな、やっぱり。そこで悠美の姿見るようになったんは。」

 

悠美のおかんを知らない。

悠美と知り合った頃には、悠美のおかんは他界していた。

― どんなおかんやってん?

前に、そう聞いた事がある。

おかんの働いていた店が火事で焼け落ちる前の事だ。

― 男狂いのどうしようもない女や。

― さよか。

― 最低な女やで。

― おかんの事、そんなに悪う言うたらあかんがな。

― ええねん。あんな奴、おらへん方が良かったくらいや。

― おかんがおらんかったら、悠美もおらんがな。

― そやな。

それから暫く考え込んで、

― うちも、おらん方が良かったんや。

― どういう意味や。

― 生まれて来んほうがよかってんや。

― 何でや。

― そやかて、苦労ばっかりすんねんもん。生きてるのしんどいねん。

― あほな事言うなや。悠美、おらんかったら、わい、どないしたらええねん。

― うち以外の女、見つけたら?

― あほ。わいはなぁ、悠美がええねん。

― そやかて、うち、ええとこ何処にも無いでぇ。

― そやなぁ。そんでも、悠美がええねん。

― うちしか、相手してくれる女、いてへんからやろ。

― あほ。女くらい、なんぼでも寄ってくるわい。

― ほな、うちの体が気に入ってん。なんせ、元プロやからなぁ。磨かれてるやろ。

― そんなんとちゃう。

― ほな、どんなん?

“どんなん”と聞かれても答えようが無い。

性格が合うのか、前世とか言う奴の因果なのか、悠美以外の女は考えられなかったし、今でも考えられない。

奔放な馬鹿さと、気風の良さと、反面、うじうじと暗い部分を抱え、時折俯いて唇を噛み締めている姿に、例え様も無い愛しさを感じるのだ。

― うちのこと、幸せにしてくれる?

その自信は全くなかったのに、

― あたりまえや。

そう答える自分がいた。

 

「あいつ、あれで寂しがり屋やさかいなぁ。もうすぐ、プラッと帰って来るで。」

組合会館のロビーのソファーに身を沈め、今時ハイライトをくゆらせながら彰やんが慰めてくれた。

「そうやな。」

「それよか、最近、全然仕事してへん言うとったな。」

「仕事が避けて行きよんねん。」

「さよか。あんた、日がな一日、この辺フラフラしとんのやったら、この辺の宣伝文書けへんか。」

「宣伝文?」

「時代の波でな、本当は街の片隅にひっそりと咲くあだ花がお似合いの町やねんけど、外に向かって何ぞ発信していかな、成り立たんようになってきてなぁ。月にいっぺんくらいの割合で、小雑誌出そと思てんねん。」

「誰が読むねん。」

「来てくれる客や。」

「ほな、エロい奴か。」

「いや、町のイメージを落としとうないねん。そんじょそこらの色町とちゃうで。そら、エロ中心やけどな、エロ以外の昔の郭町の情緒っちゅうもんが、この町には残ったあるはずやねん。」

「それを掘り起こせてか?」

「そや。」

「難しいなぁ。」

「あんた、この町、好きやろ?」

「わいやのうて、悠美が好きやねん、この町。多分な。あいつが戻ってくるとしたら、ここやろなと思うて、毎日、プラプラ待ってんねん。」

「ここで働く女の子らなぁ、本人らは、どう考えて仕事してんのんか知らんで。ほんでもな、毎日、毎日、知らん男の前で裸になって抱かれたり、チンポ舐めさせられたりしてなぁ、結構、苦労してんねん。その苦労の先にあるもんを少しでも見せてやりたいねんな。」

「苦労の先にあるもんか?」

「本当は何にもないかも知れへんで。蔑まれる仕事やんか。けど、そんな悲しい思いばっかちゃう。必ず、ええ事があんねん。少しでも、そう思うてくれたらなぁ。少なくとも、この町で働くことにプライドを感じて、明るい明日を思うてくれたらなぁて、そう思うねんや。」

「それ、雑誌出す理由て、客引きやのうて、女の子らぁの元気付けのためちゃうのんか。」

「そうやなぁ。そうやで。その通りや。うまい事言うてくれるがな。」

組合の建物から外に出ると、既に闇が染み出すように町を覆っており、屋号を記した照明灯がほの白く道の両側に並んで灯っている。

いつからか降り出した小雨が道路を濡らし、そこに白い照明灯が滲み込んでいる。

「日が落ちんの早うなったなぁ。」

と、彰やんが言う。

「雨やな。」

「一杯、行こか。」

手を猪口の形にして誘われると、喉に懐かしい潤いが蘇る。

「あそこか。」

「おう。路面電車のなぁ、湿った音聞きながら飲む冷酒も最高やで。」

彰やんの誘いに、つい乗ってしまい、足は最近できた高層マンションの下を通り、電車道沿いの赤提灯へと向かう。

どうせ最後には、しどけなく酩酊し、ミナミのスナックあたりまで、足伸ばす羽目になるのだ。

 

次の日から、早速、町の中を徘徊し始めた。

今までも、シゲと一緒に町を歩いてはいたが、無目的に歩くだけだった。

店の中を覗く事はあっても、女の子がどんな表情をして座っているかなどに気を使って覗いた事は無い。

ましてや、店に上がりこんで、その体にお金を支払うほどの財力も無い。

女の子は、皆一様に、店が誂えた胸元の大きく開いたドレスを着、にこやかに微笑んでいるだけと見えた。

その微笑みは、感情の無い、売り物の微笑だった。

いわゆる人形屋の店先で売り物の人形を見ているのと同じ感覚でいた。

が、暫く毎日のように町中をほっつき歩くと、女の子達の違う一面が見えてくる。

まず、客引き女達の対応が変わった。

「おにいちゃん、いい子いてるよ。何や、あんたかいな。しょうもな。」

「しょうもなは、無いやろ。」

「そやかてなぁ、声かけ損やもんなぁ。」

そう言って、少し奥に座っている女の子と顔を見合わせて笑う。

女の子達の愛想笑いが消え、かわりに親しげな笑顔が現れる。

中には、つんとすまして、笑いかけても知らぬ振りをしている女の子もいる。

だからといって、必ずしもそういう子が心底愛想の悪い子では無い事も見えてきた。

ほおずき屋のさゆりと言う子は、どこか冷たい、人を拒絶するような表情でいつも座っている。

彼女が愛想笑いをしても、片頬を少し緩ませる程度で、目は決して笑っていない。

こちらの素性が見えてくると、視線をすっとそらせ、笑いかけもしない。

しかし、愛想笑いの時の片頬にできる笑窪が、実に魅力的でもあった。

彼女目当てに通ってくる男もいた。

たいてい、どこか暗いところがあり、幼児性の抜け無い、ひ弱なタイプの男だった。

そういう男達は、さゆりの冷たい眼差しに逆に快感を感じるのだろうか。

そういう常連客の一人に、ヤスオという男がいた。

年は二十五。

さゆりは、じつはそれより二つばかし上だが、店では二十三と言っていた。

ヤスオは、二、三週間ごとに、早い時間に来て、さゆりと遊び、近くのたこ焼き屋で一皿食べて帰っていく。

どこから来て、どこに帰っていくのか、お客にそれを聞くのは店の女の子にそれを聞くのと同様、御法度だった。

後でわかった事だが、ヤスオは金持ちの一人息子で、小学生の頃から引きこもりが激しく、まっとうな職業についていなかった。親から時々もらう小遣いで、さゆりを抱きに来ていた。

「ええ子、いてるか?」

ある日、隣の席に腰掛け、寡黙にたこ焼きを食べているヤスオに声をかけた。

ヤスオは、いきなり声をかけられて驚いた顔でこちらを見る。

そして、「いえ」とも「はい」とも覚束ない返事を口の中でもごもごと返し、そのまま俯いてしまった。右耳に六つばかしピアスが光っている。

「ほおすき屋から出てきてたなぁ。」

その問い掛けには、何の返事も無い。

「あそこは、少し年行ってるけど、なかなかべっぴんさんが揃うとるなぁ。あんた、誰がええ?」

「いや、それは。」

「ゆきちゃんか?」

「ちゃいます。」

「ほな、エリカちゃんやろ。」

むっとした顔で黙り込んでしまう。それ以上、踏み込まれたくないのだろう。

そういう男なのだ。

それをあえて無視して、

「さゆりちゃんとちゃうやろなぁ。あの子、スタイルええのに愛想悪いからなぁ。損しとるで。」

ヤスオは、そのままたこ焼きを食べ終えると、挨拶もせずに店を出た。

「おとなしい子を苛めたら、返り討ちに合うで。今時の子ぉは、怖いねんで。」

たこ焼き屋のオヤジがテーブルを拭きながら言う。

次に出会ったのが一週間後。さゆりが風邪で休んでいる日だった。

「まいど。今日もほうずき屋か。」

その言葉を無視して、ほおずき屋の前を二度三度と通り過ぎる。

「今日は、さゆりちゃん、いてへんらしいで。」

驚いてこちらを見る。

「風邪引いて休んどるて。今度、さゆりちゃんが出てきたら、あんたが来てた事、伝えたげるで。名前なんちゅうねん。」

「ええです。」

「さよか。まぁ、いつもの人やいうたら、わかるんかな。折角やから、たこ焼きでもおごらしてもらおか。」

「あんた、何なんですか?」

いきなり向き直って質問を投げかけてきた。

「わい?そうか、まだ何者かも言うてへんかったな。わいなぁ、この町を取材してんねん。そやから、町の女の子の事、よう知ってるねん。」

それは、嘘だった。

目に付いた女の子の名前程度しか、まだ知らない。

さゆりは、その愛想の無さで目に付いた女の子の一人だった。

「ええ加減、ほっといてください。」

「悪い悪い。しかし、あんた、熱心やなぁ。さゆりちゃんがこの前ほめとったで。」

「ほんまですか?」

彼のいらいらした思いが、すっと引くのがわかる。

「ほんまや。」

嘘も方便と言うが、根も葉も無い嘘とはこの事だ。

「何の事をほめてくれてたんやろ。」

「そら、あんたが素直でええ人やて。」

「あんたも、さゆりちゃんの客ですか?」

「ちゃうて。さっき言うた通り、取材して歩いてんねん。さゆりちゃんは、言わばわいのお客さんや。話を聞かせてくれるさかいな。」

「どんな事しゃべっとるんですか?」

不安そうな眼差しを向ける。

「どんな事て、仕事の苦労話なんかやな。心配せんでもお客さんのプライバシーにかかわるような話はしとらへんよ。」

「そうですか。」

しかし、まだ疑わしそうな眼差しである。

女の子と二人だけの時間に、男達は本音の顔になる。

ヤスオのように何度も通い、女の子と懇意になればなるほど、肉体的にも精神的にも異性に対して持っている根本的な欲求を満たそうとする。

女の子は仕事のために、多少ダーティーな内容であっても、その欲求を受け止めてくれる。

男の側は、だんだんとそれが本来の女の子との関係性であると勘違いし始める。

そこに男の裏面が見えてくる。そこに共鳴するさゆりの姿もだ。

しかし、それは一歩外に出れば、霧散してしまう関係性でもある。

四畳半程度の、ベッドとカラーボックスしか置いていない部屋を薄暗くし、裸になってこそ成立する関係性なのだ。

それを非現実と言ってしまえばそうなのだろう。

が、ある種の男にとってみれば、自分を身も心も裸にしてしまえるという意味において、外の世界以上に現実的に迫ってくる世界であるのかもしれない。

決して何処にも露呈させたくない、彼だけの現実の世界。

さゆりは、そこに彼女なりのやり方で、体と時間を貸し与えているのだ。

ヤスオは、自分がさゆりの前だけで見せる顔がバレてしまったのではないかといぶかっている。

さすがに、さゆりの前で見せる顔は、制限付きの世界でしか見せられない顔であり、まともな感覚を失ってさえいなければ、自分が、そういう制限つきの仮想現実に満足を求めようとしている事に多少なりとも後ろめたさを感じるものだ。

ヤスオは、そういう意味で自分をまだ客観的に見る余地を持っているようだった。あるいは、さゆりとの関係性の中に作り上げた仮想現実の世界に完全に入り込めない何らかの要因を持っているのか。

「しかし、さゆりて、ええ子やな。」

「よう知ってはるんですか?さゆりの事。」

「まぁな。お客になった事はないけどな。」

適当にはぐらかして、ヤスオの言葉を待つ。

「苦労してるんですよね、彼女。」

「この町の女の子は、皆それなりに苦労しとるよ。」

ヤスオは、一瞬ムッとした顔でこちらを見る。

そして、親指と人差し指で鼻の頭をつるりと撫ぜると、

「彼女、兄弟が七人いるて言うてました。」

と、むきになる。

「へぇ、七人もいてるんかいな。」

「一番下と十五違うらしいんです。まだ、小学生ですよ。」

「そら凄いな。」

「真ん中くらいまでは、母親が違うらしいですが、一番下になると、両親とも違う言うてました。」

得意げに言う。

「どういうこっちゃ。」

こちらも、適当に話をあおる。

「全然血が繋がってないらしいですわ。上三人は父親も母親も一緒。早くに母親をなくし、父親は新しい母親を連れてきたらしいですわ。そこで二人生まれて、次に父親が蒸発。暫くして新しい父親が来て、二人誕生。」

「そら、父親も母親も違うわけやな。肩身のせまいこっちゃったやろ。」

「そやから、高校出てすぐに働きに出たらしいです。で、新しい母親が連れて来た新しい父親言うのんが、全然働かん男やそうで、新しい母親は、何がええのか、その男にべったり。」

「そら、あれやろ。肌が合い過ぎるっちゅう奴やな。それとも、真珠でも入れとるのとちゃうか。」

「さぁ。それで、全然血の繋がりの無い弟や妹を育てるために、彼女も働いとるんです。」

「あんた、さすがによう知っとるなぁ。」

「呼び込みの婆ぁさんに教えてもうたんです。」

「は、なるほど。」

 

「最初は、スーパーで働いとったんです。」

さゆりが重たい口を開く。

店の女の子達が何処に住んでいるのかは、よほど親しくなっても教えてくれない。

だから彼女らに声かけられるのは、店の裏手で、彼女らが短い休憩を取っている時に限られた。

そんな時間帯に、彼女らの事を知るのは、至難の技だった。

さゆりとは、偶然、ミナミの繁華街で出くわした。

彼女は非番で、時間を持て余し、繁華街をブラブラしていたのだ。

つい昨日までは夏の色だった街も、ここ一週間ほどで秋の装いへと一気になだれ込み、アーケードに吊られた看板には、栗の実や紅葉が描かれている。

さゆりはジャケットにジーンズという地味な格好で歩いていた。おまけに化粧気が無かったので、普通ならばそのまま気がつかずに通り過ぎるところだったが、さすがに毎日のように見ている顔だと、多少変わっても見落とす事はないようだ。

「まいど。」

急に声をかけられ、ぎょっとした様子だったが、こちらを認めて一瞬例の片頬笑いを返してきた。

「今日は非番か?」

「そうです。」

愛想笑いの一つもせずに、じっとこちらを見つめ返したまま返答する。

黒目の大きい子だと思った。

「さよか。」

言葉を繋ぎ損ねているうちに、ついと視線をはずす。

その先には、地下鉄への小さな入り口があった。

「一杯おごるで。暇やったらな。」

彼女がその入り口に入り込む気にならないうちに言葉を繋ぐ。

てっきり断られると思っていたが、

「ええですよ。」

「そうか、ほな飯でも食おうや。」

さゆりは、お腹は空いてないからと、繁華街の裏手の今風の店に入っていった。

若い熱気で溢れかえった店だった。片隅にダーツが何機か置いてあり、若者達がカクテルを飲みながら遊んでいる。

「いつも、こんな所で飲んでるんや。」

店にいる他の女の子と比べても、普段着のさゆりは地味で、とても色町の女の子には見えない。

「安く飲めるから。」

化粧っ気の無い彼女は、形を整えているとは言えくっきりした眉毛と、切れ長の、しかし大きな黒目が特徴で、比較的意思の強い子なのだろうと想像できた。

「町の女の子らは、いつもこんな店で飲むんやな。」

「朝まで開いてるから。」

「ほな次の日が非番の子なんかが朝まで飲むんか。」

それには答えず、視線を店内に泳がせる。

「誰か知り合いでも?」

「いてませんけど。たまに会います。」

「町の子?」

こっくりとうなづく。

ビールと、さゆりは何やら横文字のカクテルを注文し、しばらく会話が途切れる。

「妹や弟、多いねんてなぁ。」

その質問の真意を汲み取ろうとしてか、じっと見つめた後、

「下に六人。」

「大所帯やな。ほな、生活費入れとるんや。」

「一緒には、住んでへんけど。」

「一番下言うたら、十五くらいか。」

「まだ、九つ。」

そう言って少し微笑んだ。

「ほら可愛いやろ。」

微笑みに嬉しさが混じる。

血が繋がって無いと聞いたが、彼女にしてみれば、そんな事お構い無しに可愛いのだろう。そう思わせる笑顔だった。

「弟か?」

こくりとうなずく。

「たまには、一緒に寝たるんか?」

「家に帰った時は。」

「そら羨ましい。お金出しても一緒には寝てもらわれへんで。さゆりちゃんの胸元に顔埋めて寝たいと思てる男がどれだけいてるか。」

彼女は、微笑を残したまま視線を床に落とす。

「悪い悪い。客と弟とは違うわな。」

慌てて言い繕ったが、床に落とされたままの視線は、なかなかこちらに上がって来ない。

やがて、

「最初は、スーパーやった。」

「え?」

「最初は、スーパーで働いとったんです。高校出てすぐ。」

「さよか。」

「ほんでも、お金にならへんでしょ。」

「そやな。」

「お金が欲しいんです。」

「さよか。」

「お義父さんが金遣い荒いんで、弟らが可哀想で。」

「お義母さんは、働かへんのか?」

「意思が弱いんです。お義父さんも、お義母さんも。そやから、お金なんか一向にでけへん。うちが働いてお金を持って行けへんかったら、弟ら、飢え死にします。」

「ほな、大きい姉妹で力あわせて働いてんのか。」

「すぐ下の二人は、もう働いてます。一人は、新地のスナックに勤めて、もう一人は、うちと同じような体売る商売を神戸でしてます。」

「ほな、結構金回りええねんや。」

「すぐ下の二人て、お義父さんとも、お義母さんとも血の繋がりがないんです。うちもやけど。そやから、下の二人は、何でお金いれなあかんのやて、絶対に家に近づきません。」

「あんただけか、金入れてんの。」

「特に、三つ年下の妹は、良子は、お義父さんの子供妊娠させられてもうて。お義母さんは、そんなん見て見ぬ振りしてたから、自殺騒ぎまで起こしたんやけど、良子がそれで病院のベッドで苦しんでても、お義父さんもお義母さんも見舞いにも来んかった。良子は、それ以来、絶対に家には近づけへん。」

「むごいな、それ、そんな話があってええんかいな。」

「本当です。ほんでも、うち、お義父さんやお義母さん、恨む気にはなれへん。何でやろ。可哀想な人らぁやなて。それよりも、弟や妹、ちゃんとしたりたいんです。真ん中の二人は、そろそろアルバイト始めてるし。これでも、大分まともな家庭になってきたんですよ。」

「よかったなぁ。わいにお金があったら、お客になって、少しでも貢献したるのになぁ。」

「お金できたら、来てくださいよ。サービスさせてもらうし。」

「彰やんから、ようけもらえるようになったらな。」

さゆりは、初めて白い歯を見せて笑った。

 

寂しい雨がしとしと降り続いた。

「秋霖ちゅうねんて、こういう雨の事。」

組合のロビーで彰やんと話していると、向こうで何やら騒ぎが起こる。

濡れるを構わず雨の中を、騒ぎの方に駆けつけると、男二人に羽交い絞めにされたヤスオの姿があった。その手には、ナイフらしきものが光っている。

さゆりが、仕事着のドレス姿で店から現れる。慌てて着付けたのだろう、チャックが開いたままで、背中が大きく見えている。

さゆりは、周りが止めるのも聞かずにヤスオに近づくと、手を大きく振り上げ、ヤスオの頬に向かって振り下ろす。パシッと音がした。

ヤスオは、そのままへなへなと崩れ落ちる。

さゆりは、そんなヤスオに顔を近づけ、何やら囁く。

囁かれて、ヤスオはナイフを地面に置き、力なく立ち上がる。

男達が、再びヤスオを捕まえようとして、

「手ぇ出したらあかんよ。」

さゆりが叫ぶ。

ヤスオは、涙に咽びながらすごすごと町を出て行った。

「どないしたんや。」

彰やんが隣にいた呼び込みの女に尋ねる。

「さぁ、あの男が、なんやいきなり店の前でナイフだしたらしいんですわ。」

騒ぎを聞きつけ、自転車に乗って警察がやって来た。

彰やんが、慌てて近づき、

「ご苦労さんです。何でもありまへんねん。ちょっと、値段交渉がうまい事いかんかっただけで。」

「値段交渉て、お前ら、ここで変な商売しとるんか。」

知っているくせに、警察官が手帳を出して、何か書きとめようとするのを、

「ちゃいますがな。コーヒー代が高い言われただけですがな。」

そう言いながら、紙包みを警察管のポケットにしのばせる。

こういう時のために、常に用意しているようだ。

「あんまりぼったくるなよ。」

警察管は、そう捨て台詞を残し、自転車で去って行く。

「あの男が、いきなりナイフ出して、さゆり出せて、言うたんですわ。」

さゆりの店の客引きの女が口を開く。

「さゆりちゃんいてへん言うたんですけど、いてるはずやて、ナイフ振り回して、さゆりを殺してわいも死ぬ、言うてね。」

「そう言えば、最近、彼の顔見なんだな。」

「知り合いか?」

彰やんが怪訝そうに聞く。

「いや、そこのたこ焼き屋で知り合うてな。さゆりちゃんの常連やってん。」

「なんでも、会社が倒産して金が無くなった、言うてましたえ。」

女が話を続ける。

「あいつ、会社の社長やったんか?」

「まさか。」

「お父さんの会社が倒産して、住む家も無くなって、遊びに来るお金も無くなったて言うてました。もう、うちに会いに来られへんて。」

濡れた服を着替えて、店の中からさゆりが姿を現した。

「そやから、うちを殺して、自分も死のうて思たらしいです。」

「そらまた、短絡な奴っちゃなぁ。迷惑な奴っちゃ。」

彰やんがあきれて言う。

「そいで、さゆりちゃん、何て言うたったんや。えらい納得して帰りよったやんか。」

「あんたが一生懸命働いて稼いだお金で殺しに来てくれたら、うち、喜んで一緒に死なせてもらう、て。」

「えらい格好ええなぁ。」

「本音です。」

それが、さゆりなりに行き着きたい幸せの姿の一つなのだろう。

その時のさゆりの目が濡れていたのは、秋の長い雨に降られたせいだけではなさそうだった。

「あいつ、頑張れたらええなぁ。」

「ほんまに。」

ヤスオが去って行った道の向こうを見つめるさゆりの肩を、静かに抱きしめてやりたいと、そう思った。