(一)



「予定調和って言葉を知っているか。」
今まで寝ていると思われた老人がいきなり尋ねた。
「お客様がお見えになってらっしゃるからって,あまり無理しちゃ駄目ですよ。」
私の後ろから老人を覗き込んだ看護婦の日本語が分かったのかどうか,老人は,顔の皺を一瞬深くした。どうやら,ウインクのつもりらしい。
看護婦が尿瓶を持って出て行くのを見送りながら,
「運命と言った方がいいかな。」
「運命ですか。」
「いや,やはり,予定調和だな。」
しわがれたスペイン語は聞き取りにくい。
「予定調和も,運命も,同じようなものだと思うのですが。」
「似ているが,違う。運命は,あらゆる局面において,神がかり的だ。」
「が,予定調和は違う。」
「そう,違う。感動が無い。事象が,至極当たり前のような顔をして通り過ぎてゆく。」
そう言うと,老人は,ほっと息を吐いて目をつぶった。
このところ老人の体力は急激に低下している。
私は,老人が次に目を開けるのをじっと待つ。
それが,彼に雇われた時の約束だった。

「決して,私に無理をさせないでくれ。」
老人は,ブランデーをストレートで一気に飲み干すと,そう言った。
二ヶ月前の事だ。
「私が必要とした時に,私の側にいてくれ。私の言葉を,静かに待って欲しいのだ。そして,書き留めてくれ。」
それが,雇用条件の一切だった。
「あと二ヶ月もすれば,死が私を襲うだろう。」
「つまり,それは,死ぬって事ですか?」
「そう,死ぬのだ。私にはわかる。感じ取れるのだよ。今度こそやってくる自分自身の死。」
まだ,そんなに元気なのに,と言いかけて止めた。
無駄な言葉は吐かない事だ。
“元気”であるのと,“死”との間には,何の関連性も無いのだろう,この老人にとっては。
老人の名前はホセと言った。
私が毎週末訪れるスペイン人神父のいる教会で,知り合った。
教会は,私のアパートから,私鉄で30分ばかりのところにあった。
神父の関係で,スペイン語を母国語とする人々が多く集まる教会だった。
国籍は日本でありながら,両親がスペインの大学で教鞭をとっていたため,スペインで生まれ,社会人になるまでスペインで育った私にとって,この国は同化しにくい。
両親の仕事の都合で,この国に戻ってきた,いや,移住してきた。両親は,また,スペインに戻っていったが,私は,この国で,なんとか生活してみようと思った。
スペイン文学の教授の下働き,つまり,翻訳をしてあげて,それを教授が軽く手直しをして,自分の翻訳として出版する仕事で食べてはいけているが,何かにつけ細かすぎるこの国の人間との付合いは,本当に神経を消耗する。
だから,教会でのひと時は,無くてはならないものだった。
ただし,両親はそうだが,私自身はクリスチャンでもなく,日本人の中では異邦人の私も,教会に来るスパニッシュの中では,やはり外国人扱いで,孤独感が増す事も多かった。
老人と会ったのは,そんな孤独感との付き合い方も上手くなり,それなりに在日スペイン語系人種達との付き合い方にも余裕が出てきた頃だった。

「君は,スペイン語を話すんだそうだな。」
ミサ用のベンチの一番後ろに座って,賛美歌の練習を聞きながら,与えられた翻訳本を読んでいる時だった,老人が,隣に静かに座って,私に声をかけてきた。
ひどい中南米訛りのために,最初は聞き取りにくかった。
「私は,スペイン語が話せる人を探している。」
「ここに来る人達は,概ね喋れます。」
「違う。スペイン人ではなく,日本人で,だ。私の言う事が理解できるか?」
「勿論。」
「よし,今から時間をくれ。一杯おごろう,いいな。」
有無を言わさぬ口調が気に食わなかったが,特に急ぐ用も無かったので,老人に付き合うことにした。
「ヨシヒコ,今日は,もう退散か?」
ベンチから立ち上がった私に,祭壇から神父が声をかけてきた。
ヨシヒコというのが,私の名前だった。
「ああ,今日は私に付き合ってもらう。」
私に代わって老人が答えた。
「結構ですが,あまり飲ませ過ぎないように。」
後で聞いた話だが,老人は,酒癖が悪いので評判だったらしい。
老人は,
「くそッたれ,よけいなお世話だ。」
みたいな事を小さくスラングで呟き,私を教会の近くの川沿いにテーブルが出してある,今時どこにでもあるタイプのカフェテラスに誘った。
「ブランデー,ストレート,フォーフィンガー,ツー。」
老人は,ウエイターにそう言うと,私に向かって顔を皺だらけにして見せた。
それが,老人のウインクである事も,後で知った。
ウエイターは,別に驚く風もなく会釈をして下がった。
それを見送ると,老人は白い,プールサイドによくあるような椅子に深々と座りなおし,葉巻を取り出して火を点けた。
そして,気持ちよさそうに煙を燻らせると,
「この国は,いい国だ。そう思わないか。」
「そうですね。」
私の適当な相槌に,老人は少し身を乗り出した。
「本当に,そう思うかね?」
「ええ,まぁ。」
「ええ,まぁ,か。日本人の悪い癖だ,適当に相槌を打って,そこに突っ込まれると,言葉をはぐらかせて逃げる。」
「そうですね。」
「あはは,また,そうですね,か。こりゃいい。日本式会話初級コース,クリアだな。」
いきなりの老人の笑い声に,周りの人々が一斉にこちらを見た。
そこに,ウエイターが,グラスにブランデーをなみなみと注いだのを二つ,我々のテーブルに運んできた。
周りの視線がさらに集中する。
老人は,そんな事に頓着せずに,グラスを持ち上げた。
「さて,仕事の話の前に乾杯しよう。」
そういうと,半分ほどを,一気に喉に流し込んだ。
「仕事の話ですって?」
「ああ,君に依頼したい事がある。」
「ですが,私をご存知なんですか?」
「今,分かったよ。君が,スペイン語を自在に喋れる日本人だって事がね。君が,人間性までスペイン語系の人間だったら,私は,この一杯を飲み干して,君とは,おさらばするつもりだった。君が,スペイン語系の人間を気取るタイプだったとしてもだ。」
「はい。」
「合わんのだよ。母国的な人種とはね。いや,合い過ぎて,嫌になるというか。」
「分かるような気がします,何となく。」
「何となく,か。そうだろうな。実は,ここ何回か,君の事を見させていただいた。後をつけたこともある。おっと,不愉快にさせたのならば,お詫びさせてくれ。大丈夫?本当か?ふん,まぁ,いいだろう。」
老人は,さらに身を乗り出して話を続けた。
「君は,スペイン生まれのスペイン育ちなんだってね。ただ,純粋の日本人なので,スペインでは,常に異邦人として扱われ続けた,違うか?そして,異邦人扱いされるのが嫌になって,この国に帰ってきた,そうだろ?」
「大筋では,間違いないですね。」
私は,老人の瞳に,黄色人種の血を認めながら相槌を打った。
「だが,育ちがスペインの君は,この国では異端児だ。合わない。合うわけが無い。そこで,スペイン人の集まるあの教会に顔を出し始めた。ところが,スパニッシュの中では,やはり君は異邦人だ。異邦人たる君自身を処しかねている。そうだろう?」
「確かに。」
「その理由は,君の見掛けだけによるのじゃない。血だよ。いかにスペイン育ちでも,日本人の血が,君とスペイン人とを確実に分離している。君の育ちが,君と君の母国人とを分離させているようにね。君は,どちらにも加われない。加わる努力を放棄したといって良い。」
そこまで言うと,老人は,大きく目を見開いて顔を近づけ,私の目をじっと覗き込んだ。
私は,目を覗き込まれるのが嫌いだ。
小さく咳をすると,老人から視線を離した。
老人は,再び椅子に深く座りなおすと,グラスの中身を飲み干し,ウエイターに向かって差し上げて見せた。
ウエイターがそれを受け取り,指を一本立ててみせ,老人がうなずく。
「そう言う男が必要なんだ。探していたんだよ。スパニッシュって奴等は,私の喋る事を理解できないだろう。理解できても,笑い話程度にしか思わない。だから,真剣には聞いてくれない。反対に,日本人は,何にでもうなづきすぎる。どこまで理解してくれているのか分からない。読めない。読めない人間相手に何かを喋るのも疲れるもんだ。特に,私くらいの歳になると,気力が持たない。」
老人は,遠くを見つめて,言葉を探した。
「君が,私の期待するような男であると信じるよ。」
「どのような事を期待されているのか,まだ,分かりませんが。」
「そうだな。つまりこう言う事だ。私も異端なのだよ,おそらく。その事について,君がどのように思おうとかまわない。私は,異端たる自分を抱えて,長い年月,さまよって来た。南米の国に生まれ,育ち,その貧困から這い上がりながら,常に異端であった。その思いから逃げ出すためにこの国に来た。この国では,私は,あからさまに異端だが,その方が,私には救いだった。」
「その事を私に理解しろと。」
「理解しなくてもいい。だが,少なくとも他のスパニッシュのように奇異の目では見ないだろう,私の話を聞いてもね。さて,依頼の内容だが。実は,私には,母国に年の離れた腹違いの弟がいる。生きているうちに,彼に会うことは,おそらくないだろう。私には,唯一の身寄りだよ。その弟に,語って聞かせたいことがあるのだ。それを,君に口述筆記して欲しい。」
「連絡は取れないのですか?」
「取らないほうが互いのためなのだ。」
私は,そのことについては詮索すべきではないだろうと思った。謎めいた喋り方をする男は,必ず胸に一物を持つ。いい意味でも,悪い意味でも。
好奇心は,最後まで取っておくに限る。特に初対面の相手であるならば,なおさらだ。
老人は,ウエイターの置いた新しいグラスの中身を三分の一ほど空けると,顔の半分を皺だらけにした。これは,老人が自嘲気味に笑っている表情なのだ。
「口述筆記などと偉そうに言ったが,小説家でもないので,きちんとまとまった内容は,もちろん喋れない。君は,私の言葉をメモして,後で,分かりやすく清書するのだ。ただ,名文である必要は無い。伝わればいい。録音しても構わんよ。いや,やっぱり録音は止めて欲しい。私の肉声を残すべきではない。できるか?」
「やってみないとわかりません。もし……。」
言うべきかどうか迷った。
「何だ,言ってみろ。」
「もし,途中で,私があなたの期待通りの人間じゃない事がわかったら,どうします?」
「その時は,すべてを諦めるさ。その程度の人生だったのだ。」
何を大袈裟なと,思った。
「大袈裟だと思っているだろう?私には,もう時間が無い。どれだけの言葉を弟に残してやれるか。一刻も早く始めたいのだ。だが,私は,他人に自分の時間を押し付けるのが嫌いだ。私の依頼を引き受けるかどうか,今決めろとは言わない。考える時間をやろう。明日,そう,明日,もう一度連絡する。その時に答えを聞かせてくれ。」
私には,この時,どうしてこんなに老人が焦っているのか,理解できなかった。
その後も,そして,この先も,理解できないだろう,その深いところは。
理解できないなら,理解できないままでもいい。無理に知ろうとしなくてもいい事が,この世の中には沢山ある。
大事なのは,そのことに対して,どう向き合うか,あるいは,どう向き合えるかという事。
老人の話からは,随分と,きな臭さが漂っていて,具体的なリスクは見えないにしろ,私の脳裏には,警鐘が激しく鳴っていた。
あとくされが無いように,具体的な連絡先は教え合わない事にしようと,老人が言った。
「だから,いつも君がいるチャペルで,明日の正午は,どうだ。」
まだ暫く飲んでいくという老人を残して,私は,川べりのカフェテラスを後にした。
途中振り返ると,夕闇が迫り,川沿いのコンクリート柵に埋め込まれた照明が,老人の姿を浮き彫りにしていた。

「ヨシヒコ,気をつけた方がいい。」
翌日,教会で,私を見るなり神父が,そう声をかけてきた。
「あの老人について,あまりいい噂を聞かない。」
「何をされているんですか,あの方は。」
「分からない。不明なんだよ。だから,だ。この国のスペイン語系人種の数は知れている。と言う事は,その人の職業なり,人となりは,必ず伝わってくる。特に,私のように神父をしている者の元にはね。ところが,彼については,不明なのだ。これは,噂に過ぎないが,彼の母国の麻薬カルテルに所属しているという話もある。」
神父は,最後のセンテンスを,特に声を殺して言った。
「とにかく,気をつける事だ。」
そして,住所を書き付けた紙を私に渡した。
「君は,今日,ここで老人と会う予定をしていたんだろ?都合が悪くなったので,事務所まで来て欲しいとの事だ。住所がそこに書いてある。何なら,電話で断ってもいいんだよ。」
そう言いながら,ポケットから旧いタイプの携帯を取り出した。
「携帯ならありますよ。」
先月買い換えたばかりの新しい携帯を,神父に見せた。
カメラが付いてて,エムペグが聴けて,短時間ならテレビも見られるやつだ。
が,この冗談は,神父には伝わらなかった。
「発信元が分かってしまうと,後でしつこく追いかけられる事だってある。断るなら,私ので断りたまえ。」
「ありがとうパードレ,でも,とりあえず,言ってみます。」
「冒険もほどほどにしたまえよ。」
「気を付けます。」

もらった住所は,この国でも一,二を争う地価の高いエリアに建つビルの最上階のものだった。
スペイン語をカタカナにした社名のパネルが,最上階を含む三フロア分,エレベータ前の案内板にはめ込んである。
とりあえず,日本語とスペイン語で,受付とあるフロアで降りることにした。
世界でも有数の服飾専門店や,テレビによく出るシェフの経営する飲食店等が入る大きな雑居ビルの一階の喧騒とは裏腹に,その会社のフロアは静かなもんだった。
エレベータのドアの向こうは,広々としたエントランスホールで,目を凝らせて見るほどの向こうに受付嬢がいた。
日本人だった。
私が近づくと,読んでいた本を置いて,スペイン語で
「いらっしゃいませ。」
と,言った。
混血の女の子で,胸元が大きくブイの形に開いたオレンジのサマーセーターを着ている。
私は,老人の名前を告げ,会いたいのだと,言った。
「社長のお知り合いの方でございますか。」
「昨日,知り合ったばかりなんですが,今日,こちらに来るようにと,言われています。」
女の子の胸元からちらりと見える白い下着の端を気にしながら,スペイン語で言い,
「とりあえず,私の名前を伝えていただけますか。」
最後に,ためしに日本語で言った。
「少々,お待ちください。」
女の子は,流暢な日本語で返すと,内線電話の受話器を取り上げた。
それと,ほぼ同時に,事務所への出入り口と思われる大きな擦りガラスのドアが開いて,老人が顔を出した。
そして,私を認めると,顔を皺だらけにして,手を差し出してきた。
「いいタイミングだ。待っていたよ。」
私は,老人の手を握り返す。
「そろそろ来る頃じゃないかと思って,覗いてみたのだ。さ,入りなさい。」
案内されるままに事務所に足を運んだ。
広いオフィスの中は,机一つ一つが壁で仕切られ,ラフな,しかし,礼を失しない程度の服装をした,実に様々な人種の人達が,概ね,ゆったりとした足取りで,その間を動いていた。
最小限に抑えた電話の音が,時折,響いた。
そこここで,会話する声が聞こえるが,部屋の壁や床などの材質に,吸音性のものでも使っているのだろうか,耳障りに響いてこない。
使われている言語は,ほとんどスペイン語だが,日本語もあり,英語もあり,フランス語もあった。
「このフロアには,営業マンが詰めている。」
「営業マン,ですか。何の会社なんですか?」
「ふむ,まだ,言っていなかったか。いくつか事業を動かしているのだが,メインは,不動産だ。特に,外資系企業のための不動産。日本国内の不動産を海外の企業に紹介している。最近は,アジア全域の不動産の仲介を行っている。」
「想像もしていませんでした。失礼しました。」
老人は,顔を皺だらけにしてウインクして,
「いや,いいのだ。私は,君に,個人対個人で会っている。私のステータスは,忘れてくれとは言わないが,気にしないでくれ。今日,ここに来てもらったのは,後で知られて,変に遠慮されるよりもいいと,思ったからだ。それと,金持ちの道楽と見られて,私の依頼を受けてもらえやすいだろうとも考えたのだよ。あはは。」
老人は,高らかに笑いながら,私の肩を何度か叩いた。
そのオフィスの奥に,小さなエレベータがあった。
「このエレベータを使わないと,私のオフィスには行けない。」
ビルの一階からのエレベータでは,展望の利くリフレッシュスペースにしか辿り着けない。
その事は,後で確認した。そこは,飲み物や食べ物の自動販売機とトイレのある,オープンスペースとなっていた。自動販売機と言っても,コインを投入するタイプではない。社員カードを差し込んで,後で引き落とされるタイプのものだった。
老人のオフィスに行くためのエレベータは,三人も乗れば満員になるくらいの小ささで,階数ボタンの変わりにテンキーが付いており,暗証番号がないと,動かない仕組みになっていた。
老人が暗証番号を入れると,ドアが閉まり,エレベータは,我々を静かに最上階に運んだ。

老人のオフィスは,スペイン語系の人間には珍しく,ブラウンを基調としており,シックで落ち着いていた。
まず,エレベータを降りると,人がようやくすれ違える程度の狭い十メートル程度の長さの廊下がある。社員のためにリフレッシュスペースを作った関係で,そうなってしまったのだそうだ。
リフレッシュルーム側が壁,そこに近代絵画が幾つも並べられている。
反対側はロッカールームになっていて,衣服専用や,書籍専用に分割されている。
廊下の突き当たりに六十平方メートルくらいの広さのスペースがあり,そこが老人のオフィスかと思われたが,そこには,隅にポップなベンチが一つあるだけのフリースペースとなっている。
ところで,我々が,廊下の中ほどに差し掛かると,このフリースペースの方から大型の犬が二匹現れて,駆け寄ってきた。
とても友好的な表情には見えなかったので,足をすくませていると,老人が笑いながら頭を撫ぜてやる。
「グレートデンだ。」
「ビルの中で飼ってらっしゃるのですか。」
「本当は,駄目なんだ。だから,内緒だよ。」
老人が,小さく口笛を吹くと,彼らはフリースペースに戻って行った。
ところが,フリースペースには,犬小屋らしきものは無い。
どう言う事かというと,犬が自由に開閉できる仕掛け扉があるのだそうで,怪しげな人物が訪ねてきた時は,このとても友好的でない犬達に囲まれて,老人を待たねばならないらしい。
「ずっとビルの中じゃストレス溜まるでしょうね。」
余計なお世話かとも思えたが,驚かされた腹いせのつもりで言うと,
「たまに,野外に連れ出しとるよ。彼らは,ヘリコプターが好きでな。」
そう答えて,また,顔を皺だらけにした。
フリースペースのベンチとは反対側に扉があり,ここもセキュリティーカードと暗証番号でロックされていた。
その扉を抜けると,さらに広いスペースがあった。
入り口の反対側の壁際に,ばかでかい一枚板の仕事机があり,真ん中より少し窓よりに二十名ばかし座れそうな大型のソファセット,窓際には簡単な造りのテーブルと二脚の椅子,その向こうには,ややうす曇りながらも高層ビル最上階の素晴らしい見晴らしがあった。
「私は,ゴタゴタと物を置くのが嫌いでね。」
老人は,窓際のテーブルに私を案内すると,インターホンに向かって,
「ブランディーを頼む。ストレートでいい。二つ。来客なんだ。」
次に,こちらを見て,
「君も飲むだろ。あまりアルコールを取るなと,秘書の奴がうるさく言う。」
「あなたの体を慮っての事でしょう。」
「私の事は,私が一番良く知っとるよ。で,考えてくれたか。」
「ええ。」
「で?」
「お受けしようかと。」
「そうか,そりゃあ,ありがたい。断られたらどうしようかと思ってたんだ。いい候補を見つけるのさえも,なかなかに難しい。もう,君以外に相応しい人物はいないだろうと,思ってた。」
そこに,ピチッとした濃紺のスーツを着た秘書がブランディーを運んできた。
「ちょうどいい。乾杯しよう。アンジェラ,君も是非一緒にやりたまえ。」
アンジェラと呼ばれた秘書は,ちらりと私を見ると,老人の方に向き直って,
「ウイ,ムッシュー。」
と,言った。
「彼女は,アメリカ生まれだが,フランス生活が長い。」
長い鼻,切れ長の目,長い首,長く細い指,長い脚。アンジェラの体のパーツは,何もかもが,始めてみる長さを持っていた。
身長も,私より二十センチは高いだろう。そして,美しかった。
「アンジェラ,彼は,私の依頼で,これから度々ここにも顔を出す事になるだろう。よろしく頼むよ。」
アンジェラは,スペイン語でよろしくと,小さく言った。
「スペイン語も喋るんですね。」
「後,日本語もな。」
何ヶ国語も喋べるのと,おしゃべりなのとは,どうやら違うらしい。
彼女は,その後,我々の横に立って,ブランディーを飲みながら,実に気持ちのいい笑顔を向け,興味深そうに話を聞いてはいたが,一言もしゃべらなかった。

雇用期間は,約二ヶ月。老人が必要とした時に老人の側にいて,老人の言葉に耳を傾ける。決して,先を急がせない。そして,聞き漏らさずに書き留め,後で清書する。
「清書した内容は,私に見せてくれなくていい。私に見せる代わりに,アンジェラに見せてくれ。それも,週に一度程度でいいよ。アンジェラがそれをタイプする。」
「私が,喋れるのは,いいところ,日に二時間程度だ。それ以上は,集中力が持たない。それ以外の時間は,君の自由だ。翻訳の仕事でもやるがいい,片手間にね。」
そのような条件で,老人が提示した報酬は,今時のサラリーマンの初任給よりはるかに高い額だった。
「場所は,そうだな,主にここを使おう。受付から,アンジェラを呼び出してくれればいい。邪魔になるかも知れないが,後で,携帯電話をアンジェラから受け取ってくれ。それで,連絡を取ろう。」
そう言いながら,老人は,三杯目のブランディーを止められていた。
「仕方ないな。じゃあ,少し教会へでも行くか。神父にこの事を報告しなくちゃならん。」
「お体に触ります。途中で飲むのも駄目ですよ。飲んで帰ってこられたら,私,会社辞めますから。」
「わかっとるよ。社用車を用意させてくれ。」
もちろん,老人は,教会へなど行かずに,昨日のカフェテラスに直行した。
そこが,行きつけの場所らしかった。
お抱えの運転手も心得たもので,老人が何も言わなくてもその近くで車を止め,老人を降ろした。
「迎えはいらんからな。」
「はい,では,明日の朝,お迎えにあがります。」
走り去る車を見送って,
「君は,どうする,付き合うか。」
「いえ,もう充分です。」
「うむ,では,また明日だな。」
そして,すたすたと歩き去る。
やや背中は曲がっているが,矍鑠とした歩き方だった。
その後姿が,午後三時のカフェテラスの,白く眩しく光るパラソルに溶けていった。