(十)


「母が亡くなると,私は,祖国に興味を失ってしまった。」
次に老人と会ったのは,二日後である。
さすがに,誘拐が身に応えたようで,丸一日うつらうつらする日が必要との事だった。
「失礼します。」
と,若い看護婦が入ってきた。どこか結香里に似ている。
そうだ,朝,この看護婦に欲情した。
血圧を測りに来てくれた時だ。
ベッドに軽く腰掛け,私の手を自分のわき腹に当てるようにして抱き込み,血圧を測ってくれた。それは,彼女にとっては何ら他意の無い所作なのだろう。
が,どこか結香里に似た横顔を見つつ,彼女の脇腹の柔らかさと温かさ,そして腰の丸みの始まる辺りを手の甲に感じた時,久々に自分の物に激しい血流を覚えた。
私は,慌てて彼女から目を逸らしたが,上気した顔は隠せなかった。
その事を思い出す。
「お体をお拭きしますので。」
と言うので,席を外そうと立ち上がりかけると,
「いいよ,そのままで。」
と,老人が止める。
スペイン語だったので,看護婦には分からなかったようだ。
老人は,私を指差して,次にオーケーのサインを作る。
看護婦は,それで分かったのか,ニッコリ微笑む。
上体を起こされ,上着を脱がされて,体を拭いてもらいながら,老人は,
「ああ,いい気持ちだ。もう三年も若ければ,この子をベッドに押し倒すんだが。」
と言って,顔をしわくちゃにする。
看護婦が通訳を求めて私の方を見るので,老人が大変感謝していると伝える。
「そう言っていただくと,大変励みになります。」
看護婦が,素直に喜んだ。結香里に似て,いい子だと思った。
「組織にも未練は無かった。金は,腐るほどにあった。
だから,私は,アメリカに渡った。組織での地位は,みんな欲しい奴にくれてやった。
アメリカに渡ったはいいが,別段,何をしようなんて当てがあったわけではない。
それまでは組織の有力者だったから,いろいろな連中から監視されていたしね。
何にもさせてもらえなかった。それで,一年ばかし語学学校に通って,それから仕方なしに大学に入った。そこで,自分が実は勉強に向いていることを知った。
それまで,勉強などした事がなかったからね。ほとんど一日書物に没頭する日が続いたよ。
歴史や,文学,科学,物理,経済,政治と,時間の許す限り講義に出席した。で,結局,自分に最も向いている学問として薬学を選んだ。
何故,薬学かって?
そうだな,麻薬という人を狂わせる世界に身を置いていたので,その世界から逆に人のためになる事をしたかったからだな。
それと,私は幸運な男と思われていたってのは前に話しただろう。そのために,たまにな,特に信仰心の厚い老婆なんかが,私に触れただけで病気が治ってしまうことがあった。
自己暗示のせいなのだが,私でも人を幸せにできるんだと驚いたが,この自己暗示の力と薬の作用との関係に興味があったのだよ。
それでな,薬学を一通りやってから,心理学を学び,それだけでは私の疑問は解けずに,医学部に入りなおして,大脳生理学を修めた。そして,再び薬学に復帰した。もう,五十に近かった。
組織とも縁が切れ,私を監視する目も無くなった。」
「すごいですね,それだけ熱中できるなんて。」
「金は,ふんだんにあった。研究したいという熱意以外に邪念はなかった。だからだよ。
組織とは縁が切れたと言ったが,奴らは妙に律儀なところがあって,私が抜ける時に約束してくれた生活費,まぁ,慰労金の分割払いみたいなもんだが,きっちりと送ってきた。
今でも送られてくるよ。」
「今の会社の収益だけでもたいしたものでしょ。」
「いや,なに,今経営している会社は,大赤字なのだ。社員の給料で,すべてが消えていく。私の懐には,ほとんど入って来ない。」
「あんなに大きな会社なのに。」
「企業経営なんてのは,見かけと実質とは違うものだ。所詮,人間の浅知恵が仕出かす事だ。成功体験を鼻にかける企業経営者も,公園で野宿する浮浪者も,その判断能力,知識力,どれをとっても大差ないのだよ。紙一重だ。例え合衆国大統領でもな。
私は,そのような経験を嫌と言うほどに味わった。
君には言っていないが,私には,もう一つ肩書きがある。アメリカ国籍の製薬ベンチャーの経営者だ。大きな会社ではないが,利益体質は,こちらの方がはるかに高い。
私の生活は,そちらで成り立っている。
この製薬ベンチャーは,私の研究の成果なのだよ。
私は,心理学と大脳生理学を通して自己暗示について随分と研究した。そして,神経系統の伝達物質の中に,自己暗示と密接に関連する物質を見つけ出した。
人間の脳は,神経細胞間の無数の電気信号が密集して出来上がった巨大なパルスの巣だ。
そして,そのパルスの伝達される方向性,つまり導かれる方向性によって,その時の,その人間の思考が決定される。
そのパルスの移動する先を導く物質が存在する。パルスのゲートのようなものだ。
ゲートが,より広く開いた方に向かって,パルスは,より多く移動する。
そして,そのゲートの開き具合は,条件反射によって決定されるのだよ。
君も知っているだろう,パブロフの犬の,あれだ。
個々の神経細胞の先端にあるゲートも,条件反射によって制御される。
つまり,もっとも微細な反射行動だな。
ところで,このゲートは,本人がもっとも快と思う方向に対して条件付けされるのが本来の姿だが,本人の育ってきた環境や,現在置かれている状況等に影響を受けるために,その一つ一つは,いびつに条件付けられる。個々には,微妙な歪みだが,これが総体となって,本人のパーソナリティーを決定付けるのだ。
自己暗示は,このゲートが,無意識のレベルで,本人の望ましいと思える方向にコントロールされたものだ。それが,肉体的にも影響を及ぼすのだよ。
そして,この微妙な歪みの一部が,激しいショックなどで,さらに大きく歪むケースがある。それが,精神疾患,つまり精神病なんだよ。
私の開発した薬は,このゲートの大きく歪んだ部分を本来の歪みのレベルにまで戻してやる事ができる。
また,自己暗示のように,本人が無意識に望ましいと思っている方向に歪めてやることができる。
まぁ,所詮は人間が開発したものなので,限度はあるがね。
例えば,精神分裂などで幻聴などの症状がある場合に,それを抑える働きがある。
君のような健康な人には,縁の無い薬だろうが。」
「自己暗示ならば,充分に縁がありますよ。やる気がでるような薬なら,みんな欲しがるでしょう。」
「そういう使用法は制限された。覚醒剤と同じ効果を持つと言う事でな。」
「そうなんでしょうか。」
「ああ。軍隊に使われた事もあった。覚醒剤よりも安全に兵士のやる気を引き出せるとして。しかし,大した効果はなかったらしく,すぐに使用中止となった。
まぁ,軍隊などに使用されなくて,私としてはよかったよ。」
先程とは違う看護婦が食事を持ってやってきた。
「おや,もうそんな時間か。そろそろ,こんなベッドの上ではなく,きちんとしたテーブルの上でだ,綺麗なお嬢さんと,楽しく語らいながら食事をとりたいものだな。」
「アンジェラに,そう言っておきましょうか。」
「あはは,彼女は,男嫌いが過ぎる。そろそろ,君の彼女を紹介して欲しいものだな。そうだ,私が退院したら,退院祝いに君の彼女も招待しよう。」
「言っておきましょう。」
「しばらく会ってないんだったな。明日くらい外出許可とったらどうだ。もう,怪我のほうは大丈夫なんだろ?」
「ええ。」
「私からも,ここの先生に言っておいてあげよう。」
「助かります。」
ドアのところで振り返ると,老人が子供のように手を振った。