(十一)



翌日,アンジェラが顔を見せた。
「街まで乗せてってもらえるかな,外出許可を取ったんだ。」
アンジェラは,しばらく,私の顔を見ていたが,
「そうね,もうすっかり怪我の方もよさそうだし。」
アンジェラのその言葉に歯切れの悪さを感じたので,
「何か,気になることでもあるの?」
「どうして?」
「何となく。」
「何でもないわ。」
「まだ,変な奴らがうろちょろしているとか。」
「大丈夫よ。問題は,あらかた片付いてる。」
「この前も,そう言ってたじゃないか。」
「今度は大丈夫。安心して,ね,彼女と。」
そこで口ごもる。
「やっぱり,何か変だよ,アンジェラ。何か心配事でも?」
「実は,あなたを愛してしまったの。」
「そんな冗談は,誰も信じないよ。」
「そうね。あなたを乗せていくの,夕方くらいになるけど,いい?」
「うん。外泊許可ももらっておこう。」
「手続きは,私がやっておくわ。車出す時に呼びに来るから。」

アンジェラは,結局,午後二時を回ったあたりで,私を呼びに来た。
「少しでも早いほうがいいでしょ。」
車がポルシェからプジョーに変わっていた。
「この間,壊れたから。」
車は,とてもノーマルとは思えない加速感で走り出す。
狭い山道で百キロ近いスピードが出ているだろう。
海沿いの二車線の道に出ると,さらに加速する。
怖くて,スピードメーターを見ることができない。
見たことのある漁村が視界を通り過ぎる。
それで,あの病院が,先日訪ねたアンジェラの友人の別荘の近くにあることを知る。
車は,やがて街に入り,さすがにアンジェラもスピードを落とした。
「どこで降ろそうか?」
アンジェラが,やっと口を開く。
それまで,お互いに一言も発していなかった。
私は,アパートの近くを指定した。
「いい,何か困った事があったら,すぐに私に連絡して。すぐによ。わかった?」
やけに念をおして,アンジェラは走り去った。

久々のアパートだった。
泥棒に入られ,大家に手伝ってもらって片付けて以来だ。
「おや,帰ってきたんだね。長い間,どこに行ってたんだい。」
玄関先で大家とばったり出会う。
「ほら,手紙,取っといてやったから。」
「ありがとうございます。」
「新聞は,とってないんだね。」
「ええ。」
「変な外人がいっぱいうろついてたから,てっきり,あんたが何かおかしな事件にでも巻き込まれたんだと思ってさぁ。」
ほとんどがダイレクトメールの封筒の中から,葉書くらいの大きさの紙袋が出てきた。
中には,以前,結香里と動物園に行った時の写真が何枚か入っていた。
いい歳して動物園なんて,と言い合いながら,結構楽しんだ時のだ。
「それね,玄関先に散らばってたから,拾っておいたんだよ。」
結香里が,持って来てくれたに違いない。
「いつですか。」
「そうだねぇ,二週間以上も前だねぇ。この部屋に泥棒が入って,三,四日ばかし後だよ。」
結香里は,やはり,許してくれていたのだろうか。
それとも,別れを告げに来て,ついでに置いて行ったのだろうか。
写真の中の私と結香里は,ソフトクリームを持って笑っている。
「ちょっと出てきます。」
私は,結香里の住む街に行こうと思った。
結香里の家を探し出そう。仲直りしよう。

ところが,この世の中は,なかなか思った通りにいかないものだ。アパートを出て,駅に向かう曲がり角で,数人の男に囲まれた。
「怪しい者じゃない。」
そう言って警察手帳を見せた男に見覚えがある。
「この前は,調書作るのを手伝ってもらってありがとう。」
少し離れたところに立っている背広の男は,私を麻薬常習犯か何かだと疑ってかかったあいつだ。
「少し時間をもらっていいかな。」
調書の男,警察手帳には林田と書いてある,が,やけに慇懃な態度で話す。
「ちょっと,今は。」
都合が悪いと言う私に被せる様に,
「協力してくれたほうが,君のためだと思いますが。」
もう一人の私服の男が,さらに優しい声で言う。茅野というらしい。
「どう言う事なんですか。」
「こんな所では,まぁ,あれだから,ちょっと一緒に来てくれませんか。」
「すいません,本当に時間が無いんです。急いでるんで。」
林田が,先を急ごうとする私の前に立って,
「立原結香里さんを知っているよね。」
「ええ。」
「立原結香里さんの事で聞きたいんですが。」
「結香里が,何か。」
警察官から結香里の名前を聞いて,胸が騒いだ。
「誘拐だよ。」
「何言ってるんですか。」
結香里と誘拐が結びつかない。
「非公開だったので,ニュースにはなっていませんがね。」
「誘拐って,いったい誰が。」
「それを今,捜査しているところなんです。」
「正確には。」
と,茅野が継いだ。
「結香里さんが行方不明になって,ご家族から捜索願いが出されました。我々は,行方不明と誘拐の両方の線で捜査しました。一週間後,そろそろ公開捜査に踏み切ろうかと言う時に,お家の近くで発見されました。結香里さんは,体のあちこちに傷をおわれ,精神的にもかなり強いショックを受けておられる。何かを聞ける状態ではない。今もそうです。」
「あなた,しばらくアパートに帰ってらっしゃらないですよね。どこにいらしたんですか。」
と,林田。
「怪我をして,入院していたんですよ。」
「ほぉー,どこに,どこの病院ですか。」
病院の名を告げると,茅野のほうが,携帯で確認をとり始める。
「彼女の頭髪から,このような物が発見された。」
それまで黙っていた背広の男が,小さいビニール袋を見せる。
中には,前見たのと同じ,枯れた葉が入っている。
「マリファナだよ。メキシコ産。君の部屋で見つかったものと同じだ。
君,怪我をしたと言ったね。何故,怪我をしたんだ。」
「私も誘拐されそうになったんです。」
「君が,麻薬ブローカーといざこざを起こして,それに彼女も巻き込まれたと考えられないか。」
「病院の確認が取れました。」
と,茅野。
「結香里さんは,かなり惨い目に会われたようだ。手首,足首の紐で縛られた跡。かなり暴れたんだろう,深い傷になっていた。そして,顔の殴打の跡。左目なんか,腫れ上がって,ほとんど塞がった状態だった。」
「やめてください。」
「歯も何本か折れていた。」
「もういいですよ。」
「そして,股間の裂傷。これが,何を意味するか分かっているよね。」
「やめろ。」
それ以上,聞きたくなかった。
結香里が,結香里がそんな目に会うなんて。
「嘘でしょ。そんな嘘ついて,何の意味があるんですか。」
「嘘じゃないんです。我々も,犯人逮捕に全力を傾けますから,あなたも協力してください。」
「私を疑ってかかってるじゃないか。」
「そう言う可能性もあるって事だよ。」
「結香里に,結香里に会わせてください。」
「今は,無理です。面会謝絶で,我々も会えないんですよ。強度の対人恐怖症に陥ってらっしゃいます。」
「どこにいるんですか。」
「それも,言えません。」
体の力が,抜けていく。
「ともかく,我々に協力してください。ね。」
「何を協力すればいいんですか。」
「先日の君のアパートの空き巣事件以来,君の行動,君の周りで起こること,とにかく不振な事ばかりなんだよ。」
背広を制して,林田が,
「まぁまぁ,ここで立ち話もなんだし,署までご同行願えませんか。」
私は,結局,彼らに同行し,二,三時間かけて,今までの事を全て話した。

「その老人,」
と,背広が言う。
「かつて,麻薬カルテルの一員だったと言ったのか。」
「ええ。」
「君と同じ病院に入院しているんだな。」
「そうです。」
「調べる必要があるな。」
背広は,そう言って,携帯に指示をとばす。
「警察庁のリストには載ってないんですか。」
林田の問いに,背広はあからさまに不機嫌な顔になった。
「ともかく,君が誘拐された件,そして,立原結香里誘拐暴行の件,両方にその老人がからんでいるのは間違いない。」
結香里の名前と誘拐暴行という,とても結びつかない二つを,あえて結びつけて喋られて,不覚にも涙がこぼれる。
「つらいのは,よくわかります。」
茅野が,肩に手を置いて慰めてくれた。
「結香里さんの親御さんも,大変にショックを受けてらっしゃいます。」
「このところ,海外の麻薬組織のメンバーが,大量に入国しているという情報がある。」
茅野を無視して,背広が言う。
「この数ヶ月の動きだ。その老人のところにも,それらしき連中が姿を現してた,なんて記憶があれば言ってくれ。」
「まぁ,彼も,今日はショックを受けている最中ですから,あまりたたみ掛けるように何でもかんでも聞くってのも。」
「その老人の会社の起こしたトラブル。これも怪しいもんだな。麻薬ルートが絡むトラブルかもしれない。」
背広は,あくまで茅野を無視して言う。
「最近,発生した事件で,外人がらみの事件ってなかったか。」
と,背広。
「そうそう,港の外れの空き倉庫で,激しい喧嘩のような物音を聞いたって件がありましたよね。」
「確か,拭き取られてはいたが,血痕の反応は幾つか出たって奴か。」
「検出された指紋は,わが国に登録されているいずれにも該当は無かったって事ですよね。」
「その近くをねぐらにしている浮浪者が,外国人が頻繁に出入りするのを見たといっている。最後に,何かが中に詰められた麻袋が,幾つか持ち出されたって事だ。」
その時,背広の携帯が鳴った。
背広は,しばらく携帯に相槌を打っていたが,ややあって,
「君は,老人と同じ病院に入院していたと言ったな。」
「はい。」
「君の言う病院は,確かに存在する。君が入院していて,今日,外泊許可を取っていることも確認できた。だが,君の言うような老人の事は知らんと言っているらしい。」
我が耳を疑う。
「一緒に病院まで来ていただければ,わかります。」
「今,捜査員を向かわせている。君の言っている事が正しいかどうかは,すぐにわかる事だ。」
「私は,嘘なんか言ってません。」
「もし,君の言うことが正しいとすればですよ,」
と,林田。
「ますます,その老人が怪しくなってきますね。」
「ちなみに,老人が経営しているという会社だが,存在するが,社長は日本人だ。設立当初から変わらない。外国人を多く雇っているが,外国人が経営者であったという事実はない。」
「じゃぁ,私が見たものは,何だったんですか。幻覚だったとでも言うんですか。」
「こちらにも,明日,捜査員を向かわせる。すぐにわかるさ。」
「私も連れて行ってください。」
「そりゃ駄目だ。我々は,君を信用しているわけではない。」
「一体,私はどうしたら。」
「とりあえず,今日は帰りたまえ。パトカーで送らせよう。万一のために,一晩,警備させよう。その,アンジェラからの連絡を待つんだ。」
「そうすれば,老人の居場所もわかるかも知れませんね。」
「ばか。もし,彼の言うことが正しいとしたらだ,これだけ姿を隠そうとしている相手が,みすみす姿を現すなんてこと,あるわけ無いだろ。」
背広からそう言われて,茅野が口ごもる。
「君は,全てを我々に報告すること,いいね。」
背広に念を押されて,うなづくほか無い。

パトカーが,アパートの前に静かにつけられた。
制服の警察官二人と,私服の茅野が,アパートの前で一晩警備してくれるという。
「くれぐれも,力を落とさずにね。」
茅野が,パトカーの中から声をかけてくれた。
警察官に見送られながらアパートへと向かう道々,頭の中がまだまだ混乱していて,自分がどこに行こうとしているのかさえも,判らなくなる。
結香里に会いたいという気持ちが,激しく沸き起こる。どうしたら会えるのだろう,会うチャンスも,今の自分には与えられていないと言う事,自分の無力感,それでも会いたい,会って抱きしめれば,実は何も無かった,私が警察官から聞いた話は,全くの作り話だったと言う事になるのではないか,そんな取り留めの無い思いだけが渦巻いて,異常な高揚感みたいなものと,崖っぷちの絶望感みたいなものが,交互に現れる。
だから,アパートの入り口のところに立っていた,体ばかりが大きいねずみのような初老の男に気付かずに通り過ぎた。
「おい。」
と,その男が呼ぶ。
「私ですか?」
男が,私の名前を確認する。自分の名前を言われても,すぐには,自分がそのような名前であったかどうかというところに行き着かない。
時間が全てを解決してくれると言うのは嘘だ。時間が立つほどに,頭も,気持ちも,切り替えようが無いほどに混乱していく。そして,気分は,落ち込んでいく一方だ。
男がもう一度,私に名前を確認する。そして,ようやく入り口の暗がりから姿を現した。
櫛を通さない白い髪,無精ひげ,力なく見開かれた目,わなわなと震えた唇,しわくちゃのカッターシャツ,薄汚れたスラックス,貧乏神なんてのがいるならば,こんなのだろうと思われるような風体だった。
「娘を,娘を返してくれ。」
搾り出すような声で男が言う。
「何ですって?」
「君だろ,娘をあんなにしたのは。」
「おっしゃっている意味がわかりませんが。」
ただでさえ混乱しているところに,こんな混乱を絵にしたような男が現れると,余計に現実感を喪失していく。
「とりあえず,お入りになられますか。」
自分で,何を言っているのやら,まるで夢と現を行き来している時の会話のようにしか思えない。
「いや,ここでいい。」
相手も同じようだ。視線に落ち着きが無い。
「失礼ですが。」
ようやく,相手の素性を聞くのだというところに行き着く。
「娘の,結香里の父親だ。」
「結香里の。」
父親は,一流企業の重役で,厳格な人物であると,結香里から聞いている。
そこから推定される人物像と,目の前に力なく立ち尽くす男とが結びつかない。
男が差し出す名刺をみて,そこに一部上場の企業名と立原何某と読めて,初めて実物らしいことに思いがいたる。
「結香里は,今,どこにいるんですか。」
「お前になぞ,会わせる必要など無い。」
「いや,結香里は,私を必要としている筈です。」
「馬鹿な。」
「私が,これだけ会いたがっているのに,彼女は,もっと会いたがっている筈だ。」
「何を言うか。」
男が胸倉を掴んでくる。が,力なく,男自体が私に倒れ掛かってくる。
私も,避けるだけの意志が働かず,二人してコンクリートの床に倒れこんだ。
そこに茅野が走り寄ってくる。
「何をしてるんですか,止めなさい。」
そして,結香里の父親を認めて,
「立原さんじゃないですか。何してるんですか。とりあえず,冷静になってください。」
「この男が,この男が。」
と,繰り返しながら,結香里の父親は,涙を流し始める。
私自身も,泣いていることに気がついた。
「娘があんなになって,家内も,家内も。」
「わかってますよ,立原さん。だから,あなたがしっかりしないと。」
茅野が気の毒そうになだめる。
「娘は,私達が,ようやく待ち望んだ子供だった。妻は,もう四十近かったので,夫婦で,はらはらしながら,その誕生を待ち望んだんだ。結香里の誕生に,私たち夫婦が,どれだけ喜んだか,どれだけ大事に育てたか,わかるか。
わかるか,お前に。」
ようやく立ち上がりかけた私に,また掴みかかってくる。
二人して,再び倒れ伏す。
「普段,仕事が忙しくて会えない娘のために,どれだけ,いろいろな事を計画して,どれだけ,色々なところに連れて行ってやったか。
多少は,わがままだが,本当に親切な,優しい,いい子に育ってくれた。」
「わかります。」
「お前なんかに,わかってたまるか。」
「立原さん,彼のせいじゃないんですから。」
「警察は,黙ってろ。」
「お父さん,気が済むなら,殴ってください。」
「お父さんだと?お父さんだと?お前なんかに,お父さんと呼ばれる筋合いは無い。」
「ともかく,殴って気が済むなら,殴ってくださっていいですから。」
「君も,止めなさい。さ。二人とも,立ってください。立つんだ。部屋に入って,落ち着いて話をしましょう。」
「いい。すぐに帰るよ,私は。
お前,娘に会いたいと言ったな。娘も,たまに君の名前を呼んでいる。
私ではなくて,お前だ。何で,お前の名前なんか。」
そういうと,また,声を詰まらせる。
しばらくして,
「ともかく,明日,ここへ来い。会わせてやろう。君のせいで,娘がどうなったか,しっかりと見るんだ。いいな。」
病院の住所が書かれた紙を差し出す。
「はい。」
男は,力なくうつむいて,暗がりの中へ溶けていった。

「駄目です,それは。」
精神科医がきっぱりと言う。
翌日,まんじりともせぬ朝を迎え,早々と,結香里の父親の差し出した紙に書かれた病院に出向いた。父親は,既に病院の玄関先に立って待っていた。
そして,私を伴って精神科医のところに行くと,結香里と私を会わせるように願い出た。
「何故駄目なんだ。」
「そりゃそうでしょ。今,彼女は,非常に危険な状態です。わかりますか?あなたや私は勿論,普通では看護婦ですら近づけないんですよ。拘束衣をつけている状態で,やっと看護婦が近づける。私の診察は,鎮静剤で眠っていただいている時に限ってます。もし,普通の状態で近づけば,どうなると思います?彼女は,自分自身を,激しく傷つけるでしょう。ましてや,この方は,かつて恋人であった方だ。近づける事によって,今の彼女に,どれだけの影響を与えるか。」
「しかし,娘は,結香里は,時々彼の名前をつぶやいているというじゃないか。」
「それはね,目の前にいるリアルな彼ではなくて,彼女の心の中にいる彼です。
彼女が現実逃避の過程で投影できる彼女の心が作り上げた架空の彼ですよ。」
「結香里は,そんなに悪いのですか。」
「はい。あなたがお付合いされていた結香里さんは,もうこの世にいないと思っていただいた方が,あなたの為でしょう。冷たい言い方かも知れないが,それが事実です。
事故で,精神的に激しいショックを受けられ,極端な現実逃避と自己否定に走られ,そのために,激しい対人恐怖と,自己破壊の衝動に陥っておられます。わかりますか。」
「何となく。」
「確かに,たまに,あなたの名前をつぶやいておられますが,それは,現実のあなたでは無い。おそらく,今,彼女は,あなたの姿すらも認識できないでしょう。自分以外の人間はすべて恐怖の対象です。そして,自分自身は,否定し破壊すべき対象としてのみ認識されています。本当にひどい目にあわれたんですね。」
「結香里,結香里。」
結香里の父親が,しゃがみこんで娘の名前を呼びながら,子供のように泣きだす。
「ですから,しばらくは,来ていただいても。」
「どれくらいかかるんですか,結香里と,普通に会えるようになるには。」
「わかりません。私どもも,出来る限りの手はつくしてますが。」
「彼に結香里の姿を見せてやってくれ。」
結香里の父親が,いきなり立ち上がって言う。
「あまり意味は無いと思いますが。」
「君だって,見たいだろう。」
「はい。」
「わかりました。お父さんも一緒に来られますか。」
「いや,私は,ここでいい。ここで待っている。」
そう言うと,ベンチに座り込んで,顔を伏せ,動かなくなった。
「じゃあ,こちらへ。」
私は,精神科医の案内するままに,エレベータに乗り,食堂のような空間を通り,まるで刑務所のように窓に鉄格子の入った廊下を歩いて,ある部屋の前で立ち止まった。
「ここです。」
部屋のドアの上部に覗き窓があり,そこから中を覗けという。
「中には入れません。」
言われるままに覗く。最初,中のレイアウトが理解できず,中の様子が,どうなっているのかわからないでいた。
ようやく,壁全体がクッションのようなもので覆われた狭い部屋で,覗き窓の右手にベッドが置いてあり,足をこちらにして誰かが寝ているのだという事が見てとれた。
壁のクッション材から,シーツ,そして寝衣まで,何もかもが白い。
ベッドの上に寝ている患者が,本当に結香里であるのかどうかは,わからない。
腕を前に組んで寝ている。
「拘束衣で,そのような姿勢を取ってもらっています。」
その時,中の患者に動きがあった。
目を開け,こちらを見る。
顔の半分が見て取れたが,昨日警察で聞かされたとおり,かなり強く殴られたらしく,まだまだ腫れ上がった状態で,そのために,なお,それが本当に結香里であるのか判然としない。
「結香里。」
思わず,私は名を呼んだ。
その途端に,患者は,上体を跳ね起こし,ドアとは反対の壁に体をくっつけた。明らかに脅えている。
そして,壁に頭を何度も打ち付ける。やがて,激しく嘔吐し始めた。
「いかん,危険だ。ちょっと,離れてください。」
精神科医は,力の強そうな看護婦を呼ぶと,
「患者が,嘔吐物で窒息しないように気をつけてあげてください。鎮静剤も。」
そして,私を一階の,結香里の父親の所に連れて行く。
「あれは,本当に結香里なんでしょうか。」
「信じられないでしょうが,そうです。もう,あなたの知っている結香里さんは,この世にはいません。残念ですが。」
結香里の父親は,先程と同じ格好で,ベンチに腰掛けていた。
そして,私の姿を認めると,立ち上がり,
「本来なら,不本意でも,君を息子よと,呼んでいたのかもしれない。」
彼は,どのように気持ちを整理して行っているのか,目に力強さが,少し戻っていた。
私は,殴られるのを覚悟で,結香里の父親を抱きしめる。
以外にも,彼も,私を抱きしめた。
その瞬間だ,私は溢れる声を押しとどめることができなくなり,結香里の名前を声に出しながら,泣き始めた。
「結香里は,私が守る。」
しっかりとした冷静な声で,結香里の父親が言う。
「ようやく自分を取り戻せそうだ。君のおかげかも知れない。もう大丈夫だ。
結香里は,私が守る。」
「私にも,何か,」
その言葉をさえぎって,
「君の知っている結香里は,もういない。残念ながら,君に出来ることは何もない。
私たち親なら,もう一度,あるがままの娘として受け入れ,共に歩むことが可能だ。
親だからな。だが,君には,できない。」
力強い声だった。
「一つお願いがある。聞いてくれるか。」
「はい。」
「もう二度と,私と私の家族の前に姿を現さないでくれたまえ。
これは,君を拒絶して言うんではない。
お互いの無駄と,後戻りを避けるためだ。いいか?わかってくれるだろうか。
人生は,つらい。それでも,先へ進まねばならないのだ,お互いに。
それしか,道は無い。君が,私たちの前に,特に結香里の前に姿を現すと言う事は,結香里が前に進もうとする意思を押しとどめてしまう事になるかもしれない。
お願いだ。お互いのために,本当に結香里を愛してくれていたのならば,結香里のために,私の言うことを理解して欲しい。」
それは,さすがに説得力のある,上場企業を引っ張っているだけの冷静な判断力とパワーに溢れた男の言葉だった。
結香里の父親の言葉に,私は完全に打ちのめされて,病院を出た。
自分が,どこを歩いているのかすら,しばらくは認識できなかった。
結香里の父親は,結香里を全的に愛している。
それは,父親として当たり前なのだろう。
娘が,どのような状態であろうと,それをあるがままに受け入れ,なおその上で愛そうとしている,いや,愛している。そうすることによって,彼自身も力を得ている。さらに,結香里に,その力を分け与えるのだろう。
私は?私に,いったい何ができる?どのように今の結香里を愛せる?結香里に力を与えられるか?逆に,結香里と一緒に混乱と自虐の中に自分を追い込むだけなのではないのか?
結香里に,私は,自分の帰るべき場所を見つけたと思った。それは,幻想だったのか。
帰るべき場所は,翻せば,命に代えても守るべき場所ではなかったのか。
その場所を,結香里のいるところを,私は守れたか?
結香里の父親のように,全的に愛せるか?
私は,完全に自信を喪失していた。
さらに,心の中の大きな,頼るべき柱をなくしていた。
結果,私は,自分の国に溶け込めない自分自身を持て余して,結香里に頼っていただけなのだという現実を,受け入れざるを得なかった。

携帯が鳴っていた。
私は,自分のアパートに帰ると,毛布を被ってうずくまった。
そうして,寝るでもなく,起き上がるでもなく,たまに結香里の事を考えて涙にくれるような,そんな一日を送った。
暗くなっても,灯りも点けずに,そのままでいた。
携帯は,先程から何度か断続的に鳴っている。が,そのまま放っておいたのだ。
留守録に切り替わる。アンジェラからだった。
「結香里さんに,彼女に,会ったのね。」
と,アンジェラが語りかける。
「つらいのはわかるわ。とても良くわかる。」
しばらく,間を置いて,
「でも,元気を出して。」
そこで,切れた。
私は,慌てて携帯を取り上げる。
もうすでに,電話は切れていた。
何故だ,という思いが,混乱した頭に拍車をかける。
何故,アンジェラが,結香里に起こった事を知っているのか。そして,私が会いに行ったことまで。
コールバックボタンを押す。
アンジェラが出た。
「何故?」
「今は,理由は言えないの。」
「アンジェラ。」
「わかって欲しい。」
「わからない。何故?」
「切るわ。盗聴されている可能性があるから。」
「切らないで教えてくれ。」
「今の番号も通じなくなるわ。
しばらくしたら,こちらから連絡するから。今までの謝礼金は,あなたの口座に振り込んでおくわ。さようなら。」
「アンジェラ。」
電話が切れる。
再度,コールバックボタンを押す。
繋がらない。電源が切れているのか,電波が届かないトンネルにでも入ったのか。
何度目かで,その番号が使われていない旨のアナウンスが流れる。
何故,アンジェラが結香里の事件を知っているのだ?
そう言えば,昨日,車に乗っけてくれている時,何か思いつめたようで,いつもと様子が違ったが,あれは,結香里の身に起こったことを知っていたからなのだろう。
そうすると,アンジェラは,もっと前から結香里の事を知っていた筈で,私に,その事を隠していたんだ。
何故?
そして,いつから?
私は,結局,老人やアンジェラ達に利用され,捨てられただけではないのか。
そして,その最大の犠牲者が結香里だった。
自分の甘さのために,結香里をひどい目にあわせてしまった。

翌日,私は,教会に赴いた。神父から知っているだけの事を聞きだすためだった。
が,いつもの教会に見知った顔は無かった。
神父すらも代わっている。
「彼は,国に不幸があって,帰国しましたよ,つい先日。あなたに会いたがっていました。」
後任の神父は,私の事を聞いていたらしい。
これで少しは現実感が戻る。
が,やってくる信者に見知った顔が無くなっている事に気が付いた。
聖歌隊のメンバーも代わっている。
「どういうことですか。」
私は,知っている名前を片っ端から挙げた。
神父は,古い,分厚い名簿を持ち出して,私のあげる名前を一緒に探してくれた。
「これは,万一の時のために,お互いに安否を確認するために,随分古くから作成されているものです。ですから,ここに名前がないのは,余程ですよ。」
「私は,夢を見ていたのだとでも?」
「まさか。でも,結果的には,そう言う事にもなりかねませんね。そうそう,朝一番に警察の方もこられてました。」
そう言って,林田と茅野の名刺を差し出す。
「ありがとうございました。」
神父に礼を言って,次に向かう場所は,当然,老人が経営していたはずの会社の事務所だ。
一等地の雑居ビルディングは,あった。
オフィス用入り口のエレベータホールの会社の名前も変わっていない。
やってきたエレベータに乗り込もうとして,林田や茅野と鉢合わせする。
「やぁ,君も来たのか。」
「ええ,自分の目で確認しないと,どうしても信用できなくて。」
「社長さんは不在だったよ。まぁ,行ってきたまえ。我々は,出たところで待ってよう。この後,君の話に出てきた漁村と,別荘,それに外科病院を回る。君も行きたいだろう。」
「ええ,まぁ。」
「いいよ,一緒に行こう。今日は,鳥居がいないので,連れてってあげよう。」
あの背広の男,鳥居と言うんだったかと思いながら,頭を下げると,エレベータに乗った。
受付けも,混血の受付嬢も,受付嬢の胸の大きいところも何一つ変わっていない。
「いらっしゃいませ。」
と,受付嬢が,笑顔で立ち上がる。よく見ると,制服だ。
「社長さんにお会いしたいのだが。」
スペイン語で言うと,
「は?あの,失礼でございますが,何をおっしゃったのか。」
「先日は,スペイン語もしゃべれたじゃないか。」
さらにスペイン語で言うと,困ったように頭を傾ける。
「ごめんなさい。君が混血なんで,てっきり外国語がしゃべれるもんだと思ってた。」
と,日本語で謝る。
「いいえ,いいんです。父がスペインで,そちらの雰囲気を沢山引き継いでしまったものですから,よく外国語で話しかけられるんです。」
「社長さんにお会いしたいんです。」
「先程も,警察の方が来られてましたけど、あいにくと不在なんです。」
「そうですか,じゃあ,社長秘書の方にお会いしたいんですが。」
「それでしたら,今,降りられたエレベータに乗って,最上階におあがり下さい。」
おかしい。一階からのエレベータでは,社員用のリフレッシュスペースにしか行けない筈では。
ともあれ,言われるままに,エレベータに乗る。
最上階には,リフレッシュスペースなど無く,受付階と同じ構造で,違うのは,エレベータが着くなり,チャイムが鳴り,暫く待つようにというテープの案内が流れる。
やがて現れたのは,ビシッと三つ揃えを着た長身の男だった。
「秘書の玉川ですが。」
「社長様はご不在だとか。」
「ええ,社長の青木は,ただいま海外出張中です。」
「中国の不動産の下見ですか?」
「はぁ?我が社は,ヨーロッパ各国から食料を輸入販売する会社ですが。」
「以前,こちらでアンジェラという女性とお会いしたんですが。」
「誰ですか,それは。ところで,何の用でしょう。特に無ければ,失礼させていただきたいのですが。」
挨拶もそこそこに引き上げる。
老人もアンジェラも,全く痕跡を残さずに,忽然と姿を消してしまった。

「こんな事が,あっていんでしょうか。」
「君が嘘をついているようには,私にも思えないんですよ。」
林田が運転しながら言う。
「ともかく,少しでも,君の言葉の裏づけが取れればいいんですがねぇ。まぁ,虱潰しに行って見ましょう。」
漁村はあった。
アンジェラがポルシェを隠した納屋もあった。
漁師もいた。が,飲んだくれて,ろくに話もできない。
「こいつは,いつもこんなですよ。」
隣の漁師が言う。
「持っていた船を酒に変えちまって,ここ一年以上,海には出たことがないんじゃないかな。かみさんにも逃げられちまって。」
「うるせぇ。」
「私の事を覚えてませんか?アンジェラと一緒に来た。」
「アンジェラ?しらねぇなぁ。いい女だったら,ほうっとくわけがないよなぁ,うひひ。」
酒臭さにたまりかねて,納屋を出る。
「別荘ねぇ,あるには,あるよ。」
隣の漁師が言う。
「連れて行ってもらえませんか。」
「あんなとこ行って,どうすんの。」
「先日,その別荘に滞在したんです。」
漁師は,それを聞いて,おびえた顔になる。
「あんた,そりゃあ,化け物にたぶらかされたんだろう。」
「化け物?」
「きれいな女もいたってか?」
「はい。」
「やっぱり,化け物だ。」
「どう言う事だ。」
茅野がたまりかねて,口を挟む。
「その別荘ってのは,昔,金持ちの家族の持ち物で,本当は,陸からも行けたんだよ。ある年,台風の晩に孤立しちまって,崖が崩れて,その時に火が出たんだろう,台風が過ぎちまってから助けに行ったら,別荘は崖の下敷きになって,まだ,くすぶってた。奥さんと子供の死体は,土砂の下で,ご主人は,火が出ても土砂から二人を助け出そうとしたんだろうかねぇ,真っ黒こげだったよ。別荘は,あの時のままなんで,焼け焦げた木切れと土砂崩れの跡しかない筈なんだがなぁ。」
「その御主人は,薬学を学んでらっしゃいましたか?」
「わからねぇ。でも,たしか,大学で教えてるなんて言ってたなぁ。」
ともかく,嫌がる漁師に頼み込んで,近くまで行ってもらうことにした。
その日は,波が高く,以前のような快適な船旅とは,行かなかった。
林田も,茅野も,最初は狭い漁船の船室で転がっていたが,やがて,船べりまで這っていくと,顔と言わず,頭と言わず,波を被ってずぶ濡れになりながら,大量にもどし始めた。
やがて,船は減速し,漁師の声が聞こえる。
「あそこだよ。」
遠くてよく見えないが,確かに別荘らしき建物は見当たらない。
「もっと,近づいてくれ。」
と,林田。
「あんまり,近づいて,とりつかれでもしたら。」
「そんなわけ無いだろう,近づけ。」
漁師が,しびしぶ,舵を岸にとる。
近づくにつれ,崩れ落ちた建物の跡が見て取れる。
船をつけた桟橋も無い。
「あんた,こんな所に泊まってたんだよ。」
漁師が言う。
「他には無いんですか,同じような場所。」
「無いよ。このあたりは私らの庭みたいなもんだ。生活がかかっているからね。隅々まで知ってるよ。」
「ともかく,岸につけてくれ。」
と,茅野が息も絶え絶えに言う。
「どうやってつけろって言うんですか。桟橋も無いのに。」
「何か方法があるだろ。」
結局,海岸近く,かろうじて背が立つ場所に縄梯子で我々を降ろして、船は,座礁しないように陸から少し離れた所で待機することになった。
下半身をずぶ濡れにしながら,ともかく陸に上がれた事で,林田も茅野もホッとした顔になる。
足のふらつく桟橋のあったあたりに,棒杭の跡が見える。土台が,海中に突き刺さったまま,腐りつつあった。
別荘の跡に近づいてみる。
「大丈夫ですか?」
茅野が,まだふらつく足で砂浜に立ち尽くしたまま,声をかけてくる。
「ええ,大丈夫ですよ。」
何が大丈夫なんだろうと思いながら,鸚鵡返しに答えておく。
先日から,大丈夫な事など何一つとして無い。これ以上,何かが起きても全然怖くない心境だ。お化けでも何でも出てくればいい。
別荘は,半分が焼け落ち,半分が土砂に埋まったままになっている。
何を怨むのか,折れた柱が天を指している。その折れたところ,ざっくりと木の繊維が飛び出したところが,昨日今日,折られた感じじゃない。長い間,風雨に晒されていた事が見て取れる。
その柱の後ろに回って,そこから海を見てみる。その光景にピンと来る。
そうだ,リビングの真ん中にあった柱だ。この柱を背にして,ベランダへの広い窓とベランダと,その向こうに海が見えた。
今は,砂浜と海しか見えない。海は,曇って,荒れ模様だ。はるか沖合いに,雨雲だろう,暗い雲とその下の小さな簾のような雨脚が見える。
と,すると階段がこのあたりでと,焼け跡を跨ぎ跨ぎ,別荘の概観を概ね辿ってみる。
記憶している通りに,土台が残っている。やはり,私は,この別荘に滞在していたのだ,つい最近。あれは,何だったのだろう。漁師が言うとおり,本当に化かされていたのだろうか。
台所のあったあたり,老人とアンジェラが楽しそうに夕食を作っていたあたりに,大きな調理台らしきものの痕跡がある。調理台の上に載っていた大きなアルミの板が,焼け残っているのだ。
そのアルミの板の上に,何か周りとそぐわない物がある。小さなガラスの置物だった。
周りの物には,皆,何がしか風化の後が見られるのに,そのガラスの置物だけは,真新しかった。小さな赤い風船を持った女の子だった。スカートを履いた透明な体に,頭巾だけが風船と同じ赤。気持ち顔を傾げて微笑んでいる。
「何か見つかりましたか?」
林田が後ろから声をかけてくる。
あわてて,その人形を手の中に隠して
「いえ,何も無いですね。」
「見事に焼け落ちてますねぇ。本当に,君,ここに泊まったんですか?」
「私自身も,何だか自分の記憶が信じられなくなってきました。」
それは,本当だった。
結香里を失い,心はとうに空洞化していた。その上に,自分の記憶を否定せざるを得ない事ばかりが起こっている。
もう,何も信じなくてもいい,自分自身すらも信られない,信じたくない,という感じだ。
それが,どんどん増大していく。
ただ,待てよ。今,手の中にあるガラスの人形,こいつは現実だ。誰が何と言っても現実だ。しかも唯一だ。

船が別荘のあった浜から離れていく。
先程は遠くにいた雨雲が,既にそこまで迫ってきている。
やがて,雨が落ち始め,崩れ落ちた別荘は,雨の向こうに霞んで消えた。
手の中に,ガラスの人形の感覚がある。
それだけが妙にリアルだ。夢の中の一点の覚醒。
元の漁師町に船が着くと,林田も,茅野も,私も,ずぶ濡れ状態で,悪寒さえした。
「とりあえず,今日は引き上げますか。」
林田が提案したが,茅野と私が,せっかくここまで来たんだからと,次の目的地,外科病院まで行く事を主張した。
そこで,町の雑貨屋でバスタオルを買い込んで濡れた体を拭き,車内の温度を上げて,目的地に向かう。
老人と私を担当した外科医は帰る寸前だったらしい。
私を見つけると,
「駄目ですよ,勝手に退院しちゃあ。」
「すいません,一日だけの外泊許可だったんですが。」
「まぁ,街には楽しいことがいっぱい待ってますからね。それに,この病院に運び込まれた時はひどい状態だったですけど,もう,随分回復されましたしね。」
「その事についてなんですが。」
林田が,警察手帳を見せながら話しに割って入る。
「彼が,担ぎ込まれた時の状況を,もう少し詳しく話してくれませんか。」
外科医は,我々を待合室のベンチに案内しながら
「昔,別荘があったあたりの崖から落ちたんでしたよね,足を滑らせて。」
「別荘の崖から?私が?」
「そうですよ,よく命が助かったもんです。結構高くて険しい崖ですからね。
左肩の脱臼,後頭部と腹部の打ち身,内臓破裂に至らなかったのが幸いです。それでも,十日ばかり意識がなかった。」
「別荘って言うのは,何年か前に,そこで一家が亡くなったっていう,あの?」
「そうですよ。あれは悲惨な事故でした。あの事故の現場検証に立ち会ったのも私でした。
ここから近いですからね。ご主人は焼死,奥さんと子供は圧死状態でした。」
「そうか,君の別荘での記憶は,そこで生死の境目を彷徨っている時にできあがったんじゃないのか。その,死人の霊と一緒に。」
と,林田が早合点するのを
「死人の霊が高層ビルの外資系企業から付いてくるのか?」
と,茅野が止める。
「私は,何故,あの崖から落ちたのでしょう。」
「あれあれ,私が診察した時は,記憶喪失は併発していなかった筈ですが。なんだか,さみしくなって,いきなり飛び込んだって,言ってたじゃないですか。」
この医者は,何故,こんな嘘をつくんだ。
「知らせてくれたのが,背の高い美人の外国人の女性で,ええーっと名前は,何て言ったかな。」
「アンジェラ。」
「そうそう,アンジェラ。彼女,フランス語しか喋れ無くて,最初は何言ってんだか,全くわからなかったんです。」
そのうち,私は,腹が煮え繰り返るのを覚えた。
「何故,そんな作り話ばかりするんです?」
「何ですって?」
外科医は,いかにも心外だと言う顔をする。
「私は,アンジェラに連れて来られたのは事実ですが,崖から飛び降りたりなんぞはしていない。アンジェラが何と言って説明したかは知りませんが,崖から落ちたような怪我でしたか,本当に?
それと,ホセと言う名の老人も一緒に入院していた。
いや,ホセなら,今も入院している筈です。」
「ホセ?そんな人は,知りませんよ。」
「嘘だ。」
「嘘じゃないですよ。高橋君,ちょっと。」
例の結香里に少し似ている看護婦がナースセンターから出てくる。
「君,ホセって言う老人を知ってるか?」
「いいえ。」
彼女は,私を見て,はにかんだように会釈をした。
「でも,君がお世話してたじゃないか。一番端っこの個室の老人。」
「ああ,確かにそこにはご老人がおられますが。あの方が何か?」
「それって,加藤代議士の事じゃ。」
と,外科医。
「そう,嫌味なご老人ですよ。」
「こら,高橋君。」
「だって,本当に嫌な方なんですもん。人の事,ジロジロ見たり。」
「会わせていただけますか?」
「代議士に?」
「会いたいんです。」
「それはねぇ,ちょっとねぇ。」
「会わせて下さい。」
「じゃぁ,まぁ,ついて来てください。あなた方も?」
と,外科医が警察の二人に訪ねると,二人ともうなずいた。
老人のいた部屋は,カーテンが締め切られ,薄暗かった。
「ここは,いつもこんな感じなんです。」
と,結香里に似た看護婦が言う。
「何者だ。」
と,ベッドの方から横柄な声がする。
林田と茅野が,私のほうを見て,あれがその老人かと,目で訪ねる。私は,首を横に振る。
「誰が来たんだ。」
「面会の方ですよ。」
と,外科医。
「面会なんか無用だ。早く帰らせろ。」
茅野が警察手帳を見せながら,
「すいません,御休みの所,ちょっとだけお聞かせ願えればありがたいんですが。」
「ワシが警察に何を聞かれるんだ。」
「いや,簡単なことです。いつから入院されてます?」
「もう,三ヶ月はたつかなぁ。」
「そうですか。いや,お時間とらせました。ありがとうございました。」

「これで,君の嘘が明らかになった。」
林田が言う。
「嘘なんかついてません。」
「まぁまぁ,気を失っている間に夢を見たんだよ,ほとんど現実のようなね。そういう事って,あるだろう。」
茅野が取り成す。
「ありえると思いますよ。崖から落ちる瞬間に,何となく部屋の間取りみたいなものが見えて,それが夢に反映される。そして,別のところで見た老人などの夢が入り混じる。アンジェラという女性も,彼女があなたを発見した時に,ちらっと見たんだ。一瞬気がついてね。その時に,彼女の姿が強くあなたの記憶に刷り込まれたと考えてもいいでしょう。」
「さすが,お医者さんは,説得力がある。が,問題は,何故,君があんな崖なんかにいたかだよ。」
「茅野さん,私は,あそこから落ちてない。」
「誘拐されて,投げ落とされた。」
「まさか。」
「だって,君は,気を失っている間の記憶は無いんだろ?その前からの記憶だって,あやしいもんなんだよ。」
「何だか,頭が壊れそうだ。」
「今日は,ここでゆっくりして行きますか?まだ,あなたには退院許可を出してないんですから。」
「いや,もっと,いろいろ調べないと。」
「調査は,我々の仕事だから。」
「そうそう,我々に任せ給え。」
林田と茅野が口々に言う。
「結香里が,あんな目に遭わされたんですよ。結香里のために,犯人を探し出します。」
「お気持ちは分かりますがね,素人にうろちょろされちゃあ,捜査の邪魔になるだけですから。今日で,一応,落ち着いたでしょ。」
落ち着いてなんかいられるか。
「どうします?とりあえず,退院します?」
外科医がたずねる。
「お願いします。」
「じゃあ,高橋君,彼の病室に連れて行ってあげてください。身の回りのものがあったら,引き取ってください。捨てるものは,彼女に渡してくれれば,処分してくれます。」
結香里似の看護婦について,病室に行く。
「持ち帰るものも,捨てるものも無いみたいですね。」
「そう言われれば,そうですね。」
「あら,これかわいい。」
見ると,コップ等を片付ける枕元の小型のロッカーの中に,小さなガラスの人形が置いてある。
先程,崩れ落ちた別荘跡で見つけたのと,同じ人形。ただし,色が違う。
その人形は,風船と頭巾がオレンジだった。
私が入院している間は,無かった筈だ。これは,一体何を意味するのだろうか。
何故,この同じ色違いの人形が行く先々にあるのか,不思議ではあったが,私にとっては,唯一の現実であるような気がした。
「これ,あなたの?」
「ええ,まぁ,でも,気に入ったのなら,あげます。」
「本当に?」
結香里と同じ顔で笑う。
「お世話になったお礼。」
私にとっては,その人形が病室にもあったという事実,それだけでよかった。
「ありがとう。大事にします。」
もう一度,結香里と同じ顔で笑う。
もう,あんな結香里は見ることができないのだ。
本当に?
私の記憶の全てが嘘ならば,結香里の身に起きた事も嘘であればいい。
街に帰れば,いつもの結香里の顔で,私を待っていてくれたら。
そう強く願う。

「ともかく,あなたの事件も,立原結香里誘拐暴行事件と深い関連性があると言う事で,捜査致しますので。」
私の淡い期待は,帰りの車中で,林田が私に語りかけたその言葉で,見事に覆された。
できれば,結香里の名前を冠したその事件の名前は,聞きたくも無い。
「今,捜査員を動員して,立原家周辺を聞き込みしています。ま,あなたも重要参考人という事で、あまり遠方には行かないでくださいね。できるだけ,連絡の取れる場所にいてください。犯人は,我々がすぐに逮捕しますから。」
そう言って,私のアパートの前から,彼らの車は,走り去った。
「大変だったねぇ。」
振り返ると,いつの間に立っていたのか,大家だった。
「聞き込みに来た刑事さんから話は聞いたよ。可哀想に,げっそりしちゃって。部屋で待っといで,なんか栄養のあるもの食べさせてあげるから。」
それを断って,部屋に帰る。
何故,自分の記憶が尽く覆されるのか。
何が現実だったのか。
あのガラスの人形は,何を意味しているのか。
私は,ポケットから,壊れずにいた赤い風船のガラスの人形を取り出し,窓辺に置こうとして凍りつく。
窓辺には,黄色い色違いの人形があった。
私の留守中に,誰かが忍び込んで,ここに置いたに違いない。
しかし,待て。もともと,この人形は,私が持っていたもので,自分の行く先々に持っていったのに,その事すらも忘れてしまっているとも考えられる。
ますます,現実と虚構の境目が見えなくなる。

「駄目です。」
と,精神科医ににべも無く断られた。
翌朝,もう一度会おうと,結香里の入院している病院を訪ねた。
「先日は,お父様の許可があったのでお会いさせてあげられましたが,面会謝絶です。容態は,まったく同じです。まだまだ危険な状態なのですよ。」
病院を出て長い坂を下る途中,黒塗りの車が横に止まり,後部座席の窓が開く。
中から,恰幅のいい初老の男が顔を出す。
「娘には,結香里には,もう近づかないでくれたまえ。先日も,そう言っただろう。」
結香里の父親である。
先日のおどおどした姿から,見違えるようだ。
人は,本人が望むと望まざるとにかかわらず,本来落ち着くべき立場に落ち着くと,それだけで足場が固まり,その人に相応しい顔になり,雰囲気を醸し出す。
人間は弱い。弱いが上の,それが,必要な処世術であることは重々承知しているつもりだ。
が,今の私には,その処世術が使えない。落ち着くべき場所がどこにも無いのだ。
結香里の父親のような,積み上げた立場があるわけではなく,逃げ込める場所があるわけでもない。
この国では,全く希薄な存在だ。
そうだ,この国は,私の住むべき国じゃない。
結香里が目の前から居なくなってしまうと,孤独感が増し,そんな思いが胸に込み上げてくる。
そして,猛烈なホームシックが始まる。
帰ろう。帰るんだ。しかし,どこへ?
どこへ帰ればいい?
この国の中には,帰るべき場所は無い。無さそうだ。
とりあえず,両親のいるスペインか。
そこで,もう一度,自分を見つめなおそうか。
「とりあえず帰るよ。」
と,母に連絡する。
「どれくらい?」
「さぁ,二,三ヶ月。」
「そう,帰ってらっしゃい。」
母は,何も聞かずにスペインまでの費用を振り込んできた。
帰る?
帰る場所は,この国ではなかったのか。
結香里の住むこの国。

「スペインに戻るそうね。」
旅の支度をしているところに,アンジェラから電話が入った。さすが,早耳だ。
「アンジェラ,どこにいるんだ。」
「今は言えないけど,あなたには悪いことをしたわ。」
「一体何が起こって,何が正しいことなのか,わかるように説明してくれ。」
「そうね。ところで,社長が,ホセが死んだわ。」
我が耳を疑う。
「亡くなって,もう一週間になるわ。最後まで,あなたに会いたがっていたわ。」
「どうして連絡してくれなかったんだ?」
「それも含めて詳しく話をしたいの。会ってくれない?」
「もちろん。」
「明後日の正午に,第三埠頭に来て。そこで,きちんと,お話するわ。」
「明後日の正午だね,わかった。」
次の一日は,本当に長い一日だった。
とりたてて挨拶に行く場所があるわけじゃない。
老人が行きつけにしていた川沿いのカフェテラスに,日がな一日座っていた。
一度,警察から電話があった。スペインに戻る旨を話した。
所在は,常に明らかにしておくとも。
だから,逃げ隠れするわけじゃないと。

アンジェラの指定した場所に赴く。
暑い,湿気の多い梅雨が中休みした感じの晴天の日だった。
第三埠頭には大きな貨物船が停泊しており,貨物の積み込みの真っ最中だった。
「あのコンテナの中に,ホセの遺体も入ってるわ。」
いつのまに近づいてきたのか,赤い小型ベンツの窓が開いて,アンジェラが顔を出す。
「アンジェラ。」
「お久しぶりね。」
「あの中に遺体が?」
「ええ,棺おけに入ってね。それと,老人が指定した所持品の全て。大した物は無かったわ。後は,皆,この国で処分したわ。」
「どうして貨物船で?」
「それが,彼の遺言なの。」
コンテナが,船のデッキに降ろされる。
それを見送って,
「乗る?」
「うん。」
アンジェラが車を発進させるやいなや,パトカーが前方をふさいで止まる。
急ブレーキがかけられ,フロントガラスに頭をぶつけそうになる。
パトカーからは,例の背広の男が降りてきた。
「あの,バカ。」
アンジェラがそう呟いて,車から降りる。
「お久しぶりね。」
背広の男が,驚いて後ずさる。
「レイチェル。」
「お元気?」
背広の男も驚いていたが,私も驚く。
「レイチェル?」
「お元気?鳥居さん。」
「やぁ,僕の名前を覚えていてくれたんですか,光栄だなぁ。」
「どう言う事なんだ?アンジェラ。」
「アンジェラ?君が,彼の言うアンジェラなのか。」
「ええ,そう。」
「で,老人ってのは?」
「あそこ。」
と,アンジェラは,貨物船のデッキを指差す。
「ちゃんと説明するわ。ヨシヒコも,随分と混乱させてしまったようだし。」
「ああ,ちゃんと説明してもらわないと。何故,合衆国捜査官の君がこんなところにいるのか。しかも,アンジェラと名前まで変えて。」
「合衆国捜査官?」
と,私は,再度驚く。
「今は,フランスからも雇われているわ。」
「二重スパイって奴か。」
「そんな人聞きの悪い存在じゃないわ。今の私の身分は,フリーエージェントよ。今回の件は,両政府納得の上。両方から,お金と人を出してもらってるの。」
「豪勢な話だな。」
「おかげさまで。依頼内容は,ホセと言う老人の護衛。もう亡くなっちゃったけどね。」
「君が護衛をしなければならないほどの存在なのか,その老人は。」
「あなた,今は,この国の政府に雇われてるのね。」
「今も,だ。かつて,アメリカで君と一緒に情報戦のいろはを習ったのは,この国の政府から派遣されての事だ。」
「そうだったわね。結構,できの悪い生徒だったわね。でも,この国では,エリートだったのね。」
「質問に答えてもらってないが。」
鳥居が憮然として言う。
「あなたの国のシークレットリストの中に,ホセ・ヤン・カルロスの名前は無いの?」
「いや,無い。」
「彼めがけて,世界中から麻薬組織のメンバーが,この国に入りこんで来てたのよ。」
「何だって?」
「その情報すらも掴んでないのね。まぁ,ナーバスなあなたの国の政府機関を,あまり混乱させないようにと言う他国の配慮が効いていたのも事実だけれど。その数,二百名は下らなかったわ。殺人も平気な連中が,密かに蠢いていたのよ。」
「結香里は,そんな連中に?」
「そうね。気の毒だったわ。誘拐されたと情報が入って,できるだけ速やかに行動を起こしたんだけど,命を助けるので精一杯だったの。」
「命を助けた?アンジェラが?結香里の命を?」
「大変だ,本部に連絡を。」
「何を連絡するの?」
「二百名を超える犯罪者達が,この国に入り込んでいるんだぞ。」
「もう,出て行ったわ。老人が亡くなったから,もうこの国には用が無いし。」
「結香里をあんなふうにした連中も,もう海の向こうなのか?」
「いいえ。彼女を助け出す時に大半は死んだわ。あんな酷い事をしたんだから,当然の報いね。負傷して生き残った奴らも,本国に送り返されて,死刑が求刑されたわ。それに値する奴らよ。」
「結香里は,そんな奴らに。」
「彼女が,どんな目に遭ったかは,聞かないほうがいいわね。彼女の状態を見れば,おおよそ察することはできるでしょ。実際は,それ以上の想像できないくらいのひどい目に遭ってる。」
「何故,彼女が,そんな目にあうんだ。」
「最初は,彼女を人質にして,老人から,ある事を引き出そうとしたのね。でも,老人は,別の組織に誘拐されてしまうし,彼女は老人とは無関係だとわかってしまって。で,その時点で,彼らの暴力の矛先が彼女に向けられたのよ。彼らにすれば,戦利品みたいなものだったのね。」
「レイチェル,そのホセという老人の事を教えてもらえないか。」
と,鳥居が,いらいらした顔で割り込む。
「そうね,彼は,精神病理学に薬学の面から多大な貢献をした人であり,スクリューというこの世で最低最悪な麻薬の開発者でもあるわ。」
ホセは,分裂病や躁うつ病等,精神病の治療に大きな効果を持つ薬を開発した。
ただ,その過程で,全く偶然にスクリューという効き目の強い麻薬ができあがった。
スクリューの特徴は,少量,低コスト,即効性,そして強度の習慣性だった。
ただ,その生成レシピは,老人の頭の中にしかなかった。
老人は,テスト的に,一定数生成して保管しておいたが,何者かに盗み出され,一時的に世の中に出,強度の習慣性のために,それを手に入れるために血みどろの争いが起こった。
老人のもとに,各国の麻薬組織が現れ,老人の関係者にも危害を加え始めた。
そこで,老人は,強力な催眠剤で自己催眠をかけ,彼の頭の中にあるレシピを封印する事にした。
彼自身でも取り出せず,無理矢理取り出そうとすると,命ともどもレシピも消えてなくなるようにした。
麻薬犯罪組織は,彼の頭脳に封印されたレシピをめぐって,あの手この手で,やってくる。
これに対抗して,万一でもレシピが犯罪組織の手に渡らないように,各国は協力して,老人を保護することにした。
その役目を依頼されたのが,アンジェラことレイチェルだった。
「私の役目は二つ。万一,老人が犯罪組織と手を組もうとしたら,彼をレシピもろとも抹殺する。そのつもり無くて,偶然に封印が解けてしまった時は,レシピを老人の手から奪い,アメリカ政府かフランス政府に手渡す。どちらに手渡すかは,私に一任するって。でもね,それは,有り得ないわね。両国の組織が,私から,それを奪いにやってくるわ,多分。」
「で,今回の老人の死は,君の手になるのか,レイチェル?」
「自然死よ。」
この時,貨物船の汽笛が大きく鳴った。
「しまった,老人の遺体を調べないと。」
鳥居が貨物船を引き止めに走り出そうとするのをアンジェラが止める。
「駄目よ。あのコンテナは,合衆国政府のものよ。あなた方は,手出しできないわ。」
「どけ。放せ。」
「久々に,私と一勝負してみる?」
貨物船が,静かに岸壁を離れる。
鳥居は,胸のホルダーからピストルを取り出した。
「あなたには,撃てないわ。ねぇ,あなた方は,最初から何の情報も持っていなかったんでしょ。だったら,このまま,何事も無かった事にして,老人を遺書通りに本国に帰してあげて。」
「どうせ,真っ直ぐには帰さないんだろ。」
「そうね,まず解剖されるでしょうね。」
「ひどい話だ。」
「それをひどいと思うかどうかは,立場によりけりよ。」
「もう,二度と会いたくないな。」
鳥居は,そう捨て台詞を残すと,パトカーに乗って去っていった。
「お互い様ね。」
アンジェラが呟く。
そのまま,貨物船が水平線の彼方に消えていくまでの,かなりの長い時間,私とアンジェラは,立ち尽くしていた。
やがて,船の姿が見えなくなると,
「さて。」
と,アンジェラがこちらを向いて,
「あなた,スペインに戻るんだって?」
「うん。明後日の便を予約している。」
「彼女の事は,どうなるの?」
「私に,何ができる?彼女は,人格まで破壊されて,もう何もかもが変わってしまってるんだ。彼女はもう,前の彼女,私の知っている彼女じゃない。」
「今は,そうかも知れないわ。でも,回復したらどうするの?誰が助けてあげられるの?
確かに,今のあなただと,彼女の支えに成れるほどの強さを持っていない。あなた自身も強くならないといけないわ。でも,あなたを措いて他に,誰がその役目を担えるの?」
「でも,彼女の父親は,二度と近づいてくれるなと。」
「親にできる事には,限界があるわ。所詮,子供とは別の人格なんだから。あなた方には,親と子を切り離さないで考えたがる習性を持った人が多いわね。彼女の父親もそんな一人ね。だから,自分の親としての愛情で,彼女を守れると思ってるの。でも,子に対しては,親にはできない事の方が多いのよ。他人の中から,お互いに選んだ相手でないとできない事。つまり,男と女の愛情でこそできる事ね。それが,回復期の彼女には必要になる。まぁ,でも,あなたにも休養が必要でしょうから,ちょっと離れて,ゆっくりするのもいい事よ。
元気が出るように,これ,あげるわ。」
手のひらに押し込まれたものを見る。
風船を持った少女のガラス人形だ。風船と頭巾が青いの。
「アンジェラだったのか。」
「ふふ。」
「でも,どうして?」
アンジェラは,赤いベンツに乗り込みながら,
「あなたまでが,壊れてしまわないように。だって,過去が尽く否定されちゃったら,どんな人でも,気が狂いそうになるわよ。」
「あれは,アンジェラ達の仕業だったのか。」
「勿論。あの程度の事は,簡単よ。ともかく,この国の警察に変に介在されたら鬱陶しいでしょ。特に,あの鳥居みたいなエリート意識ばかりの強い連中にね。だから,捜査の目をごまかすためよ。後のアリバイ作りもあわせてね。あなたには,嫌な思いをさせたけど。
でも,安心して。もうこれで,二度と会うこともないでしょうから。例え会ったとしても、その時は,あなたには,私がわからないでしょうね。近くの駅まで乗っていく?」
「いや,歩くよ。ありがとう。」
「あきらめちゃ,駄目よ。」
そういうと,アンジェラは,走り去った。

この国を離れる前に,もう一度だけ結香里に会いに行った。
やはり会わせてもらえず,結香里の病室と思わしき窓の下で,心の中で別れを告げた。