(十二)



久々のスペインの陽射しは,眩しかった。
出迎えに来てくれた母が,心から抱きしめてくれた。
「昨日,いいオリーブオイルを手に入れたわ。おいしい物を食べさせてあげるからね。ワインを買って帰らなくちゃね。」
マドリードの近郊,ブドウ畑の中を軽快にとばしながら,母が言う。
彼女は,何故,私がスペインに戻ってきたのか,聞こうともしない。
その部分には,触れないでくれているのだろう。
「あ,そう言えば,」
懐かしい石畳の街を通り,我が家が近づいた頃に,思い出したように言う。
「あなたには伝えてなかったけど,今ね,父さんと別居してるの。」
「知ってるよ,父さんはフランスだろ?いつまで向こうにいるの。」
父も母も,大学研究員という仕事上,お呼びがかかれば,どこの国へでも出かけていく。
面白い研究テーマがあれば,そこに居ついてしまうこともある。
それは,今に始まったことではない。
母がドイツルクセンブルグに二年ほど居ついた時は,父が母がわりをしてくれた事もあった。
「残念ながら,今度のは,そういうのじゃないのよ。」
また,悪い冗談でもなさそうだ。
「お互いにね,ボーイフレンドとガールフレンドができちゃったの。」
「どう言う事?」
「嫌ね,別に,そんなに真剣に取らないでよ。よくある事でしょ。お互いに,何か合わない部分が見えてきて,そのまま関係解消なんて。」
父も,母も,自由人を気取っている以上,それは,確かによくある事なのかもしれない。
「それとね,もう一つ,あなたに言っておかなくてはならないの。」
「まだあるの?」
「父さんってね,あなたの本当の父親じゃないのよ。まぁ,あなたも,もう大人なんだから,この辺の事って,わかるわよね。」
「わからないといけないんだろ。」
「ごめんなさいね,ややこしくて。実は,今,同居している中国人がいるの。フリージャーナリストで,世界中を歩いている人なんだけど,この人が,あなたの実の父親なのよ。」
「作り話なら,面白いね。」
「実話なの。」
「だったら,疲れる。」
「彼とは,あなたが二歳の時に別れたから,あなたの記憶には無いわ。その後,実は,何度か会ってるんだけど,あなたの実の父親としてでなく,私たちの共通の友人として会ってるわ。」
「って事は,父さんは知ってるんだ。」
「彼を,私に紹介してくれたのが,あなたの育ての父さんよ。彼が,あなたの実の父親がアフリカの内戦を取材に行った時に消息を絶ってしまって,もう亡くなったものだと思ってしまったの。そんな母さんを慰めてくれたのが,あなたの育ての父さんだったの。」
やれやれという思いで,久々の我が家に入る。
「やぁ。」
と,声をかけてきたのが,母が言うところの実の父親で,よく日焼けした,精悍な男だった。
確かに,何度か会っている。
父や母の知り合いの中でも,好きなタイプだった。中には,神経質な,嫌な奴もいたから。
肩車してもらって,一緒に写っている写真もあった。
「ジョニーだ。覚えてくれているかな。」
「ええ。」
彼は,自分の事をジョニーと呼ばせた。
東洋人なのに,何故ジョニーなのか,そんな事は,どうでもいい事で,本人がジョニーと言い張るのだから,ジョニーでいい。
「母から聞きました。」
「そうか,なら話が早い。君を,一度,息子として抱きしめさせてくれないか。」
「いいですよ。」
「私は,君の父さんに感謝しているし,尊敬している。」
彼は,私を抱きしめながらそう言った。
「あなたが,私のお父さんなんでしょ。」
「ジョニーでいいよ。今さら,ノコノコ現れて,父親面する気はない。」
ジョニーは,さっぱりしたいい男で,世界中を渡り歩いているだけに,話題には事欠かなかった。
で,二,三日はゆっくりしたが,次第に落ち着かないものを感じはじめる。
目の前で,母親の恋愛を見せ付けられると,育った家庭でさえも,帰る場所で無くなってくる。
なるほど,母と私は,やはり別人格なのだ。
「父さんに会ってくるよ。」
と,まず,ジョニーに言った。
「ああ,よろしく言っておいてくれ。うまいワインが手に入ったら,また,飲もうって。」
ジョニーは,そう言った。
「もう,帰ってこないつもりでしょ。」
母は,察しが早かった。
「母さんの生活を邪魔するのが嫌なんだ。二度と帰ってこないわけじゃなし。自分の生活を見つけてみるよ。」
「ここは,あなたの帰ってこれる場所の一つよ。嫌な事があったら,いつでも帰って来て。カオルによろしく言っておいてね。」
カオルと言うのが,父,つまり育ての方の名前だった。

父は,研究所の関係で,オルレアン近郊に,金髪の美人と一緒に住んでいた。
父の大学の教え子でマリーと言った。
「カオルの息子ね,話はいつもカオルから聞いてるわ。妬けるくらいに,彼は,あなたの事を誇りにしているわ。」
訪ねた時には,父は在宅していず,マリーが庭仕事の手を止めて,私を抱きしめながら,そう言って迎えてくれた。
マリーは,よく気の付く,感じのいい女性で,コーラを飲みながら話していても飽きなかった。
やがて,帰宅した父が,
「やぁ,びっくりしたろう。黙っていて悪かったな。」
私を抱きしめながら,そう言う。
「話は,全部聞いたよ,父さん。」
「ジョニーの事もか。」
「うん。」
「いつまでも隠しているつもりは無かったんだが,つい,話しそびれて。で,母さんは,元気だったか?」
「幸せそうだったよ。」
「そうか,良かった。」
父の元には,マリーの庭仕事を手伝ったりしながら,一週間ばかし逗留した。
それは,マリーと気が合い,一緒にいて楽しかったからだ。
一緒にパリまで買い物に行ったりもしたが,いつまでも,世話になるわけにはいかない。
「ニューヨークに住もうと思うんだ。」
それは,この一週間の間に決めたことだった。
「ニューヨーク,いい街よ。私も二年ばかり住んだわ。住所,教えてね,ぜひ遊びに行くから。」
マリーが両手ばなしで喜んだ。
「そうか,で,何をするつもりなんだ。大学にでも入るんなら,学費くらいはなんとかできるよ。」
父は,さすがに不安な顔をした。
「いいよ。しばらくアルバイトで生活するから。」
父は,空港まで見送りに来てくれた。
「血を分けた息子でもないのに,育ててくれてありがとう。」
改まって言うには,別れの時くらいが調度いい。
「ばか,何言ってるんだ。私にとっては,君は,今でも自慢の息子だよ。これから先も,そうだ。それは,君が,私が愛した女の息子だからでもあるが,長い年月の中で,息子は君意外に考えられないからでもある。私の人生の中で,君はとても大事なポイントを占めているんだ。だから,困った事があったら,いつでも言っておいで。力になるから。」
私は,父を抱きしめた。それ以外にできることを思いつけなかった。