(十三)



一年余りニューヨークに住み着いた。
できるだけ,家賃の安そうなアパートを探し,家賃を折半する同居人を見つけ,日中は宅配便の助手と,夜間はライブハウスのウエイターのアルバイトで,何とか食いつないだ。
ライブハウスのアルバイトは,同居人のボブという黒人が紹介してくれた。
彼は,気さくないい男だが,週に一度は,必ずドラッグパーティーをやらかす。その間,私は,遠慮して部屋を出る。日本での記憶が尾を引いて,麻薬に手を出す気がしないのだ。
ボブの紹介でガールフレンドらしきものはできたが,セックスはしていない。
まるでインポテンツ状態だが,苦痛は感じないので,そのことに対して,特に何か対処はしなかった。
一年の間,親とも連絡を取っていない。
アンジェラから一度だけ電話があった。
私の携帯は,ニューヨークに来てから買い換え,誰にも番号は知らせていない。よく分かったもんだ。
「それが,仕事よ。」
彼女には,私のプライバシーも,その気になれば,筒抜けなのだろう。
「貨物船が沈んだわ。」
最初は,何の事だかわからない。
「ホセの遺体が積まれた貨物船が,太平洋の真ん中で沈んだの。」
「事故?」
「わからない。突然,消息を絶ったらしいわ。何かの悪い兆しで無ければいいんだけど。あなたも,一応,関係者としてリストアップされてるんだから,できるだけ気をつけてね。」
そう言うと,切れた。コールバックするが,番号は既に使用されていないというアナウンスが流れる。
老人の遺体が,静かに太平洋の底に沈んでいく様子を思い浮かべる。
暗い暗い水底へ。
彼は,それも予定調和だと,言い張るのだろうか。

「ヨシ,お前の事を探してる奴がいるそうだぞ。」
ある日,アルバイト先のライブハウスのカウンターの中でグラスを洗っている私に,ボブが声をかけてきた。
「ヨシヒコってお前だろ?」
「ああ。」
「こいつが聞かれたってさ。」
ボブは,連れていた女の腰をぐっと抱き寄せる。
「いい年したじじいだったわよ。」
「そのじじい,お前のハズか?ヨシ。」
「ああ,大金持ちのな。」
「だったら,こっちにも紹介しろよ。」
「オーケー。」
じじい?誰だろう。
ジョニーではなさそうだ。
父だろうか。
葉書を出しておいたので,父なら捜すって事は無い筈だ。ジョニーにしても。

翌日は,アルバイトも休みだった。
特に行く場所も無かったので,アルバイト先のライブハウスに昼過ぎから潜り込んで,カウンターで時間をつぶしていた。
「久しぶりだな。」
聞きなれた声が背後でする。
振り返ると,ブランデーのグラスを持って,微笑みかけるホセの姿があった。
「あ,あなたは。」
「死んだと聞かされてたか。」
「ええ。」
「ところが,生きとるよ,ほれ,この通り。触ってみるか。」
言われて,老人の腕に触れてみる。
「温かいだろ。当たり前だよ。血が通っている。」
「一体,何があったんですか。」
「死んだことにしとかないと,うるさくまとわりつく連中が多いのだ。丁寧に,船まで爆破して,私の死体さえこの世から消えて無くなった事にした。」
「じゃぁ,あれは全てお芝居。」
「そう。たいそう大掛かりな芝居だった。ところで,君の事を探したよ。アンジェラがいれば,すぐに探し出してくれるんだが。彼女の雇われている機関の情報力はピカ一だからな。」
「アンジェラとは,連絡は取ってらっしゃらないのですか。」
「ああ,アンジェラからも身を隠しとる。あいつに見つかると,また,合衆国だのフランスだのがうるさい。最初は,私が死んだことを疑っていなかったがな,どうやら,船を爆破したあたりで,うすうす感づき始めたようだ。今頃,どこかで見張っているかも知れん。」
「私を探して来られたと言うことは,仕事の継続ですか?」
「いや,あれは,もういいんだ。一旦,死んだことで,不要になった。それより,君に謝りたくてな。」
「謝る?」
「そうだ。君の彼女の事だ。大変な事件に巻き込んでしまった。彼女の人生そのものにまで,影響を及ぼしてしまった。まったく,申し訳ない。」
「そういう事ですか。」
「君との友情を考えると,無視できない大事な事だ。もっと,大事な話がある。よく聞きたまえ。君と私なら,彼女を助けられると思うのだ。」
「助ける?」
「ショッキングな事件のために,彼女は,人格がほとんど荒廃してしまっている。以前,人間の脳は,神経細胞間の無数の電気信号が密集して出来上がった巨大なパルスの巣だと,説明した事があったな。そして,そのパルスを導くゲートのような物質が存在しており,そのゲートは,最も微細な条件反射に制御されている,と。彼女の状態は,このゲートがことごとく閉じた状態なのだ。わかるか。」
「何となく。」
「一見,ゲートは,完全に麻痺し,死んだような状態になってはいるが,また開くことは可能だ。いや,開くように,無意識の努力を行っている。だがな,彼女の場合,このゲートが,たまに開くと,必ず自己破壊に向かうように強烈に条件付けられてしまっている。それで,何度か自殺未遂を引き起しているのだ。」
「結香里が,自殺未遂ですって?」
「もう何回かな。だが,この条件反射も,カメラのフラッシュのように,瞬間的に,強烈に焼き付けられたものだ。時間をかければ,必ず,元の状態に戻せる。」
「本当ですか。」
「ああ。ただし,普通の病院では無理だ。私の所でないとな。しかも,彼女の一時的にせよ,自発意思が必要だ。いいか,人間が変わるために必要なものは,外部要因と内部要因だ。しかし,外部要因も,それを活用しようという自発的な内部要因が絡まないと,変化にまで至らない。」
「どうしたらいいんですか。」
「君が,彼女の意思を受けて,彼女を私のところまで連れて来るんだ。そのために,何をするかは,君次第だ。君が,彼女を助けるかどうかも含めてな。ともかく,彼女の,自分は元に戻るんだという最初の段階の強い自発意思が,どうしても必要なのだよ。後は,私が,何とかしよう。必ず,彼女を助けられる。繰り返すが,君が,彼女の自発意思を引き出すのだ。」
「でも,彼女の父親から,会うことを拒絶されているんですよ。」
「だから,どうだって言うのだ。彼女の父親が,彼女に対して何ができる?現状維持が関の山だ。君だよ,元の恋人である君にしか,彼女の心を動かせないのだ。」
「そうして,彼女を実験材料にでもするんですか。」
「そう思うなら,思ってくれてもいい。そして,一生,そのように自分の過去から逃げているんだな。傷つく事を恐れて。」
「もう,充分傷ついてますよ。」
「彼女は,君が何もしなければ,これからも,さらに自分自身を傷つけていくんだぞ。生きている間中な。もう一つ教えてやろう。あまり言いたくは無かったのだが。いいか,彼女は妊娠していた。」
「何ですって。」
「病院では,何とか堕胎させようとしたが,彼女は,それを激しく拒んだ。全力でだ。もしかしたら,君との間の子だと思ったのかも知れんな。その事に期待を繋いだのかも。だがな,残念ながら,生まれた子供は,目の色,皮膚の色が,期待されたものとは違った。」
「嘘でしょ。」
「ショックか?彼女は,もっとショックを感じただろう。その時点で意識があれば,だがな。子供は,すぐに彼女から引き離され,彼女の乳母であった女の元に預けられた。親無し子として育てられている。これが,君が逃げ隠れしている間に起こったことだ。」
老人は,さらに私の肩を叩き,
「もう行くよ。もし,彼女の意思を引き出すことができれば,ここに電話して,アランという男に私に連絡して欲しい旨を伝えてくれ。後の段取りは,全てアランがしてくれるだろう。その気が無いのなら,君は,このままニューヨークで埋もれるがいい。この国は,いい国だ。逃げ隠れできる場所がいっぱいある。君が,君の人生から,逃げ切れればの話だがな。」
私は,カウンターを見つめ,老人に別れの挨拶をする事さえできなかった。
頭の中は,まったく,空洞になっていた。

三日後,私はアパートを出た。
ボブには,アメリカを一周してくると言い残して。
もし,戻らなかったら,家財道具は好きに処分してほしいとも付け加えた。
だが,どこに行くという当てがあったわけではない。
勿論,結香里の元に帰るというわけでもなかった。
結香里には,会いたかった。だが,今,会いに行って何ができるだろう。
結香里に会う自信すらない。
ましてや,彼女の心を動かすなんて,いったい,どうしたらいいのか,検討もつかない。
ともあれ,都市の外れで,適当にトラックを拾う。
「何処まで行くんだ?」
「西海岸まで。」
「ピッツバーグまでだ。」
「お願いします。」
そんな具合に,ピッバーグからシカゴ,カンザスシティを経て,南に向かい,オクラホマからテキサス州に入り,国境に出て,国境沿いにサンアントニオからエルパソの手前あたりで,移動するのに疲れてしまった。
ニューヨークを出て,三週間余り過ぎていた。
老人の言ったとおり,この国は,自分自身の人生から逃げ隠れする場所をふんだんに用意してくれている。
移り変わり行く景色を見,出会う人と適当に会話し,夜露さえ凌げれば,自分の心の迷いからは,逃げ切れる気がする。
エルパソの近くの名も無い小さな国境沿いの町の何日かに一度しかバスの止まらない停留所のベンチに腰かけていると,素晴らしい体格の女性に声をかけられた。
スーザンといった。
「明後日まで,バスは来ないよ。」
農作業用の軽トラックから丸太のような腕を出して,私に声をかけてきた。
「知ってますよ。」
「なんだ,バスを待ってるんじゃないのか。」
「いや,待ってるんですけど。」
「明後日までかい?」
「ええ。」
「ずっと待つのかい。このあたりは,夜は冷えるよ。おいで,宿くらい貸してやるよ。」
「もう,手持ちが無くって。」
「いいよ,掃除の手伝いくらいしてくれれば。」
言葉にあまえて,トラック乗る。助手席に黒人の少年がいた。
「ママ,誰か乗ってきたの?」
ママと呼ばれて,スーザンが,
「大丈夫だよ。いい人みたいだから。」
そして,こちらを見て,
「この子はね,目が見えないんだよ。内戦で,目をやられたんだ。」
「内戦?」
「人は戦うのが好きなのかね。至る所でドンパチやってる。この子の国でもつい最近,内戦があって,この子の両親は,その時に亡くなっちまったよ。」
スーザンは,町外れの小さなモーテルを経営していた。
モーテルには,お客はほとんどいず,お客の数より,彼女が家族と呼ぶ子供の数のほうが多かった。子供たちは,黒人,白人,黄色人取り混ぜて五人,最年少は盲目の四歳の黒人の少年,一番大きい子で十五歳だった。
戦争で親と死別れた子や,生まれつき体が不自由で親からも捨てられた子など,不幸な過去を背負った子供ばかりだった。
一番年上の十五歳の子は,ニットというタイ北部出身の女の子で,エイズ感染者だという。英語は,片言でしか話せない。
「たまたま,タイ北部に旅した知り合いからこの子の事を聞いてね,家庭が貧しくて小さい頃から売春宿で働いてたんだけど,エイズにかかっちまって,売春宿の方は,知らぬ顔して客をとらせるし,彼女の家族は彼女がエイズだって聞いて,彼女が帰って来るのをこばむし,彼女は,自分の病気を知って,客を取るのをもう止めたかったんだ。その話を聞いた時に,もう,この子と一緒に生きてあげれるのは,あたししか無いと思ってね。」
同じく十五歳のタニヤという女の子は,三年前まで,昼はカラシニコフという自動小銃を抱えて戦場を駆け巡り,夜は,年配の兵士の慰み相手となっていた。
十三歳のウーは,中国南部の村から誘拐され,アメリカに連れて来られ,子供のいない夫婦の養子になったが,この夫婦が離婚するにあたり,不要となったために,荒地に捨てられたところを拾われた。
七歳のジャンは,自閉症だ。父親が飲んだくれで,母親が急逝した後,ろくに物も食べさせてもらえず,餓死寸前のところだった。
「すべて人の心の弱さが生み出した事さ。この子達には,罪はないんだよ。」
スーザンは。かつて海軍に所属していた。
国のために働けることにプライドを感じる愛国者だった。
それが,湾岸戦争の時,警備中に誤って民間人を撃ってしまった。
赤ん坊を抱いた母親で,こめかみを打ち抜かれ即死。赤ん坊の父親も,何度かのミサイル誤爆の犠牲者で,既にこの世にいなかった。
赤ん坊は,育児施設に引き取られていったが,戦時下の慈善施設にろくな設備があるわけもなく,休暇の折に訪ねてみると,栄養失調と病気で虫の息状態で放置され,次に訪ねた時には,小さな墓標の前に案内された。
「それからしばらくは,何も手に付かなかったね。あたしは,理由も無く,人間の人生を捻じ曲げちゃったんだってね。取り返しのつかない事をしてしまったって。何とか元に戻してあげたいと思っても,相手は,もう死んじゃってるだろ。でね,ずっと長い落ち込みの後にね,思ったんだよ,あたしができる事,それを積み重ねていくしかないんだってね。じゃあ,何しよう。何をしたらいいんだろう。そうだ,死んでしまった子供の代わりに,世の中から見捨てられた子供達を助けてあげよう。それで,この子達を引き取って一緒に生活することを始めたんだよ。この子達は,ともすれば,もうこの世に命の無かったかもしれない子達だ。でもね,神様が,あたしに授けてくださった子達でもあるんだ。あたしが神様の元に召されるまでに,できるだけ沢山の子達と一緒に生活したいのさ。」
スーザンは,ほとんど放任主義で,厳しく叱ることはなかったが,常に子供一人一人に注意を向け,興味を持ち,その子の良い所だけを褒めて,伸ばそうとしていた。
「この子達が,独立して生活したくなれば,いつでも出て行けばいい。もう,何人か,独立してるよ。あたしの仕事は,この子達に生きる勇気を常に与えてあげることさ。」
子供達も,スーザンの事をママと呼び,できるだけ彼女の役に立とうと,進んでモーテルの仕事をしていた。
「この子達はいい子達ばかりだよ。でも,最初っから,こんなだったわけじゃないよ。特に,タニヤなんか,あたしをママと呼んでくれるようになったのは,つい去年の事だよ。それまでは,ずっと,一人で部屋にこもってて,他の子達も怖くてろくに近づけなかったんだから。」
そう言われて,タニヤが笑う。
「ところで,あんたの寝る場所だけど,空いてる部屋を適当に使っとくれ。ただね,近々,この近くの町で,物騒な連中の集会が開かれるんだとさ。あたしゃ,あまり好きな連中でもないんだが,生活のために泊めなくちゃね。多分,満室になるだろうね。そうなったら,この子達の誰かと相部屋だよ。家賃?掃除や,炊事,洗濯,買出しなんかを手伝ってくれれば,家賃はいらないよ。」
子供達とは,すぐに打ち解けた。
特に,人生経験の上でも,ニットとタニヤは,私の良き友人となった。

「スーザンの所にいるんだってな。」
買出しに町に出た時だ,途中に立ちよったバーで,体の大きな男に呼び止められた。
「あの女は,偽善者だ。子供らをいっぱい集めといて,国から沢山補助金をもらってんだ。子供らには働かせて,自分はのうのうと暮らしてるだろ。」
相手は,昼間っから酔っ払っていた。無視していると,
「どうだい,スーザンのベッド・テクニックは,そんなにいいかい?」
と,調子に乗ってくる。
が,その時,一人の男が飛んできて,その男の喉元を締め上げた。
酔っ払っている男も,とても喧嘩なんか売りたくないほどの大きな体だったが,もう一人は,それ以上に大きかった。
「調子にのるんじゃないぞ。」
私の胴体ほどの腕で,酔っ払った男を締め上げる。
「わかった。わかったから放してくれ。」
放されて,男は,テーブルに体をぶつけ,ゼーゼーと咳き込みながら逃げ去った。
「ジョナサンだ。」
と,握手を求めてくる。
身長は二メートルを超えているかと思われた。
「君が,ママのところにいるって言うジャップか。」
「ってことは,君も,スーザン家の。」
「ああ。ママがいなければ今頃は,マフィアの片棒担ぎで,命を落としていただろう。」
両親が保険金殺人の容疑者として逮捕され,彼は,親戚中を厄介者として盥回しにされたのだそうだ。ぐれかけているところをスーザンに拾われた。
最初は,何か別の魂胆があるに違いないと思っていたが,スーザンの全身全霊の愛情に,やがて人を信じる心が生まれ,十八歳の時に町に出て,一人で生活を始めた。
「今日起こった事は,ママには内緒にしといてくれ。あれで結構傷つきやすいんだ。僕に会った事は言ってくれてもいいよ。」

「あなた,帰る,そして,結香里,助ける。絶対。」
ニットとタニヤに結香里の話をすると,二人とも涙を流して聞いてくれた。自分の過去の記憶と結びつくものがあるのだろう。そして,ニットは,事あるごとに,結香里を助けに帰れと言う。
ニットが,私の顔を見るたびに言うので,他の子供たちも,ニットの真似をする。
「あたし達が一緒に行ってやろう。」
タニヤが,スーザンに,そう相談を持ちかけたらしく,スーザンも心配してくれる。
「でもね,どうやったら結香里に会えるのか,検討もつかない。」
「父親を説得するしかないね。」
「会ってもくれないよ。」
「大事な彼女なんだろ。」
今となっては,本当に大事な相手だったかどうかも,定かではない。
時が,人の記憶を,そのように遠い過去へと塗り込めていく。
そうこうするうちに,スーザンが言っていた,あまり付き合いたくない連中の集会の日が近づいてきた。
町の方々に,スキンヘッドに革ジャンといういでたちの若者の姿が見られるようになった。
事前準備に全国から駆り出された連中だった。
スーザンのモーテルにも,徐々にそんな連中が増え,酒を飲んでは大騒ぎを始める。
しかし,彼らの起こした騒動が,結局,私が日本に帰る切欠となってくれた。
集会の前日の事だ。
その日も朝から準備に駆り出されなかった連中が,部屋で飲んだくれていた。
そこに,ニットがベッドメーキングに入って行き,彼らの格好の標的となった。
彼らは,最初は,からかっているだけだったが,次第にエスカレートする。
特に,何の楽しみも無い田舎町で,一週間近くもエネルギーを持て余していた連中だ。ニットの向こう気の強さが火をつけた。
始まりは,しがみついてきた男に入れたニットの蹴りだった。
取り巻いていた連中ははやし立てるだけだったが,恥をかかされた男は,本気でニットを殴りつけた。
ニットがそれに応戦して,相手の鳩尾に一発。
取り巻きの一人が,ニットを羽交い絞めにした。
もう一人が,ブラウスを引き裂く。
ニットの悲鳴。
それを聞いて駆けつけたのが,タニヤで,喧嘩慣れした彼女に,男達は相手にもならない。
タニヤは,タニヤなりに手加減したのだろうが,相手が弱すぎたのか,タニヤの一発をまともに食らった一人がうずくまる。あばら骨が一本折れていた。
彼らは,一旦はモーテルから退散した。
が,それで終わりではなかった。
ニットの怪我の手当てをしてやり,一段落したところに,いきなり,銃弾が打ち込まれる。
ただでは済まないと気を利かしたスーザンが,小さい子供たちを裏手のトラックに集め,逃がす準備はしていた。
窓の外を見ると,スキンヘッドばかり二十人はいるだろうか,車やバイクでやってくる。
先頭のバイクの後部座席にまたがった男の撃ったライフルの弾が飛び込んできたのだ。
タニヤが,ライフルを持って立ち上がる。
窓ガラスを銃底で割り,構えて引き金を引くと,先頭のバイクの前車輪に当たり,転倒した。彼らは,そこで車等を止め,ピストルやライフルを撃ちながら,近づこうとするが,タニヤの射撃の正確さに足止めをくう。
スーザンが,
「殺しちゃいけなよ,後がややこしいから。」
そう言いながら,タニヤと二人で応戦する。
「ウインチェスターは,やっぱり使いやすいよ。」
そう言いながら,タニヤは,近づいてくる奴らの足元を狙い撃ちにした。
が,多勢に無勢で,少しづつ詰め寄ってくる。
やがて,火炎瓶の届く距離になって,モーテルのゴミ箱などに火がつき始めた。
「ヨシヒコ,子供たちを連れて町に行って,ジョナサンに連絡しておくれ。」
スーザンに言われて,子供たちの隠れているトラックに飛び乗り,町に行き,ジョナサンやポリスを連れて戻った頃には,もう,戦闘は終わっていた。
モーテルの前にスキンヘッドが二十人ばかし蹲っている。
「さすが,ママ。圧勝だな。」
ジョナサンが喝采する。
が,こちらも無傷ではなかった。
モーテルの一部が焼け焦げている。
スーザンは右腕に軽い怪我をしている。
もっと酷い事に,火を消そうと奔走していたニットが,腹部を撃たれて倒れ伏していた。
救急車がやってくる。
「扱いには気をつけておくれ,彼女はエイズなんだ。でも,ちゃんと手当てしてやらないと,承知しないからね。」
救急隊員が恐る恐る運んで行く。
タンカから血が滴り落ちている。
「ニット,大丈夫か?」
声をかけると,薄く目を開け,無理に笑顔を見せた。
「ヨシヒコ,帰る。彼女,助ける,いい?」
「オーケー。」
「約束。」
「ああ。」
ニットを乗せた救急車と入れ違いに,見慣れぬ年配の男が,沢山の若者を従えて近づいてきた。
スキンヘッドが全員立ち上がり,立ち上がれない奴は中腰にでもなって最敬礼する。
どうやら,奴らの親玉らしかった。
スーザンもジョナサンもとっさに身構えた。
「大丈夫か。」
年配の男がスーザンに声をかける。
「見りゃわかるだろ。大丈夫なわけないじゃないか。」
右腕に包帯を巻いてもらいながらスーザンが答える。
「若い奴らが,血の気に任せて迷惑をかけた。」
「あんたの手下かい?だったら,もっと良識ってやつを叩き込んどきなよ。」
取り巻き連中が一瞬色めき立ったが,年配の男がそれを制する。
「その通りだ。よく言って聞かせておく。奴らも,日頃は国家の行く末を案じる,素直な奴らなんだ。許してやってくれ。」
「国家だって?なんだい,その国家って奴は。あたしにとっての国家はここだよ。ここが守るべき国さ。あんたらみたいに,純血主義の国じゃないけどね。この土地と,この子達が,あたしにとって守るべき国家なんだよ。わかるかい?」
年配の男は,じっと耳を傾けている。
「見てごらん。」
と,スーザンは子供たちを並べる。
「この子は,三年前まで,祖国の内戦に駆り出されて,両親からも離されて,カラッシュ抱えて,戦ってたんだ。
あんたの手下に撃たれた子は,貧乏な国に生まれて,体を売って生活していた。そのうち病気にかかっちまって,親からも見捨てられた。
この子は,やっぱり大人の争いの犠牲になって,目が見えなくなっちまったんだよ。
そして,この子達の,最後の心の拠り所がここさ。
だから,ここが,あたしの国さ。命をかけて守っている場所なんだよ。
それを踏みつけにするのが,あんたらの愛国心かい。」
「いや,国を愛し,国を思うのが,我々の主義だ。」
「あたしも,十年近く前は体を張って,この国を守っていたさ。戦場でね。
口先だけのあんたらとは,違うんだよ。
でも,そこで気がついたんだよ,国家ってのは,一人一人の心の中にあるんだよ。
それぞれの心の中にあって,それぞれが守るべきものなのさ。
それにね,自分の都合や主義や主張のために,他人をないがしろにするような奴に,愛国心を語って欲しくないね。
わかるかい?」
「この血は,うちの手下が傷つけた子のものか。」
男が,しゃがみこんで,血だまりを見つめる。
「そうだよ。」
「エイズにかかっている子のか。」
「ああ。」
男は,その血だまりを砂ごと手にすくうと,口元に持っていき,
「すまなかった。」
と言って,それに口付ける。
「ばか。あんた,何するんだい。」
「その子は,何があっても助ける。モーテルは,必ず直す。それで許してもらいたい。」
年配の男は,そう言って立ち去った。
「ばかな男がいるもんだよ。」
スーザンがため息混じりに言う。

翌日,ニットを見舞いに行った。
彼女は,特別な病気だからと言うことで,町の病院ではなく,もっと遠いエルパソの病院に移されていた。
スーザンのモーテルから,車で四時間はかかる。
それでも,受け入れてくれた病院があっただけでも良しとせざるを得ないのだろう。
それに,大きな病院で,居心地も,田舎の病院よりはるかに良さそうだった。
ニットは,うつらうつらしながら,たまに目を覚ます。
私の顔を見るたびに,
「ヨシヒコ,国に帰る。彼女,助ける。」
と,うわ言のように言う。
「ああ,帰るよ。ニットが退院したらね。」
「駄目。今。今,帰る。すぐ,帰る。」
スーザンが,
「よほど,あんたの事が気になっているんだね。」
と言う。
「あんた,いつまで,あたしのモーテルにいる気だい。」
帰り道を運転しながら,スーザンがたずねる。
「いつまでって。」
「ここは,あたしにとっての国家さ。追いかけるべき理想さ。あの子供たちのいる場所がね。あんたのは?あんたの国家や理想は,どこにあるんだい。」
「わからない。」
「結香里って子を失って,行き場を失くしちまったのかい。それで,ふらふらしてるのかい?あたしは,ふらふらしたのが嫌いさ。あんたが帰るべき場所はどこだい。何をすべきなんだい。」
「帰る場所?」
そうだ,私は,どこに帰ろうとしているんだろう。
自分の守るべき場所は,どこにあるんだろう。
「まずは,とり戻すべきだろうね。」
取り戻す?何を?
「あんたの帰るべき場所。守るべき場所さ。でないと,いつまでもふらふらしたままだよ。あんた,自分の生まれ育ったスペインには自分の祖国を感じないんだろ?じゃあ,日本は?日本でも,うまく溶け込めなかったって言ってたね。でも,唯一ホッとした場所があったんだろ。」
「ええ,結香里といるとね。」
「じゃあ,あんたの国家は,そこにあるんじゃないのかい?結香里って子のいる場所にさ。あんたが,命をかけて守るべき場所は,そこじゃあないのかい?」
「命をかけて守る?」
「そうだよ。取り戻すって言ってもいいかもしれない。必ず,取り戻さなきゃならないもの。」
「取り戻す?何から?」
「そんな事,自分で考えやがれ。タニヤくらいの年の子だって,ライフル持って闘ったんだ。」
それっきり,スーザンは,帰り着くまで口を開かなかった。
モーテルの周りに,何やら人だかりがする。
「しまった,奴ら。」
スーザンが,ライフル片手にトラックを飛び降りる。
が,すぐに銃口を降ろし,
「何やってんだい。」
と,叫ぶ。
一人,体が大きくて毛むくじゃらのが駆け寄り,一礼すると,
「モーテルを元通りにしろと言われたんだよ。こんな感じでいいかい。」
人だかりの中から,ジョナサンが出てくる。
「ママ,こいつら,ちゃんと元通りにしてくれたよ。」
モーテルの周りを一通りまわると,
「ふん,元通り以上だね。」
と,満足げにスーザンが言う。
「他に,頼みごとがあったら言ってくれよ。」
毛むくじゃらが言う。
「あるよ。」
「何だい。何でも言ってくれ。」
「誰か,西海岸まで帰る奴はいないかい。」
「俺,サンディエゴの近くだ。」
「オーケー,じゃあ,この男をロスまで連れて行って,飛行機に乗しとくれ。日本行きのだよ。」
私を指差して,そう言う。
「スーザン,何を言うんだ。」
「残念ながら,あんたは,お払い箱だ。あたしんとこでは置いとけない。あたしと一緒にいたかったら,一度日本にでも帰って,頭冷やして出直してくるんだね。明日の朝,出発だ。わかったね。」
それを聞いて,タニヤが私に飛びついてきた。

その夜,私は夢を見た。
結香里と,スーザンのモーテルにいる夢。
モーテルは,はるか見渡す限りの大平原の真っ只中にあった。
私が,結香里に言う。
「ここが,君のいるところこそが,掛替えの無い場所なんだ。命をかけて守るんだ。」
そして,結香里の肩を抱く。
はるか地平線の向こうから,スキンヘッドの集団が,バイクに乗ってやって来るのが見えた。沢山のエンジン音が,うなりとなって押し寄せてくる。
いつの間にか降り出した雨が二人の顔を打つ。
私は,さらに結香里を強く抱きしめる。
彼女の細い柔らかい体の感触が,目醒めても腕にあった。
その時だ。
「帰ろう。」
と,思った。
腕に残ったか細い感触だけを頼りに結香里の元に帰り,結香里を元の結香里に戻すんだ。
結香里を,つまり自分が帰るべき場所を,取り戻すんだ。
それは,はるか遠くから響いてくる雷鳴にも似た決意だった。

「あの,スーザン。」
髭もじゃが,運転席からスーザンに声をかける。
「なんだい。」
「俺,また,ここに戻ってきてもいいかな。」
「いいよ。いつでも帰っておいで。」
両目の視力を失った黒人の少年の顔が輝いた。
少年は,たった一日だったが,髭もじゃに懐いてしまったのだ。
「でも,あんた。」
スーザンが,私を指差して言う。
「あんたは,心入れ替えない限りは,あたしのところに来ても会わないからね。
日本に帰って,心入れなおしておいで。わかったね。」
「ああ,わかった。」
「頑張ってね。」
タニヤが助手席の窓越しに首に抱きついた。
「これは,あたしから。そして,これは,ニットのぶんよ。」
熱い口付けをくれる。
激しく砂埃を撒きたてて,トラックが,モーテルから離れていく。
必ず,帰って来よう。
結香里をつれて,必ずここに帰ってこよう。
遠ざかるモーテル,スーザンの小さな理想の国家を脳裏に刻みつけながら,そう誓った。

「アルと呼んでくれ。」
髭もじゃの男は,アルフレッドといった。
アルと私は,ロスまで五日間の旅をした。
その間に,互いに親しくなり,私の身の上に起こったこと,結香里の事も話した。
「それが,今から日本に帰る目的なんだな。」
「そうだ。」
「頑張れ。」
アルは,サンディエゴの北隣の町に住んでいた。
明日は,ロスから飛行機に乗って日本に帰るという日の夜,仲間を集めてささやかなパーティーを開いてくれた。
そして,ロス・アンジェルス空港まで送ってくれ,いよいよ別れる段になって,
「これ,スーザンから預かってきた。早々と手渡すと,きっと返すと言い出すだろうからって,飛行機に乗る直前に渡せって言われていたんだ。アルバイト料と生活費に貸す金だとさ。貸した方は,必ず返してくれって。」
手渡された袋の中には,日本でも一ヶ月は生活できる金額が入っていた。
「それと,これは,昨日の仲間たちから。額は少ないけどね,あげるんじゃない。貸すんだ。必ず,返してくれよ。みんな,貧しい中で出し合ったんだ。結香里と一緒に返しに来ること。」
受け取るわけにはいかないとは,言えなかった。
「オーケー,必ず返しに来るよ。」

飛行機がゆっくりと離陸していく。
大陸が眼下に広がっている。
あの地平の向こうに,スーザンがいる。
そのもっと向こうには,ニューヨークがあって,ボブたちがいる。
彼らを抱えて,大陸が遠ざかっていく。
必ず,戻る場所の一つだ。