(十四)



飛行場の外には,懐かしい日本の街があった。
まず,何をしようと,思いあぐねる。
何をしたらいいのか。
第一番に結香里に近づかねばならない。
そのために何をする?
何をしたらいいんだろう。
とりあえず,林田に電話する。
名前を言ってもすぐに思い出してもらえない。
「立原結香里の,」
と言って,やっと,
「おお,君か。」
と,思い出してもらえた。
「あれから,捜査に進展無くってね。」
そりゃあそうだろ,アンジェラ達が,証拠を残すような事をするとは思えない。
「実は,お願いがあります。結香里の父親,立原さんに,もう一度,お会いしたいんです。」
「もう,会わないって言われたんじゃなかった?」
「あれから時間がたってます。お気持ちも変わられたかと思います。もう一度会って,きちんとお話ししたいんです。住所だけでも教えていただけませんか。お願いします。」
「仕方ないなぁ,ちょっと待ってて。」
そう言って,メモ帳を繰っている。
「私から聞いたなんて,言わないでくれよ。」
「勿論です。」
林田は,電話番号まで教えてくれた。
しかし,電話で片がつくとは思えない。
とりあえず,結香里の実家まで行くことにした。
結香里の父親をつかまえなければ駄目だ。
会社員なので,帰宅時間は不定期だろう。だったら,朝の出勤時間だ。
私は,朝,六時に教えられた住所に向かう。立派な門構えの家だった。
表札に立原の字を読んで,道の反対側に立つ。
六時半に手伝いらしき女性が,ゴミ袋を二つ,重たそうに持って出てくる。
近づいて,
「手伝いましょう。」
と声をかけるが,無言の拒絶に会う。
彼女は,ゴミ袋を所定の場所に置くと,慌てて勝手口に駆け込んだ。
おそらく,何らかの形で,結香里の父親に伝わった事だろう。
しばらくして,警察官がやって来る。
「君,ここで何をやってるんだい。」
「こちらのご主人にお会いしたいんです。」
「それならば,ちゃんと電話で連絡をとって,時間をいただいた上でお伺いするのが筋だろう。」
「それでは,お会いいただけないから,こうして待ってるんです。」
「待ってたって,会ってはもらえないと思うよ。」
「だったら,お会いいただけるまで,待ってるだけです。」
「それはね,迷惑ってもんだろ。」
「それは,重々承知です。」
「困ったなぁ。君は,それで良くっても。私達が困るんだよね。」
「すいません。でも,私は,こちらのご主人とお会いしなくちゃいけないんです。」
「仕方ないなぁ,ちょっと待っててくれる?」
そう言うと,警察官は,立原家のチャイムを鳴らす。
女の声がする。
「警察ですが,こちらのご主人にどうしてお会いしたいって方が,お宅の玄関先におられるんですが。」
しばらくして,
「追い返してくださいって事ですけど。旦那様は,お会いする気が無いそうです。」
「そうですか。」
警察官は,気の毒そうな顔をして,
「会う気が無いそうだ。今日のところは引き上げて,電話かなんかで約束を取り付けた上で,来ればいいだろ。」
だが,引き下がるわけにはいかなかった。
「ここで,待ちます。会っていただけるまで。」
「ちょっとね,それ,困るんだよ。私もね,通報を受けた以上ね。」
「どうすればいいんですか?」
「だから,今日は引き上げて。」
「それは,できません。」
「じゃぁ,仕方ないなぁ,ここで押し問答もなんだから,そこの派出所まで来てもらおうか。」
「立原さんが出て来られるまでは,ここにいます。いさせてください。」
「君ね,私は,君みたいに暇じゃないんだよ。」
その時,玄関のドアが開いて,結香里の父親の乗った社用車が出てきた。
警察官が慌てて敬礼をする。
後部座席の窓が少し開いて,初老の男の目が覗く。
見覚えがある。結香里の父親の目だ。
車が行ってしまうのを待って,
「さて,どうしましょうか。派出所でも,何処へでも行きますよ。」

「では,まず,名前と住所から聞かせていただきましょうか。」
アイスコーヒーを私の前に置いて,警察官が手帳を広げる。
「アメリカから帰国したばかりで,実は,決まった住所って無いんです。」
「おいおい,住所不定かい,その若さで。」
「まぁ,そうですね。前に日本にいた時に住んでた場所があるんで,そこでよければ。」
「君の身分を保証してくれる人っていないのかい。」
そう言えばと,林田の名刺を見せる。
警察官が,林田に連絡を入れ,事情を聞く。
一通り聞き終えた後で,
「そうかい。君,あそこのお嬢さんと付き合ってたのか。しかしねぇ,事件に巻き込まれて,入院中だよ,確か。」
「ええ。ですから,会いたいんですよ,結香里さんに。」
「会ってどうするのかねぇ。もう,二年近く会ってないんだろ。普通なら,熱も冷めてるよ。」
「普通じゃないから,熱は冷めてないはずです。」
「それは,君の思い込みだろ。いい加減に諦めたらどうなんだい。」
「結香里をあんな目にあわせたのは,半分は,私の責任でもあるんです。だから,何とかしてやりたいんです。」
「何とかと言ってもねぇ。今,君がやってる事はストーカー行為だよ。罰せられるんだよ,被害者からの通報があれば。」
「罰せられても構いません。」
「弱ったなぁ。」
弱りこんだ警察官は,助っ人を呼ぶ。
助っ人が助っ人を呼んで,いつの間にか私の周りには,五,六人の警察官が集まってきた。
彼らは,集合すると,人を犯人に仕立て上げる習性でもあるのだろうか,いかにも犯罪者のように見下され,根掘り葉掘り聞かれる。
どんな事にも耐えようと決意しているので少々の事は我慢するが,同じ事を何度も喋らないといけないのには参った。
そうこうするうちに,以前滞在していたアパートの大家さんが連れてこられる。
「おや,まぁ,帰ってたんなら連絡してくれればいいのに。」
「彼の事はご存知ですか。」
「良く知っているよ。」
「彼ね,アメリカから帰国したばかりで,身元保証人がいないんですよ。あなた,彼の身元保証人になっていただけますか。」
「あたしでよければね。」
結局,前の部屋が空いたままになっていたので,そこに転がり込むことになった。
「家賃は,後でもいいよ。どうせ空いているんだから。今時ね,あんな日当たりの悪い部屋に住みたがる人もいないんだよ。」
大家は,何も聞かずに,受け入れてくれた。
翌日も,朝六時には,立原家の前に立つ。
お手伝いが顔を出す。
警察がやってくる。
父親の車が目の前を通り過ぎる。
派出所に連行される。
近くの喫茶店からモーニングの出前を取ってくれる。
翌日も,その翌日も,雨の日も,日参した。
「君ねぇ,いい若者が,こんな所で無駄に時間を費やさずに,働き口とか,ちゃんと見つけなさいよ。」
さすがに見かねた警察官が,私に傘をさしかけながら言う。
その翌日は,お手伝いが,ゴミ袋運びを手伝わせてくれた。
「すいませんねぇ。」
という礼の言葉まで。
「玄関先の掃除とか,水巻きとかされるんでしょ。私,手伝いますよ。」
「そんな事させられませんよ。旦那様に叱られます。」
「お一人じゃあ,大変でしょうから。私,どうせ暇ですし。」
「この家もねぇ,奥様は,ほとんど寝込んだままでいらっしゃるし,お嬢様は入院されたままだし,あら,やだ,変な事言うもんじゃないわ。」
突然の雨の時は,傘を貸してくれた。
「ありがとうございます。」
「あたしがお貸ししたなんて,言わないでちょうだいよ。」
何日目だったろうか,父親の車が出て行った後で,おにぎりを持ってきてくれた。
「これ,奥様がお持ちするようにって。お体,大丈夫ですかって,あまりご無理なさらないようにって,おしゃってましたよ。」
「ご存知なんですか,私の事。」
「以前ね,お嬢様がお元気でいらした頃に,よくお嬢様からお話をお聞きになってらしたそうですよ。」
それから何日か後,通り過ぎるだけだった結香里の父親の車が,私の前で止まった。
後部席の窓が開く。
「いつまで,こんな無駄な事をやってるんだ。」
「ご無沙汰してます。」
「いつまで続けるつもりなんだ。」
「結香里に,いえ,結香里さんに会わせていただけるまでです。」
「娘は,私が守ると言っただろ。二度と近づかないでくれと。」
「ええ,そうでしたね。」
「だったら,無駄な事はやめろ。私は,無駄な時間を過ごしてる奴を見るのが,大嫌いなんだ。」
「無駄とは,思ってません。結香里さんに会えるまでは,ずっとお伺いさせていただきます。」
「勝手にしろ。」
その日は,それで終わった。
お手伝いが,玄関先を掃除しに出てくる。
「私がやりましょう。」
無理矢理,箒をもぎ取って,掃除を始める。
しばらくすると,冷たい麦茶を持って出てきた。
「助かるわぁ。今日は,どうにも体の調子が悪くってねぇ。」
「住み込みで?」
「そう,もう十年近く。でも,何を聞かれても話はできないよ。旦那様から止められてるから。」
それから,玄関先の掃除が日課になる。
また,何日かして,結香里の父親の車が前で止まる。
「そんなに結香里に会いたいのか。」
「はい。」
「じゃあ,今度の土曜日の朝五時にここに来い。結香里に会わせてやる。」
「ありがとうございます。」
「後悔してもしらんぞ。」
「どういう意味ですか?」
それには答えず,自動車は走り去る。
「明日から,もう,来てくれなくなるんだね。」
お手伝いが,残念そうに言う。
「大丈夫ですよ,内緒で来ます。」
「そうかい,助かるよ。」

土曜日,指定された時間に行くと,家の前で,白いベンツに乗った結香里の父親が既に待っていた。
「私が運転しましょうか。」
「いいよ,とにかく乗りたまえ。」
しばらく無言で走る。
「君を信用しているわけではない。それを忘れないでくれ。」
「はい。」
また,しばらく無言で走る。
「一年以上も,どうしてたんだ。」
「スペインとフランスに両親がおりまして,会いに行き,その後,アメリカで生活しておりました。」
「気楽だな。その間も結香里は,随分苦しんだ。」
「お聞きしています。」
「君が,どれだけ知っていると言うんだ。」
「彼女が出産した事も。」
急ブレーキがかかる。
「何故,それを知っているんだ。それは,どこにも堅く口止めしている筈だ。」
「いいですか,この事を信じる,信じないは,あなたの自由です。私の話を聞いていただけますか。」
そして,老人との出会い,アンジェラ達の事,結香里の巻き込まれた事件についてを,手短に話した。
「情報を集めるのも彼らの仕事の一部です。」
「だったら,何故,結香里の入院している病院の名を君に告げなかったのだ。」
「これは,想像ですが,」
老人は,あえて結香里の父親に会う労を取らせたのだ。
何のために?
結香里の自発意思を引き出すには,父親の協力が不可欠であったから。
「で,結香里をあんな風にした犯人は,もう。」
「はい。この国にはいません。この世にもいないかも。」
「その事は,この国の警察は。」
「アンジェラが話してました。しかし,証拠がないので,彼らとしては,何ともしようが
無いってところでしょう。」
「その正体不明の老人が,結香里を助けてくれるっていうのか。」
「そう言いました。」
「そんな,元麻薬組織の男の言うことなんかに,君は耳を貸すのか。」
「何もしないよりは,はるかにいいでしょう。彼は,有能な心理学者であり,薬学者です。必ず助けると言ってくれている以上,何らかの目算があるんでしょう。それに,私が一緒です。彼女は,私が守ります。」
「それは,私のすべき事であって,赤の他人の君に考えてもらわなくってもいいんだよ。」
「失礼ですが,彼女を守れるのは,私だけです。あなたには,現状維持はできても,それ以上の事はできない。守るとは,常に前に進むことです。現状維持では駄目なんです。それは,実の親には出来ないことです。」
「何を聞いた風なことを。よし,その言葉は,結香里に会ってから,しっかりと聞かせてもらおう。」
そう言うと,車の速度を上げた。

病院は,山間の静かな場所にあった。
まるで,サナトリウムのように,緩やかな時間が流れていた。
車で,結香里の家から一時間半。
まだ,七時前で,病院の敷地の中で動いているものは,鳥と,リスなどの小動物くらい。
「娘は,結香里は,朝が早い。と言うか,激しい対人恐怖のために,早朝の人のいない時間帯しか出て来れないのだよ。」
唯一心を許せる看護婦に付き添われて,病院の敷地を一周するのだそうだ。
「父親の私も,遠くから見る事しかできない。近づくと,怖がって逃げてしまうのだ。」
指差す方を見ると,寄り添って歩く人影がある。
一人は白衣で,初老の看護婦。もう一人は,白いゆったりした胴衣を着ていて,遠目からでは,顔の感じもわからない。
「ここで立っているんだ。自分から近づいたりしてはいけない。少しでも近づく素振りを見せると,逃げてしまう。」
二人が段々と近づいてきて,顔の輪郭もわかるようになってきた。
が,どうしても,もう一人が結香里であるとは,思えない。
「あれが,お嬢さんですよね。」
「言っておくが,結香里は,君の知っている結香里では,もうない。かつての結香里の姿を追いかけるのならば,それは,無駄な事だから,止めておいたがいい。」
さらに距離が縮まり,二人の細部が見て取れるようになる。
それでも,患者の側が,結香里であるとは,どうしても思えない。
知っている結香里の面影は,どこにもない。
髪は伸び放題で,櫛もあまり入れていないようだ。
体全体が不健康にむくんでいる。いや,膨れ上がっているといったほうがいい。
私達の姿を認めて,看護婦が軽く会釈をする。
患者は,看護婦の後ろに身を隠そうとする。
目はうつろに開かれ,口元はだらしなく開かれている。
「動くなよ。」
「はい。」
少しでもこちらが動くと,走って帰ってしまうらしい。
それだけならいいが,普段,ろくに体を動かしていないので,躓いて倒れた時に危険なのだと言う。
入院してからアトピーが出てきたとの事で,顔がまだらだ。
それが,余計に彼女の人相を変えてしまっている。
彼女と目が合う。
次の瞬間,初老の看護婦の後ろに顔を隠して,いやいやを始める。
「結香里。」
たまりかねて,名前を呼ぶ。
名前に反応して,彼女は体をビクンと痙攣させると,看護婦を引きずって,後ずさり始めた。
「帰るぞ。」
結香里の父親が,私の腕を取って,駐車場の方へと引っ張る。
「しかし。」
「帰るんだ。」
引きずられるままに,車に戻る。
見ると,結香里の父親の顔が,涙で濡れている。
「あいつは,結香里は,君の事がわかったようだ。今まで,誰に会っても,あのような反応をする事はなかった。」
しばらくして,看護婦がやって来る。
「どうして,この人を連れて来られたのですか。お嬢様は,泣いてらっしゃいます。もう,外に出るのは嫌だと。」
「大丈夫だろうか。また,自分を傷つけたりは,しないだろうか。」
「なんとも。」
「やはり,君を連れてきたのは,間違いだったのだろうか。」
「私は,お嬢様のところに戻っておりますので,何かありましたらお呼びください。」
そう言って,看護婦が病院に帰っていく。
「娘の,結香里のあの姿を見せれば,君も諦めつくだろうと思ったのだが。」
「あれが,本当に,お嬢さんなんですね。」
「嘘をついても仕方が無いだろう。どうだ,もう,君の知っている結香里は,どこにもいないことを確認しただろ。」
私には,返事のしようが無かった。
だが,次にすべきことは,見当がついた。

病院は,周囲を山に囲まれていて,近くの町に行くには,車で三,四十分は走らないといけない。
路線バスは,一時間に一本程度。朝と夕方の通勤時間帯だけは,一時間に二本に増える。
結香里の父親の車で,元の街まで帰された私は,テントにシュラフ,リュックサックと,それに詰め込めるだけの保存食料を買い込んだ。
そして,バスに乗り,病院まで行くと,その近くでテントのはれる場所を探す。
あまり病院に近くてもいけない。
歩いて二十分くらいのところに,平地を見つけ,そこにテントを張った。
朝,結香里が散策に出てくる時間を見計らって,病院の敷地に行き,できるだけ遠くから見つめる。
最初は,誰だか見分けがつかないくらいに遠く。ただし,服装は,結香里とよく会っていた頃に着ていた服装に,できるだけ近いものを選ぶようにした。
それを,雨の日も,欠かさずに続ける。
風邪を引いたりして体調を壊さなかったのは,ただ,ひたすら思いつめていたからに他ならない。
そうして,少しずつ,少しずつ,立っている場所を,結香里の散策道に近づけていく。
最初は反対していた結香里の父親も,何も言わなくなった。
毎週土曜日の早朝にやってきては,私の横に立って,じっと結香里を見ている。
帰り際に,結香里の様子を聞いてくるようにもなった。
結香里は,最初は,目をそらすように歩いていたが,やがて,時折こちらをちらっと見るようになる。
ある日。
結香里の散策を終えた看護婦が,私のところにやってきた。
看護婦が,私のところにやって来たのは,初めてだった。
「気がつかれましたか?」
「何でしょう。」
「お嬢様がね,お嬢様が,今日,出掛けに薄く口紅を引いてらしたんです。今までに無かった事です。」
「本当ですか。」
「あたし,もう,嬉しくて,嬉しくて。」
そう言うと,ハンカチに顔を埋める。
「きれいだったって言ってたって,伝えていただけますか。」
「ええ,ええ。」
次の日から,毎朝,口紅を塗って出てくるようになった。
恥ずかしそうに,看護婦の背中に顔を隠して。
「結香里,まっすぐ胸を張って歩け。君は,きれいだ。」
心の中で,そう叫ぶ。
その思いが通じたのか,私のいることに慣れてきたのか,だんだんと顔を隠さずに,通り過ぎる様になった。
看護婦から報告を受けて,結香里の担当医が近づいてきた。
「話は聞いたよ。君のおかげで,結香里さんは,随分と変わってきたね。最近は,治療のためにやってる造花作り等の作業にも積極的に参加するようになり始めた。」
「良かった。」
「ところで,君は,毎朝,どこから来るんだい。車で来てるんだろ。」
「いえ。」
近くでテント生活している事を話す。
「そりゃいかん。そんな事して,君が体調を崩したりすると,結香里さんが,また元に戻ってしまいかねない。そうだ,病院に住み込めるように手続きしてあげよう。」
「いや,これでいいです。今のままの方が,こちらも体調がいいんです。このままでいますよ。」
「そうか,じゃあ,食料はどうしてるの。」
「保存食で凌いでます。」
「それじゃあ,食料だけでも差し入れしてあげよう。」
「そうですか,できれば水をお願いしたいのですが。」
担当医のはからいで,新鮮な水が手に入るようになったのは,ありがたかった。

ついに,嬉しいその瞬間がやってきた。
小雨の日だった。
雨の日は,結香里は散策には出てこない。
だが,どこかから見ている可能性もあったので,よほど激しい雨で無い限りは,立つようにはしていた。
その日は,出てこない筈の結香里の姿があった。
看護婦に付き添われて,傘をさして,通り過ぎるかと思われたが,その日は,こちらに近づいてくる。
手にたたんだ傘を持っている。
傘を持って,真っ直ぐにこちらにやってくる。
そして,私の前に立ち止まると,手に持った傘を差し出した。
「私に?」
返事の変わりに顔を引き攣らせている。
「お嬢様,お笑いになってらっしゃるのね。」
感極まって,看護婦が結香里に抱きつく。
「始めて,お笑いになってらっしゃる。」
私は,震える手で傘を受け取る。
そのまま抱きしめたい思いを必死で抑えて,
「ありがとう。」
抱きしめれば,今の結香里は,そっくり脱皮して,元の結香里に,私の知っている結香里に戻るような気がする。
結香里は,顔を引き攣らせたまま,看護婦に促されて,病院に戻っていった。
それから,毎日,私は小さな花を一厘手渡すようにした。
傘のお礼のつもりだった。
道端に咲いている小さな花。
結香里は,嬉しそうに顔を引き攣らせて受け取ってくれた。

「私は,間違っていたのだろうな。」
結香里の父親が言う。
「あの子が小さい頃から一緒にいて,誰よりもあの子を愛し,誰よりもあの子のことをわかっているつもりでいた。しかし,君ほどの情熱を持って,あの子を愛し,理解していただろうか。」
「私が,というより,他人であるから出来る事ってあるかもしれません。肉親では,客観的になれないでしょ。守ることはできても,それ以上の事はできない。でも,私が出来る事も,所詮,専門家のところに,必ず結香里を連れて行くって事でしかない。結香里を元に戻すことに,自分と同じだけの情熱を傾けてくれると信じられる人のところに。」
「その老人は,そんなに信用できるのか。」
「そう信じてます。」
「それ程に立派な人なのか。」
「人格の問題ではありません。信じられるのは,高度な専門知識と,財力,情報力です。でもね,専門知識のレベルを判断できるだけの素地が私にはないですから,結局は,感でしかないんでしょうね。あの人なら,あの人に任せれば大丈夫だっていう。」
「しかし,あの看護婦と君以外に,誰とも接触したがらない結香里を,どうやって連れ出すんだ。」
「そうですね。もう少し時間が必要だと思うんです。もう少し時間をかければ,結香里の中に勇気が生まれてくると思うんです。」
「どうして,そんな事がわかるんだ。」
「情熱って言う以外に無いです。」
「結香里を,娘をよろしくお願いします。」
父親は,私の手を取って,頭を下げた。

「あなたの事は,結香里からよく聞いてましたよ。」
結香里の母親が言う。
体の細い,か弱そうな女性だ。
今の看護婦の前には,この母親が,病院に泊り込んで結香里を看病していたが,肉体的な負担が大きかった上に,当初,なかなか結香里が心を開いてくれず,精神的な負担も大きくて,体調を崩し,寝込んでしまったのだそうだ。
結香里の症状の改善を聞いて,ようやくベッドから起き上がることができた。
「もっと早くお会いしたかったのですが。」
「お体は,大丈夫ですか。」
「ええ,結香里が回復してきたと聞いて,矢も盾もたまらずに。あの子、顔に表情が出てきて。前はね,表情もなくて,ずっと固いままだったんですよ。それが,何て言うか,目元が緩んで,優しい顔に戻り始めているようで。本当に,あなたのおかげです。」
「まだ,これからです。」
「昨日も主人と話してたんですが,私達,あなたの事を信じます。よろしくお願いいたします。」
そう言うと、私の手を取った。
その手を、しっかりと握り返す。

結香里の担当医に事情を話してみた。
「どうでしょう。まだまだ,時期尚早だと思うんですが。」
「どうやれば,彼女に外に出て行こうという勇気が生まれるんでしょう。」
「少しずつ,病院の敷地から出してあげることなんでしょうが。それとね,あなたのおっしゃってた心理学者,調べてみましたが,ずっと昔に学会の異端児として,除名されてますね。論文は,三つばかり出てました。今の時代から考えれば,なかなか面白い理論を展開されてますが,いかんせん,それから後の論文が出てないので,一方的に根拠を否定されて終わってます。その後は,誰も追実験や実証実験をやってません。」
「薬学の分野では,いかがでしたか。」
「そちらの分野では,かなりの実績があるようですが,こちらも除名処分を受けてます。どうやら,かなり危険な薬品を開発したようですね。それを,私腹を肥やすことに使ったとか。まぁ,どちらの分野でも,かなり危ない人のようです。でも,もう亡くなってますよ。」
「ええ,二年ほど前に,日本で亡くなった事になってるでしょうね。遺体は,海の底に沈んだ。」
「海の底に?」
「遺体を載せていた貨物船が原因不明の火災を起こして,船ともども。」
「ますます怪しい。」
「元が異端の人ですから。」
「ともあれ,結香里さんが,病院の外に出る気になるかどうかですね。」
それが問題だった。
車椅子を用意してもらった。
結香里は,怪訝な顔をした。
いつものように花を手渡し,車椅子を結香里の後ろに回す。そして,手を添えて,座らせる。手を添える時に,顔が強張る。
「大丈夫よ。」
と,看護婦が言ってくれる。
その車椅子を,私が押そうとすると,腕を突っ張って嫌がった。
仕方がないので,看護婦に代わってもらい,私は,その横を一緒に歩く。
最初は不安がっていた結香里も,これを喜ぶようになった。
次に,看護婦に代わって,私が押す事に慣れてもらう。これだけで,一ヶ月近くかかった。
だが,ここまで来ると,看護婦がついていず,私と二人だけでも,不安がらなくなるのは早かった。
私は,できるだけ長い時間をかけて,結香里を連れまわった。
もう,さすがに慣れただろうと思ったが,それでも,病院の門を出ようとすると,嫌がる。
そこで,何やかやと,できるだけ結香里に話しかけながら,散策することにした。
これが効を奏したのか,一週間もすると,病院の門を出る時も,一瞬,体を緊張させたが,
嫌がらない。
ようやく,病院の敷地から出ることができた。
そして,病院の外の景色に,結香里は目を輝かせ始める。
刺激を受け入れることを覚えたのだ。
ある朝,車椅子を無くした。
結香里は怪訝な顔をした。
いつものように,花を手渡し,そのまま彼女の手を引いた。
やや不安そうではあったが,看護婦がいなくても,一緒に付いて来てくれる。
その事にも,少しずつ慣らしていった。
まずは,病院の敷地内。そして,病院の外。
運動量が増えたからか,結香里の顔の血色がよくなり,胴衣がぶかぶかになり始める。
少し痩せたからだ。体力も付いてきた。
「最近,よく食べられるようになられました。」
看護婦が言う。
だんだん,元の結香里の面影を取り戻しつつあった。
「もう,無理して,そんな変な老人のところに連れて行かなくてもいいだろう。」
父親が言う。
「聞けば,学会を除名されたような男じゃないか。」
結香里と,私と,父親の三人でベンチに腰掛けて話していた。
「私は,結香里を完璧に元に戻してあげたいんです。」
「そんな信用できない男のもとに娘をやるわけにはいかない。」
母親は違った。
「結香里は,もう,あなたの言うことしか聞かないと思います。あの子を幸せにしてあげれるのならば,あなたの思う通りにしてください。」

「結香里,いいかい。」
結香里は,首を傾げて,私の話すことに耳を傾けてくれた。
「一緒に,別の病院に行こう。そこは,ここよりも,もっと遠くだよ。しばらく,お父さんともお母さんとも会えないけれど,私が一緒だ。そこで,君は,もっと回復するんだ。いいね。」
結香里が,強く私の手首を握る。
それを承諾と取った。
私は,老人から聞かされていたアランという男に連絡を取った。
老人に最後に会ってから,随分と時間が立っていたので,もう駄目かとも思ったが,電話は,ちゃんと繋がった。
「ホセから聞いていた。待ってたよ。」
「彼は,ホセは,元気なのか。」
「かろうじて,生きては,いるようだよ。わはは。」
アランの笑い声に心強さを覚える。
「一週間後に迎えに行こう。」
「しかし,対人恐怖症が残っているのに,どうやって。」
「大丈夫だ。」
一週間後に旅立つことを両親に伝える。
いきなりの話で,父親が激しく反対する。
母親が,それを説得した。
担当医が退院手続きを取ってくれる。
「私としては,半信半疑です。でも,あなたの熱意にかけましょう。」
一週間後の早朝,大型のワゴン車が病院の前に泊まる。
金髪の男が降りてきた。
「アランだ。」
そう言って手を差し出す。
中には,日本人の看護婦が二人乗っている。
「彼女らが,老人のところまで付き添ってくれる。」
「私も参ります。」
と,初老の看護婦が名乗り出てくれたが,
「あなたの体力では,海外まで行くのは大変です。」
流暢な日本語でアランが答える。
「くれぐれも,よろしくお願いいたします。」
両親が見送る中,ワゴン車が動き出す。
強張った結香里の手をそっと握り締める。
ようやく次のプログラムが始まるのだ。