(十五)



「やぁ,遠いところをよく来たね。」
老人は,顔をしわくちゃにして出迎えてくれた。
「疲れただろう。」
「いえ,快適な旅でした。」
それは,嘘ではなかった。
大型の車を手配して,空港まで。
そこには小型ではあるが,対人恐怖症の結香里のために専用機を用意してくれていた。
出国手配も,どのように手を回したのか簡略化され,誰にも会わずに専用機にたどり着くことができた。
飛行機の中では,食事と飲み物の時以外は二人だけにしてくれ,同行の看護婦も,あまり接触してこなかった。
空港から老人の施設までは,やはり大型のワゴン車で,悪路ではあったが,たっぷり二日がかりで走る。
途中のホテルも,一流とは言い難かったが,快適ではあった。
結香里もよく眠っていた。
それでも,結香里にとっては初めての長距離で,緊張の連続であったのだろう,老人にすすめられてソファーに座り込むなり,うつらうつらとし始める。
「ちょっと,時間がかかったとは言え,本当によく来てくれた。まぁ,二,三日はゆっくりして,まずは,この場所に慣れる事だな。」
老人の施設の中は,程よく空調が効いていた。
だが,その周囲がどうなっているのかは,その時点では,皆目わからなかった。
到着したのが夜だったし,そうでなくても,外から中を覗きこまれないように,それは言い換えれば,外の景色が良く見えないように,ワゴン車の窓に黒いシートが張られていたので,車の傾斜具合で,途中から山岳部に入ったのだという事程度しか把握できなかった。
「ここは,私の祖国の山間部だよ。結構,坂道が多かっただろ。でも,トンネルを方々に作っているので,車の中でも,そう不快ではなかったと思うがね。明日になればわかるが,建物の前に湖がある。なかなか美しい湖だよ。それが気に入って,ここに住んだようなものだ。」
一夜明けると,確かにその眺望の素晴らしさに息を呑んだ。
老人の建物の前には,広い岸辺の向こうに,急峻な山に囲まれた透明度の高い湖が広がっていた。
山は,老人の建物を含む四方を取り囲んでおり,岸辺があるのは,老人の建物の立っているところだけ,それ以外は,半ば切り立った崖のようになっており,湖と老人の建物を守っている。
ここに来るための交通手段は,裏手の山に作られたトンネルしかない。
老人の建物は,一フロアが,広く贅沢に作られた八階建ての建物で,ビルにしては,ややいびつな格好が,逆に周りの自然にマッチしていた。
建物の最上階が居住フロアとなっており広い廊下を挟んで十五部屋あり,その下の階に結香里の治療用にあてられた部屋や,体を動かすための広いスペースがあったりする。
屋上に出てみると,この建物の一フロアあたりの広さが実感できる。
ただ,それ以外の階には,我々は案内もされなかったし,どのようにして行けばいいのかもわからない。
時折,機械の動く時の小さな振動が,床から伝わってくるが,最初は,それが何の音なのかもわからなかった。
私と結香里は,何日か,湖の岸辺を散策したり,屋上にテーブルを持ち出して食事を取ったりして,旅の疲れを癒した。
たまに老人が,そこに加わった。
老人は,結香里に対して,最大限に気を使ってくれた。だから,結香里も,最初の何回かは老人が近づいてくると体を固くしたが,次第に慣れ,笑顔さえ見せるようになった。
ところで,結香里の笑顔は,美しい自然に影響されたのか,顔が引き攣ったようなぎこちなさから,もう少し柔らかく筋肉の動くものに変化していた。
さらに,時には,何か言葉を喋ろうと,口を半開きにすることさえあった。
日本から付いてきてくれた二人の看護婦は,必要以上に結香里に干渉せず,どうしても手助けがいる時にだけ接触していたので,結香里の中に,自分でやるんだと言う意識が芽生えてきたようでもあった。
不健康に膨れ上がっていた体も締まった感じになり,ようやく顎と首の境目が確認できるようになる。
一過性のアトピーも,ここに来て数日のうちに消えた。
「空気がいいからだよ。」
老人が言う。
「ここには,あなたしか住んでらっしゃらないのですか?」
「いや,ここは,あれだよ,以前話したかな,アメリカで製薬関係のベンチャー企業を経営している話。アメリカをたたんで,こっちに持ってきた。」
だから,建物の下層部は,工場になっているそうだ。
工場へは,裏手のトンネルから直接行かねばならない。
居住部分へは,作業員は入れない仕組みになっていた。
「工場とは言ってもな、生産装置が大きいだけで,ほとんど自動化されている。だから,あまり人は雇っていないのだ。機会があれば,君も一度工場を案内してあげよう。」
結香里の姿が見えなくなったは,それから数日後だった。
いつもならば,湖の見える日当たりのいい場所で,椅子に腰掛けて外をじっと眺めているはずだった。
それが,どこを探してもいない。
老人は,工場の人間を何人か集めて,周囲を探すように命じた。
工場の人間を見たのは,それが初めてだった。
程なくして,結香里が湖の方から歩いてくるのが見えた。
「どこ行ってたんだ。」
駆け寄って,ふと手を見ると,黄色い花を持っている。
それを私に差し出して,
「これ,あなたに。」
「この花を取りに行ってたの?」
「そう。あそこ。」
指差すほうを見ると,足を滑らせれば湖に落ちてしまいそうな場所だ。
「心配したよ。でも,ありがとう。」
私は,つい,日頃の自制を忘れて,結香里を抱きしめかける。
「駄目。汚いから,駄目。」
「汚い?」
「そう,私,汚い。汚れてる。」
「結香里が?」
「だって,だって。」
結香里は,自分の身に起きた過去の出来事,誘拐され,陵辱され,なおかつ,妊娠までしてしまった事に対して,自分を汚いと,責めているに違いなかった。
「結香里は汚くなんかないんだよ。」
「汚い。」
「きれいだよ。」
私は,今の結香里に対して,心のそこからそう思った。
「私が?」
「そう。」
「きれい?」
「うん,きれいだ。」
結香里は,あからさまな混乱を顔に浮かべて俯き,歩き始める。
老人は,先程からのこのやり取りを見て,
「彼女,言葉を喋り始めたじゃないか。」
そう言えばそうだ。今まで,彼女が自発的に言葉を喋るなんて事は,ほとんど無かった。
「って事は。」
「そう,今まで全くと言っていいぐらいに閉ざされてきた彼女の脳内のゲートのいくつかに,この間から少しずつ開くものが出てきていた。それが,今回,開き方に自発性と方向性が出てきたのだよ。特に,情動とコミュニケーションの部分にな。」
「じゃあ,かなり回復してきてるんですね。」
「ああ,そうなんだが。」
そう言って,やや,顔を曇らせる。
「何か?」
「いや,意識が明瞭になればなるほど,彼女の中でも闘いが始まる。」
「闘いですか?」
「ああ,彼女は,今まで,ゲートを閉ざすことによって,自分にとって耐え難い出来事の記憶を封印してきたのだ。それは,自分の身を守る事でもあった。」
「どうして。」
「自己破壊衝動だよ。意識が明瞭になればなるほどに,思い出したくない記憶に対して,その傾向が強くなる。だから,彼女は無意識のうちに記憶を閉ざしたのだ。だが,今まで,漠然とした記憶の中での自己破壊はあった。ほとんど条件反射的な奴だ。それが,意識がはっきりし,記憶が明瞭になる過程で,より明確に自己破壊の方向性,つまり意思を持ち始める。いや,そういう恐れが出てきたと言う事だ。」
「一体どうしたらいいんでしょう。」
「君は,彼女の側を離れずに,じっと見守ってやる事だな。私は,とりあえず,屋上へは行けないように鍵をかけてしまおう。それに,小さな窓でも,開かないようにしてしまうこと。この湖は遠浅だが,岸辺にセンサーを仕込もう。彼女が万一,一人で近づいた時にすぐに分かるようにな。」

治療は,彼女の混乱が治まるを待って,翌日から始められた。
「ここが,治療室だ。と言っても,ベッド以外何も無いがね。君は,彼女の気を散らせるといけないので,隣の部屋から見ていたまえ。マジックミラーになっていて,隣からこちらの様子が窺える。」
治療は,老人の開発した向精神剤の投与と,催眠療法によって進められた。
「いいか,この薬で彼女の脳内のゲートを開きやすくする。たいていの場合は,快の方向に条件付けられてゲートは開くので,この薬の投与だけでも充分に治療可能だ。だがな,彼女のように,特殊な体験からゲートを閉ざしてしまったケースでは,催眠療法を組み合わせる。彼女が快と感じる記憶を少しずつ引き出すのだ。まぁ,人生のいい部分ばかりを,もう一度追体験させてあげるってところかな。それをゲートの開閉と結び付けていくのだ。」
老人は,彼女をベッドに横たわらせると,目を閉じるようにいい,静かに語りかける。
結香里の強度の緊張から,最初の何回かは,失敗した。
が,老人は,根気よく続ける。
そのうちに,結香里も深い深い眠りの中に落ち込んでいった。
老人は,さらに静かに語りかける。
「君は,今,生まれたばかりなんだよ。
まわりに,誰がいる?」
「ママ,パパ,おばぁちゃん,ばぁや。」
結香里が小さな声で答える。
「君は,何してるの?」
「温かいものに包まれて,ママのおっぱいを飲んでる。」
「みんな,どんな顔してる?」
「すごく嬉しそう。」
「君は?」
「私も嬉しい。そして,気持ちいい。」
「それから?」
「それから,眠るの。甘い香りがする。」
そんな具合に,結香里の誕生した後からを辿っていく。
老人は,ゆっくり時間をかけながら,彼女の言葉を待ち,次の質問を用意する。
次の質問は,彼女の前の答の余韻が消えるのを待ってなされる。
「いやはや,忘れかけてた日本語を思い出しつつ質問を組み立てていくのは,本当に疲れよ。」
質問は,毎回,一時間で区切る。
「あまり長くてもいかん。程よいところで切って,彼女の中にさらなる余韻を生むのだ。」
結香里は,そのまま治療用のベッドの上で数時間の眠りにつく。
その間,治療室には静かにクラシックが流れる。
「私が好きなので,流している曲は,たいていモーツアルトだ。治療が終わった頃には,私と彼女の趣味は一致してるよ。一度,彼女をコンサートに誘ってもいいか。」
「どうぞ。」
老人は,顔を皺だらけにしてウインクする。
治療は,老人にとっては,かなりの集中力を必要とするらしく,終わると,げっそりと疲れた顔で,出てくる。それから,必ず,何時間かの睡眠を必要とした。
結香里は,治療後の睡眠の中で,うなされる事もあった。
ある時は,
「パパ,パパ。」
と,父親を探して,室内を走り出した。
私は,治療室に駆け込んで,彼女を抱きしめ,そのままベッドの端に座って,動揺が治まるのを待つ。
「パパ,パパ。」
そう呟きながら,再び眠りにつく。
「子供の頃に戻ってるんだ。彼女が,最も快であった時代にな。」
それを聞いて老人が答える。
「残念ながら,まだ,君は登場してこない。君は,彼女の保護者の代理でしかない。
しかし,君達日本人ってのは,予想以上に親と子の結びつきが強いね。こりゃあ,もう少し治療が進むと,親離れさせるのに一苦労するかもしれんな。」
「彼女は,特に,親が待ち望んで,やっと生まれた子なんですよ。」
「ふむ。しかしな,それにしても,親の干渉の度合いが激しい。それが,今回のような特殊な経験をした時に,逆に悪い影響を与えている可能性がある。自分で,うまく処理する機能を喪失して,必要以上に自虐に陥るのだ。まぁ,しばらく,様子を見よう。私にとっての,この治療のゴールは,自虐からの脱却と,さらなる精神的な成長,独立と言っていい。
君は以前,私に,彼女を実験台にするのかと言ったな。」
「いえ,あれは,ちょっと。」
「いや,いいんだよ。自虐からの脱却までは,私の君と彼女に対する詫びの気持ちからだが,そこから先,彼女の精神面での独立については,私の興味の範囲,つまり実験台だ。必要以上に強いファザーコンプレックスの中で育ってきた彼女を,どれだけ精神的にも独立させることができるか。」
「しかし,それは,私からも離れていくことを意味するのでは?」
「大丈夫だよ。君が,どのような状況であれ,彼女を愛する気持ちに変わりなく,その事を,きちんと彼女に伝えることができていればな。君も,もっと自分に自信を持ちたまえ。」
治療台の上の結香里は,段々,元の結香里に戻っていく。
不健康さは無くなったし,身だしなみにも気をつけるようになり,髪も,毎朝ブラッシングしているようだ。
精神病院で看護婦に連れられて歩いていた結香里からは,想像もつかない。
「ところで,」
と,前から気になっていた事を老人に質問する。
今まで質問しなかったのは,結香里の事が先に立っていて,質問する機会が無かったからだ。
「あなたから,依頼されていたあなたの手記についてですが,本当に,もう必要ないのですか。随分と,中途半端に終わっていますが。」
「うむ,まぁ,あれは,あれで完結しておるのだ。中途半端か?確かにな。しかし,私にとって語るべきところまでは,全て語った。」
「精神疾患の治療薬を発明されたところまででしたよね。」
「そうだったな。それが,今,彼女に使っている薬だ。実際は,もっと改良を加えているがね。」
「その後,あなたは,学会からの除名処分を受けていらっしゃる。そのあたりの釈明を目的で手記に取り掛かられたのならば,もう少し,話を進める必要があると思うのですが。」
「確かにな,学会は私を除名した。それはな,私の薬が世に出始めると,困る連中がそのように工作したからだ。そいつらが,私のある事無い事を言い立てた。ろくな実証実験もさせてもらえずに,私の薬は副作用が強いと言う結果だけが一人歩きして,学会から放り出された。」
「しかし,スクリューとかいう名の即効性の強い麻薬も作られたと聞いてますが。」
「おお,スクリュー。そうだ,よく知ってるな。アンジェラか,情報元は。あれは,私が向精神剤を開発中に偶然できてしまった薬品だ。動物実験でも,激しい麻薬効果が確認できた。あれを売り出せば,私は,もっと金持ちになれただろう。だが,金には興味が無い。
一部を後の研究用に保存して,残りは捨ててしまった。だが,誰かが持ち出したらしい。
あの薬の存在も,私が学会を除名された格好のネタになった。」
「あなたは,その薬のレシピを自分で封印してしまわれたとか。それが,あなたが誘拐されたり,結香里が誘拐された原因なのでしょ。」
「そうだ。だから,私は君達に謝罪しなければならないのだが。この封印を解こうとする者がいる。そもそも,その者が企てた事があって,それで,私は,私は。」
「どうしました?」
「すまん。少し頭痛が。」
「大丈夫ですか。」
「ああ,年は取りたくない。たまに偏頭痛に悩まされる。こいつが始まると,しばらく,嘘のように長い眠りにつくのだ。まぁ,彼女は,随分回復しているので,しばらく放っておいても問題ないがね。自殺にだけは気をつけてやってくれ。」

それから二日ばかり,確かに老人は姿を見せなかった。
彼がいなくても,食事や掃除など,生活のベースとなることは,すべて問題なく行われた。
だから,私は,結香里と,何不自由の無い生活を送った。
結香里は,治療途中で,まだ小学生の頃までしか追体験していない。
だからと言って,知識レベルには問題は感じられなかったが,とにかく,よく甘えてきた。
私は保護者の代理でしかないと言った老人の言葉に,充分納得できるような甘え方だった。
私は,常に一緒にいる事を要求された。そして,トランプなどを,一日でも,飽きるまで付き合わされた。また,音楽をかけて一緒にでたらめなダンスを踊らされた。これは,楽しかった。
三日後に老人が再び姿を現した。
しかし,その姿は,何かを思いつめたようで,ひどく疲れて見えた。
「大丈夫ですか?」
「私が,どうかしたか。」
そのしゃべり方もつっけどんで,愛想が悪く,結香里が怖がった。
「いえ,随分と疲れてらっしゃるようなので。」
「疲れる?ふん,私が?疲れているか。まぁ,いい。どのみち,暫くは治療は中止だ。ついておいで。」
そう言うと,ためらう私達をおいて,廊下の端のドアを開ける。
それは,工場に繋がる廊下の入り口だと聞いていたドアだ。
いつもは,鍵がかかっていた。
ドアのところで,老人が振り返る。
「どうした。ついて来ないのか。」
結香里の方を見る。
結香里がいやいやをする。
「結香里は置いて行ってもいいですか?」
「勝手にしろ。」
結香里に待っているように言う。
不安そうな彼女を一端部屋の中に置いて,私は老人の後を追った。
「どこに行くんですか。」
ようやく追いつきながら,声をかける。
「喋るな,うるさい。貴様の声が耳に響く。」
返って来た反応は,今までの老人からは,考えられないものだった。
「どうしたんですか。」
「喋るなと言っているだろ。」
階段を降り、老人から,工場だと聞かされていた場所に出る。
そこは,確かに工場ではあったが,製薬工場と言うには物々しく,工員は全員がライフルを肩から下げて歩いていた。
「これが,工場ですか。」
「工場?」
老人が振り向く。
その表情は,いまだかつて見たことの無い強烈な皮肉に縁取られていた。
「工場と聞かされていたのか,あいつから。」
「あいつ?」
「そうだ,あいつだ。まだ,お前には,この意味がわからないだろうがな。待ってろ,すぐにわからせてやろう。」
そう言うと,さらに下層へと向かう。
地下何階かと思わしき階層まで,階段を降りる。
「エレベーターは無いんですか。」
この緊迫した雰囲気に,我ながら馬鹿げた質問だと思った。
「エレベーターか。そうだな,それも,あいつに邪魔された。ここまで来るのに,階段を使わざるをえなくしたのは,あいつだ。いまいましい。」
階段を降りきったところで,長い廊下があり,そのドアの一つを開ける。
「このドアは,私しか開け方を知らない。入れ。」
ドアが開いて,人が入ってくると,自動的に照明がつくようになっているのだろう,その明るさに,一瞬,目がくらむ。
部屋の中は,祭壇のようになっていて,真ん中にガラスの筒が立っている。
その中に,子供のミイラが眠っている。
老人は,それを指差し,
「私だ。いや,私であったものだ。わかるか?」
「いえ,どう言う意味ですか。」
「お前は,ホセから,年の離れた弟の事を聞いていただろ。」
「はい。腹違いの。でも,それは,あなたの口から。」
「私は,ホセではない。」
「わからない。」
「ホセの肉体を借りているが,ホセでは無い。私は,かつて,これだった。」
もう一度,子供のミイラを指差す。
「これは,ホセ達が,貧乏暮らしをしていた頃の掘っ立て小屋の下から掘り出した。ホセが,私のおかげで組織の顔役にまで成れた頃の事だ。」
「ますます混乱してきた。あなたは,この子供のミイラから生まれた悪霊ってわけですか。」
「悪霊?はっはっは,悪霊とは,いい。だが,もっと科学的に根拠を持って生まれたのだ。
ホセの六歳以前,家を飛び出るまでの記憶を聞いたか?そして,母親が死んでから,腹違いの弟とやらが生まれるまでの記憶は?」
「六歳以前の記憶は無いのだと聞いてますが。」
「無いはずだ。六歳までの記憶は,私がしっかりと持っている。悲惨な記憶だ。三歳までは,裕福な生活だったが,中国系の組織が撤退してからの我々,私とホセは,どれだけ酷い目にあったか。親兄弟,近所の大人達からもな。ホセは,その記憶をしっかりと封印しおった。私が,母親に殺される時にだ。」
「殺された?」
「私とホセは,双子だったのだ。六歳の時,私が首を絞められて殺されるのを見て,奴は,慌てて逃げ出した。そして,奴は,ホセは,その記憶を封印した。物心ついてから,私が殺されるまでの記憶をな。でないと,自分が壊れそうだったからだろう。だが,そのおかげで,奴の中に私が生まれた。いや,私自身も,生まれたなどとは気がついていない。だが,無意識のレベルで,私は,ホセを随分とサポートさせてもらったよ。元来,奴は,性根が優しく,他人に対して薄情にはなれない奴だ。それをあえて,薄情にして,奴を窮地から救ってやった。だが,私の意識と言うものは,まだ,誕生していない。いないが,無意識のレベルで,ホセと共に成長した。わかるか?」
「いえ。」
「そうだろうな。お前達は,私が経験したほどの悲惨を見たことも無いのだから。わかるわけない。私が誕生したのは,ホセの母親,まぁ,私にとっても母親であるのだが,あのいまいましい女の死によってだよ。あの女が,私のこの世に対する憎しみの発端を植えつけたのだからな。その後は,ホセと共に,その憎しみを育てた。あいつは,それを認識していないが。いや,認識しなくても良いように,私が計らってやったのだよ。おっと,私の誕生の話だったな。母親の臨終の席であいつが見つけたもの,それは,我々二人が写った一枚の写真だった。奴は,母親に問いかけるが,母親は,謝るだけで何も語ってくれない。その時だ。奴の脳裏に,六歳の時の,家を飛び出した時の光景がまざまざと浮かび上がった。そこで,奴は,初めて,母親が自分の片割れを殺し,実は,その後,自分も殺される所だった事をはっきりと思い出した。だが,今となって,どうして母親を恨めよう。そこで,再度,奴は記憶を封印した。私の事は,腹違いの年の離れた弟として記憶することによってな。そうだ,奴が三十過ぎの時に生まれた腹違いの弟の私は,生まれながらに三十過ぎの知能と小賢しさと,冷酷さと,忍耐強さを持っていた。だから,私は,奴が自覚できる形では,決して姿を現さなかったよ。それが,自分を守る道だとわかっていたからな。だが,やがて,奴も感づき始める。奴は何と言っていた,自分の運の良さを。」
「予定調和と。」
「そうか,予定調和か。かも知れん。奴の事は,すべて私が段取りしてやった。奴は,その結果だけを受け取ればいい。それを,奴は,予定調和と言っていたか。そうやって,自分を納得させていたんだ。だがな,奴も馬鹿ではない。やがて,私の存在に気付き始める。
私が世の中に対して持つ憎しみの強さについてもな。そのあたりからだ,奴は,私に知恵比べを挑んできた。」
「知恵比べ?」
「奴は,ことごとくに,私を邪魔し始めた。せっかく築いた地位を投げ捨てた。麻薬と言う悪魔の薬を使って,この世に復讐してやろうと狙っていた私の魂胆を先読みしおったのだ。だから,私と,麻薬組織の関係を一切絶ってしまった。そして,あろう事か,アメリカに渡って,ひたすら研究に打ち込む生活をはじめた。私は,待った。じっと待ったよ,チャンスが来るのを。奴と同じ知識を持ちながら。そして,とうとうやって来た。奴が研究していた向精神剤のある成分をそっくり入れ替え,ある作用を加えると,強力な麻薬が出来上がるのに,私は気がついた。そして,奴が気がつかないうちに実験し,成功した。ところが,その時点で,奴に気付かれた。奴は,そのレシピを封印した。無理に取り出そうとすると,知識そのものが破壊されてしまうという,二重の封印を掛けおった。私は,奴に,研究用に残しておくよう暗示をかけ,気づかぬ奴は,その通りにした。それを,祖国に流してやった。素晴らしい効果だった。どれだけの馬鹿者が,薬の虜になり,自ら命を落として行ったか。それがために,奴は,学会を放り出された。それで,日本に流れたのだ。アメリカとフランスの護衛つきでな。だが,私は,奴に死ぬ時期について暗示をかけた。死と言っても,後で私が生き返るための仮死だが。その暗示通りに奴が死ねば,私が奴の知識を乗っ取り,すべては私のものになるはずだった。奴は,それに対抗して,さらに暗示をかけた。私に,手記を残すと言うものだった。その手記が完成した段階で,奴の,つまり私の脳内の知識は,すべて崩壊してしまう。だから,私は,邪魔した。各国の組織と闇取引をし,おまえや,ホセ本人や,お前の彼女なんかを誘拐させたのだ。ほとんどアンジェラ達に邪魔されたが,唯一,お前の彼女の誘拐だけはうまく行った。それがために,おまえは,ホセの依頼をまっとうできなかった。私は,ついにホセに勝ったと思った。ところが,奴もなかなかやるもんだ。自分の遺体を積んだ貨物船を爆破させ,そのショックで,自分を取り戻しおった。その根底には,お前の彼女の誘拐暴行を,私が依頼したと言う事に対する罪悪感,謝罪の意識が強く働いていた。今の奴には,お前の彼女が泣き所だ。お前の彼女にもう一働きしてもらわねばならんな。」
「結香里を,どうするつもりだ。」
「それは,これからの楽しみだ。奴の封印したレシピを取り戻さねばな。もう,薬はほとんど出来上がっている。最後の工程なのだ。だが,そこが最も強く封印されている。
これが,出来上がれば,世界が変わる。低コストで作れ,即効性があり,効き目が強烈で,習慣性のある麻薬が出来上がるのだ。」
「そんな事で富を得ようと言うのか。」
「私に,富は必要ない。私が望むのは,この世への復讐だけだよ。この安価で効き目の強い麻薬をこの世に広げて,この世が混乱するのを眺めながら,永久の眠りにつくのが目標だ。」
「しかし,何故,急に,お前のような奴が。」
「出てきたのかってか?それはな,二日ばかり前の,お前の質問が発端だ。お前の質問によって,ホセの意識が強く私に向かってきた。それを辿って,奴の人格を乗っ取った。奴は,今頃眠っているよ。今度,目覚めた時に見る光景には,さすがの奴も驚くだろう。そして,敗北を知るのだ。」
そうか,私が,麻薬の話を持ち出したことで,こいつが出てきたんだ。こいつもしかし,ホセの罪悪感が生み出した化け物だ。それが,世を恨んで,一人歩きしている。
老人は,さらに隣の部屋に移動する。
そこにあるものを見て,私は声も出なくなった。
壁に鎖でぶら下げられたアンジェラだった。
「この女も,私をホセだと勘違いして,のこのこ出てきた。」
「アンジェラ,大丈夫か。」
鎖に繋がれたままぐったり下を向いて,動こうともしない。
「あまり,うろちょろされても困るからな,早めに消えてもらうよ。お前らは,最後まで人質として取っておく。ホセに,最後の仕事をしてもらわなければならないからな。敗北を知り,虚脱感に襲われた奴を今度こそ私の中から抹殺する。
さて,それでは,もう一人の役者に出てきてもらおうか。」
私達が入って来たのとは反対側の扉が開いて,背の高い,ごつい男が現れる。
アンジェラよりも、まだ頭二つ分背が高い。体重に至っては、アンジェラの三倍はありそうだ。
その男が,何か,大きなものを抱いていて,よく見ると,結香里だ。
男が手を離すと,結香里はぐったりと床に崩れ落ちた。
「結香里。」
駆け寄って抱き起こす。
「手荒には扱っていない。だが,この男を見て,いささかショックを受けたんじゃないかな。」
男も,ニタニタと笑っている。
結香里が目覚める。
焦点が定まっていない。
「結香里。」
と,声をかけ,頬を叩いた。
それで,何とか気を持ちなおしたらしい,
「あの人,あの人。」
と,ごつい男を見て,指差す。
男が,ひどいスラングの混じったスペイン語で,結香里の事を猥雑に表現する。
結香里には理解できなかっただろう。理解できなくて幸いだった。
こいつが,結香里を誘拐し,心行くまで陵辱した一人なのだ。
「コノ,バイタ。メスイヌ。」
どこで覚えたのか,古臭い日本語を結香里に向かって吐き出す。
私には茶番でしかなかったが,結香里には,それが恐怖を呼び起こす言葉だった。
結香里は,
「嫌っ。」
と,耳を塞ぐと,地面に突っ伏した。
おそらく,こんな言葉を浴びせられながら,犯されたのだろう。
そう思った瞬間,私の全身に怒りの血が巡り,沸き立ち,後先の事も考えずに,その男に向かって突進していたが,いかんせん,そいつの鳩尾辺りが私の顔面なのだ。
あっと言う間に,突き飛ばされ,したたかに背中を打つ。
それで負けているわけにはいかない。
かと言って,勝てる算段はまったく無い。
だが,再び,このまま恐怖心から結香里の精神を壊してしまって,永久に戻らなくなるくらいなら,自分の命なんぞ惜しくもないと思った。
再びしがみつくが,片手で簡単に持ち上げられ,アンジェラに向かって放り投げられる。
アンジェラの体がクッションになって,私は屈辱以外の痛みは感じなかったが,アンジェラにはそれなりのショックがあったようだ。激しくうめく。
「その男は,かなりの使い手だ。その女でさえも勝てなかった。本気になれば,お前の命は無い。無駄なことは止めとくんだな。」
「ヨシヒコ,止めたほうがいいわ。」
アンジェラが,か細い声で言う。
「そいつは,本当に強い。あたしでも,勝てない。」
「でも,こいつは,結香里の。」
「知ってるわよ。あたしが,唯一,取り逃がした男。ホセの手下だったとはね。」
「ともかく,このままじゃぁ,済まさない。」
私は,半ば強がりで言う。
見れば,結香里は,床に頭を押し付けて,ガタガタとふるえている。
だめだ,このままでは,結香里が壊れる。
私は,痛む体で結香里の元に這って行き,
「結香里,見ててくれ。」
と,囁く。
「結香里の悪い夢をやっつけるからな。」
結香里のふるえが止まる。
「悪い夢?」
「そうだよ。あれは,君が見ている悪い夢の正体だ。今から,やっつけてやる。」
そう言うと,立ち上がり,男に向かっていく。
「駄目,駄目よ。」
結香里が叫ぶ。その叫びが,私の怒りをさらにかきたてた。
しかし,怒り程度で,世の中は何も変わらない。
あえなく,パンチを浴び,脳震盪を起こしたのだろう,意識を失う。

ひどい気分で目覚めたのは,それから,どれくらい経ってからだろう。
結香里が,膝の上に私の頭を乗せていた。
「大丈夫?」
「結香里は?」
「私は,大丈夫。」
「ご免,あの男に勝てなかった。でも,勝ちたい。」
「いいのよ。」
頬に結香里の涙が落ちる。
「あの男が,あの男が,私を。」
「結香里,必ず仇は討つ。結香里の悪い夢の正体を取り除いてやる。」
「馬鹿なことを言わないで。どうやって,あの男に勝てるのよ。現実を見てよ。駄目,私達,駄目なのよ,もう。それに,それに,私,あの男の赤ちゃんを。」
「バカ。」
そう言って体を起こそうとするが,よろけて,ぶざまに床に転がる。
「結香里。君が生んだ子供は,二人の間に生まれた子供だ。二人で育てるんだ。」
「冗談言わないで。私だって,自分の身に何が起きたかくらい,ちゃんとわかるわ。」
「それが,どうしたって言うんだ。そんな事は問題じゃないだろ。」
「問題よ。ヨシヒコにとっては,どうでもいい事でも,私には大きな問題よ。もう,自分がどうなってしまってもいいくらいの問題なのよ。」
私は,アメリカで出会ったスーザンの事を話そうとしたが,頭が混乱して,うまく言葉にならない。
「問題はね,結香里,本当の問題はね。」
「ヨシヒコ,本当の問題は,ここからどうやって逃げるかよ。」
アンジェラの声が頭の上から聞こえる。
見上げると,相変わらず鎖に繋がれたままのアンジェラがいる。
「アンジェラ,生きてたんだ。」
そう言えば,老人達がいない。
「奴らは引き上げたわ。あんたの彼女の前で,あたしをレイプしてね。」
「何だって。」
「あなたの彼女を混乱させるためよ。でも,結香里,良く耐えたわね。偉いわね。」
「アンジェラ,つらかったでしょ。」
結香里が,立ち上がって,アンジェラの血だらけの顔を袖口で拭いてやる。
「あたしは,一発や二発,あんなのにやられたって,なんて事ないわ。でも,勝てないのが悔しい。野蛮なだけの奴よ。あんなのに負けるなんて,悔しい。勝ちたい。」
そう言うと,涙をポロポロと流し始める。
結香里が,そんなアンジェラを,そっと抱きしめてやる。
「ありがと。」
しばらくして,アンジェラが恥ずかしそうに言う。
「ヨシヒコと結香里は,あたしが,必ず守ってあげるからね。」
こういう状況で,まだ,そんな事の言えるアンジェラは偉いと思った。
「とにかく,アンジェラの鎖を何とかしないと。」
重い頭を振りつつ立ち上がり,アンジェラの動きを封じている鎖を点検する。
アンジェラの両手首は,高く上げさせられ,手錠をはめられ,その手錠と壁の丸い金具とが太い鎖で繋がれていた。鎖には,大きな錠前が付けられ,どう見ても,おいそれと外せそうにない。手錠は,勿論,動けば動くほど締め付けるタイプの物で,アンジェラなりに脱出を試みたからだろう,かなり輪が小さくなり,手首を痛めつけていた。
「ねぇ,細い針金みたいなものを探してくれない。」
「針金?」
「これは?」
結香里が,自分の治療着の前をとめていたヘアピンのようなものを差し出す。
「でも,それは,結香里の。」
「今は,そんな事言っている場合じゃないわ。」
「オーケー。それを真っ直ぐに伸ばして,口にくわえさせて。その前に,ヨシヒコ,私の下で四つんばいになってくれる。台が欲しいの。」
言われた通り,結香里がヘアピンを真っ直ぐに伸ばして,アンジェラの口にくわえさせてやり,私が,アンジェラの下で台になった。
アンジェラは,私の上に乗り,大きく伸びをすると,口にくわえたヘアピンを手錠の鍵穴に入れ,慎重に中を探る。
しばらくして,片方の手錠が外れた。片方が外れると,もう片方は早かった。
「やっぱり,訓練所のトレーニングは,手を抜かずにやっとくべきね。」
「よかった,アンジェラ。逃げよう。」
「ちょっと待って。」
逃げようとする私をアンジェラが制する。
「この中は,ホセの手下だらけよ。逃げ切れると思う?」
「でも,逃げないと,あの大男に殺される。」
「もう少ししたら,私の仲間が行動を起こすわ。後,一日待てば。」
「一日も待てない。」
「それに,あたしには,遣り残した事がある。ホセと,あの大男の抹殺よ。特に,あの男。」
「そんな事言ってる場合じゃないだろ。」
「いいえ,この建物の中で,強いのはあいつだけよ。あいつさえやれれば,後は簡単。でも,あいつが自由に動ける状態で逃げても,それこそ先が見えてるわ。」
「どうする。」
「奴が来るのを待つ。今度こそ勝つ。」
「来るかどうかもわからないのに。」
「きっと来るわ。奴は,種牛のような男よ。わかる?」
結香里が,ギュッと唇を噛締める。
「しばらく,横になるわね。ずっと繋がれっ放しで,疲れちゃった。」
アンジェラは,そう言って横になると,軽い寝息をたて始めた。
「アンジェラは強いわ。」
と,結香里。
「そうだね。」
「それに引き換え,私なんか,あなたの足手まといね。」
「結香里,君は,大事な存在なんだ。君と会えなくなって,どれだけつらかったか。」
「その割には,来るのが遅かったわね。」
「君のお父さんから,近づかないようにって言われたんだ。勿論,そんな事は無視すればよかったんだけど,君を絶対に守るという君のお父さんの強い決意には勝てないと思ったんだ。」
そして,スペインやアメリカで経験したことを手短に話した。
「話に聞くと,どの人も魅力的に聞こえるわ。会ってみたい。」
「会いに行こうよ。子供を連れて。」
「止めて。」
「結香里,これは大事な事なんだ。父さんは,実の子でもないのに,あたかも実の子供のように愛してくれた。いいかい,それは,何故?スーザンは,人種さえ違う子供を,神様が授けてくださった子供だと言って,大事に育てている。それは,何故?」
「そんな事、私達の国では,誰も認めないわ。子供が虐めに会うだけよ。家族全員が惨めになるわ。」
「だったら,そんな国を相手に闘おう,僕達の子供のために。それでも,だめなら,尻尾巻いて逃げちゃおう。子供を守るためなら,恥ずかしくなんか無い。次に生活を始める場所が,すなわち,我々の国なんだ。心から愛すべき,守るべき場所なんだ。」
「そんなの奇麗事よ。」
「そうかもしれない。それは,でも,理想と言い換えることもできないか。理想の国家。」
「わからない。そうなのかしら。」
「そうなんだよ。スーザンのように,自分の理想の国を追い求めるんだ。でも,それは,誰かの真似をするんじゃなく,自分達で頭を使って作り上げるんだ。それにね,その場所を作ってやらなければ,我々の子供は,異端になるだけだ。異端となり,世の中を憎み始める。もう一人の老人のように。」
「来た。」
いきなりアンジェラが跳ね起きた。
「来るわよ。適当にその辺りで落ち込んだ振りしてて。」
アンジェラは,もう一度,鎖のところに立ち,いかにも繋がれているように,ぶら下がり,俯いた。
やがて,足音がして,部屋のドアが開く。
奴だ。
まっすぐに,アンジェラの方に向かう。
「殺すに惜しい女だよ,お前は。」
そう言って,アンジェラの頭と言わず,顔と言わず,がしがしと撫でさする。
奴は,てっきり,アンジェラが繋がれていると思って,油断していた。
次の瞬間,アンジェラの両方の手が,男の眼球を狙う。
男は,アンジェラを両手で抱き上げると,思いっきり力を込める。
アンジェラの口から悲鳴が漏れる。
しかし,なお,アンジェラは,男の両目を狙った攻撃を止めない。
ついに,たまりかねた男が,アンジェラを放り出した。
アンジェラは,投げられて床を転がり,しばらく身動きできない。
男も,両目を押さえて,倒れこんだ。
どちらも,なかなか,すぐには立ち上がれない。
が,しばらくして,先に立ち上がったのは,大男のほうだ。アンジェラは,背中の筋を違えたようで,立ち上がりかけても,すぐに倒れる。
男が,目を抑えながらアンジェラの繋がれていた鎖の下に立つ。
そこに,飛び掛って行ったのが結香里だった。
彼女は,男の腕を取り,手錠をかける。
男は,自由な方の腕で,結香里を投げ飛ばす。丁度,私のいる方向だったので,その体をしっかりつかまえた。
ようやくアンジェラが立ち上がると,男に向かって,突きだの蹴りだのを入れるが,男は,体がでかく,力が強いばかりでなく,勘が鋭く,動きも俊敏だった。
目が見えないながらもアンジェラの攻撃を,片手と足で受け止め,なおかつ,アンジェラに攻撃すら加える。
それに,体がでかいだけあって,なかなか疲れない。
アンジェラの息の方が先に上がってきた。
「大丈夫か,アンジェラ。」
「何とかね。」
その時,男が足払いをかけ,アンジェラの体がどんと床に倒れる。
男は、音を頼りに手探りでアンジェラの足を掴み上げると,自分の元に引き寄せた。
アンジェラは,男に髪をつかまれ,何度も蹴り上げられる。
結香里が,男の閉め忘れたドアの向こうから,小型のテーブルを持ち込み,男に挑みかかった。
だが,それは,男に何の影響も与えない。
やがて,ぐったりしたアンジェラの首を片手で締め上げる。
その時だ,ドアのほうから,銃声がした。
アンジェラの体が床に落ち,それに少し遅れて,男の体が覆いかぶさろうとして,繋がれた片手だけ高く上げて,中途半端に止まった。
壁に,血が飛び散っている。
男の体を押しのけて,アンジェラが這い出てくる。
「格闘技にも,たまには反則技が必要だろ。」
「ホセ,なの?」
「ああ,私だ。」
「信じられない。」
「奴に,スクリューのレシピを与えてやった。有頂天になっている隙をついて,押さえ込んだ。と言ってもな,どこからどう見ても同じ人間が言うんだから,信じられないのも当たり前だ。証拠もない。信じる信じないは,どっちでもいい。ただ,今のうちに逃げてくれ。」
「逃がしてくれるの?」
「ああ。早く。でないと,奴が目を覚ます。」
「奴って誰?」
アンジェラは、まだ、事情が飲み込めていない。
「ホセの中にいるもう一人の男さ。」
ホセが、簡単に説明する。
「それって、二重人格?」
「そうとも言うね。ともかく、早く逃げるんだ。」
私と結香里とでアンジェラを抱えて,老人の後について行く。
「ホセ、奴にレシピを教えてしまって,本当に良かったのか。」
「君達を助けるためだ。背に腹は変えられん。その代わり,アンジェラの援軍が来てるんだったな。」
「ええ。」
「それに期待しよう。奴が,薬をばら撒く前に,奴の息の根を止めてくれ。」
「それって,ホセ,あなたも。」
「いいんだよ,アンジェラ。遠慮なくやってくれ。」
我々が閉じ込められていたのは,やはり,建物の地下室で,その廊下の突き当りから,狭いトンネルが掘ってあり,そこを伝って,裏手の山の中腹にまで出ることができた。
トンネルの出口に大きな犬が二匹横たわっている。
「グレートデンだ。日本から連れて来た。」
「あなたの会社にいた?」
「そうだ。彼らも私の実験台だ。実はな,ヨシヒコ,君に慣れるように条件付けされているはずなんだ。成功していればの話だがな。今後のこいつらの世話を頼めるか。」
「私が?」
「ああ。山を降りるまでの用心棒にもなる。近くの町までは,二日は覚悟しないといけないからな。さぁ,行くんだ。」
ところが,結香里が尻込みする。
「どうしたの?」
と,アンジェラ。
「駄目。進めない。足が動かない。」
「大丈夫だよ,何も心配ない。」
「でも,駄目なの。」
「君は,かなり回復しているのだが。恐怖の根本的な部分が,まだ,取り除けていないんだろうな。」
「どうしましょう。」
「うむ。もう一度,実験室に戻ろう。」
「でも,時間が。」
「アンジェラ,ここから先,一人で行けるか?」
「何とかね。」
「君の軍隊に合流して,一日だけ,攻撃を延ばすように言ってくれないか。」
「でも,その間に。」
「大丈夫。逃がしやせん。ここには,奴の大事な薬の材料が全て揃ってるんだ。後は,レシピだけだ。それに,奴は,自分の手下を過信している。おいそれとは,ここを離れないよ。」
「じゃぁ,行くね。」
アンジェラは,痛む体を引きずりながら森の中に入っていった。
「さて,この出口までの通路を良く覚えておくんだぞ。次回は,同行できないだろうからな。この犬達が,君達を待っている。」

実験室に戻ると,老人は,日本から同行してくれた看護婦達を呼ぶ。
「忘れていたよ。この人達も連れて帰ってあげないと。ようやく,日本に帰れますよ。」
看護婦達は,喜んだ。
「その前に,ちょっと手伝ってください。」
老人は,看護婦達に指示をして,機材を揃えにかかる。
「いいかい。これは,理論的には完成しているんだが,まだ,実験段階だ。しかも,人体実験は始めてだ。覚悟してくれよ。」
「はい。」
「まず,頭を丸めさせてもらう。いいね。」
結香里も覚悟を決めていた。
「かまいません。」
健気に答える。
「スクリューという麻薬を使う。」
「スクリュー?また,作られたんですか?」
「いや,少量,取っておいたのだ。グレートデンの体内に埋め込んだカプセルの中にな。二人分にはやや少ないが,トリップする事が目的では無いから,まず,大丈夫だろ。グレートデンには,実験してみた。興奮状態にしておいて,君のポートレイトを電気信号に変えて,彼らの脳に直接伝えるのだ。そうして,君の情報を刷り込む。君を見て,服従の姿勢を見せたから,まずは,成功だろう。これから行うのは,その実験を拡張したものだ。
君達二人にスクリューを投与して,興奮状態に陥ってもらい,頭皮が感じる電気信号を脳内に伝達しやすくする。そして,このヘッドギアをつけて,互いの興奮状態を共有してもらうのだよ。このヘッドギアには,脳波を受信する微小なセンサーと,もう一方の脳波を増幅し,電気信号に変えたものを発信する微小な発信機が交互に埋め込まれている。うまくいけば,君達は,互いに脳を直結させた形になる。」
「いかなければ?」
「うむ。可能性としては,互いの脳波が干渉しあって,下手すると人格破壊が起きるかもしれん。」
「学会を除名されるはずだ。」
「止めるなら,今だ。」
「もう,髪の毛にバリカンが入ってます。」
私と結香里は,頭をつるつるに剃られた。
そして,CTスキャンにかけられ,脳波を映像化し,その映像に沿って,老人が,頭に線を描き始める。
「二人の感覚が,正確に同期を取れるようにしないといけない。」
そして,その線に沿って,ヘッドギアがつけられ,調整された。
「では,これを飲み給え。一瞬,気分が悪くなると思う。が,決して吐いたりしては,ならない。いいね。」
老人から渡されたカプセルを,二人が飲む。
飲み込んでしばらくすると,老人の言うとおり,猛烈な吐き気に襲われる。
「我慢して。」
吐き気は,数分で治まった。
次に,地の底から何かとてつもなく大きな物体が這いずり出てくるような音がし始める。
目に見えるものが,ある部分は拡大され,ある部分は縮小され,いびつになる。
「どんな気分だ。」
老人の声と,口がかなりずれている。音の一つ一つが分離し,ある音は遠く,ある音は近く聞こえる。それでも,声として認識できる。
「不思議な感じです。」
自分の声とは思えないくらいの遠くで,視覚を伴って聞こえてくる。
それぞれの文字にこびりついた思い出の断片だ。
つまり,「ふ」という文字にこびりついた思い出,「し」という文字にこびりついた思い出,それぞれが,交互に拡大され,縮小される。
首を振ろうとすると,筋肉の鳴動する音が,頭の中に響く。
看護婦が,ヘッドギアを被せる。
「目をつぶって。」
今度は,声が物体となってぶつかってくる。
皮膚感覚が研ぎ澄まされたからだろう。
その思考は,今度は,色となって,私の口から飛び出る。
目をつぶる。
眼球が宙をさ迷っているみたいだ。
「スイッチを入れるよ。」
次の瞬間,私自身の感覚が,すごい勢いで振り回される。
酒に酔って,猛烈なスピードのジェットコースターに乗ったみたい。
色々な模様が目の前を通り過ぎ,それが,漠然とした塊になる。
黄色い塊。
温度を感じる。暖かい。
結香里。そうだ,結香里だ。
「結香里。」
声をかける。
黄色い塊が動く。それが,段々と輪郭を伴い始め,やがて結香里の姿になる。
あやふやだった背景も,色と形を持ち始める。
それに伴って,自分が実態となるのを感じる。
皮膚感覚が生まれる。手を閉じたり開いたりしてみる。神経の末端の感覚が,リアルに伝わってくる。足の裏の硬質な感じで,自分は,地面に立っているんだという認識が生まれる。
「ヨシヒコ。」
しがみついてくる結香里の体にも,確かに温かさと柔らかさを実感できる。
匂い。そうだ,これは,確かに結香里の匂いだ。
「結香里,大丈夫か。」
「うん。でも,怖い。」
「怖いものなんか何処にも無いよ。」
「でも,怖いの。」
「怖いものの姿を頭の中で描いてご覧。退治してあげるから。」
結香里は,こくりとうなずき,目をつぶって,意識を集中し始める。
すると,さらに,周りの風景に具体性が出てくる。
どうやら,古い工場の一角らしい。錆びた鉄の匂いがする。それと,何か薬品の匂い。
「来るわ。」
いきなり壁が崩れ,現れたのは,先程,ホセが撃った筈の男だ。
「死んだはずだと思ってるだろ。」
結香里がしがみつく。
私は,結香里を後ろに隠して,身構える。
「そこのバイタ,また,楽しい事をやらかそうぜ。喜んでただろ。」
結香里が震えながら首を振る。
「結香里を,お前なんかには渡さない。」
これは,現実ではない。現実ではないから,この男に絶対勝てる。
そう,言い聞かせる。
しかし,私ごときのパンチが,男に通用する筈も無いのは,現実でも,夢の世界でも一緒だった。
どれだけ殴っても,びくともせず,ニヤニヤ薄笑いを浮かべるだけだ。
殺気を感じて身を縮めると,ブンと音がして,男の腕が空を切る。
現実の男の動きよりも,やや緩慢なのは,結香里の作り出した幻影だからだろう。
しかし,だからこそ,余計に強く,無敵だ。まともに闘って勝てるはずも無い。
パンチをまともに喰らう。
痛い。脳髄がキンキンと反応し,しばらく,意識を無くすほどに痛い。
意識を無くさないのは,これが現実ではないからだが,意識を無くせた方が,どれだけましかと,言いたくなるほどの痛さだ。
前後不覚になれることの偉大さを改めて痛感する。
そんなパンチを何度かお見舞いされる。
気分的には,麻酔なしで,歯医者の治療台にいる感じ。そして,もう何本か歯を抜かれているような。
「結香里を愛している。」
ほとんど,やけになって,そう叫びながら殴る。これは,効いた。
「結香里は,私の大事な女だ。」
これも効いた。男が,よろめく。
しかし,何故,効いたのだろう。
それまでは,同じようなパンチでも,まったく効かなかったのに。
と,そこで,思い当たる。
この男は,結香里が作り出した恐怖心の権化なのだ。そうすると,結香里に対して有効と思われる言葉は,反対に,男に対しても有効なのだ。
「結香里,一緒に帰ろう。」
蹴りを入れる。男が蹲る。自分が,強くなった気がする。
しかし,すぐに立ち上がってくる。
これが,結香里の恐怖なのだ。
この場所は,彼女がレイプされた場所なのだろう。
そして,この男は,結香里をレイプした男なのだ。
体の中に闘志が湧いてくる。
現実と違って,この世界では,闘志が目に見える。
どんな。と言われても困るが,メラメラという擬音がよく使われるが,まさに,そんな感じ。
逆に意思喪失すると,蝋燭の炎のように,か細くやせ細っていくものがある。
私の燃え上がった闘志の前に,男が小さく見えてくる。
「お前には,結香里に指一本触れさせない。」
みたいな啖呵を切って,思い切り腕を伸ばすと,信じられないくらい遠くに男が飛んでいき,見えなくなった。
結香里の方をむき,
「もう,大丈夫だよ。」
しかし,現実と同じくらいに,この世界も甘くない。
奴が,また,現れる。
地面から,まるでキノコか何かが生えるように,奴が出てくる。
そうだ,結香里が思い出す間は,ずっと現れる。これじゃあ,この闘いも際限ない。
しかも,結香里が安心すればするほどに強力になる。恐怖の姿とは,おそらく,そういうものなんだろう。
「結香里,もう奴の事は忘れるんだ。」
と言っても,彼女自身が,どのように忘れていいか,その方法がわからないのだろう。
結香里が,一番,頭の中から,こいつを追い出したいと思っているはずだ。
「もう,いいの。私を置いて逃げて。私は,もう,いいの。」
「諦めるな,結香里。」
結香里の諦めに呼応して,さらに奴の体が大きくなる。パンチも強くなる。
一瞬,体の力が抜ける。薬が切れかけているのだろうか。
「私は,このままでいいの。」
「駄目だ,いつまでも一緒だ。」
私は,薬が切れて,この状態が終わるならば,せめて結香里の心だけでも。持ち出したいと思った。
「いつまでも,一緒だよ。」
そう言うと,結香里の体に覆いかぶさり,結香里を体で守ってやる。
男は,調子ついて,さらに殴りかかってくる。
殴られるたびに,骨がゴキゴキと音を立てて微塵になっていく。
生きながらに,圧搾機に放り込まれたような痛さだ。もう,駄目だと思った。
「結香里,最後まで守ってあげられなくて,ご免。」
息も絶え絶えに言う。
結香里が,ふと,顔を上げる。目が合う。何とか,微笑む。
「嫌よ。ヨシヒコまで巻き添えなんて,いや。逃げて,ねぇ,逃げて。」
「いいよ,逃げられない。」
「逃げるのよ,バカ。」
その瞬間,結香里の中に,信じられないくらいの闘志が湧き起こった。
「ヨシヒコを犠牲になんかできるわけないじゃない。」
結香里は,私の体を後ろに回すと,男に,果敢に立ち向かっていった。
「私の人生を返してよ。」
そう言いながら,結香里にしては猛烈な張り手を繰り出す。
男が,その勢いにひるむ。
そうか,結香里が闘う意思を持たねば,いくら私が頑張ったって勝てるわけ無かったんだ。
「結香里,二人一緒に闘うんだ。これからもずっと。いいね。」
「うん。」
激しい光が,あたりを覆いつくす。その光の中で,男の姿が消えていく。
次の瞬間、光の中で,私と結香里は,裸だった。
光の中で,私と結香里は,セックスした。
今までにない,素晴らしい快感が二人を覆いつくす。
私の喘ぐ声と,結香里の喘ぐ声が,曲面が複雑に絡み合った形となって取り巻く中,二人の性器がデフォルメされ,大量の静電気を発し,それが潤滑油となって,快感をさらに引き立てる。
快感は,エネルギーの塊となって二人を飲み込み,そのエネルギーの中で,二人は完全に溶解し,融合した。
その瞬間,激しい化学反応が起こり,二人は,もとの別々の有機物に戻る。
しばらく,二人は,そのまま余韻を楽しんだ。
「素敵だったわ。ありがとう,ヨシヒコ,本当にありがとう。私,幸せ。」
「こちらこそ。後で,また,会おうね。」
「後でね。」
二人の体が,霧のように得体の無いものになっていく。
結香里が,最初に見た黄色いエネルギー体となって,その周囲を,様々な色が取り囲み始め,それが,激しく流れ始める。
と,その流れの中に老人が姿を現す。
「そろそろ時間切れだ。うまく行ったか?」
「ええ。」
「ふむ,満更でも無い顔をしてるな。よしよし。ところで,私のほうも時間切れだ。やはり,君達二人,看護婦達を連れてここを離れてくれ。逃げ道は覚えてるな?
できるだけ早く,ここを離れたまえ。」
「あなたは?」
「もうすぐ,奴が,この体を乗っ取るだろう。レシピの最後の部分を教えてやったからな。」
「じゃあ。」
「ああ。ところがな,これには,もう一つカラクリがあってな,奴は,知らんのだが,私が教えてやったレシピの通りに薬品を合成すると,化学反応を起こして,膨張が始まり,内部に圧力が発生する。それを,さらに圧縮しろと教えてやったのだよ。」
「どう言う事ですか。」
「奴が,仕事を始めて数十分後には,爆発する。奴の体は,粉微塵さ。ご丁寧にも,今日,奴は,この国の麻薬組織の幹部連中を招待している。スクリュー完成記念式典としてな。悪い奴らが,ともども粉微塵だ。」
「ちょっと,待ってください。」
「いろいろ,迷惑かけたな,でも,楽しかったよ。君に会えてよかった。」
「ホセ。」
「それとな,犬達,可愛がってやってくれ。名前は適当に付けてやればいい。例のアンジェラの師匠の漁師,覚えとるか、彼に頼んで,私の別荘を管理してもらっている。好きに使ってくれ。相続人は,あの犬達だ。実質相続するのは,その後見人,つまり,君だよ。」
老人の姿が薄れていく。
「あの犬達の条件反射のパターンの中にも,スクリューのレシピを埋め込んどるのだよ。そのレシピの最後の部分の鍵は,君なんだ。と言っても,誰も取り出せんと思うがね。私の形見だ。まぁ,可愛がってやってくれ。ボディーガードにもなるしな。じゃあ,さようならだ。」
「ホセ。」
老人の姿は,完全に消えうせた。
そして,あらゆる光が私の前から消えた。