(エピローグ)



目覚めたのは,私が先だった。
先に,服を着込み,待機していた看護婦に,結香里の服装を整えてくれるようにお願いする。
結香里が来ている治療服は,前がだらしなくはだけている上に,動きにくそうだったから。
また、彼女の頭には、手近の布切れを巻いて、ターバンのようにしてあげた。妙齢の女性が、さすがに刈ったばかりのスキンヘッドでは、かわいそうだろう。
しばらくして,結香里が目覚める。
「おはよう,結香里。よく眠れたかい?」
「うん。気分すっきり。」
「そりゃいい。」
結香里の頭を軽く抱きしめる。
そして,二人の看護婦に,
「すぐに逃げましょう。ここは,危険です。とりあえず,持てる必要最小限だけを持って,私について来てください。」
「あの,どうなるんでしょう。」
「帰りましょう,日本へ。」
老人が,事前に人払いをしていてくれたのだろうか,誰にも会わずに地下まで降り,教えられたトンネルを抜けていく。
「あれ。」
結香里が立ち止まって耳を澄ます。
「何?」
「音楽。」
「本当だ。」
「フィガロね。モーツアルト。フィガロの結婚。」
狭い通路と長い階段を抜けると,ドアがあって,それを開けて森に出る。
おそらく,どこかにスピーカーが仕込まれているのだろう,通路の中で小さく聞こえたモーツアルトが,森の中に響き渡っていた。
グレートデンが走り寄ってくる。
「大丈夫ですよ,彼らは,私達の用心棒代わりです。町まで,たっぷり二日あるそうですから。ともかく,この山を越えましょう。」
しばらく行くと,見晴らしのいい高台に出る。
建物が,見下ろせる場所だ。
地面がかすかに振動する。そして,大きな音と共に,建物の壁が崩れ落ちる。
モーツアルトの鳴り響く中を,蚊トンボのような戦闘用ヘリコプター数機が,建物の周りを廻っている。おそらく,アンジェラの援軍なんだろう。
時々,曳光弾の鋭い輝きが走る。
建物は,さらに崩れ落ちる。
中から,何人も,手を上げて走り出てくる。
米軍の兵士運搬用のヘリコプターが,こちらにやってきて,何か包みを落としていく。
拾い上げ,包みを開くと,中に食料と飲み水,それにアンジェラの筆跡らしい手紙が入っていた。
そこには,山頂で待っていてくれれば迎えに行く旨,したためてある。
建物への攻撃は,しばらく続いた。
煙がもうもうとあがり,その合間に無残に崩れ落ちた壁や柱の残骸が見える。
もう,音楽は,鳴り響かない。
あのモーツアルトは,ホセの趣味だったのだろうか,それとも,奴の?
どちらでも,いい。
ホセ,あなたに会えて,私も良かったと思ってますよ。
そう心の中で呟く。
「さて。」
と,立ち上がったのは,結香里だ。
グレートデン二匹を従えたその姿は,女ターザンだ。
「帰りましょう。まずは,日本へ。」
「まずは?」
「そう。まずは,日本へ帰って,私の子供に会うの。」
「私達の。」
「そうね,私達の子供。そして,あなたのパパやママにも挨拶しに行かなくちゃ。そして,スーザンね。」
結香里は,先に立って歩き始める。
「ねぇ。」
振り返らずに聞く。
「子供の髪の毛も,瞳の色も,考え方も,生き方も,あなたの期待通りでないかも知れないわよ。」
「子供は,成長すると,必ず親を裏切るものなんだよ。それまでの,天からの預かり物さ。大事な,ね。そして,君も含めて,しっかり守るべき存在だ。」
「私からすると,あなたもね。守ってあげるわ。」
「期待してるよ。」
結香里が,力強い足取りで,地面を踏む。
「さて,充分に歩いて,やせなくっちゃ。」
グレートデンが,ワンと答えた。




(終わり)