「後書き」



「異端のレシピ」は、ストレス解消に、いきなり書き始めたにしては、また、内容の掘り下げ方が浅いにしては、よくぞ最後まで飽きずに書き通せたものだと、自分で感心している。
この物語は、第二のガルシア・マルケスと評されるコロンビアの作家ホルヘ・フランコの「ロサリオの鋏」の影響によるところが大きい。
「ロサリオの鋏」は、コロンビア第二の都市メデジンのスラム街出身のロサリオという女の生涯をアントニオという若者の目を通して語った小説だ。
この小説で、我々は、国際社会の底辺に近い部分に巣食う闇の世界を垣間見ることができる。
つまり、欲と金と暴力の渦巻く世界。
それは、最近、隣国からの犯罪者集団の不法流入と、それによって引き起こされた幾つかの残虐な事件、また、それに触発されたかのような同国人による残虐な事件等で、我々も日常の中で無視できなくなってきた世界でもある。
甘い意見や見方は、いろいろあるにしても、今後、日本経済が以前のように活況呈するとは思えず、それどころか、膨れ上がる借金や、年金不安、企業の場当たり的な強引なリストラ、低賃金化は、一見右肩上がりを取り戻せたかのように見えてはいるが、実は、ますます国力を低下させ、弱体化させる事だろう。
その結果、貧富の差は広がり、富める者は国内に残れるが、貧しく、今の脆弱化した教育体制を補完する為の教育産業に我が子を送り込めない家庭の子供達の多くは、日本国内での満足な仕事が得られず、好むと好まざるとに係わらず、海外に飛び出して行かねばならなくなると思われる。
その事で、誰かを責めるわけにも行かない。我々は、あるいは、我々の子孫は、その現実の中で、その現実に直面し、そこから、新しい天地を切り開いていかなければならない。
それだけの強さを持たねばならない。
かつて、北海道開拓に乗り出したように、かつて、満州開拓に乗り出したように、かつて、ブラジル丸で新たな移住先を求めたように
その時に確実に遭遇するもの、それこそが国際社会の闇の世界なのだろうと思う。

なんて近未来的絵空事を日々考えていると、いきなりだ、私の頭の中にホセという名の老人が住み始めた。いや、最初、彼は名前など無かった。だって、私は、中南米系の人々の名前の付け方をほとんど知らない。
ホセという名は、切羽詰って引っ張り出した名だ。本当に、そんな名前があるのかすら知らない。
名前が無くても、老人は雄弁に語り始めた。
それは、彼の生い立ちなのだが、あえて国名を出さないのは、中南米の本当の姿を見たことが無いからだ。さすがに、他国の事を名指しで、嘘並べ立てるわけにはいかない。
講談師、見てきたような嘘を言い、とは言うが、それでも礼儀があろう。
だから、老人の出身国名は、頭の中にはあっても、具体的には出せなかった。
老人が動き始めると、その周辺の人々の動きも活発になった。
スペイン人の神父であったり、ヨシヒコであったり、由香里であったり、アンジェラであったり。
それぞれの人物が、自分の置かれた立場や、状況や、展開を勝手に思い描いて、全体の中で、生きることを始めてくれた。
ただ一つ、ヨシヒコに注文つけたのは、君は、生粋の日本人でありながら、日本人に対して疎外感を感じる存在であってくれ、と。
そうしたら、勝手に両親をスペイン在住などという話を持ち出してくれ、こちらを混乱に陥れてくれた。スペインなんて国、行った事もない。
スペイン生まれのスペイン育ちの生粋の日本人。日本を愛そうとして、どのように愛したらいいのかわからない。その当惑を、由香里を愛する事で癒そうとする。そのうち、由香里の存在そのものが、彼の考える日本となる。
なるほど、私は、ヨシヒコから、大変いいことを学んだ。
旧時代のブラジル等、海外への移民の方々は、何を拠り所として、日本人としての自分のアイデンティティーを意識したか。それは、どうやら、多くの場合、天皇陛下であったらしい。当時の日本の代表者たる天皇裕仁が、旧時代の移民の方々にとっては、日本を感じる、日本人としての心の拠り所だったんだろう。
では、今後、日本を離れざるを得ない人々にとっての心の拠り所は、何になるんだろう。
まさか、未だに天皇であるなどと、時代錯誤な思いを抱く人は少ないだろう。
別に、そう言う方々がいてもいいとは思う。私の国家感とは対極にあるにしても、第二次大戦時代の出来事をことさら気にかける振りをして、自国のアイデンティティーさえも否定する、これまた時代錯誤な知識人よりは、新しい天皇感で持って日本を希求する方が、心情的には理解できる。
それは、さて置き、その答の一例は、スーザンが与えてくれた。
今までの国家と言う、固い、狭い概念で生きるんじゃなく、自分を必要とする者を愛し、そのために生きる、そこにその人にとっての国家が現れてくる。
それまでストーリーの中で存在感が薄く、添え物的な役回りであったにも係わらず、大胆にも由香里が、汚れ役を買って出てくれたがために余計に話の展開が暗礁に乗り上げ、さてどうなっちまうのかと、当惑する私を尻目に、勝手にアメリカ大陸を放浪し始めたヨシヒコは、スーザンと言う本当にいい人に巡り合ってくれた。
そのスーザンの姿を見て、ヨシヒコは、自分が守るべきものの姿を知る。
勿論、その前に、両親が、自分とは別の存在であり、彼らは、自分とは違うところでそれぞれの人生を歩んでいるんだと言う事を理解する、完全なる親離れがあったればこその新しい世界の発見ではあったと思う。
その時点から、ヨシヒコは、俄然、大人になる。
それは、私が、常日頃憧れてやまない、国際社会の中で生きていける大人への変貌の過渡期なんだろうと思う。
ここで、私も間違えてはならないのは、私が、そうなのではなく、ヨシヒコが、そうなのだと言う事だ。
国際化と言う意味では、私は、ヨシヒコの足元にも及ばない。情けない。
ヨシヒコが変貌し始めると同時に、その存在感をアピールし始めるのが、由香里だ。
彼女は、ここぞとばかりに、動き始める。
そして、事件に巻き込まれる前の彼女より、より強い存在として、ヨシヒコの前に立つ。
そうして、最後に言うのだ。
「さて,充分に歩いて,やせなくっちゃ。」
この言葉は、ヨシヒコの前に立ち、ヨシヒコに背を向けて言って欲しい。
なぜなら、その時、ヨシヒコは、由香里の見つめる先に、由香里の眼差しを通して、新しい世界を見ているはずだから。それは、さらに、ヨシヒコが歩むべき先であるはずだ。
物語のどの辺りから、由香里のこの最後の台詞が生まれてきたかは、定かでない。
由香里が、汚れ役を見事に演じきろうと、意欲的な眼差しで、私を見始めた辺りからだろうか。
ただ、この台詞に到達した時、私には、やっとわかった。
「予定調和って言葉を知っているか。」
という冒頭の言葉を、何故、あえて老人が喋ったか。
そして、何故、老人が、ヨシヒコに自分の物語を語って聞かせながら、私を見、「この物語のタイトルは『異端のレシピ』だぞ」と、顔中を皺だらけにして囁いたか。

物語の中に登場してくれた人達全員、端役にいたるまで、好きな人々だ。
中でも、もっと活躍して欲しかったのがアンジェラであったり、彼女の合気道の教師であったりするのだが、私の力足らずで、本来のパワーをだせないまま、物語が終わってしまい、ブーブー文句を言われている。
定年退職でもして、時間がたっぷり取れるようになったら、もう一度、この物語を見直し、アンジェラ達にも活躍の場を与えてあげたいと思う。
老人の二重人格の片割れの方にも。こちらは、もっと、「オペラ座の怪人」的な要素で持って、最高に悪役でありながら、憎めない存在にまで持っていきたかったのだが、それまでに力尽きてしまった。
蛇足で言わせてもらえば、彼には、「フィガロの結婚」のクライマックスの部分で、大きく指揮棒を振りかざすジェスチャーをしながら、一瞬にして息絶えて欲しい。

さて、能書きは、これくらいにいたしましょう。
最後までお付き合いいただいた方、何人の方にお付き合いいただいたんだろう、楽しんでいただけましたでしょうか。
私は、戯作者兼演出家兼舞台監督、照明、音響、受け付け係、エトセトラとしまして、充分に楽しめました。
登場人物のカーテンコールをしたいのですが、彼らは、次の役どころに向けて、早々と楽屋に引き上げてしまいました。
なんて奴らだ。
私も、メールマガジン、しばらくお休みをいただき、次の作品に取り掛かります。
なんせ、書きっ放しにして、推敲をしないのが、素人たる所以ですから。
次の作品は、温泉町を舞台にした、ちょいエロチックな物語。
お楽しみに。
では、お気に召していただけましたなら、また、お付き合いください。
それまで、しばし、お別れです。