(二)



「つくづく貧乏な家だった。まぁ,あの国じゃ,あまり珍しい事ではないがね。」
母国の第二の都市を見下ろす整備もろくにされていない高い禿山の上。
それが,老人の記憶の発端である。
「ただ,私がまだ乳飲み子であった頃は,都心のマンションの一室で優雅に暮らせた時代もあったそうだ。」
老人は,兄二人,姉一人,弟二人の六人兄弟だった。
「だが,今は,腹違いの弟一人だけが残っている。」
兄弟は,全員父親が違った。末っ子の弟に至っては,父親,母親両方が違う。
と言うことは,赤の他人だ。
「たしか,兄一人と姉一人は,おなじ父親だったかな。まぁ,どうでもいい事だ。私にとっては,一番下の弟が,一番かわいかった。年が三十近く離れていて,両親ともにいい加減だったから,私が面倒を見た。我が子同然だ。」
老人には,六歳か七歳になるまで,思い出がないと言う。
「知能が,晩生だったのだろう。どうしても,六歳以前が思い出せない。」
老人の記憶の一番最初に出てくるのは,我家から走り出る時の老人自身の目に映った光景,石くれと,貧相な雑草と,垂れ流された小水の跡,必死で逃げる自分自身の影。
背後には,死の恐怖があったと言う。
「その頃,私は,何かと言うと,兄達から疎んじられた。その記憶も,おそらく,兄達のいじめから逃げ出したところなのだろう。何故,兄達から疎んじられたか。それは,まだ,年端もいかない子供だったから,と言う理由でもあったが,私の出生にも原因がある。」
そう言うと,窓の外に目をやった。
朝方の突然の雨で,空気が澄んでいる。雨は,街を一瞬席巻して,すぐ止んだ。
今は,はるか向こうの山の連なりまで見えた。
「いい街だな。」
「そうですね。」
「この国では,金持ちほど高い場所に行きたがる。私の国では,貧乏人ほど高い場所に追いやられる。水道設備も,電気設備も,道すらも無い高い禿山の上にな。そこに,ほとんどダンボールと板切れだけの小屋を作る。私のすべては,そこから始まった。いや,それ以前から,始まっていたか。」
ブランデーを一口含み,また,目を外にやる。
「私の父親は,中国人なんだ。」
老人の母国は,かつて,政治も,文化も,つまり,人々が生活に必要とするもの一切合財,麻薬カルテルによって独占されていた。
麻薬カルテルは,単に組織と呼ばれた。そこで組織と言うと,麻薬カルテル以外を指すことは,まず無かった。
だから,若者たちは,貧乏から抜け出るために,ほとんど皆,組織の下働きをした。
強盗でも,殺人でも,貧乏から抜け出るためには,何でもありだった。
ある時,中国のマフィアが,その市場に目をつけた。中国のマフィアは,最初,組織と友好関係を結んだ。
多くの若者や,少女が,金のために,中国マフィアの元にも参じた。
老人の母親も,その一人だった。
誰もが振り返る美貌と,素晴らしいスタイルを持っていた彼女は,中国マフィアのナンバーツーに目を掛けてもらえた。
その頃は,都心に大きなマンションを与えてもらい,メイドもいて,悠々自適の生活だったらしい。らしいと言うのは,老人が,母親から,そのように聞かされていたからで,誰も,それを証明してくれる人がいないからだ。兄達も,その頃の事には触れたがらなかった。その前の男が,つまり兄や姉の父親になるのだろうが,そんな生活を送る彼女に,何やかやと,たかり始め,そして,いつの間にか姿が見えなくなった。どうなったのかは,誰も知らない。老人が生まれる前の話,正確には,老人が母親の子宮の中に生を受けて,数ヶ月の頃の事だ。
だが,そのような生活は,長くは続かなかった。
最初は,組織のルートを利用するために大人しくしていた中国マフィアだったが,やがて本性を現し,組織のルートを自分の物にし始めたあたりで,チンピラ同士の小競り合いが頻発し,やがて,全面戦争へと発展した。
この戦争で,真っ先に命を落としたのが,老人の父親,ナンバーツーの男である。
戦争には,政府までが介入し,よせばいいのに近くの大国までが乗り出して収拾をつけ,結果,中国マフィアは駆逐され,この争いを上手く利用した麻薬カルテルは,磐石の組織となった。
そのあおりを食ったのが,中国マフィアを,自分達を貧乏から救い出してくれる新しい救世主だと勘違いした若者達で,麻薬カルテルは,裏切りを許してくれるわけも無く,彼らの姿は人知れず消えた。
老人の母親と,その家族,老人の命そのものも,この世から抹消されずに済んだのは,奇跡と言っていい。
だが,それから,老人の家族が舐めた辛酸は,並大抵ではなかった。
天国のような都心のマンションから追い出されたのは,老人が三歳か四歳くらいの頃の事であろう。
かつて中国マフィアの情婦であった老人の母親に与えられる仕事などあろう筈も無く,母親は,街の片隅で,人々の生々しい記憶が消えるまで,細々と体を売って生活した。
老人の母親は,情の深い女であったため,自分達の生活を圧迫する生きた原因とも言える老人を,放り出しても良かったし,老人の兄達のように,徹底した迫害を加えて,憂さを晴らしても良かったのだが,決してそのような事はせず,むしろ,老人を兄達のみならず,他の心無い街の人間達からも庇って,育ててくれた。
「我が母よ。」
老人は,そう言って,しばらく絶句した。
「そんなわけで,私は,兄達や近所の子供達から,しょっちゅう酷い目に合わされた。生傷どころの話では,なかったらしい。らしいと言うのは,それでも,やはり記憶がないのだ。一番最初の記憶は,我が家から逃げ出す時に,私の見た風景。二番目の記憶は,都心のマンホールの中で,お腹を空かせて寝ていた時の事。それから,ストリートチルドレンの仲間に入り,何とか食べ物は確保した。連続した記憶として,過去の出来事が私の中で再生されるのは,その辺りからだ。ストリートチルドレンの中では,出生は問われない。仲間たちに,どれだけの食物をもたらす事ができるかだけだ。私は,走るのがめっぽう早かったので,主にかっぱらい,万引きが専門だった。自分が中国人との合いの子のくせに,中国マフィアをやっつけるんだ,などと仲間たちと叫びながら,都心の陰から陰を渡り歩いた。
どれぐらい,そうやって過ごしたろう。」
「ホームシックにはかからなかったのですか。」
「そう,不思議と,家の事は思い出さなかった。母の事は,思い出したがね。だが,他の子供たちのように,母を思って泣くようなことはなかった。」
「強い子供だったんですね。」
「醒めてたんだろうな。残酷な事も平気でできた。
一人,意地の悪いのがいた。身長が大人くらいでかくて,力も強かった。そいつは,ことある毎に,私を目の敵にした。ある時、私の万引きを,そいつが邪魔した。わざと大声を出して,みんなの注意を引いたのだ。それを何回も,しつこく繰り返した。
それで,私は,どうしたと思う。」
「喧嘩を売りましたか?」
「そんな向こう見ずじゃない。言葉巧みに,そいつを電車のホームにおびき寄せた。何と言っておびき寄せたかは忘れたがね,そいつは,ニタニタ薄笑いを浮かべてついて来た。
電車が入ってきた。そこへ,力任せに押し倒した。」
「まさか。」
「だよ。悲鳴のようなブレーキの音を聞きながら,しかし,後ろは絶対見ずに逃げた。だから,そいつが,どうかなったところは直接は見ていない。沢山の人が叫びながら,そいつのいた辺りに駆けて行った。それ以後,そいつの姿は見ていない。
ストリートチルドレンの一人が居なくなったところで,何も変わりはしない。
街は,昨日と同じだ。相変わらずの喧騒。相変わらずの万引き生活。
そう言う事だ。」
私は,神父の言葉を思い出した。
「疲れたかね。」
老人は,葉巻に火を付け,ブランデーを一口含み,二つの香りを同時に楽しんだ。
「それ以来,私は,みんなから一目置かれるようになった。相談事も沢山持ちかけられた。豚でも,おだてりゃ木に登るだろう。私も,自分がすごい人間なんだと,勘違いした。
よくある事だ。
相談事のいくつかは,力で解決した。そのまま成長してたら,私は,確実に麻薬カルテルに加わっていただろう。あるいは,新興勢力を作ったりして,旧勢力に歯向かったりしたかもしれない。」
「あなたが,かつて麻薬カルテルの一員だったんじゃないかって,噂を聞きましたが。」
「誰から聞いたのだね。いや,言わなくていいよ。神父あたりだろう,そんな事言うのは。
あそこには,結構な金額を寄付してるんだがね。」
「やっぱり,単なる噂なんですね。」
「いや,待ちたまえ。そう結論付けるのは,早すぎるよ。
ともかく,何年か,そのような環境で過ごした。厳しい事も多いが,自分の知恵で生きていけるストリートチルドレンは,私にとって,天国だった。そこから学んだ事は,本当に多いよ。だが,そんな子供時代は,いつまでも続かない。成長するにつれて,大人の目が厳しくなる。特に,ストリートチルドレンの溜まり場を自分達の兵隊集めに使っている麻薬カルテルの連中の目がね。大人の視線は,我々を純粋なままでとどめてくれない。ストリートチルドレンの世界では,力関係はあっても,大人の世界に比べれば,互いに助け合い,協力し合う姿勢は充分にあった。そうしないと,生きていけなかったからね。だが,やがて,それも崩れていく。麻薬カルテル,つまり組織のスカウトの目に留まるように,お互いに足を引っ張り合うのだ。私は,そういうのとは別格だと思われていた。だが,スカウトの連中の中に,私の出生を知っている者がいた。そいつが,私の事を,私の仲間達に,あれこれと吹いて回った。そのせいで,私の仲間は,どんどん,離れて行った。
そんな時だよ,母親が私の事を見つけてくれた。一番上の兄の死をきっかけにして,母は,私を捜し始めたのだそうだ。母は,私にしがみ付くと,大泣きに泣いて許しを請うた。私にしてみれば,母に謝られる筋合いは全く無かったのだが,後で聞いてみると,私が家を出たことは,収入のほとんど無かった我が家にとっては,歓迎すべきことであったらしい。誰も,私を探そうとか,連れ戻そうとか,思わなかったんだそうだ。母は,そのことについて謝ったのだ。私を探し始めたのは,一番上の兄が死んだからでもあるのだが,生活費を入れてくれる情夫ができたからでもあった。ある組織の下っ端だったが,なかなかいい奴だったよ。母が死んだ後も,私を自分の子供として扱ってくれたからね。その情夫が,噂を聞いて,母に伝えてくれたのだ。どこそこの地区に屯するストリートチルドレンの中に,東洋人との混血の子がいるらしいと。
ともあれ,私も,ボロボロと涙をこぼす母を見ているうちに,同じように泣き始めた。私の記憶の中では,それが初めてだったよ。私の覚えている限りでは,私は,それまで泣いた事が無かった。自分の涙を見た事が無かった。信じられるか?
そして,初めて泣いた。十歳ちょっと過ぎにして,初めてな。信じられるか?」
老人は,そこまで一気に喋りきると,口をつぐんだ。
老人の話を筆記するのに忙しかった私は,ちらりと老人の方を覗き見た。
老人は,静かな目でこちらを見ていた。いや,私の背後のはるか向こうを見ていた。
深く刻まれた皴の中に,老人の澄んだ瞳があった。
ややあって,
「ちょっと,喋るのが早すぎたかな。」
「いえ,結構ですよ。」
「聞き逃した箇所は,適当に想像で補っといてくれ。」
「後で,まとめてお聞きします。」
「もう二度と,同じでっち上げ話はできんよ。もう,こんな時間か。」
窓の外,夕暮れの近づいた地上からは,無数の光が立ち昇り始めていた。
老人は,今日はここまでと,話を打ち切って,いそいそと出かける仕度を始めた。
いつものカフェテラスだ。
「君も付き合うか。」
私にはデートの約束があった。
「じゃあ,また,連絡するよ。」
老人は,そう言うと,いつものように,カフェテラスの光の中に溶けていった。