(三)


私は,新調したブレザーの裾を気にしながら,結香里を待った。
いつもは,街中の安い喫茶店で待ち合わせするのだが,今回は,特別に街外れのホテルのロビーを指定した。
携帯の向こうで,結香里が驚いた。
「何故?どうして?」
「ちょっと,ホテルのロビーで待ち合わせするくらいで,そんなびっくりするなよ。」
「だって,その近くって,何にも無いわよ。」
街外れのこのホテル周りには,確かに何も無かった。
外国からの客の多いこのホテルは,近在では,一番大きくリッチなホテルだった。
贅沢さえ厭わなければ,このホテルの中で,衣食住の全てが事足りた。
だから,ホテルの泊り客は,周りに何も無くても不自由しなかった。
それに,深夜近くまで,市内の主要な拠点,駅,空港を回る無料送迎バスが走っているので,それを利用すれば,ただで市内観光が楽しめた。
私は,このホテルの最上階のフレンチレストランと,ツインルームに予約を入れて,彼女を待っていた。
普段ならば,そんな余裕などとてもじゃないが,無い。
街中の安い居酒屋で食事をして,一番安いラブホテルに歩いて行って,一夜を過ごす。
それですら,かつかつだった。月に一度か二度の贅沢がそれだった。
結香里は,私のアパートでもいいと言ってくれたが,壁が薄く,隣の話し声が筒抜けの安アパートで,彼女を抱くような事はしたくなかった。
結香里とは,スペイン人の神父のいる例の教会で知り合った。
外国語大学のスペイン語科に入学したての彼女は,語学の勉強のためにと,単身で,神父から信者まで,ほとんど全員スパニッシュである,例の教会に飛び込んできた。
本当は日本語がある程度しゃべれる神父も,面白がってスペイン語で話しかけ,彼女を右往左往させた。
だから,どこから見ても同国人にしか見えない私に救いの手を求めてきたのは自然な事で,あまり女の子をからかう趣味を持たない私が,彼女を助けてあげたのも自然な事で,スペイン語をただで教えてあげる事になったのも自然な事で,たびたび,私の汚いアパートに押しかけてくるようになったのも自然な事で,そうなると,セックスにまで発展するのは,自然な事と思われた。
だが,彼女との始めてのセックスは,自然と言ってしまうには,あまりにも感動的だった。
もちろん,それが生まれて始めてのセックスだったわけではない。
スペインで,何人かの女の子と付き合い,自然にセックスする仲にまで発展した女の子も何人かいて,両親が大学の研究員なので,その大学内でのちょっとしたパーティーで知り合って,そのままベッドインした女の子も何人かいる。マリファナパーティーで,薬の勢いで乱交パーティーにまで発展し,誰とどのようにやったかわからないような状態のセックスもあった。
が,彼女とのセックスは,そのどれと比較しても比較しようが無いほどの感動を,私に与えてくれた。
彼女も,やはり,私が始めての男だったわけではない。
だから,余計に,自然に,お互いを求め合う状況となり,自然に体を寄せ合い,自然に唇を合わせ,自然に服を脱がせあい,愛撫し合い,高まり,結合させ,さらに高まり,はてた。はてた後も,結合したままで,肉体の変化し行くままに任せた。体を離すことが,耐えられないくらいにつらい事のように思えた。
彼女は,どうだったのだろう。
彼女も,そうであったと信じたい。
二人同時に,大きな波のうねりに呑み込まれ,流され,やがて置き去りにされた。
その置き去りにされた互いの孤独を,薄い毛布の中で無言で癒しあった。
そういう意味において,感動的だったのだ。
それまでのセックスは,もっと乾いていた。互いに体をぶつけ合うような,スポーティーなセックスだったような気がする。
そう,終わった後の相手の全てが愛しく感じることなんて,なかった。
かけ声掛けるように始まり,ご苦労さんってな調子で終わり,そのままシャワールームに飛び込み,キャッキャと体を洗い合った。
日常の中にいて,自然に日常から引き離されていき,無我の境地をさまよい,また日常に戻される時には,耐えられないくらいの思いを味わう。そんな彼女とのセックスに,私は,私の国を感じたと言ったら大袈裟になるだろうか。
それまで,自分の母国に帰ってきながら,どうしようもない異邦性を感じ,魂の孤独を感じていた私にとって,まさに帰る場所は,ここだったんだという発見。
それらは,彼女の愛を交わす時のしっとりとした感情や,彼女の艶やかな,新鮮な果物のような肌や,控えめな,それでいて情熱的な,快感に身を任せる時の声などによってもたらされるものなのだと言う事に,気付かされていくのだが,気付いてなお,彼女が愛しくなった。
だから,いつか,彼女に対する愛と感謝の気持ちを,こんな形で表したいと思っていたのだ。
それが,案外に早く実現した。
もちろん,イザと言う時のためにコツコツと蓄えた物があったのも事実だが,別れ際に老人が渡してくれた金子のおかげでもある。
「前金だよ。」
と,顔をしわくちゃにしてウインクしながら手渡してくれた。
「女に情けない思いは,させるんじゃないぞ。」
そう言って,カフェテリアに消えていった。
私は,そのお金で,あわててブレザーとスラックスを新調した。さすがに,ティーシャツとジーパンってわけにはいかない。
手が長めの私は,手の長さにブレザーを合わせると,必ず全体がだぼついた。
放っておくと,片方が長くなり,もう片方が短くなる。
それを気にしながら,結香里を待つ。
二十分と待たせずに,彼女はやって来た。
私は,ホテルまでは無料送迎バスに乗ってやってきたが,結香里は,タクシーで乗り付けた。
私を見つけると,嬉しそうに,急ぎ足で,他の人々の間を抜けて近づいてくる。
すぐにでも,体を抱きしめたいのを必死で抑えて,手を挙げる。
「やあ。」
「一体どうしたのよ,こんなホテルで待ち合わせるなんて。それに,どうしたの,いつものラフな格好じゃないわね。」
「似合うか。」
返事の代わりに,そっと近づくと,ブレザーの内側に手をまわして,静かに私を抱きしめた。
「最初から分かってたら,こんな仕事帰りの格好で来ないのに。」
「いいよ,結香里は,どんな格好でも綺麗だよ。」
本当に綺麗と思った。少なくとも,今,このホテルにいる女性の中で,一番綺麗だろう,と。
「帰り際に書類整理言い付けられちゃって,慌てて終わらせてきたの。」
「あわてなくても,ゆっくりでもいいのに。待つのも楽しいよ。」
「私は,待たせるの嫌なの。」
外側がガラス張りのエレベータに乗って,最上階に向かう。
「本当にどうかしちゃったの?」
「うん,どうかしちゃったみたいだ。」
最上階のフレンチレストランには,まだ人影はまばらだった。
名前を告げると,厨房の近くの席に案内された。
「窓側の席は,空いてないんですか。窓側がいいんですけど。」
結香里が,そう言うと,給仕は,窓側の席に案内し直した。
「こちらの方がいいでしょ。」
「うん。でも,慣れてるんだね。」
「家族で,何回か来た事あるだけよ。」
結香里の父親は,大手商社の重役だった。
給仕の持って来たワインリストから,適当にワインを選び,それが運ばれてきて,乾杯した。
「どうしたの,今日は。まさか,泥棒でもしたの?」
「うん,実は。」
と,老人との出会いから,依頼された仕事の内容までを伝えた。ただし,老人から,前金を手渡された事は,黙っていた。
「へぇ,それは,よかったわね。でも,大丈夫?」
「何が?」
麻薬カルテルの事は,結香里には言わなかった。
「実は,その御老人,あなたの体が目当てだったりして。」
「どっちの役をやればいいんだろう。」
「バカ。」
結香里の素足が伸びてきて,私の脹脛をそっとなぜる。
この時間が,永遠であればいいと,心の底から願った。