(四)


「昨夜は,満更でもなかったみたいだな。」
「ええ,まぁ。」
老人が,軽くジャブを打つ振りをした。
「楽しみが無ければ,苦しみも乗り越えられない。」
「まさにそうですね。」
今朝,別れ際に結香里が言った。
「本当に,夢みたいに楽しかった。ありがとう。すっごく幸せ。でも,もう,無理はしないで。あなたといるだけで幸せなんだから。」
こちらこそ,だ。結香里といるだけで,幸せを感じる。
結香里が喜ぶことを,いっぱいしてあげたいと思った。
それが,私の喜びだ,と。
そのために,日々の,どんな苦しみだって乗り越えられる。
本当に,その時は,そう思った。

「一番上の兄が死んだのは,私のせいだと,二番目の兄がなじった。」
私の夢想を無視して,老人は,いきなり仕事に取り掛かった。
「私がいるばかりに,組織の中では重用してもらえず,どれだけ手柄を立てても下っ端の仕事しか回してもらえなかったらしい。それは言い掛かりだ,とは思わなかったよ。有り得る話だからだ。誰か悪意を持った奴が,あいつの家族には中国系のスパイがいる,なんて言いふらせばね。基本的に,組織の下部構造を構成する連中なんてのは,学の無い迷信深い連中ばかりだから,流言蜚語ってやつに弱い。
一番上の兄は,それを何とかしたかった。自分の名誉の為でもあったが,金の為でもあった。下っ端仕事ほど,危険の割には,金が安い。資本主義の典型だな。一番上の兄は,家族を食わせ,自分が一人前になるために,何とか歩合のいい仕事を手に入れたかったのだ。
だから,自ら進んで危険な仕事に飛び込んだ。
その挙句の早死にだ。
命あっての物種なんて便利な言葉は,我々の社会には無かった,悲しいかな。」
老人の母親は,その言葉を聞きつけて,二番目の兄の頬を叩いた。
「子供には手を挙げない女だったが。二番目の兄は,それで,家を飛び出した。」
貧民街ほど,行き先には事欠かない。
夜,うろついていても,警官に呼び止められることも無い。
友人の家に潜り込んでも,その親から詰られる事もなかったし,野宿も出来た。
ダンボールと板切れさえあれば,家だって作れた。
二番目の兄は,それっきり帰って来なかった。
「本当に帰って来なかったよ。一度も会ってない。母の葬式の時にもだ。死体にすら会えていないので,生きているのだろうが,確信があるわけでもない。そう言う事は,よくあるがね。何十年も前の他殺死体が土の中から見つかる事だって良くあるんだ。そんな国だ。」
二番目の兄がいなくなって,次は,老人が組織の下働きをしなければならなくなった。
だが,状況は,上の二人の兄より,なおひどかった。
組織の中国系マフィアに対する恨みは,余程強いものがあったようだ。
「互いに,血で血を洗うって状況を作り出していたようだからな。組織の中にも,中国系に指をもがれた奴とか,目を抉られた奴とかがいた。そいつらが生活に不自由している恨みの全てを私に投げてきたのだ。」
それが,新しく母親の情夫になった男にまで及んだ。
「だが,彼は,その事で私を詰ったりはしなかった。私を見ると,無理に微笑んでくれた。まぁ,そういう性格の男だったのだ。人が良いって奴。だが,そんな男は長持ちしない。」
組織の中で,精神的に追い詰められたのだろう。ある日,刃物で手首を切って自殺しようとしたところを,かろうじて発見が早くて命ばかりは助かった。
老人は,これ以上,家にはいられないと思った。
母親にも内緒で家を出た。
「母は,それからは,また体を売ったりして,男を介護してやったのだそうだ。そうすると,周りが同情の目で見始める。恨みも人一倍強いが,憐れみの心も人一倍持っている。それが,貧民地区の住人なんだよ。それで,回復した男に,また仕事が舞い込み始めた。どこそこの薬をどこそこへ持っていくなんていう下っ端仕事だったそうだがね。命の危険は無いし,二人が食っていくには何とかなった。」
老人は,家を出ると,都市には出ずに,山岳地帯をさまよった。
「都市に出て組織に見つかると,また母親たちに迷惑がかかると思ったのだよ。」
そこで,老人はゲリラに拾われる。
「貧民地区の住人の大半は,組織の手先になる。それが,成功への近道だったからだ。だが,たまに頭のおかしいのがいて,そいつらは,その環境下では真っ当な筈の成功を追い求めず,山岳地帯に潜り込んで,はかない夢を見たがるんだ。そいつらが徒党を組んで,結局は,組織の農園を襲ったりして糊口をしのぐ。それを革命だと信じてるんだが,肝心の組織の中枢には,何も手出しできない。組織に歯向かう事は,政府に歯向かう事となるので,すぐに蝿みたいに叩き潰されてしかるべきなのだが,いざと言う時の戦力のために,隣の大国が武器などを援助してくれていた。
ともあれ,私は,ゲリラ活動の中に身を置くこととなった。」
そこで老人は,激しい戦闘に何度も巻き込まれたのだそうだ。
「都市部は,概ね組織の支配下だったが,山岳地帯とか農村部となると,ゲリラの拠点になっている場所も多かった。そこを,たまに,政府の軍隊が掃討しにくるんだ。組織の若手が駆り出されて,混じっていることもあった。若手と言っても,本当に,まだ少年だった。そういうこちらも,まだ若手だったがね。彼らが,金と成功のために,突き進んで来るんだ。それに,自動小銃や手榴弾で応戦する。」
「つらかったでしょうね。」
「いや。」
老人にとっては,自分を排除した側の連中だった。
憎しみの気持ちの方が多かったのだそうだ。
「死体にも慣れた。慣れるんだよ。君には,信じられないことかも知れないが。山中の腐乱死体の横で食事をすることなんか日常茶飯事だった。同僚の死体は片付けても,敵の死体は片付けてなんかやらないからね。闘いとは,そういう物だ。だが,できれば,そんな所には足突っ込まない方がいい。」
老人は,そうして,何年もの間,闘いの中に身を置いた。
「そのうちに,私は,自分におかしな才能がある事に気がついた。」
自分が絶対に怪我をすると言う時がわかるというものだった。
「おかしな事に、確実に怪我をすると言う,何だか予感みたいなものが走るのだ。そうすると,必ず怪我をした。」
例えば,怪我をするという予感がするので,あえて闘いの場を避けても,崖から転げ落ちたり,落石に当たったりして,必ず怪我をした。
予感がしない時でも怪我はするのだが,気を付ければ,避けられた。予感がした時は,避けようが無かった。
反対に,怪我の予感がした時は,必ず怪我だけで済んだ。
「仲間数人と,森の中を索敵していた時だ。その日は,朝から怪我の予感がしていたので,あまり気が進まなかったが,人員が足りなく,無理矢理引きずり出された。とある場所で,まわりを囲まれて,一斉射撃された。私以外の仲間は,全員死んだ。私も,弾が貫通する怪我をしたが,命は助かった。助かる者がいるような状況ではなかった。君が,もし,戦争の場数を踏んでいる男だったら理解してもらえると思うがね。」
至近距離で迫撃砲が破裂した時も,近くの仲間は全員死んだのに,老人だけは命が助かった。
「ちょっと,待ってろ。」
老人は,いきなり立ち上がると,上着とシャツを脱いだ。
寄る年波でたるんではいるが,かつては,精悍だったであろう上半身が現れた。
その皮膚には,無数の傷が刻まれていた。かなり深かったと想像できるものもあった。
「つい最近まで,こことここに,鉛の弾が入っていた。」
最初は運のいい男で通った。老人も,自分の事をそう思った。
「それでな,私は,進んで危険な所に身を置くようになった。そうすることで,自分の存在価値が上がると考えた。最初は,そうだった,確かにな。だが,有頂天て奴は怖いもんだ。自分の真実の姿が見えなくなる。仲間にとって,私は,いつしか幸運の女神では無くなっていた。私のいくところには死体が転がる。そして,私だけは無事だ。
これが,いったい何を表しているのか。
その事に,私は気が付かずにいた。
まぁ,貧民地区にいた頃から,孤独は慣れっこだったからな,ゲリラの中でも,多少とも自分が浮いてしまったところで,気にならなかった。
気が付いた時には,私は幸運の女神どころか,死神と言われていた。
そのうち,誰も私と行動を共にしたがる者がいなくなっていた。
私は,ここでも異端であったのだ。」
そう言って,老人は顔をしわくちゃにした。
「それは,しかし,あなたのせいではなでしょう。」
「人間はな,ぼうや,自分に与えられた材料をどのように調理するかなんだよ,結局。美味くするのも,不味くするのも,腕次第だ。」
ぼうやと言われてカチンときた。
「気を悪くしたようだな。今日は,これくらいにしよう。君が,随分聞き上手なんで,思ったよりはかどっている。礼を言わなければならんな。」
「あと二ヶ月ですか。」
「ふむ。信じるか?私は,今でも,自分が怪我をするタイミングがわかる。それと同じだ。」
「結局,自分に与えられた材料をどのように調理するか,でしょ。」
「あはは,そうだな。さて,一杯どうだ。」
「いいでしょう。」
その日は,結局,深夜近くまで老人に付き合わされる羽目となった。