(五)



老人は,社用者で送ると言ってくれたが,結局,それを断って,ギリギリ間に合う最終電車に飛び乗る。
電車に乗るなり携帯が鳴った。
スペインにいる母だった。
「どうなの,元気してるの?」
「うん,なんとかね。」
「生活できてる?」
「ああ,実は,」
老人の事を話しようとして,電波が一時中断したので,面倒臭くなってやめた。
窓の外を,家々の灯りが流れていく。
ちょっとホームシックになる。
ホームシック?
ここは,自分の国ではないのか。
「こっちは,元気よ。父さんも,今,フランスに学会に行ってるわ。」
あなた方は,いいよな。と,いつも思う。
両親には,心の中にきちんと母国がある。
それが,二人の行動のベースになっている事に,気付いているのか,いないのか。
よく,この国の文句を言っているが,それでも,無いよりはマシの筈だ。
少なくとも,成人するまで,この国の文化の中で育ち,心の基盤に,それを保ち続けている。
私には,それが希薄だ。いや,無い。
だって,日本語学校に通い,少なくとも何年か以内に帰国できる商社マンの子供達とも交流し,日本の話を聞き,知識としての日本はあったにしても,感覚というか,確固たる存在感を持った日本は,私の心の中の何処を探しても無かったのだから。
友人と,日本とか国家を語るとき,私は孤独だった。
語るべき何も持たなかった。
「あなたの友達から電話があったわよ。最近,あなたが,なかなかつかまらないから,あなたの行きつけの場所を教えてくれって。」
「友達?誰?」
「名前は忘れたわ。メキシコ系の名前だったわねぇ。英語のイントネーションもちょっと変わっていたわ。」
誰だろう。
老人が,そんな電話をするはずもない。
神父だって,そうだ。
「我が家は放任主義だからって言っといたけど。ちゃんと連絡しなきゃ駄目よ。」
「ママ,そいつの名前を思い出してよ。」
電波が,また途切れる。
「そう,そう。あなた,彼女ができたそうじゃない。」
そこで切れてしまった。
母に電話をかけてきたのが誰なのか,気にはなったが,かといって,かけなおす気にはならなかった。
私の最近のプライバシーを知っている者。
神父にすら,結香里との事は話していない。
老人が,興信所でも使ったのだろうか。
一応,日本の会社では,それがしきたりらしいし。
私と接触する前に何度か私の行動を観察していたようだし。
明日,覚えていたら尋ねてみようと思った。
老人のペースにはまって,ちょっと飲みすぎてしまった。
とにかく,眠かった。

電車を降りて,住宅街の中を十五分ほど歩く。
どの道を曲がっても,まるで同じ風景と思えるような,個性の無い町だ。
都市の大規模化に応じて,あわててちまちまと組み上げられた町だった。
おそらく,二昔も前は田畑が広がっていたに違いない。
何角目を右に曲がり,それから何角目で左に折れ,小さな橋を渡って,大きな土蔵のある家の向こうを左に曲がってひたすら真っ直ぐ行くと,みたいに,最初は角の数でしか把握しようがなかったが,今では,目をつぶっていても辿り着ける。
考えてみれば,私にとってのこの国とは,結香里とのセックスから始まって,このアパートと私鉄の駅との間を抜け,教会の周辺で終わっている。たまに,スパイスのように,近くの都市の大きなビルディング群がある。
結香里と,どこかに旅行しようかと言いながら,実現していない。
老人との雇用契約が終わったら,北海道へでもフラフラと行くのもいいかもしれない。
結香里の両親が許してくれたら,だが。
特に,結香里の父親が厳格だと聞いている。

いつものように,大きな土蔵のある家の向こうを曲がる。
少し先,この時間なら街灯が灯っているだけの辺りが,なにやら騒がしい。
最終電車が走る時間帯だ。家々の窓は,ほとんど真っ暗のはずなのに,そこかしこに明かりが見え,人の気配がある。
駅からアパートへとむかう最後の曲がり角の辺りで,なにやら赤いものが光っている。
その正体は,角を曲がったところで,パトカーである事がわかった。
こんな無個性な住宅街でも最近は物騒だと,大家の老婆が言っていた。
昔は,家に鍵をかけたこともなかったのに,と。
大家の老婆は一人暮らしだから,怖くて怖くてと。
今年に入って,強盗三件に,未遂が二件,隣町だったが居直って殺された事件が一件。
近づいてみると,私のアパートである事がわかった。
玄関口で,老婆が警官と立ち話をしていた。
「何かあったんですか。」
私を見て,大家が小走りに近づいてきた。
「ちょっと,あんた,何処に行ってたのよ。あんたの部屋が大変だよ。」
「私の?」
「そうだよ,こそ泥だよ。」
「こそ泥?」
いつもは早々と床に入り早朝まで目が覚めない老婆だが,この日は途中で目が覚めて,なかなか眠れなかったので,生ゴミを出すために,外に出たらしい。そこに,地続きのアパートから出てくる,外国人三,四人に出くわした。
そのうちの一人は,最初,老婆に襲いかかろうとしたらしいが,別の一人が何かを叫び,彼らは,走って逃げて行った。
「本当に怖かったよ。慌てて警察に来てもらって,調べてもらったら,あんたの部屋が荒らされていたんだよ。」
「私の?」
「そうだよ。早く行って,何か盗まれた物がないか,見ておいでよ。」
そこへ,警察官が近づいてきた。
「あなたが,部屋の借主ですね。ええっと,お名前は。」
私の名前と年齢を確認すると,
「今,現場検証してますんで,邪魔にならないようにして,盗まれた物がないか見てもらえませんか。」
部屋の中は,布団だの,書類入れに使っているダンボール箱の中身だの,とにかく,いろんなものが引きずり出されていた。
が,和室二間の小さな安アパートである。
テレビや冷蔵庫すらも買ってない。
部屋に置いてあるもので盗まれて困る物といえば,パスポートと漢和辞典くらいのものだ。
パスポートは,スペインに行く時に必要だし,漢和辞典は,とにかく漢字が苦手なので,常に引いている。
しかし,どちらも畳の上に放り出されてあった。
後は,本の類と,CDくらい。
本もCDも,部屋の隅に山積みしてあったが,すべて崩されていた。
一体,何を盗って行くつもりだったのか。
とぼけた盗人だった。
「何も被害は,無いですか?」
警察官の一人が尋ねる。
被害と言えば,泥だらけの畳ぐらいだが,誰が掃除すると思ってるんだ。
「良かったねぇ,何も盗られて無くって。今日は,家に泊まりにおいでよ。いや,さぁ,怖いんだよ,あたしが。大丈夫だよ,こんな年寄りなんだから,あんたに,何かしようなんて思わないよ。」
大家は,その昔,私の父の隣人で,父の事をよく知っていたので,私にはとりわけ親切ではあった。
「じゃあ,お言葉に甘えます。」
「明日,一緒に掃除してやるよ。」
一通りの調べは終わったらしく,警察官達も引き上げにかかっている。
「明日,署まで来ていただけますか。調書を作りますので。判子を持ってきてください。」

翌日,大家に手伝ってもらって部屋を片付けると,近くの警察署に出かけた。
老人からの電話がなかったので,指定通りの時間に警察署に着いた。
窓口で,来訪の意図を告げると,赤い線に沿って歩いて行けと指示される。
赤い線は,窓口の前から,待合いの古いビニル張りのベンチの前を通って,階段に抜け,階段を上がって二つ目の開けっ放しのドアの前に続いていた。
ドアを入ると,カウンターがあって,そこから一番近い女性に声をかける。
繁忙期なのか,ひっきりなしに人が出入りし,電話が鳴り続けている。
昨日とは違う私服の男が出てきて,わたしに挨拶をした。
「すいませんね,今日は,ご足労いただいて。えーっと,ヨシコちゃん,会いてる場所はないかな。」
ヨシコちゃんと呼ばれた太目の女性が,立ち上がり,あたりを見渡して,
「ありません。」
「仕方ないなぁ,ちょっと,むさ苦しい場所になりますが,こちらへどうぞ。」
その部屋の端に,三つ入り口があり,真ん中だけが開いていた。
「こんなところしか,開いてないんですよ。今日は,どういうわけかお客さんが多くって。」
部屋は殺風景で,真ん中に一つ,スチールの古いテーブルがおかれ,その向こうに,背もたれの無い丸いすが置いてあった。
進められるままに丸いすに腰を下ろそうとした時,隣の部屋から,誰かを怒鳴りつける声が聞こえてきた。
私服の男が苦笑して,
「すいませんねぇ。あまり,気にしないでください。」
次に,物を何かに打ちつける音。
「随分賑やかだなぁ。えーっと,昨日,何時に帰宅されましたか?」
私服は,色々と質問をしながら,手際よく調書をまとめていく。
「おじゃましていいですか。」
途中で,背広を着た背の高い男が入ってきた。
顎の突き出た感じの,冷たさを漂わせた男だ。
「あ,こりゃこりゃ,どうも。」
私服の男が,最敬礼する。
「こちら,警察庁の。」
「同席させてもらってもいいですか。」
私服の男より五歳ばかり若そうだが,しゃべり方は押し付けるようなところがあった。
「はぁ,結構ですよ。」
私服は,背広が何故同席するのか理解できない様子だったが,気にしないふりをしながら,先を進めた。
背広は,同席するというものの,退屈そうにじっとこちらを見ている。
時折,いらいらした様子で,足を組みかえる。
私服は,気にも留めてないふりをしているが,背広がごそごそするたびに目玉が,そちらに少し動くので,充分に意識していることが,見て取れた。
最後に,私服が調書を読み上げ,
「いいですね。」
と,私に同意を求める。
「内容,良ければ,ここにサインと捺印をお願いします。」
私が,言われたところにサインし,捺印し終えるのを待って,背広の男が声をかけてきた。
「君,メキシコに行った事,ありますか。」
「メキシコですか?」
「そうだ,メキシコです,メキシコ。」
私服の男の顔に追従笑いが浮かんでいる。
「メキシコと言うと,アメリカの近くの。」
私服が言いかけると,
「君に聞いてんじゃないでしょ,そっちの君に聞いてるんですよ。」
「無いですが。」
「無い?無いの,本当?」
「ええ。」
何故無いんだという顔をして,こっちを見る。
「そうか。じゃぁ,いいや。メキシコ人とも接触したこと無いの?」
「無いです。」
「スペインから戻ってきたんだったよね。その途中で,メキシコ人と接触した事って,無いですか?」
「ありません。」
老人は,中南米の出身だが,メキシコではない。
「そうですか。実は,君の部屋を探したら,こんなものが落ちてたんですよ。」
背広は,小さなビニール袋を差し出した。
中には,枯れた葉っぱが入っている。
見覚えのある葉っぱだった。
「それは。」
背広は,私の反応を見逃さなかった。
「そう。」
「私の部屋から?」
「そう。」
「そんなはずは。」
「無いですか?でも,君,これが何か知っていますよね?」
「ええ。」
「スペインで?」
「何回かやった事はあります。」
「日本では?」
「ありませんよ。どこで手に入れるのかもわからない。」
「やりたいと思ったことは?」
「私は,煙草も嫌いなんです。」
それは,事実だった。
そう何度もやりたくなるような事はなかった。
「これね,成分とか調べたら,どうやらメキシコ産らしいんです。」
私服の男が,膝を叩いて,
「それで。」
背広は,それを無視して,
「君ね,前科も無いし,これ以外のものは何も見つからなかったし,これ以上追求はしないが,変なものをこの国に持ち込むのだけは,やめてもらおうか。」
「私じゃないですよ。」
「全く,君たち帰国子女って奴らは,外国の変な風潮を持ち込んで,おかしな事ばかりしたがる。それに調子を合わせる馬鹿供が多いのも事実だが。やりたい事があるんならこの国の外でやってもらいたいもんだ。」
「それって,すごく不愉快ですね。」
「我々は,もっと不愉快な事を我慢してるんだ。」
何を言いがかりつけてるんだと思ったが,そういう考え方の男なんだろう。
スペインには,もっとガチガチ頭の国粋主義者もいた。
若者の一部は,ネオナチじみた考えで,外国人排斥を叫んでいた。
まぁ,それと似たようなものなんだろう,そう思うことにした。
だが,おかげで何とも言えない後味の悪さが残った。