(七)


朝は,早くから電話の音で起こされた。
昨夜は,結局,朝方近くまでアンジェラと一緒にいて,趣味だの人生観だのを話し合った。
「ヨシヒコは,男の匂いがあまりしないから,アレルギー反応もでないわ。」
とは,喜んでいいのやら。
彼女の趣味は,オルゴールと小さなガラスの人形だった。
気に入ったオルゴールを手に入れるために,年に一度は,ドイツに行ったり,パリの泥棒市場を回ったりしているそうだ。
ガラスの人形は,お祭りの屋台などでたまに売っているやつ。
あれをしこたま買い込んで,テーブルの上に並べているのだとか。
「アンジェラも女の子なんだ。」
「この体のどこが女じゃないって言うの?」
そう手を広げられたが,そんなにまともに見れるもんじゃない。
「ヨシヒコは照れ屋ね。」
これまた,喜んでいいのやら。

アンジェラが電話に出て,
「社長,例の件,片付いたようです。」
と,報告する声を聞いて,またすぐ前後不覚となった。
ようやく目を覚ましたのはお昼前だ。
「思ったより早く片付いたよ。せっかくだから,今日は一日ここで休暇をとって,明日,街に帰ろう。」
老人が,私の顔を見るなり言った。
歯を磨いているとアンジェラが近寄ってきた。
「おはよう。昨日話した事は,誰にも言わないで。私は,クールで通っているんだから。」
「おはよう。オーケー。」
いつもと違って,随分幼い雰囲気だと思ったら全然化粧もせずに,髪も後ろで束ねているだけ。服装も,オレンジのタンクトップに紺のジャージで,まるで高校生の合宿だ。
しかし,そう言うアンジェラも,なかなか魅力的だと思った。
遅い朝食を摂った後,アンジェラはかつての師匠を相手に,砂浜で組み手の練習を始めた。
老人は,テーブルとブランデーをベランダに持ち出して,
「さて,話の続きを始めるか。」
「その前に,例の件て,どうなったんです?」
「うむ。奴らがこちらの妥協案を呑んだってところかな。」
「妥協案?」
「今の土地の契約は白紙撤回して,新たに別の土地を提案する。とりあえず,賠償金は,彼らの主張する金額の三分の一は支払う。その代わり,彼らの今後の不動産取引には,必ず我々が絡むこととし,その見返りに,我々も彼らに顧客を紹介する。」
「今後も取引するって,たちの悪い奴らなんでしょ。」
「何とかと鋏は使いようさ。お互いに損の無い案だと思うよ。我々も,新たな顧客を獲得できるんだし。」
と,顔をしわくちゃにした。
「さて,どこまで話したかな。
そうだ,革命グループの中で浮いてしまう話だったな。
しばらくは,私も無茶をした。信用回復には,功績を挙げることしかないと思ってね。
私が無茶をやればやるほど,周りは私から離れて行った。
組織だろうが,革命グループだろうが,集団の摂理と言う奴については,全く同じものが根底には流れているんだな。まぁ,所詮は,人間のなせる業って奴だ。
そんなある日の事だ,私は一人の男を助けた。
政府軍の軍服を着ていたから,私には敵だったがな,大怪我をして動けないでいた。
その頃ってのは,もう,革命グループに対する忠誠心なんか無くしていたからな,どっちでも良かったんだよ。人殺しよりも,人助けがしたかった,無性にな。」
「それは,人を殺し過ぎたからですか?」
「うむ,たくさん殺したよ。そのせいでもあるだろうな。
で,その男を政府軍の陣地まで担いで行って,警備兵に手渡した。
そして,奴らが負傷した男にかかずらっているうちに,そこを離れた。
まぁ,ただそれだけの事だった,私にはね。
奴らが総攻撃をかけて来たのは,それから暫くしてからだった。今までに無い,大掛かりな作戦だった。
今まで,政府軍が,いかに手を抜いてきたかを示すような作戦だった。その作戦で,我々は,一網打尽にされた。
狭い小屋にまとめて押し込められて,一人ずつ引きずり出され,どうやら銃殺されているらしかった。
私も,ついに運が尽きたと思ったよ。
闘いという局面では,鋼のような精神力をみせる男達も,目の前に確実にやってくる死には,どうやら弱いものらしい。泣き出す者。中には,半狂乱になる者もいた。」
「あなたは,大丈夫だったのですか?」
「とんでもない。私も,ついに終わりかと思ったら,母親の顔が浮かんでね,適当に隣にいた男と,肩抱き合って震えながら最後の時を待ったよ。
ついに私の番が来た。小屋の外は,ちょっとした広場になっていて,その真ん中には,大きな穴が掘ってある。我々が,徹夜で掘らされた穴だった。穴の周辺は血でどす黒く染まっていて,近づくと,沢山の仲間の死体が見えた。
私を小屋から引き立てた男が,穴のところまで私を連れて行って,跪けと言った。
私は,言われるがままに跪いた。ほんの一瞬,静かになった。ほんの一瞬だった。
だが,私には,長い時間に思えた。
死ぬときは目を開けて死のうと思っていたが,どうしても目を開ける事ができなかった。
冷や汗が滝のように流れ落ちるのが分かった。
男が,ライフルを構えた。銃口は,確実にこちらを狙っていた。
目を閉じたままでも,それは,痛みの感覚となって,脳裏に届いた。
銃口が向けられているであろう辺りが,ちりちりとなって痛んだ。
そして,耳元で銃声がした。ああ,もうこれで人生が終わったんだと思った。
頭の中が一瞬で真っ白になる。
だが,待てよ。何故,銃声が聞こえるんだ?」
「何故,聞こえたんですか?」
「そうなんだ。弾は,音よりも僅かに早く私に到達する。頭を打たれれば,ほぼ確実に即死だ。銃声なんて,聞こえるはずも無い。
恐る恐る目を開けた。視線の先に,弾が地面に穿った穴が見えた。
一人の髭面の男が,私を抱き起こした。
そして,言った。
友よ。」
「お知り合いだったんですか?」
「馬鹿な。あんな状況では,お知り合いも無視して通るよ。自分の命大事だからな。
私の前にいたのは,私が助けてやった男の親父だったのだよ。なんと,その頃,政府を牛耳っていた組織のボスだ。
そいつの息子ってのが,親不孝で,とことん親父に反抗して,政府軍に紛れ込んでいた。そして,半死半生のところを私が助けてやって,その助けた私に恩返しがしたいからって,そいつの親父の鶴の一声で大掛かりな作戦が計画され,政府軍にも大量の死傷者をだしながら,我々を生け捕りにしたってわけだ。全く,私のラッキーも,傍迷惑な事だな。
結局,私以外の革命グループは,全員殺された。武器などを援助していた近くの大国も,これだけ大っぴらにやられりゃ,助け舟も出せない。
私一人のために血の海だ。」
あまりの話に相槌がうてない。
老人も,次になんと言えばいいのかと,困ってしまったようだ。
「つまり,何だ,私の運ってのは,そう言うもんなんだよ。
わかってくれるだろうか。いや,わかってくれとは言わないよ。」
「ええ。」
ようやく相槌がうてる。
「それからは,また,組織のメンバーに戻った。今度は,誰にも後ろ指さされない。
何と言っても,組織のボスの直接の部下なんだからな。私は,母親に会いに行った。
六つか七つでストリートチルドレンになり,十四,五で家に戻り,十八の歳に再び家を出て,三十前になって今度は,母親を都心のマンションに呼んだ。父親,私にとっては義理の父親だが,彼も一緒に呼んだ。優しい男で,病に臥せっていた私の母を,熱心に看病してくれていたらしい。母親には,専門の医者をあてた。でも,それから二,三年後に天に召された。我が母よ。
私は,革命グループから組織へと,正反対の立場に身を置いたのだが,自分の運に任せて,同じように危険な橋を渡った。まぁ,同じような事をやったわけだが,革命グループと違って,組織は,一緒に死地に赴く鉄砲玉が何人もいた。私のまわりで何人死のうが,それで,とやかく言われることは無かった。功績さえ出せばよかった。
だから,私は,ボスの片腕として,どんどん名前を売った。地位も上がった。
組織間の抗争で,どんなに危ない場所に出ても,私は生きて帰った。
私の乗った車に爆弾が仕掛けられて粉々になっても,私は死ななかった。
若い奴らは,私が身に付けているものを欲しがった。お守りにするんだと。
効き目は疑わしかったがね。」
老人は,そこまで喋ると,目をつぶった。
「疲れましたか?」
「うむ,最近,とみに疲れる。歳だな。
私が,こうして喋っているのは,歳の離れた弟へのメッセージでもあるが,私自身,何かを思い出そうとしているのかも知れん。私が,過去に封じ込めてきた事柄の多くを。
あまりにも悲惨な過去だな。自分で言うのもなんだが。
しかし,私自身は,そんなに悲惨であるとは思っていないのだよ,実は。」
「そろそろ一休みします?」
いつの間にかアンジェラが後ろに立っていた。
日はまだ高かったが,西の空から雨を大量に含んだ雲が迫りつつあった。
アンジェラの相手に疲れ果てた漁師は,ベランダに吊ったハンモックで眠りこけている。
静かな海辺の午後だ。
老人の過去に,そんな血生臭いことがあったなんて,とても思えない午後だった。