(八)


翌日,朝のうちに別荘を片付けて,船で漁村に向かった。
漁師は,
「俺は,ここがいいよ。」
と,一緒に行こうと言うアンジェラの誘いを振り切って,漁村に残った。
「まったく頑固なんだから。」
アンジェラがプリプリしながら,ポルシェをとばした。
「まぁ,人には,それぞれ適所ってものがあるんだ。彼は,あの暮らしがいいんだよ。」
老人がなだめる。
適所か,私の適所は何処にあるんだろうと,思った。
適所。
そうだ,結香里だ。
結香里のいる場所が,私の適所だ。
結香里に会いたい。
真剣にそう思った。
だから,携帯が使える場所に着くなり,真っ先に結香里に連絡を入れる。
出てくれない。
しばらくして,メールの受信が始まる。
結香里からのメールが,山のように届く。
最初は,短いセンテンスで。
“バカ”とか,“女たらし”とか。
最後は,内容も無い。
とにかく,メールを打ってるから,受け取ったら返事してという無言のメッセージ。
それは,昨日の朝で途切れていた。
留守番センターにも,昨日の朝までに無言の着信が何回も入っていた。
それでも,私がかけると,出てくれない。
「嫌われたのね。」
アンジェラが,からかい半分で囁く。
冗談じゃない。
私と結香里の仲は,こんな程度で壊れるものかとは思うが,不安は募る一方だ。
都市に近づくにつれ,すぐにでも彼女の家を訪ねたくなる。
しかし,よく考えれば,彼女の家のある辺りは知っていても,正確な場所は知らないのだ。
私は,彼女の家の近くと思しきあたりで降ろしてもらった。
以前,彼女に聞いた街の名前。
なだらかな丘一つが,邸宅で埋め尽くされた街だ。
街の入り口に立つと,緩やかな坂道が,ずっと空まで続いているように見える。
道の両側には,ほとんど塀しか見えないような家が並んでいる。
歩いている人はいない。
走っている車は,ほとんど外車か宅配の車だ。
このどこかに,彼女の家があるはずだ。
見つけたからと言って,彼女の家を訪れられるはずも無い。
でも,もしかしたら,どこかでバッタリと会える可能性もある。
番地も何も分からないが,とりあえず探して歩くことにした。
昨日は,このあたりも雨が少しは降ったのだろう,道の端が濡れていて,腐葉土の匂いがする。都市では失われてしまった匂いだ。
途中,パトカーとすれ違う。
中に二人乗っていて,こちらを不審者と決め付けた目で見る。
二度目にすれ違った時,それが静かに止まって,中から警察官が出てきた。
「ちょっと。」
と,呼び止められる。
「君,ここで何してるの?」
「何って?」
「さっきもすれ違ったよね。何でこんな所,歩いてるの?」
「どこを歩こうが勝手じゃないですか。」
「勝手って言ってもね。ここは,そんな君みたいな人が歩くような場所じゃないんだよ。」
「ここは日本でしょ?日本なら,どこ歩いてもいいんじゃないですか?」
我ながら幼稚な反論だと思った。
「そうかい。ま,とりあえず,お名前と住所,聞いておきましょうか。」
丁寧だが,有無を言わさぬ口調だ。
「嫌です。ここは公道でしょ。公道を歩いて,どうして名前や住所を言わなければならないんですか。拒否します。」
警察官は,薄ら笑いを浮かべて私を見た。
「とりあえずね,これが我々の仕事だからね。不審な人をチエックするっていうのね。」
「私のどこが不審なんですか。」
そこへ,運転席にいた,もう一人も出てきた。
こちらは,結構体が大きい。片方の手を後ろに隠しているが,ズボンの端から警棒が見えている。
最初に出てきた方が,それに力を得たのか,さらに厳しい口調になる。
「君ねぇ,ここで問題を起こすようなら,そこの派出所まで来てもらってもいいんだよ。」
冗談じゃない,と思った。
どこに,道を歩いているだけで派出所に連れて行かれるような国があるって言うんだ。
少し先に,車の入れそうに無い小路がある。
走るのならば,彼らよりこちらのほうが速いだろう。
逃げ出すなら,もう一人が,これ以上近づいてくる前だ。
ともかく,そちらに向かって走り出す。
一人が追いかけてきて,もう一人は,車を動かしたようだ。
小路は,すぐに大きな道に繋がっており,すぐ目の前が空き地だ。
空き地の向こうは,建設中の邸宅。
家とは言え,邸宅となると工事も大掛かりで,大型のクレーン車が二台動いていた。
警備員が止めるのも聞かず,その下をくぐり,骨組みの邸宅を抜けて,神社の小さな森に入る。こんなところに神社があると言う事に驚いた。
振り返ると,警察官は,はるか後ろだ。
もう,ほとんど追いかけるのを諦めた様子だった。
ともかく,結香里の住む街を出る。
結香里の街から拒絶されたと言う思いだけが残った。
ひどく喉が渇いたので,缶ジュースを買って,公園に入った。
マンションに囲まれた小さな公園だ。道路からは死角になっているので,先ほどの警察官もやっては来ないだろう。
そこで,再び結香里の携帯を鳴らしてみる。
やはり,出てはもらえない。
「煙草の火,貸してもらえる?」
声をかけられて,見上げると,中国系の男が立っていた。
「ごめん,煙草は吸わないんだ。」
そう言った途端に,後頭部に激しいショックを感じて,気を失いそうになる。
体のバランスは既に崩れて,前のめりに倒れこむ。
そこにロープをかけたのだろうか,体の自由が効かなくなった。
頭から何かを被せられ,マンションの林立する景色が消える。
何とか上体だけで踏ん張ろうとするところに,鳩尾に衝撃が走って,息が出来なくなる。
そのまま担ぎ上げられ,車らしき中に放り込まれた。
息が出来ない上に手荒く扱われて,ほとんど失神状態のまま車が動き出すのが,感覚の遠いところで感じられる。抵抗する意思は,とうに無い。
事態を把握する意思すら失ってしまった。
そう言う状態の中で,さらに酷い事が起こる。
何か巨大な物が乗せられた車のサイドにぶつかってきて,私の体は,左肩から硬い壁に叩きつけられる。
ひとしきり,鈍い音や,何かが壊される音がする。
合間に,中国語とロシア語らしき言語が混じる。
そして,また,私の体が持ち上げられた。その拍子に頭を何かに打ち付ける。
自由を奪われて,体がボロボロになっていく。
再び車らしきものに乗せられて,もうこれ以上何も起こってくれるなと,祈るような思い。
何故,こんな理不尽な事が起こるんだと,怒りはそこだけにある。
もう一度,その車が急停車する。
私の頭に固い筒の先端が押し付けられた。銃口だ。
もうどうにでもなれ。
銃口を突きつけた奴が,ロシア語で何か叫んでいる。
遠いところで,それに答えている奴。
どちらに転んでも,助かる道はなさそうだ。
希望の火は,とうに消えている。
と,銃口が急に離れるのと,ガンと大きな音と,その銃口から,おそらく全然違う方向に弾が飛び出す音とが,ほぼ同時だった。
それから静かになって,足音が近づいて,
「ヨシヒコ,大丈夫?」
というアンジェラの声がして,私は完全に気を失った。