(九)


気がついた場所は,どうやら病院らしかった。
頭がとにかく重くて,特に後頭部に鈍い痛みが残っている。
体を動かしてみる。
右腕は動くが,左腕が駄目。無理に動かそうとすると,肩に激痛が走った。
鳩尾にも,鉛が固まったような感覚がある。
何よりまして,今まで感じたことも無い脱力感。
カーテンから薄く日が差し込んでいるので,夜でない事は分かった。
右腕に点滴の管が差し込まれている。
それから,二日,いや三日,うつらうつらとベッドの上で過ごした。
時々,看護婦がやってきて,点滴の様子を見ていく。
枕元にディスプレイがあって,脈拍だの体温だのを表示しているようだ。
看護婦は,私と目が会うと何やかやと話しかけてくるが,言葉で返すことがおっくうだ。
「鎮静剤のせいよ。」
何日目かにアンジェラがやってきた。
「大分回復してきたので,鎮静剤の量を減らしてもらうわ。そうすると,喋れるようになるから。」
確かに,アンジェラが訪ねてきてくれた日の夕方あたりから,体も積極的に動かそうという意欲が湧いてきた。
ただ,激しく打った左の肩がうずいて仕方ない。
看護婦にそれを言うと,鎮痛剤を打ってくれたので,少しは楽になる。
翌日も,アンジェラはやってきた。
「一体,何があったんだろう。」
「覚えてないの?」
「いや,意識を無くすまでを断続的に思い出すんだけど。私は,誰かに誘拐されそうになったのかな。」
「そうね。」
「ひどい目にあった。今でも,体中が痛い。殺される寸前だったような気がする。」
「その通りよ。」
「本当に?」
「ええ。」
私は,まず中国系の危ない連中に拉致され,それをロシア系の危ない連中が横取りし,その挙句にアンジェラに助け出されたのだそうだ。
「ありがとう,助けてくれて。」
しかし,何故アンジェラなのか。
「実は,こじれてた一件が,まだ片付いてなかったの。相手は,こちらの提案を呑んだ振りをして,私達が姿を現すのを待ってたの。ロシアまでが出てきて。」
「国際的な犯罪だ。」
「そうね。」
「でも,よく助かったなぁ。」
「警察の無線よ。」
中国系の連中が,警察の無線を傍受して,私があの街をうろついている事を知った。中国系の連中と同時に,ロシア系も同じ方法で情報を得た。
で,私が捕まった。
でも,何故,私だと分かったのか。
「何故?」
そして,アンジェラ一人で助けてくれたのか。
アンジェラは,私が捕まったことがどうしてわかったのか。
「難しい質問ね。それより,あなたが昏睡している十日の間に何が起きたか,知りたい?」
「十日間?そんなに?ほんの二,三日だと思っていた。」
「まず,社長が誘拐された。」
「彼が?」
「法外な身代金を要求された。」
身代金を用意したが,向こうが約束を破って,金だけ取って逃げようとしたので,老人がかつて所属していた組織に援助を依頼した。
「彼は,とりあえず,無事に帰ってきたわ。すごく衰弱しているけれどね。」
老人を誘拐した連中がどうなったかは,聞かないほうがいいのだろう。
老人は?
「この病院に入院させてるわ。明日には面会させてあげられるでしょう。」
「ここは,どこ?」
「日本よ。」
「そう。」
「体は,動かせる?」
「うん,左肩以外はね。」
朝から,お腹も空き始めた。
私は,回復が早かったが,老人の方は,そうはいかなかった。
翌日面会の予定が,一週間も延びた。
その間に,左の肩のリハビリも行い,かろうじて動くようになった。
後頭部の鈍い痛みは,なかなかとれなかったが,頭は,しっかり働き始めてくれた。
病院は,郊外の山中にあって,近くに小さい湖があった。
休日になると,アウトドアを楽しむ人々で賑わった。
私は,何度か,アンジェラとこの湖畔に簡易テーブルを持ち出して,ランチをとった。
「彼女からは,連絡無いの?」
「うん,連絡も無いし,こちらからかけても,応答してくれない。嫌われちゃったな,こりゃ。」
「あなた方のためだったとはいえ,悪いことをしたわね。社長も回復して,ここを退院したら,一度会わせてほしいわ。私からも謝りたいの。」
それは,願ったりだ。
しかし,心配な部分もある。アンジェラは,この病院の看護婦にも,妙に受けがいいのだ。
「昔から,そうなのよ。男もよく近づいてくるけど,女の子からも何度言い寄られたことか。」
「結香里を盗らないでくれよ。」
「あれくらいの可愛い子は,確かに好みだわ。」
しばらく,そんなふうに平和な時間を過ごした。
しかし,それは,嵐の前の静けさだった。
その間に,着実に嵐は用意されていた。

「随分と乱暴に扱われたよ。」
老人は,私の顔をみるなり,顔をしわだらけにした。
帰宅途中に襲われたらしい。
「おかげで,愛車はボロボロになっちまった。運転手は,私よりひどい怪我だ。
なんせ,ちょっとした崖から,まっさかさまだ。」
そう言って,手の平で,車が落ちる様子を表す。
「頭から雑木林に突っ込んだ。雑木林じゃなかったら助かってなかったな,運転手の奴は。」
「あなた方を殺すつもりだったんですか。」
「そんな筈は無い。私は,まだ半月ほどは生きておられるはずだ。よしんば,殺す積もりだったとしても,私は死なない。それから一週間ばかし,水も飲ませてくれなかったが,ほれ,生きている。アンジェラ達が助けに来てくれた時も結構な立ち回りがあった。奴らにも,私を助けに来てくれた側にも沢山死傷者が出たが,それでも生きている,ほれ。」
看護婦が入ってきた。
「まだ,あまり無理はなさらない方が。」
「分かっているよ。」
「じゃあ,そろそろ,私は。」
「いや,しばらくいてくれないか。一人だと,退屈でいけない。」
老人は,大きく深呼吸をすると目をつむった。
看護婦が,カーテンを閉め,午後の日差しがその隙間から細く入ってくる。
野鳥も午睡中なのか,さえずりすら聞こえない。
私も,椅子に深く腰掛けて,目を閉じた。
老人の死なないという確信,一月後に死ぬという確信は,どこから来るものなのだろう。
それに,何だ,ここのところの騒がしさ。
何に巻き込まれてるんだ。
そんな事を考えながら,うつらうつらとしかけた時,
「予定調和って奴だよ。」
老人がいきなり口を開く。
「私は死なない。強運だと,皆,運で考えたがるが,運じゃない。ましてや運命でもない。
私は,予定調和に従って生きている。」
運命は感動的に訪れるが,予定調和はごく当然の顔をして通り過ぎる,というのが老人の解釈だった。
「ドラマなどを見ていて,ストーリーとしてここで恋人が出てくるだろうと誰もが先読みできるシーンに,何の恥ずかしげも無く恋人を登場させるもの,それが予定調和だ。
所詮,私の人生も,そのような類のものなのだ。君がここにいる事も,私の人生の中では予定調和的な出来事なのかもしれない。おっと,君にとっては,ではないよ。私を主体と考えた場合の話をしているのだ。
だから,私が死なないことは,ごく当然のことなのだよ。」
老人を助けるにあたっては,激しい銃撃戦も展開されたらしい。
老人の周りにも沢山の流れ弾が飛んできたらしい。
「一番最初に私のところに来てくれた男は,流れ弾に当たって死んだよ。こめかみから血を流してな。」
それでも,老人は死ななかった。
それでも,それは運ではなく,予定調和なのだそうだ。
「予定調和にしたがって,私は,組織の中で実績をあげ,多大な貢献をした。その裏には,私の予定調和の犠牲になって,命を落とした者も多かったのは,この前話した通りだ。
姉の話をしたかな。まだか。
かわいそうな女だよ。貧民街の女のほとんどがそうであるように,金のために身を売って,男に君臨され,病にかかって死んだ。
運がなかったんだな。」
「それは,運ですか?」
「ああ。運がよければ,病にもかからず,いい男がヒモになったり,もっと運がよければ,体を売るような生活からも開放される。姉は,母が亡くなる一年前に天に召されたよ。
最後の何年間は,病のために気が狂ってな。
私は,姉をそこまで追い込んだ姉の情夫に,応分の責任を取ってもらった。」
「そうですか。」
それが,どういうことなのか,聞かないほうがいいのだろう。
「母が亡くなった。私が三十幾つか,幾つだったかな,まぁ,いいだろう。
私をこよなく愛してくれた母。葬式を盛大に行った。
組織のメンバーは,若いのまで参列した。取引のあった諸外国の連中,政府の役人,敵対する組織の連中もな。
母のために大きなホールを借り切った。
母を生前以上にきれいに化粧をして着飾らせ,義父を母の遺体の前に立たせて,参列者は入り口で記帳して,ホールに入り,義父の前を通り,母の遺体をくるりと回ると,私の前にやってくる。そして,挨拶をして出て行くという寸法だ。
一人の男が,母のために花束を持ってきたかったが,あいにくと,その時間が無かったと詫びを言いに来た。気の利かない男だった。だが,私は寛大な心で,気持ちだけでいいと言ってやった。そしたら,その男は,母の遺体の側に紙幣を何枚か置いていった。
するとだ,その後の参列者全員,同じ事をし始めた。最初は,母のまわり,そのうちに,母の体の上にまで,紙幣が山のように積み重なった。
皮肉なものだ,生前,あんなに貧乏だった女が,死んでから金持ちになるなんて。
金は,半分は母と一緒に棺に納めた。今頃,母と一緒に干からびている事だろう。
後の半分は,義父にくれてやった。」
そこまで一気に喋ると,老人は,大きく溜息をついて,目を閉じた。
「体力が低下している。死期が近いのが分かる。」
呟くと,そのまま眠ってしまった。