「境界者達」


闇が湿り気を帯びたと思う間も無く額に大粒の水滴が当たった。
丁度、瀬を渡り、いつもの洞窟まで後十分ばかしの所だ。
足を早める。
雨が降り始めると、この辺りの瀬はたちまち増水する。
急な狭い斜面を水流が走っているからだ。
町を見下ろせる高台で、少しゆっくりとし過ぎた事に後悔し始める。
深い秋の夕闇の中で、町の灯りを見ながら飲むウイスキーは最高なのだ。
それから森に入り、もう歩き慣れた獣道を通って瀬に抜け、水系を辿ってさらに山深く、今いるあたりまで足を進めてきた。
二時間ばかし歩いた。今、九時近くだろうか。
足元を照らす小さなヘッドライトだけが頼り、それ以外は、闇に覆われた世界だ。
闇への緊張で勘が研ぎ澄まされ、僅かの小動物の動きすら見えるような気がする。
この瞬間がたまらなく好きだ。
生きている人間には会わない。会えない。会えるわけない。
その事が、心を落ち着かせ、動きに自由な活力を与えてくれる。
人間社会では、こうはいかない。
人と人との間で、我が身を伏せ、隠し、自由に動く事すら規制してしまう。
昔からそうだ。
ことさら私に向かって人の思惑が激しく突き刺さってくるのだ。いわゆる対人恐怖症というやつだ。
人前では常に亀のように首をすくめている。
だから、他人から疎まれる事もないが、他人に慕われる事も少ない。
そのくせ、カウンセラーの仕事をしている。
自己防衛、論理武装のためだ。
市立病院のカウンセラー室に勤務し、入院患者や外来患者の抱えた心の問題に向き合う。
最近、経済成長率が鈍化し、リストラされた人々が増え、社会情勢が悪化する中で、心の病を抱えた人が増えた。
だから、月曜日から土曜日まで、ほぼ毎日毎時間、患者と会っている。
患者と会っていない時は、それまで一緒にいて話を聞いていた患者の事を思い出しながら、診察の結果をまとめている。あるいは、ソーシャルワーカー達と患者の退院後のケアについて打ち合わせたり、市の福祉事務所に出向き、退院後の患者の容態について聞き取りを行ったりしている。
本当は診察を受けたい側なのだが、他人を診る事で社会への適応を果たしていると言ってよい。しかし、これは本意ではない。
そのため、人と会う度に激しく疲れを覚え、疲れを癒すために土曜日の夜から日曜日にかけ、誰にも会わない時間を作るようになった。
最初は、一人で山に出かけたり、部屋に閉じこもったりした。
ふと気が付くと、家内は、他所の男と手に手を取って家を出てしまっていた。
それ以来、ますます人間嫌いに拍車がかかり、夜の山野を歩き回り、ある日山深くに見つけた小さな洞窟が気に入ってしまい、毎週末、そこで一人酒を飲み、夜を明かすようになった。
雨は、いよいよ激しくなってきた。
この時期、不安定な大気の影響を受け、いきなりの土砂降りが多い。
瀬はたちまち増水し、瀬から少し上がった所にある馴染みの洞穴の入り口近くまで水面が上がってくる事もある。
しかし、この空の不安定さ、嫌いじゃない。
どんよりと曇り始めたかと思うと、いきなり大粒の雨が落ちてきて、激しさを増し、視界すら奪われる。
押さえつけるような大気の渦。その氾濫。その過剰。
洞穴の中にいて、豪雨の飛沫を浴びながら飲むウイスキーを心に思い浮かべて先を急ぐ。
と、前方でいきなり火の手が上がった。
少し先、大きな岩を乗り越えたあたりにやや広めの河原がある。
どうやらそこらしい。
人がいるのか、こんな所に。
私は、唯一の楽天地を奪われた気分になる。
雨はさらに激しさを増し、火の手を鎮める。
おおかた、焚き火でもするつもりで火を点けたはいいが、雨に消されてしまい慌てふためいているのだろう。あの洞穴を見つけられなければいいが。
そう思いながら既に雨に濡れ滑りやすくなった岩場を乗り越える。
乗り越えた先、水量が倍に増えた流れに半身浸かった太い木の枝がヘッドライトの光の中に見えた。
人影は無い。
おおかた屋根を求めて森の中に入っていったのだろう。もう少し先まで歩き、大きい岩を目印にして斜面を登れば、そこに洞穴の入り口がある。
間口の幅二メートル程度、高さはようやく中腰で歩ける程度、奥行きは三メートルあるかないかの、いつ崩れてもおかしくない洞穴が、この世で唯一くつろげる場所なのだ。
どうやら見つかっていそうに無いので安堵する。
大きな木の枝をまたいで通り過ぎようとした時、何かがズボンの裾に引っかかる。
枝の一部かと思い取り除こうとして、そのまま体が動かなくなる。
枝と思えたのは、生き物の体の一部。ヘッドライトの光が激しい雨に拡散してよく見えないが、人間の手であるらしかった。
枝の幹は人間の胴体。頭は、顔を下にして水に浸かっている。
生きているのか、死んでいるのか。
動かないので、死んでいるのだ。衣服が焼け焦げてい、ガソリン臭さが残っているところから見て、焼身自殺をはかったようだ。
どうしようかと迷ったが、そのままそこに置いて行く事にした。
おっつけ水量がさらに増える。死体も下流に押し流される。誰かが見つけてくれる事だろう。
しばし手を合わせ、少し行き過ぎたところで、激しく咳き込むのを聞く。
背筋に冷たいものが走り、生きた心地がしない。
てっきり死人が生き返ったと思ったのだ。
死んでいるとは実は見誤りで、気絶しているだけだった。
顔を水につけていたが、気絶した後にうつぶせに倒れこんだので、水を飲まなかったのだろう。
私の足が、その人間の胴体を蹴ってしまったので、それで気がつき、水の中で激しくむせたのだ。
が、大火傷をしている事には変わりなく、俄かに体が動かない。もがきつつさらに水を飲み、激しくむせる。
放っておいては本当に死んでしまう。
慌てて駆け寄り、抱き起こしてやった。
咽喉の奥も火傷しているのだろうか、ヒューヒューと空気の通る音がする。
助け起こしたはいいが、さてどうするか。
雨がやんでくれればいいが、そのような様子は無い。水量はさらに増えている。このままでは、二人とも流されてしまうに違いない。かといって、見殺しにはできない。
雨はさらに激しさを増す。
ヤッケを脱ぐと、それで人間の体を上体が起きるように軽く結わえ、水の浮力を利用して、洞穴まで運ぶ事にした。
思ったほどに楽ではなかったが、どうにか洞穴の入り口の下まで運んでくると、後は力任せに斜面を引き上げる。
雨で地面がぬかるんでいる。何度も滑りながら何とか運び上げた辺りで、瀬は既に激流と化し、水の激しく逆巻く音が下から響きあがってくる。それが、雨の音に掻き消される。
全てが、水に覆われ、高い湿度と轟音の中に溶けて行くようだった。
洞穴の奥に人間を寝かせ、以前に宿泊した時に集めておいた木切れに着火材で火をつける。
さらにリュックから乾電池式のカンテラを取り出し、灯りをつけた。
そこで初めて、自分が運んできた人間の全容を見る。
男である。
髪の毛は焼け焦げ、顔は皮膚が引きつり膨れあがっている。衣服は焼けて、体の一部に張り付いていた。呼吸をするたびに咽喉の奥からヒューヒューと音がする。
どう見ても、救急処置を行わないと助かりそうにない。
しかし、そのような技術も知識も無い以上、雨がやんで、瀬の水が引き、下山出来るようになるのを待つしかない。
男の口から不明瞭な音が洩れ出た。
耳を近づける。
辞世の言葉なら聞き取ってやらねばならない。
「なぜ」
と、男は言っているらしかった。
「なぜ、助けたんだ。」
「喋らないほうがいい。」
「死なせてくれないか。」
「その事は、朝が来たら考えよう。」
男がフッと軽く笑ったように思われる。
雨はさらに激しさを増す。
飛沫が洞穴の奥にまで入り込んでくる。
電池がもったいないので、カンテラの灯りを消す。
代って光ゴケのぼんやりした灯りが見える。
小枝が火の中ではぜる。
男の腕が、何かを求めて体の周囲に伸ばされる。
「どうした、水か?」
「俺の、荷物。」
「荷物?」
気付かなかった。
男は荷物を持っていたのだ。
それは持って来なかった。
気付いていたとしても、持っては来れなかっただろうが。
男が立ちあがろうとするが、すぐにあきらめた。
「燃やしてくれないか、俺の荷物。」
「それを燃やしたかったのか。」
「俺ごとな。」
男の荷物は、おそらく既に激流に飲まれている。
壊れるようなものならば、岩にぶつかって粉々だろう。
そのことを伝えると、安堵の表情を浮かべたが、
「もし、形あるままで何処かで見つかったら、壊してくれ。」
「何なんだ、それは。」
「それは言えない。」
「だったら見つけられないな。」
男は、その言葉に諦めたように
「足だよ。」
「本物の?」
「まさか。義足だ。」
「君のか。」
「いや、ある女の義足だ。」
そう言うと、大きく息を吐いた。
そのまま暫らく黙っている。
雨は一向に小降りにならない。
激流の音が洞穴の中にまで響いている。
男が奥を陣取っているので、私は入り口の近くにいて、土砂降りの飛沫でヤッケがぐっしょりと湿っている。
男は、もう何も喋らない。
が、生きているという証拠に時折くぐもった声でうめく。
ひどい火傷を負っている筈だ。苦しいに違いない。
カンテラで洞穴の外を照らしてみる。
暗くて全然見えないが、音だけを聞いていると、激流は洞穴の高さにまで近付きつつあるように思える。
このままだと二人とも逃げられない事になる。
「まずいな。」
口に出して言うと、男がそれに反応した。
「俺が邪魔なら置いて行ってくれ。」
それには答えずにいると、
「何度か死に損ねた男だ。死ぬのは、ちっとも怖くない。」
「心配するな、助かるよ。」
しかし、火傷の具合がどうにも尋常では無さそうだった。
口を開け、低くうめく。
暫らくそうした後、
「いい女だった。」
と呟く。
「誰が?」
「俺を殺そうとした女だ。」
「君を?」
「ああ。あの女は、最後に俺を殺そうとした。だから、先手を打った。だが、心底惚れていたよ。」
「義足の持ち主か?」
「そうだ。いい女だった」
それから、しばらくすると、搾り出すように言葉をつなぎ始める。
「あれは、会議の最中だったな。
俺は気分が悪くなって、会議を抜け出た。議事進行するリーダーの俺がだ。」
そして、何がおかしいのか咳き込みながら笑っているらしい。
「大丈夫か。苦しいなら喋らないほうがいい。」
「思い出してるんだ。嫌なら聞かなければいい。
たまにあったんだよ。」
「何が?」
「いきなり気分が悪くなる。そう、視野狭窄ってのがどんな病気かは詳しくは知らないが、突然、視界が狭くなるんだ。視野狭窄ってのは、そんな病気だったよな。」
「知らない。」
「そして、呼吸がしずらくなる。首の周りに何か重い輪っかを嵌められたみたいに。冷汗がでて、ワイシャツがじっとりと湿った。
― 尾形室長
と、部下の一人が声をかけてきた。尾形室長とは、俺の事だ。」
そして、また咳き込みながら笑う。痰が詰まっているようだ。
火傷をしていなければ、起き上がらせて背中を叩いてやりたいような咳の仕様だ。
「― 顔色が悪いですよ
と、そいつが言う。議事進行役の俺が苦しそうに黙っちまったんで、心配してるように言うが、実は俺がいなくなればいいと思ってるんだ。」
「何の話なんだ。」
「ふん、つまらない企業人間の生態さ。俺は、情報システム室の室長だった。その前は、営業本部長だった。分かるか。この事が。」
「いや、話には聞くが、俺には現実的じゃない。俺は、カウンセラーだ。」
「そりゃ幸せだ。他人との嫌なせめぎ合いがなくていい。」
「そうでもない。カウンセラーは、白衣を着て先生と呼ばれるが、医者じゃない。きちんとした国家資格がないんだ。なんだか、つまらないもんだよ。」
「林田と言う。」
「誰だ。」
「俺の部下だよ。林田と言うんだ。本当なら、そいつが室長の椅子に座る予定だった。座る筈の椅子に、俺が落ちてきた。落とされたんだ。分かるか、この比喩が。椅子取りゲームのライバルが頭の上にいるとは、誰も思わない。」
退屈な一夜になりそうだと思った。
こんなつまらない話を聞くために、はるばる夜の山中を彷徨ったわけではない。
何故、こんなつまらない男が目の前にいるんだと、段々腹が立ってきた。
そのくせ、口をついて出る言葉は、
「なかなか興味深い話だな。」
「俺は、将来を嘱望されていた。それが、追い落とされた。最も信頼していた男にだ。」
「それは残念な事だ。」
残念なのは、こっちだ。
「それからだよ、そんな風に視野狭窄みたいになって、辺りが見えにくくなって、冷や汗が出る。」
「血圧は?」
「なんだ?」
「その時の血圧は?」
「計った事がない。」
「今度、血圧を計ってもらうといい。」
今度?この男に今度は、あるのか?
男が、こいつは何を言うんだという目でこちらを見る。
期待した回答を返さないと、殆どの人間がこんな目をする。
彼は、健康相談所や診療所に来てるわけじゃないのだ。血圧なんて、どうでもよかった。
「話の腰を折ってすまない。」
「いや、いいんだ。」
そして、しばらく黙り込む。
このまま静かに眠ってくれてもいい。いや、そうしてくれと心底願ったが、
「― 少し退席させてもらう。」
と、さらに言葉をつなぐ。
「そう言うと、林田は、
― あまりご無理なさらないように。議事はこちらで進めておきます。
一見、人の事を慮る、いい男に思えるだろ。
そんな奴ほど気をつけるがいい。
― 頼む。
林田に、そういい置いて、会議室を出、後ろ手にドアを閉めた。
背中で林田の声が聞こえる。
― まいっちゃうよな。うちは病人抱え込む余裕なんかないぜ。」
「何て奴だ。」
再び心にも無い言葉が飛び出す。
自分が今、まさに、目の前に火傷を負って寝ている男に対して言いたい言葉なのに。
「そう言うもんなんだよ。いずれ奴も誰かから同じようなしっぺ返しをくらうんだ。
そう言うもんなんだ。
ドアの反対側は前面ガラス張りで採光がよく効いており、本当は明るい筈の廊下に出ると、さらに視野が暗くなる。冷汗がポタポタと廊下に落ちるのを見ながら、苦しみにじっと耐え続ける。
― どうされましたか、尾形室長。
ふと見上げると、長身のすらっとした女だ。
― 君は、
と言いかけて気が遠くなった。倒れ込みながら、俺は、その女の乳房を鷲掴みにしていた。」
そして、つらそうに溜息を漏らす。
「いい乳房だった、あの女の乳房は。丸くて張りがあって。」
また、しばらく沈黙する。その女の事でも思い出しているのだろう。
「あんたは、何をしてたんだ。」
その男に対して湧き出で始めた興味を抑えられずに声をかける。
「俺か?」
そう言って、その男が口にした企業の名前は、都心の一等地に大きな本社ビルを構える、従業員数三千人規模の大企業だった。
お前は何者なんだと聞かれて会社名を答える奴ほどつまらない奴はいないと言う、常日頃の教訓を忘れ、
「で?」
と、先を急がせたのは、倒れる瞬間に女の乳房を鷲摑み、その事にせつない溜息を漏らした男のどこかに人間的な共通項を見出したからかも知れない。
「大学時代にアメリカに留学し、MBAを取得し、その会社に営業マンとして入社した。数々の成績を収め、経営畑にも明るく、押しも強い営業マンとして、将来を嘱望されていた。」
「で?」
そんな事はどうでもいいんだ。
「アメリカに企業買収のサポート要員として長期出張中に事故は起こった。」
「事故だって?」
「ああ、不遇な事故だった。それからだよ、俺の人生が曲がって行ったのは。」
「どんな事故なんだ?」
男はしばらく目を閉じている。
「香織と言った。」
「何だ?」
「女の名前だよ。藍野香織。」
そして、また咳き込みながら笑う。
「何の冗談だか。
本人は、嫌がっていたな、その名前を。
勿論、廊下での出来事が、香織と俺の最初の出会いじゃない。
美人で頭のいい香織は社内で評判だったし、彼女は、役職者の名前を一応全部知っていた。
ただ、それまでは互いに見知っているという程度の俺と香織の距離を近づけた出来事だったよ。
医務室から戻った俺に林田が近づいてきた。さっきの言葉とは裏腹な笑みを浮かべてな。
― 大丈夫でしたか、尾形室長。本当に、心配しましたよ。
嘘をつけと心で思ったが、一々そんな事に突っかかっていたんじゃサラリーマンは、やってられない。
― ああ、大丈夫だ。会議はどうなった?
俺も穏やかな口調で笑みを返しながら尋ねた。
― ええ、今後のネットワーク社会を前提にして、データベースの再構築が必要であると、上申する事で一致しました。今後は、これをより具体的に肉付けして行きます。
ふん、データベースだと。」
「それが、あんたの仕事なんだな。」
「営業畑の俺に、奴らがやろうとしている事はわかるが、具体的に何をどのように進めるのかなんて、わかるわけもない。
林田は、どうだチンプンカンプンだろうと言わんばかりに、俺を見下ろした。
― よろしく頼むよ。上へのフォローは万全にするから。
奴は、全て奴が書いた提言書を俺の机の上に置き、勝ち誇ったように自席に戻っていった。
他の連中は、俯いたままさ。ここでのボスは奴だ。奴に逆らえば仕事ができなくなる。
よく知ってやがるんだ。
俺は、心中歯をギリギリ噛締めながら提言書のページを開く。
と、そこにやって来たのは、例の女。香織だ。
― 尾形室長、大丈夫ですか。
そう声をかけてきた。
彼女は、専務の芥川に言われて俺を呼びに来たんだ。
― 一緒にいらしてください。
彼女の後についてエレベーターに乗り込む。
彼女は、さっき、俺が彼女の乳房を鷲摑みにした事などおくびにもださず、にこやかに微笑んで、
― あまりご無理なさらないように。
と言った。
俺は、無意識に延ばしかけた腕を引きとめた。
彼女は、香織は、確かにその俺の腕を見た。彼女の胸に再び延ばされようとした俺の腕。ちらりと視線を走らせ、あえて無視してくれた。」
そこまで言うと、再び溜息をつく。
「すまないが、水を飲ませてもらえないか。」
水筒の蓋をコップ代わりに、水を口に含ませてやる。
「体が熱い。」
「火傷しているからな。」
「そうだ、義足を焼くためにオイルをかぶったんだったな。」
「何故、そうまでして義足を。」
「愛だよ。分からないだろ。分かってくれなくてもいい。」
「女は、死んだのか?」
「ああ。」
「殺したのか。」
「まぁ、焦るな。
どこまで話したっけ。
そうだ、専務の芥川に会うところだったな。
― また、倒れたらしいな。
俺が部屋に入ると、向かいの重役椅子にどっかりと座って、芥川がそう言って、俺の目を覗き込む。相手に何かを仕掛ける時の癖なんだよ、これが、奴の。
― もう、具合はいい筈じゃなかたのか。あれから随分たつ。
まだ、二年です。と、俺は言い返した。
一年立とうが、二年過ぎようが、あの事が当事者に及ぼす影響は、計り知れない。それ程の事件だった。」
「事件?事故と言わなかったか?」
「事件でも、事故でも、どちらでも同じだ。
― いい加減に気持を切り替えられんのか。
こいつとアメリカにいる時に俺は、あの事件に遭遇した。そう言う意味では、俺の今に至る状況をつぶさに知っている男だ。」
「その男に裏切られたのか?」
「裏切られる?
見捨てられたと言った方がいいだろう。
誰かが、俺の事件を社内で洩らした。行く先々で俺の情報が洩れた。誰がやった?
芥川、この男かも知れない。だが、証拠が無い。
俺は、芥川に教育された。営業マンとして育ててもらった。
アメリカに長期出張したのも、企業買収の陣頭指揮をとっていた芥川に呼ばれたからだ。
芥川は、俺の事を買っていた筈だ。
ただでさえひどい精神的ダメージを受けていた俺を、誰かが仕組んだ仕打ちが、さらに追い討ちをかけた。
俺は、精神的に不安定になり、時には攻撃的に、時には、逆に自暴自棄にまで陥った。
まともに仕事が手につかなくなった。海外事業本部長の俺が仕事も出来なくなったら、たちまち、その組織は機能しなくなった。だから、芥川は、俺を情報システム室に引き下がらせた。それで、俺は、ますます不安定になった。
そんな状況下の俺を、芥川の言葉が、さらに追い落とす。
― 中国企業との業務提携の話を知っているな。
ええ。
― 現地に派遣した監督係が一人自殺したのを知っているか。
いや、知りません。
― 人が足りないんだ。経験豊富なマネージャーが。
私に行け、と。
― うむ。
考える余裕は?
― 無い。ただし、定住は半年後でいい。それまでは、何度か往復して、現地の体制を立て直して欲しい。君んちは子供も、まだいなかっただろ?向こうで子供を持てば、日本語、英語、中国語の堪能な子供に育つよ。楽しみだな。
そう言って、芥川は笑った。目は、笑っていなかったがな。」
「断ればいいのに。」
「サラリーマンはな、基本的に上の言葉を断れないんだ。断る時は、代替案を持っている時か、胸に一物隠している時だ。」
「何も、その会社だけが全てじゃあるまい。」
「いいか。結婚して二十年もたてば、親と暮らすより伴侶と暮らす時間の方が長くなる。同じように、会社に十年もいれば、伴侶といる時間より会社にいる時間の方が長くなるんだ。」
「そう言う事か。」
俺には分からないと言いたかったが、抑えた。
「それよか、あんたの家族は?」
「女房だけ。子供は、いない。
女房は、その日、つまり芥川に俺が呼ばれた日だ、もう飲んだくれて眠っていた。
あの忌まわしい事件以来、一度もセックスしていない。
お互いに、それとなく避けるようになった。俺も、帰宅した時、先に眠ってもらってた方が、気が楽だった。日曜日でも、互いに顔を合わせたくなかった。
だから、別々の部屋で寝ていた。幸い、物置代わりにしていたもう一部屋があって、そこが俺の寝室だった。
俺がそこを寝室として使うようになってから、掃除機すらもかけられなかったが、そのような事は、気にしない。
実はな、俺には、もう一部屋秘密の部屋があったんだ。
自転車で二十分ばかし離れたところにある文化住宅のようなアパート。学生や日雇いが住人の大半の六畳一間のアパートだ。女房には内緒で借りてあった。近くの駐車場には、中古の軽四も用意していた。
そこが秘密の隠れ家だった。
隣は学生で、女の子を連れ込んでよろしくやっていた。薄い壁を通して、声がもろに聞こえてきた。
俺は、その部屋で鬘と付け眉毛を取った。」
「鬘?付け眉毛?」
「事件が精神的に与えた負担は莫大なものだった。一年ばかり、療養とリハビリテーションのための入院を必要とした。
病院から出てくると、俺の体毛という体毛は真っ白になっていた。
だから、目立つ部分だけでも剃り落とし、普段は鬘や付け眉毛をしていた。」
「じゃあ、その頭は、焼け焦げたわけではないのか。」
「ヤッケのフードを被っていたからな、おおかた溶けた化繊が貼り付いているんだろう。」
「必要以上にひどい火傷に見える。」
「そうか。まぁ、起き上がれないくらいなんだから、ひどいは、ひどいさ。
だが、不思議なもんだな。あまりにひどいと、痛みも薄れる。」
「朝まで待てば、雨もやむし、水も引く。助かるさ。」
「いや、駄目だな。自分でわかる。体力が、どんどん失われていく。」
「だったら、喋らずに、じっとしてたらどうなんだ。」
「それができないんだ。怖いんだよ、死ぬのが。喋ってないと、知らないうちに逝ってしまいそうで、喋っていたいんだ、迷惑でなければな。」
「迷惑じゃない。俺も、横で息引き取られるのは趣味じゃない。」
「そうか。恩にきるよ。
俺は、鬘と付け眉毛を取り、ついでに陰毛と足の毛を剃った。何故だと思う?」
「わからない。」
「すまない。愚かな質問だった。わかるわけないよな。
俺は、素っ裸の上に、黒い皮のつなぎ服を着た。ライダーがよく着ているやつさ。
毛糸の帽子を目深に被る。」
「銀行強盗でもやるのか?それともチンケなコンビニ強盗か。」
「もっとチンケな事だよ。
自分のプライドを守るために人を傷つけに行くんだ。
わかるか?
俺は、あの事件でプライドをズタズタにされた。人間としてのプライドをね。
それを少しでも取り戻しに行くんだ。」
「どんな事件だったんだ?そろそろ話してくれてもいいだろ。」
男は、俺の問いには答えずに、
「『夜と霧』という本を読んだことがあるか?」
「いや。だが、必読書にはなっていたな。」
「ナチスドイツによって、収容所に送られ、九死に一生を得たユダヤ人の心理学者の書いた本だ。収容所での微妙な心の動きが克明に描かれている。ナチスドイツの残虐を描いた記録書としても、非日常的な状況下での人間の心理を描いた心理学的な書物としても、非常に興味深い。
その中で、収容されているユダヤ人が自主的に組織を構成する話が出てくる。
捕虜となったユダヤ人達は、あろうことかナチスドイツが管理しやすいように自主的に組織を構成し、なおかつ、その上層部の連中は、ナチスドイツと同じような行動を取り始めるんだ。これが、どう言う事かわかるか?」
「先程からわからない質問ばかりが続く。」
「奴らは、一部の精神的に弱い奴らは、自分達を抑圧する相手を模倣することで、自己防衛を図ろうとするんだ。これは、日本軍がシベリアに抑留された時にも見られた現象だ。
人間とは、所詮、その程度の弱い生き物だ。本来なら、もっと早々と滅びてしかるべき草原に追い立てられた類人猿なんだからな。
で、ここで大事なのは、俺も同じなんだって事なんだ。
俺も、自分が味わったのと同じ苦しみを他人に味合わせることで、自己防衛し、一時的なカタルシスを得る。
俺がやった事は、つまり、強姦だ。」
「何だって?」
「俺は、三十人近い女を強姦し、女達の写真を大量に残した。写真を残したのは、警察に駆け込まないように脅すためだ。わかるな。」
「ますます混乱する。話が唐突だな。どうして、強姦が自己防衛なんだ?」
「これだけは誤解しないで欲しい。快楽が目的ではない。自己防衛が目的なんだ。」
「結果としては、同じことだろ。」
「そうか、そうだな。」
「許されることではないだろう。」
「お前も、俺と同じ目に会えば、きっと同じ事をしていると思う。」
「例えそうであったとしても、俺は、お前じゃない。」
「ふん、何とでも言うがいいさ。お前が同じ苦しみを味わってなお、そのように人を責める面ができるかどうかだな。」
「仮定的発想は好きじゃない。」
「興味が無いなら聞かないでいい。俺は、勝手に喋り続けるだけだ。」
「人の自由を阻害するつもりも無いさ。」
「ふん、そうか。
じゃあ勝手に喋るが、目ぼしい女を見つけると、後をつけるんだ。目ぼしいとは、身持ちが固そうで、それでいて、他人の目を意識していて、他人への依存心の強そうな女の事だ。わかるか、この三つが条件として備わっていないと、リスクが大きくなるだけなんだ。
身持ちが固いくせに他人の目を意識してるって事は、内心の欲望を抑えているって事なんだよ。そこにセックスに対する強い罪の意識が生まれる。そして、他人への依存心が強いって事は、予想できない事態に遭遇した時に、自己の判断をすぐに放棄し、状況に身を委ねてしまいやすいって事なんだ。つまり、こちらも荒っぽい事をしなくて済むわけだな。そして、泣き寝入りしてくれる可能性が高いって事だ。
後をつけて、その女が一人暮らしなら、まず第一関門クリアだ。」
「そうでなければ。」
「次の女を探す。なに、ウィークエンドの昼日中、街へ行けば女なんか掃いて捨てるほどいる。
一人暮らしでも、オートロック付きで、外部の人間を完全にシャットアウトしているマンションの住まいなら、これも諦める。
狙いは、オートロックなんだが隙があるマンションだな。例えば、裏階段から容易にアクセスできるとか、人の出入りが激しくて、誰が住人だか分からないようなマンション。
アパート住まいってのならば、なおいい。
鍵が単純で、合鍵を作りやすい。」
「合鍵なんか作れるのか。」
「蛇の道は蛇、だな。金さえ出せば作ってくれる。わざわざ、鍵のタイプを見に行ってくれもする。自分がこしらえた合鍵で、どんな悲惨な事が発生してるかなんて事には、そいつらは興味なんかないんだ。ちゃんと使用できる合鍵を、どれだけ短時間で作れるかが、奴らの興味の全てなんだ。奴らにかかれば、オートロックさえ難無くすり抜けられる。
だが、さすがにそれは高くつく。
さて、女のタイプもクリア、住居もクリアした。次は、その女の生活習慣だ。何時に家を出て、何時に帰宅し、部屋で何をして、何時に寝るのか。全てを記録する。」
「手の込んだ事だな。」
「当たり前だ。衝動的な行動は、危険を大きくするだけで、何らのカタルシスも生まない。それができるのは、自己破壊者だけだな。自己破壊者は、カタルシスではなく、エクスタシーのみを求める。」
「あんたのやり方、かえってストレスを生みそうな気がするが。」
「そこから派生するストレスを楽しんでると言ってくれ。」
「結果は同じ事なんだろ。」
「美学と哲学だよ、大事なのは。」
「わからん。」
「いいさ。
俺は、その女の部屋に忍び込む。素っ裸になる。そして、じっと待つんだ。」
「獲物をか。」
「そうだ。」
「狩るのか。」
「引き裂くんだ。」
俺は、息を呑む。
男は、その俺の反応を楽しんでいた。
咳き込むように弱々しく笑う。
「真っ暗な部屋で女が帰ってくるのを待つ。そして、電気をつける瞬間に押さえ込む。
あるいは、電気をつけた所に、真正面から現れる。顔を見られたっていいさ。どうせ、他所で俺を見たって分からないんだからな。
たいてい、女は体を硬直させる。そりゃ、びっくりするさ。いきなり、体毛のいっさい無い宇宙人か、妖怪みたいな男が、素っ裸で現れるんだ。首から上だけでも結構不気味だろう。」
「恥を知るべきだな。」
「その言葉は、お前が強姦された後に聞いてやろう。」
「何だって?」
「まぁいい。びっくりした女は、俺の言う事を忠実に聞いてくれる。一種の催眠状態みたいなもんだ。
まず、部屋の電気を消させる。まぁ、せめてもの救いだ。俺の、女に対する優しさだよ。
次に、裸になる事を命じる。後ろを向かせる。後ろ手に紐で結わえる。ベッドか蒲団の上に腹ばいにし、お尻を高く上げさせる。そして、俺は、いきり立った俺のモノにワックスを塗り、おもむろに女のアナルに突っ込む。」
「狂ってる。」
「その瞬間だけなんだよ、俺が、俺自身を抑圧する俺自身の幻影から逃げ出せるのは。
射精する事が目的なんじゃない。女のアナルに回帰する事なんだ。そこにこそカタルシスが生まれる。何故そうなのか。何故そうするのか。それは、俺だけが知っている。」
「そりゃ、誰も理解なんかできないだろう。」
「うむ。俺は、その瞬間だけ、俺を抑圧するものにすりかわるんだ。俺に犯されている女が、俺なんだ。こう言えば、少しは理解できるか?俺は、抑圧された俺の代替を見下ろしながら、俺を抑圧するものになり、抑圧するものの目で俺である女を見る。俺は、抑圧しながら、抑圧された俺を楽しむんだ。」
「もう、止めてくれ。あんたが、まともな人間じゃない事がわかったよ。」
「何を基準にして、まともとそうでないのとを切り分けるかだな。」
「雨に降り込められた洞穴の中で、そんな擦り切れてしまった議論をあんたとするつもりはない。」
「さにあらん、だ。この社会は、もはや狂人を受け入れる余裕さえも失ってしまった。」
「今に始まらない。いつの時代でも、そうだ。」
「お前は、アメリカのショッピングモールのトイレに言った事があるか。」
唐突な質問に面食らう。
「いや。」
「閉店前の人気の無いトイレだ。
場所にもよるのだろうが、俺がよく利用していたショッピングモールは、サンディエゴ近くの広大な敷地の中にあった。とにかく、日本の常識では考えられないくらいに広かった。
近くに大規模なベッドタウンを持っており、日中はさすがに人出も多かったが、夜の九時を回り、閉店間際になると、人気も途絶え、慣れない者にはちょっと不気味な場所になる。特にトイレ。
ショッピングモールのメインストリートから重いドアを開き、トイレに向かう通路に出る。人気は全く無い。従業員通路のような薄暗い味気のない通路が、トイレまでただ延びているだけ。トイレの中も勿論、誰一人いない。慣れてなければ、絶対に使わない。滞在しているビジネスホテルまで我慢するだろう。滞在三ヶ月目だった。だから、不用心になっていた。それに、昼間に食った魚介類が腹に来ていた。緊急の用があったわけだ。
俺は、トイレに座り込むと一心地ついた。
向こうから重い足音がやって来るのが聞こえた。
安物のゴム底のズックとリノリウムとが擦れ合う時の乾いた音が、通路の中に反響していた。
やがて、トイレの前でとまるとドアが開き、足音はトイレの中に入ってきた。気持ちビッコを引いていた。
アメリカの便所は上と下が大きく開いている。背の高い男だとドア越しに目が合うこともある。
その男も結構背が高かった。縮れた頭髪が、ドアの上にのぞいた。
俺の入っているボックスの前で一度は足を止めかけたが、すぐに通り過ぎた。
足音が消えたと思った瞬間、ボックスのドアに、外から強烈な力が加わった。ネジで止めてある鍵の金具が半分ばかし浮き上がった。
俺は、びっくりして、おいとか、何とか声を上げたと思う。
そして、再度ドアが激しく揺れ、戸板が目の前に飛んできた。
何が起こったのか全く理解できないでいる俺の上体が戸板ごと持ち上げられ、うつぶせにされ、ちょうど便器を抱きかかえるような具合になった。戸板は、どこかに投げ飛ばされていた。
耳元で低い笑い声が聞こえた。
― いい事しようぜ、ベイビー。
そいつが言った。
大便器の水流が、すぐ鼻先にあった。起き上がろうともがいたが、後頭部をがっしりと押さえ込まれ、全く無力に便器に顔を突っ込まれた状態だった。鎖骨が何かにあたって、激しく痛んだ。が、それ以上の痛みが、次の瞬間、俺の肛門を襲った。」
「肛門だって?」
「ああ、メリメリと音を立てて引き裂かれているに違いないと思った。わかるか。
エロ小説やエロ漫画の世界じゃぁ強姦された女が、やがて感じはじめ、エクスタシーに達するなんてストーリーもあるが、あれは、完全に男の側の欲望の論理ででっち上げられた世界だな。若くて血の気の多い頃、喧嘩をして、組み伏せられて何度も殴りつけられた経験があるが、あれよりもひどい。肉体的な痛みもひどいが、プライドというプライドがすべて踏みにじられるんだ。その痛みときたら、どう表現すればいいんだろう。あまりの痛みに、その時はすべての感覚が麻痺する。後でじわじわと痛み始めるんだ。胸かきむしられるようにな。その時にな、はっきりとわかるんだ。すべてのプライドが崩壊してしまった事を。その痛みをな。
しかし、その時、まさにその時は、嵐が過ぎ去るのをひたすら待つ。今のように。
長い長い、終わりのない忍耐の時間。
奴は、俺の背後で荒い息を吐きながら、体を動かす。
うう、ああ、うおー。」
いきなり、男が吼え始めた。
「どうした。具合が悪くなったのか。」
男は、しばらく激しい呼吸の中で沈黙を続ける。
「具合が悪い?
ふん、具合なんか、とっくに悪いよ。いいわけがない。
あの屈辱を思い出したんだ。
奴は、いいか、よく聞け、奴は、奴のペニスを俺の肛門、いや肛門だった所に突き立てて、腰を動かしながら、その快感に酔いしれ、やがてエクスタシーに達し、感極まった声を上げたんだ。
俺が、汚水の中に顔突っ込まれ、思うように息もできず、激しい裂傷による肛門の痛みにも麻痺してしまい、早く終わってくれ、命だけはとらないでくれと、念じている間にだ。
奴が体を動かすたびに、鎖骨に便器が食い込んだ。
汚水がピチャピチャと音を立てて揺れた。
ううー。ああ。」
「あまり興奮すると、火傷によくない。」
「火傷?そうか。いや、いいんだ。俺は、もう命の終わりを感じている。命を終わらせたいんだ。最後だからこそ、お前にこんな話を聞かせてるんだ。」
「大丈夫だ。助けてやる。雨も少し小降りになってきた。ほんの少しだがな。」
「やがて、奴は、俺の直腸の中にザーメンをぶちまけ、体を離した。
俺の下半身は、痛みで完全に麻痺し、動くこともできない。
― ...........だぜ、ベイビー。
意味不明なスラングで何かを耳元で囁くと、出て行った。
俺は、便器から崩れ落ち、誰かが来てくれるのを待った。
助けられたのは、閉店後の清掃時間だ。
清掃員が、下半身から大量に出血して横たわっている俺を見つけ、救急車を呼んだ。
救急車の中で、臀部に、肛門に、応急処置を受けながら、俺の意識は遠のいていった。」
「助かったんだな。」
「だから、ここにいる。」
「よかった。」
「よかった?何がだ。何がよかったと言うんだ。」
「命あったればこそだろ。」
男は、目を閉じ、深く呼吸した。
一時小降りになったと思えた雨は、再び激しさを増し、俺の袖は、すでにぐっしょりと水滴らせていた。
防水スプレーの効果ももうすぐ切れるなと、男の話とは、全く無関係な事を考えていた。
「やはり、誰にも喋るんじゃなかったか。
確かにな、理解しろという方が難しい。
特に、その後の悲劇。
いや、喜劇と言っていい。
喜劇だよ、あれは、たしかに。」
「そうまで卑下しても仕方無いだろ。」
「俺の肛門は、裂傷のため、見るも無残な血みどろの穴と化していた。
まずは、その縫合と整形が必要だった。一時的に大腸からチューブを出し、それでウンチをした。一日をベッドの上で過ごすのも、うつぶせのまま。縫合の跡が痛んで、眠れない日が続いた。例え眠れても、すぐに叫びとともに目を覚ます。
夢の中に出てくるんだ。その男が。顔もわからない男。そいつの荒い息が。
あるいは、目の前に飛んでくるトイレの戸板。
便器の中の汚水の揺れ動くさま。
次にやり切れぬ屈辱の痛みに襲われる。
俺は、歯軋りしながら、それに耐える。
もっと悲惨なのは、看護婦や看護士にガーゼを換えて貰う時だ。
パジャマのズボンをずり下げられ、臀部を人前に晒す。のみならず、腰の下に枕を二つばかし突っ込まれ、臀部を突き出し、肛門を見やすくするんだ。その時点で、俺のなけなしのプライドが瓦解していく。冷や汗がうつぶせになった俺の枕を濡らす。
看護婦か看護士が、一枚ずつ丁寧にガーゼを剥いでいく。
血まみれのガーゼが、ベッド脇の金盥に放り込まれる。
なぁ、その時の看護婦や看護士の顔。俺には見ることができなかったんだが、奴ら、軽蔑の眼差しで見ていたに違いない。」
「それは、被害妄想って奴だよ。」
「いや、救急車の中で応急処置をされている時、確かにあざ笑う声が聞こえたんだ。
警察が取り調べに来た時もだ。奴らは、うつ伏せに寝ている俺を上から覗き込んで、その時の状況を根掘り葉掘り聞いた。ニヤニヤ笑いながらな。」
「見えたのか?」
「何が。」
「警察官のあざ笑っている顔。」
「見えなくても、声の調子でわかる。
奴らは、あざ笑っていやがった。
何を好き好んで、あんな時間にあんな所にいたんだ、と。
客引きでもしてたんじゃないのか。
もしかして、ホモ相手の男娼をしてるんじゃないのか。
地元の人間ならば、確かにあんな時間にショッピングモールのトイレには近づかないだろう。
日本が安全な国で、それでつい油断してたんだ、などと話しても、その安全さを経験してない連中なので、ピンと来ない。
あの時間帯に、あの場所に一人で出向く奴は、何か魂胆があっての事に違いないと、奴らは、つまり、警察官も、救急隊員も、医者も、看護婦も、看護士も、みんなそう思っていたんだ。犯人も、そう思って俺を襲ったんだろう。
そんな所に足踏み込んだ俺は、そういう趣味の男か、どうしようもなく馬鹿な男かのどちらかなんだ。
学生時代にアメリカ留学している時は、確かにその事が頭にあった。
日本に帰国して、会社勤めをし、幸せな結婚をするうちに、そんな事は忘れ果てた。平和呆けってやつだ。
だから、変な趣味の男でもなく、馬鹿でもない俺は、最後の最後に残った細い細いプライドの糸を、毎晩、毎晩、悪夢にたたき起こされるたびに、冷や汗の中でかろうじて繋ぎ止め、必死にすがりつき、歯を食いしばって耐えた。悔しさと共にな。
一週間もしないうちに体毛という体毛が真っ白になった。
歯を食いしばりすぎて、顎がガタガタになった。
しばらく、固形物が食べられなかったくらいにだ。
その時に崩壊したプライドは、今もそのままだ。
人の視線の中に、常に俺を嘲笑する視線を感じるんだ。
それが、仕事にも影響を及ぼした。人とコミュニケーションが取れなくなった。その欲求が湧いて来なくなったと言ったほうがいい。人の視線から逃げるようになった。
勿論、夫婦関係にも影響を及ぼした。
三ヶ月ばかりの出張だからと、単身で渡米していたが、俺の事故を聞きつけて、女房がやってきた。
傷が癒え、リハビリも終え、精神的にも何とか外に出られるようになるまでの半年余り、本当に献身的に看病してくれた。
医者や警察から俺の事故のあらましを聞き、相当なショックを受けただろうが、そんな事はこれっぽっちも表情に出さずに、尽くしてくれた。ありがたかった。
退院して、しばらくしてから、俺は女房と久しぶりにセックスをしようとした。
できなかった。勃起しないんだ。
あんなに愛しんだ女房の体に、性欲すら感じなくなっていることを、その時初めて知った。
何と言うか、以前は、つまり、あの事故より前は、女房は自分の分身のように愛しかった。女房の体の隅々まで愛撫した。女房の出す歓喜の声に、俺自身も燃え上がった。
ところがだ、その愛しい肉体に、唇這わす欲求すらわかないんだ。
女房も、いろいろ試してくれた。娼婦まがいの事までしてくれた。
女房とは、アメリカ留学時代に知り合った。医者の娘。お嬢さんだ。
セックスは、正上位でしかした事がなかった。その彼女が、卑猥な下着をつけ、娼婦のように振舞った。
だが、一度消えた火は、燃え上がらない。
やがて女房は、欲求不満を酒に逃げるようになり、アルコール依存症になった。
今じゃ、俺とは口もきかない。
まぁ、俺が帰宅した時には、飲んだくれて寝ている。
休みの日は、女房が起きだす前に俺が外出する。獲物を探すためにな。」
「そうだ、お前は強姦魔だった。」
「まぁ、もう少し俺の屈辱の話を聞いてくれ。
会社で、俺の身に起った事を知っているのは、当初、専務の芥川だけだった。
― 今回の君の身に降り掛かった出来事は、私の胸にのみとどめて置こう。だから、安心して治療生活に専念してくれ。
奴は、そう言った。
だが、病院を退院してアメリカ支社に顔を出すと、ほぼ全員が知っていた。面と向かっては何も言わないが、裏に回るとひそひそと俺の話をしていた。日本に帰国して、本社に顔を出しても、みんな俺の方を見て嘲笑っている。」
「被害妄想の典型だな。」
「違う。本当に知っていたんだ。」
「じゃあ、芥川って男が喋ったんだろ。」
「あいつは、俺を育ててくれた男なんだ。アメリカに俺を呼び、経営者候補として企業買収の成果を残させてくれようともしたんだ。俺を売るなんて事はしないはずだ。」
「じゃあ、誰なんだ。」
「ともかく、日本に戻ってくると、俺が座っていた海外プロダクト本部長の席には、俺の入社時からのライバルの男が座っていた。」
「そいつが売ったんだろ。」
「おそらくな。だから、復讐はしといてやったよ。」
「何だって。」
「まぁ、焦るな。どんな風に復讐したか聞きたいだろうが、もう少し順を追って喋らせてくれ。俺の命の火が消えるまでに、そこまで喋られればの話だがな。」
そう言うと、また咳き込みながら笑う。
「つまり、代わりさえ見つかれば、お前は既に用無しって事だな。」
「それが、企業の論理って奴だ。ただ、周りの目があるので無碍にもできないだろ。とりあえず、一番どうでもいい場所を選んで、そこに俺を座らせた。もっとも代替の多い場所にな。後は、くたばるのを待つだけさ。
俺は、何度も体調と精神的な不調に苛まれた。くたばるのも早いと思われたんだろう。
だが、予想外にタフなんだよ。
だから、苦肉の策で中国に俺を追い出そうとした。」
「お前が精神的にも、何とかタフでいられたのは、つまり、強姦のおかげってわけか。」
「なかなか読みがいいな。」
「それが唯一、カタルシスを得る方法だと言ったのは、お前だ。」
「そうだったか。
俺は、救いを求めていた。
救いのない毎日だった。
仕事には集中できない。家庭でも、女房を追い詰め、追い詰めた事に自分が追い詰められた。哀れなもんさ。
そんなある日、新興宗教の女に会った。あなたのためにお祈りさせてくださいって、あれだ。
藁をも縋りたかった俺は、その女の立つ街角に日参した。
祈ってもらうためじゃない。それは、口実だった。
俺は、その女の後をつけ、住んでいる場所を突き止めた。女は、私鉄の駅から十五分ばかり歩いた住宅地の中のアパートに一人で暮らし、喫茶店のアルバイトで生計を立てていた。
アルバイト後に、毎日のように駅前に立ち、祈りをし、集会に顔を出した後、帰宅する。
ある日、その女のバッグを拾ったと思ってくれ。」
「盗んだんじゃないのか。」
「何とでも想像してくれ。
その中に運良く部屋の鍵があった。
俺は、そのスペアを作って返しておいた。
なぁ、これは、犯罪だな。」
「ああ。」
「犯罪だよ。
しかし、俺にとっては最後の賭けだった。
自ら命を絶つ勇気もない。そうである以上、この世界と折り合いつけていかねばならない。
だが、惨めさと鬱屈と自暴自棄が渦巻く精神状態の中で、どうやって折り合いつけていけばいい?
その頃、日に何度も精神状態が肉体に影響を及ぼした。つまり、視野狭窄のようになり、冷や汗が流れはじめ、感覚が麻痺し、心臓が停止しかねない状態になり、俺は、何十分もそれに耐えねばならない。
医者に診せると、肉体的には問題ないと言われた。心の問題でしょう、と。」
「じゃぁ、精神科医に診せればいいだろ。」
「精神科医には診せる気がしないんだ。根掘り葉掘り聞かれるだろ。
言いたくもない事を喋らないといけないんだ。
思い出したくもないことを、記憶の暗闇の中から引き出して来ないといけないんだ。
耐えられない事だな。
ただな、俺は、最初から強姦目的でその女に近づいたわけじゃない。
最初は、本当に救われたかったんだ。その女の言う神だかなんだかに縋り付いて何とかなるんなら、縋り付こうと思ったのは事実だな。
その期待は、あっけなく崩れ去ったがな。」
「宗教では助からないか。お前の心の闇は。」
「悲惨な時代、宗教の黎明期のそれならば、何とかなったかも知れない。
つまり、キリスト教の黎明期、仏教の黎明期、回教の黎明期でもいい。
社会的にも貧困、殺戮、病苦が蔓延し、人々が迫害を受けていた時代。
人々は、真剣にそこに救いを求めただろう。解脱者も、己を捨てて縋る者に手を差し伸べただろう。」
「目の前に、イエス・キリストやゴーダマ・シッダールタやマホメットがいれば、お前も救われたと。」
「今の時代じゃ、どっちにしても無理だな。
社会の広さ、人間同士の結びつきの度合い、時間感覚、時代の豊かさ、文明のスピード感、どれをとっても、救いの手が差し伸べられる可能性は薄い。
どうあがいても、一旦は差し伸べられたかに見える救いは、最終的には、一部の者の手に返る。返るように、社会も、そこに息づく人間も、その中から現れ出た救い主本人も、認識している。そう認識せざるを得ない仕組みが出来上がっているんだ。それが、より広範囲なネットワークで結び付けられる時代の宿命なんだよ。システムって奴だな。
そのシステムに気付かない者が、真剣に布教活動をする。そして、新たな布教者をシステムの中に取り込んでいくのさ。その連鎖の中で救われるのは、一人救い主だけ。
ある意味、独裁者が作り出すシステムと似ている。
やがて、奴らは社会と反目し、つぶされるか、社会の中に自分達だけのコミュニティーを作り上げ、さらなる救い、さらなる解脱を求めるが、それは、自分達の前に新たなハードルを作り上げているだけに過ぎないんだと言うことを、誰も気づかなくなる。救い主すらもな。
まぁ、どのような組織にしても、そのようなシステムに取り込まれるための条件ってのがある。わかるか?」
「いや。」
「お前の職業は、カウンセラーだったな。だからか、多様な答えが求められるシーンでは、決して自分で答えようとはしない。
まぁ、いいさ。
新興宗教に取り込まれるための条件は、いや、取り込まれようもない条件とした方がいいかも知れないな。取り込まれようもない条件とは、自己の存在に対する根源的な問題を持っていることだ。
現代における宗教では、自己の存在に対する根源的な問題を持ち出すことは、ご法度だ。
俺のような、な。
なぜなら、救い主の想定の範囲を超えているからさ。
何やら文句を唱え、金を出して救われる範囲でしか、奴らは人を救う手立てを持たないんだ。ベトナムの枯葉剤の被害者や、チッソ水俣の被害者を救う手立てを持たない。
しかしな、そういう次元での宗教の存在は、無駄ではない。あってもいいとは思うが、俺には無意味だった。
その頃、俺の根源的な問題は、臨界点に達しつつあった。
自己を破壊できない、自己の精神も。さりとて、自分をそういう境遇に落とし込んだ社会機構そのものに刃を立てる気もない。煮詰まりきっていたんだな。精神的に乾ききっていた。
何かをしないと自己破壊の意志を持たぬままに自分を破壊せざるを得ない。それは、本意ではない。
だから、救われようとして近づいた女から、なんの救いも得られなかった事に怒った。怒りの対象は、女に紹介された新興宗教から、女そのものに移った。より簡単な解脱方法に意識が向かったと言っていい。
人が良いだけの依存心の強い女を破壊することで、自己破壊を逃れ、その女の中から発生するかも知れない解脱の境地に期待をかけた。と言えば、その時の俺の心境に少しは近いかもしれない。」
「自己正当化しているだけとしか思えない。」
「ようやく、自分の意見を言ったな。」
男は、咳き込みながら激しく笑う。
しばらく、それが治まるのを待った。
「さすがに、すぐには実行に移せなかったな。
結果から見ると同じかもしれないが、俺は変質者じゃない。
犯罪を犯すことに対してのためらいはあった。
それだけに、用意は周到に行った。
ただ、何度も言うが、その時には、犯罪を犯そうなどと言う計画は無かった。
女に何かをしようなどとは思っていなかった。」
「じゃぁ、何をするつもりだったんだ。」
「そうだな、あえて言うならば、女を救い主に見立て、縋り付きたかったのかもしれない。
女の依存心に縋り付こうとする自分自身の依存心にヒリヒリとした綱渡り感覚を見出し、そこに一縷の望みをかけた。」
「理解不能だな。」
「理解してもらおう、わかってもらおう等とはこれっぽっちも考えていない。
わかってくれなくていいよ。
眉毛と頭髪は、既に剃り落としてあった。さらに、脇の下や陰毛、すね毛にいたるまですべての毛を剃り落とした。証拠を残して来ないようにだ。
久々にバイクのエンジンをかけた。黒い皮の繋ぎ服にはバイクしか無い。自転車や車に乗ってそんな格好をしていたんじゃ職務質問を受けてしまうだろ。
あらかじめ、乗ってきたバイクを止めておく場所までを決めていた。そこから女のアパートまで、できるだけ人に会いにくい場所だ。
バイクの鍵は、近くの置石の下に隠した。
九時過ぎだった。
いつもなら、女は十時過ぎに帰ってくる。
俺は、女の部屋に忍び込み、隠れる場所を探した。ろくに掃除もしていず、衣類や雑誌類が部屋中に散らばっていた。
俺は、黒の皮の繋ぎ服を脱ぎ、押入れの隅に放り込んだ。繋ぎ服の下は、勿論素っ裸だ。そして、同じ押入れの中に体を押し込んだ。見れば、ベッドの上は万年床だ。衣類も、ほりっ放しか、ハンガーで部屋の隅にかけてあったし、下着はカラーボックスの中に押し込んであった。押入れが開けられる可能性は低い。女が眠りにつくまで、押入れの中に潜んでいればいい。
しかしな、この瞬間にもまだ、女に対して何をするかを決めていなかった。
女が帰ってきた。鼻歌を歌いながら部屋の明かりをつける。押入れの中に細い光の線が入ってきた。女には押入れの中に俺がいるなんて想像もできないはずだ。
俺は、もうその瞬間に、女のすべてを支配した気になった。するとな、俺のペニスが勃起したんだ。あの事件以来、一度も勃起した事のないペニスだ。そいつが、力強く屹立した。
俺は、俺の中に、失われたプライドが戻ってくるのを感じた。
押入れの戸の隙間から覗くと、女は下着姿になり、風呂場に向かった。そして、湯を入れる音が響いた。湯が入る間、宗教団体の出版しているらしい雑誌を読み、カップラーメンをすする。ラーメンを食べ終えると、風呂場に向かい、湯を使う音がした。
俺のペニスは勃起しっぱなしで、俺は、それをぐっと握り締め、戻ってきたプライドの官能を味わっていた。
やがて、女は体を拭きながら部屋に戻ってきた。そして、下着をつけ、パジャマを着ると、ベッドに潜り込んで本を読み始める。三十分ばかり本を読んでいただろうか、その間も俺のペニスは勃起し続けていた。やがて起き上がると、部屋の電気を消す。もう寝るつもりだったのだろう。
俺は、この時しかないと思った。
押入れから出て、ベッドに戻ろうとする女の前に立ちはだかった。
それで、どうする積もりだったのか。その時でさえ、俺の中には何の具体的な行動の方向性があったわけではない。
ただ、勃起したペニスの感覚を自分の中にきちんと留めておきたいと思った。次に、すぐに思い出せるようにだ。
女は、一瞬大きな目を見開いて俺を見た。そして、口を開けて叫ぼうとした。
それを察して、俺は女の背後に回り込み、口をふさいで、ナイフを持っている旨を伝えた。
騒ぐな、と。
女は、何一つ俺に逆らわなくなった。
自分の目の前にいるのが、人間なのか、妖怪なのか、宇宙人なのか、全然わからず、激しく混乱している風だった。そりゃそうだろ、頭のてっぺんから足の先まで、毛という毛が一本もない男に立ち塞がれたのだからな。
裸になれと言った。命だけは助けてやると。
女は、向こうを向いて下着をとった。白い臀部が俺の目に飛び込んできた。
その瞬間だよ、俺が何をすべきか、何をしにきたのか、何をしないといけないかを悟ったのは。俺は、女に猿轡をし、後ろ手で縛ると、ベッドの上にその体を放り出し、背後から女を抱きすくめた。
そして、
― いいことしようぜ。
まるで、あれだ、自分がされたのと同じ事を女に対してした。
その開放感。今まで、常に俺の上にあった抑圧が、すべて霧散したかのようだった。
俺は、女の肛門に自分のペニスをぐいぐいと押し込んで行った。女の口から苦痛の叫びが漏れた。俺のペニスが、女の肛門に完全に没し切った瞬間、俺は歓喜の叫びを上げた。
俺は、感動で涙すら流していた。俺は小さく叫びながら腰を動かした。
やがてたかまり、射精する。
女の体から離れた時には、女はほとんど気絶していた。
俺は、その状態を何枚か写真に写した。フラッシュで女が正気に戻る。
― いいか。今日の事は、事故にでもあったと思って黙ってるんだ。
警察に言うと、この写真をばら撒くぞ。俺は、常にお前の事を見張ってるんだからな。
そう言って、女の顔にフラッシュを浴びせる。
そして、今までに無い満足感の中で、女の部屋を後にした。」
「相手の人格は?尊厳をどう考えてるんだ。」
「戦場で兵士は、相手の人格なんかを考えて行動するか?
そんな事を考えていたんじゃ人は殺せない。
戦場では、殺戮、強盗、強姦、何でもありだろ。それが戦争だ。
殺戮も、強盗も、強姦も無かったなんてのは、単に自国の軍隊を守りたいがための虚偽の報告だよ。その事実があったとしても、何ら恥じじゃない。それが戦争だからだ。
戦争という事実と、そこから派生する悲劇と、悲劇を目の当たりにして生まれる罪悪感と、人間として存在する時の戦場での当人の振る舞いに対する罪の部分とは同次元では語れない。語ってしまうと、問題の本質を朦朧とさせてしまう。戦争というリアリティや残酷さが消失する。
ともあれ、戦争という非日常の中で、人は変貌する。
ならば、俺の置かれた非日常的な感覚の中で、俺自身が変貌するのも間違いではあるまい。」
「詭弁にしか聞こえないな。」
「何とでも言ってくれ。俺は、しかし、その行為のおかげで、何週間かプライドを取り戻し、安定した生活を送れた。」
「お前の奥さんに試してみたらどうだ、同じ事を。」
「試したよ。女房は、積極的に応じてくれた。
だがな、駄目なんだ。激しい挫折感が残っただけ。
積極的に応えようとする女房の肉体に、嫌悪さえ感じた。
お前、カウンセラーだったよな。どう言う事なんだ、これは。
何故、嫌悪感まで残るんだ。」
「それは、あれだな。お前自身が奥さんに対して抱いている罪悪感が原因だな、おそらく。」
「もういいよ。全て終わったことだ。」
「生き延び、お前の罪を償えば、また最初から始められる。」
男は、手を少し上げ、胸の上でひらひらと揺らした。
「一度取り戻したつもりのプライドも、しばらくすると萎え始める。
まぁ、そのプライドって奴が、自分が傷つくこともせず、他人の犠牲の上に成り立っているだけのものだったから、その結末は推して知るべしだな。
俺は、またもや次の獲物を探して徘徊し始める。
例の新興宗教の女は、しばらく駅前に立たなかったが、俺のプライドが再度崩壊し始めた頃に、また布教活動を始めた。
あの事件が新聞に載ることもなかったし、女は、特に何か変わった様子もなく布教活動に立った。
俺は女に祈ってもらうことにした。
俺が近づいても、女は、あの夜の残酷な男が俺だとは、全く気づかない。
― 暫く会いませんでしたね。
そう言うと、
― ええ、ちょっと体調が悪かったもので。でも、それも救いへの一歩なんです。
そう言って、ニッコリ笑った。
その瞬間、俺のペニスは勃起した。
わかるか?
この女は、宗教に対する依存心で、自分の身に降りかかった事件の全てを解消しようとしているんだ。全ては、この女の信じる救い主の御心によるのだと、本心から思っているんだよ。俺は、その依存心を再度蹂躙する欲求を持った。蹂躙する事で女に依存し、俺自身のプライドを取り戻す欲求を。」
「で、また、その女の部屋に忍び込んだのか?」
「馬鹿な。同じ場所を狙うって事は、それだけ発覚されやすくなるって事だろ。それに、その女に対してまで嫌悪感を抱くはめにもなりたくない。」
「どう言う事だ。」
「万が一って事だよ。万が一、その女が、強姦犯である俺に献身的になってみろ、俺は、女房に対してと同じく、その女に対しても嫌悪感を抱くことになるかもしれない。その事は、俺にとってみれば、救ってくれる可能性のある女を、また一人失うことになるんだ。
それは、是が非でも避けたい事の一つだよ。
俺は、その女を、今すぐにでも押し倒し、その肛門に俺のペニスを押し付けたい欲求を背負いながら、その場を離れた。
次の獲物を探すためにな。」
「で、すぐに見つかったのか?」
「いや。そういう相手は、なかなか見つからないもんだ。最初の獲物が、あまりに俺の欲求を満たすのに適した獲物だったから、余計に選ぶのに手間取る。色々な女を観察し、尾行したよ。
もう次の獲物は現れないんじゃないか。俺は、こうして獲物を探し、引き裂く欲求を胸に抱きながら、街を彷徨う事になるんじゃないか。それはそれで、一時、自分の現状を忘れさせてくれる。それならば、獲物を探すという行為に救いを求めてもいいんじゃないか。何もあえて襲いかかる必要もあるまい。
そんな風に、自分の行為の方向性を捻じ曲げようとしかけた時に、次の獲物は現れた。
獲物は、たまたま入った喫茶店の後ろの席にいた。
コーヒーを飲みながら何気に街路を眺めていた時だ、
― はっきりしないのね。だから、あなたはいつまでも相手が見つからないのよ。
その言葉にふと振り返る。
女二人の、一人は流行の服を着ているが所帯崩れした所がどこか見受けられ、もう一人は、三十路過ぎと見える地味な女。はっきりしないと言われているのは、この地味な方だった。
― だって、あの人軽すぎるのよ。
― 何言ってんのよ。今時、軽いくらいが丁度いいのよ。そんな風にまじめなだけじゃあ、本当にいい人現れないんだから。今まで、男性とお付き合いしたことあるの?
― 無い。
― 一度も?一度も無いの?じゃあ、あれ、男の人と寝たことも無いの?まるで、天然記念物ね。
― だって、これはって人が現れなかったんだもん。
― いいか、悪いかは、後で考えればいい事でしょ。積極的に行かなきゃ。一生、処女でいるつもり?あなた、確か、年齢は。
― 二十五。
― それにしては、老けてるわね。おしゃれも楽しまなきゃ。頭、堅すぎるのよ。
― でもね、どんな風なおしゃれが自分に合ってるのかって、もう一つわからないの。
― ああ、もう、じれったいわねぇ。おいで、一緒に洋服とか見てあげるから。
そう言うと、二人は席を立って店を出た。
俺は、それとなしに二人を目で追った。
二人は、ショーウインドウの前を立ち止まりつつ話をしている。いや、所帯崩れした方が一方的に喋っていた。
俺も店を出て、二人の後をつける。
確かに、一方的に喋られている地味な方の女の服装は、当たり障りの無い、田舎の駅前商店街の呉服屋に吊るされているような代物で、他人の目を引くわけでもなく、逆に、他人より目立ちたくないというその女の気持ちを十分に代弁していた。
目立ちたくない、目立てないという女の欲求は、後ろから見た女の体のラインにまで影響を及ぼし、メリハリを無くし、二十五といった女の年齢より十は老けて見る事ができた。
だが、その女の肌は、二十五なりの艶やかさを保っていたし、その化粧気の無い肌を透過してくる太陽光線は、若々しい輝きを滴るように身につけて俺の網膜に飛び込んできた。
そのアンバランスさに惹かれたと言っていい。
俺は、わくわくしながら女の後をつけた。
わかるか?高校生の時以来だな。あんなにわくわくしたのは。
やがて女は友人と別れ、家路につく。住宅街を何度か曲がり、オートロック式のワンルームマンションに入って行った。万事休すだ。これじゃあ、忍び込めない。
裏手に廻ると、先ほどの女が三階の一番右端の部屋に入っていくのが見えた。
場所を覚えて、その日は退散した。が、それから暫く通ったな。
管理人は、平日と土曜日の午前中だけいる事を知った。
オートロックとは言え、暗証番号があって、管理人は、その番号で出入りしていることも。
俺はある日、ボールを二個携えてマンションを訪れた。そして、一個をマンションの中に投げ入れ、管理人を呼んだ。管理人に、子供とキャッチボールしていて、ボールがこのマンションの中に飛び込んだと訴えた。管理人は、先に投げ入れたボールを持って出てきたが、違うと答えた。もう一度、探しに入ってくれた。その時、暗証番号を盗み見た。再び出てきた管理人は、ボールなど無いと言う。一緒に探していいかと尋ねる。管理人は、仕方なしに俺をマンションの中に入れる。再度、暗証番号を確認した。俺は、適当にもう一個のボールを転がして、あったと言う。管理人に礼を言い、マンションを後にする。
マンションに忍び込む方法はわかった。
女は、二つ向こうの駅の大きな書店の店員だった。仕事振りは真面目。酒の付き合いもほとんど無し。五十過ぎの店主が、何度か手を出そうとしていたが、断られ続けていた。
俺は、古着屋で宅配のジャンパーを買い、実行の日を待った。」
「宅配屋に化けるのか。」
「そうだな。今度は、合鍵があるわけでもなし。宅配屋の格好で入り込むことにした。
大き目のダンボールを用意した。
女が帰宅したのを見定め、暗証番号でマンションに入り込み、三階の女の部屋をノックした。
女は、不審そうに見たが、送り状の自分の名前を見て、ドアチェーンを外した。
俺は、それまで重そうに持っていたダンボールをいきなり女の胸に押し付け、部屋の中まで入ると、女を羽交い絞めにした。
― 声を上げると殺すぞ。
押し殺した声でそう言った。
そして、帽子を取る。これが大事なんだ。帽子の下からは、頭髪も眉毛もない顔が現れる。
女は、その顔に驚愕し、二三発軽く殴るだけで大人しくなった。
前で手を縛る。前で手を縛るのは、前回、後ろで縛ると、女が苦しそうにしていたからだ。後ろで手を縛られ、バックから犯されると、支えるものは首しかなくなる。前で縛ってやると、手で支えられるだろ。」
「優しいこったな。そういうのを偽悪って言うんだよ。そこまで気遣いするんなら、やらなきゃいいんだ。」
「まぁ、黙ってろ。俺は、女に猿轡をかまし、部屋の電気を消して、ジャージとパンティを一緒にずり下げた。女は、自分が何をされようとしているのか悟り、暴れ始める。俺は、もう一度殴りつけ、おとなしくさせると、
― 大丈夫だ。お前の大事なものは取っていかない。
そう耳元で囁やく。
それからは、もう何度も話す必要もあるまい。
古今東西、過程は数々あれど、結果は決まって一つだ。
俺は、カタルシスを得、女は悲劇に泣き伏し、その写真を何枚か写し、部屋を出る。
二日ばかし、新聞などを注意して見るが、それらしき記事は載らない。
一週間後に尋ねてみると、女は引越しの最中だった。
だが、書店はやめたわけでもなく、レジに行くと顔を見ることができた。
ある日、女の化粧が濃くなっている事に気がつく。
それからしばらくして、新しい獲物を探している時に、その女が、書店の店主と飲み屋から出て来るところに遭遇した。
なぁ、あの時ばかりは、俺は、いい事をしたのかも知れないぜ。」
そう言うと、また咳き込みながら笑う。
「お前が言う事じゃないだろ、それは。」
「まぁ、そう怒るなって。それから一年ちょっとの間に、三十人近い女を強姦した。強姦と言えるのならば、だがな。」
「どう言う事だ。」
「俺は、肛門しかやらない。傷害罪にはなっても、強姦罪にあたるのか。」
「肉体のどこがってもんじゃないだろ、相手にとって嫌な事を無理強いするんだ。強姦罪以外の何物でもない。今の、この瞬間だって、俺は、お前の話をいやいやながらに聞いてるんだ。ある種セクハラだな。」
「ふふふ、同性でセクハラはなかろう。」
「お前は、どうして女ばかり狙うんだ。肛門が目的ならば、別に女でなくてもいいだろ。」
「いい推論だな。まず、女が俺より弱いからだ。いや、弱い女を探してるんだが。」
「結局、あれか、自分より弱者に自分の欲求を押し付けてるんだな。」
「当たり前じゃないか。俺は、善意であんな事やってるんじゃない。自分が助かるためだけにやってるんだ。
しかしな、いい意見だ。いや、女だけがターゲットじゃ無いって奴な。肛門だけをターゲットにすると、確かに男でもいいんだ。探せば、肛門を差し出してくる男もいるんだ。
それは、試す価値があった。」
「試したのか?」
「ああ。自分より弱い女ばかりを相手にしていると、さすがに俺も自己嫌悪が溜まってくる。これは解消しておかないとと、思った。
ちょうど、目の前に解消できるターゲットが現れた。」
「男か。」
「ああ。しかし、言っとくが、俺は男の体には興味が無い。その事を理解してくれよ。」
今さら、何を理解しろと言うんだと、つい口に出そうになる。
「だいたい、どの企業でも、情報システム絡みの仕事は、外部に委託するケースが多い。
たとえば、俺の勤めている会社では、国産の大型コンピュータを使用しているが、主な開発ワークや管理ワークは、その大型コンピュータメーカーの関連会社にほぼ委託している。
情報システム室は何をするかと言えば、大まかな方針決定と、経営管理室や経理部門などからの開発依頼の取りまとめだな。
俺の会社にも、メーカー関連会社の職員が入り込み、俺達と歩調を合わせて仕事をしている。関連会社にも、そのシステム全体を取り纏める会社と、実働部分、力仕事の部分を任されている会社があって、俺達は、主に全体を取り纏める会社の連中を交えて打ち合わせや、方針会議をする。
俺は、その会社の主任の男に目をつけた。
蛇の道は蛇とは、よく言ったもんだ。
ああいう経験をしてしまうと、それまでは見えなかった事が見えてくるようになる。
例えば、人間の性的な嗜好性だな。
その男はゲイだった。それを、俺は一目で見抜いた。あんな経験をするまでは、無かったことだ。
そもそも、相手がゲイであるのか、そうでないのかなんて事は、それまでの俺には全く関係の無い事だった。
それがだ、相手のちょっとした仕種の中にゲイである事を見抜けるようになってしまったのだ。
しかも、都合がいい事に、その男は俺に好意を抱いていた。
俺は、その男をことさら引き立てた。そして、ある夜、飲みに連れ出し、耳元で囁いた。
― 君は、ゲイだろ。
男は、耳まで真っ赤にして反論しようとした。
― いや、いいんだよ、慌てなくても。この事は、誰にも言わない。君と私だけの秘密にしておこう。
― って事は、あなたも。
― ああ、そうなんだよ。もっとも、私は、どちらでもいける。つまり、男でも、女でもね。
― そうなんですか。私は、その、女には駄目なんです。女を抱こうなんて気がしない。私は、私は。
― 抱かれたいんだろ?
― すいません。今日は、失礼します。
― ああ、お疲れ。明日は十時から会議だ。遅れないように。
男の去った後に、俺は上げ潮のようにじわじわと戻ってくるプライドの美酒に酔いしれた。
わかるか?」
「わからない。気分が悪くなってきた。」
「まぁ、いいさ。男との事はすっ飛ばそう。
俺は、その男となるようになった。わかるな。
別に、何の感動も無かった。俺に開放感を与えてくれるのは、女なんだと言う事に気がついただけかな。しかし、男とのセックスも興味深いものではあった。
男という存在の卑小さ、間抜けさ、馬鹿馬鹿しさが浮き彫りになって迫ってくる。
俺が正気ならば、胸糞悪くなっただろうな。
俺は、しかし、何回もその男との逢瀬を重ねた。
何故だと思う?
その男の利用価値だよ。その男は、結構二枚目だった。社内の女の子に良くもてた。
俺は、その男に軍資金まで出してやって、社内の女の子と飲みに行き、情報を仕入れてくるように依頼した。場合によっては、抱けと。
男は、いやいやながらに女を抱いた。
その男が女を抱いた後に、俺がその男を抱き、男が仕入れた情報を寝物語に聞く。
これは、なかなか面白いことだった。
一番面白かったのは、俺の代わりに海外プロダクト本部長の席に座った奴の娘を、その男に惚れさせた事だ。
娘は、何度か父親の職場に遊びに来るうちに、男に惹かれたんだろうな。その事を男が別の女から聞き出してきた。
― あの娘、僕に惚れてるんだってさ。
自慢げに俺に言う。
― ドライブにでも誘っちゃどうだ。
― あんな女と?
― うん、ドライブに誘うんだ。夕日の沈む海岸で時間を過ごして、国道沿いの海の見えるバーでカクテルを飲ませて、後は隣のホテルにでもしけこむんだな。まぁ、無理をする必要は無いがな。万一やばい事になったら守ってやるよ。
― 大丈夫だよ。
まったく、ゲイのくせに女に強い男だった。一回のデートで物にしてしまった。
女は、本気になると親には言わない。親に内緒で、娘は男と会うようになった。
さらに何度かその娘と付き合わせ、燃え上がらせた。男が、その娘に本気になることは無かった。
だから、余計に娘の方が燃え上がった。
そんなある日、娘を部屋に招き入れさせた。私は、鬘も付け眉毛もとり、男のベッドで待った。男がリビングで娘を酔わせ、服を脱がせ始めた。丸裸にして抱き上げ、俺の待つベッドに連れて来た。若々しいだけの中身の無さそうな女だった。かなり酔っ払って、俺と男の区別がつかないようだった。俺は、男と娘と、交互に交わった。
しかしな、これは発見だが、抵抗なしにやるってのは、俺にとっては、何らの開放感も与えてくれない。俺にとってカタルシスが無いということは、エクスタシーも無いって事だ。俺は、エクスタシー無き不毛のセックスを長々と続けた。
朝起きた時の娘の顔は見ものだった。男を挟んで、両端に俺と娘が寝ていた。娘は、昨夜の激しいセックスの疲れを目の下いっぱいに残して、男にしがみつく。その向こうから、まるで宇宙人のような俺が顔を出す。娘が叫ぶ。男がその娘を押さえつける。
俺が、その娘の肛門を犯す。今度は、カタルシスとエクスタシー双方があった。
俺と男は、娘の上で、ことさら接吻した。脱力した娘に色々な姿態を取らせ、写真に収めた。他言すればその写真をばら撒くことをしっかりと言い含めた。
その娘は、結局、人間不信に陥って、何度かリストカットを試みた後、行方不明だよ。
その理由を知っているのは、俺と男だけだ。
娘の親父は、心労から胃潰瘍をわずらい、長期療養するはめになった。
しかしな、さすが、大企業の本部長に座るだけの価値のある男だ。療養しながらも仕事はこなした。見上げたものだ。」
「それが、お前の復讐って奴か。」
「復讐?ああ、そうだな。そう言えるな。
男は、俺のために良く働いてくれた。
合鍵作りの男を紹介してくれたのも、その男だ。俺は、そのおかげで、随分と色々な女の部屋に忍び込みやすくなった。
俺は、男を使って、着々と復讐のベースを作って行った。」
「何だと?本部長だかの娘をどうにかしてしまって、それで復讐なんじゃないのか。」
「それは、ほんのお遊びだよ。娘には悪いことをしたがな。
そう言えば、俺と男のために、人生を狂わされた女がもう一人いたなぁ。
専務の芥川の娘だよ。こいつは、人妻だった。
― お前が、どんなに女にもてたって、人妻には手が出ないだろ。
俺は、その男をけし掛けた。
― 女なら、人妻だろうがなんだろうが、同じ事ですよ。
― 怪しいもんだな。子持ちだぞ。
― ますます好都合ですね。子育てにずいぶんと疲れている筈だ。亭主は、そんな事わかろうともしてくれない。誰か、心の支えになってくれる人がいる筈なんですよ。
― えらく自信ありげだな。
― まぁ、結果をご期待ください。
男は、いとも簡単に、芥川の娘を釣り上げた。
だが、相手は分別のある人妻だ。先の小娘みたいにはいかない。
男も、一度は落としたはいいが、その後、随分と手を焼いていた。
先の小娘みたいに、俺と一緒に無茶苦茶にしてしまいたかったのだろう。
その辺りに、その男の女性に対するトラウマがあるように思えるんだが、どうだろう。
芥川の娘は、男と何度か会った後、他に男を作って、とっとと自立してしまった。
もともと、亭主の仕事を口実に家庭を顧みない態度や、浮気癖に辟易していたんだそうだ。
男との事が、ちょうどいい切っ掛けになったわけだ。結局、結婚前から言い寄っていた別の男の元に走った。
男は、芥川の娘がまさか自分以外の男に走るなんて考えてもいなかったので、随分とショックを受けた様子だったよ。
― まぁ、以外な結末があるから、人生は楽しいんだよ。
俺も、哲学じみた事を言って、慰めてやったもんだ。
芥川も、前から娘の愚痴に辟易していたらしく、仕方ない事だとぼやいていた。
しかし、恋なんてのは、燃え上がるのも早いが、醒めるのも早い。芥川の娘は、一年も立たないうちに駆け落ちした男との生活に疲れ果てて帰ってきた。馬鹿な女だと、責めるか?」
「どうだろうな。」
「真に正しき者のみ石もてこの娘を打て、だよ。
さて、俺の復讐の話をしようか。」
「そうだな。まだ、復讐ってやつに話が行き着いていない。」
「ちんけな復習劇だがな。
ゲイの男は、主な仕事内容は大型コンピュータのシステムコンサルタントと言う奴だった。
だが、なかなか勉強熱心な男で、これからはパーソナルコンピュータの集合体型が主流になると見て、早々とそちらの技術取得を行っていた。」
「つまり、オープンアーキテクチャーって奴か。」
「何だ、知っているのか。」
「言葉だけはな。」
「趣味の範囲だと言っていたが、なかなかどうして、防御の甘い企業のコンピュータに乗り込んで、データを引っ張り出すくらいの事は朝飯前だった。
ウイルスじみたものも作り、実際に試したりもしていた。起動するとおかしなメッセージが表示される程度のものだったが、密かに忍び込ませ、相手が何をしているか探るものもあった。
男は、自分の会社のパーソナルコンピューターに遠隔操作できるソフトをいれて、自宅や外出先からコントロールしていた。奴のパーソナルコンピューターは、俺の会社の基幹のコンピューターに自由に出入りできたので、事実上、男は会社の鍵を握っていたと言っていい。
― 誰がコンピューターに入り込んだか記録が残ってしまうだろ。
俺が尋ねると、
― 正面や裏口から入ろうとするとね。外部の人間ならば、それしか方法が無いですけど、僕は、誰よりもお宅の情報システムの仕組みを熟知してるんですよ。証拠を消すくらい朝飯前ですよ。他の誰かに成りすまして入る事も出来るし。
― 物騒な事は止めてくれよ。
― そう出来ると言っているだけで、実際にはやらないですよ。何のメリットもないもの。単なるいたずら目的ならまだしも、自分が何らかの利益を得るために仕組んだ仕組みってのは、必ず最後には足がつくってのが僕の持論なんです。金塊の前では、どんなに注意深い人間でも理性的でなくなる。僕は、理性的でなくなる状態ってのが嫌なんだ。」
「ゲイである理由もそれか。」
「わからんが、それも理由の一つではあるようだった。それに連動した、もっと奥深い原因があるようにも感じたが。
ともあれだ、俺には会社の経営情報は入手できないが、この男ならやすやすと入手できる。しかも、奴は会社経営情報なんてのに興味が無いから、それが金塊には見えない。俺にとっては金塊である情報がたまさか転がっているんだが。
俺は、奴に社長席から経営情報を定期的に入手するよう依頼した。
奴は、社長席に成りすまし、色々な情報を引っ張り出してくれた。どうでもいい情報もあったが、なかなか悪戯できる情報もあった。
社長ってのが、たまたまラッキーで成り上がれた男で、実際の会社運営は芥川達の手腕だった。まぁ、そういう優秀な連中を自分の周りに集めておいたって意味では、社長の経営手腕もなかなかなものと言えるかもしれない。
ただな、そう言う男は、用心に欠ける。いや、奴にしては、十分用心していたつもりだろうな。秘書課のある女と密通してやがったんだが、確かに、傍目には業務上のやり取りをしているようにしか見えない。でも、それが全て符牒だったんだな。それに気が付いたのも、ゲイの男だ。たいした奴だよ、全く。
― これって、暗号ですよね。
と、ある朝の事だ。
俺の依頼で社長のメールを見ていた奴が俺に言った。
― ほら、この女性からのメール、やたらと同じ企業名が出てくるんですよ。
しかも、この会社名、実在する企業名とは違うんですよね。漢字が一つ変えてある。これって気がつきにくい誤字のように見せかけてありますけど、そう言う企業名が五つあるんです。それ以外は、正確な会社名なんですよ。秘書課の女性と社長が、間違えたまま気が付かないって事は有り得ないですよね。って事は、この会社名、ダミーですよ、絶対。
― この社名から連想できる事って何かあるか?
― そうですね、例えば、この会社、正式な名称の会社なら赤坂に本社がありますよね、この会社の役員と先週の月曜日の午後十時に合う約束になってる。この時刻なら接待ですよね。で、社長の接待費データを見ると、ほら、赤坂の料亭で食事して、次に近くのホテルのバーで飲んだ事になっている。この社名で日時が指定されている時は、必ず赤坂の料亭ですね。明後日は、横浜だ。張り込むと面白いかも知れませんよ。
― まぁ、その楽しみは、少し先に取っておこう。引き続き社長のメールを見といてくれよ。
― 社長だけでいいんですか?
― そうだな、社長のお相手と、専務、常務クラス。
― ついでなら、リモート監視用のツールも潜り込ませておきましょう。パソコンの画面をキャプチャーして、何をしているかが一目でわかります。
― バレないか。
― 大丈夫ですよ。あの人達は、最もそう言うことに疎い人達ですから。
それにね、知ってます?営業職のパソコンには暗号化ツールが入ってるんですが、この方達のパソコンには、それが入っていないんですよ。秘書は、全員この方達のアイディとパスワードを知ってます。自由にログインできるんです。逆にこの方達の中で、自分のパソコンに自由にログイン出来ない人達が何人かいます。いわゆるアイ・ティー難民て奴ですね。さてと、一応人事通達文書に監視ツールを潜り込ませておきました。明日、朝一番に何も知らずにこの文書をクリックするでしょう。そうしたら、監視ツールが裏でインストールされます。有効になるのは再起動後ですから、遅くとも明後日には、役員クラスのパソコン画面を見れます。
― どうも良く分からんが、それで何ができる?
― 例えば、パソコンバンキングをしていたとしますね、アイディとパスワードを盗めるんです。もっとも、パスワードは画面では見れませんから、ログから拾い出します。次に、その人間になりすまして、その人間のパソコンから、パソコンバンキングにログインし、あたかも、その人が行ったかのような顔をして、例えば僕の口座に振り替えを行うなんて感じですね。」
「そんな事ができるのか?」
「ああ、パソコンの事を良く知っている人間ならば、お茶の子で出来るらしい。」
「嫌な時代だな。」
「何をするにも、我が身を守る事に汲々としていなければならない。」
「しかし、どうやったら守れるんだ?」
「同じ事を尋ねた。すると、こうだ。
― 何をやっても、いたちごっこですよ。相手のガードを破る事に生甲斐を感じる奴らがいる限り。あなたに紹介してあげた鍵破りの名人なんかも、その一人です。いずれ、指紋や網膜、さらにはDNA認証の鍵なんてのも出てくるでしょうが、必ず破ってみせるって言ってますよ。彼は、僕以上にコンピュータ技術にも詳しくて、ペンタゴンのホストデータを幾つも持ってます。持ってるだけですけどね。世の中に出れば国際紛争が発生するような情報も中にはあって、そういうトップシークレットの情報にアクセスしたと言う事実が、彼の宝物なんですよ。まぁ、個人的に身を守ろうとするならば、そう言う連中に金を渡して、ガードしてもらう事ですね。鍵を破るのもプロ級ならば、逆に守るのもプロ級ですから。
そこで、俺は言ったもんだ。
― 是非、お手柔らかに頼むよ。
― あなたは、大丈夫ですよ。僕が守ってますから。」
「お熱い事だな。」
男は、俺のその言葉を無視して、
「ゲイの男のおかげで、俺の人生は格段に面白くなったのは事実だ。
女を何人も強姦したが、それが出来たのも、男の協力あったればこそだ。ターゲットを見つけてきてくれる事もあった。男は、俺が女を犯す状況を寝物語に聞き、被害者の写真を見、妙に興奮した。奴の心の闇の中を見ているようで嫌だったが、しかし、そのおかげで定期的にカタルシスを得、安定した精神状態を保つ事ができた。男とのセックスにも慣れて、別段苦にもならなくなった。それ以上のメリットを、奴が与えてくれたからな。
最初は、確かに嫌だった。何が悲しくて男を抱かないといけないんだと思った。
一度、女を強姦して得るあのカタルシス、抑圧された魂の解放を味わうと、ますます普通のセックスでは満足できなくなった。カタルシスの条件は、強姦であり、アナルを犯す事だった。そうでなくては、カタルシスの先にあるエクスタシーには達しないんだ。だがな、一つ、分かった事がある。カタルシスにも自慰、つまり、オナニーがあるってことだ。
自慰によって抑圧を排泄する事ができる。確かに迸るような開放感は無い。じくじくと膿んだような感覚の中で、しかし、抑圧感は確かに軽減される。」
「それが男とのセックスか。」
「そうだ。」
「女じゃ駄目だったのか。」
「女には、ウ゛ァギナがある。男には無い。」
「どういう意味だ。」
「本来、あるものの所に行きたがるって事だ。女と合意の上でアナルセックスをしたとしても、肉体的には本来の場所を求める。その欲求が解放の邪魔をするようだ。」
「しかし、本当にカタルシスとエクスタシーを得られる相手は、女なんだろ。」
「そこだよ。俺も自分ながらに不思議な事だと思った。こう言う事だと思うんだ。
被害者である俺は、被害者意識を加害者となって、他に転嫁する事でカタルシスを得る。本来、被害者であった俺は、まさに当事者である時、弱者だった。完全なる立場の転嫁のためには、相手は弱者で無ければならない。強者と弱者の関係を形成し、一時的にせよ支配下における相手。確率論から言えば、女でしかない。しかも、ここが味噌なんだが、相手に同性的な感覚を求めるんだ。分かるか?女性の中には男性的な要素がある。他者から無理強いされる時、女の中に、この男性的な要素が生まれるようだ。男の場合は逆だ。俺よりも弱者を求めると、いざとなると、女より女性的になる。その女性的な部分に触れた瞬間に、俺は醒める。どんなに弱そうな女であっても、その悪夢の時を耐え忍ぶにあたって、男性的要素が生じるが、それが、俺をより征服感の高見に登らせてくれる。そして、カタルシスがやってくる。つまり、性的要素は一定じゃないって事だな。状況により変化する。」
「じゃあ、ゲイの男はどうなんだ。女性的な要素の中で醒めてしまうんじゃないのか。」
「奴は違う。奴がゲイなのは、感性的な事が嫌いだからだ。肉体的には、女でもエクスタシーは感じるらしい。何が引っかかっているのか最後まで話はしてくれなかったが、必要以上に理性的なことにこだわる。奴の前にある事象は、常に整理され、秩序立てられていなければならないんだ。女は、それを撹乱する。それが、本来、この世に男と女が存在する理由の一つだがな。奴のセックスは相手に自己を投影する事にある。そう言う意味では、俺と一緒なんだが、俺の場合は、俺からの逃走のためにそれをする。奴は、自己への愛着からするんだ。」
「混乱するなぁ。」
「奴は、俺に抱かれながら、己を抱いている俺に自己を投影する。俺に抱かれながら、自分自身に耽溺するんだ。それが、俺との違いであり、俺とのセックスが成立する唯一のポイントなんだ。だが、二人の関係性において、最も重要なポイントだな。
女に対して醒めていながら、いや、醒めているからこそ女に良くもてる。これも、俺と奴との関係性の大切なポイントの一つでもある。
奴から女を紹介してもらう事もよくあった。奴から、女の行動パターンや部屋のレイアウト等を教えてもらい、鍵まで渡してもらって忍び込むんだ。
後始末も奴がつけてくれる。俺が強姦した後、奴が何食わぬ顔で電話をかける。女の悲しげな声に優しい振りをして、女が突飛な行動に出ないようにしてくれる。
本当に役に立ってくれたよ。
勿論、俺のサラリーマン人生を楽しくする上でもな。
奴も感謝してくれた。奴一人ならば、ここまで実行はしないだろうってな。企業内の仕事から私生活に至るまでの情報の覗き見や、データベースのアクセス等は、やり方を知ってはいても、実際にそれを実行するところまでは行かない。俺と出会い、俺がけしかけたからこそ、奴はその世界に足を踏み込み、本来奴が持っている能力を縦横に発揮できた。
社長の密通ネタを拾い上げたのは、言った通りだが、それに飛び付くほどには、俺も奴も暇じゃなかった。だがな、社長と、芥川の株式売買の方法を見つけ出した時は、二人とも結構はまり込んだ。
社長のはこうだ。
ある日、奴が俺を呼んだ。
― 見てくださいよ、これ。例の密通相手の秘書からのメールですけどね。
パソコンの画面には、社長から出したメールが表示されており、ある顧客企業主宰のコンペの商品として、アイアンを三本購入しておいて欲しい旨の依頼があった。
― これが、何か。
― 僕も見過ごすところでした。
― 見過ごす?
― じゃあ、これは?
それは、やはり別の顧客企業の新ビル落成記念に花を贈って欲しい旨の依頼だった。
― 何もおかしな所は見当たらないが。
― 一見そうでしょ。でも、良く見てください。落成記念の花には、届け先の担当者名が入っているでしょ。届け日も。アイアンには、担当者も、届け日も無い。これなんか、映画入場券十枚ですよ。名目は、やはり顧客企業の社長の娘の婚約祝いだ。婚約祝いに映画チケット贈りますか?贈る相手の名前を連絡し忘れるなんて考えられます?
― どういう事だ。
― これも何かの符牒、暗号ですよ、きっと。
― 何の暗号だろう。
― これなんかどうです。
それは秘書からのメールで、顧客企業の担当部長の奥さんが風邪をこじらせたらしいがどうすればいいかと言う内容だった。
― 普通、こんな事で問い合わせします?
― 馬鹿な秘書だな。
― 普通はそうですよね。でも、これに対する返信が、風邪薬三十錠送ってあげてください、ですよ。
― 二人で御飯事みたいな遊びをやってるんだろうか。会社のメールサーバーを使って。そうとしか思えないなぁ。
― でね、試しにこれに株の動きを重ねてみたんですよ。そうしたら、ほら、ビンゴです。アイアンは、鉄鋼会社。映画チケットは映画配給会社。風邪薬は製薬会社。このメールの暫らく後に、必ず株価が上昇してるんです。通常は、秘書とのやり取りは電話でやってるんだと思います。あまりにこの手のメールの頻度が少ないからです。確実なのは、どこかの仕手筋と連動して、少なからず株取引で利益を得てますね。芥川専務もこれに便乗してそうですよ。
― 芥川が?
― あの人は、自分でやってます。これ、そのパソコンの画面の記録です。
― こんな記録まで取れるのか。
― ええ、三十秒おきに画面をキャプチャーして、あるタイミングで、まとめてサーバーに送ってくるんですよ。
― よくこんな仕組みを揃えられたなぁ。金かかっただろ。
― 全部あなたの会社の費用ですよ。ほら、年初にセキュリティ強化ってやったでしょ。あの下案作成は、全て僕です。本当は、管理者の悪意を防ぐために、管理者を実データにアクセスさせない仕組みまでを提案したんですが、予算不足で却下されたんですよ。
― じゃあ、今、我々は企業のあらゆるデータにアクセスできるって事か。
― そうですよ。
― もともとの基幹システムにはさすがに無理だろ。結構しっかりガードできてるって話だ。
― それも、今や幻想にすぎないですよ。オープン系との連携で、抜け穴だらけ。
― じゃあ、基本的な情報操作も可能ってわけか。
― 勿論です。システムに依存するならば、とことん依存した上で、適正な人的教育でマインドを高め、適正配置を行う。そうでなければ、どんなシステムにも抜け穴が生じます。ペンタゴンですら潜り込めるんですから。
― じゃあ、今でも入り込めるのか?
― ごめんなさい。偉そうに言ったけど、さすがにペンタゴンは僕レベルでは無理です。僕レベルだと、あなたの会社程度がやっとです。
― 次のセキュリティ強化への予算投資はいつだっけ?
― まだ立ってませんよね。もう一度下案を作ってお渡ししてますが。
― 誰に?
― あなたの部下の林田さんにですよ。
― あいつ、データベースの再構築を上申するって。
― ああ、そうでしょうね。そっちの方が投資効果が良く見えて、経営者には受けがいいんですよ。セキュリティは、投資するだけでリターンが見えないですから、実際に事故が発生したり、外圧がかかったりしないと、普通はやりたくない部分です。でもね、通常ならば、あなたの会社程度でも事故は起きないですよ。通常ならばね。
― 通常じゃなくなっちまったって事か。
― そうです。僕とあなたとが出会う事によってね。
話している間にも、パソコンの画面には、芥川が株式売買している状況が表示されていた。
あいつは、パソコンのメモ情報に、自分のログイン・アイディーやパスワードまで記録していた。
― ほら、こんなことしてる人が殆どだから、成りすましてデータ改竄するなんて簡単に出来ちゃうんです。
― しかし、後でログで追えるだろ。
― 大丈夫、管理者権限で消してしまいます。ネットワーク機器のルーティング情報までね。完全に消し去ります。そう言うツールがあるんですよ。本当に頭のいい人って、いろんな分野にいますが、闇の世界にもそういう人がいて、ただで分けてくれるんですよ。
― 本当にすごいもんだ。
― でしょ。ほら、芥川専務も、全く同じ日に同じ企業の株を購入してます。
画面には、まさに株式購入完了の文字が表示されていた。
― 社長がどこかの仕手筋と情報交換し、芥川にもその情報を流し、二人で儲けてるんだが、それに秘書も一枚かんでるって図式か。これは、使えそうだな。秘書は、どこの証券会社と取引してるんだろう。
― さて、秘書のパソコンの中にデータがあるかも知れませんね。今日は秘書のパソコンの電源が落ちてますから、明日調べましょう。全件検索かければ、すぐに見つかりますよ。それよか、今日は、もう遅いし。
― そうだな。
俺は、そのまま奴とホテルにしけこんで、一戦交えた後、帰宅した。
奴へのご褒美だな、それが。」
「具合はどうだ。」
俺は、それ以上、その状況を思い浮かべたくなかったので、話をそらせた。
「具合?ああ、具合か。良くは無いが、一時期ほどに苦しくは無い。こんな風に喋れるんだからな。」
「雨も小降りになってきた。朝が来れば助かるよ。もう少し頑張るんだ。」
「助かる?無理だろ。苦しくないのと、具合がいいのとは違う。体が殆ど何も感じなくなってる。寒気すらしてきた。」
「すまん。気が付かなかった。ちょっと待ってろ。」
俺は、そう言って男の体にタオルをかけてやる。
「いいんだよ。もうすぐ逝けるだろ。いや、逝かせて欲しいんだ。三人も人を殺して、おめおめと助かろうとは思わない。」
「三人?殺したのか。」
「ああ。一人は、計画的に、いや、俺が計画したんじゃなくて、計画にのせられたんだ。もう一人は、衝動的に。もう一人は、愛ゆえに。」
「生きてれば、罪も償えるだろう。」
「非常にいい意見だ。参考にさせてもらうよ。」
そう言うと、ゴホゴホと咳き込むように笑う。
しばらく、荒い息の下で苦しそうにしていたが、やがて、
「続けてもいいか。」
「どうぞ。」
「女ってのは、愛する男の為には馬鹿になるもんだ。ゲイの男が、女を見限っていたのは、そのせいかも知れない。翌日、奴は、本当に気味悪そうな顔で、一枚のリストを持って来た。
― あなたの会社の社長さんの株式取引の全てです。秘書のディスクの中に見つけましたよ。ほら、タイトルも用心深く別の名前になってますし、リストの項目、取引銘柄も変えてあります。一見、株式取引リストには見えませんね。先日のメールが無ければ、僕にも分からなかったでしょう。先日のメールを取引日と見て、内容に三つの日付が確実に含まれるデータだけを抽出したんです。ほら、発注先が取引銘柄、入荷日が購入日、出荷日が売った日です。
― 売買益が取引益か。
― そう。短期間の売り買いで確実に儲けてますね。これは、確実にどこか仕手筋からの情報を元に売買してる証拠ですよ。この事実を白日の下に曝してやりましょうか。秘書との密会の情報とともに。
― いや、社長だからと言って、株で儲けちゃならないって事はない。秘書との密会も、かわいいもんじゃないか。そりゃ、権力を握れば、誰しもそれを使って役得を得たくなる。人間の自然な摂理だね。
― 僕には、理解できないな。
― お前の、その純粋さが好きだよ。
そういって、額にキスをしてやった。俺にも、そうするくらいの感情は芽生え始めていた。
そう言う話は、あまり聞きたく無さそうだな。」
「ああ、残念ながら俺の想像の域を越えてるんでね。」
「まぁ、いいさ。
どこの仕手筋と連携しているかも、すぐに分かった。これも、秘書が克明に記録を残していたからだ。愛するが故の健気な手仕事だな。仕手筋へは、秘書が巧妙にカモフラージュしたメールを出して、情報交換していた。例えば、相手にこう打つ。“その後、足の骨折はいかがですか”。すると、暫らくして“足は全治しましたが、腕の第二関節に障害が見つかりました。ただいま、検査中です”。こんな具合だな。」
「分からん。」
「うん。秘書は、そのメールを見て、社長あてに“ゴルフボールの納期が遅れているようですが、いかがいたしましょう。ところで、本日は、横浜のお客様から直帰されるご予定でしたよね”。社長が返信する。“例の中東の情報を添付して、ゴルフボールはキャンセルと伝えておいて欲しい。本日、横浜ではなく、赤坂のお客様に訪問予定”。すると、秘書が情報交換相手に、“第二関節は問題が多いですね。長くかかりそうです。お気をつけください。参考までに。”と言うメールを、中東情勢のファイルを添付して送る。このファイルも別の相手から送られてきたもので、株式売買リストのあるフォルダーのさらに下にフォルダーを作り、全く意味の無いファイル名称でセーブしてあった。
つまり、ゴムか何かが関係する製造業の企業の株価はしばらく動かないだろう。だから、投資せずに様子見だ。その前に、その予測根拠となる中東情勢の情報を入手していたので、それを添付して返したわけだ。」
「足の骨折ってのは?」
「そのしばらく後に、タイヤを製造するメーカーの株を売っていたな。売り注文が大量に出て、その会社の株価は二十パーセントばかしダウンしていた。
まぁ、こんな風にインサイダー的な情報も入手しつつ、秘書との密会資金に当てたりしてたんだろう。だから、秘書も協力的ってのもあったのかも知れない。
これを利用しない手は無い。しかしな、それは、もう少し後の事だ。
取り合えず、その時点では、奴と二人で謎解きをして遊んでいる、そんな感じだった。
会社の生命線を握るような情報を操作しながらな。暗い笑いを浮かべていたわけさ。
財務関係者が何処の金融機関の誰に会い、いくら資金を調達したか。その資金を、どう使って利潤を生み出したか。役員会に報告する前に全て握る事ができた。
それもな、謎解き遊びの一環だった。あの女と知り合うまでは。」
それから、しばらく沈黙が続く。
男の深い溜息。
「香織。」
溜息とともに吐き出した女の名前。
「もう一度、香織に会いたい。」
「香織って言うのは。」
「芥川の秘書だよ。」
「ああ、倒れ際に胸を鷲掴みにした女か。」
「そうだ。
ある日、俺は久々に獲物を探しに街に出た。獲物はゲイの男が調達してくれるようになったので、本当に暫らくぶりに街中のちんけなハンターになった。
よく晴れた気持のいい初夏の休日だった。女達は、みな薄着になり、風を衣服の中に通しながら季節を謳歌していた。俺は、ある時は視線で、ある時はイマジネーションの力を借りて、衣服をすり抜け、女達の汗ばんだ肌に直接接触し、無防備な女達を選別していた。
俺に合う女と、そうでない女と。
と、一瞬ブリザードのような激しい冷たさが、俺の前を通り過ぎた。
暗闇の中、叩きつけるような横殴りの雪、いや、氷のナイフかとも思われる。
そんな激しい冷たさ。
それは、一人の女の大きく開いた背中の、その背中にさらに大きく開いた空洞から、一瞬だけ、陽気にむせ返る大都会の休日のアンニュイに吹き付けた。その空洞はすぐに閉じられた。
俺は、女を目で追った。女の孤独に覆われた頑なな様相は、ただその瞬間だけで、すぐに足の綺麗な普通の女に戻り、ウインドーショッピングを楽しんだ。
俺は、その女の顔をどこかで見たと思った。すぐには、思い出せなかった。
それが香織である事に気が付いたのは、その女の後を追って、暫らくしてからだ。
俺は、女に気付かれないよう帽子を目深に被って、後をつけた。
女は、どこ変わった様子も無く歩いていた。
だがな、時折、何かの拍子に吹き付けてくるんだ。ブリザードが、激しくな。
それは、実に異質だった。今までに、感じた事の無いイメージ。
俺は、ハンターのように街を彷徨い、獲物を探す事で、女に対する直感のようなものを磨いていたらしい。獲物を直感的に掴み取り、分解し、自分に理解しやすいように再構成する能力と言っていい。
その感性でもって、依存心の強いウサギのような目をした女を探していた。それが、俺にとって格好の獲物だった。
狐のような女、向日葵のような女、色々なイメージの女が俺の前を通り過ぎた。イメージは、女の言葉や仕草で、刻々と変わる。一定したイメージなどと言うものは無い。
女と時と場合によって千差万別。だが、ブリザードを想起させる女は初めてだった。
その身を切り裂くような冷たいイメージに、俺は、我知らず惹かれていった。
分かるか?真夏の直射日光の下の埃っぽい歩行者天国で、深山の水系に巡りあったような感じだ。
俺は、その女の背中に頬擦りしたい衝動を抑えながら、付かず離れずついて行った。
女は、香織は、ブティックに入り、喫茶店に座り、電車に乗って、郊外の駅で降り、暫らく歩いて、瀟洒なマンションに入っていった。もう夕暮れ近かった。しばらく、マンションの外で佇んでいると、六階のベランダに香織は姿を現した。ゆったりとした白いティーシャツに着替えていた。何かを飲みながら、ぼんやりと遠くを眺める風で、日が沈むまでそうしていたが、やがて部屋に姿を消した。
俺は、辺りが完全に闇に没するまで、そうして佇んでいた。」
「それから?」
「それから、俺は、ゲイの男が紹介してくれた鍵の名人に連絡を取った。
普通ならゲイの男を通して連絡するんだが、この件は、そうしたくなかった。
鍵男、面倒臭いんでそう呼んでいいか、鍵男は、一週間も立たないうちに、香織のマンションのオートロックの仕組みと開け方、香織の部屋の合鍵を持って現れた。
ゲイの男に、言って欲しくなかったので、いつもより多めの謝礼を手渡した。
翌日、会社で香織に出会った。廊下ですれ違っただけだがな。
香織の会社の顔と、普段の顔は違った。しかし、これは、当たり前の事だな。
会社では、皆、仮面を被る。ゲイの男だって、会社で俺と接する時と、プライベートの時は百八十度といっていいくらいに違う。
会社での香織は、若手社員の憧れの的だけあって、芥川の後を颯爽と歩いていた。
知り合いには軽く会釈しながらな。その笑みを含んだ顔は、やはり仮面だった。
香織は、誰にでも優しい顔を向ける事で評判だった。
彼女の笑顔に接すると心休まると。
しかし、本当の彼女は違う。俺には、何となく、それが分かった。
彼女は、基本的に誰にも心を許さない。
その事を、仮面で覆い隠していた。彼女のそう言う本音には、おそらく、彼女の背中の亀裂に気付いた者だけが触れる事が出来る。」
「その一人が、お前か。」
「と、信じたいね。その真実は、ついぞわからず、だ。
俺は、彼女の部屋の合鍵を握ったまま、しばらく迷っていた。
彼女をターゲットにするか、どうか。
俺の彼女への興味は、獲物へのそれとは、確実に違っていた。
何と言えばいいか。そうだな、郷愁とでも言えばいいのか。
ほれ、街中を歩いていて、ふとした小道に引き込まれそうになる事ってないか。
目的地への道からは外れてしまうんで、大抵は知らぬ振りして通り過ぎるんだが、それでも、何だか惹きつけられてやまない。
あれだよ。
で、何日か迷ったあげく、俺は彼女の部屋に向かった。
彼女は、毎日十一時過ぎには戻ってくる。
俺は、いつもの出で立ちで、彼女のマンションに入り込み、合鍵を使って部屋に入り込んだ。
よく整理の行き届いた部屋が、三部屋。玄関から延びた廊下の両側にあり、一番突き当たりがリビングという、どこにでもある間取りだった。俺は、寝室の手前の納戸代わりに使われているらしい部屋の押入れに潜り込み、暗闇の中で息をひそめた。
なぁ、俺は、その瞬間がたまらなく好きだ。暗闇の中で、神経が研ぎ澄まされるんだ。
ちょっとした物音にも敏感になる。そうすると、音や匂いまでもが、立体的に迫ってくるんだ。
いつも通りなら、彼女は、三十分も待てば帰ってくる。
香の匂い、安っぽいインド製のそれではなく、仄かに上品に香る香の匂いがした。
それが、リラックスする時に彼女が炊く香なのだろう。
以前、倒れる瞬間に彼女の胸を鷲掴みにした時、鼻の奥に忍び込んで来たのと同じ匂いだった。
もしかしたら、俺は、この香の匂いに引き寄せられているのかも知れない等と、ふと考えてしまった。
やがて、玄関先で金属製の小物の触れ合う音がする。彼女が帰宅したのだ。
ドアが開き、廊下を歩く足音がする。
その足音は、隣の寝室に入り、紙袋か何かが床に落とされ、箪笥が開けられ、衣擦れの音がした。スーツからゆったりした部屋着に着替えるんだ。
足音は、さらに浴室に入り、軽く浴槽に水を流す音、浴槽の蓋を閉める音、給湯スイッチを入れたらしい電子音。それから、トイレのドアが開けられ、小水の音がし、水が流され、手を洗う音が続き、リビングに向かう。リビングの明かりが点けられる。そして、冷蔵庫のドアが開けられ、ビールの缶を取り出し、蓋を開け、ステレオのスイッチを入れ、ショパンを聴きながら一口、二口。煙草を取り出し、火をつけ、また一口。」
「音だけで、よく分かる事だな。」
「彼女の習慣だからな。新聞を開く音がして、暫らくは、新聞を流し読みする。やがて、風呂の湯が定量になった合図の電子音がして、彼女は、浴室に向かう。部屋着を脱ぎ捨てる音。おそらく、下着だけになっている筈だ。俺は、そこで部屋を出た。
素早くリビングの灯りを消し、風呂場の脱衣所の灯りも消した。一瞬、彼女の動きが止まる。俺は、彼女の背後に駆け寄り、背中にナイフ代りの金具を当てる。
― 動くな。
― どなた?
彼女は、落ち着いたものだった。
― 裸になれ。
俺は、年甲斐も無く高鳴る鼓動を抑えながら、そう言う。
― ここで脱ぐの?
― ああ。
― 寝室に行かせてくれる?
― 駄目だ。
― 変な真似しないから。
そう言うと、するりと俺の脇を抜け、落ち着いた足取りで寝室に向かう。
俺は、慌てて後を追った。
― 脱げばいいのね。
― そうだ。脱げ。
妙に興奮して、声がかすれた。そんな事は初めてだった。
外から入り込むかすかな光の中に、彼女の素晴らしい肢体が浮かび上がった。
俺は、手を伸ばし、後ろから彼女の乳房を鷲掴みにした。
― 待って。
― 何だ。
― これも取るから待って。
彼女は、もう完全に裸で、脱ぐ物等無い筈だった。
どう答えていいか分からない俺を尻目に、彼女は、左足をはずした。
― 肩、貸してね。
そう言うと、俺の肩にしなやかに腕をかけた。
― さぁ、ベッドに連れて行ってちょうだい。
さっきから鳴りっ放しのステレオで、幻想即興曲がかかる。
俺は、前から、つまり一般的な普通の交わり方で、彼女の肉体に耽溺していった。
その俺を、彼女は、冷たい眼差しで見ていた。
彼女は、そのシチュエーションで、既に濡れていた。
が、声の一つもあげずに、俺の体の動きを受け入れた。
俺は、彼女の中に、卑小なる俺を感じた。情けなかった。
やがて、俺がはてるのを感じ取ると、
― もういいでしょ。
と、冷たく言い放つ。
― 煙草を取って頂戴。そして、誰にも言わないから出て行って頂戴。
― 足。
― 何よ。
― 義足なのか。
― それがどうかして?
― 知らなかった。一体....。
― あなた、あたしのお涙頂戴話を聞くために部屋に潜んでたわけじゃないんでしょ。
― ああ。
― だったら、出て行って頂戴。大事な一人の時間を無駄にしたくないのよ。
― 写真、撮っていいか。警察に垂れ込まれないために。
― どうぞ。早くして。
彼女は、フラッシュの前で、いくつか悩殺的なポーズを取り、デジタル写真の中に収まった。それは、俺の宝物になった。
俺は、静かに彼女の部屋を出た。敗北したような、かといって、惨めさよりも甘美さの勝った、何とも言えない気分で、彼女のマンションを離れた。」
「それが、彼女との最初で最後か?」
「いや、それから何度、彼女の部屋に足を運んだか。
会社ですれ違う時の彼女と、部屋にいる時の彼女。俺は、その落差を楽しんだ。」
「よく訴えられなかったもんだ。」
「ああ、一度は期待もした。彼女は、俺を愛しているんじゃないか。
とんでもない。彼女の背中に出来た亀裂から、入り込める愛など、この世には存在しない。
常に雪嵐が吹き荒れている、あの亀裂にな。
そりゃ、一度くらい、俺も期待したさ。だが、とんでもない。
俺は、彼女の慰み者になっていただけなんだ。生きた大人のおもちゃみたいなもんだ。
体毛の一切無いグロテスクなおもちゃだ。まぁ、えてして、大人のおもちゃなんてのは、そんなもんだろう。
もっと違う言い方をすれば、俺は、彼女の傷跡に塗る軟膏の代用品だったと言ってもいい。
彼女の背中の亀裂という傷跡にな。
しかし、あの傷跡は大きすぎて、俺なんかの及ぶところではなかった。
とにかく、彼女の部屋に度々忍び込んだ。
彼女に抱かれる、抱くんじゃない、抱かれるんだ。わかるか、この感覚。
抱かれる事もあったし、その気じゃないからと、無視して追い返されることもあった。
俺も気を使って、俺が忍び込んでる日は、玄関に整然と並べられた靴の一足を逆向きにした。その合図を、彼女は、一目で認識した。
俺が忍び込んでいる納戸の前を通る時に、帰って欲しい旨を告げて通ったり、何も言わない時は、風呂上りの彼女を、寝室を真っ暗にして待った。」
「認知されているのなら、何故もっと堂々とやらないんだ。」
「儀式だよ。俺も、その手順を踏まないと燃えない。暗闇の緊張感が、俺には必要なんだ。」
「彼女にも、その儀式が必要だったって事か。」
「おそらくな。」
「激しく歪んだ関係だな。」
「俺は、つくづく自分を鏡に写して眺めた。体毛の一切無い顔の方をな。普通なら気味悪がって相手にしたく無いところだろう。
その疑問を投げかけてみた。
― 砂漠よ。
と、彼女は言った。俺の体の中には、からからに乾ききった砂漠があるんだそうだ。
そこを舞う砂塵を感じたんだそうだ。
― 同じような人が、会社に一人いるわ。大変な事件に巻き込まれたらしいけど。
それが俺だとは、言えなかった。言えば、関係が終わってしまいそうだったからな。
― 私に染み付きそうな匂いを消して欲しいのよ。色々な男を試したけど、駄目。一人いたけど、交通事故で逝っちゃったわ。その男も砂塵を心に持っていた。
― 砂塵か。
― そんな格好いいものを想像しないでちょうだい。乾いてて、渇望してて、どうしようもないくせに、どうしようも出来なくて、現実に吹き上げられているってところだから。傷ついた?
― いや、事実だ。俺は、お前の中にブリザードを感じた。
― ブリザード?
― 冷たくて、凍えそうなくせに、誰にも頼る勇気が無くて、現実の中に吹き荒れるしかないもの、だな。
― 一点、訂正させて頂戴。誰にも頼る勇気が無いんじゃなくて、頼りようの無い風に吹き上げられているだけよ。頼った相手が吹き散らされてしまうような風。
― 俺もか。
― 強姦男に、どうして頼れるの?あなたは、私の匂い消しでしかないわ。
― 消臭剤か。
― 砂塵と言う名のね。」
「何の匂いを消すんだ?」
「そうだな。その事が、わかる時がやって来た。ある日、突然な。
その日も、いつものように納戸の暗闇に潜んでいた。
やがて、彼女が帰ってきた。足音は一つじゃない。
彼女に男がいるのは知っていた。何度か玄関先までついて来て、追い返されている。
聞き分けのいい男で、彼女のパトロンだと言っていた。
決して無理強いせず、金はきちんと出してくれる。ありがたい男なんだそうだ。
その男が、今日はしつこく部屋に上がろうとしているのがわかった。
彼女は、玄関先の靴を見て、俺が潜んでいる事に気がついている。
俺がいない時は、男を上げているのかも知れない。だが、俺がいる時は、先着の俺を選んでくれた。
― わかったわ。じゃあ、ちょっとだけよ。
― ああ、コーヒーを飲ませてくれたら帰ろう。
どこかで聞き覚えのある声だったが、くぐもった声なので、誰とは思い出せない。
二人は、俺の潜む納戸の前を通って、リビングに向かった。納戸の前を過ぎる時、彼女が小さく三度ノックした。
― どうした?
― なんでもないわ。
― 悪いな。女房と激しく喧嘩しちまってな。やつが眠るまで家に帰りたくないんだ。
― いっそ、別れちゃえば?
― あんな奴に慰謝料なんか払いたくも無い。
― ご愁傷様。
― お前は、いいな。一人暮らしで。
その後、激しく揉み合う音が聞こえた。
― ちょっと、コーヒーだけって言ったでしょ。
― いいじゃないか、ほれ、こんなに興奮してんだ。
― やめて頂戴。
― お前の部屋でやるの、初めてだな。
― やらないって、今日は。
― やるよ。決めた。
男の声を合図に二人の体が床に倒れ込む音が響いた。
なぁ、俺は、心が引き裂かれるような思いだったよ。
やがて、彼女が喘ぎ声を上げ始めた。
俺との時は、冷静と言ってもいくらいに、声を上げない彼女が、だ。」
「結局、お前は、愛されていなかったんだよ。消臭剤だった、よな?」
「ああ、消臭剤だ。いいんだよ、それで。強がりでもなんでもなくな。
彼女の声は、リビングに響き渡っていた。
― おい、隣に迷惑じゃないか?そんなに声を出して。
男がおろおろとして言う。彼女は、構わずに声をあげる。
俺はな、ふと気が付いたんだ。あれは、俺に聞かせてるんだって。」
「思い上がりもいいところだな。」
「思い上がりでもいい、俺は、納戸を抜け出してリビングに向かう。」
「見つかるだろ。」
「四つん這いになって、そうっとだ。」
「体毛の無い、真っ裸の男がか。」
「そうだ。不気味な構図だな。
二人は、リビングの長いソファーの上で、灯りをつけたまま、下半身だけ裸になって抱き合っていた。微妙に動く男の背中が見え、その両側から、形のいい彼女の足、片方は生身で、もう片方は義足の足が、まるでそこから生え出たように突き出していた。俺は、気付かれないのをいい事に、テーブルを盾にしながら、二人の側面にまわった。
目をつぶり、彼女の体内の温もりや襞を感じる事に集中している男の顔を拝んでやった。
中年の疲労が浮かび上がった男の顔を見て、まぁ、驚いたね。いや、あり得る話なんだろうが、彼女がそんな女だったなんて、思いもよらなかったってのが、その時の感想だった。」
「もったいぶるなぁ。」
「ああ。そこにいたのは、誰あろう、俺の元上司で、俺を捨てた男。しかも、彼女が秘書をやっている男、芥川だった。」
「あり得る話だな。」
「まぁな、あり得る話なんだろうな、ざらに。
俺は、元来た方にそろそろと戻ろうとした。その時、まさにその時だ、彼女と目が合う。
俺と目が合って、彼女は、さらに激しく声を上げる。
― もっと、ねぇ、もっと頂戴。
そう言いながら、俺の方をじっと見て、俺に手を差し出した。
男の動きが速くなる。彼女は、殊更激しく声を上げた。俺に手を差し伸べながらな。
俺は、その手を握り締めてやりたい衝動に陥った。それを抑えつつ納戸に戻る。
暫らくして、風呂場のドアが開き、シャワーの音がして、二人の笑いあう声までがして、男は、芥川は帰って行った。
彼女は、玄関先まで見送り、ドアに鍵をかけると、納戸のドアを開いた。
― もう、出てきていいわよ。
― やめてくれ、こう見えても俺は強姦魔だ。明るいところは苦手だ。
― よく言うわよ、リビングまで出て来たくせに。
― 正直、心が引き裂かれるような思いだった。
― 嬉しいわ。
そう心にも無い事を言う。それは、その次の言葉を吐くための枕詞みたいなもんだった。
― あたしを愛してる?
― おそらくな。
― じゃぁ、あの男を殺してちょうだい。
― 何だって?
― 殺して欲しいの。一番、惨めな死を与えて欲しいのよ、あの男に。
― しかし、あの男を。
― 愛してるわ。ある意味ね。
― ある意味?
― 憎しみは、時として愛に変わるって言うじゃない?
― 聞いた事もないな。
― そうね、今考えた言葉よ。
― あの男に地獄を見せたいくらいに愛してるって事なのか?
― あの男を死以上の苦しみの中に叩き込みたいと言う憎しみは、愛と言う感情に似ているって事よ。アドレナリンが関与するって意味ではね。
― どういう事か、聞かせてくれないか。
― 高くつくわよ。
実際に、高くついたよ。しかし、俺は後悔していない。彼女の為に一肌脱ぐ事が出来たんだからな。なぁ、愛とはそう言うもんだろ。」
「一本の体毛も無い男が、愛を口にするか。まるであれだな、ノートルダム・ド・パリだな。」
「上手く言うじゃないか。せむし男か。そうかも知れんな。毛が無いと言う意味では、芋虫男だな。」
そう言うと、また笑いながら咳き込む。
「笑わないほうがいい。笑うと苦しむだけだぞ。」
「いや、いかに死を覚悟している俺でも、笑うと言う事はいい事だ。笑える事が嬉しいんだ。笑いながら死にたいもんだな、出来ればな。笑いながら前向きにな。
まぁ、俺の事はよしとして、彼女には、俺が芥川を知っているなんて、考え及びもしなかっただろう。
だから、その後、会社で起こった諸々の不祥事が、彼女から発しているなどとは、死んだ後でも思っちゃいないだろうな。
芥川は、彼女の妹を殺したんだそうだ。」
「いきなりな話だな。殺人犯なら、警察に捕まるだろ。それとも、交通事故か。」
「あいつは、芥川はな、アメリカ生活が長い。」
「お前もそうじゃなかったっけ。」
「まぁ、黙って聞け。アメリカ生活で、風変わりな性癖を身に付けて帰ってきた。
俺にも、何度か酒の肴に話して聞かせてくれた事があった。つまり、セックスの趣向の話だがな。別に、変態的なそれじゃあない。あの最中に首を占めたり、相手の足を鋸で切り落としながら興奮するとか、そんなんじゃない。あっちでは、ごく普通にやってる。
つまり、マリワナ、ヤクをやりながらセックスするのがいいらしい。勿論、日本じゃおおっぴらに出来ない。そんな趣向を持った女も少なければ、ヤクもなかなか手に入らない。入っても、どこで足がつくか分からない。まさに、人生をかけてやらなくちゃならない。
だがな、金さえ出せば、安全な場所と女とヤクを用意してくれるサークルがあるんだ。
勿論、暴力団絡みだがな。俺も芥川から何度か誘われた事があった。変な場所に出入りしたくなかったので、断ったがな、秘密は守ってくれるし、変な押し売りはしないし、ちょっと割高だが、送迎付でまず誰にも見つからないんだそうだ。」
「しかし、自分がヤク漬けになってしまったら、元も子も無いだろ。」
「自分じゃやらない。そんな危険な事は、さすがにしない。」
「自分でやらないで、じゃあ、どうするんだ。」
「ラリった女とやるのがいいんだそうだ。随分積極的にいろんな事をやってくれるんだそうだ。相手も、快楽をむさぼるんだそうだな。」
「つまりは、自分は傷つかない所で快楽だけを得るって事か。」
「サラリーマンのたしなみだな、それが。」
「それと、彼女の憎しみってのが、どう結びつくんだ?」
「うん。彼女には、妹がいた。両親を早くに無くし、妹と二人で頑張って生きてきたんだそうだ。」
「お涙頂戴か。」
「まぁ、聞け。親戚の家に長らく厄介になってたそうなんだが、彼女が大学入学を機に妹と二人暮しを始めた。彼女は奨学金を貰いながらアルバイトもして、妹を高校に通わせていた。ところがな、妹は、彼女に内緒で売春をしていた。」
「姉の心、妹知らずか。」
「そうでも無い。姉の心を知り過ぎて、何とかしたかったんだろう。金銭的に。
と、妹の葬式にやって来た売春仲間が言っていたらしい。」
「葬式って事は、死んだのか?」
「ああ。麻薬の量を間違えたらしい。それよりも何よりも、彼女の妹の最後を知る女の子からの情報では、妹は無理やり麻薬を打たれたんだそうだ。知り合いになった組事務所の男から、いい金になるからと、あるパーティーに誘われた。一緒に行った女の子の話では、どんなパーティーだか内容は聞かされてなかったらしい。おじさん達を相手に話の相手なんかをすればそれでいいんだと説明を受けた。パーティー会場に着いて見ると確かに背広姿の人ばかりで、そんな危なそうな人達はいず、中には彼女達に酌をさせながら仕事の話をしている人もいたんだそうだ。彼女達は、最初、これで普段売春するよりいいお金が貰えるなんてラッキーだねと、言い合っていた。
上品そうな男達が本性を現すのは、そのちょっと後だ。雰囲気も和やかになり、話も弾み始めた。が、ふと気がつくと、彼女達はバラバラにされ、それぞれが何人かの男達に取り囲まれていた。やがて、会場内の照明のいくつかが落とされ、薄暗くなった。
男達は、顔付きだけは優しげだったが、既にその目は笑っていなかった。まぁ、つまり、それがそいつらの会社での普通の顔なんだがな。誰かが、妹の腕を握って逃げられなくした。いや、その話してくれた女の子がそう言う目に合ったんだそうだ。おそらく、彼女の妹も同じ目に合ってた筈だ。あっちこっちで、パーティーに出ていた女の子達の叫び声が聞こえた。その所為で会場内が異様な雰囲気に包まれた。その雰囲気に、男達はのめり込んで行った。まるで、どこかの裸族の宗教儀式みたいなもんだったんだろうな。
女の子達を誘った男がそれぞれの一団の誰かに注射器を手渡した。男達が総出で女の子の体を押さえつけた。一人が、女の子の腕に注射する。女の子達の悲鳴が響き渡り、会場はさらに異様さを増した。それからは、あまり覚えていないそうだ。ヤクが効き始め、その子も頭が朦朧としてきた。男達の手によって服が脱がされ、どこかでシャッターの音もした。俺達の顔は写さないでくれよ。誰かが怒鳴る。わかってますよぉ。聞き覚えのある若い男の愛想のいい声。おい、ちょっと。向こうの方で声がする。やばかないか、これ。やばいよ。大丈夫ですよ。何たって薬は始めての子達ばかりですから。ちょっと、効き過ぎてるんでしょ。薬の量、間違えてないだろうな。大丈夫の筈ですよぉ。おい、吐いたぞ。汚ねぇなぁ。痙攣してる。ガタガタ震え始めたぞ。駄目だ、瞳孔が開いている。
おっと、この辺りは、俺の想像だ。
結局、そのおかしくなって吐き散らし、痙攣し始めたのが、彼女の妹だった。
彼女の妹の最後を看取った者は誰もいない。妹と一緒に参加した女の子の話では、パーティーは結局最後まで続けられた。苦しみ悶える彼女は会場の片隅に打ち捨てられ、それ以外の少女達は、朦朧とした意識の中で多くの男達と交わり、精液だらけになった。その後、主催者側の男達によって体を手荒く洗われ、服を着せられ、朝方、ワゴン車に乗せられて、隣町の河川敷に降ろされた。
その時は、彼女の妹の姿は無かったそうだ。変わり果てた姿で見つかったのは、それから三週間後だ。彼女らが降ろされた河川敷の随分上流の山中で、ところどころ野犬に食われ、腐乱した状態で見つかった。土中に埋められていたんだが、たまたま雨が続いて、土が流され、腕が出ているところを竹の子狩りに来た近隣の農家の主婦が見つけて警察に通報した。彼女が出していた捜索願と、歯の治療後が身元特定の決め手となった。警察は、彼女に、死体を見ないほうがいいと言った。損傷が激しいからと。彼女はどうしても見ると言って棺桶の蓋を開けさせたが、本当にそれが妹である確証は得られなかったそうだ。
それから、警察の捜査が始まったが、犯人の手がかりは得られない。女の子達が連れていかれた組事務所らしき場所は閉鎖されていたし、パーティーを主催した連中は、とっくに行方をくらましていた。目隠しして連れて行かれたので、勿論パーティーの行われた場所なんかわからない。中国の昔の兵隊の人形が会場の入り口にあったと言う事だが、それだけでは何の手がかりにもならない。
結局、半年過ぎても手掛かり一つ得られない警察なんかを頼った自分が馬鹿だったと、彼女は悟った。
彼女は、自分で犯人を探し出す事に決めた。」
「しかし、どうやって。警察ですら何ともならなかったのに。」
「そこだよ。警察では何ともならない部分も、女を武器にすればなんとかなると考えた。」
「特攻隊か。」
「大学も中退して、夜の世界に身を投じた。パーティーを主催した組織の人間は雲隠れしたかも知れないが、客となって参加していた連中は、そうはいかない。組織が身の安全を確保していたから、誰一人、取調べを受けた者はいない。妹の友達の話では、品性怪しからぬ連中だった。って事は、近隣のサラリーマンだろう。必ず、何処かでその尻尾を捕まえられるに違いない。
好きな奴は、なかなかその道を諦められない。必ず、同じようなパーティーに参加するだろう。
彼女は、そう考えた。で、あっちこっちで聞き込みを始めた。しかし、相手は、まさに常日頃から危ない橋を渡り、特に今回は死者まで出してしまった連中だ。おいそれと姿を見せる訳が無い。
それに、後ろで網を引いているのは巨大な暴力団組織だ。情報網は、彼女の想像の域を越えている。彼女が、方々で嗅ぎ回っている事は、既に今回のパーティーの黒幕の耳に入っていた。
ある日、夜の商売で知り合いになった女を通して、その組織の幹部の宴会に誘われた。いいお金になるからと。
彼女にとって、お金なんてどうでもよかった。自分の知りたい事、妹が誰に、どのようにして殺されたのか、その事に少しでも近付きたい。その一心で、自ら危険に飛び込んで行った。
待ち受けていたのは、まさに、金と欲の為に人間を捨て切った最も危険な連中だった。宴会の酌婦として誘われたが、勿論、そんな事で済む筈が無い。いや、その時はそれで済んだ。
集まった幹部連中は、その後、彼女の始末の仕方を話し合った。事故に見せかけて殺すか、海外に売り飛ばすか。
彼女が殺されなかったのは、その知的な風貌と、プロポーションのおかげだったが、彼女にしてみれば、その時、殺されていた方が良かったと思えるような仕打ちが待っていた。
連中の中の一人の男が、彼女に目をつけた。三十半ばだが、押し出しが効き、頭が切れた。組織で生き残るだけの残忍さも身に付けており、将来を嘱望されていた。
その男が、知りたい事を教えてやろうと、彼女を呼び出した。後で分かった事だが、その男が例のパーティー主催者の黒幕だった。パーティーの収益は、概ねこの男の懐に入っていたわけだ。彼女の妹の死体を人目につかないよう片付ける事を命じたのもこの男だった。
彼女は、この男に指定されたホテルのスイートルームに出かけていった。
そこで、睡眠薬入りの酒を飲まされ、まぁ、後はお定まりの目にあった。
目覚めた彼女に男は言った。
― 組織から何かを聞き出そうとするなら、お前も、それなりの覚悟を決めてかかるんだな。そうでなければ、手を引け。
彼女は、その言葉で自分の方針を決めた。
その後も、男は彼女を呼び出した。最初は、男の相手だけだったが、やがて、政治家や財界人の相手もさせられるようになった。つまり、高級コールガールって奴だ。
と同時に、男は彼女を麻薬漬けにした。それだけじゃない。男は、初老の彫り師を連れて来た。
― こいつは人間国宝級だ。
男はそう紹介すると、彼女に入れ墨を強制した。
彼女は嫌がったが、麻薬を取上げられ脅されると、長くは抵抗できない。
やがて彫り上げられたのは、左足太股の内側に、まるで生きているかのように張り付いた紅いトカゲだったそうだ。
それは、じとりと黄色い目で彼女を見上げていた。舌の先が、彼女の性器に向かって今にも這いずって行きそうだった。
確かに芸術だったらしい。組織の男は、グラビア専門の写真屋に彼女の裸を撮らせた。
そのうちの一枚、紅トカゲと性器がクローズアップされた作品は、遠く海外でも人気を博した。それを目当てに金を払って彼女と寝たがる海外の大物もいたそうだ。
彼女を見つけ出した男の株はどんどん上がり始めた。
男は、しかし、前にも増して彼女の体を酷使した。一晩に何人もの男と交わらせたり、同時に二人の男と交わらせたり。
それをビデオに撮らせたりもしたらしい。
ビデオは、今でも好事家の手元に保管されているんだそうだ。」
「見てみたいもんだ。」
「見ても彼女とはわからないとさ。」
「何故?」
「その世界から足を洗う時に整形して、完全に顔を変えてしまったのだそうだ。
俺なら体で分かると思うがな。」
「しかし、よく抜け出られたな。」
「ある日、彼女はマニラに派遣された。組織が得意客を招き、まぁ、お定まりのパーティーをやるのさ。地元の娘達も集められていたが、やはり、上得意にはそんな娘じゃ話にもならない。特に、フィリピンの海洋レジャー開発に組織が乗り出しており、その決裁権を持つ大物が参加していた。そこで、彼女にお呼びがかかったってわけだ。
例によって例の如く、パーティーが始まり、暫らくすると、客達は三々五々お気に入りの女の子を取り巻き始める。
そして、注射針が持ち出され、女の子の中にはここで逃げ出そうとする子もいたが、押さえつけられ、集団ヒステリーにさらに火がついた。彼女は、マニラの大物の膝の上で、無骨な指で彼女の性器を触らせながら、この様子を見ていた。
と、あまりにヒートアップした会場内の雰囲気を冷まそうと、一人の男が会場内を走り回り、それぞれの集団のリーダー格らしき男に声をかけ始める。
― お手柔らかに、お手柔らかに。
と、男は言っていた。
― お手柔らかにしていただかないと、日本だけでなく、ここでも商売できなくなりますから。
― 日本じゃあ、あんたが殺したそうだからね。
その声にムッとした様子だったが、
― ああ、これはこれは。少々お待ちください、いい娘をお連れしますから。
― この娘でいいよ。どうせズブの素人を連れてくるんだろ。この前みたいに、クスリ打ち過ぎて、目の前で天国行きってのだけはやめてくれよ。
― まぁまぁ、こんなところで、そのような物騒な事をおっしゃっていただくと。
― 何かあったのか?
と大物が尋ねた。
― 前に誰かが死んだらしいわ。
と、彼女は答えたが、心中穏やかではなかった。
その男に復習するのは簡単だった。
彼女も、それなりに裏の世界を見ている。
刃物や銃器くらい手に入れるルートの一つ二つは知っていた。
だが、それよりも妹の最後を知りたい思いの方が強かった。
彼女は、マニラの大物に上手く取り入った。
組織としても、この大物の後ろ盾が必要だった。
彼女は、そのままマニラに住み着いた。
大物の相手をしながら、組織が主催する闇のパーティーにコンパニオンとして参加し、妹に麻薬を打ったと言われている男に近付いた。
彼女ほどの美人に言い寄られると、最初は警戒した男も気を許し、時折一夜をともにするようになった。
男は、彼女に麻薬を打ちながら、寝物語に彼女の妹の最後を語った。
― 客がな、薬が効いてないって言い出したんだ。俺は、それ以上は危ないって言ったんだが、大丈夫だって言い張るんで、もう一本打ったんだよ。そうしたら、いきなり泡を吹き出してさ。俺は、これは危ないって何度も言ったんだが、その客が、その客もかなりきてやがったから、大丈夫だ、これでいいんだって言いながら、ガクガク痙攣し始めた女を抱いてるんだ。まだ幼い顔をしてたなぁ。
― で?」
「で?」
俺も思わず同じように訊いた。
「― 白目を剥いて、動かなくなったんで、慌てて医者呼んだけど、心臓が動いてねぇって。それからだよ、俺に嫌な役が回ってきたのは。兄貴が、死体を片付けて来いって、俺に言うんだよ。しばらくマニラにでも潜伏して、帰国したら位を上げてやるからって。で、仕方無しに死体を埋めに行った。できるだけ身元がわかんねぇように裸にひん剥いて、そうそう、手の指紋焼いて、歯も全部抜いたな。そうしろって言われて。」
「そうまでしたのに、どうして彼女の妹だって分かったんだ、その死体が。」
「彼女が捜索願い出してたのと、DNA鑑定だな。」
「それから、男を殺したのか。」
「いや。彼女は、妹が瀕死状態にありながら、無情にもその体を弄んだ男を見つけたかった。
― 顔は見知ってるんだが、さて、どこの誰だかなぁ。
そうだ、何年かに一回くらいマニラにも出張で来るって言ってやがったから、連絡先を渡しておいたな。しかしな、奴が来たら気をつけるんだぜ。見かけは普通のサラリーマンだが、俺達よりたち悪いかも知れねぇ。
― その人が来たら、あたしに教えてくれない?帰国した時の得意客にしたいのよ。
― そんな事しなくったって、ここにいれば楽しくおかしく暮らせるじゃねぇか。
― 今はね。でも、死ぬまで居るのはごめんよ。
― 帰国しても、俺が食わしてやっから。俺、お前に惚れちまったよ。
― あんたの兄貴分から、あたしを横取れる?その勇気があるの?
男は、そのまま黙ってしまった。彼女だって、元より期待していたわけじゃない。
妹を死に追いやった客を見つける。その客から妹の最後を聞きだす。それから、復讐する。
彼女の頭の中にはそれしかなかった。
男は、彼女の言葉を真に受け、日本の馴染み客を見ると、彼女に教えてやった。
だが、それらはどれも、妹を直接的に殺した相手ではなかった。
その少し後のことだが、マニラ郊外で日本人観光客の死体が何度か見つかったそうだ。
彼女が、大物の手下に依頼していたんだな。
どのように理由を話して殺しを頼んでいたのやら。
日本から警察も来たらしい。何一つつかめずに帰ったそうだが。
殺された方も、たいていは、日頃真面目に仕事をする、良き家庭の父親であったらしい。
つまり、そう言う事なんだな。組織の得意客は、その手の筋の人間ではなく、普通の小市民だって事。」
「で、彼女は、結局、妹の仇に会えたのか?」
「まぁ、あせるなって。
男は、妹の仇は、闇のパーティーには現れなかった。」
「じゃぁ、会えなかったのか。」
「それがな、マニラの街中で出会ったんだ。
一緒に歩いていた男が、道の向こうにいきなり走って渡ると、その先を歩いてきた男にペコペコし始めた。された方は、知らぬ顔して行き過ぎようとする。
男に紹介された男達は皆、この男もそうだったが、やはり普通のサラリーマンで、まさに出張の真っ最中と言う様子だった。
暫らく立ち話をし、再びこちらに戻ってきた男が、地面に唾を吐きながら、
― けっ、お高く止まりやがって。迷惑だから、こんな所で声をかけないでくれだと。それにもう、あんな遊びからは手を引いただと。ふざけんじゃねぇ。誰のせいで危ない橋渡らされてると思ってるんだ。
― 誰なの?
― 例の男だよ。あいつのせいで危ねぇ橋を渡らされた。
― そう。
彼女は、慌てて目で後を追ったが、男の姿は人ごみの中に紛れ込んでしまっていた。
― 何故、もっと早くに教えてくれないの?
― あんなんじゃなくて、もっと上客を教えてやるよ。
― あなた、悔しくないの。あいつのせいで日本出なくちゃならなくなったんでしょ。
― そりゃ、まぁ。
― そんな奴に、あんな風にペコペコ頭下げるの?で、相手の氏素性も知らないんでしょ?見下げた男ね。あたしなら、相手の素性を調べて、いつでも脅せるくらいの準備をしておくわよ。
― しかしなぁ、それが組織の仕事だから。
― 組織関係無いでしょ。男としての、あなたの物の考え方でしょ。自分自身に筋も通せないなんて、そんな男、こちらから願い下げだわ。じゃね。
彼女は、そう言い放って、憮然とする男を後に残して歩き去った。
男は、はなから大した男じゃなかったが、それから何日か街中を捜し歩いて、男の名前を調べたらしい。
彼女がその名前を知った時、男は消える運命にあった。
もうこれ以上付き合う必要が無いからな。
彼女は、大物に彼の始末を依頼して、さっさと帰国した。」
「帰って来れたんだな。」
「ああ。でないと、有能な秘書であり、俺の愛人でもある彼女の存在は無い。」
「お前の愛人なのか?」
「その積もりだが。」
「消臭剤とまで言われてか?」
「そう言う愛があってもいいだろ。」
「その消臭剤に名前をつけてやろう。『砂漠のブリザード』ってのはどうだ。」
男が、咽るように笑う。暫らく笑い続け、やがて最後に激しく咳き込むと、そのまま動かなくなった。
「どうした、大丈夫か。」
恐る恐る声をかけると、一つ大きく息をつき、
「ああ、大丈夫だ。
しかし、そろそろいけないな。話は、まだ半分過ぎた辺りだ。どうせなら、全て吐き出してから逝きたいもんだ。」
「無理せずに、回復するのを待ったらどうだ。」
「この状況で、まだそんな事を言うのか。まぁ、所詮は他人事だがな、お前にとっては。俺は、最後まで語るぞ。お前は、聞きたくなければ聞かなければいい。」
「好きにするさ。どうせ、間も無く夜が明ける。」
そんな俺の言葉を無視し、
「帰国すると、彼女は。」
と、男は再び語り始める。
「組織から足を洗おうとした。
だが、組織はそれ程甘くは無い。」
「そりゃそうだろ、彼女は組織にとって、いい金づるだったんだろ。」
「ああ。それに、マニラの大物が彼女を気に入ってしまった。
組織にしてみれば、彼女を神輿代わりに担いで、マニラでもっと甘い汁を吸おうとしていた。程なく、彼女は闇の世界の有名人となる。レッドドラゴンというコードネームでな。
そのコードネームは、彼女をますます輝かせる事になった。名前だけで人が集まり、名前がお金を生んだ。彼女は、週に一回も抱かれれば、充分に贅沢な生活ができるようになった。お手伝いを雇って、まさに有閑マダムの生活を楽しんだ。
期せずして生まれた日常生活のゆとりだったが、しかし、彼女はそのゆとりを無駄にはしなかった。ようやく見つけたターゲットを追い詰めるために力をつけることを始めた。
彼女は、日本の大学でMBAを取得した。
マニラから帰ってきて三年目だ。その間に、ターゲットはどんどん出世していった。
彼女を組織に拾い上げた男も、組織の中でどんどん勢力を拡大していった。
アメリカの組織との交渉や接待に彼女が使われる事も多くなった。
しかし、反面で、その頃から、彼女は組織から抜けることを考え始めた。
彼女は、芥川を殺人犯として、公の場で裁きたいと思ったんだ。
彼女の組織でのコネクションを使えば、死よりも苦しい死様を相手に与え、復讐を遂げるくらいは簡単だった。マニラの男にしたようにな。
しかし、それでは彼女の気持がおさまらなかった。
組織は、芥川の殺人を、巧妙に隠蔽していた。でないと、自分達にまで被害が及ぶからだ。だから、組織の中にいても、何一つ芥川の妹殺しの証拠は掴めないだろう。かといって、組織に囲われたままで芥川の近辺を洗う事もできない。そんな事をすれば、組織はやっきになって彼女を妨害するに違いない。
しかし、今の彼女を組織が手放す筈も無い。
彼女は、彼女なりに考えた結果を行動に出した。
わかるか?」
「いや。」
「激痛の果てに彼女は気絶した。次に目覚めたのは病院のベッドの上だった。」
「どう言う事だ。話が極端に飛んでしまっているぞ。」
「まぁ、聞け。
この部分は、最後まで話してもらえなかった。余程辛かったのだな。
病院のベッドで目覚めた彼女は、左足が無い事に気付く。
― 無くなったんですね。
彼女は、傍らの医師に尋ねた。
― お気の毒です。
医師がつらそうに応えた。
そりゃそうだろ、彼女の足は、芸術的に素晴らしかった。
組織の男が、そこに国宝級の絵を描かせたかった気持がわからないでもない。」
「何があったんだ。」
「さて、硫酸でもかけたか、溶鉱炉にでも突っ込んだか、電車に轢かせたか、プレス機を作動させたか。ともかく、彼女は望みを果たした。左足を失うという望みをな。」
「信じられん。」
「組織の男が見舞いにやって来た。
男は、彼女のベッドを蒲団を剥ぎ取った。そして、左足が無い事を知った。
あの紅いトカゲの刺青のあった足だ。
彼女は、微笑んだ。それで、男は彼女の意図を察した。
― そうまでして。
― あなたは、それなりの覚悟で組織と付き合えと、一番最初に教えてくれたわ。
― 惜しい女だ。
男はそれだけ言うと、病室を出て行こうとして、もう一度彼女の側までくると、
― お前がマニラで情夫にしていた奴だが、マニラ郊外の冷凍庫の中で見つかったぞ。体中切り刻まれ、骨が折られ、ありゃ生きながらにして地獄を見ただろうな。最後は、冷凍庫で凍死。そのまま五年近く放りっぱなし。そこまで憎かったか。
― 弱い男が嫌いなの。で、どうするの?私を殺す?
― いや、どっちにしろ、あいつは命の無い身だった。別にかまわん。お前は、つくづく惜しい女だ。組織には、俺からよろしく言っておく。
男はそう言って病室を後にした。彼女の口座には五千万振り込まれていた。それが、組織の男なりの落とし前だったんだろう。
男の振り込んでくれた金は、義足と整形に使ったそうだ。
まず、最高級の義足をあつらえた。全体がシリコンで出来ていて、触った感じは生身の足と変わらない。数ヶ月のリハビリを経て、普通に歩けるようになった彼女は、退院し、それから、整形手術を受け、顔を完全に変えてしまった。
そして、芥川の後を追って、渡米した。」
「殺すためにか。」
「いや、奴に近付き、まずは気に入られるためにだ。
彼女が渡米したのは、調度、俺が例の事件に遭遇した頃だな。
事件に巻き込まれなかったら、俺も彼女に熱を上げていたかもしれん。
俺がベッドの上にうつ伏せになり、肉体的な痛みと精神的な苦痛に、身も心もすり減らしていた時、奴は、芥川は何も知らずに、近付いてきた彼女とよろしくやっていたわけだ。
彼女の肉体だけでなく、頭脳の優秀さと交流の広さにほれ込んだ奴は、社長に推薦し、自分の秘書として抱え込んだ。彼女は、芥川の期待以上の働きをした。
はるばる日本まで来て、彼女を抱いた男は、その国にも沢山いた。
彼女の魅力もあったが、左足に国宝級の刺青を持った女というネームバリューが大きかった。各界の著名人が、日本での仕事の後、彼女を抱く事を求めた。
それで組織が潤ったが、彼女も顔を広げていった。」
「しかし、整形手術で顔を変えてしまったんでは、どうしようもないだろ。」
「向こうの連中にすれば、一度会った程度じゃあ、誰が誰だかなんて見分けはつかない。
ただ、左足に芸術作品を持った日本の美しい女にかしづかれ、優しく、濃厚に持て成された記憶は忘れない。
通常ではとても取り次いでもらえない大物にも、とりあえず、連絡はつけてもらえた。
しかし、それ以上のビジネス取引の話をしようと思えば、後は本人の腕次第と言う事になる。」
「その能力を持っていたと。」
「そうだ。
知力、会話力に加えて度胸も十分に備わっていた。そりゃ、修羅場をくぐって来たんだ。当たり前と言えば、言える。
スケベ心で時間を取ってくれた大物達も、もはや彼女の左足に刺青が存在しないとなると、俄然興味の失せた顔になる。何しに来たんだと、身構える者もいた。そこで、彼女は左足を失った経緯を多少の法螺を交えて語る。相手の顔に同情と憐憫が宿る。さらに、リハビリを経て、社会に復帰した話をし、自分の夢を語る。ビジネスの世界で大きく羽ばたきたいと。そこで、たいてい、彼女は抱きしめられ、そのままベッドインというケースも何度かあったらしいが、たいてい、何でも言ってくれ、力になると約束してもらえる。
彼女は、助言と友情を与えてさえくれれば、最大限の恩返しをしたいと申し出る。
後は、彼女のステージだった。
そこから色々な人脈を引き出した。勿論、ビジネス、頭脳、肉体の全てを駆使して、感謝の意を表した。
芥川は、その上に乗っかっていただけだな。
そのおかげで、奴は専務にまで昇進した。」
「それが、彼女の復讐なのか。」
「彼女の目的は、妹の死の瀬戸際の様子を、それを目の当たりにした芥川本人から聞き出す事。芥川の罪を暴き、公にし、芥川を法により裁く事。」
「そのために奴を出世させた。」
「出世させたかったわけではなく、奴の信用を得たかった。
事実、芥川の彼女に対する信用は絶大だった。
しかし、それでも一番つかみたい尻尾は、なかなかつかめなかった。
奴は、用心し過ぎる程に用心していた。
さすがに懲りたのだろう。証拠となりそうなものは全て処分していたし、組織への連絡も一切絶っていた。
彼女は、しかし、奴が油断する時をじっと待っていた。
奴が一日のうちで最も長く接するのが、仕事の上でも、プライベートでも彼女だった。
が、尻尾を見せない奴に、彼女もいらつき始めていた。
そんな時だな、俺が彼女の前に現れた。」
「強姦魔兼消臭剤としてな。」
「そうだ。」
「消してしまいたい匂いと言うのは、彼女の過去か、それとも。」
「芥川の匂いだ。」
「それは、お前の願望じゃないのか。」
「どう言う事だ。」
「彼女は、奴への復讐を誓いながら、実は奴を愛し始めていた。」
「くだらん小説の読みすぎだな。女は、特に彼女ほどの経験を積んだ女は、そこまで単純じゃない。愛していたとすれば、自分自身の中にある芥川への憎しみの心だな。
それが、彼女の生活に張り合いを与えていたのは事実だろう。
男は、単純だ。芥川は、その愛情が自分に対するものである事を信じて疑わなかった。
全面の信頼を置き、全人的に甘えていた。」
「だが、尻尾はつかませなかった。」
「さすがにな、狸も歳と経験で、化け物になる。」
「それで、お前が彼女の依頼を受けて奴を殺したか。」
「馬鹿な。彼女は、俺に、奴を殺してくれと寝物語には言ったが、本気じゃない。
それぐらい、彼女の心は読める。
なぜなら、俺は、彼女を愛していた。
さらに言うなら、彼女から愛されていなかったからな。」
「やはり、ノートルダム・ド・パリだな。」
「俺は、ゲイの男の力を借りて、芥川の身辺を探り始めた。
が、奴の行動で、問題があるとすれば、秘書に手をつけ、個人的な楽しみに供した事と、会社の資産であるパソコンを個人の株売買の道具に使用したと言った程度だった。
俺は、その間にも彼女にのめり込んで行った。ゲイの男にその事を隠すのに必死だった。
が、ゲイの男もうすうす気付き始めた。俺に、毎日のようにベッドを共にする事を要求した。
俺は、奴と交わった後、彼女の部屋に忍び込みに行った。」
「よく体力が持ったな。」
「ゲイとは必ず交わったが、彼女と交われるのは、何回かに一度程度。」
「じゃぁ、何しに行ったんだ。」
「ただ、近くにいたかったんだ。
彼女の消臭剤としてな。
そして、彼女の中のブリザードを感じていたかった。
わかるか。」
「同情的にな。」
「それでいい。この想いには同情が似合いだ。」
「そうまで愛した挙句の衝動殺人か?」
「確かに咄嗟の殺人だったが、衝動的ではない。これは、彼女の側から仕掛けられた交換自殺だな。」
「よく分からないが。」
「まぁ、聞け。
俺は、彼女の気持を激しく汲んだ。
さらに、そう言う彼女を愛した。
何とかしてやりたかった。眠りについた彼女の手を握り締めながら、そう考えた。」
「良く嫌がられなかったな。」
「言ったろ、消臭剤だ。それ以上でも、それ以下でもない。
言わば、彼女にとって俺は、この世に生命体として存在しない。」
「そんな馬鹿な。」
「いや、それでいいんだ。俺は、彼女の側にいると、自己嫌悪に陥る事も無く、安心できた。彼女も、俺だと平気で裸になれた。まさに、ブリザードと砂塵。
互いに見知り、時に交合しながらも、確実にすれ違っている。そのすれ違いが嬉しいのだ。」
「ますます、お前と言う男が分からなくなった。」
「分かって欲しいとは思わない。
ようやく芥川の尻尾を掴める時が来た。
芥川は、必ず月に一回、ネットバンキングで、ある口座に金を振り込んでいる事が分かった。金額は確定していない。
多い月で三十万、少ない月で五万くらい。社長からの情報で株を売買し、儲けた額をそのまま送金しているようだったな。
― 企業を模した愛人の口座だったりして。
ゲイの男が言った。
― どこの企業が調べられないか。
しばらくして彼が引っ張り出してきたのは、サラ金業者リスト、その中でも闇金融と呼ばれる会社のリストだった。どこから入手したか警察のブラックリストデータだった。
― こんなところからお金を借りてるんだ。
― まさか。奴ほどの信用なら普通の銀行でも充分貸してくれる。
― 使い先をあかしたくなかったとか。
― 例えば?
― 秘密クラブってあるでしょ。そういう所に加入してるのかも知れませんね。
― 月会費か。だったら金額も一定してるだろ。何故、こんなに月によって差が出るんだ。
― 株売買に連動してるようですけど。
― もう少し、この金融会社の情報を取れないかな。
― 警察のブラックリストに掲載されているんで、結構ハードな取立てをしてる事務所だとは思いますが、逆に、そう言う所ほど情報を開示しませんからね。
― 行ってみるしかないな。
― あなたがですか?
― お前を行かせるわけにはいかんだろ。第一、お前が行けば怪しまれる。
― あなただって。
― 年相応ってのがあってね、若いのが行く場所じゃないだろ。大丈夫だよ、ちゃんと変装して行くから。
俺の変装は簡単だ。眉毛と鬘を取り、みすぼらしい服装に着替えるだけだな。
控えた住所の場所は、安っぽいスナックやピンサロの建ち並ぶ一角にある細長いビルで、看板も何も出ていない。一階の郵便受けには、ずらりと闇金らしき事務所の名前が並んでいた。目指す事務所は三階だった。
階段を上がろうとして、上から厚化粧の年増女が降りてきた。
階段は狭くて、一人すれ違う事も出来ない。俺は、一旦外に出て女が出て行くのを待つ。
女は、すれ違いざまじろりと俺を値踏みした。
俺は、毛網帽の下でニヤリと笑ってやった。
女は、顔をしかめて行ってしまった。水商売の染み付いた後姿だったな。
狭い階段を三階まで上ると、蝦茶色のペンキの塗られた汚い鉄製のドアがあって、『訪問販売お断り』のプラスチック板が歪んで貼り付けられていた。
ドアの横のインターホンを押すと、ややあって
― どちら様ですか。
と、低い男の声がした。
― 金を借りたいんだが。
そう言うと、
― こちらは、そう言う場所ではないですが。
と、返答があった。
― おかしいなぁ、昨日、飲み屋で出会った人が、ここなら親切に貸してくれるって教えてくれたんですけど。
― そう言われましても。
― 困ってるんです。今日中に返さないと。
― だから、ここはお金を貸す場所じゃないって言ってるでしょ。
― あなた、嘘言ってるでしょ。ここは、お金を貸してくれるところに決まってるんだ。
と、突然後ろから首をつかまれ、ドアに顔を押し付けられた。
下から人が上がってくるのに気が付かなかったんだな。
― おい、お前、一体何処のまわしものだ。
― ちょ、ちょっと、苦しいですから、そんなに押し付けないで。
― 正直に言え。何処の回しもんだ。
― 分かりましたよ。とにかく放してください。
ようやく首に押し付けられた力が弱まった。
中から鍵の開く音がして、いきなりドアが開くや、そのまま玄関口にもう一度、今度は体ごと押し付けられた。
人一人通れる程度の狭い玄関口に、靴が何足も乱雑に放り出され、平たくなったスリッパが、その向こうに入り乱れていた。
部屋に通ずる廊下のところに男が一人立ちはだかり、俺を見下ろしていた。
― 怪しそうにも見えないなぁ。
― 馬鹿、用心した方がいいんだ。最近、取締りきついからな。
― 警察ですか?こいつが?
― ちょっと、冗談じゃないですよ。警察ならこっちも苦手なんだ。
― 誰にここを聞いた?公告も出してないんだぜ。
― だって、お金貸してくれるんでしょ。
― だから、ここでは貸さないって。電話で申し込んできた相手に名前や住所登録させて、銀行に振り込むんだよ。そうしないと、闇で金貸しやってるのばれちまうからな。
― 馬鹿野郎、調子付いて説明すんじゃねぇや。
俺を押さえつけてるのが一括した。
成る程、そう言うことだったんだ。
って事は、このまま金貸せとごねた所でこっちの身が危くなるだけだ。
― わかりました。正直に申します。私、興信所の者です。
― 興信所だと?
― はい、ある方の奥様から依頼されまして。
― 名刺見せてみろ。
― こういう所に来るのに、名刺なんか持ち歩くわけ無いじゃないですか。
― おい、押さえつけてるから、財布とか手帳とか探せ。
― カードと、金が千円ぽっきりの財布しかないですよ。
― 興信所もしみったれてるんだな
― 用心してるだけです。
― で、誰の情報をあさってるんだ。
― 芥川って方なんですが。一部上場企業の専務をされてます。
― 俺達と関係持とうとする奴らで、正直に自分の事をしゃべる奴なんかいないぜ。
― 奥様に内緒で借金の御返済をされてるんです。
― うちにか?
― はい。そのように聞いております。
― あのなぁ、いくら闇金でも、お客のプライバシーは守るんだよ。
― そりゃまぁ、そうですね。
俺は、疑い深い蛇のような視線の中で、情報収集をあきらめ、そこから逃げ出す事だけを考えた。
爬虫類のような目があるとすれば、それだな、奴らの目は。
人間の感情をかなぐり捨てた目。
そんな目を向けられて耐えられる者も少ないだろう。
と、奥の部屋の壁に飾られた美しい等身大の裸の写真に目を奪われ、吸い寄せられた。
裸の女が、腰に手をあて、足を開き気味にして、挑戦的にこちらを見ている写真だった。
― あれ。
思わず指を差す。
― 何だ、どうした。
俺の視線を奴らが追う。
― あの写真。
― お前、こんな時に裸の写真に目を奪われてどうすんだ?重しつけて海に放りこまれっかも知れねぇんだぞ。
均整のとれた、美しい裸だった。女性の眼差しにも知的な輝きがあった。しかし、どこかで見た裸だとも思った。
― おいおい、物騒な事言ってお客を怖がらすなよ。
俺を押さえつけている方が言う。
― あの、そろそろ疑いも晴れたでしょ。
― 俺達は、世間様に背中見せて生きてんだ。用心深くなけりゃ、いつその背中を刺されるかわかったもんじゃねぇ。
― じゃあ、どうやったら疑いが晴れるのかなぁ。
― そうだな、まず、お前のような男が俺達の周りを嗅ぎ回っていないかどうかを確認する。それからだな、どうするか決めるのは。
― それまでこんな風に押さえつけられてなきゃいけないのか。
― じゃぁ、まぁ、こっちへ来い。ただし、変な真似するなよ。
俺は、男に腕を捩じ上げられながら、事務机二つに電話が十個ばかし載った歪な事務所に通された。
壁に飾られた女の写真は、入り口からは半分しか見えなかった。
それが、中に入るにつれ、全体像が見えてくる。
俺は、さらに目を疑った。
女は、全くの全裸で、陰毛を隠す事無く立っている。薄めの陰毛のさらに左下、赤い蜥蜴が、その女の陰部を狙っていた。入り口からは、柱に遮られていた部分だ。
黄色い目をした赤い蜥蜴が、赤黒い舌を女の陰部に向かって突き出している。
女の太股に絡みついた四本の足が、じわじわと這い登っていく錯覚を与える。
― これは凄い。
― これはな、俺達の組の宝だ。
俺は、女の顔をまじまじと見つめる。
どこかで見た裸だと思った。これは、彼女だ。香織だ。
女の顔は、香織とは似ても似つかない。いや、これこそが本来の彼女の顔なのだ。
俺がいつも見ているのは、整形した後の顔なのだ。
確かに、美しさから言うと、今の顔のほうが美しい。
しかし、この時代の顔、何とも言えない憂いを含んでいて、見るものをひきつける。
そして、今は義足に変わった彼女の左足。
たしかに、生きているような赤い蜥蜴がいた。
― 素晴らしい絵だろ。
― そうですね。
― これはな、何年か前の正月に配られたものだ。
― この女性に会ってみたいもんですね。
― 駄目だよ、会えねぇ。俺達も、この女が今何処にいるのかてんで分からねぇ。何処かの親分に囲われてるって話も聞いたがな。そんじょそこらのタレントでも、ここまでいい女じゃねぇぞ。
俺は、ほとんど毎日、この女の手を握り締めてやってるんだと、そいつらに言いたかった。
― って事は、この女性は組関係の?
― って話だ。実は、俺達もよく分かっちゃいねぇ。こんないい女、俺達のところまで降りてきてくれるわけないもんな。
まさに、その事務所は、彼女が所属した組織の末端だったってわけだ。
とすると、芥川の振り込んでいた金は、奴が組織と切れていないって証だな。
俺は、事務所を預かってるうちの一人が、どこかに電話している間に、素早く中を見渡した。
殺風景な部屋だった。書類も無い。何の事務所なのか分からないように、わざとそうしているんだろう。
片隅のカラーボックスには漫画しか立ててない。
机の上にパーソナルコンピュータが鎮座しているが、どうせ留守番役の奴らには扱えないのだろう、電源は切られたままだ。
― これって、ネットに繋がるんですか?
― 何?
― パソコン。
― 知らん。使った事も無い。
― 仕事用に置いてるんでしょ。
― パソコンは、たまに本部の連中が来て使ってる。俺達は、たんなる電話番だ。
― ゲームとかもできるのに。
― ゲーム?ゲームできるのか?
― 勿論。
奴らは、パソコンの使い方に興味も示さなかったが、ゲームとなると目の色が変わった。
― 調度一つありますよ。あげましょうか。
ゲイの男が、パソコンを遠隔で監視するソフトを密かに潜り込ませる事を目的で作ったゲームCDが、カバンの中にあった。
― 何のゲームだ。
― 花札だったかな。試してみます?
私がパーソナルコンピュータに近付くと、もう一人が、
― おい、勝手な事をするな。
― いいじゃないか。試しに入れてもらおうよ。面白くなければ消せばいいんだろ。
― 兄貴に叱られたって知らねぇぞ。
― こっそり入れとけば、誰にも気付かれないですよ。
― そんなもんか。
おれは、ソフトのインストールを始めた
― 電源は、切らない方がいいですよ。今時、電気もくわないし、電源切ったりしてるとパソコンの故障の元ですよ。
― お前、電気屋か?
― まさか。最近は、パソコンが無いと仕事もできないんで、知らず知らず詳しくなっただけですよ。
ゲームと一緒に監視ソフトと、遠隔操作のソフトがインストールされた。
よほど詳しい奴でないと、そんなソフトが動いてるなんて見つけ出す事は出来ない筈だ。
奴らにゲームの仕方を教えてやると、交代で遊び始めた。
しばらくすると、さらに恐持ての顔付きの男がやって来た。
― こいつか、何かを嗅ぎ回ってるって奴は。お前、警察か、どっかの組の回しもんじゃないだろうな。
― そんな怪しいもんじゃないですよ。
― うちの客の女房から依頼されたらしいですよ。
― ええ、芥川さんって方なんですけどね、どうもご主人が奥さんに内緒でどこかにお金を振り込んでらっしゃる。それが、こちらだと分かったもんで。
― どうして、この事務所の所在がわかったんだ。
― 今時、ちょっとお金を出せば、いろんな情報が手に入りますよ。入らない情報なんて無いんですから。例えば、この事務所は警察関係のブラックリストに掲載されてました。
― お前、それをどこで手に入れたんだ?
― だから、お金さえ払えば、易々と手に入りますよ。ちゃんと、データになってるんですから。多分、警察の内部で、お金の欲しい方が洩らしてらっしゃるんじゃないですか、こっそりと。
― ヤクザも枕高くして寝てられねぇな。
― そういう時代です。
― ともかく、お前の調べたがってる芥川だかの男の事は、俺達は知らない。知ってても言えない。
それは、どうやら嘘では無さそうだった。ゴマンといる客の一人ではあるのだろうが、そんな一人一人を、組織の末端が気にしているわけも無かろう。
― それじゃあ、私はこれで帰らせていただいていいですか?
― 待て待て。お前の身元を証明するものが何処にもないだろ。証明できないと返すわけにはいかんな。
― まるで警察だなぁ。
― お前の事務所だかなんだかの電話番号を教えろ。
― 教えたらどうなるんですか?
― 別に、後で強請ろうなんて考えとらん。今、ここで電話して、お前の話が正しいかどうか確認する。
俺は、仕方なくゲイの男のマンションの電話番号を教えた。
ちゃんと口裏合わせてくれよと、祈る思いで呼び出し音を聞く。
ややあって、男が出る。名前を名乗らない。いつもの奴の癖だ。
ヤクザが、さっき俺が適当にでっち上げた事務所の名前を言う。
― そうですが。
俺は、安堵した。さすが、奴は勘が鋭い。
いくつか質問が続いて、やくざは、電話を切る。
そして、俺の胸倉を掴むと、
― とりあえず解放してやる。しかしなぁ、もう二度と近付くなよ。今度、この界隈を嗅ぎ回ってるとこ見付けたら、命の保証はできんぞ。
ゲイの男のマンションを尋ねると、奴は俺の訪問を待ち兼ねたようにドアを開けた。
― そろそろ来られる頃かと思って、コーヒーたてときましたよ。しかし、危ない事するなぁ。
― 虎穴にいらずんばってな。
― 私が不在だったらどうする積もりだったんですか。
― すまん、すまん。あんな展開になるとは思ってなかったんだよ。しかし、助かったよ。
― 早速、情報取っときましたよ。
― 早いなぁ。
― あなたの行動ほどじゃないですけど。事務所の口座への入金状況が残ってます。ただ、全てコードでしか分からないようになってますね。向こうは、コード表か何かを見ながら、入金チェックしてるんでしょう。
― じゃあ、そのコード表が無いと芥川の尻尾はつかめないんだ。
― 入金日と金額がつかめるんで、それは大丈夫なんですけどね。何の名目で振り込んでるのか、つまり、借金の返済なのか、何かの口止め料なのかが、見えない。
俺は、思わず香織の等身大の写真が飾ってあった事を言いそうになった。
この男には、まだ、香織の事は何一つ話していなかったんだ。芥川の身辺を嗅ぎ回っているのは、あくまで、芥川に対する俺の私怨を晴らすためだと思わせていた。
― あれは、しかし、どう見ても暴力団事務所の流れだぜ。
― そりゃそうでしょ。警察のリストに載ってるくらいですから。おそらく、厳しい取り立てで、一般市民を泣かせてるんだ。
― 一般市民は、あんなところで金を借りんだろ。
― いや、彼らが存在できている理由がちゃんとあるんですよ。彼らから借りねば仕方の無い状況に落ち込んでいく状況がね。
そう言うと、奴は目を伏せた。
― 何かあったのか?
俺は、奴の過去に何かがあったに違いない、闇金が絡むような暗い過去がな、あったんじゅあないかと、勝手に想像した。」
「で、どうだったんだ」
「何が?」
「あったのか?何か。彼の過去に。」
「知らない。それ以上、踏み込んじゃいない。
話したくない事を聞き出すのは趣味じゃない。
― 危険な奴らとの接触は、もう止めよう。芥川が闇金と関係がある事をつかんだだけで充分だよ。
― いや、奴らがどれだけ酷い事をしているのか、もう少し探ってみます。
― おいおい、何の正義感に目覚めてるんだ。
― 正義感じゃないですよ。芥川が、どんな組織と関係してるんだって事だけでも知っておく価値はあるでしょ。
― いいよ、危険だから。深い入りするなよ。
― 分かりました。
奴は、そう引き下がったが、実際は、その後もいろいろ嗅ぎ回っていた。彼なりのルートでな。
闇金事務所での事は、香織にも言わないでいた。
だが、あの等身大のポスターを見てからは、彼女への想いはますます高まった。
あの美しい裸像と、彼女が背中に抱えるブリザードとの落差に嵌まり込んでしまったと言っていい。
彼女の手を握り締めながら、彼女の寝顔を見るだけの日々が続いた。
そのまま、俺は、ベッドサイドで朝までうつらうつらする。
その事に気がついて、慌てて起き上がると、食卓に俺の朝食を用意してくれている事もあった。コーヒーとクロワッサンと簡単なサラダだけだったがな。
彼女と一緒に摂る朝食は、俺には至福の瞬間だった。」
「何を喋ったんだ。」
「何だ?」
「彼女と何を喋ってたんだ、朝食を一緒に摂りながら。いや、お前が目の前にいる事自体、彼女にとってどうだったんだ。」
「だから、消臭剤との生活だよ、彼女にとっては。
昨夜の芥川との情事や、何一つ奴の過去の行状の証拠をつかめない苛立ちや、人生と言うものへの切望や、それら全ての匂いを俺で消し込んで、ビジネススーツに着替え、一日の闘いに赴く。その連続だ。
それは、語り合わなくてもわかる。事実、俺と彼女は一言も言葉を交わさなかった。
言葉を交わすのは、会社で、仕事上の会話だけだった。その時は、俺も、どこにでもいるサラリーマンの顔で、彼女も有能な秘書の顔だった。俺は、彼女の実態を知っていたが、彼女は俺の実態を知らない。」
「それで良かったのか?」
「ああ、それで良かった。その時間ができるだけ長く続いてくれる事を、俺は祈っていた。
ゲイの男も、俺が奴を裏切らない、裏切るつもりが無い事を理解した。まぁ、これは、俺の処世術の結果で、奴が何かを理解したからではないがな。それよりも、奴は、奴なりの新たなターゲットを見つけ、そこに注力していた。
例の闇金事務所だな。
奴は最後まで何一つ語っちゃくれなかったが、どうやら、奴の過去には、そこに絡む何かがあったんだと思う。
奴の両親が闇金に引っかかって自殺したとかな。」
「自殺したのか?」
「いや、これは、あくまで推測だよ。
相手が喋りたくない事まで気を回して聞き出すのは、俺も、奴も趣味じゃなかった。
闇金の上部組織は、確かにシステマチックなセキュリティーでは脆弱だったが、全てのアカウントをコード化していた。つまり、何処かの国の情報組織みたいなもんだ。おそらく、そう言った組織の連中をコンサルタントに雇い入れていたんだろう。手持ちの乱数表に頼るようなアナログな情報管理が、システム頼りで情報収集していたゲイの男の前に立ちふさがった。そして、その事が、奴のプライドを刺激したんだな。
それが、奴が闇金にこだわった理由の一つなんだが、それ以外の理由については、何度も言うが俺は知らない。知らなくていい事だ。
おかげで、俺は奴の嫉妬に近い視線から逃れ、香織との時間を充実できた。香織との時間と言っても、彼女が眠っている間の時間だったがな。
組織が使っている乱数表は、よく出来ていると、ゲイの男は、何度も感歎した。
それ程に、複雑だったらしい。
解読できたところまでを説明してくれたが、何でも複数の乱数表を螺旋状にして、微妙に角度を変え、組み合わせているらしい。
― すごいのはね、複雑さじゃないんですよ。その複雑な仕組みを、組織の人間が使えるようにブレイク・ダウンしているんだろうって事なんだ。組織の誰もが、その乱数表を理会出来るほどに頭がいいとは限らないですからね。それを素人でも使いこなせるところまで落とし込んでいるってところが、すごいんです。コンピュータの力を借りて何でも処理してしまう我々の頭の構造とは違う。アナログな情報を緻密に組み合わせてるんだ。
奴は、目をらんらんと輝かせながら夢中になっていた。
俺は、つい寝物語に、組事務所で見た香織のポスターの話をした。
いや、香織との関係を喋ったわけではなく、そのポスターの迫力を、特に、彼女の太股を性器めがけて這い登る赤いトカゲの生々しさを話した。
それから数日後、
― 解けましたよ。、
― 何が?
― 暗号。特に乱数表のキーワード。分かってしまえば極めて簡単です。あなたのこの前話してくれた事がヒントになりました。
― 何か話したっけ?
― ほら、事務所に貼ってあった等身大ヌード。
― ああ、あれか。でも、あれがどうかしたのか。
― ええ、見ててください。今日は、水曜日ですね。だから、この乱数表の重ね合わせたところに、このアスキーコードを加えるんです。すると、ほら。
確かに、そこには意味のありげな数字が並んだ。
― これが、住所。これが参加人数。これが参加者名、これが女の子の名前、これが総収入。みんな、まだ、数字のままですが、これにこっちのデータを重ねるんです。このデータもアスキーコードでずらしてやります。
すると、確かに、意味のありそうな数字やカタカナ文字が現れた。
― キーワードは、紅いトカゲ。つまり、レッドドラゴンです。一文字一文字をそれぞれの曜日に当てはめるんです。行き詰まっちゃって、たまたま遊び半分に入れてみたら、ヒットしたんです。まさにヒットですよ。大物を釣り上げた時の気分だな。ほら、次のパーティーの予定まで読めます。
― 過去のは?
― 過去のですか?
― ああ、芥川は過去に、その組と何かあったと思わないか。
― それで、今でもお金を払い続けていると?
― そうだよ。
― 残念ながら、レッドドラゴンのコードで解読できるのは、ここ三年くらいまでですよ。ちょっと待てよ。これ何だ?闇金にしては、金利のついてない客が何人かいるんですよ。もう何年も払い続けている。何度も入金されているのに元金が減ってないんだ。しかも、入金額に変動がある。客の名前もコードのままだ。これですね。これが、何処に紐付けされているかですね。
― 随分前の可能性もあるな。
― 随分って?
― 例えば、七年か八年も前とか。で、データになってないとか。
― データになってないものを探し出すのは無理だなぁ。
― 支払いを止められないか?
― 支払い?
― 芥川の支払いを止めてしまうんだ。奴に気づかれないように。それで組織の連中がどういう行動に出てくるかだな。
― やってみましょう。確か、来週がいつもの支払日ですよね。」
そこで、奴は喋るのを止め、少しうめいた。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないな。まだ、夜は長そうだな。」
「ああ、だが、雨はやんだな。」
「やんだのか。じゃあ、今俺が聞いているのは耳鳴りか。」
「聞こえているのか?」
「激しくな。」
雨はやんだが空が曇っていて、辺りはまだ暗かったが、晴れている日ならそろそろ空が明るみだしてもいい。
「効果は、すぐにあった。」
いきなり、奴が話を続ける。
「苦しいのなら、話をしない方がいい。」
「いや、ここで止めれば最後まで話せずに、悔いを残したまま逝ってしまう事になる。」
「助かれば、話せる機会はいつでもくるぞ。」
「助からないよ。
今だよ。今、話さないとな。
奴は、芥川は入金したつもりになっていた。俺達が、ちょっと悪戯して支払いを滞らせていたのに気づいていない。入金予定日から三日ほど後だったな、闇金事務所から一通のメールが届き、奴は青くなったろうな。メールは、個人名で偽装されていて、新聞の切り抜きデータが添付されていた。」
「新聞の切り抜き?」
「ああ、何年も前のな、女子高生の死体が市内を流れる川の上流で発見されたという内容だ。」
「つまり。」
「そう。一度尻尾を掴まれた芥川は、常に組織に監視されていたわけだ。
これは、芥川を脅すためでもあったが、組織と芥川が互いの身を守るためにも必要な事だった。
― 何でしょうね、この切り抜き。
ゲイの男が、香織の妹の話を知るわけも無い。
― おそらく、この事件に芥川が関与してるんじゃないかと思うんだが。
― 警告ってわけですか、送金しなかった事への。って事は、あのお金は口止め料か。
― まぁ、あまり勝手な想像はよそう。
それから一週間ほどして、奴は一冊のスクラップブックを差し出した。
― やっぱり、怪しいですね。
― 何が。
― 芥川専務の事。見てください。
スクラップブック一ページ目には、女子高生死体発見のニュースの切抜きが貼り付けてあった。
― 女子高生の死体は、死後三週間近くが経過しており、犬などに齧られ、身元を特定できるものがなかったって事ですね。それが、捜索願が出されていて、歯形の特定で身元がわかり、引き取られていった。犯人はいまだ分からず。女子高生は、両親が早くに亡くなって姉と共に親戚の家に引き取られていた。行方不明になったのは、姉が奨学金を得て大学に通い始めた頃で、その後、姉の行方も分からなくなってます。
― そんな過去の事、よく調べたなぁ。
― もっと面白い話があります。あなたが闇金事務所で見たヌード写真、これでしょ。
パソコンの画面にはぼやけているものの、まさにあの写真が写し出された。
― おいおい、こんなもの何処で。
― あの事務所の向かい側のビルの屋上からですよ。だから、ぼやけていますが、見えない程じゃない。たしかに、すごい美人で、しかも、この蜥蜴の刺青。素晴らしいですね。で、刺青をキーに探してみると、海外の雑誌に紹介されているんですよ。ほら。
そこには、かつての香織の姿が何枚も表示された。思わず、視線が吸い寄せられる。
― まだあります。殺された女子高生の通っていた中学校にアクセスして、過去の卒業写真を見せてもらったんですよ。で、行方不明になった女子高生の姉の方の写真を入手しました。その頃から美人で有名で、結構写真は残ってましたよ。ほら。でね、この姉の方の写真、どこかで見た気がしません?
言われなくても、気がついていた。そりゃ、香織の過去を知っている俺にしてみれば、それが同じ人物である事はすぐにわかる。
― この中学生の頃の写真と、ヌード写真の顔の部分を重ねてみます。いかがですか?
― うむ。
― 若干、顎が細くなったり、目元を変えたりしてますが、ほぼ同一人物ですよ。つまり、芥川の絡んだ事件の情報を握っているには、この刺青の女、レッドドラゴンなんです。組織のキーワードがレッドドラゴンなのも、おそらく、この女がキーになっているからでしょう。しかし、この女の足取りも消えてしまっている。組織が消してしまったんでしょうかね。
いや、あれは、あの女は自分で消してしまったんだと、思わず言いそうになる。
そして、今でも俺に過去の匂いを消してしまう事を期待している。
― ところで、芥川専務。あの切抜きを送られて、慌てて送金してましたが、これも止めておきました。
― 何だって。そりゃ、いくらなんでも、危険すぎるだろ。
― 大丈夫ですよ。おそらく、組織と芥川専務は、あの事件を核にして、裏切りあえない関係にある。芥川専務も、あそらく組織に命を狙われる事を想定して、組織の秘密をどこかに隠し持っている筈です。
― なんでそんな事がわかるんだ。
― いいですか、芥川専務以外にも何人か金利のついていない客がいます。そのうちの何人かは、途中で入金が途切れている。途切れた時期のニュースや、警察に出された捜索願なんかを当たってみると、ほらこんなのがヒットします。
そこには、行方不明となり、山中で自殺した男の記事が出てきた。
― 何件かは、手口が全く同じなんですよ。山中の自殺。死んだのは、企業でもそこそこの役職を持った男。自殺する理由が家族にはわからない。関連性を疑うのは、僕だけでしょうか。つまり、この人達は、同じ事件で絡んでるんだが、芥川専務達と違って、自分を守る努力を怠った。あるいは、仲間割れかなんかして、芥川専務達と袂を分かった途端に殺されてしまったと思えませんか。
― って事は、芥川達は、次に自分を守るための何らかの行動に出ると言う事か。
― さて、どうでしょうね。どんな行動に出るか。
闇金あてにあるデータが送られてきたのが、その翌日だ。
― 馬鹿ですね、奴ら。電源を切るなと言ったら本当に切らない。だから、組事務所のサーバーにもアクセスできるようになりましたよ。さて、件のデータですが。
表示されたのは、どこかの山荘の玄関の写真だった。
― 何だこれは。
― おそらく、芥川専務達が握っている情報は、これだけでは無いでしょう。これは、ほんの一端。いわゆる、まさに玄関口ですね。これ以上のデータがあるに違いない。
― ここで、何かがあったって事だろうか。
― そう言う事なのか、あるいは、何かの符牒なのか。これだけじゃあ、分からないですね。
― 例の新聞の切抜きの事件と関係があるとか。
― そう考えるのが、妥当でしょうけどね。
― お互いに脅しあいってわけか。
― これがどこの山荘なのかがわかれば、もう少し踏み込めるかも知れませんね。
― そりゃ危険だろう。もういいよ。俺達は探偵じゃないんだ。
その日、香織のマンションに忍び込むと、彼女は先に帰っていて、一人でバーボンを飲んでいた。
― 遅かったのね。
香織が、俺より先にマンションに帰っている事も珍しかったが、俺に、そんな風に声をかけてきたのも初めてだった。
― 遅いといっても、いつも通りだ。
― そう、いつもこんな時間なの?
― そっちこそ、どうした。
― このところ、芥川が、例の愛人がアタフタしているのよ。だから、久々に早々と解放してもらえたの。飲む?
― いや。
飲むのは嫌いじゃなかったが、飲むと余計な事まで喋ってしまいそうだった。
― 飲めない男は、嫌いよ。
― すまない。
彼女は、しばらく一人で飲んでいた。」
「いつもそうだったのか。」
「何が?」
「二人の関係性は、いつもそうだったのか?」
「ああ。たいてい、彼女が帰宅し、軽く食事を取り、風呂から上がってくるのを見計らって、彼女の寝室に忍び込む。後は、彼女が眠りにつくか、抱き合うかのどちらかだ。」
「なんだか、奴隷だな。」
「消臭剤だ。それでいい。俺は、彼女の消臭剤である事に満足していた。
― 何があったのかしら。
彼女が言う。
― 例の件で、何かやばい事でも起きてるんじゃないのか。
― 例の件?
― あんたの妹の。
― まさかね。あれは、あたしが暴くのよ。
― 女のあんたじゃぁ、荷が重いだろ。
― そうでもないわよ。けど、なかなか尻尾がつかめないわ。
― 最近、奴が出入りしている場所とか、チェックしてるのか。
― 言われなくてもね。でも、それらしき場所には行かないわ。
― 今日あたり出向いてるかも。
― 今日は、自宅よ。確認してるわ、後をつけて。
しかし、そう言う間にマンションの入り口のチャイムが鳴った。
香織が出る。
― 俺だ。入れてくれ。
芥川の声だった。
― 何ですか、こんな時間に。
― 頼む、入れてくれ。
声が切羽詰まっていた。
俺は、素早く、いつもの押入れに隠れた。
入って来た芥川は、まるで小鼠のように怯え、震えていた。
― 何があったの?
― すまんこんな時間に。だが、怖いんだ。
― だから、どうしたんですか。
― 何も聞かないでくれ。喋りたいんだが、そうすると、君まで危険に巻き込んでしまう。いや、ここに来た時点で、もう巻き込んでしまっているかも知れない。
― ともかく、これでも飲んで、気を落ち着けてください。
おそらく、バーボンを差し出したのだろう、しばらく静かになる。
― どう?落ち着いた?
― ああ、何とかな。
― うそ。体が、まだこんなに震えてる。
― 抱き締めてくれないか。
激しく衣擦れの音がした。どんな風に芥川が抱き締められ、また、香織が抱き締められたのかはわからない。が、てっきり、次に聞こえてくるのは、死体となった芥川が床に倒れ伏す音に違いないと思った。その音には、愛情と言うものが感じられなかったからな。
― すまない、ありがとう。君のおかげで随分と落ち着いた。
― もう、話していただいてもいいでしょ。
― そうだな。何人かの男達で、ある組織と敵対していた。何故そうなったのかは、今は言えない。私達は組織の情報を握り、それをうまく隠し持ち、仲間の誰かに危害が加えられれば、いつでも世間に公表できる準備を整えていた。仲間のうちの何人かは、その緊張状態に耐えられずに、私達と袂をわかち、そのために組織に消された。本当だ。信じられない話だが、本当なんだ。巧妙に消されていった。組織は、私達がその情報を隠し持ち、さらには、組織と私達の間の約束事さえ守れば、私達に手を出してくる事は無かった。それが、この間から、おかしな事になった。組織が、私に牙を剥き始めた。何故だか理由はわからない。もしかしたら、組織には、もう私の利用価値など無くなったのかもしれない。その事を仲間の男に相談したら、止せばいいのに、組織の秘密の一部を公表した。公表したと言っても、組織のメールボックスに、その資料を提示しただけだがね。それが組織には気に食わなかったらしい。奴等は、私の自宅にとても惨い写真を送りつけてきた。私の仲間の家にもだ。女房が、それを見て気絶した。私には、奴等の意図が読めた。これは、完全に組織が私と、いや、私達と対立する意志を持っているって事だ。その事を告知したんだ、奴等は。
― 警察に行かれては。
― いや、そんな所へは行けない。行っても一緒だよ。奴等は、どんな手を使っても我々を抹消するためにやって来る。そういう連中だ。
― どんな組織なんですか?
― それは、話さない方がいいだろ。私も奴等の全てを知っているわけではない。ある事を通じて、たまたま関わっただけだ。それが、こんな事になるとは。
― せめて私には、何もかもお話くださってもいいんじゃないですか。
― そうだな。その方がいいかもしれない。いや、駄目だ。君を危険に曝すわけにはいかない。これは、私達だけで解決すべき問題なんだ。
― 奥様が事件に巻き込まれても?
― あんな奴、いまさら愛してるわけでもない。しかし、君をそんな目に合わせるわけにはいかない。すまん、邪魔した。
― どちらへ?今日はお泊りになられては。いえ、泊まっていって。あなたが心配なの。
― 香織。
再び愛撫しあう音が聞こえた。
彼女の、殊更大きく切ない溜息もな。
しかし、芥川も男だ。奴は、そのまま何も言わずに外へ出て行った。
俺は、彼女等が抱き合っている間に衣類を身に着けていた。
― なかなか見せてくれるじゃないか。いい男だ。しかし、哀れな男だ。
― 後を追ってくれる?
― そのつもりだ。
― 死なせないで。
俺は、その言葉を尻目に後を追った。
奴は、マンションの前でタクシーを拾った。その後をバイクの男がつける。俺もタクシーを呼び止め、その後を追わせた。
タクシーは、隣町の繁華街で止まった。繁華街とアーケード街が交差していて、終電目指して駅に急ぐ酔客と行く先も覚束ずうろうろと夜を徘徊する若者の群れでごった返していた。
芥川は、交差するアーケード街にアタフタと走りこみ、若者の一団を突っ切ると、ある雑居ビルの地下のショットバーに駆け込んだ。
バイクの男が後を追う。おれも少し遅れて、ゆったりとした足取りでドアを開けた。
ジャズが小さく外に漏れ出し、階段の途中でアーケード街の喧騒に掻き消された。
中は狭いカウンターだけの店で、バーテンダーと初老の男が一人、背中を丸めて酒を飲んでいた。バイクの男が、仕方無しに席に腰掛けたところだった。
― いらっしゃい。
バーテンダーが声をかけてくる。
― 何時まで?
― 朝までやってますよ。
― 今日は珍しいな。こんな時間からお客さんが二人も。
常連らしい初老の男がそう言う。
― 終電車逃しちゃって。
― まだ間に合うでしょ。
― 遠いんですよ、家が。
― 明日は土曜日だ、ゆっくりしていって下さい。
― ええ、少し飲ませていただいて、友人の家にでも転がり込みますよ。
バイクの男は、憮然と前を見つめ、時折店の奥を気にしながらバーボンを注文していた。
― 俺も、それ。同じのもらうよ。この辺りでよく飲むんですが、こんな店があるなんて知らなかったよ。
― 俺の前に、もう一人、男が入ったはずだ。
バイクの男が痺れを切らせてそう切り込む。
― それは、私の事ですか?
初老の男。
― 違う、もう少し若い。その男が入るのを見て、俺も入って来たんだ。
― おかしいなぁ、あなた方の前には誰も入ってきませんでしたよ。
― 奥見せてもらっていいか。
― ええ、どうぞ。狭いトイレがあるだけですが。
― 違う、カウンターの奥もだ。
― どうぞ、こちらが酒の貯蔵室。こちらが冷蔵庫ね。カウンターの下も覗いてみます?向こうがトイレです。どうです、何か見つかりましたか?
― 地下室か何か無いのか。
バイクの男がまだ食い下がる。
初老の男はやれやれという顔で酒に集中する。
― ここが地下室ですからね。さらに地下室があるかどうかは、ビルのオーナーに聞いていただけますか。
― ないよ。
初老の男が答える。
― あ、こちらが、このビルのオーナーなんです。
― だが、裏口に出る通路はある。
― なんだって。
― 気がつかなかったか、この店のドアのすぐ隣りの壁に、もう一つ小さなドアがある。そのドアは、守衛室につながるドアだ。守衛の奴が起きてれば通してくれない。寝てるか、ビルの中を見回っているか、女を連れ込んでよろしくやってると、何も言わずに通してくれる。
バイクの男が、カウンターに乱暴に金を置くと、外に飛び出した。
しばらくして、カウンターの下の電話が鳴り響く。
― 守衛さんからです。
初老の男が受話器を受け取る。
― ああ、いいよ。通してやってくれ。
そう言って受話器を置くと、クスクスと笑う。
― あんたら、グルだな。
― グル?何の事ですか。
― 確かに、先に男が入るのを俺も見た。あのバイクの男は、その男を追ってるようにも見えた。何だか、それにつられて入ってきちまった。
― あんたも、その男とやらを追ってるんじゃないのか。
― 俺は、終電車を逃しちまったんで、暇を潰しに入っただけさ。何だか、面白そうな暇潰しに巡り合えそうだな。
― ははは、これ以上の暇潰しには遭遇できませんよ、残念ながら。おそらく、その男は、このビルの構造を知っていたんでしょう。
― って事は、このオーナーの知り合いだって事だな。
― おいおい、私が関与するわけか。出入りの業者って事もある。だったら、うちの守衛とも顔見知りだろう。
― しかし、何故、その男は追われてたんでしょうね。
― まぁ、人それぞれ、いろいろと事情はあるさ。知る事よりも、想像する事の方が楽しかったりもする。
初老の男は、そう言ってホクホク笑うと、再び酒に集中した。
その店が、いきなり爆発騒ぎに巻き込まれたのは、次の日の午後だ。仕事の準備を始めていたバーテンダーが大火傷をして、病院に担ぎ込まれたのを、その夜のニュースで知った。」
「何かあるな。」
「ああ。
だが、爆発の原因は、調理器具の整備不行き届き。コンロのガス洩れに気がつかなかったせいだとさ。まぁ、そう言われてみればそうなんだろう。
変な因果関係を追うなと言う事だ。
香織には、見逃したとだけ報告しておいた。
ゲイの男から携帯に電話があったのは、次の日の午後。すぐに来て欲しいとだけ言って、切れた。
声の調子がいつもと違っていた。
駆けつけてみると、引越しの真っ最中だった。
― やっちゃいましたよ。
俺の顔を見るなり奴がそう言った。
― どうしたんだ。
― 時間が無いんで手短に言いますが、組織に見つけられたかもしれません。
― どう言う事だ。
― 奴等、やはり用心深さにかけては、一般の企業以上ですね。逆探知かけられた可能性があります。
― 見つかったのか、ここが。
― いや、どうだか。でも、用心に越した事はありません。急遽引越しです。
― ちょっと、分かるように説明してくれないか。
― ええ、説明したいのは山々ですが、まずは、身の安全を確保しておかないと。ちょっと、手伝っていただけます?
― 引越し先は見つけたのか?
― とりあえず、友人の所にでも転がり込みます。
― 俺の家に来ないか?
― あなたの家に?でも、奥さんが。
― あんなのいないも同然だ。酒くらって外をほっつき歩いてるよ。どうなろうと俺の知った事か。一部屋空いている。そこに来ればいい。
― いや、止めときます。でも、折角だから、このパソコン類を一時的に運び込ませてもらっていいですか。
奴は、俺のマンションの一室に、パソコンを二つ三つ放り込んだ。
それから、友人の家に残りの荷物を持ち込む。
友人と言うのが、同種の、つまりゲイのデブで、街外れのだだっぴろい倉庫の一室に住んでいた。
― 大丈夫よ、あたし達の間には友情しかないから。
俺を紹介されたデブのゲイがそう言うのを、随分と違和感を感じながら聞いた。
その日は、翌日が振り替え休日だったので、俺もそこに泊り込み、奴のパソコン類のセッティングを手伝った。
― いいですか。何があっても、あなたのマンションに放り込ませていただいたパソコンをネットに繋いじゃ駄目ですよ。
― 大丈夫だ、あそこには、そんな設備は無い。
― あれには、大事なデータが入ってるんです。
― で、何があったのか、そろそろ話してくれないか。
― ええ、そうですね。奴等、組織は、ハッキングのプロを雇って、逆探知したんです。その痕跡は、方々に残ってます。さいわい、データを二重化したり、大事なデータにはプロテクトかけたりしてたんで、彼等が初心貫徹する事は無かったんですがね。かなり、入り込まれましたよ。あの手、この手で。完全にプロですね。勿論、向こうに入ってる我々のツールは全て消去。我々が組織からどんなデータを持ち出したかも、おそらく、解析が終わっているでしょうね。
― 住処まで特定できるのか?
― まぁ、それは無いでしょうけど、用心に越した事は無いですからね。特に、奴等のビジネスを邪魔したとあっちゃあ。
― 何だって?何かしたのか?
― ええ。ちょとね。
― 一体何をしたんだ。」
「一体何をしたんだ。」
俺も同じように呟いていた。
「気になるか?」
男は、にやりと笑ったように見えた。
見えたと言うのは、黒焦げの顔で表情は見極めにくかったからだが、その微妙な動きが空気を通して伝わったような気がしたからだ。
「先に進もう。
― 一体何をしたんだ。
と、俺が尋ねた。
― ここ数日の奴等のパーティーを全部潰してやったんですよ。ネットで密かに情報を流す事によってね。
― そりゃ、やばいな。
― 足がつかないようにやったんで、誰の仕業かなんて分からないと思いますが。パーティー会場は、全て警察に取り押さえられました。組織の末端の連中も麻薬取締法違反で検挙された。早々とやって来た客の一部もね。警察も、最初は半信半疑だったようですが、そのわりには、随分と食いつきが良かったですよ。ただし、情報源は、警察自らが明かさないと思いますが。だって、ネットの不確かな情報で動いてたとあっちゃあ彼等のプライドが許さないですからね。ただ、最近は、あの中にも先見者が増えてましてね、ネットの情報に目を光らせてる部署もあるんですよ。ただ、こっちの組織の連中も馬鹿じゃない。ハッキングのプロを雇いこんで、対抗策に打って出てました。警察が目を光らせている掲示板に潜り込んで、私が書いた情報を全部消しこみにかかってましたからね。ここ数日ね。さすがに、それに対抗する手段は、警察は持っていませんね。遅れてますね、やはり。組織が雇いこんだ連中の方が数段上です。
― そんなに何人も雇ってるのか。
― 短期間で、情報源を洗い出し、対抗策を打ってきましたからね。腕のいい奴何人かでチームを組ませてるんですよ。こっちも、そんなのに対抗する気は無いですからね。一時、撤退です。
― 一時って事は、まだやるつもりなのか?
― 当たり前です。いいですか、奴等がパーティーを開くたびに、何人もの人間が不幸に巻き込まれるんですよ。人生を潰されてしまう人間もいるんだ。その家族もね。許せないんですよ、そういうのが。
そう言う奴の目には、正義感と言うよりも、暗い復讐の焔が垣間見えた、ような気がした。」
「ような気がした?えらくはぐらかすな。」
「ああ。俺は、奴の抱えるこの手の問題については、それ以上足を踏み込んでいないからな。
前にも言ったが、俺達は、喋りたくない事は、お互いに喋らない、詮索しない。
奴は、最後まで喋らなかった。喋らなかったから、聞き出しもしなかった。
奴は、奴が持っているかも知れない怒りを奴の心の奥底に深く沈めたまま、逝っちまった。」
「死んだのか?」
「奴は、思いの他、組織を引っ掻き回していたようだ。」
「で、殺されたのか?」
「まぁ、焦るな。
奴のその行動が、芥川達を窮地に追い込んでいたのは事実だった。
組織は、奴と芥川達がグルだと思っていた。だからだな、芥川達に必要以上に挑戦的になったのは。
― 組織には、数千万の損害が発生した筈です。もう一つ、過去の出荷履歴から、彼等の丸秘の倉庫を見つけましたよ。パーティーのたびに、ここから荷物が運び出されています。推測するに末端価格にして何億というブツが保管されていると思われます。
― その情報をどうするんだ。
― なんとかリークします。書き込みをことごとく消されてしまうので、何とか方法を講じないと。
― しかし、それは本当に危険だな。場所を特定されて、殺し屋差し向けられたらどうするんだ。
― そんなドジ踏みませんよ。
― お前にドジ踏むつもりが無くても、ドジ踏まされる奴だっているんだぜ。
― どういう事です?
― 芥川だよ。
― 芥川専務?
― ああ。奴は、組織から確実に追われている。そして、自分がどうして追われるのか、とんと合点がいってない筈だ。
― もしかして、あの送金停止?すっかり忘れてた。奴等の出方を探るためだけにやった事なんですが、そうか、私のリーク、これも芥川専務の仕業だと勘違いしたんですね。で、まさか、命を狙われてると?
― どうも、そのまさかのようなんだ。彼の秘書が、なんだか最近芥川専務の様子がおかしいと、しきりに首を傾げてた。
― 香織さん?
― なんだ、知ってるのか。
― 知ってますよ。有名人です。ガードも固い。私が落とせないんですから。何度か挑戦したんですけどね。
そりゃ、お前には無理だろと、思わず口に出そうになる。
― このところ、会社には出てきてないみたいなんだ。
― もう殺されちゃったとか。
― 定期的に連絡はあるんで、その可能性は低いな。
― どっかに隠れてるんですね。そりゃあ、悪い事したなぁ。
― 組織に捕まって、殺されはしないだろうけど、酷い目にあわされるのも可哀想だな。なんとか、助ける方法は無いかな。
― あれ?あなたは、復讐したかったんじゃないんですか?
― それとこれとは、話が違う。俺は、ただ、引きずり出してきた奴の過去でもって、世間的に恥を曝してやりたいだけだ。
― なるほど、じゃぁ、一石二鳥といきますか。
― どうするんだ?
― まぁ、見ててください。
奴は、何点ものエロ画像をディスクの中から引っ張り出してきた。
― お前にそんな趣味があったなんて、な。
― ありませんよ。これは、シラサエビです。
― なんだそれ。
― 釣りをした事ありません?釣り針に餌をつけるでしょ。撒き餌もします。魚を集めるためにね。まぁ、それだと思ってください。いいですか、これを登録するんです。
― どこに?
― ダウンロードサイトですよ。このフォルダーが全国の好事家ネットに匿名で繋がってます。これをダウンロードした連中は、同じように全国ネットの匿名の情報発信者となります。まぁ、彼等はエロ画像のやり取りをしているだけという認識しかありませんけどねこのエロ画像の裏にあるプログラムを忍ばせておくんです。自動的に、あるサイトに情報発信するようなプログラムです。用心深い連中は、そういうのにプロテクトかけてますが、たいていは、全く無用心ですよ。まるで、大都会の真中に住んで、表玄関、裏口、リビングの窓まで全開で留守にするようなもんです。そう言う連中は、実は、警察や役所の中にもいます。警察の情報が結構入手しやすいのは、そのせいです。まぁ、入手した連中の大半は、その利用価値を全く分かってないですから、特に大きな問題には発展しませんがね。ほら、見てください。角砂糖にたかる蟻のように集まってきましたよ。
確かに、奴が登録したデータが、見る間に方々にダウンロードされていく。
― これで、今日中に一万近いパソコンに私のデータがセーブされます。それが、次に再起動された時点で、裏に埋め込まれたプログラムの命令が実行されていくんです。中には、プロテクトかけてる連中や、その命令が実行できない連中もいるので、実数は三分の一以下にまで落ちますがね、それでも三千のパソコンが、その命令を実行し始める。
― どんな命令なんだ。
― まぁ、結果をごろうじろです。その前に、もう一つ仕掛けましょう。
奴は、さらにカタカタとキーボードを打ち始める。
“お宅の息子さんは元気そうですね。”
ディスプレイに文字が並ぶ。
― 何だこれは?
― 成りすましって奴ですよ。
暫らくすると、
“息子も精密検査が必要ですか?”
と、文字が返って来た。
― お宅の社長秘書からのメールですよ。
“もちろん。明日あたり。”
― もう一丁。
“息子は了承しました。”
― これを芥川専務の名前で社長秘書に返信します。
― ばれないか?
― 逃亡中の人がメールを見る余裕なんかないでしょ。これで、芥川専務名義で会社の株を大量に購入します。
― 金は?
― 信用買いですよ。すぐにキャッシュが必要になるわけじゃない。社長秘書も動きますよ。後、誰が追随するのかな。
社長秘書のパソコンの画面がキャプチャーされて表示される。
韓国の大ヒットドラマのワンシーンが壁紙だ。
― ほら、社長にメール投げてますよ。“至急、長男の検査が必要”。“了解。検査費用は任せる。しっかりとチェックしてくれ”。社長からです。ほら、お宅の秘書が、五千万ばかし買い込みました。次に社長のパソコンに移りましょう。
“合併の話は、順調に進んでるよ。ありがとう。”
― 何だ、この文句は?
― これをキャプチャーして、株好きのオタクが集まる掲示板にリークします。はら、早速飛びついた奴がいる。
“しかし、信憑性あるのかねぇ”
“可能性は、あるね”
“怪しいもんだな”
“本当にリークだったらどうする?”
“とりあえず、千株ばかし買っときますか”
― こういう手合いが株価を上下させるんです。見て下さい。
ディスプレイ上のグラフでは、取り引数が見る間に増え、株価がぐんぐん上昇していった。
― さて、適当なところで引き上げさせますか。
“長男の検査は終了しました”と、社長秘書にメールを送る。
“ご苦労様でした”。秘書が返信した。
― 芥川専務のも売ります。これで、社長は五百万、芥川専務は百五十万ばかし利益を手にしましたね。
― 儲けさせてどうするんだ。
― 儲けたと言う事実が大事なんですよ。お、今夜は赤坂でデートですね。ついでにパパラッチまがいの事もやっちゃいますか。こういうのは、センセーショナルにやった方が話題性もありますからね。隠し撮りが趣味の男に連絡して、盗撮してもらいます。そいつをね、このフォルダーに入れてもらいます。そうするとね、ある無防備な企業のサーバーを経由して、お宅の会社のホームページが一ページ目から順に書き換えられます。それとこれ、以前、盗撮していた専務と秘書の浮気現場の動画。
そこには、芥川が香織と腕を組んで歩く姿があった。
俺は、一瞬息を呑んだが、気づかれないように、
― 社長や専務の浮気の現場を全国に曝すわけか。趣味が悪いな。
― 話題性ですよ。人目を引かせるんです。ホームページの攻撃に、社長のスキャンダル。そしてインサイダーのリーク。これで、あなたの復讐もできるし、芥川専務の身柄も保護できます。
その日の夜から、確かにホームページは、大変な事になっていた。
社員で気がついた者はおらず、翌朝の取引先からの連絡と、週刊誌の取材とで、ようやく社内が騒がしくなり始めた。
俺が出社すると、既に林田達が、ホームページをクローズし、記事の修正にやっきになっていた。
が、時、既に遅い。情報が掲示板にリークされ、ホームページのコピーまで用意され、それが週刊誌に流れ、スポーツ新聞は三面に記事を用意した。
やがて、どう言う事だと、上層部が血相変えて情報システム部にやってくる。
掲示板にも流れ出た社長、専務のスキャンダル写真を、林田達が追う。
ゲイの男もその一員として、端末と睨めっこしていた。
俺と目が合うと、軽く会釈をした。
― 今まで君達は、何をしていたんだ。
と、執行役員の一人が言う。
馬鹿を言うな。セキュリティ強化しても一銭の得にもならないからと、放置を決め込んだのはお前達だろ。と、咽喉まで出かかった言葉を飲み込む。
やがて、サーバーを間借りされた無防備な企業の役員が詫びを言いに来た。
俺も同席するように言われた。無防備な企業の役員が、同じく無防備な企業の役員に平謝りする。それはつまり、向こうよりこちらの方が会社の規模が大きく、こちらは何度か向こうの顧客であったからだ。
それだけの力関係で、片や意味もわからずに詫び、片や意味もわからずに、それが作法だと言わんばかりに憮然としている。
社長は、秘書と共に早々と姿を隠した。知っている者が見れば、いかに遠目であるとは言え、ホームページを占拠した写真中の二人の登場人物のうち、一人が社長であり、もう一人が秘書である事は歴然としている。一枚目は、肩を並べて料亭に入る写真。二枚目が、料亭の座敷で、社長の肩に秘書がしな垂れかかっている写真。三枚目は、社長が秘書の肩に手を回し、料亭から出て、黒塗りのタクシーに乗り込もうとしている写真。四枚目は、二人が高級ホテルに入っていく写真。それから後は、どこから撮影したのやら、二人が絡み合う姿が続く。
そして、芥川と香織の腕を組んで歩く姿。
香織も、午後までにやるべき仕事を済ませると帰宅した。
エレベータの中でばったり出くわした俺は、何食わぬ顔で、
― 大変な事になったね。
― すいません、ご迷惑をおかけして。
― 少し時間を置けば納まるよ。
― そうでしょうか。
― 俺は、随分ショックなんだが。
― あら、それは。
― でも、君の味方だよ。本当だ。
― ありがとうございます。
香織は、涼やかな笑顔で、そう答えた。昼間の香織もいい女だと思った。
昼前までには、概ねホームページの中味は片付いた。
が、臨時役員会の決定で、ホームページは暫くオープンしない事に決まった。
議論の焦点が違うだろと言いたかったが、馬鹿に何を言っても一緒だ。
日本経済は、こういう連中が主に率いている。
確かに、一部の優秀な企業の経営者もいるが、概ね人の顔色を見、自分では何も考えられないくせに、その時流行った考え方を、あたかも自分の考えのように摩り替えて、方針決定する。そいつらが、バブルを作り上げ、日本経済を崩壊させたが、誰もその責任を取ろうとはしない。
― あいつら、もうすぐしたら、アメリカの影響で手のひら返したようにセキュリティを口にし始めますよ。その先にあるのは、セキュリティ地獄だ。セキュリティバブルと言ってもいい。それで、またもや自分達の首を絞めていく。絞めるのは自分達の首だけじゃない、従業員の首だ。満州に開拓民や下級兵士を置き去りにして逃げ出した軍上層部と同じ事をしでかす奴等もいるんでしょうね。
その日の夕刊は、二つの記事がその紙面を飾った。
何だと思う?」
「お宅の社長の色遊びか?」
俺の答えを聞いて、男がむせる。
「一つは、大手企業の上層部のインサイダー取引だ。
雲隠れした社長以下、専務クラスが全員名指しで登場した。芥川もしかり。
もう一つは、ある組織の麻薬密輸倉庫の記事。
警察の手が入り、末端にして数億のクスリが押収された。
それだけではない。これは後日だが、組織の事務所が捜査され、麻薬取締法違反、銃刀法違反、売春防止法違反で、幹部クラスが軒並み逮捕された。
しかしな、奴等も一般企業と同じだな。逮捕されたのは、実は、組織にとって重荷になっていた年寄り連中ばかりだった。
つまり、役職ばかり高くて、箸にも棒にも引っかからない奴ら。
本当に実力のある奴等は早々と逃げ出して、今回の仕掛け人探しに躍起になってた。
そこで真っ先に疑われたのが、芥川達だった。
組織の若くて手荒な連中が駆り出され、芥川達の行方を追った。
芥川達は、バラバラに逃げたらしい。が、一人、また一人と狩り出されていった。
いや、狩り出されていったと、後で知ったのだ。
新聞の三面記事の片隅で、そいつらの悲惨な末路を知る事ができた。芥川以外のな。奴は、逃げ通した。」
「それで、最後にはゲイの男のやった事が発覚し、血祭りに上がるのか。」
「それが、そうでもない。奴は、賢い。この件に関しては、証拠の一つも残していない。」
「一体、どんな仕掛けで、そんな企業の秘密と組織の秘密が同時に暴露できるんだ。」
「それが、俺にも良く分かっていない。
ネットワークを通じて、好きなデータを交換し合える仕組みがあるんだそうだ。
ある場所に交換したいデータを置いておくと、それを欲しい相手が勝手に取りに来るんだ。逆に、相手がある場所に置いているデータを、こちらから好きな時に取りに行ける。そうして、本来なら金を出して買わねばならないデータを無償で手に入れられるんだ。奴は、その逆の仕組みを作って、誰がリークしたか分からないように、会社のホームページを書き換え、インサイダー情報を流し、そのついでに警察に組織の情報を流した。」
「さっぱりわからん。」
「沢山の人間にデータを書き込むプログラムを配り、そのプログラムが少しづつ企業のホームページや掲示板の内容を書き込んでいくんだそうだ。プログラムは、それを持たされた人間が、書き込んでいるとは認識できない程度の量しか書き込まないので、本人は、結局、自分が何をしたのか分からない。だが、全部まとまってみると、ホームページを書き換えたり、掲示板に情報を書き込んだりと言う、一つの形が出来上がる。」
「それが進化すると、あれか、もしかして、自分が何を命じられたのか分からないままに、重大な犯罪に手を貸す事もあり得るのか。例えば、何十人もの人間が少しずつ一人の男を殺して行くんだ。互いに罪の意識も無く、決定的な殺人の証拠も無いままに、男は葬り去られる。」
「そりゃ、いい。まさに完全犯罪だな。
ともかく、奴は、その仕組みを逆手にとって、どこにも当事者のいない情報操作をした。奴は、俺にも明かしていない、幾つかの重要な組織の犯罪ネタを掴んでいたようだった。
組織は、書き込まれた掲示板を片っ端から消しこみにかかったが、すぐにまた書き込まれる。まさに、いたちごっこって奴だ。書き込む相手は、無数。全国民を敵に回した気分だったろう。
― 今まで、さんざん人を痛い目に合わせてきたんですよ。ざまぁ見ろだ。
ゲイの男は目を爛々と光らせながらそう言った。
その後も、奴等の秘密の拠点が、片っ端から摘発された。
奴等は弱体化したが、その間に世代交代があった。旧式の犯罪手口しか頭に無い連中、人を脅しすかして生きてきた連中は、逆境に滅んだ。だが、新しいタイプの犯罪手口を持ち、時代の流れを上手く読み、最先端のツールを使いこなした奴等は、複雑な規制をかいくぐり、その逆境を生き延びた。
かつて、香織にトカゲの刺青を施した男もその一人だった。
名前は忘れたなぁ。仮に、葉山とでもしておこうか。
奴はいきなり俺達の、つまり、俺と香織の前に姿を現した。」
「どう言う事だ。」
「まぁ、聞け。
その夜、俺は、いつものように香織のベッドサイドで、ウトウトしていた。
誰かが、寝室のドアを開けた。
逆光で、シルエットしか見えなかった。
背の高い男だった。
香織が、人の気配で目を覚まし、上半身を起こす。
― 久しぶりだな。香織。
香織の体が硬直するのが分かった。
俺は、慌てて立ち上がる。
― 余計な事をしない方が身のためだ。
男の言葉には、何と言うか、キリのような鋭さがあった。
グイと刺し込んで捩じ上げるような、そんな鋭さ。
― 誰だ、お前は。
― 香織に聞いてみな。香織が、俺の事を一番良く知っている。
― 知っているのか?
彼女は何も答えない。
その様子を見て、男は、ニヤリと笑ったように見えた。シルエットだったから、実際は、どうだったか分からない。
― 俺も香織の事を体の隅々まで知っている。どこを押せばいい声を出してくれるか、そんな秘密のスイッチまでな。
それは、低い自信に満ちた、彼女だけに話しかける声だった。
香織の体が、その声に反応した。
俺は、その瞬間、芥川には感じなかった激しい敗北感を感じた。
男の言葉で、香織の体が熱く燃え始めるのを空気で感じたからだ。香織の体は、あきらかに男を欲していた。はじめて見る彼女の反応だった。
― 出てって。
自分の体に抗うように、香織が声を振り絞った。
― 出てってちょうだい。
― まぁ、そう言うな。お前が、芥川といたとはな。お前と俺との出会いも、まぁ、言わばあいつが仲介役だった。しかし、驚いたよ、お前があの男の愛人になってたとはな。お前の会社のホームページで見たよ。芥川と手を組んで歩いている動画がリークされていたな。整形で顔を変えてはいるが、面影やスタイル、歩き方まで昔のままだ。お前だとすぐに分かった。俺の香織。俺は、自分の危険を省みずにお前の会社の人事部を脅し、お前の住居を聞き出した。そして、このマンションの管理会社を締め上げて、お前の部屋の合鍵を入手した。
― 随分と顔が広いのね。
― お前に会いたい一心で、だ。思いを込めて動けば、かなわぬ願いは無い。
― でも、あの日の私は、もういない。既にあなたの玩具じゃないわ。あの刺青が無くなった日から。
― せっかくの刺青を捨て、俺の元を離れ、妹を見殺しにした男の元に走ったか。おまけに、その変な男と同棲までしている。あの、誇り高かった香織は、どこに行ってしまったんだ。しかし、まぁ、いいだろう、それがお前の望みならばな。
さげすむように男が言う。
香織が唇を噛んだ。
― 私は、妹の最後をあいつの口から聞きだしたいの。
香織は、真っ直ぐに男の目を見、振り絞るようにそう言った。
― ほう、あいつが、お前の妹を殺した犯人の一人だと言うところまでは、辿り着いたか。
― あいつの口から真実を語ってもらうわ。
― そりゃ、無理だろ。お前の妹が死んだ時、奴は完全にラリっていた。それが醒めて、我に返ると、目の前には無残な女子高生の姿だ。まだ体を痙攣させ、顔を引き攣らせながら白目を剥き、泡を吹いていた。奴は、まさか自分がその女を死に至らしめたとは思っちゃいない。そのパーティーに参加していた連中みんなだ。誰がやったんだって事になって、俺は、お前ら全員が寄ってたかって、この女の体をいたぶったんだと言ってやった。奴等は、蒼ざめた顔で、俺にすがった。助けてくれ、俺達には、まだ未来があるんだ。家族もある。今、警察に捕まるわけには行かない。殺された女の未来の事など、誰一人として悲しんじゃいなかった。みんな、自分の将来の事しか心配していない。俺は、奴等を助けてやると言った。その代り、今日の事は忘れろ、一切口外するな、とな。奴等は、それを守った。守る証に、俺に定期的に金を振り込むことを命じた。奴等にしてみれば僅かな金だ。しかも、ある時払いの催促無しだ。いい条件だろ。今まで、奴等は、きちんきちんと振り込んできた。途中で脱落した奴も何人かいる。それは逆に、奴等に俺との約束事を思い出させるいい機会となった。
― 殺したのか?
― 約束を果しただけさ。その結末を見て、奴等がしなければならない事が何なのかを再認識したはずだった。それがな、ここ一、二ヶ月だ、おかしい。まず、芥川が約束を破った。次に残りの者が示し合せたように約束を破った。そのうちの二、三人には、約束を果させてもらったがな。が、一番最初に約束を破った芥川は、早々と逃げ出して、行方不明だ。それだけではない、芥川が約束を破ったあたりから、我々の大事な拠点が警察にリークされ始めた。これは一体どう言う事だ。芥川の仕業か?それと時期を同じくして、お前の会社のホームページに加えられたサイバーテロ。
― サイバーテロ?
― アイティを駆使した企業テロの事だ。それも芥川の仕業か?いろいろ調べてみたが、芥川にそんな事ができるとは、とてもじゃないが思えない。誰かが協力している。
― 私だって言うわけ?
― いや、お前は頭がいいが、器用じゃない。協力しているのは、本当に器用な奴だ。誰だ。
― 確かに、会社の中は大騒ぎね。社長、専務共々行方不明。不名誉な画像が流れても釈明に出て来る様子も無い。マスコミは、ロビーに屯して、社長が出て来るのを待っている。そして、あらぬ噂を流して行くわ。おかげで、若い人達が急速にやる気を失って行ってる。不祥事発覚で、株価は下落の一途だし。
― それを、香織、お前は涼しい顔で見ているのか。
― 私の目的はただ一つよ。そのためだけに会社勤めをしているようなものよ。会社がどうなろうと知った事ではないわ。
― 芥川か?
― そうよ。
― 下落する前にインサイダー情報を流し、株を一時的に吊り上げ、利益を手にしたのも、お前の会社の社長と専務だったな。俺は、あれを芥川の仕組んだ狂言じゃないかと疑ってるんだが。お前は知らないか?
― 知らない。
― 芥川は、あのインサイダー事件で、警察にも追われる身となった。が、よくよく時間経過を追ってみると、インサイダー実取引から情報のリークまでが、やけにスムーズなんだ。
― 芥川が自分でやったって言う訳?
― 自分が助かるためにな。警察に身柄を確保されれば、我々の手からは逃れられる。しかしな、我々もこう見えて馬鹿じゃない。奴が身柄を拘束されそうな場所には、ちゃんとツテをこしらえてある。もし、香織、芥川に出会う事があったら伝えておいてくれ。警察にも我々の仲間が入り込んでいる。何処に逃げても無駄だとな。
― わかったわ。会う機会があれば。
― じゃあ、邪魔したな。
男が背を向けて立ち去りかける。
― 帰るつもり?
香織が声をかけた。
一体何を言い出すんだと、俺は、香織を見た。
香織は俺の視線を無視し、
― ここまで来て帰るつもり?
― どう言う事だ。
葉山が振り返る。
― 刺青を無くした女の体には、もう興味が無いってわけ?
― 俺を色仕掛けで誘って、何を企んでるんだ。
― 昔のあなたは、そんな事に恐れを抱く男じゃなかったわ。もっと大胆で、自信に満ちていた。私が、何か企んでても、いなくても、あなたは激しく私を抱いたわ。落ちぶれたものね。一度追い詰められると、男って駄目になるのね。
葉山は、づかづかと寝室に足を踏み入れた。
香織はベッドの上で、中腰になってそれを迎える。
奴は、その香織の頬を激しく叩いた。香織は、何とか倒れないように踏みとどまると、今度は自分が葉山の頬を叩く。葉山は、もう一度、今度は拳で香織を殴りつける。
香織の口が切れ、血がネグリジェを染めた。
葉山は、そのままズボンを下ろすと、香織の体にむしゃぶりついて行く。
香織は、今までに見たことも無いうっとりとした表情で、それを迎えた。
そして、俺の方を見ると、一言、
― 出てってちょうだい。」
「で、出てったのか。」
「ああ。」
「哀れな男だ。」
「全くだ。俺は、そのまま香織のマンションを後にした。
それ以後、香織に会ったのは最後のたった一度だけだ。
俺の中には、大きな穴がポッカリと開いてしまっていた。
香織という存在が俺の中から、すっかり抜け落ちてしまったのだからな。」
「別に、彼女から別れを切り出したわけではないだろ。」
「いや、俺には分かった。香織は、彼女は、もう俺を必要とはしない。
彼女は、葉山という、消臭剤以上のものを手に入れたのだ。
葉山は、香織にとって雄だった。ちゃんと、獣の匂いを持った存在だったんだ。
俺は、たんなる消臭剤だ。それでいいと思っていた。
しかし、獣の匂いを手に入れた香織にとって、消臭剤は不要だ。
不要どころか邪魔だ。
葉山に抱かれながら俺を見る香織の眼差しで、はっきりとその事を悟った。」
「本当に哀れなもんだな。」
「どうとでも言ってくれ。
俺は、その足で、ゲイの男の所に向かった。
― どうしました。随分疲れてますね。
奴は、優しく俺を迎えてくれた。
― 暫くあちらで眠らせてもらうよ。
― どうぞ、今、新しく仕掛けてる所です。
― まだ、何かやるのか?
― 勿論です。
― 会社か?
― いえ、あれは、もう十分でしょ。あれ以上、何かやります?まだ、基幹のセキュリティも無防備なままですから、脱税疑惑くらいお茶の子ですよ。
― いや、もういいよ。
俺は、そう言うと、ソファーに横になり、そのまま眠ってしまった。
そして、夢を見た。
久々に、俺自身が襲われた時の、あの夢だった。
乾いた靴音、いきなり目の前に飛んできたトイレのドア、揺れている便器の中の水。夢の中で、俺は男に犯されながら勃起していた。それが、自分でも情けなかった。
香織を心の中から失い、またもや、自信喪失の情けない男である自分の現実に立ち戻ってしまったんだな。
眠りながら、散々に呻き散らしていたんだろう、ゲイの男が俺の手を握ってくれていた。
その温もりが、随分と俺を落ち着かせてくれた。
― ありがとう。もう大丈夫だ。
― お風呂入れてますから、入られてはいかがですか。
言葉に甘えて風呂に浸かると、気持ちは幾分和らいだが、香織を失った喪失感はいかんともし難かった。
その喪失感と同時に、今頃、香織は葉山に激しく抱かれ、その背中に爪を立てているのだろうと考えると、嫉妬の炎がメラメラと燃え上がった。
喪失感に身を委ねるのはつらかった。喪失感と共にやって来るのは脱力感だけだった。
それより、嫉妬の中で焼け狂うほうが建設的に思えた。
ともかく、自分をもう一度取り戻す事だ。その為には、誰かを血祭りに上げねばならない。
依存心の強い女をもう一度見つけ、そのアナルを無理矢理犯す事。それと。」
「それと?」
「奴だ。葉山。奴を叩きのめす。」
「そりゃ無理だろ。相手は、ヤクザだ。喧嘩の腕は数段上だ。」
「何も直接叩きのめすなんて言ってない。
俺は、バスタオルを腰に巻き、ゲイの男に近づき、その肩を抱いた。
― あまり組織を深追いするんじゃないぞ。お前の身に何が起こるかわかったもんじゃない。
― 心配してくれてるんだ。
― 当たり前じゃないか。そうだ、今日、会社に脅しに来た男がいたなぁ。芥川の所在を教えろって。
― どの男ですか、組織に所属する連中の顔はだいたい分かってます。
そう言うと、パソコンの画面に何人もの顔写真を映し出した。
その中に葉山は、いた。
― こいつだよ。この男だ。
― 組織の中でも、なかなかの切れ者ですよ。老人連中が軒並み逮捕されたりしていなくなったので、おそらく、この男がナンバーワンに近いでしょう。こいつが何を言いに来たんですか。
― 組織を揺さぶってる奴が、必ずお前の会社の中にいるって。何の証拠があるんだと尋ねたら、会社のホームページを荒らしたのは、きっと隠れ蓑だ。芥川を匿おうとしているだろってさ。タイミングが良すぎるからと言っていた。
― ちょっと違うけど、いい線ついてますね。さすがだ。
俺は、多少の後ろめたさを感じながら、
― 感心している場合じゃない。奴の動きを封じておいた方がいいんじゃないのか。感の良い男だ。いつかは、ここにやって来るぞ。
― 大丈夫ですよ。よほど腕のいいハッカーでも、私のところまで絶対に辿り着かないですよ。でも、せっかくだから、ちょっと困らせてやりましょうか。
― 困らせる。
― ええ、見ててください。ちょっとした遊びをやりますから。
そう言うと、奴は葉山の写真に手を加え始めた。
― 何をしてるんだ?
― ええ、ちょっと、彼に変装してもらいます。
髭を貼り付け、髪を長く伸ばし、サングラスをかける。元の葉山とは似付かぬ写真となった。
― これを、全国に流すんです。
― こんなもの流したって、何の影響も及ばんだろ。これが奴だとは、誰もわからない。
― いいんですよ、それで。
次に奴がやった事は、掲示板への投書だった。
“江川君を探して!!”
― 何だそれ?
― まぁ、見ててください。
“私は、短大二回生。就職も決まってマース。つい先日、卒業旅行にタイに行きました。そこで知り合ったのが江川君です。彼って、とっても優しくて、たちまち恋に落ちちゃいました。でも、人見知りの激しい私。彼の積極的なアプローチに、きちんと応える事もできず、結局、彼の方が一足先に帰国。日本で会おうねと、彼のくれた電話番号に電話したんだけど、使われてないって。。。。。江川君って、こんな人です。誰か、知ってたら教えて!!会いたいんです。”
― そんなもので効果あるのか?
― これだけじゃあ、駄目ですね。一日に何万件も書き込まれる掲示板情報のゴミ屑ですよ。目立たせないと。
“Re:江川君を探して!!”
“写真、見ましたよ。あれじゃ、良く分かりませんよね。もう少し、別な写真は、ないんですか?なければ、特徴を書いていただくとか。”
“特徴は、写真ではサングラスしてて全然分からないですが、クールな眼差しでした。”
“おいおい、それって、あんたの主観だろ。それじゃあ、見つかるものも見つからないよ。”
“そうそう、案外近くにいるのに見落としてるとか。”
一人で、色々なハンドルネームを使い、どんどん掲示板に書き込んでいく。
― それって、どの名前を使おうかって悩まないのか?
― ええ、予め百件近く名前を登録しておいて、パソコンに選択させるんですよ。そうすれば、悩む必要も無いでしょ。ついでに、今のうちにちょっと先の書き込みまで作っておきます。
― そんなので効果あるのかなぁ。
― さて、やってみないと。ただ、掲示板って、書き込みがあった記事が一番上に来るんですよ。って事は、定期的に書き込みしてやってれば、常に最上段近くにあって、嫌でも人目につくって事ですよね。勿論、興味を引く内容にしていかないと飽きられてしまいます。『私』のキャラクターを、少し暗め、引っ込み思案にし、一度リストカットの経験ありにします。『江川君』は、デザイナーの卵にしておきましょう。途中、『江川君』から携帯に連絡があるんです。でも、番号非通知で、折り返しの電話が出来ない。やがて、街角で見かけたよという書き込みがある。仙台あたりにしておきましょうか。次に、大阪あたりで見かけたと言う書き込み。どっちが本当の『江川君』なんだと言うことになる。とりあえず、その辺りで様子を伺ってみましょう。
奴は、喋りながらもカタカタとキーボードを打ち、次々と掲示板に書き込んでいく。
― あ、これ、今、もっとも利用者の多い掲示板のデモサイトです。ここに時間指定して書き込んでいくんです。そうすると、指定した時間に適当なハンドルネームで書き込みしてくれます。
あっと言う間に百件近い書き込みを作り上げた。
― たいしたもんだ。
― 掲示板に書き込む連中ってのは、ボギャブラリー少ないですからね。でないと、面倒くさくって、誰も掲示板利用しないですからね。わざと言葉を省略して書くんです。だから、簡単ですよ。それより、やっぱり内容です。彼らが食いついてくる内容にしないといけない。
― 掲示板ってのは、結構流行ってるのは知っているが、やっぱり、誰かがそんな風に情報操作してるって事か。
― いや、情報操作は少ないと思いますよ。だって、情報操作するメリットってないでしょ。政治や思想、宗教について語られた掲示板って、見たことあります?あっても、誰も読まないし、書き込まないでしょ。そんな掲示板で、情報操作して、何の役に立ちますか。そりゃ、これから国自体が不安定になって、人々のストレスが溜まってくれば、真っ先に人心撹乱の道具に使われるでしょうけど。この国の若者を代表として、まだまだ、能天気状態が続いてますよ。語彙力の無い連中が、出会いや、希望を求めて、掲示板の中をウロウロしてるんですよ。ほら、早速やって来た。ほとんど多くは、こんな手合いですよ。
画面には、“ギャー、ホニャホニャ”と意味不明な言葉が並び、文字だけで描かれた、全裸の女性が股を広げているらしい猥褻な絵が続く。
― なんだこりゃ。
― こう言う絵を一方的に送り付けて自己表現している奴等もいます。
― しかし、時間かかったろうな、結構緻密な絵だぞ。
― 新しい文化って言って良いのやら。
― 理解に苦しむなぁ。
― 結果が出てくるのは、明日か明後日ですよ。さて、一眠りしましょう。明日も朝から大変でしょう。
翌日には、会社のほうは、かなり落ち着きを取り戻していた。
難を逃れた副社長が社長に代わり記者会見し、事態報告をした。
記者席からは、インサイダー情報で株価を操作し、そこから得た利益で、秘書と雲隠れした社長を詰る声が噴出した。芥川と香織への非難は、その影に隠れて聞こえてこなかった。会社側が発表したのは、社長、専務の退任、両秘書の懲戒免職だった。
記者会見のおかげで報道陣の姿は少なかった。その代わり、何度も右翼の街宣カーが来て、拡声器で芥川非難を行った。組織に雇われた連中なのだろう。葉山が、芥川の指示を受けて組織情報をリークしている者を炙り出そう、もしくは、その動きを止めようとしているらしかった。
香織のマンションは、あの日からずっと灯りが消えたままだった。家具は残されていたが、新聞受けの新聞が日に日に溜まっていき、香織本人が帰って来ている気配はなかった。
掲示板には、様々な連中が書き込みを始めた。
“江川君に良く似た人を見つけた”と言うガセネタ。頑張って下さいと言う励まし。二人の関係や、会えたらどうしたいかという質問。一方的で意味不明な投稿。
― 奴等は暇なのか。遊びに餓えてるのか、この時代に。金さえ出せば、何処にでも楽しみは転がっているだろ。
― 彼らが望んでいるのは、人との繋がりでしょう。今の時代、裕福すぎて、身近にいる相手との接点が見出せないんです。情報が溢れているんで、いろんな事を考えてしまいます。かえって他人を警戒してしまう。おまけに、学校でも、会社でも成果を求められ、人間関係はますますギスギスしているでしょ。だから、彼らはみんな心を閉ざして、一見冷たく見えるんです。が、他人から与えられた中で、興味を引き、リスクが少ないと見られる命題には、真剣に取り組みます。それが、彼らの自己表現なんです。さて、次のステップに進みましょうか。見ててください。
ゲイの男は、葉山のポートレートから長い髪とサングラスを取った。
元々の葉山の顔に髭だけが残る。見る者が見れば、それが誰なのか特定できるまでになった。
“江川君、発見”
そうタイトルをつける。
“俺の友人に面影が似てるんで、問い詰めたら、そいつが江川君である事が分かりました。江川君は、勿論、偽名。彼女との事は、単なる遊びだったと本人は言ってます。彼の本名、所在地は、彼の希望で言えません。どうか、彼の気持ちも分かってやってください。”
対して、
“それは、ひどいです”
と言うタイトルを用意した。
“何が彼の気持ちも分かってやってくださいですか?ひど過ぎません?私との事は遊びだった?君の事を本気で好きだって、言ってたんですよ。日本に帰ったら、きちんと付き合おうって、しっかりと私を抱きしめながら言ってくれたんですよ。信じた私が馬鹿だったんですか?でも、それって、ひどい。”
それに対する意見も用意した。
“旅先で出会った相手を不用意に信じたあなたが悪い。あなただってアバンチュールを十分に楽しんだんでしょ。それで満足なんじゃない?”
これらを十分程度の間隔を置いて投稿する。
用意した葉山の写真は、流れを見て、先の“江川君、発見”の男が、自主的に公表する予定にし、その草稿も作り上げた。
書き込みが多いのは、深夜だった。
俺は、深夜、ネットの向こうに蠢く、沢山の漂流民の姿を見たような気になって鳥肌が立つ。
それをゲイの男に伝えると、
― あはは、まさに、彷徨えるオランダ人って所でしょうか。しかし、無数の漂流民ってのは、いい表現だな。今や、その漂流民が、文化の一端を担う時代です。目的も無い連中が、ですよ。嘆かわしい事です。
― おいおい、お前は、この情報化社会を肯定する立場だろ。
― 手段としてはね。しかし、それを駆使する側と、その利便性に翻弄される側とでは、雲泥の差があります。多くの人は、方向性も危険性も分からずに、その利便性だけに目を奪われ、翻弄されていきます。例えて言えば、核エネルギーの怖さも知らずに、それを家庭の中で使うようなものです。もし、そういう時代が来ればですけどね。どれだけ安全に作ったって、必ず、その裏を生きる連中がいるんです。その危険性を駆使し、翻弄されている人々の安全を人質にして、その人生や財産を手玉に取る連中がね。
― 正義感が強いんだな。
― そうじゃなくて、自分の安全を自分で守れもしない連中に腹が立つんですよ。そう言う連中は、はっきり言って、嫌いです。利便性の反面の危険性にまで気を配れない連中がね。
深夜二時を回ると、書き込み量も各段に増える。
“江川君”という架空の男と書き込み主体である架空の女に賛否両論が集まる。と、同時にガセネタも増える。
― さて、いよいよ包囲網を形作りますよ。
― 今までのも包囲網を作ろうとしていたんじゃないのか?
― 今までのは、準備段階です。
奴はそう言うと、用意したシナリオを掲示板に投げた。
実際は、エンターキーを押しただけだがな。
“江川君、発見”の男に、葉山の髭付きの写真を公表させる。
“今まで遊んでばかりいた彼も、これからは真面目に生きる決意をし、サラリーマンを始めました”というプロフィール付だ。ついでに、実は彼はある金持ちの御曹司だというおまけまで付けた。
“会いたいんです。会いたい思いがつのります。一目でいいから会いたい。”
対して、女に心情を吐露させる。
“居場所を教えて”と。
一晩で同情の書き込みが百件を超えた。
殆どが女性。
もちろん、何割かはサクラだった。
それから二日ほどで、“江川君”を見つけたと言う書き込みが十数件あった。
中には、写真付もある。
それは、北海道だったり、沖縄だったりした。
何が面白いんだか、“江川君”を探そうと言う暇人が増えていった。
掲示板の中で、“江川君”が一人歩きし始めた。」
「そんなものなのか?」
「俺も驚いた。
とにかく、どうして、ああも多くの人間が食いついてきたのか、さっぱり分からない。
書き込みが、一晩に二百件を超えた。
勿論、架空の“江川”像を、ゲイの男が作り上げ、せっせと掲示板に投稿したからでもある。
― ビンゴ。
ゲイの男が叫んだ。
― どうした?
― ついに来ましたよ。本物の“江川君”。
そこに写っていたのは、どうみても本物の葉山だった。
― お前が投稿したんじゃないのか。
― とんでもない。見つけた奴がいたんですよ。場所もドンピシャ。まさに奴です。
― で、どうするんだ?
― どうもしませんよ。ここまで盛り上がったんだ。本物を含め、北海道から沖縄まで、全国の“江川君”に頑張ってもらいます。勿論、火付け役の女性にもね。“江川君”は、行く先々で注目されます。見ててください。
奴は、テレビ局のホームページの投書欄に、掲示板で盛り上がっている内容を紹介した。
昼のワイドショーの片隅に取り上げられたのは、その五日後。目ぼしい事件も芸能ニュースも無い日の繋ぎネタだった。顔を隠し、声を変えて、“江川君”を探しているという女性まで登場させたらしい。らしい、と言うのは、俺は実際にそれを見ていないからだ。
その反響は掲示板に表れた。多くの視聴者が掲示板に書き込みに来た。
その殆どが女性の同情票だった。
― ちょっと、香辛料を振りかけてやりますね。
奴はそう言うと、女性の売名行為を非難する書き込みを何件か作成した。また、“江川君”の財産目当てじゃないのかと言う意見もアップロードした。
これで、さらに議論が噴出した。
当の本人だと名乗る女性が、調子に乗って、お涙頂戴の長ったらしい文書を披露した。
― これって、私じゃないですよ。完全に一人歩き始めたなぁ。
ゲイの男が呆れて大きな溜息をつく。
さらにマスコミが飛びついた。
ある番組で、掲示板に掲載された“江川君”の本物を求め、全国の“江川君”にインタビューする企画が組まれた。
“江川君”と目されるほぼ全員が、そのインタビューに応じたが、ただ一人、応じなかった男がいた。
応じられるわけがなかった。それが、葉山だった。
インタビューに応じ、全国に顔を売ってしまえば、彼の裏の顔まで世間に公表される可能性がある。
奴は、マスコミの攻撃を巧みに避けた。
しかし、掲示板が一人歩きをしていた頃だ、さすがの奴も逃げ切れない。
週刊誌で特集が組まれたし、それをネタにカルチャーを論じる大学教授までがテレビに登場した。
葉山がインタビューから逃げれば逃げるほど、掲示板での攻撃が激しくなり、自称本物の主人公の女のお涙頂戴文書が長く、切々となり、何を思ったか“江川君”との熱い一夜の思い出話まで始める始末だった。
結果、面白半分のマスコミと一般大衆の目が、葉山をターゲットとして捕らえてしまった。何処へ行っても、ネットの目があった。葉山の行く先々が暴露された。
そのような状況でも、葉山は、事を荒立てず大人しくしてれば、いずれは嵐も過ぎ去るだろうと、じっと耐えていた。
有名人のプライバシーを暴露する事で読者を確保している写真週刊誌が奴を追い、ある日、奴のマンションの向かいの建物の屋上から、日常生活が盗撮された。
ゲイの男が、その週刊誌を見て、アッと声を上げた。
― これ、ここに写っている女性。ほら、顔をぼかしてありますけど、芥川専務の秘書の、ほら。
そう、それは、まごうことなく香織だった。あの愛しい女の姿なら、どんなにぼやけてたって見分けられる。
― まさか。
だが、俺は、あえてとぼけた。
― いいですか、この写真の輪郭を浮き出させて見ますよ。
奴は、その写真をパソコンに取り込むと、ぼかしを剥がしていく。
すると、現れたのは、確かに、あの香織だった。
― ね、それとね、もう一つ。彼女の体形を抜き出します。それと、この前、組織の事務所に貼ってあった紅いトカゲの刺青の女のヌードと重ね合わせます。ほら、肩幅といい、腰の張り具合といい、足の長さ、腕の長さまで、ほとんど一緒でしょ。
― まさか、顔が全然違うじゃないか。
― そこです。顔の骨格を抜き出して見ます。大きく顔を変えてますが、骨格までは触っていない。ほら、全体のサイズ、頬骨の位置、目の位置、顔の長さ、鼻筋のバランス、全てにおいて一致するんですよ。
― そういうケースは、よくあるだろ。
― 確かに。しかし、レアですよ。二人の指紋が分かればいいんですけどね。でも、これは、絶対に紅いトカゲの女、レッド・ドラゴンですよ。
― 確実な証拠が無いんだから、軽々しく言っちゃいけない。
ゲイの男は、それからもレッド・ドラゴンと香織の同一性を追い求めた。
もしかしたらだが、奴も香織には心惹かれていたのかも知れない。」
「ゲイも、異性に興味を持つのか?」
「そうだな。
しかし、香織には、前にも言ったが、通常の女ではない部分があった。」
「ブリザードか。」
「そうだ。それが、同性愛の奴の心に響いた可能性がある。奴は、ともかく、動物的な感性を尽く自分の中からも周囲からも排除したがっていたからな。」
「彼を必要以上に溺愛した母親から、手痛い裏切りを味わった末ってところか。」
「そうなのか?」
「いや、想像だよ。考えられる事だな。」
「まぁ、いい。奴は、最後まで自分の話をしなかった。だから、奴の過去を何一つ知らない。
香織の事に気が付いたのは、俺やゲイの男だけではなかった。香織は、社内の男からも女からも憧れの存在だったからな。
何人かが香織の遠目にぼかした写真を見て、彼女じゃないかと言い出した。それは、たちまち広まった。ただでさえ、社長、専務がホームページで浮名を暴露された秘書と共に雲隠れし、芥川にいたっては、家族からも捜索願いが出されていた時だ。あの香織が芥川と付き合っていたという驚きと、その香織が芥川と一緒にいるのではなく、他の男と同棲していたという事実。これ以上醜聞を流されては困る総務部が、必死で口止めに走ったが、その日の内に社員全員と言っていい程の人間が知るところとなり、マスコミにリークする者がいて、漸く下火になりかけていたマスコミの目が、再度、会社に向けられた。
主だった事件も芸能ニュースも無い時の恰好のワイドショーネタだった。
上司を見捨てた女、“江川君”に走る、ってな。
マスコミは、芥川の事、香織の事を根堀り葉掘り調べ始めた。
― 様子を見て、香織さんとレッド・ドラゴンの関係をリークします。
ゲイの男が言う。
― やめろよ、それは、良くないだろ。
俺は、止めた。
― どうしてですか?
香織を愛しているからとは、答えられない。
― 証拠も無いだろ。
― 私が調べられる事は、ここまでです。でも、マスコミの手に渡り、奴らが興味を持てば、金をかけて調べてくれます。かつて、組織の中で、その名を知らないもののいなかったレッド・ドラゴン。それが、何故、一般企業に秘書として勤め、今また、組織の男の元に戻って行ったのか。
戻って行った?葉山の元へ?
そうだ、香織は俺を捨て、葉山の元へ戻って行ったのだ。
奴の言葉で、俺の嫉妬の炎が燃え上がる。しかし、香織を守らねばという思いもあった。
― しかも、その男は、今をときめく話題の人“江川君”ですよ。
― その事を、またこの前のような手段で、世間に暴露するってわけか。
― 勿論。
― 自分は、安全な処に隠れてか?
俺は、いらついた。
― 何か問題でも?
俺の、そのいらつきを理解しかねると言う眼差しで俺を見る。
― 充分に気を付けろって言ったのは、あなたでしょ?
そうだった、しかしそれは、俺にとってゲイの男が利用価値があったからだ。
奴が俺にもたらす情報や、奴のネットワークを使い、俺は何人もの女を強姦する事ができた。
それで、俺は、一時的な精神の安定を得る事ができた。本当の香織と出会う前の事だ。
しかし、香織と出会った後、香織との関係性の中で、俺は、ゲイの男の力を借りなくても、徐々に精神的な安定を取り戻していた。
そういう意味では、ゲイの男は、俺にとって意味を成さなくなっていた。
香織がいればいい。香織さえいれば。
例え、俺という存在が、たかだか消臭剤と同等であったとしてもだ。いや、消臭剤と言う役割にこそ、俺は俺なりの落ち着き場所を見出し、そこに喜びすら見出していたのだ。
香織は消臭剤としての俺を必要としている。
だから、いつかまた、必ず俺の元に戻ってくる。
俺には、そんな確信に満ちた思いがあった。
もし、奴に、ゲイの男に、香織まで標的にしてしまうような行動を取られれば、俺のそんな思いも成就せずに終わる。
今、マスコミが芥川と香織に興味を持っているのは、企業内の不倫という下世話な観点からだ。だから、いつから関係が続いていたとか、どこのホテルを利用していたとか、そんな程度で終わっている。
が、もし、奴の情報がリークされ、マスコミが食いついてきたら、それこそ、香織は葉山と共に息の根を止められてしまう。組織の名前が出てくれば、遅かれ早かれ、葉山が組織ぐるみでやっていた違法行為は明るみにされるだろうし、それに加担していた筈の香織も無傷ではいられない。
それは、避けねばならない事だった。
いいか、俺は、しかし、このゲイの男に感謝の念が無かったわけじゃない。」
と、いきなり真顔で言う。
もう完全に雨はあがり、星すら見えている。
洞穴からは方角違いで見えないが、もう東の端がうっすらと白み始めている筈だ。
「もうすぐ朝だ。」
「俺の命と物語ももうすぐ終わりだな。」
「馬鹿な。随分と回復している。明るくなったら助けを呼びに行くからな。」
「よしてくれ。俺を静かに死なせてくれ。」
確かに弱ってはいたが、とても死ぬようには見えなかった。
「奴は、俺の様子にいつもと違うものを感じたようだ。
― どうしたんですか、一体。
― その女のデータを消せ。
― 何言ってるんですか。
― その女のデータを消すんだ。
― 嫌ですよ。何で消さなければならないんですか。
俺は、この時、はっきりと感じた。
この男は、俺にとって足手まといになっていると。
今まで、色々な状況に翻弄されて、その事に気づいてなかっただけなんだ。
最初から、この男に愛情を抱いていたわけでは無い。
自分を見失い、救いを求める行動の一つに、この男との関係があっただけだ。利用価値が高いと分かったので、そのまま関係を続けていただけだ。
― 組織を追い詰める最後の段階なんですよ。私が、それをやったんだ。いくらあなたでも、その依頼は聞けませんよ。
― 依頼?依頼じゃない、命令だ。
― なら、なお御免だ。
俺は、奴のパソコンからデータの入ったディスク装置を引き抜いた。
イレギュラーな事をされて、パソコンが悲鳴を上げた。
― 何するんですか。返してください。
― これは、俺が預かる。
ゲイの男は、奴らしくない素早さで俺の腕にしがみつき、ハードディスクを奪い取った。
― それを渡せ。
― 嫌です。
奴は、パソコンデスクの向こう側に回った。
― 渡すんだ。な、今まで俺達、うまくやって来たじゃないか。こんな事くらいで、仲違いは止めよう。渡すんだ。
― それはこっちの台詞です。あなたは、何を守ろうとしてるんですか?私は、ただ、組織を壊滅させたいだけなんですよ。そうか、あの香織さんか。あなたは、あの香織さんを守ろうとしているんですか?何故?
― あの女は、関係ない。あの女は、組織とは関係ないんだ。
― 大いに関係ありですよ。あの人がレッド・ドラゴンなんだ。それを明らかにすれば、あの人の口から、組織の過去の行状が聞けるんですよ。組織のメンバーだって知っている筈だ。そうしたら、それをネタに組織の主だった連中を引っ張れるんです。これで組織は壊滅だ。組織をぶっ潰すためなら、私は何だってしますよ。
― そうまであの組織が憎いのか?
― ああ、憎いですね。あの組織だけじゃない。この世のありとあらゆる組織、弱い者を食い物にしている組織が憎いんです。片っ端から潰してやりたい。だから、この件は、相手があなたであっても聞けません。
俺は、次の瞬間、カッとなって机の上のディスプレイとパソコンを奴に向かって押し倒した。パソコンは、奴にとっては宝物だ。命の次に大事なものだ。
奴は、慌ててパソコンを受け止めた。そのため、奴の両腕が塞がった。
そこに、俺は、もう一つディスプレイを投げつけた。旧式のブラウン管タイプの方だ。
その角が、奴の頭を直撃した。
奴は、そのまま後ろ向きに倒れ、その後ろにあった机に頭を打ち付けた。ゴキリと鈍い音がした。
奴は、そのまま倒れこみ、動かなくなった。
俺は、奴の手からディスク装置をもぎ取り、逃げようとした。
と、その足を抱え込んだ者がいた。
奴だよ、ゲイの男だ。
奴は、もう何も言わなかったが、最後の力を振り絞り、必死で俺の足を抱え込んだんだ。
俺は、手近の電源コードを拾い上げると、奴の首に回し、力を入れて締め上げた。
やがて、奴の腕から力が抜けた。
俺はディスク装置を抱えて奴の住処を出た。
小雨の降る午前零時を回った街に人通りは少なく、時折のヘッドライトに、濡れたアスファルトが光った。
雨に打たれて冷静を取り戻すと、俺は、自分のやった事を激しく後悔し始めた。
奴の同居人は、滅多に帰って来ない。暫くは、死体が見つかる事は無いだろう。
だが、奴の会社が無断欠勤を不審に思う筈だ。
二、三日は、こちらで言い繕えるだろう。だが、その後は?
俺は、一旦戻り、証拠隠滅を図ろうかとも考えたが、激しく疲れていた。
その気力も無い。
とりあえず、橋の上からディスク装置を投げ捨てた。
香織の過去は、ディスク装置と共に、真っ暗な川に音だけを残して消えた。
俺は、その事を香織に報告したかった。」
「お前を捨てた女だぞ。」
「いいんだ。最初から、香織とどうこうなれるなんて、思ってもいない。」
「それにしては、女々しいな。」
「どう言われてもいい。香織に対する思いだけが、俺を動かす原動力だった。
砂漠が、自分を潤せる唯一のものを見つけられたんだ。」
「ブリザードか。」
「そうだ。もう疲れ果て、すぐにでもベッドに倒れ込みたかったが、途中、公園のトイレで顔や手についた血を洗い流すと、タクシーを拾い、葉山の隠れ住むマンションに向かった。
奴のマンションの周辺には、盗撮マニアらしき連中がうろうろしていた。警察官が、そいつらに注意し、帰宅を促していた。平和な国家だな。多くの市民を不幸に陥れた犯罪者が、そうして警察に護られるんだ。
俺は奴らの目が逸れた時を見計って葉山の部屋のインターホンを押した。
暫くして、
― どちら?
と、香織の静かな声が聞こえた。
― 俺だ、香織。開けてくれ。
俺は、いつもの声でそう答えた。
一瞬の間があって、オートロックのドアが開いた。
香織は、部屋の鍵を開けて待っていた。
― いらっしゃい、尾形さん。
― 何故、俺の名前を。
知っているんだと言いかけて、付け眉毛や鬘を取っていない、会社での普段の俺の姿のままであることに、そこで初めて気が付いた。
― 馬鹿ね、眉毛や鬘なんか、すぐに分かるわよ。一度しか会わないんだったらまだしも、あれだけ毎日のように会ってるのよ。声や仕草で、薄々気が付くわよ。あなたが、尾形さんであろうとなかろうと、どっちでもいい事だったので、知らない振りしてただけよ。それとも、あれ?あなたも、匿名性の影に隠れてしか何もできないパターンの人?
― いや、そうじゃない。
俺はしどろもどろだった。」
「“そうじゃない”どころか、まさに“それ”じゃないか。」
「― 奴も一緒か?
俺は、慌てて話題を変えた。」
「賢明だな。」
「― 葉山はいないわ。最近、ここにも姿を見せてない。もっとも、そっくりさんは何度か来てるけど。
― 影武者か。
― そういう事ね。彼は、新しいプロジェクトに夢中になってるわ。だから、いろいろ変装して飛びまわってるようよ。世間では、私とここに隠れている事になっているけど。
― そうか。
― で、何しに来たの?」
「何しに来たの?か。見くびられたもんだな。」
俺は、盛大に笑い声をあげた。
「うるさい。」
奴は、弱弱しいながらにも精一杯手を振り上げ、俺の足の先でも殴ろうとしたが、その力すらも残っていなかった。
「言ったろ、彼女にとって俺は、消臭剤だ。
俺は、それでいいんだ。
― お前に会いに来た。
― 葉山がいるかも知れないのに?
― いてもいなくてもいい。お前にとって、俺が誰であってもいいようにだ。俺にとっても、芥川や葉山がお前の近くにいるとか、いないとか、どっちでもいいんだ。
― あがって、お酒でも飲んでいく?
― いや、いい。お前からそんな風に正式に招待されたくない。お前の部屋の闇にまぎれていたい。
― じゃあ、そうすれば。
― それもな、俺の正体を自らばらしちまったんだ。もう、今までのような関係性は保てない。
― 私は、気にしないわよ。
― 俺は、消臭剤にしてはデリケートなんだ。
俺は、その時点で、はたと困り果てた。何をしに来たのか、その目的が定かで無くなってしまったからだ。香織を見るなり、それで目的の全てを達したかのような気になった。
つまり、俺は、香織の顔が見れればそれで良かったのかも知れない。
ここにいるべきではない。そう思った。
― 夜分に邪魔をしたな。
― もう帰るの?
― ああ、何だか、ここにいる意味そのものを失っちまったようだ。
俺は、そう言った途端、目の前に闇が広がるのを感じた。
また、前のように、この広大な闇を浮遊し彷徨わなければならないんだ。
今度は、あのゲイの男の助けも無い。
奴の血にまみれた死顔が闇に浮かぶ。
その瞬間、より激しい脱力感に襲われた。その脱力感の中で、声を振り絞る。
― お前の過去を葬った。
そうだ、俺の目的はこれだったんだ。しかし、本当に?
― 何ですって?
― 今、まさに、お前の過去を葬ってきたんだ。
― どういう意味?
俺は、事細かに説明する気力を失っていた。
― お前の過去の入った小さな箱を、川に捨てた。その箱には、お前の過去の全てが入っていた。ある男が収集し、世間に公表しようとしていた。俺は、その男を殺し、箱を奪い、川に投げ捨てた。何故だ?何故そんな事を。
― 私を助けてくれたのね。
― そうかも知れない。いや、そうじゃないな。
脱力と混乱の極みの中で、俺なりの理由を見つけ出そうとした。
― 俺だけの物にしたかった。お前を。お前の過去も含めて。だが、捨ててしまった。何故だ。
何故だ。
何故?
いきなりの自問の中で、俺は気が狂いそうになった。
― その中には、紅い蜥蜴のお前もいた。俺は………...。
俺は、香織の中に紅い蜥蜴の姿を追い求めていたのかもしれない。
にわかに気が付く。
そうだ、香織は、それを自ら切り取ってしまった。まるで蜥蜴の尻尾のように。しかし、尻尾を切り取っても、蜥蜴は蜥蜴だ。香織の中にいるのは、まさに、事務所の壁に貼り付けてあった、あの紅い蜥蜴の女なんだ。
日常生活の中で、その匂いは邪魔になる。だから、彼女は、俺のような消臭剤を必要としたんだ。
俺は、紅い蜥蜴の匂いに引き寄せられながら、その匂いを消す役目を嬉々として担っていた。それで、精神的に満たされていた。
喜びすら感じ。
爬虫類の冷ややかな肌の感じ。香織を抱く時の、あるいは香織に抱かれる時の、俺の脳髄に想起するイメージは、確かにそれだった事に思い至る。
― 香織。
そう言いながら、抱きつこうとして、蜥蜴はするりと俺の手を抜けた。
蜥蜴が蜥蜴としての正体を現した以上、もう俺などの存在は必要としない。
― すまない、帰る。
背を向けた俺に、香織が声をかける。
― もう一度、私を抱きたい?
― ああ。
背中に、遠く香織の吐息を感じる。蜥蜴の生臭い吐息。
― 芥川を殺して。
俺は、振り返ろうとして、振り返れないでいた。
― 前に言ったでしょ。芥川を殺してくれる?って。あいつは、今、私のマンションにいるわ。精神的に追い詰められて、まいってしまって、外出すら出来ないでいる。誰かが自分を殺しに来る被害妄想に苛まれているわ。可哀想に。
― 匿っていたのか。
― 勝手に飛び込んで来たのよ。とりあえず、助けてあげたわ。でも、もう必要ない。あいつの口からは、何も聞き出せない事が分かったから。
― だから、俺に殺してくれと。
― そうよ。嫌なら無理にとは言わない。どうせ、放って置いても、後二週間程しか持たないわ。自分で食事すらしに行けない。パンをいくつか与えておいたけど、食べつくしたら、それでお終いね。
― 少し考えさせてくれ。
俺は、そう言うと、香織のいるマンションを後にした。
自宅に帰りつく。
女房は、とっくに出て行っていない。」
「どこへ行ったんだ。」
「知らんよ。何処へ行こうが、俺にとってはどうでもいい。
殆ど掃除もしていない部屋の真ん中に倒れこむと、そのまま眠ってしまった。
疲れ果てているのに、なんだかトロトロとした眠りだった。
香織の生臭い吐息が、常に体中にまとわり付いているようだった。
蜥蜴の吐息だ。生臭い、しかし、甘い。
翌日、会社に出ると、俺はゲイの男のいない口実を作り上げた。
つまり、俺と急に二、三日出張だ。
俺も、そのまま姿を消した。」
「芥川を殺すためにか。」
「いや、その時は、そんな事を考えていなかった。
俺は、また、街を徘徊し始めた。獲物を求めてな。」
「で、見つかったのか。」
「ああ。見つけた。そして、獲物のマンションに潜り込んだ。前のように、闇にまぎれて。
しかしな、一度失った熱意は、取り戻せない。
闇に潜んで獲物の帰りを待ちながら、俺は、自問自答をしていたんだ。わかるか?
これが、俺の目的か?ってな。
何故、俺はここにいるんだろう。何故、女の帰りを待っているんだろう。
そんな風に疑問を持ち始めると、ペニスも以前そうであったように屹立してくれない。
野生の緊張感も無い。
女が帰ってくる。下着姿で部屋の中を行ったり来たりしている。
俺は、その姿に全く興味を持てないでいた。
どうする?
俺は、自分に問いかける。
やるか?
せっかくだから、やろう。
女が風呂から出てきた瞬間を狙って部屋の明かりを消し、女の前に立ち塞がったが、女に悲鳴を上げる瞬間を許してしまった。
俺は、とっさに女の首を絞める。
いきなり混乱状態に突き落とされた。自分で何をしているのかも分からないでいた。
気が付くと、俺の手の中で女がぐったりとしていた。
よだれが一筋、俺の手首に落ちて、ようやく冷静になる。
女が死んでいるのかどうか確かめることもせずに、部屋を飛び出し、逃げ出す。
マンションのエレベータの防犯カメラには、俺の姿がくっきりと映っていただろうな。
俺は、激しく後悔していた。そして、目的を失っていた。
そのまま、自分のマンションに転がり込むと、布団をかぶってうずくまった。
久しぶりに、耳元に、男の激しい息使いを感じる。
“いい事やろうぜ”
そいつが、腰を動かすたびに、俺の中からありとあらゆる自信が抜け落ちていった。
このところの安定が、実は虚構であった事に思い至る。
ゲイの男がトリガーとなり、香織との関係性の上にこそ成り立っていた偽りの姿だ。
実際の俺は、相変わらず自信を喪失し、頼るものを求めてフラフラうろつく哀れな亡者みたいなもんだ。
そのまま、俺は男の姿におびえ、何日か部屋にこもっていた。
そのうちにな、何かを破壊したくなった。」
「で、また、獲物を求めて徘徊し始めたか。」
「いや、破壊するのは、そんなもんじゃない。
俺の最も愛する女だ。」
「紅い蜥蜴の女か。」
「そうだ。すなわち、香織の過去だ。
いや、香織の過去を作り出した者達だよ。
俺は、香織のマンションに向かった。
合鍵を使って、ドアを開ける。異様な臭気が鼻をつく。まるで、動物園の檻の前に立った時のような。生暖かい空気と共に、俺の体をかすめて通り過ぎ、外に流れて行った。
カーテンが締め切られた薄暗い部屋に足を踏み入れる。
綿埃がひどい。
奥でカサリと音がした。
― 誰かいるのか?
呼びかける声に反応して、さらにガサガサと音がした。
― 芥川さん、だな。
― 来るな。
奥からか細い声がする。
― 俺ですよ。尾形ですよ。
― 尾形?尾形君か。
― そうです。
― 嘘だ。
― どうして。
― お前も、俺を殺しに来たんだろ。
― いえ、あなたの元秘書に頼まれて、助けに来ました。そっち、行きますよ。
― 来るな。
俺は、その声を無視し、さらに奥に足を進めた。
リビングの片隅で小さな影が動く。
― 芥川さん。
― 来るなと言ってるだろ。
― あなたの元秘書から、香織から聞きましたよ。
― 何を聞いたと言うんだ。
― 追われてるんですって?ある組織に。命を狙われてるそうじゃないですか。
― ふん、奴ら、俺が怖いんだよ。暴露されるのがな。
― 何を暴露するって言うんですか。
― 奴らの過去の秘密をあらいざらいな。いいか、奴らは人殺しなんだ。今に見てろ、俺が警察行って全部話してやる。
― そんな事したら、貴方の身が危なくなりますよ。
― 大丈夫だ、俺には、香織がいる。あいつは、頼りになる女だ。
その女は、あんたの最も恐れている男と一緒にいるんだよと、言ってやりたかった。
― 芥川さん、あんた、何でそんなに組織の事をご存知なんですか?あんたも係わりがあったからでしょ?
暫く沈黙が続く。
― いや、無いよ。
ややあって、芥川がきっぱりと答えた。
― 昔、女子高生達と乱交パーティーした事があったでしょ。組織主催で。
― 何の事だ。
― そのパーティーで、一人の女子高生が、麻薬を打たれ過ぎて死んだ。あんたは、完全にラリってたから、その死際を覚えていないでしょうが、実は、あんたが一番間近にいたんだ。あんたが、その女子高生に麻薬を大量に打たせたと聞いてるぜ。
― し、知らん。
― そんなわけ無いでしょ。その後、あんたは、組織に金を払い続けた。口止め料としてね。その女子高生は、街を流れる川の上流で腐乱死体となって見つかった。その新聞記事も読んだでしょ。
― 知らんと言ってるだろ。
― その女子高生には姉がいたんだ。知ってます?誰だか。あんたの元秘書、香織ですよ。組織に紅い蜥蜴の女がいたのを知ってますか?それが、香織なんですよ。香織は、妹の死の真相を知るために、組織に身を売った。まさに、身も心もボロボロにされた。そのあげく、あなたを見つけたんですよ、妹を殺した真犯人としてね。それから、あんたに近づいた、復讐のために。あんたの秘書となり、あんたに事の真相を喋らせ、世間的に処罰を受けさせる機会を待ったんだ。あんたの愛人となりながらね。しかしまぁ、そんな風になっちまたんじゃぁ、香織の目的も何処へやら、だね。俺は、あんたを殺すように言われてきた。
部屋の隅から、鳩の鳴くような声が漏れてきた。
俺はてっきり芥川が泣いてるのだと思っていた。
違った。奴は笑っていた。
這いずりながら、カーテンから薄く明かりがこぼれているあたりまでやって来た。
歩く体力も無かったのだ。
― 尾形君。君は、何を私に言いに来たんだ。君の奥さんと私が浮気していた事が、そんなに悔しいのか。
― 何だって?
― 君が、アメリカで事件に巻き込まれて入院していた時ね、君の看病のために渡米して来た奥さんを支えたのは、私なんだよ。君が、あんな恥ずかしい事件の被害者となり、痛く傷ついていた。それでも、君の看病を続けたんだ、健気なもんだろ。その健気さに心打たれ、私は、君の奥さんと懇ろになった。奥さんだって、そんな心の拠り所が無ければ、知り合いの一人もいないアメリカで、半年以上も頑張れるわけがないじゃないか。
俺は、病院でのあの屈辱を思い出した。
医者も看護婦も、掃除人までが、おれを馬鹿にし、見下していた。
女房だけは、俺の味方だと信じていた。
しかし、あいつも内心は、俺を軽蔑していたんだ。
俺の看病の後、芥川と、この男と一緒にホテルに入り、それから、それから。
気がつくと、芥川の頭に椅子の角を打ちつけていた。
奴は、ううとうめくと、そのまま動かなくなった。
ただでさえ体力を無くしていた。
おそらく、放っておけばそのまま二度と起き上がる事は無いだろう。
しかし、俺は、二度、三度と、奴の頭を殴りつけた。
分かるか?
俺は、そうする事で、あの忌まわしい過去を消し去ろうとしたんだ。
少なくとも、俺の今まで知らなかった屈辱の素は、これで立ち消えた。
しかし、根本的な解決にはならない。
根本的な解決方法は、俺を襲った男を殺す事だろうか。
だが、どんな男だったか記憶から失われてしまっている。
匂い。そうだ、体臭なら覚えていたが、体臭が同じだからといって、殺害するわけにはいかないだろう。
過去を消し去れないのなら、せめて俺自身が消臭剤となって、偽りでもいい、心の平安を得る事だ。
香織。香織だ。
俺は、彼女のもとへと走る。
“良く来たわね。あがっていいわよ。”
俺は、香織から、そのように出迎えてもらえると思っていた。
― 何しに来たの?
ところが、香織の言葉はそっけないものだった。
― ここを開けてくれ、香織。
― ごめんなさい。今、忙しいの。
― 芥川を殺った。
― そう。そうなの。で?
― お前の望みを果したんだ。
― 誰も、あなたになんか、頼んでないわよ。
― 嘘だ。お前は、俺に言っただろ。あいつを殺してくれって。
― 何か勘違いしてない?
― 勘違いだって?
― ねぇ、とにかく、今、忙しいの。後で出直してくれる?
― 後って、何時?
― ちょっと先ね。来月くらいなら時間取れるわ。
― 来月だって?
そこで、玄関のインターホンが一方的に切れた。
その後、何度か鳴らしたが、出てきてくれない。
代わりに警察官がやって来た。香織が呼んだらしい。
― 盗撮されていると言う通報があったんですが。ちょっとお名前お聞かせ願えますか。
警察官の職務質問を無視し、黙ってその場を離れた。
何度も呼ばれてうんざりしていたのだろう、警察官はそれ以上深追いして来ない。
その場を離れたはいいが、さて、何処へ行く。
自宅へは戻れない。ゲイの男は死んでしまった。
俺は行くあてを無くした事に思い至る。
人間と言う存在の関係性のなんと希薄な事。
頼りにできる相手のなんと少ない事よ。
会社人間である限り、つまり人為的に作り上げられ規則により維持されている集団に帰属する限り、様々な方面で人間関係が出来上がり、孤独感は解消する。
しかし、それは暗黙の了解の上に成り立つ関係性なのだ。その了解事項に縁が無くなれば、いきなりその集団での存在価値は無くなる。つまり、相手にされなくなる。
そういう薄氷のような規則を基にした関係性を離れると、途端に人間関係は成立しにくい。
成立できる相手が一人でもいれば、良しとしなければならない。
が、その一人を、自分の手で殺害してしまった俺は、途方に暮れるしかなかった。
衝動的に手を出し、その関係性を破壊してしまった事に激しく後悔した。
子供の頃から、全てに計画を立て、その計画通りに歩んで来た筈の俺だった。
それが、ある事件から自信喪失状態となり、その自信を取り戻すために女を強姦し、あげく殺人者だ。
いや、殺人者である事を後悔したのではない。
自分の帰るべき巣を壊してしまった事を後悔していた。
人を殺害したという事実は、俺にはどうでも良かったと言える。
俺の足は、ふらふらと、ゲイの男のマンションへと向かった。
何をするつもりだったわけでもない。
衝動性に支配されていた俺は、ただ単に衝動的に奴のマンションに足を向けたに過ぎない。
普段、そうしていたようにだ。
しかし、立ち入り禁止のテープに阻まれ、奴のマンションには行けなかった。
奴の知り合いの男が帰ってきたところで奴の遺体を見つけ、警察に通報したのだろうな。
野次馬と、報道陣と、警察官。折りしも、ビニールにくるまれて、奴の遺体が運び出されるところだった。
結局、俺もまた、世間の視線から逃げ隠れする一人になったわけだ。」
「自首しても良かったんじゃないか?」
「そうだな。そういう手もあったかも知れない。
そこで、様々な余罪が暴かれ、殺人者、強姦常習者として精神鑑定を受け、過去のあの忌まわしい事件も引き出され、それが俺に与えた影響力の大きさがまことしやかに報道され、マスコミの興味本位の目に晒され、挙句、処刑されるわけだ。よくて無期懲役。
誰が、そういう目に会いたい?
俺は、ごめんだった。
だから、逃げた。
自分と言う氏素性を捨てた。」
「捨てられるものなのか?」
「そのように努力した。
そのように、世の底辺に潜む事ができる事を知った。
簡単だ。本当に簡単なんだ。
それまでの、具にもつかないプライドさえ捨てられればな。
木賃宿から木賃宿を渡り歩くんだ。
俺は容疑者として指名手配されていた。暫くは、ニュースでも顔写真が流れた。
しかし、誰も、それが俺だとは気がつかない。
頭髪も眉毛も無い俺の本当の顔を知っているのは。ゲイの男と香織だけだった。
ゲイの男は死んだ。香織が俺の事を喋る筈も無い。
俺は、眉毛も頭髪も無い不気味な男として、日雇い労働者の中に紛れ込んだ。
野外労働の直射日光とその後の安酒が俺の肌を焼き、なおかつ痩せて、目だけがギラギラとし始めた。
そうなると、ますます俺の元の顔が分からなくなる。
その生活は、また、俺の精神を鍛えた。
俺は、以前のように自信喪失した俺では無くなっていった。
あの忌まわしい過去は、単なる過去の事件として、片付けられるようになりつつあった。
俺を後ろから犯した男への恐怖、プライドをずたずたに引き裂かれた事による深い傷は、たまにじくじくと疼く事はあったが、それは、瘡蓋の下の傷口に痒みを覚えるのと同じだった。
俺は、その生活に安住していった。
元の生活は、懐かしいとも思えなかった。
時折の居酒屋のテレビのニュースと風に吹き寄せられる新聞とで、俺が捨ててきた生活がどのようになっているかを知る事ができた。
俺は、指名手配のまま。
俺が勤めていた会社の社長は、株主総会を前に、場末の旅館で、愛人と首をつった。
副社長が社長に繰り上がったが、結局、奴も同じ穴の狢で、すぐに愛人問題がリークされ、自ら辞職した。
結局、社内で疑心暗鬼が広がり、何人かがインサイダーのリークし合いで新聞沙汰となったが、最後は三面記事扱いだった。
芥川の死体は、半年も後に、山中で発見されたが、死因は餓死だった。
結局、奴は、俺が殴りつけたくらいでは、死んではなかったんだな。
香織の部屋で餓死し、おそらく、葉山の手下が山中に遺棄したんだろう。
例の“江川君を探せ”は、早々と下火になり、全ての人々から忘れ去られた。
香織に対する俺の想いは、俺の中で二転三転した。
ある時は、俺は香織に深く感謝し、香織の幸せを心から祈った。
香織が葉山の元に走ったことについては、香織の幸せを考えると仕方の無いことと考えた。
それよりも、香織のおかげで、俺は少なくとも何ヶ月かは平穏であれたのだ。
その事を感謝した。
そして、香織が幸せになってくれるのなら、それでいいのだと考えた。
またある時は、俺を裏切り、葉山に走った事を心から恨んだ。
葉山への激しい嫉妬心と、香織に会いたいという衝動が、俺の中で音を立てて逆巻いた。
そんなある日、俺は香織を見た。
香織は、貫禄のついた葉山の後ろを真っ白なスーツで歩いていた。
葉山は、ネット事業を成功させ、一躍時の人となり、香織はその葉山のお抱えの秘書だった。
二人は、報道陣に取り囲まれ、道路工事機材を片付けている俺の横を通り過ぎた。
俺は気がついたが、奴等が気づく筈も無い。
俺が注視しているのも気づかずに、最近完成した高層マンションの中に消えて行った。
俺は、改めて自分の姿をガラスに映してみた。
薄汚れた作業服、禿頭に巻いた黒くなったタオル、痩せて日焼けし、目だけが餓えて見開かれていたが、それとて生気もなく、安酒の飲みすぎで血走っていた。
この差よ。
あくる日、二人が出てくるのを、そのマンションの前で待った。
奴等に何かをしようとか、そんな積もりはさらさら無かった。
強いて言えば、もう一度、その姿を確認したかった。
特に、香織。相変わらず美しかった。
香織の姿をもう一度目に収め、彼女が与えてくれた一時の安らぎを心に想起したかった。
いや、あわよくば、もっと違う事も期待していたのかもしれない。
例えば、香織が俺を認め、かつての優しい微笑を投げてくれる、とかな。
しかし、俺の甘い期待は、無残にも打ち砕かれた。
高層マンションのオートロックの向こうの広いロビーに二人の姿が見えると、俺は、フラフラと玄関口に近寄った。
その俺の肩をつかみ、ぐいと後ろに引き戻した奴がいた。
葉山の付き人だった。
レスラーのようなその男に引き戻された俺は、それに歯向かうように前にのめった。
その瞬間、俺の体が浮いて、次に地面に叩き落された。
その男にしてみれば、ただ、俺の体を後ろに押しやっただけなのだろうな。
しかし、日頃安酒ばかりを煽り、ろくに食事も摂っていない俺の体は、見事に跳ね飛ばされた。
しばらく起き上がれない俺の目の前を、葉山の光り輝く革靴と、香織のきれいな足が通り過ぎた。
奴らは、道路に倒れ付した俺に、一瞥もくれなかった。
まぁ、その方が良かったのだが。
奴らに見つかっていれば、俺はさらに惨めな思いをするところだったろう。
さて、それからだよ。安酒を断ち、気分しだいでやっていた仕事を、真面目にこなすようになった。
それまでは人手が足りない時の臨時要員でしかなかったが、要領よく真面目に仕事をこなす俺の姿は、手配師どもには好ましく映ったのだろう。
次第に、どこの工事現場でも必要な人材とされるようになり、工事会社から指名がかかるようになった。
指名がかかっても金を余分にもらえるわけではなかったが、それはそれで、気分が良かった。
俺のポケットには、少しずつ小銭が溜まっていった。
しかし、それを目ざとく見ている奴もいるもんだ。何度か盗まれ、何度か、その犯人をこっぴどい目に合わせた。
そのうち、俺も、信頼できる手配師を見つけ、そいつに金を預ける事を覚えた。
預かり賃は取られたが、丸々盗まれるよりはよかった。
おかしな話だ。普通なら金を預けると利子がつくのにな。
それでも、真面目に働く俺の金は増えていった。
そりゃ、サラリーマン時代からみればはした金だったが、その境遇では、随分頑張った方だ。
まとまった金になると、俺は古着屋に行き、安い背広を手に入れた。
膝に染みがあったが、それまでの作業着に比べると随分とましだった。
俺は、その姿で、香織のマンションの警備を担当している会社に面接に行った。
すぐに雇ってもらえるとは思っていなかった。
何度かノックし、何度も訪問を繰り返し、採用担当者を根負けさせて雇ってもらったが、履歴書と住民票のハードルは、それよりもっと高かった。
俺は、残りの金の全てを、ある男に手渡し、そいつの住民票を買い取った。
仕事もせずに毎日飲んだくれているだけの、どうしようもない奴だった。
俺は、そいつに成りすまし、警備会社の臨時要員に採用された。
しかしな、世の中、やはり甘くは無い。
臨時要員では、あの高級マンションに近づかせてももらえない。
俺は、真面目に働きながら、チャンスを待った。
いや、チャンスを待っていただけではない。
あのマンションに勤務する連中に近づき、懇意になった。
奴らは、高級マンションの警備担当というだけで、人より一段も二段も高いところにいると勘違いしている、どうしようもない連中だった。
まぁ、そんな奴らは、どこにでもいる。
人間の特性だな。
俺は、奴らから一歩も二歩も謙ってやり、奴らをいい気にさせ、俺の事を要員配置担当の男に良く言ってもらえるように努力した。もちろん、配置担当の男にも、事あるごとに投資した。差し入れを持っていく程度だったがな。
その甲斐あって、ある日、奴らの一人が大怪我をして長期休業を余儀なくされた時に、俺は配置担当者に呼ばれた。
俺は、その男から、気品良く見せるための注意事項を懇々と聞かされ、どうでもいいような規則を説明され、ようやくあのマンションの警備員だけが身につける事を許された制服を手渡された。
その時の俺の喜びがお前にわかるか?
やっと、香織に会えるのだ。
毎日、心置きなく香織の顔を見る事ができるのだ。
俺は、マンションの警備をしながら、香織が通るのをじっと待った。
何日目かで、ついに香織が向こうから歩いて来るのが見えた。
葉山に付いて、海外出張に行ってたんだな。
俺は、警備室の中から、教えられた通り最敬礼して葉山と香織が取りすぎるのを見守った。
帽子を目深に被り、決して視線をあわせずにな。
それが、規則だった。
だから、葉山も香織も俺の事には気づいていない筈だった。
ある日、呼ばれて行った先が、葉山と香織の住処だった。
ドアを開けたのは香織だった。
葉山は外出中だった。
― 入ってちょうだい。
そう言う香織に、規則通りに視線を合わせずに、
― 何でございましょう。
― 電球を取り替えて欲しいの。
― それでしたら替え玉を持って来ませんと。
― こっちにあるからいいわ。背が届かないのよ、お願いするわね。
― かしこまりました。
香織は、ガウンを羽織っていたが、その下は黒い下着姿だった。
俺は、やはり規則通り、やや俯き加減にリビングを横切り、寝室に入ると、指示された場所の電球の交換を始めた。
― シャワー浴びてるから、後は頼んだわね。終わったら一応声かけて頂戴。きちんと点灯するかどうか、確認しないといけなから。
― かしこまりました。
電球を交換する俺の耳に、シャワールームの水音が絡んできた。
香織と関係のあった頃の俺が戻ってきつつあるのを必死で抑えた。
やがて交換を終えた俺は、
― 奥様、交換作業が終わりましたので、失礼させていただきます。
と声をかける。
― ちょっと待っててちょうだい。確認しないといけないから。
香織は、バスローブを身に纏いながら、片足でシャワールームから出てきた。
― 足が悪くて歩けないのよ。ちょっと肩を貸してちょうだい。
肩を差し出した俺に、しっとり絡むように体を預けると、寝室に赴き、電球の具合を確認する。
― いいわ。ありがとう。助かったわ。お礼に冷たいものでも差し上げるから、ちょっと待ってて。
― 奥様、結構でございます。規則で何も頂戴できない事になっております。
― 固いこと言わないのよ、尾形さん。
― は?私は萩原ですが。
― 嘘言っちゃ駄目よ。
香織は、さらに俺に体を預けると、耳元で囁いた。
― 嘘だなんて。
― 最初からわかってたわ。お久しぶりね。
― これで失礼させていただきます。
― あら、そう。それなら、誰かを呼ぶわ。あなたに襲われそうになったって。あなた、強姦未遂に身分詐称よ。そうしたら、嫌な過去を穿り出されて、困った事になるわね。
― なんて事を。
― だったら、昔みたいに、私を抱いてくれる?
― お前が、俺を裏切ったんじゃないか。
― そうよ。私は、葉山の元に走ったわ。力をつけるためにね。
― 嘘だ。葉山を愛してるんだろ。
― ええ。愛してるわ、同じくらいに憎んでいるけど。葉山は、初めて私に肉体的な屈辱と、その次に来る快楽を教えてくれた男よ。でも、葉山以上に、あなたを必要とする時もあるの、こっちから裏切っておいて勝手な言い草だけど。ずっと待っていたわ。あなたが現れるのを。そして、裏切られた憎しみと、それ以上の愛情で私を抱いてくれるのを。私の匂いを消し去ってくれるのを。
― それは嬉しいね。しかし、俺には、お前という女が分からなくなってきた。
― 分かってくれなくて結構よ。側にいてくれたらいいの。あなたが必要なの、今。
そう言いながら、香織はベッドに倒れ込んだ。
俺もつられて、その上に体を重ねた。
香織は、俺の衣服を優しく剥ぎ取っていく。
俺も、香織の肌に唇を這わせ、熱い接吻を交わす。
俺は、肉体の全てを、今にも香織の体内に没し尽くそうとした。
その時だ、ベッドサイドの電話が鳴った。
香織が受話器を取る。
片方の手で俺を愛撫しながら。
― はい、葉山です。ええ、いらしてます。ええ。私をベッドに押し倒して、口を塞いで、騒ぐと殺すとおっしゃったもので、私は何も抵抗できずに、ええ、そうです。何なら、代わりましょうか。
香織が俺に受話器を差し出す。
俺は、驚いて香織の顔を見た。
― あなたの上司の方よ。
― 嘘だろ。
香織は受話器を自分のほうに戻すと、
― 今、興奮されてて何もしゃべれないそうです。すぐに助けに来て頂けます?でないと、この人、私の中に何もかも出しつくすつもりらしいの。では。
香織は、そう言って受話器を置いた。
― もうすぐ、あなたの上司が血相変えてくるわ。どうする?このまま続ける?続けても、止めても、同罪よ。どうせ、あなたのこの仕事は、おしまいね。
― お前は、何がしたいんだ。
― あなたが、私に会うために、どんな努力をしたのか知らないけれど、こんな程度じゃ、私は我慢できないのよ。あなたの目には、前のようにギラつくものが無いのよ。あなたの中にあった砂漠は、どこに行ったの?砂漠を見つけて、もう一度出直してきて。でも、あなたの今までの努力に、とりあえず報いてあげるわ。さ、来て頂戴。
俺は、残りの時間を惜しんで体を動かした。玄関のドアが激しくノックされる。香織が手を伸ばし、受話器を操作してドアロックをあける。何人かが、部屋に飛び込んできて、俺の体を引き剥がす。その瞬間に、俺は果てた。
― 警察に突き出しますので。
香織の裸から目をそらしながら、上司の男が言う。
― そこまでしなくていいわ。別に怪我させられたわけじゃないし。
― いえ、こいつ、奥様に失礼な事を。
― もし、この人を警察に突き出したら、私が恥をかくでしょ。そうなったら、主人に頼んで、あなたを解雇させるわよ。
俺は、そのまま、街に放り出された。もちろん、懲戒免職処分。理由は、住居無断侵入。」
男は、そこで、大きく息をついた。
朝の光が洞穴の中にまで差し込んでいた。
「もう、朝だな。」
「まだ、真っ暗じゃないか。」
「光が見えないのか。」
「ああ、俺には、真っ暗だよ。あの時から、俺の世界は真っ暗闇だ。」
「雨も上がったし、助けを呼びに行こう。」
「まぁ、待て。もう少し話をさせてくれ。
俺の中は、怒りで満ち溢れていた。」
「朝だというのにか。」
「違う。仕事場を放り出されたときだ。
香織の裏切りのためにな。
いや、もともと、香織の中に俺に対する愛なんて、これっぽっちも無かったんだ。
一瞬でも、それを期待した俺が馬鹿だった。
しかしだ、俺の馬鹿さ加減を差っ引いても、やはり、香織への怒りが残った。
さらにだ、上司が踏み込んできた時にも、香織の上で必死に体を動かしていた俺の卑しさ加減にも、ほとほと嫌気が差していた。
人間ってのは、落ち込んでいく時は、それまでの様々な出来事を掘り返し、巻き込みながら落ち込むもんだ。
既に忘れてしまっていると思っていた、あの忌まわしい出来事まで再び蘇って来た。
耳元で、あの男の囁く声が聞こえる。
冷や汗が流れる。
動悸が激しくなる。
俺の中であらゆる人間性が崩壊していく。
そのような状況下で、一人の男を見つけ出した。
体が大きく、粗野な歩き方をする白人だった。
そいつが横を通り過ぎる時に、俺の鼻腔に入ってきた信号が、俺の恐怖をさらに掻き立てた。まさに、あの時の、あの男が持っていた体臭そのものだった。
あまりに大き過ぎる恐怖は、強い磁場と同じで、周囲の風景を捻じ曲げるのか。
ビルが揺らめき、陽光が地面をのたうつ。俺以外の人間が、ひょろ長く頼りない線のような存在となる。
その中で、例の男だけが街角にしっかりと立ち、強く、大きく、存在感を持って、俺の肉体と精神を圧迫した。
何とかしなければ、と思った。何とかしなければ、あの男に、再びあの屈辱を与えられる。
俺は、夢遊病者のように金物屋でナイフを買い求める。できるだけ大きいのだ。
これでどうだ。これで、あの男の対抗できるか。駄目だ。
だぁめぇだぁと、俺自身の何処かが叫ぶ。
それじゃあ、どうする。
交番を見つけた。中に、ひょろ長い線のようになって警察官がいた。
俺は、満面の笑みをたたえて、警察官に近寄る。
― ちょっと、お尋ねしたいのですが。
警察官が、地図の方を見た瞬間、その背中にナイフを突き立てた。
線のようだった警察官が、肉感を持って膨れ上がり、背中にナイフを突き立てたままもがく。
俺は、そのナイフを抜き取ると、再度突き立てた。
三度目は、まだ肉感を取り戻せていない首に切りつける。
首は、糸のようにぷっつりと切れた筈だったが、意に反してつながっている。
切れた筈の場所から、大量の糸を発生させていた。
俺は、羽根跳ぶ糸を避けつつ警察官の腰の道具を取り上げた。
ナイフより殺傷力のある、その道具。
しかし、使い方が分からない。
映画で見るようには、おいそれと弾が飛び出してくれない。
ほうぼう触るうちに、小さなレバーを見つけた。それを解除し、まだ苦しんでいる警察官に向かって弾を発射する。
それで警察官は、もとのひょろりとした体に戻り、動かなくなった。
俺は、そのまま通りに出て、例の男を探した。
ひょろりとした連中は、ほぼ全員俺をよけた。たまに、気づかずにぶつかる奴もいたが、俺を見ると、慌てて道を開けた。
何ブロックか捜し歩いて、銀行の建物から出てくる白人の男を見つける。
男は、俺の顔を不思議そうに見ている。
― いい事しようぜベイビー。
俺は、ニヤリと笑うと、その男の股間に向かって弾を発射した。
男が、そこを押さえ、地面にうずくまる。
今度は、後ろから肛門に向かって一発。その苦しみ方を見下ろしながら、さらに、頭に一発。
男は倒れ伏し、弱々しく痙攣した。
それで、俺の精神は落ち着いたか?
とんでもない、まだ殺し足りないと、叫ぶ声がする。
もっと、大量にと。
男をそのままに、俺は次の獲物を探し、街を徘徊し始めた。
が、獲物はおいそれと見つからない。どれも、ひょろ長い人間ばかりだった。
と、見覚えのある場所に来る。
そうだ、香織のマンションだ。
俺は、フラフラとロビーに吸い込まれる。
俺のその姿を認めて、守衛室から一人飛び出してくる。
先ほどまで、俺に悪態をついていた男だった。
その頭に弾を発射する。
ひょろ長い体が崩れ落ちる。
守衛室に侵入した俺を見て、中にいた奴らは、皆逃げ出した。
勝手知ったる場所だ。合鍵の束を取り出すと、オートロックを開け、香織の住居を目指し、エレベーターに乗る。
どれが、香織の部屋の合鍵なのかは、分からない。
片っ端から試していると、中からドアが開いた。
出てきたのは、香織だった。
香織は線ではなく、ちゃんと肉体を持っていた。
― 最初から開いてるわよ。
香織がそう言う。
― 待っていてくれたのか。
― まさか。勘違いもほどほどになさい。
― 嘘をつけ。待っていてくれたんだ。
― 何故、あなたのような人を待っていなくちゃならないの。
その時だ、香織の後ろから葉山らしき男が顔を出す。
それは、街の他の人間と同じ、線のような男だった。
― お前は、そんな男がいいのか。俺よりも。
― 誰だ、こいつは。
線が言う。
― ストーカーの一人よ。
― 追い出してやる。
線が俺に迫ってきた。
― 馬鹿にするな。
俺は、そう言って、線の頭を打ち砕く。
が、弾が逸れて、線は息絶えられず苦しみもがいた。
止めを刺そうとしたが、もう弾は無かった。
俺が呆然と突っ立つ側から、香織がどこからか持ち出したピストルで線の動きを止める。
― この男にも用が無くなっていたわ。丁度良かった。
そして、俺のほうにピストルを向け、
― あなたもね。
― どこに隠してたんだ、そんなもの。
俺は、頓珍漢な問いかけをしていると気がついた。
― 葉山の持ち物よ。さぁ、私に殺されるのがいいか、ベランダからダイブするのがいいか、どちらか選んでちょうだい。
― 香織に殺されるのがいい。香織の手で殺してくれ。ただし、その前に、もう一度だけ俺を愛してくれ。
香織は、俺の頭にピストルを突きつけながら長い接吻をする。
俺は、頭に銃口を押し付けられながら、香織の張りのある乳房を揉みしだく。
そのままズボンを脱ぎ捨てると、既に濡れている香織の中に入っていく。
銃口は俺の頭に押し付けられたままだ。
そのまま、体を徐々に動かす。
香織の中の滑らかな襞が、無機質な銃口とは裏腹に、俺に纏いつく。
― 絞めて。
香織が、喘ぎながら言う。
― あなたの手で首を絞めてちょうだい。
― しかし。
― 早く。でないと、殺してあげないわよ。
俺は、恐る恐る香織の首を絞める。
― もっと、もっと強くよ。
― こうか?
― もっと来て、もっと激しく。
俺は、今までに無い快感を味わい始めていた。
体の中から、激しい疼きが突き上げてくる。
それが、今まで俺の周囲を覆っていた滓のようなものを突き抜け、拡散し、浄化し、さらに俺の全身に広がっていく。
― 香織、かおり、カオリ。
俺は、そう叫びながらさらに腰を動かし、香織の首に巻きつかせた手に力を込めていく。
銃口は、さらにはげしく突きつけられる。俺の頭と銃口が一体化したような錯覚を覚える。
銃口が、俺の香織への愛をさらに激しく掻き立てる。
そうだ、俺は、銃口と一体となることにより、あらたな消臭剤としての役目を与えられたに違いない。
俺は、香織を、さらに激しく愛するんだ。
その歓喜。その充実。その憤激。
その瞬間、俺は果て、銃口が音を立てる。
弾は、俺の頭皮を掠め取り、向こうの壁に突き刺さった。
香織は、涎を流し、白目をむき、そのまま動かぬ物体となる。
― 香織。
俺は、何を失ったのかを悟った。
そして、これは、すべて香織によって仕組まれていた事も。
そうだ、俺は、俺の過去と香織の過去、どちらも背負い込み、清算せねばならなくなった。
香織は、最後にそれを託したの違いない。
そのために犠牲にしたものの何と多い事よ。
その全てが、香織の過去を清算するための人身御供だったのだ。
香織は、そのような女だった。
そのような女として、俺は、香織を愛した。
その愛に応えた結果が、これだ。
俺に、全てを背負い込ませたのだ。
俺は、あらゆるものから追われる身となった。
香織の義足をはずすと、布でくるみ、その場を後にした。
それから、何日か放浪し、挙句、俺自身も消し去ろうとした。」
「それで、焼身自殺か。」
「自殺ではない。抹消だ。俺自身も消し去ること。」
「雨さえ降らなければな、それも果たせたかも知れない。」
「まだまだ、これからだ。」
「あきらめろ。それより、助けを呼びに行って来る。」
「そのまま戻って来ないでくれ。」
「そうはいかない。」
「だったら、一つ頼みを聞いてくれ。香織の義足を見つけたら、必ず誰の目にも触れない所に埋めてくれ。できれば、燃やしてくれ。」
「燃やせるかどうか。だが、人目に触れないようにしよう。」
俺は、そう言って洞穴を後にした。
洞窟を出際に振り返ると、男は、黒い塊となって静かに呼吸していた。
あの男の話。
と、俺は瀬を下りながら考える。
どこまでが本当なのか。
全て、嘘事という事もあり得る。
ただ、香織という女への想い、これは、どうやら本当のようだ。
あいつの切無げなしゃべり方、随分と胸に来るものがあった。
まるで、俺自身が経験した事であるかのような、そんな風に聞ける話しだった。
いや、もしかしたら、あの話は、あの男が喋っていたのではなく、あの男の遺体を側に置き、俺が俺自身に語っていたのかも知れない。
じゃあ、あれは俺自身が体験した事なのか。
そもそも、あの男が実際に存在したのかも不明だ。
と、背後で地響きが起こる。
振り返ると、俺が今までいた斜面の上部が崩れ、ぽっかり口を開けた洞窟を巻き込みながらなだれ、瀬に流れ込み濁流となって木々を押し倒しながら迫ってくる。
俺は、慌てて反対側の斜面を駆け上り、土石流をやり過ごした。
その後には、何も残らない。先ほどまで、俺が歩いていた瀬までが、岩と粘土で覆われた。
あの洞窟は、跡形も無い。
俺は、ずぶずぶと膝まで潜り込む粘土と、ごつごつと敵意を剥き出しにした岩をいくつも超えて洞窟のあった辺りまでたどりつく。
「おい、大丈夫か。おい。」
俺は、洞窟のあったあたりの土砂をかき出しながら男の姿を探したが、見つからない。
土の中に完全に埋まっている。
泥だらけになりながら必死で土を掘り、押しのけるが、洞窟の跡すら出てこない。
ふと、我に返って思う。
そもそも本当に、あの洞窟はあったのだろうか。
あったような不確かな記憶の中で、俺は他人の記憶を勝手に作り上げ、頭の中で語っていただけだったのかも知れない。
俺は疲れ果て、泥の中に座り込む。
体中にこびり付いた土が乾燥し始めたころ、瀬の下流の方から人声がした。
何人かが、時折、草むらの中を探しながらこちらにやってくる。
俺は、そちらに向かって力なく手を振った。
一人が見つけてくれて、こちらに手を振り返す。
かすかだが、
「今、そっちに行くぞ。」
と言ってくれているのが聞き取れる。
人影の一団が瀬の下あたりまで来た時に、最後尾を歩く一人が担いでいるものに気がつく。
泥にまみれてはいるが、細く美しい女の足だった。
香織だ。香織の足だ。
― あいつの足を人目のつかないところへ
男の声が脳裏に響く。
「大丈夫ですか。」
先頭の男が声をかけながら近づいてくる。警察官もいた。
「殺人犯が逃げ込んでいるらしい。ここにいるのは、あなただけですか?」
「ええ。」
俺の目は、最後尾の男の持つ香織の足に吸いつけられる。
俺は一歩二歩と、そちらに近づく。
やがて俺の視線に気がついたその男が、
「これね。殺人現場から犯人が持ち去ったものだと思われるんですよ。良くできた義足だ。」
「見せていただけます。」
俺は、香織の足を受け取る。
頬刷りしたい衝動が駆け抜ける。
これだ。愛してやまない女の足。
女そのものだったと言っていい。
俺は、義足を抱きしめると、そのまま土砂の中を逃走し始める。
「おい、待て。」
勝手知ったる山だ。
どこら辺りの地盤が固いか、何となくわかる。
俺は、奴等の制止を聞かず、ひたすら逃げる。
威嚇射撃が始まる。
そんなものに怯みなどしない。
香織を守りたい一心で走り続ける。
思えば、俺の過去の全ては、この足と出会うためにあったのかも知れない。
俺は、そのまま、今も逃げ続けている。
女の足を抱えて。


(終)