(一)





年代物のディーゼルカーが、重い音を立て、二両だけの客車をひいて出て行くと、向日葵の植わった短いホームには、清治一人が取り残された。長身で痩せ身の清治の影が、きつくなった陽射しの下で揺れていた。
山間の小さな無人駅。駅舎の入り口には、笠野形温泉と書かれている。
山中に旅館が三件ばかしの小さな温泉で、温泉場は、駅からさらにバスで十五分ばかり揺られなければならず、湯煙の香りは、駅前までは流れてこない。
去年、民間放送局の深夜番組に取り上げられて以来、週末には温泉目的の客が少しは増えた。が、さすがに平日は駅前の小さなロータリーも閑散としていて、山の中に点在する旅館巡回用のレトロを意識したボンネットバスが、手持ち無沙汰に止まっている。
清治は、改札のボックスの中に切符を放り込むと、ロータリーを横切り、駅舎の対面にある食堂の暖簾をくぐった。日焼けした暖簾には、かろうじて平和食堂の文字が読める。
中には、中年の夫婦が二人いて、亭主は調理場の中で煙草をふかし、女房はカウンターに肩肘ついて、棚の上に載せた小型テレビをじっと見ていた。
ワイドショーは、つい先日、パリで起きた人肉食事件の顛末を報道している。
中年夫婦は、突然の来客を手馴れた愛想で迎えたが、入ってきた清治の顔を見て、その笑顔を凍りつかせた。
清治は、そんな事に頓着せずに、入り口に一番近い席に座り、親子丼を注文した。
「はいよ。」
亭主が答える。
女房が無愛想にお茶を運んでくる。
「それと、ビール。」
女房が、腰に手をあてて清治を無表情に見下ろす。
「ビール。」
言われて、しぶしぶのようにビールを冷蔵庫から取り出し、グラスと共に清治の前にドンと置いた。
その音の大きさに亭主が驚く。
「相変わらず乱暴だな。」
清治は、そう言うと苦笑いしながらビールをコップに注ぎ、一息に飲み干した。
「いつ来たんだい。」
女房がたずねる。
「覚えていてくれたんだ。」
「当たり前だろ。」
「ついさっきの列車。」
「何年ぶりだろうね。」
亭主が調理場から顔を覗かせる。
「六年、いや、七年ぶりかな。」
「もう、そんなになるのか。早いもんだな。和江さんもねぇ。」
「あんた。」
亭主が言いかけたのを、女房がとめる。
清治は、それを無視して、再びビールを飲み干した。
「墓参りに行ったよ。」
「和江さんのかい?」
初めて女房の目が優しくなる。
「ああ、もうすぐ命日だからなぁ。草茫々で、きれいに掃除してやるのに一日かかっちまった。」
「誰も行かないからねぇ。」
「まぁ、ここしばらくは、俺が行ってやれるから。」
「そうかい。」
「毎日でも行ってやらないと、和江さん、寂しがってるよ。」
亭主が、親子丼を持って、カウンターをまわって店に出てきながら言う。
「あんた、また、余計なこと。」
を言うなと、女房が亭主をどやす。
「いいよ。その通りだ。随分ほったらかしにしちまったから、毎日でも通ってやるかな。」
「いい人だったよねぇ。生きてりゃ、幾つになるんだろう。」
「三十七、八ってところですか。」
「あたしゃ、今でも、時々、あのお葬式の時の事を思い出すんだよ。」
そう言いながら、胸元からハンカチを取り出す。
「女将さん、湿っぽくなるからよそうよ、もう、その話。」
「おや、そうだね。ごめんよ。」
「で、今から、丸屋旅館かい?」
亭主が、斜向かいの椅子に腰掛けて、清治にビールをついでやりながら、たずねる。
「ああ、仕事もらおうと思って。丸屋旅館しか訪ねて行く宛てがないからねぇ。」
「そうか。でもなぁ、清さんの事気に入ってくれてた会長、もう亡くなっちまったからなぁ。」
「息子は?」
「それがさ、今、後家が仕切ってるんだよ。息子は、東京に追い払われちまった。」
「後家って言うと、スエコさんかい?」
「そうそう。あのインケツ女。」
スエコは、丸屋旅館の会長の丸屋佐久衛門が七十過ぎて後添いとして籍を入れた女で、佐久衛門より三十も若かった。
場末とは言え銀座のとあるスナックのやり手だったと言う。
佐久衛門亡き後、跡取の息子を追い出し、丸屋旅館を完全に自分のものにしてしまったらしい。
清治は、かつて、佐久衛門の下で気に入られて働いていた時に、スエコに言い寄られたことがある。
佐久衛門の七十過ぎた肉体は、四十代のスエコには、物足りなかったのだろうか。断りきれずに、二度ばかし肌を合わせた。
だから、相手がスエコならば、何とかなるかもしれないと、思った。
「昔は、あんなにインケツじゃあ無かったのにね。佐久衛門さんが亡くなって、息子を追い出してからは、やりたい放題。しかも、どケチとくる。清さんも、勤め口が見つかるかどうかは、怪しいところだよ。」
「行って見るしかないよな。」
「駄目だったら、おいでよ。他の旅館、紹介してあげるよ。」
「ありがとう。」
だが、丸屋旅館でないといけない理由が清治にはあった。
「ご馳走様。いくら?」
料金を支払いながら、清治は、
「その節は、お世話になりました。」
と、食堂の女将に礼を言う。
「何言ってんだい。いいんだよ。変に改まるのはよしとくれ。」
「和江の葬式で、色々と世話になりながら、礼も言わずに町を出ちまったもんで、気にはなってたんだよ。」
「困った時はお互い様さ。」
「ありがとうございました。」
清治が深々と頭を下げた。

 あれから七年だ。
大阪で日本万国博覧会が開催される前年だから、昭和四十四年、初夏。
和江は、遺書も残さずに、一人、首を吊った。
その日、なじみの居酒屋で一杯引っ掛けて、少し早めに和江と二人で住んでいた丸屋旅館の夫婦寮に帰宅すると、いつもは寝ないで待っている筈の和江がいない。
先に寝たのかと、閉めてあった寝室への襖を開けると、鴨居に紐をかけてぶら下がった和江がいた。
遺書も無く、第一発見者が清治だったので、彼が真っ先に疑われたが、和江と二人でないと食い扶持を稼げない清治が、彼女を殺める理由はどこにも無かった。
それでも三日間拘留されて事情聴取を受けた。それから開放されて夫婦寮に戻ってくると、病院から司法解剖を終えて戻ってきたばかりの和江のそばに、平和食堂の夫婦がいて、葬儀屋から、葬儀会場の手配まで済ませて、清治の帰りを待っていた。
僧侶は、隣町の小さな寺の住職で、和江の肌を知らない仲では無い坊主、つまり、清治とは義兄弟の仲の坊主だった。
と言うと、和江がいかにもふしだらな女のように聞こえるが、それが、清治と和江の生業だった。
温泉地を転々として、本業は、旅館のお得意相手に夫婦の夜の生態を観察させる仕事、つまり、お座敷での本番を見せ、その傍ら、清治は、日中は旅館の仕事を手伝い、和江は、旅館の上得意の客と、旅館からの依頼で一夜を共にする。そして、そこの居心地が悪くなると、次の仕事場を求めて旅をした。
最後にたどり着いた丸屋旅館は、和江にも清治にも、居心地のいい旅館だった。
和江の自殺は、そんな稼業を苦にしての事では、無かったはずだ。
もともと、和江とコンビを組んだのは、和江が自殺する三年前、清治が三十六歳、和江が二十七歳の時だ。あっちこっちで、飛行機が墜落しては新聞の一面を飾った年、スナックでは、どこの店でも「バラが咲いた」がかかっていた年だ。
和江は、もともと大前市太郎という初老の男と組んで、お座敷本番と閨房稼業で、全国を流していた。
その頃の清治は、旅館の仲居の手伝いなどをして日銭を稼いでは酒に費やしてしまう風太郎稼業だった。
和江は、もともと口数の少ない控えめ過ぎる女で、和江から清治を口説いたのでは、もちろん無い。和江と組んでいた市太郎と清治が、何度か居酒屋で飲む仲となり、その伝手で清治と和江は知り合い、市太郎を挟んで何度か三人で飲むうちに清治が和江に惹かれ、市太郎が酔いつぶれた夜に、初めて出来上がった。市太郎は、それから半年後に、この世を去った。市太郎は、自分の天命を知って、わざと清治と和江を結びつけたのだが、清治はその事を知っていたが、和江は知らない。
これと言った生活手段の無かった清治は、和江からお座敷の作法を教えてもらい、もともと段取り事の得意な性分であったので、市太郎と組んでいた時よりも、お座敷の声掛かりは増え、和江の夜伽の回数と収入も増えた。
だが、これも、清治が和江に無理強いしたのではない。
市太郎が死んでしばらくは清治の稼ぎだけで食いつないだが、一人食うのでさえかつかつで、二人すぐに飢え死に寸前の状態となった。
和江はと言うと、清治のようなアルバイトをするという頭が働かないのだろう、
「うち、これしかできひんし。」
と、清治にぽつりぽつりと話し始めたところによると、もともとは、福井県の貧乏農家の家庭に生まれ、八歳の時に経験した大地震で一家離散。それから、親戚の家をたらい回しにされ、はじめての男が、小さい頃良く遊んでくれた叔父で、和江十二歳。それから、色町に売られ、彦根、京都、大阪を転々として、市太郎と出会い、相方が病気で死んだばかりの市太郎は、一度は、お座敷本番の道に挫折したが、当時十八歳の和江の捨て鉢な承諾で、また再開、それから清治に会うに至る。
だから、思春期を過ぎた和江がしてきたことは、口下手で下戸なお酌の相手と、お座敷本番と、男に体を開くことだけ。料理すらもろくにできなかった。
それでも、清治は和江を愛し、大事にした。
和江に夜伽の仕事が入った時は、相手のアパートや家の近くの暗がりで、和江が出てくるのをじっと待つ。
和江が出てくると、冬などは、和江の肩にコートをかけてやり、雨の日は、傘を差しかけてやり、夏場は、和江の荷物を持ってやった。
見知らぬ他人からは、本当に仲睦まじい夫婦に映ったであろう。
だが、和江は、清治を愛してはいなかった。そもそも、和江が、誰かを愛すると言うことは無かった。愛するということを知らなかったといってよい。
和江にとって、愛とは自分の肉体が相手にもたらす快楽であり、その快楽によって、和江自身が、生活の維持以外の恩恵を受けることは無かった。
ただ、男の肉体の受け入れ方は、方々で和江の肉体に刻み込まれていたので、自分がどのような仕草をし、どのような声を出し、どのように体を動かせばよいかを、知り過ぎるほどに知っていた。自分を濡らす術さえ知っていた。
それは、初めて和江と肌を合わせる男を狂喜させるに充分だったが、清治は、何度目かで和江の真実に気がついた。
「嫌なら」
と、それまでの動きを止めて、清治が言う。
「嫌なら、無理にしなくてもいいんだよ。」
「嫌やないよ。」
「でも、和江のその目、全然悦んでない。」
「そんなこと」
無いと言おうとしたが、ふと思い返して、
「うち、嫌いなん。」
「体を合わせるのが?」
和江は、こくりとうなずく。
「嫌い?こんなうち、清さん、嫌いになる?」
天涯孤独を身に染みて知っている女の縋り付く目で、清治を見る。
この目だと、清治は思った。
必死で縋り付く目。
自分は、この女のこの目に情が動いたのだ。
それは、いとおしい目だった。
その目に縋られて、一度は萎み掛けた欲求が、また高まる。
和江は、それを自分の内に感じて、今度は体で縋り付いて来る。
終わって後、自分の欲求で、和江の心と体を縛り付けるのは止めようと、清治は心の底からの愛情で、そう思った。
お座敷での和江は、また違った。
むしゃぶりつくような視線があると、和江の体は上気する。
目が濡れる。紅もささぬのに唇が、いや増して赤くなる。
それは、他人の視線を意識しての事なのだ。
薄暗い座敷に敷かれた赤い布団の上で、白い肢体が妖しく動いた。
意識してか、無意識にか、見ているものに向かって、自分の体を見やすくずらしてやる。
そして、その時その時の客層に応じて、様々な女を演じるのだ。
恥らい多い幼妻や、貞淑な若妻、欲求の激しい淫乱な女等など、互いの頭を擦り付けんばかりに寄り合い、ぎらついた目で清治と和江の営みを凝視する男達に向かって、まさに非日常の極致を見せつけた。
男達の表情が、口をあんぐりと開け、涎を垂らさんばかりになればなるほど、和江の演技は迫真の色を帯びた。
見慣れている清治ですら、毎度、改めて見惚れるほどであった。

「和江。」
丸屋旅館への坂を上りながら、清治はつぶやく。
七年前と、何が変わっただろう。
この坂道も、坂道に沿って四、五メートル下を流れる川の音も、木々のざわめきも、何一つ変わっていないように思える。
和江が、町の客に呼ばれた日は、たいてい、この道を通って帰った。
清治が、物騒だからハイヤーで帰ろうかというのを、和江は、もったいないからと、深夜の山間の道を歩いた。
変わったのは、清治が七歳老けて、白髪が多くなった事と、和江がこの世に存在していない事、それだけだ。
時折の自動車を避けながら坂道を二十分ばかり歩くと、川を挟んで道の反対側に、山の斜面に沿って段々に建てられた、比較的大きな茶色い木造の旅館が見えてくる。丸屋旅館だ。
斜面を川に向かって建てられているので、一番最上階が玄関。一番下の階には、川面に面した露天風呂がある。
道沿いに崖が切り崩され、駐車場が作られていて、週末には車で七割がた埋まるのだが、今は従業員の車と、お忍び旅行らしい外車が一台とまっているだけ。
旅館の玄関には、赤い擬宝珠の橋を渡り、玉砂利を敷いた広めの前庭を通ってたどり着くが、清治は裏手にそれ、未舗装の坂を下り、少し下った先の勝手口に入って行く。そこは、旅館の厨房だった。昼食の後で、戦争のような忙しさは無かったが、客用、従業員用の汚れた食器が、所狭しと積み上げられている。
そんな中、調理台の端に腰をかけて玉葱を剥いていた小さい猿顔の男が目ざとく清治を見つけた。
「誰だい。」
「杉田といいます。」
男が、調理台から飛び降りる。
「何の用だい。」
男の名前は、高田源と言う。厨房のチーフだった。
清治を睨みつけるその目に迫力があるのは、料理人の裏社会をいろいろと見てきたからなのだろう。叩き上げの気迫であった。
「ええ、総務部長さんにお会いしたくて。」
その声に、流し台で一心に皿洗いをしていたボイラー係の徳が顔をあげる。
「清さん、清さんじゃないか。」
「徳さん、知ってるのか。」
「ええ、以前、この旅館で一緒に働いていたんで。もう、何年になるかなぁ、ねぇ、清さん。」
「お久しぶりです。」
「そうかい。」
源は、まだ疑り深そうな眼差しだったが、
「おい、チビ。この人を安田さんとこへ案内してあげな。」
チビといわれて、源よりはるかに背の高い若者がはじけるように飛んできた。
「いや、良く分かってるんで、いいです。お仕事の邪魔しちゃあ、あれなんで、自分で行きます。」
「いや、最近、物騒なんで、知らない者にあんまりウロチョロしてもらっちゃあ困るんだ。チビ、案内してあげるんだ。」
「へい、こっちです。」
威勢良く返事をして、チビが前に立って歩き出す。
事務所に行くには、一旦、厨房を出て、裏手の坂道をさらに下らなければならない。
清治も、そのことは良く知っていたが、厨房から客室廊下に出て荷物用エレベーターに乗り込めば楽なのだ。昔は、その方法で事務所に行っていたので、つい、その時の癖が出て、厨房に入ってしまったのだった。
事務所では、総務部長の安田が、いかにも暑そうな顔をして扇子を使っていた。
他の者は、腕まくり程度なので、この安田は、かなりの暑がりなのだ。
昔から、そうだった。
丸屋旅館も時流にのって、さすがに客室には冷房器具を入れているが、事務所には扇風機一つ無い。
もともと山間の旅館なのだ、夏とは言え、窓を開け放しにして眠れば、風邪をひくくらいの夜のほうが多い。扇風機などあっても邪魔になる気候のはずが、この安田には暑い。昔、都会でサラリーマンをしていた時に、全身に汗疹ができて、それを理由に退職して、この旅館に流れてきたのだそうだ。
安田が、清治を見つけて、おっと言う顔をする。
「安田さん、お客様です。」
そう言ってチビが退くのを待って、
「やぁ、久しぶりだなぁ。何年になるかなぁ。」
さらに激しく扇子を使いながら、安田が清治に近づいてくる。
「もう、七年くらいになります。」
「そんなになるか。どこで、何をしてたの?」
「ええ、まぁ、いろいろ。」
「清さん達には、よく稼がせてもらったよ。清さん達目当てで、社員旅行にここを組み入れてくれてた会社もあったものなぁ。和江さんが亡くなった時にはビックリしたよ。あれ以来だよねぇ、確か。」
「そうですね。」
和江が亡くなり、失意の内にこの町を出た。
それから七年、特に何をしていたと言うわけではない。
最初の数年は、和江を忘れようとして酒に溺れた。飲み代を稼ぐために仕事を探し、飲みすぎて首になり、また仕事を探す生活だった。
どこで何をしていたかなんて、他人に話して聞かせるような記憶というものが無い。
和江を追って死に場所を探しながら、死にきれずに彷徨っていた。
「で、今日は、何?」
「ええ、また、仕事はじめようかと。」
「仕事って、例の?」
「ええ。」
「だって、和江さんはいないんだろ?」
「別のを。」
用意はしていた。使い物になるかどうかは、わからなかったが。
「そうかい。でもねぇ、言っちゃなんだが、和江さんを目当てにきてくれてたからねぇ、お客さん。」
「ええ、わかってます。」
清治が和江と生きていた世界では、客は女を見に来るのであって、男は添え物。言わば、女あったればこその世界だ。勿論、女に心行くまで体を開かせ、迫真の艶技を引き出すのは、男の腕の見せ所ではある。そういう意味では、お座敷に敷かれた一枚の紅い布団の上に非日常を現出させるためには、男と女の息がピッタリと合う事の方が、女の顔や体よりも大事な筈なのだが、そういう理屈は、お座敷を見に来る客層には通じない。
「そりゃぁ、清さん達の見世物が無くなって、足が遠のいたお客もいるからねぇ。ほら、毎年来てくれてただろ、六本木のスナックの。」
テレビにも出たことがあって、芸能界の知り合いが多いことで有名な六本木のスナックでは、毎夏、常連客相手にツアーを組んで来てくれた。
「あの人達も、来なくなったものなぁ。そりゃぁ、あの時の和江さんの表情のすごさったら、なかったものなぁ。ファンができても不思議は無かったよ。」
だから、平和食堂夫婦がお膳立てしてくれた和江の葬式には、近隣の男達がお焼香に集まってきたし、旅館から連絡を入れた常連客からは、弔電や花輪が送られてきた。
いわば、和江は、裏社会のアイドルだったのだ。
清治も、和江も、その事にはとんと気がつかなかった。和江死して、初めてわかったような事だ。
下手をすれば猥褻罪でお縄頂戴の危ない見世物だ。表に回って和江達を贔屓にする者は、誰もいなかった。あくまでも、息を潜めて、こっそりと、けれども目をぎらつかせて楽しむ類のものだったのだ。
「あそこのママの紹介で、ほれ。」
と、机の上の写真立てには、安田が若い半裸の女の子二人に囲まれている絵が飾ってある。
「深夜番組の秘湯紹介コーナーで、この子達が来てくれたんだよ。それから、また少しは、お客さんも増えたけどねぇ。さてさて。」
そこに電話がかかってきて、安田は電話に相槌をうちながらスケジュール帳をめくり始めた。

そうだ、あの頃は、ほとんど毎日、お座敷仕事が入っていた。
和江は、どんなに疲れていても決して手を抜かず、そんな和江に引っ張られて、清治も毎回、真剣に交わった。
和江の馴染み客との夜伽は、さすがに三日に一度程度に回数を減らしてもらったが、お座敷仕事を休むことは、和江が許さなかった。
世の男達を魅了する事、それが、和江の唯一の生きがいだったのかもしれない。そのためだけに、和江は輝いていたのかもしれない。お座敷と言う制限された空間ではあったが、和江の生い立ちなどから考えると、それでも満足できていたはずだ。それは、和江の仕事振りに十分に反映されていた。
そんな時期の和江の突然の自殺だけに、清治には理由が読めない。
今回、丸屋旅館でお座敷を再開する気になったのは、相方志望が見つかり、その相方に丸屋旅館で再開することを強く求められたからなのと、もう一つ、清治なりに和江の自殺の理由を突き止めたかったからだ。

相方志望は、フジコという二十歳ちょっと過ぎの小娘だった。年齢的には、清治の娘と言ってもおかしくない。
フジコと出会ったのは二年前の夏だ。
その頃、清治が利用していた私鉄の駅のロータリーには、週に何度か人だかりができ、その中心にギターを抱えたアフロヘアーの男がいて、声量のある、なかなかいい声を響かせていた。女性フアンが多く、その内の何人かは熱烈なシンパで、彼の歌詞カードを観客に手渡したり、要所要所で手拍子を打って盛り上げ役に回っていた。
フジコも、そんな女の一人で、ジーンズのホットパンツにラメの入ったタンクトップ、踵の高いサンダルを履き、髪を後ろでぞんざいに束ね、真っ赤なトンボ眼鏡をかけていることもあった。
和江の死後、元の風太郎に戻った清治は、仕事の無い時は、たいてい、駅前のロータリーで何人かと酒を飲んで時間をつぶした。木賃宿暮らしの者には、この駅前のロータリーが、ベンチもあり、涼しく、日中過ごしやすい場所だったのだ。
フジコ達熱烈なシンパも、アフロの男が現れる何時間も前から場所取りをかねて、清治達とは距離を置きながら、しかし、どう見ても清治達と同じような立場でロータリーにたむろしていた。
当然、顔見知りにはなるが、清治達の側からも、フジコ達の側からも、お互いに近づきたくない相手であり、会話を交わすなど考えられなかった。
だから、フジコが男に襲われている現場に、清治が、たまたま通りかからなければ、清治とフジコは知り合うことも無く、フジコをトリガーにして和江の心をたどり、自殺の理由を探るために、丸屋旅館のお座敷での仕事を再開しようと決意することも無かったし、フジコにしてみれば、何度か肉体関係を持った事のある嫌でもない相手と夜の公園でデートしていて、その気でも無いのに無理強いされて逃げ出していなければ、清治に会うことも無く、清治が和江と歩んでいた人生を知ることも無かった。
とにかく、公園から走り出てきたフジコと清治がバッタリ遭遇した。フジコの服の乱れようにただならぬものを感じた清治は、フジコを背後に隠し、後から追いかけてきた男を早合点して、殴り倒した。殴り倒された男は、日頃、フリーセックスを信条に不規則な生活をしている大学生で、栄養が足りていないとは言え規則正しく生活し、常日頃肉体労働で体を鍛えている清治の相手では当然無く、意外なほど簡単に倒れ伏した。
「ちょっと、やばいよ。」
とフジコが叫んだのは、その男と大麻パーティーから抜け出してきたばかりの事であり、その男が大麻をポケットに隠し持っている事を知っていたからで、こんなところを警察にでも見つかったりしては、自分も捕まる事必至と思ったからだ。
清治は、フジコに手を引かれるままに走ったが、若さの違いで、五百メートルも走ったあたりで息が切れ、フジコの手を振り払って、立ち止まってしまう。
「何してんだよ、早く走るんだよ。」
「いいよ、置いて行ってくれて。」
清治は、そう言うと、道路端のコンクリートブロックに腰をおろした。
その様子を、フジコが覗き込む。
「いいよ、俺は。行ってくれ。」
清治が手をひらひらさせながらもう一度言うと、フジコは、清治の隣に腰をおろした。
「逃げないと、あいつが追ってくるぞ。」
「いいよ。あいつ、追っては来ないよ。そんな意気地のある奴じゃないし。」
「何だ、知り合いか。」
「うん。」
「じゃあ、なんだって逃げたりしてたんだい。」
「嫌なものは嫌だよ、そうだろ。」
「まぁな。何だか、わけわからないけど。」
「それより、おじさん、強いんだ。」
「たまたま偶然、いいところにパンチが入っただけさ。普段は、てんで情けない。さっきのパンチのせいで右手首捻挫しちまったみたいだ。」
「どれ、僕が見てあげる。」
「僕?」
清治は、今時の若い女の子は、自分の事を僕というのかと、感心した。
これが、清治とフジコの出会いだった。

「あ、女将さん。」
電話を終えた安田が、入り口にスエコの姿を見つけて、あわてて席を立つ。
七年前は、スエコの姿を旅館で見つけても無視した癖にと、清治は一人苦笑した。
それを認めて、安田が清治を睨みつける。
「大変にご無沙汰しています。」
清治は、安田を無視して、女将に挨拶した。
「おや、どなたでしたっけね。」
女将がとぼけるのを、安田は、
「ほら、清さんですよ。杉田清治。和江さんとコンビを組んでた。」
「清治さん?そんな人いましたっけねぇ。」
と、女将は、あくまでもシラを切る。
「で、その方が何の御用で。」
「以前のように、もう一度、お座敷やらせてもらえないかって。」
「和江さんもいないのに。」
「なんだ、女将さん、覚えてらしたんだ。」
安田が、ハンケチで汗をぬぐいながら言う。
「当たり前でしょ。清さん、和江さんもいないのに、どうやってお座敷やるつもりなの?」
「次の相方を見つけたらしいんですよ、ねぇ、清さん。」
「お客様は、和江さんを見に来てたんですよ。清さん、あんたを見に来てたんじゃないのよ。新しく相方を見つけたからと言って、すぐにお客様が戻ってくるわけでもなし。それにね、一度ポカやっちゃったら、二度と来てくれなくなるのよ。わかってる?」
「ええ、まぁ。」
「相手は?来てるの?」
「いや、明後日、やって来る予定です。」
「写真は、あるの?」
「写真?」
そのようなものは、勿論無かった。
「仕方ないわねぇ、じゃぁとにかく、その子を見てから決めます、いいわね。」
「ええ、それで結構です。ところで、それとは別に、お手伝いできる仕事はありませんか。」
女将が安田の方を見て、
「この間、アルバイト、何人か決めたばかりだったわね。」
「ええ。でも、清さん一人くらいなら何とかなりますよ。ここの仕事、よく知ってくれてますし。それに清さん、段取りいいんで、へたなアルバイトより、役に立ってくれますよ。」
「そう。じゃぁ、仕事の割り振りは安田さんに任せるとして、清さん、後で誓約書書きに来てくれる。判子持ってね。」
「誓約書ならこちらで、」
と、安田が言うのを遮って、
「いいのよ、ちょっと話しておきたい事もあるし。いいわね、清さん。」

指定された時間に、地続きの会長宅に出向くと、以前は丸屋佐久衛門が、ステテコ姿でどっかりと座っていた一枚板の大きな仕事机に、代わって丸屋スエコが乱れの無い和服姿で座って、算盤をはじいていた。
清治の入ってきたのに気づくと、眼鏡をはずして、頭をまっすぐに上げる。
「そちらに座って。」
指し示されたソファーは、一枚板の仕事机に直角に置かれている。
しばらく清治の様子を見ていたが、やがて、
「老けたわね、清さん。」
「そりゃ、七年もたつと。」
「七年か。あたしも老けたでしょ。もう、五十過ぎちゃったのよ。」
「いえ。」
「いいのよ、人間は寄る年波に老けていくのよ。それが自然の摂理って奴ね。ところで、さっきは、つっけどんな態度取っちゃって御免なさいね。てっきり、あなたが食い扶持に困って、たかりに来たんだと思ったのよ。」
「たかりに?」
「ええ、あなたも身に覚えがあるでしょ。そうされても仕方ないんだから。」
「でも、証拠が無いですから。」
「まぁね、あの頃は、まだ、あたしも若かったわ。と言っても、もうとうに四十は超えてたけどね。」
「今でも、充分にお若いですよ。」
「じゃぁ、今すぐ抱いてくれる?ここで。」
「いや、あの、それは。」
「冗談よ、本気にしないで。もう、そんな年じゃないわ。佐久衛門が死んで、三年。この旅館を盛り立てるために必死に頑張ってきたわ。世間じゃ、あたしの事、あまり良く言ってないでしょ?」
「ええ、一人息子を追い出したって。」
「そうねぇ。清さんは、どう思う?」
「どうって。」
「はっきり言ってよ。」
「わかりません。ただ、そんな人だったかな、って。」
「佐久衛門は、いっぱい借金をこさえて死んだわ。二代目のあの人にとって、旅館は道楽だったのよ。何苦労無く育って、旅館を引き継いで、銀行の言うなりに借金して、投資をしたけど、それを取り返そうなんて気はさらさら無い、そんな事に貪欲になりたくなかったのね。」
佐久衛門は、高級な伊万里の大皿等に惜しげも無く金を使った。
国宝級の品も少なくなかった。ただ残念なことに集め方に統一性がなかったので、彼の収集品は、まるでガラクタにしか見えなかった。
「息子の俊夫は、それに輪をかけておぼっちゃん。何にもできない。だから、東京に修行に出したのよ。その後は、頼りになる人、誰もいない中で、走ってきたの。」
「そうですか。それは、ご苦労な事でした。」
スエコが、組み合わせた腕を机の上に投げ出して、清治の目を覗き込む。
「ねぇ、清さん。あたしはね、清さんに手伝って欲しかったの。」
「私に?」
「あなたの手回しの良さは、誰にも真似できない事よ。」
「とんでもない。私は、ただの風太郎ですから。」
「何言ってんの。場末とは言え、一応銀座に店構えてた女よ。人を見る目くらいはあるわ。人の出来る出来ないは、手回しがいいかどうかで決まるわ。どんなにおべんちゃらがうまくても、手回しの下手な人、気の利かない人は駄目ね。化けの皮が剥がれちゃう。あなたなら、安田なんかより、よっぽど旨く切り盛りしてくれるわ。」
「私は、ただ、和江のために必死でやってただけですから。」
「あたしを抱いたのも和江さんのため?」
「いや、まぁ。」
そうでは、無かった。その時の、スエコの眼差しに断れぬ物を感じたからだ。
スエコは、佐久衛門の後添えに入って、丸屋旅館の抱えている数々の問題を目の当たりにして、不安を感じ、誰かに縋り付きたかったのだ。縋り付く相手は、誰でも良かったのだろうが、できれば、自分がそれまで生きてきた世界に最も近い肌触りを持った人間、つまり社用族の肌触りを持った男が望ましかった。それを清治に求めたのは、スエコの勘の鋭さ故であった。
清治は清治で、自分は頼られる事に弱いのだと、分析している。スエコの、縋り付く視線を無視できなかった。それは、和江と初めて会った時も、初めて肌を合わせた時も、同じであった。和江とスエコを比べると、和江の方が、スエコより、より希求する度合いが強かっただけのような気がする。
そう、和江は、清治の肉体ではなく、清治そのものを何度も何度も、激しく求めた。求められる事により、清治の和江に対する愛情もより深まったと言って良い。
「話を本題に移しましょう。」
スエコは、それまでの熟しきった初老の女の目から、経営者の目になる。
「相手は、幾つ位の子なの?」
「たしか、二十歳過ぎと聞いてますが。」
「未成年じゃないわよね。未成年だと、後で大変な事になるから。」
「免許証を持ってたんで、大丈夫でしょう。」
「免許証?車の?」
「ええ。」
「今時の子は。」
進んでいると言いたかったのだが、ぐっと飲み込んだ。
「で、お座敷経験は?」
「まだです。」
「水商売は?」
「本人は、売春行為もやってたって言ってますが、本当かどうか。」
「清さん、あなた、そんな子と組んで、どうするつもり?」
「私が教えますよ。」
「もちろん、もう寝てるわよね?」
「まだです。」
「ちょっと、待ってよ。どうやって教えるつもりなの?まさか、実地研修なんて言わないでよ。」
なかば、そのつもりだった。
「いや、あいつは覚えも良さそうなんで、モノになると思いますよ。」
とは言え、どこに根拠があるわけでもない。
開け放した窓から、川の風が入り込んで、机上の紙切れを吹き飛ばした。



(続く)