(十)


深夜、笠野形駅裏のラブホテル近くの駐車場に、トラックが停まっている。
そのトラックの助手席の扉が開いて、乗り込んできたのは清治だった。
運転席には秀がいた。
秀は視線を清治に向けたが、すぐに前を向く。
夜の闇の向こうに、ラブホテルのどぎつい色のネオンサインが浮かび上がっている。
「まだ出て来ないのか。」
清治の問いに、秀が軽くうなずく。
運転席の時計は、既に十一時半を回っている。
フジコは、十時に入っていった筈だ。
いくらなんでも一時間半以上もかかるとは思えない。
清治は平林剛三の事を信用しているが、相手はやくざだ。
途中で、どのように気が変わるとも知れない。
それにしてもフジコ、最初の三十分くらいで音を上げて出てくると思っていたのに。
「遅いな。」
「フジコにもしもの事があったら、俺はあんたを許さないからね。」
秀が言う。
「ああ、分かってるよ。」

「今日、十時。駅の向こうのラブホテルで、平林と言う男が待っている。」
フジコは、一瞬ポカンと清治を見たが、すぐに
「例の件だね。」
と、納得した。
秀が慌てて、
「ちょっと待てよ。何だよ、その例の件ってのは。」
「昼間も言ったが、この町を仕切っている平林と言う男の元に、フジコが抱かれに行くんだよ。」
と、清治は言葉を切りながら、フジコにもはっきりと聞こえるように言った。
それは、フジコに、もう一度状況を認識させ、考え直すよう促すためだった。
フジコは、その言葉に深くうなずく。
「おい、いいのか、フジコ。」
慌てたのは秀だ。
「清さんも清さんだよ。承諾したのか、そんな急な話。」
秀は、フジコが考え直せるだけの時間の余裕があると思っていた。
「承諾も何も、それがこの町で風俗の仕事をする時のルールなんだよ。」
「やるよ、僕。秀、止めないで。」
「俺は仕事があるからフジコに付き添ってやれない。フジコ、自分一人で行くんだ。いいな。」
「わかったよ、清さん。」
「一人で行って、終わったら、この旅館まで一人で帰ってくるんだ。」
「俺が、一緒に行ってやるよ。」
秀が割り込む。
「あれ、秀、秀も仕事があるから、今日で暫らくお別れじゃなかったっけ。」
「バカ、フジコ、そんなふうに放っておけるわけないでしょ。」
「そうか、君がいるなら安心だ。フジコ、もし耐えられなくなったら、とにかく逃げて帰ってくるんだ。」
清治はフジコにそう言い含めて仕事に戻ったが、気が気ではないのは事実だった。
平林に手荒な事はしないでくれと頼んではいたが、フジコが、言わば清治の手引きで見も知らぬ男に抱かれるのだ。
激しく良心が痛んだ。
また、秀に対しても申し訳ない思いでいっぱいだった。彼はいい男だ。しっかりしていて自分を良く知っている。何よりフジコを深く愛している。
その秀につらい思いをさせようとしている。
自分が徹底した悪人だったらどんなにいいだろう。悪意があるにしろ無いにしろ、結果としては同じ事ならば、悪意を意図して行動する方が楽に決まっているとは、常々清治の中に去来する思いだった。
自分は、どだい中途半端過ぎるのだ。

清治が、そのような煩悶を繰り返している頃、フジコを乗せた秀のトラックが、駅向こうのラブホテルの入り口の灯りが見える辺りで止まった。
「ここでいいよ。」
「本当に行くのか。」
「行くよ。」
「何があっても知らないぞ。」
「命までは取られること無いでしょ。」
「そうだな。ここで待っててやるから、嫌になったらいつでも逃げてくるんだ。」
「僕が、途中で投げ出した事ってあるか?」
「無いな。」
「やりきるよ、秀。見てて。」
「ああ。」
フジコの姿が消え、助手席のドアがバタンと閉まった。
トラックのヘッドライトに照らされて、フジコは一度も振り返らずにラブホテルに入っていった。
「何してんだ、フジコ。」
フジコの姿が見えなくなって、秀が呟く。
フジコが型にはまらない人生を望んでいるのは秀にもわかるし、そのために色々とチャレンジしようとしているのもわかる。
また、フジコの今までの人生のあり方からみて、普通の事をしててもフジコの中で何も始まらないのも良くわかっているつもりだ。
「しかし、いつもいつもビックリさせられる事ばかりじゃないか。」
この先、どれだけあたふたさせられる事やら。
「しかし、まぁ、しかたねぇーな。」
フジコはフジコで、自分の身に起こった事への自分なりの落とし前だけは付けようとしている。それに振り回されるのは、フジコがそのように意図しているのではなく、こちらが巻き込まれに行くからだ。
秀自身もそうだし、清さんもその一人だ。
こうなりゃ、この先もどんどん巻き込まれてやろうじゃないか。
そんな風な事を考えて一時間半ばかりたった頃、心配した清治が助手席に乗り込んできたのだ。

フジコは、思ったほどには恐れていなかった。
怖さを感じない事が、自分でも不思議だった。
だから、ラブホテルの受付で平林の名前を出し、そこにいた中年女達から好奇の目で見られても、怯む事無く逆にニッコリ微笑み返してやったくらいだ。
中年女の後に付いて階段をくるくると三階分ばかし上る。
「えちぜん」と書いた部屋の前で止まり、女がノックする。
中から返事があって、
「お連れ様がお見えです。」
と、女がそれに答えた。
ドアが開いて、角刈りの初老の男が顔を覗かせる。
「おお、待ってたぞ。」
「ポットのお湯、お代わりしましょうか。」
女が部屋の中にフジコを入れながら、角刈りの男に尋ねる。
「そうだな、頼むよ。」
「では、ちょっとお待ちを。」
女はそう言って、テーブルの上のポットを持ち、フジコをちらりと見ながら部屋を出て行った。
中年女が出て行くのを見送って、
「まぁ、そんなところに突っ立って無いで掛けなさい。」
平林が、フジコを促す。
「お茶、飲むだろ。ここのは安物の不味い茶だが、我慢してくれ。茶菓子もよかったら食べなさい。それとも、こっちの方かな。」
そう言って、焼酎の一升瓶を見せる。
「いえ、お茶でいいです。」
「茶菓子も、ほら。」
「いただきます。」
「お腹空いてるなら、出前を取ってもらえるよ。駅前のうどん屋から何か取ってもらえる。どうだ。」
「いえ、結構です。」
本当はかなり空腹を感じていたのだが、フジコは、あえて我慢した。
「そうか。」
それだけ言うと、平林はスルメをあてにして、焼酎を飲み始めた。
先程とは違う中年女がポットを持ってきた。
「やぁ、来た来た。」
平林は、ポットの湯を焼酎の入ったコップに注ぎ込む。
「最近、こういう飲み方が流行り始めてるらしい。」
それから平林は、黙々と美味そうに焼酎を飲んでいる。
「あの。」
と、フジコが切り出す。
「何だ。」
「あの、清さんとは、どういう知り合いなんですか。」
「清さん?ああ、清の字か。赤の他人よ。」
「そりゃ無いと思うな。」
「どうして。」
「僕、何となく分かるんです。親分見た途端に、あっ、清さんとは知り合いだって思ったんです。」
「何となく?」
「ええ、何となく、でも無いかな。例えば、最初に僕の顔見た時に、ちょっと視線を逸らしたでしょ。」
「そうだったかな。」
「それでかな、清さんと知り合いに決まってるって。」
「ほう、何て名前だったかな。」
「フジコです。」
「フジコちゃんは、なかなか鋭いね。」
「それほどでも。」
「実は清の字とは、古い付き合いでね、あいつが俺の命を助けてくれたのよ。」
「清さんが?」
「ああ。そんなに悪い事ばかりしてる積もりは無いんだがな、それなりに人様の恨みをかってたんだな。ある祭りの晩にふらふら歩いてたら、俺の背中を刺そうなんて奴が近付いてきた。それに気が付いたのが清の字よ。あいつ、右足で下駄をそいつに蹴り付けた。そして、左の下駄も脱いで、今度は手で投げた。足で蹴りつけた方が男の手に当たって、ナイフが落ちた。それで俺も気がついてそいつを叩きのめした。ところで手で投げた方は、どこに当たったと思う?俺の頭だ。おまけにあいつ、清の字、助けた相手が俺だと分かって、何て言ったと思う?『なんだ、あんたか。あんたなら助ける筋合いじゃあ無かったな』」
「清さんらしい。」
「清の字が、和ちゃんの相方だと知ったのは、その少し後だな。」
「和ちゃんって、和江さん?」
「そうだよ。フジコちゃん、和ちゃんの事知ってるのか?」
「はい、清さんから聞いた話だけだけど。」
「そうか。清の字、あいつ、女々しい野郎だから、いまだ恋しがってるんだろ。」
「そう。お酒飲んで酔うたびに和江、和江って。」
「まぁ、その気持ち分からんでも無いがな。あいつ、過去に何があったか知らねぇが、和ちゃんに出会った時、ほとんど世捨て人状態だったそうなんだな。それが曲がりなりにも世の中に復帰できたんだ。和ちゃんあったればこそだな。」
「親分は、やっぱり、あれなんだ、和江さんも。」
「抱いたよ。それが俺の仕事だったからな。」
「どんな女性だったんですか。」
「どんなって、見てくれは普通の女だったな。口数の少ない、ちょっと陰気な感じのする女だった。それ以外、別段、誰よりも色っぽいわけでもなかったしな。しかしな、抱いてみると印象が全然違った。何と言うか、自由奔放に男を虜にしていくんだな。分かるか?」
「分かんない。」
「そうだろうな。随分と若い頃から色町で身を立てざるをえず、それでしか生きていく術を見つけられず、その世界で血の滲むような苦しみを味わい、そしてその経験を自分の血肉にできた者だけが持つ事のできる肉体とでも言うか。おそらく、少し前のこの国には、そんな女が結構いたんじゃないかな。そんな時代があったんだな。貧しい農村から生活のために色町に売られて行く時代が。」
「今でも、あるよ。昔は貧しい農村だったかもしれないけど、今は無責任な親の下に生れ落ちて、社会の裏街道の入り口を開けるだけでいいんだ。人間捨てた男達が手薬煉引いて待ってるよ。」
「ちげーねぇ。」
「ただ、昔みたいに社会から見捨てられる事は無いから、その世界でがむしゃらに生きていく事は少ないよ。」
「丸屋の女将が言ってたな、和ちゃんのプロ根性には頭が下がるって。まず、絶対に日焼けはしない。手荒れを防ぐ為に洗い物をする時は、ビニール手袋をする。自分が一番きれいに見える体重を知っていて、太らない、痩せない。だから食べ過ぎない。適度に運動する。その事に四六時中気を抜かない。」
「そこまでして、和江さんの目指していたものって何なんだろう。」
「分からんな。清の字との幸せな家庭だったかも知れん。」
「じゃあ、何故自殺したの?」
「それが謎だな。」
「清さんが、裏で意地悪してたとか。」
「あいつにその程度でも裏表があったら、今ごろもっと出世してるよ。」
「ちげーねぇ。じゃあ殺された?」
「それも考えられん。誰かに恨みを買うような女じゃないと思う。俺が殺したんじゃないかって、噂もあった。俺が首吊り偽装殺人やったんだとさ。」
「まるで松本清張だ。そのココロは。」
「俺が、和ちゃんに横恋慕していた。」
「ホント?」
「そりゃ、本当だな。フジコちゃんだから言うけど、俺は和ちゃんに惚れていた。」
「清さんがいたのに。」
「俺のはプラトニックラブさ。」
「でも抱いたんだろ?」
「それは仕事だ。和ちゃんに惚れたのは、その後だ。惚れてからは抱いてない。」
「ヤクザも愛情を抱くんだ。」
「ヤクザも一応人間だろう。それに、俺はヤクザじゃない。」
「そうなのか。」
「世話役だよ。ヤクザだと思ってたのか?」
「だって、清さんが。」
「清の字め。あいつはな、フジコちゃんに今回の事を諦めさせてくれって、俺に依頼してきたんだぜ。」
「やっぱりか。」
「なんだ気が付いてたのか。」
「だって、知り合いに頼むんだよ、裏があるに決まってる。酷いなぁ。」
「まぁ、許してやってくれよ。清の字だって、フジコちゃんにあんな道歩んで欲しくないんだよ。」
「清さんの悪いところだ、自分だけ聖人君主面したがる。僕だって、伊達や酔狂でやるんじゃないんだ。真剣なんだよ。」
「でもな、今時だよ、そんな道を歩まなくたって、会社勤めやるとか、デパートの売り子やるとか、いろんな道があるじゃないか。まだ若いんだし。」
「そんな当たり前な道を歩む気ないし、歩めないんだ。」
「大きく出たねぇ。」
「親がいい加減だったからね、性格ゆがんじゃって人生の裏街道まっしぐらに突っ走るしかなかったんだ、僕。」
「何だか分けありのようだな。」
「大アリクイだ。僕だって、並大抵の苦労はしてないよ。和江さんの後を追ってるのも、和江さんに同情したからじゃないやい。僕の生き様を和江さんに合わせてみたかったんだ。そうしたら、見えてくるものがきっとあるはずなんだ。」
「見えてくるもの、ってか。」
「ああ、僕のこれからの生き方とか、僕の人生とか、和江さんが何を考えてたかも、和江さんの自殺の原因も。」
「見えてくるってか?」
「うん。」
「ふーん。」
平林は、しばしフジコを見つめていたが、
「よし、俺なぁ、フジコちゃんを応援するぜ。」
「本当に?」
「ああ。俺は難しい事はわからねぇが、フジコちゃんの熱い思いは何となく伝わる。伝わってきた。」
「ありがとう。」
「しかしなぁ、熱い思いだけでやり切れる世界でもねぇぞ。客があっての話だろ。客を惹きつけないとな。清の字とは、もう寝たのか?」
「清さん、嫌がって。」
「そりゃ、いつまでたってもデビューできねぇぜ。いつを初日にしてんだ?」
「和江さんの命日。」
「和ちゃんの命日ってぇと、あと五日しかねぇじゃないか。どうすんだよ。」
「とにかく清さんを無理やり引っ張り出して、やんないといけない状態にまで持っていく。そうすると清さんの事だから、嫌でも義理を果たそうとするでしょ。」
「うん、なかなか策士だな。女将は?」
「とにかく、やってごらんって。」
「そうだろうな。最近、人の目は都会にしか向いてねぇ。こんなド田舎の温泉には誰もやって来ねぇんだ。旅館は寂れる一方。女将としたら、少しでも客を呼び寄せたいんだな。最近は、ちょっとしたポルノブームだろ。清の字とフジコちゃんを組ませて、昔馴染みを呼び戻したいんだよ。でもなぁ、そんな状態じゃあ、うまく行くかなぁ。猥褻罪の取締りにすら引っかからないような気がするなぁ。」
「第一回目は、覚悟してんだ。どうしようもないだろうなって。でも、清さんさえやる気にさせれば、何とかなると思うんだ。僕だって、男知らないわけじゃないし。それなりに、世間の裏を歩いてるし。」
「ふむ、よし、清の字には内緒で特訓だな。清の字の目の届かないところでな。フジコちゃんだけでも形にしちまうんだ。そこに清の字を巻き込んじまうってのはどうだ。」
「特訓って、親分と?」
「おいおい、清の字に何を吹き込まれたか知らねぇが、俺はもうそんな年じゃないんだ。隣町のストリップ小屋の振付師に話しとくから、そいつに教えてもらうんだ。安心しろ、振り付け師たって、もう六十のヨボヨボだ。ただ、この道何十年だ。それなりに仕草を教えてもらえるから。一番基本の形を明日からの三日間で体に叩き込むんだ。後は、こっそり前評判を流しといて、期待と若さで乗り切るんだ。前評判の方は任せとけ。それと、丸屋の女将を巻き込んどかないとな。まぁ、どっちも俺に任せて、フジコちゃんは練習に励むこった。」
「そこまで親分に頼っちゃっていいの?」
「あたぼうよ。そうと決まれば乾杯だな。」
二人はお茶と焼酎で乾杯し、フジコの苦労話や平林のシベリア生活などを披露し合い、結局、フジコがホテルから出てきたのは十二時過ぎ。
清治と秀は、やきもきしながらネオンサイン瞬くホテル近くの空き地で一時間以上待たされた。


(続く)