(十一)


矢島は、午後十一時過ぎの最終列車で笠野形の駅に到着した。
調度清治達がラブホテルの前で、フジコの出てくるのを待っていた時刻だ。
駅前のロータリーは、駅舎からの灯りと公衆電話近くの街灯一つを残し、ほとんど暗闇の中に没していた。
矢島は、蛍光灯の切れた電話ボックスに入ると、ライターの火を頼りに丸屋旅館の電話番号を探し出し、電話した。
しばらく呼び出しが鳴った後、眠そうな男の声が出る。
「今から、部屋ってお願いできますか。」
「もう玄関もカウンター閉まってるんですけど。」
「そうですか。他にこの時間でも開いてそうな宿ってご存知ないでしょうか。」
「さてねぇ。」
電話の向こうは総務部長の安田だった。
新人が急病のためピンチヒッターで呼び出され、機嫌の悪いところだった。
最近は客足もめっきり減っているので、どんなに遅い時間でも、お客様には失礼の無いようにちゃんと対応して欲しいと女将から訓示があったばかりだったが、その反面、身元の定かでない旅行者の受け入れは十分に用心して欲しい旨のお達しも警察署長名で回ってきていた。
だから、安田の判断で宿泊を断る事も可能だった。
「こんな時間に到着してしまったもので。」
そこに運良く女将が通りかかった。
「安田さん、どなた。」
「ええ、今、笠野形の駅についたばかりの方だそうで。」
「最終列車ね。こんな時間じゃバスもタクシーもないわね。安田さん、悪いけど迎えに行ってあげてくれない。」
「いいですけど。身元の知れない旅行者に注意って、警察から。」
「そんな硬い事言ってちゃあお客様に逃げられちゃうわよ。いいから、電話はあたしが代わってあげるから、早く行ってあげて。」
安田は、しぶしぶ受話器を女将に渡し、車の鍵を事務所に取りに行く。
「当旅館の女将でございます。大変失礼をいたしました。ただいま安田と言うものがお迎えに上がりますので、暫らくお待ちください。お客様のお名前は?矢島様。矢島様ですね。ようこそ笠野形温泉にいらっしゃいました。それでは、お待ち申しておりますので。」
そう言って受話器を置くと、
「安田さん、お客様は矢島様だそうよ。わかった?よろしくね。」
事務所に向かってそう叫んだ。
そして、カウンターの上を少し拭き、宿泊客台帳とボールペンを取り出し、カウンターの上に並べる。
ついでに、カウンター前の待合用の大理石のテーブルの上や、椅子の手すりにも軽く布巾掛けして客を待つ。
「まったく。」
と、溜息と共に独り言とも愚痴ともどちらとも取れない言葉が口をついて出る。
「安田の気の利かない事。」
彼を客前に出すと、一ヶ月の内に何回かは客の不評を買う。
原因は、彼の面倒臭がりの性格にある。
スエコは何度かそれを厳しく注意し、その度に安田も反省の色を見せるのだが、三つ子の魂百とはよく言ったものだ。一向に治す気配が見えない。
今日も危うく客を逃すところだった。素泊まりの客でも、客は客である。
心をこめてもてなすのが旅館業の宿命だ。
例え素泊まりでも満足して帰ってもらい、知人に広めてくれれば、それで充分なのだ。
労せずして馴染みが増える可能性にもつながる。
特に、最近は、めっきり客足が遠のいている。
以前は、社内旅行や忘年会などのために宿泊してくれていたお客も、最近は社内旅行という行事そのものが不評で取りやめたり、忘年会も都市部の居酒屋で行ったりと、すっかり見限られている。
とにかく客を入れる事だ。怪しいとか、危ないとか言っていられない。
金さえ払ってくれるなら、赤軍派でさえ受け入れる覚悟だった。
やがて車の音がして、
「お足元が危のうございます。」
と、安田のぶっきらぼうな声がする。
橋を渡って前庭の砂利を踏む靴音が思いのほか多い。
昨年新調した玄関の自動ドアが開くと、安田の他に三名の旅行者が入ってきた。
おそらく矢島と同じ列車で笠野形に到着したのであろう。それを安田が気を効かせて拾ってきたのだと、スエコは勝手に解釈した。
しかし、一人は見るからに未成年者だ。
「失礼ですが。」
と、スエコは未成年者と思わしき客に声をかけた。
「お幾つでいらっしゃいますか。」
「はぁ。」
質問の意味が理解できていないらしい。
「年齢は、お幾つでいらっしゃいますか。」
その客は、年齢を聞かれていささか狼狽した。
「当館では、未成年の方は保護者の方ご同伴以外はお断りしてますので。」
「二十です。」
「免許書か何かお持ちですか?」
慌ててポケットを探る振りをしたが、免許書などあるわけない。
着の身着のままで飛び出した康弘だった。
祖父母から金を取上げ、家を出たのはいいが、何処にも行く場所が無かった。
駅前の公衆電話から不良仲間の家に電話をしてみたが、全員逃げ出した後で、かくまってくれそうな所など無かった。
街を出ようと駅のホームに立つと、反対側に仲間の一人の姿があったが、康弘の姿を見ると慌てて視線をそらした。
そのままやって来た電車に飛び乗る。その時点では、笠野形に行くつもりは無かった。
快速電車や各駅停車に乗り継いで、できるだけ街から離れる事を考えた。
何度目かに乗り換えた電車の窓の上に笠野形温泉の広告を見つけたのは、本当に偶然だった。
聞き覚えのある地名だったが、どこで聞いたのか暫らく思い出せなかった。
「そうか。」
康弘がいきなり声をあげたので、前の座席の老婆が驚いて見る。が、康弘と目が合うや、下を向いてしまった。
まだ殺伐とした空気が目の中に残っているのだろうか。だとしたら変に目立ってしまって都合が悪い。
康弘もあわてて顎をティーシャツの首穴に埋めた。
笠野形だ。電話をかけてきた男、俺の親父がそこにいると言っていたな。
俺は、親父の顔を知らない。死んだと聞かされていた。死んでるなら死んでるでもいい。だが、生きてるのならば興味は湧く。どんな奴なのか。
俺を捨てた男だ。未練は無いが、一度くらい顔を見ておいてもいいだろう。
そう決めると、次の大きな駅で一旦下車して、笠野形行きの電車を調べる。そこから五時間ばかしかかる事が分かった。
金はある。親父に会って、どうする。文句の一つも言い何発か殴りつけるか。
ま、それはその時に考えよう。ともあれ、笠野形に行くんだ。
そう考えつつたどり付いたはいいが、駅前に旅館らしきものは無く、夏とは言え山間部で夜は寒いくらいに冷え冷えとしている。
同じ駅に降り立ったのは康弘もいれて三人。他の二人も、康弘と同じように呆然としていた。一人が公衆電話に向かい、どこかに電話をかけ始めた。
康弘は、もう一度ホームに戻り、物陰で野宿しようと思った。
残った一人は、駅前の暗闇をじっと見ている。不気味な男だった。
無人駅の改札口とホームの間の物陰に身を潜り込ませると案外に温かかった。
康弘は、そこで朝まで過ごそうと考えた。
暫らくすると、向こうから灯りがやってきた。自動車のヘッドライトだった。
自動車は駅のロータリーで止まり、中から出てきた男が、
「本日、丸屋旅館に宿泊ご予定の方。先程お電話いただいた方は、どなたですか。お迎えに上がりました。」
と、叫び始める。
「矢島です。」
と公衆電話で電話していた男が手を挙げる。
旅館から出迎えに来た男は、矢島と名乗った男を車に乗せると、さらに、
「他にはいらっしゃいませんか。もう車が出ますよ。」
と叫ぶ。
もう一人の薄気味の悪い男が、
「俺も頼む。」
と、自動車に乗り込んだ。
後に取り残されるのは康弘だけだ。
それはさすがに心細かった。
「俺も。」
と、改札から走り出て、後先考えずに車に乗り込んだ。
「慌てて出てきたので免許書は、ちょっと。」
「じゃあ、何か身分証明書の代わりになるものは?」
「いや、そう言ったものは全然。」
「困ったわね。あなたの身分を証明するものがないと、さすがに当旅館ではお泊めできないんですよ。」
「でも、今さら出て行けと言われても。」
「それはそうなんですけど。」
「私が保証人になりましょうか。」
と、困り果てた康弘に助け舟を出したのは、矢島だった。
「私と同伴ということにしておけばいいんですよね。」
「ええ、そりゃ。」
「君、いいだろ、それで。」
と、矢島が康弘の方を向いて話し掛ける。
「ええ、まぁ。」
「じゃあ、この人、私と一緒に行動しますので。」
「そうですか。」
さすがにスエコも不安そうな顔になる。
赤軍派でも泊める覚悟はあると言うものの、彼らが騒動を起こさなければという条件付だ。
「じゃぁ、同室と言う事で。」
と安田が台帳を書き換えようとする。
「いや、それは困るよ。別室にはならないかなぁ。」
安田が困った顔でスエコを見る。
「いいわ、安田さん。一つずつ部屋をご用意してあげて。」
矢島達がそれぞれの部屋に引き上げると、安田がスエコに、
「いいんですか、女将さん。彼、結構殺伐とした顔してましたよ。」
「そうねぇ。とりあえず、明日様子を見て、おかしいようならば警察に届けましょう。」
「もう一人、豊田って男。」
「あなたも気にしてる?」
「ええ、暗い感じですね。」
スエコは、昔、銀座のスナックに勤めていた頃、あんな雰囲気の男を何度か見た事があった。まだ今よりも殺伐とした時代だった。復員兵崩れが街中をうろついていた。そんな時代だ。
全体が貧しく暗い中、力で富を築き始めた者達がいて、銀座の常連はたいていそんな連中だった。そんな連中が用心棒代わりに引き連れていた男達。戦場で敵兵を何人殺したとか、女を何人強姦したとか、中には帰国して後も人を人と思わぬ所業を繰り返す男もいた。暗い血の匂いのする男達だった。
豊田は、そんな男達と同じような匂いを身につけていた。
「気のせいならいいけど。」
「あのぉ。」
と声をかけられ振り向くと、スエコの後ろに最初に電話を掛けてきた男、矢島が立っていた。
「お風呂ですか?大浴場は今日はもう終わりです。お客様が少ない時は、早く湯を落としてしまうもので。」
安田が早合点する。
「いえ、お風呂ではなくて。ちょっとお聞きしたいのですが、こちらに杉田清治と言う人がおられませんか。この旅館らしいと聞いて来たんですが。」
「杉田清治って、清さんの事よね。」
「夕方、厨房で見ましたが。今日、若い人たちが訪ねて来てたでしょ。あの人達と飲みにでも行ったんじゃないかなぁ。」
「じゃぁ、この旅館でいいんですね。」
「清さんのお知り合い?」
「ええ、昔、同じ会社で働いてました。」
「そう言えば、清さん、昔はサラリーマンやってたこともあったなんて言ってたっけ。」
「明日は、何時からだっけ、清さん出てくるの。」
「確か、午後からだったと思いますが。たぶん、お昼前には出てきてますよ、清さんの事だから。」
「清さんが出てきたら連絡取るように伝えておきましょうか。」
「ええ、是非お願いします。」
矢島は、頭を一つ下げ、部屋に戻って行った。
勿論、彼の事を豊田が暗がりで見張っているなどと言う事は、想像だにしていない。

翌朝、矢島は仲居に起こされた。
「朝食の準備ができておりますが、いかがいたしましょう。」
腕時計は八時過ぎをさしている。
「今行きます。」
そう答えて、もそもそと起き出した。
指示された宴会の間に出向くと、広々とした宴会場に膳が七つ用意されており、そのうちの四つは既に食事が終わっている。
康弘と豊田が向かい合って黙々と食事をしている。
康弘の隣の膳が空いていたので、そこに腰をおろした。
康弘が矢島の姿を見て、軽く頭を下げる。
「君、どっから来たの。」
矢島が声をかける。
康弘は、ぼそぼそと静岡のある大きな地方都市の名前をあげる。
本当はその隣町なのだが、用心した。
「高校生だろ。」
「いや違います。もう卒業してます。」
どうみても不良っぽい高校生だが、卒業して働きもせずに旅行に来ている可能性もあるので、それ以上突っ込んで聞きはしなかった。
「お金はあるの?」
「ええ。」
「アルバイトで?」
「え?」
「アルバイトでお金を貯めたの?」
「いえ、あ、はい、そうです。」
「親には連絡しておくんだよ。」
「はい、そうですね。」
「それと、保険証くらいは持ち歩いていた方がいいぜ。旅先で病気した時に困るだろ。」
「ええ、以後気をつけます。」
矢島は、やがて何を言ってもそっけなくしか答えてくれない康弘との会話に飽きて、もくもくと朝食を片付け始めた。
そのうちに視線を感じて顔を上げると、昨夜同じ電車で到着した陰気な男と目が会った。
豊田と言ったっけ。何考えているかわからない気味の悪い男だ。そう思ったのと向こうがニタリ笑ったのが同時だった。
背筋に冷たいものが走って、顔を伏せる。
奴なのだろうか、政治家の雇った男。清さんの命を狙う男と言うのは。
それにしては、あまりにもそう言う雰囲気を醸し出し過ぎている。本当の殺し屋なら自分を目立たなくしてしまうものだろう。この男は、陰気さと言う点では最も目立った男だ。
それより、隣に座っている一見未成年風の男。どこか殺伐とした感じがあって、彼の方がとても殺し屋に見えないと言う点では、殺し屋として合格だな。しかし、すぐに補導員につかまりそうなので、やはりプロならば違う装いをするだろうな。
ともかく、清さんが持っていると言うノートの所在を、向こうが見つけ出さないうちに清さんから聞き出し、清さんを逃がす事だ。
清治は矢島の事を覚えている筈だし、矢島を信用する筈だ。清治の説得はそう難しい事では無いだろう。清治は、矢島から金を受け取り、ノートを矢島に託して海外に逃亡するだろう。何年かたって、ほとぼりが冷めたあたりで呼び戻せばいい。
矢島は、そんな風に何の滞りも無く事が進んでいくと思っていた。ともあれ、向こうが雇った殺し屋よりも先に清さんと話をしないといけない。
だから矢島は、昼前にしか出てこないと言う清治を待ちきれずに、フロントで寮の場所を聞き出し、足を運ぶ事にした。
教えられた丸屋旅館の夫婦寮は、旅館から十分ばかし上った所の日当たりの悪い谷間の影にポツンと立っていた。
老婆が一人、日向ばかりを選んで掃き掃除している。あれがフロントで教えられた律さんという賄いの老婆なのだろう。耳が悪いので、大きな声を出すようにと言われていた。
「すいません。」
近付いて大声を出すが、律は振り向こうともしない。
さらに近付こうとした時に玄関の戸が開いて男が出てきた。厨房でチビと呼ばれていた若者、村野竣だ。
「どなたですか。」
と、村野が矢島に声をかける。
その声に律は反応した。
「あらま、村野さん。清さんには会えたのかい?」
「いえ、清さん、来客中だったんで、また改めて来ます。」
「そうかい。そう言えば、昨夜若い人達と一緒に帰ってきたっけねぇ。あたしは寝てたんだけど、ほら、そこのドアを開ける音で目が覚めちゃって、顔出してみたら若いお嬢ちゃんと目が合っちゃったよ。娘さんだろうかねぇ。」
「さぁ、違うと思うけど。若い男の人もいましたよ。」
「そうかい、賑やかなのはいいけどね。」
「あのぉ。」
と、矢島が割って入る。
「杉田清治さんにお会いしたいんですが。」
「あれま、今話してた人だよ。」
と、律。
「ともかく、俺、引き上げます。そろそろ仕事なんで。」
チビが律にそう言い、矢島に軽く頭を下げて立ち去る。
「清さんに会いたいんだったよね。そこ入って突き当たりの右手だよ。でも、聞いただろ、来客中だってさ。」
「そうですか。でも、とりあえず顔だけでも。」
「勝手にするさ。」
律は、そう言うと玄関の掃き掃除を再開する。
矢島は言われた通り建物に入り、一番奥の右手のドアの前で一度深呼吸した。
ドアを開けようとした途端に、若い女の大きな笑い声が中から響く。
その声に出しかけた矢島の手が引っ込んだ。
それとほぼ同時にドアが開けられ、中から飛び出した男とぶつかりそうになる。
秀だった。唇がベットリと赤いのは、フジコが寝ている秀の顔に口紅で悪戯したからだった。
先程の大きな笑い声は、目覚めた秀の顔を見たフジコの笑い声だったのだ。
「おっと、失礼。」
「いえ、こちらこそ。あの。」
秀の異様な顔に矢島が次の言葉を無くす。
「何でしょう。」
秀が矢島の視線に気がついて、慌ててティーシャツで顔の下半分を隠す。代わりに、秀の筋肉質な腹部が現れた。
「どうしたの、秀。」
フジコの声がする。
「お客さんみたいだ。」
「誰に?」
「失礼ですが、誰に用でしょう。」
「あの、杉田清治さんにお会いしたいのですが。」
「清さんだとさ。」
フジコがもそもそと動いて、清治を起こしにかかる。
「清さん、お客さんだよ、清さん、起きろよ。」
暫らくして、「うう」とうめく声がして、清治が起き上がった。
「何かあったのか。」
「お客さんだよ。」
「お客?俺に?悪いけどもう少し寝せてくんないかなぁ。」
「駄目だよ。お客さんなんだから。」
「あの。」
と、矢島が声をかける。
「お取り込み中なら、また出直してきますが。」

昨夜、清治と秀は、気分がやたら高揚したフジコのせいで四時過ぎまで寝かせてもらえなかった。
平林と別れ、フジコが心配している清治と秀の前に姿を現したのが、十二時過ぎ。
それまで、フジコは平林と盛り上がっていた。
「ナイスだよ、清さん、ナイス。大成功。」
秀の鳴らしたクラクションでフジコがトラックを見つけ、右手でピースしながら駆けて来た。そして第一声。
「ナイスって。」
「親分、気に入ってくれたよ。」
清治と秀が複雑な表情で顔を見合す。
「じゃあ、今までフジコは。」
「おう。ずっと語り合ってた。」
「語り合った?」
「人生論や、何やかやだよ。」
「フジコが人生論かよ。」
秀がそう言って、フジコに頭を殴られる。
「僕だって、それなりに苦労はしてるんだから、人生論くらい語れるよ。」
「何も無かったのか?ほれ、あれだ、その。」
清治が言いにくそうにする。
「清さん。仕組んだな。」
フジコが清治のわき腹をつついた。
「仕組んだ?」
秀が、次の言葉を待って清治を見つめる。
「仕組んだって、俺が?」
清治がとぼけるのを
「そうだよ。親分から聞いたぞ。清さんは、フジコをあきらめさせるようにって、親分に頼んだそうじゃないか。」
と、フジコ。
「あ、いや。」
「親分、困ってたぞ。」
「あいつめ、裏切ったな。」
「フジコに協力してくれるってさ。」
勝ち誇ったようにフジコが反り返る。
「協力する?」
「うん。清さん、覚悟を決めろ。初日は、和江さんの命日だよ。」
「おい、フジコ、勝手に決めるなよ。」
「勝手に決めてない。この前、清さんもそれでいいって言ってたじゃないか。」
「清さん、もう覚悟しなよ。」
秀がフジコに助け舟を出すのを
「覚悟って、俺とフジコが何するのかわかってるのか?あれだぞ、男の前で二人裸になって、性行為を見せるんだぞ。」
「うん、フジコなら立派にやれると思う。」
「何ともないのか。」
「何とも無いって言ったら、そりゃあ。」
「僕、きれいにやるよ。お客の視線を吸い付ける。」
「フジコ、あのヤクザから何を吹き込まれたんだ。」
「隣町のミュージックホールの振付師を紹介してくれるって。」
「隣町のって、あの老人か?」
「知ってる?」
「ああ、親分の紹介で何度か和江にも振付指導してくれたが、振り付けが古いんだよな。日舞しかやんなくて。」
「そうか、古いのか。まぁ、いいや。溺れる者は藁をも掴む、だ。僕、明日っから行くからね。」
「行くからねって。」
「本番は四日後。それまで親分の知り合いのお寺に泊めてもらって、ミュージックホールで練習するから。」
「相手はどうするんだ。」
「相手は、清さんだよ。」
「俺?」
「勿論ぶっつけ本番。その方が緊張感があっていいだろ?」
「そりゃ、うまく行かないなぁ。なぁ、フジコ、あきらめろよ。旨くいきっこないよ。」
「清さん、犀は振られたんだ。行くところまで行くっきゃないよ。」
なおブツブツ言う清治を乗せて、トラックは丸屋旅館の夫婦寮の前で止まった。
とりあえず清治を下ろして自分達のねぐらを探しに行こうとする秀とフジコに、
「遅いんだから、泊まっていけよ。」
清治が声をかける。
「いいよ、俺達は適当にやるから。」
と断る秀とフジコを無理矢理トラックからおろし、清治は先に立って夫婦寮に入っていった。

「いいの?清さん。僕知らないよ。」
「いいよ、いいに決まってるじゃないか。さぁ、入れよ。」
清治はフジコの心配を知らない。
フジコは、そこがかつて清治と和江が住んでいた場所で、和江が自殺した場所である事をすぐに察した。
清治からさんざ聞かされていた場所であり、フジコが頭に描いていた通りの場所だったからだ。
あらゆる場所に和江の痕跡が残っている。フジコにはそう思えた。
「僕、和江さんを知らない。でも、今、和江さんが僕の前に現れたとしたら、絶対に分かると思う。」
あの目で僕を見てくれるに違いない。と、フジコは勝手に確信していた。
あの目だ。「フジコちゃん、感じたらあかんよ」と、フジコの体を弄りながら言う時の、あの目。
「僕は欲情している」と、フジコは思う。
秀にさえ欲情した事など無いのに。僕は、和江さんに欲情しているんだ。
体が熱く火照るのがわかる。こんなの始めてだ。
体が熱くなればなるほどにフジコは清治や秀に攻撃的になった。
「だから清さんは甘いって言うんだよ。」
普段のフジコからは考えもできない台詞が飛び出し、秀も清治も驚いた。
「秀、自分だけいい子ぶるんじゃないよ。」
清治がようやく眠りにつけたのが午前三時。
秀は、まだ開放してもらえない。
「秀、来て。」
フジコに手を引かれて、表に止めてあるトラックの運転席に乗せられ、まるで犯されるようにフジコと交わった。
秀は、それで何とか解放された。が、フジコは、まだ悶々とした自身を抱えて、夜の闇の中にいた。
秀でも駄目。じゃぁ、誰が僕のこの体を治めてくれるの?
清さん?清さんでもなさそうだ。
和江さん?そう、和江さんだ。
和江への思いで火のついた体を鎮められるのは和江だけ。
しかし、和江は既にこの世にいない。
どうしたらいいんだろう、僕。頭の中に色々な思いが渦巻いて、永久に眠れないような気がしたが、うたた寝を始めた秀をたたき起こし、トラックを出て部屋に戻ったあたりで、さすがのフジコも疲れ果てて眠りについた。

村野竣が清治に会うために部屋を訪れたのは、そんな朝だった。
その日、清治は遅出だったし、秀もフジコも疲れ果てていた。
村野は、律に断って清治の部屋のドアを開けたが、そこに雑魚寝している秀やフジコを見て、ドアを閉めた。その音に気がついたのはフジコだった。昨夜の張り詰めた感覚からまだ完全に抜け出ていなかったので、少しの音でも体が反応した。
ただ、頭の働き様はいつものフジコに戻っていたので、疲れ果てた秀の寝顔に口紅で悪戯書きをした。
それで秀が目覚め、フジコがバカ笑いし、矢島が顔を洗おうと出てきた秀と鉢合わせになった。
「後でお会いできると思います。杉田さんには、矢島が来たと伝えていただけますか。」
「まぁ、ちょっと待ってください。」
と、秀が引き止める。
「清さん、矢島って人が来てるよ。」
「矢島?」
ようやく目覚めた清治が呟く。
「知らないな。でも、まぁ、上がってもらってくれよ。」
「秀、入ってもらって。」
玄関先で立ち尽くしている矢島を秀が引き上げた。
「じゃぁ、清さん、僕達先に行くから。」
「行くって、どこに行くんだよ。」
「隣町に決まってるじゃない。」
「まだ早いだろ。」
「決めたらすぐに行動に移せ。活動力の源泉だよ。行くよ、秀。」
まだ半分以上寝ぼけている清治と矢島を残して、秀とフジコが出て行くと、途端に部屋の中の空気が止まったようになる。
その中に清治と矢島が残された。
蒲団代わりのタオルを部屋の隅に片付け、たった一枚の座布団を客に勧めながら、その顔をシゲシゲと見、清治はオッとのけぞりかける。
「矢島って、お前、まさか、矢島?」
それまで怪訝そうな顔をしていた矢島の顔にようやく光が戻る。
「思い出していただけました?」
「忘れてなんかいるわけないだろ。老けたな、君も。」
「のっけから、いきなり失礼だなぁ。」
矢島が笑いながら応える。
「清さんも、随分と老けましたよ。」
「そりゃぁそうだな。十年かい、あれから。」
「ええ、そうですね。十年以上になります。ご無沙汰してました。」
「こちらこそ。しかし、よくここがわかったなぁ。」
「ええ、それには、ちょっと。」
どう話を切り出そうかと悩んでいたが、清治から話を振ってくれたので、挨拶もそこそこに掻い摘んで説明する。
「なるほど、立居がねぇ。それにジャーナリスト?今さら、何を引きずり出そうって言うんだろう。」
「どうやら次期総理大臣候補が絡んでると思うんですよ。」
「次期総理大臣候補?」
「神田代議士ですよ。」
「へぇ、出世したもんだなぁ。」
「知らなかったんですか?」
「全然。」
「清さんが、神田代議士の政治生命を左右する資料を握ってるって。」
「俺が?それは、大きく見られたもんだなぁ。」
「五豊商事を辞める時も、そのノートをちらつかせたそうじゃないですか。」
「俺が?」
「とぼけないでくださいよ。俺達部下を閑職から救い出してくれたんでしょ。」
「ああ、あれはハッタリだ。」
「口止め料として、かなりの額を会社から引き出したそうじゃないですか。」
「口止め料?」
「立居社長が、そうおっしゃってましたが。」
「俺は退職金すらももらってないよ。辞表を叩きつけて飛び出したんだ。その後すぐに下宿も引き払ったから、金を渡そうにも渡せなかったろうな。」
「じゃぁ、立居社長の話は。」
「ううーん、何か勘違いしてるんだろ。俺じゃなくて、政治家に渡した金じゃないのか。」
「だったら、俺が聞かされた話は何だったんだ。清さんが、そのノートのせいで命を狙われているから、すぐにノートを譲り受けて、かわりに清さんを海外に逃がすようにって。国外逃亡のお金まで預かってきたんですよ。」
「そりゃ、あれだな、何かの罠臭いなぁ。」
「罠?」
「よしんば俺がそのノートを持っていたとして、それを矢島に渡したとするだろ、そうすると俺も矢島も殺されちまうんじゃないか。」
「そんな馬鹿な。」
「だって考えても見ろよ、そんなに簡単に海外逃亡なんてできるわけないじゃないか。俺は長年の風太郎生活でパスポートすら持ってないんだぜ。本当に海外に行くなら、まずパスポートを取る為に本籍地に行って戸籍謄本を取って国に申請しないといけない。命を狙われてるって言うのに、そんな余裕なんてあるのか?本当に海外に逃がすつもりなら、偽造パスポートの一つも持たせるよ。立居も馬鹿じゃない。」
「じゃぁ、これは罠?」
「そうだよ。立居は君まで殺すつもりだよ。どうする?」
「逃げましょう、清さん。」
「そりゃあ得策じゃない。とりあえず、俺がノートを持っていて、それを譲り受ける交渉がうまく進まない振りをするんだ。立居に相談の電話でも入れとくんだな。そうして時間稼ぎをする。」
「それで?」
「その後の事は、もう少しよく考えてみよう。そのうちに何かいいアイデアが浮かぶだろう。」
「立居社長に何て言ったらいいんですか?」
「なかなか信用してもらえないくらいでいいんじゃないか。」
「分かりました。」
「とりあえず、折角なんだし、ゆっくりしていけよ。それくらいの金は立居が出してくれるんだろ?馬鹿だなぁ、あいつも。」
「しかし清さん、そんなのんびりしてていいんですか。殺し屋が来てるって話ですけど。」
「だって、俺のノートを手に入れるまでは、手が出せないだろ。だったら、奴らがしびれ切らすまでノートをちらつかせとけばいいんだよ。適当な場所に隠してる事にしとくよ。」
「さすが清さんだなぁ。俺なんか、そこまで考えつかない。」
「変な褒め方は止せよ。でもあれだな、俺たちあまり親しげにしない方がいいな、そうすると。」
「清さんの今の職業は何なんですか。」
矢島が話題を変えた。
要件も大事だが、それよりも清治と語り合う時間が欲しかった。
「風太郎だよ。アルバイトしながら食いつないでる。ボイラーの修理もたまに手がける。五豊商事が販売したボイラーに限っての事だがな。」
「清さんともあろう人が、アルバイトなんて。」
「そっちの方が性にあってる。もともと五豊を飛び出したのも、人を騙したり騙されたりするのに嫌気が差したからだよ。俺は、今の方が俺らしいと思ってる。」
「そうですか。確かに俺みたいに、会社にしばりつけられてるよりいいかも知れないですね。」
「おいおい、俺は、たまたま家族もいない身だった。だから世間からも身を遠ざける事ができたんだ。でも俺みたいな生き方は、はっきり言って負け犬だろ。矢島みたいに逃げ出したくても逃げ出さない生き方の方が数段立派だぜ。」
「そんな物なんでしょうか。」
「そりゃそうだよ。胸張っていけるよ。頑張れ。」
矢島は、自分のあり方さえをも他人事のように話す清治に羨ましさすら感じた。
ただ、清さんも企業を離れて長い。世の中のスピードを知らない。確かに、清治のノートの存在をほのめかしておけば、少しばかりの時間稼ぎはできるだろうが、それは所詮時間稼ぎに過ぎない。
立居社長は結果を急がせるだろうし、清治の言う通り胡散臭い裏事情があるのだとすれば、時間のかかる矢島を別の誰かに代え、手っ取り早く清治を殺してしまう事だってできるのだ。
ともあれ、清治を守らねばと、旅館への川筋を歩きながら矢島は思った。
塩辛トンボが彼の前をついと横切る。


(続く)