(十二)


漸く連絡の取れた仲間がいた。
「今、どこにいるんだよ。」
と聞かれても、おいそれと答えない方が身のためだと康弘は思う。
「言えるか、そんな事。とにかく遠いところだ。」
目撃者の報告で被害者に暴力を振るったのは康弘含め三人。連絡が取れた仲間は見ていただけという証言があり、自宅謹慎中だった。
「運がいいよ。真っ先に捕まったんで運の無さを嘆いてたけど、たまたま近所のじじいが見てやがった。」
「そりゃ良かったな。他の連中は?」
「わからねぇ。誰かからの連絡は、これが最初だよ。まだ逃げ回ってるか、親とかに目を放して貰えないかのどっちかだな。」
「お前ん家は?」
「警察にペコペコしてた割りにはな、親父は仕事だし、御袋はおそらくパチンコだろう。家は放任主義なんだよ。それよか朗報だ。殴られてた奴なぁ、退院だとさ。」
「危篤状態じゃなかったのか。」
「デマもいいとこだな。肋骨に軽くひびが入って、全治一ヶ月。おまえのパンチだろ。」
「馬鹿野郎、俺のパンチなら折れた骨が心臓に食い込んでらぁ。」
「どっちにしろ傷害罪だ。未成年だから名前とかは出てなかったけど、昨日の夕刊の地方版に出てたぞ。テレビニュースでもやってたってさ。おまえ、ますます有名人になっちまったな。」
「しばらくは街に帰れねぇな。」
「ああ、帰って来た日にゃあ年少送りだな。」
「せっかくミカとやれると思ってたのによぉ。」
「ミカ?ああ、あのド派手女か。代わりによろしくやっといてやらぁ。」

丸屋旅館の露天風呂は、川岸近くに作られており、風呂場から川岸に出て体を冷やせるようになっている。
朝食が済んで後、とにかく時間をもて余していた。
父親の顔を一目見てやろうと思いやってきたはいいが、この温泉街のどこにいるのか皆目分からない。行けばわかるだろうと思っていたが、とんでもない。狭いとは言え右も左も不案内な町の中で闇雲にうろつき回っては、警察のご厄介になるのが落ちだろう。
仲居が蒲団を上げにやって来て、しきりに温泉に入れと勧める。
「ここの露天風呂はいいですよ。緑の中で川のせせらぎを聞きながら温泉に入れますから。」
言われて、もそもそと露天風呂に繰り出したはいいが、一時間近くも湯船に入ったり出たりしていると逆上せてしまった。
腰にタオルを巻き、川岸の方に降りる。
水の流れに足を入れ、その冷え冷えとした嬉しさをじわりと感じていた。
思えば、生まれてこの方、こんな場所に来た事が無い。
母は、康弘の幼い頃に自殺した。
その日の事はぼんやりと覚えている。朝起きると、周りが騒然としていた。母を捜して隣の部屋に行こうとして、祖母に止められた。
寝巻きのままで、離れから母屋に連れて行かれた。幼い頃、康弘は母親と離れに住んでいた。母屋に寝起きするようになったのは母が自殺して以後の事だ。
それから見知らぬ大人が沢山来て、いつの間にか葬式が始まった。
読経の最中に男が一人やってきた。それが父親だったらしい。
祖父が激しい剣幕で追い返した。
離れはその後鍵が掛けられ取り壊された。
それから厳格な祖父と、反対に甘いだけの祖母によって育てられた。
康弘が何かを欲しがると、祖父が厳しく反対し、祖母がその目を盗んで康弘の欲しがる物を買い与えた。落ちぶれつつあるとは言っても旧家だ。お金はあった。
康弘は、祖父に対しては行儀良く、祖母に対しては甘え、時に横暴に振舞った。
体が大きくなり、祖父よりも力が強くなると沢田家に君臨した。
喧嘩が人一倍強かったので、近隣でも君臨する事となる。
康弘は常に何かに駆り立てられていた。
それは、彼が思春期を迎え、自分に欠落する物を意識し、その欠落を補う為に自分の肉体を使う事を覚えた辺りから彼の中に生まれ大きく膨れ上がり、今なお膨れつつあるもの。彼自身の力では抑制できないものだった。
その駆り立てるものの正体を彼自身は知らない。
しかし、それが彼に余裕を失わせ、後先を省みずに行動させた。
駆り立てられるように素行不良に走り、浪費し、酒や煙草を覚え、女を覚え、喧嘩をし、近隣に君臨した。が、その事は彼に何の喜びも与えなかった。それどころか、彼の中の抑制できないものの膨張を加速し、彼の中から彼自身以外のものから得られる筈の喜びを遠ざけてしまい、彼を彼が今立っているような弛緩した場所から遠ざけた。
勤勉実直だった祖父がこのような場所に旅行に連れてきてくれる筈は勿論無い。また、仮にこのような場所に来ていたとしても、彼自身にこの弛緩した空気を受け入れる意志が無かっただろう。
彼自身の日常から意図せずに離れ、さらに意志とは逆に間延びした空間に放り込まれたからこそ、その場所に在る万象の醸し出す空気とその振動が彼の心に漸く到達したと言うに過ぎないのではあるが、彼にしてみればそれで充分だった。
殺伐感がやや薄れ、心中にわずかの隙が生じる。その隙間から染み出たのは、久しく忘れていた涙の一粒だった。
汗に紛れて第三者には分からなかったが、彼自身は驚きをもって充分に意識できた。
「おい、坊主、何してんだ。」
そういう状況の彼に声をかけた男がいる。
「おい、止めろよ。知らない相手に坊主は失礼だろ。」
連れの男がそれを止める。
通常の康弘ならば完全に無視するか、殴りかかるかのどちらかだった筈だ。
振り返って見た相手の様子で、おそらく無視しただろう。
二人連れの男は、平林剛三と千顔寺の住職だった。どちらも手強そうな相手だ。
「何言ってやがる、どう見たって未成年だぞ、ありゃあ。それを坊主といって何が悪い。」
「だから、いきなりは失礼だろうが。」
「いいじゃねぇか。おい、坊主、失恋旅行か。そんなとこいないで、こっち来て飲まねぇか。」
呼ばれて康弘はのそりと立ち上がった。
「おお、いいものぶら下げてるじゃねぇか。」
康弘は石造りの湯船の縁に腰掛けると住職の差し出した盃を受け取り、ぐいと飲み干す。
「飲みっぷりもいいじゃねぇか。泡盛の古酒だぜ。後でぶっ倒れるなよ。」
「大丈夫だよ。」
「何でぇ。ちゃんと喋れるじゃねぇか。」
「それでだ、坊主。」
平林が住職に話を続ける。
「どっちの坊主だ。」
「てめぇに決まってるだろ。生臭坊主。」
「何が生臭だ。」
「未成年に酒飲ませるなんて生臭以外の何者でもないだろ。」
「未成年だなんて決め付けてやるなよ。」
「てめぇが最初に決め付けたんだろ。」
「そうだったか。おい、坊主、歳はいくつだ。」
「二十歳だ。」
「小便臭ぇ二十歳だな、まぁいいや。未成年でねぇ事だけははっきりしたんだ。ヤクザと坊主と青年が一つ風呂の中で酒盛りってのも悪かぁねぇ。」
「それよか。」
と、平林が話を続けたがる。
「清の字の件か。」
「ああ、何とか力になってやりたい。」
「惚れ込んだもんだな、清の字に。」
「おいおい、清の字にじゃねぇぞ。フジコって子にだよ。」
「そんなに良かったのか。俺も試してみるか。」
「馬鹿野郎。この生臭め。俺達ちゃもうそんな歳じゃねぇだろ。」
「俺は、まだ現役だぞ。」
「ハートだよ。心意気って奴だ。フジコちゃんの心意気におらぁ惚れちまった。」
「また岡惚れか。」
「口の減らねぇ奴だな。」
「お生憎様だ。」
「で、てめぇを呼んだんだよ。温泉にでも入ってゆっくりと策を練ろうってな。」
「俺をここまで引っ張り出すにゃあ、もう策の一つや二つ持ってやがるんだろ。」
「うん、それでな丸屋の女将を担ぎ出す。」
「スエコさんか。」
「ああ。温泉の客がこれ以上減るとな、丸屋も困るが、俺達の稼業にも影響が大きい。何とか客を呼び戻したい。利害が一致するんだ。」
「和江さんの再来か?」
「和ちゃん程かどうかはやってみないと分からない。だが、期待はできるな。」
「しかしなぁ、洋物のエロフィルムを見た事あるか?凄いぞ。のっけから女が男のでかいのをくわえるんだぜ。後は精液飛ばしまくりだ。今は、それを躍起になって取り締まってるが、いつまでもそんな時代は続かねぇ。きっと、色物の世界も西欧化する。そんな時代に四十八手でございか?」
「そこなんだよ。俺たち日本人が西洋のどぎつい色物に耐えられるとは思えねぇ。もっとしっとりした和物のエロスが良いに決まってる。獣見たく肉体がくんずほぐれつするんじゃなく、目だよ、目で物語る世界。な、白い体が静かにくねるんだ。そして、耐えがたい吐息を漏らす。情緒あるだろ。」
「ヤクザも色の世界となると詩人になるか。」
「馬鹿野郎。日本人なら誰でも、そう言う世界が見たくなるに決まっている。脂っこいビーフステーキばかりじゃ飽きるんだよ。あっさりした湯葉だ豆腐だのが食べたくなる。分かるだろ。」
「まぁ、そうだろうな。」
「それを今に伝承できるのは、俺たちが知る範囲じゃあ清の字しかいない。清の字をその気にさせてフジコちゃんと組ませ、フジコちゃんに清の字の技を教え込ませるんだ。」
「そうすりゃあ、伝統的な日本の寝技が後世に伝えられるってか。しまいにゃあ芸大にでも持ち込むか。」
「それでもいいが、まずは俺達の食い扶ちだ。清の字と和ちゃんの時のように客が客を呼ぶ。温泉が賑わう。博打だ女だと馬鹿な事に金を使う奴も沢山来る。鴨が増える。俺の手下が儲かる。俺が儲かる。」
「俺は?」
「温泉の客が増えると、そこで働く人の数も増える。この町の人口が増える。そうすると、お前の檀家が増える。お前が儲かるって寸法さ。」
「先の長い話だなぁ。生きてられるのか、そこまで。」
「あたぼうよ。死んでたまるか。」
「で、スエコさんには何を頼むんだ。」
「場所の提供と、客引きさ。」
「今時危ないだろ。あの手の世界は、お上が殊更目を吊り上げて取り締まってるんだぜ。方々でお縄頂戴になって、営業停止に追い込まれてるじゃねぇか。乗ってくるかな。」
「乗るよ。丸屋も客が欲しい。昔みたいに忘年会の会場に使ってもらいたい筈だ。」
「じゃ、まあ、スエコさん説得に赴くか。おい坊主。」
と、康弘を見ると、目をつぶってぐったりしている。
「おいおい、てめぇが未成年に飲ませたりするから。」
「湯あたりだろ。ちょっと、そっち持て。」
「どうする積もりだ。」
「俺もな、少々逆上せちまった。」
二人は康弘を左右から抱えると、湯船を出て川に降りていく。
そのままじゃぶじゃぶと川に入っていくと、真中で康弘を放り出した。
いきなり水につけられて、康弘も目を覚ます。
「何しやがる。」
身構えた先にあるのは、坊主とヤクザの暢気な行水姿だった。
「おう、目が覚めたか。あまり無理して飲むなと言ったのに。」
「あの酒は強いからな。」
「素人向きじゃぁねぇな。」
「湯に逆上せただけだ。」
康弘がプイと横を向く。
「こいつも、なかなかに負けてねぇな。おい、家出少年。いつまでもこんな旅館にいちゃあ目立つぜ。警察に通報されても知らねぇぞ。それよか、俺の寺に来い。本堂の掃除してくれる手が欲しかったんだ。千願寺ってんだ。いいか、千願寺って言えば誰でも知ってる。適当に道聞きながら来い。かぁちゃんのおっぱいが恋しくなるまで置いてやる。いいな。」
二人は川から上がってもう一度湯につかり直すと脱衣所に消えた。

「あたしは、別に反対じゃないわよ。」
スエコが二人に言う。二人と言うのは、ヤクザと坊主の二人組みだ。
「そうか。そりゃあ話が早い。」
「でもね、急すぎるわよ。あと四日しかないのよ、和江さんの命日までに。それまでにどれだけのお客が呼べるの?」
「うん、まぁ、近在の暇人くらいかな。」
「それに、二人はまだ寝た事も無いって言うじゃないの。そんなので、あれがやれると思う?」
「そうなんだ。清の字をやる気にさせないといけない。」
「あいつは乗せられやすい性格だし、一度乗せると結構突っ走ってくれるからな、まずはうまく乗せることだ。」
「どうやって。」
「うん、既成事実を作っちまうってのはどうだろう。」
「既成事実?まるで略奪結婚だな。そのフジコちゃんってのに妊娠してもらうのか。」
「馬鹿野郎。」
「馬鹿とは何だ。既成事実ってからそう言ったまでだ。男と女の既成事実と言やぁこれしかねぇだろ。」
と、千願寺の住職が手を腹の前で大きく膨らます。
「だから手前は世間が狭いんだ。」
「そんな事手前に言われたかないやい。」
「なんだと生臭坊主。」
「ちょっと、ちょっと、あんた達、喧嘩なら外でやってよね。ともかく、清さんを既成事実に巻き込むってのを聞かせてよ。」
「ああ、そうだった。だからな、まずはやらせちまうんだ。」
「やらねぇから困ってるんだろうが。」
「だからさ、お座敷をやらせちまうんだ。」
「いきなり本番でか。」
「いや、その前日でいいや。俺たちとかの前で予行演習だって事にして。そうしたら、絶対に上手くいきっこないわけだから、清の字もさすがに慌てふためくだろ。清の字は、そこで投げ出すタイプじゃねぇから、意地でも本番を乗り切ろうとするはずだ。な。」
「で。」
「後は、それから考えるさ。」
「何だよそれ。」
「しかしな、本番でとちられるよかましだろ。内容がひどすぎて警察も目をつけねぇような事になっちまったら和江さんにも悪いし、フジコちゃんに気の毒だ。」
「しかし、それでも一夜漬けだな。」
「うん、まぁ、そうならないように、フジコちゃんを隣町のストリップの振り付け師んところに修業に出してるんだが。」
「あの日舞の?」
「四十八手は一通りは知ってるって言ってたぜ。今日、明日でそれを体に覚えこませて、清の字とリハーサルをやる。失敗する。清の字に火がつく。二人で夜っぴぃて練習する。翌日は、何とか形にはなる。って寸法だ。」
「そう上手くいくかなぁ。」
「行かさなきゃぁ。」
「また、清さん達目当てにお客さんが来るのね。」
女将の脳裏には、在りし日の賑わいが浮かび上がる。
「いや、清の字は、現役から退かせる。」
「何だよ、それ。」
「現場には若手を持ってきて、あいつは教育係兼マネージャーをやらせるんだ。幅広く客を呼ぶには、組織的な動きをしないとな。」
「そんな捕らぬ狸よりも、今後の段取りを決めちゃいましょうよ。」
「じゃぁ、清の字呼ばないと。」
「清さんには、スケジュールを決めてから話すればいいでしょ。」
「よし、まず本番の日程だな。和ちゃんの命日に合わせるんなら明々後日だな。」
「そりゃ急すぎると思うんだが。」
「確かに急だがな、和ちゃんの命日に合わせてこそ客も来ようってもんだよ。そうでなけりゃぁ、客が呼べない。」
「そんなもんかな。」
「いいか、客は清の字を見に来るんじゃない。和ちゃんの後目を見に来るんだ。それも大した期待があるわけじゃない。ただ、かつて和ちゃんのフアンだったと言う、それだけの事でやって来るんだ。だから、客が足を運ぶだけの理由を与えてやらないと、誰も足運ばねぇぜ。」
「それが和江さんの命日ってわけか。」
「そうだ。一度来た客が二度目も足を運ぶかどうかは、その次だな。固定客を作るのはさらに難しいもんだ。」
「よし。和江さんの命日に合わせてやりましょう。昔、来てくれてた人達の名簿があるから、あんた達連絡手伝ってくれる?」
「お安い御用だな。」
「次に予行演習日だが。」
「もう明日か明後日しか日がないじゃないか。」
「フジコって子の完成具合によるわね。」
「余裕を見て、明後日にするか。」
「観客は?」
「俺達で充分だろ。」
「それと振付師だ。後で何かの役に立つかも知れないからな。」
「じゃぁ、明後日の午後十時でどう?場所はこちらで用意しておくから。」
「決まりだな。」
「これで清の字、逃げられねぇ。」


(続く)