(十三)


「あのぉ。」
フジコは、平林から教えられた隣町のミュージックホールの前にいた。
古い色褪せた裸の女のポスターの貼られたホールの入り口に鍵はかかっておらず、ドアを押すと、ギシギシとそれが開いて中からすえた匂いの空気が流れ出た。
暗さに目が慣れていないのでホールの中が良く見えない。奥まった両端から細い光が一本づつ交差して入り込み、そのおかげでかろうじてホール中央の少しと高い場所と、その周囲に乱雑に並べられたパイプ椅子らしきものがシルエットとして見える。
「誰かいますか。」
再び中に向かって声を張り上げた時、
「誰もいないわよ。」
と、後ろで返事があった。
振り返ると背の高い痩せた貧相な老人が一人、男性用のナイトキャップを被り染みだらけでヨレヨレの浴衣姿で立っている。鼻が異様に高くとんがっており、その下の唇が薄い。はだけた浴衣から薄い肋骨の浮いた胸が見える。
「どなた?」
「フジコって言います。あの、このホールに用があって来たんですけど。」
「踊り子さん?」
「ええ、まぁ。」
「そう、でもこのホール、去年で閉めちゃったからねぇ。残念ねぇ。」
「閉めちゃったんですか?」
「そうよ、最近、めっきりお客が減ってねぇ。若い人は殆ど都会に出ちゃうでしょ。温泉客も少なくなったしね。で、あなた、何て名前だっけ。」
「フジコです。」
「ああ、フジコちゃんね。」
「平林の親分から連絡が来てると思うんだけど。こちらの大貫健太さんって人の所に。」
「大貫健太ならあたしよ。」
「おじいさんが?」
「平林?ああ、昨日の夜、若い人が来て何か言って帰ったわねぇ。もそもそ偉そうに喋るから何言ってんだかぜぇーんぜん聞き取れなかったんだけど。」
「たぶんこう言う事だと思うんだけど。明日、フジコって娘が行くから、四十八手を教えてやってくれ。」
「四十八手って、相撲の?」
「お互いにとてもそんな事やるようには見えないだろ。」
何言ってんだ、このくそじじぃと声に出さずに言う。
「ふーん。」
と、鼻にかかった声で変に納得しながら、フジコを見る。
「ちょっと、回ってみてくれる?」
「こうですか。」
「もっと優雅に回れないの?本当に今時の若い子は駄目ねぇ。まぁ、いいでしょ。スタイルは悪くなさそうね。中入って。」
そう言って先にホールに入る。奥でごそごそやっていたが、いきなりスポットライトが点灯し、ステージの上がピンク一色になる。
ステージは、真中から客席に向かってせり出していて、丸く終わっている。その丸く終わっているところに卓袱台がおいてあり、最近見かけるようになった湯を注ぐだけの即席ラーメンのカップがゴロゴロと転がっていた。
「あら、ごめんなさいね。カップヌードルが好きなのよ。最近この辺でも手に入るようになってね。あんた、もう食べた?」
「まだです。」
「幾つか余分にあるから、朝食まだなら食べていいわよ。」
「はぁ。」
「食べる?」
「いえ、いいです。」
「そう。ちょっと待っててね。舞台片付けるから。」
老人は下手から現れると、卓袱台を抱えて上手に持っていく。
「何か手伝うよ。」
「いいわよ、ちょっとゆっくりしてて。」
そう言いながら舞台を上手から下手に横切り、今度は蒲団を抱えて下手から上手に横切る。
「あんた、歳いくつ?」
上手から声だけかけて来る。
「二十一です。」
「ふーん、年齢としたらギリギリセーフってところね。」
「何が?」
「踊り子始める年齢。」
「踊り子なんかしないよ。」
フジコのその返答に舞台袖から顔だけ出して、
「あら、そうなの。」
「僕、踊り子するために来たんじゃないんですけど。」
「そう。まぁ、今着替えるから、事情はそれから聞くわ。」
しばらくして、老人の出てきた姿を見て、フジコはひっくり返りそうになった。
黒いティーシャツに黒いレオタード、素足に黒いバレーシューズを履いている。
ティーシャツの背中には、色が剥げて読みにくくはなっているが、金ラメで「ダンシング・ニューヨーク」と書かれているらしかった。
唖然としているフジコを尻目に、
「ちょっと待ってね、ゼラ変えるから。」
そう言うと、入り口横の梯子段をするすると登り、器用に桟等につかまりながら色のついたセロファンをはずしていく。
「一人で寝起きしてると寂しくってね、たまにゼラ変えて遊んだりしてるのよ。」
「ここで寝起きしてるんだ。」
「そうよ、ステージが食卓で、照明室が寝室よ。昔は、踊り子達何人かと一緒に住んでて、その時はこのステージが生活空間だったのよ。でも一人だとステージじゃ寂しくって。」
ステージの上のピンク色が消え、白々とした光に変わり、剥き出しの年期の入った、ささくれ立った板間が現れた。
「ちょっとこれだと目をむきすぎるかしらね。」
薄い色のセロファンが入れられると、ステージはやや暗くなったものの板の継ぎ目が目立たなくなった。
「これでいいわね。」
「不思議なんだ。」
「ゼラを変えると舞台の雰囲気も変わるのよ。南の国の海辺にも北国の寒い夜にもなるのよ。」
そう言いながらするすると身軽に梯子を降りてくる。
「そこに座って、適当に。さて、では聞かせていただきましょうか。ここに来た理由。」
フジコがかいつまんで説明するのをふんふんと聞き終えて、
「そりゃ、あなた、無茶と言うものよ。」
「無茶は承知なんだ、でも。」
「あなた、そう言う世界の経験あるの?」
「ない。」
「相方とも寝てないんでしょ。」
「うん。」
「それで、客前でいきなり肌合わせるなんて、前代未聞よ。恥かくだけよ。恥かくだけならまだしも、それ以後お客が来なくなるわよ。悪い事は言わないから止めた方がいいわよ。」
「でも、もう決めた事なんだ。」
「誰が?」
「僕が。」
そこに電話が鳴る。
「はい、もしもし。あら、これはこれは。」
レオタードの老人は、受話器の向こうの相手に随分とペコペコしている。
しばらくして受話器を置くと、
「平林の親分よ。本番の日が決まったって。知ってた?」
「知らない。」
「明々後日だって。」
「へぇ。」
「驚かないわねぇ。肝が座ってんだか、鈍感なんだか。それと、明後日、平林の親分達を前にして予行演習だってさ。」
「誰と?」
「相方とよ。それにあたしも立ち会うんだとさ。」
老人はフジコの目を覗き込む。
「うん、オッケー、じゃぁ始めようか。あたしの事はケンちゃんって呼んでくれる。皆、そう呼んでるから。」
「皆って?」
「昔、このホールにいた皆よ。裏寂れた田舎町のミュージックホールだけど、青春の物語が沢山あったのよ。」
健ちゃんはステージに駆け上がり、手を広げると、
「青春。アズ・タイム・ゴーズバイ。」
何だこのじじぃはと、半ばフジコはあきれ返る。
「ちょっと、何してるの、もう始まってるのよ。愚図愚図しないでステージにあがるの。」
「あの、このままでいいんですか?」
「ああ、それじゃ動きにくいわね。ちょっと待ってて。」
楽屋から薄桃色の浴衣を持ち出してくる。
「これに着替えてちょうだい、ここで。」
「ステージで、ですか?」
「そうよ、あなたも裸を見せる女優でしょ。さ、できるだけ色っぽく、全裸になって着替えるのよ。そうそう、音楽がいるわね。」
バタバタと音響部屋に入ると、古いジャズのナンバーをかける。
「レコードねぇ、あらかた質に入れちゃったから、これで勘弁して。さ、スタート。」
「僕、ストリッパーじゃないんだけど。」
「裸を見せる基本は、何でも同じよ。見ている人にできるだけ綺麗に自分を見せるの。洋物のポルノみたいに、やってるところ見せりゃいいってもんじゃぁないのよ。さぁ、脱いで。」
仕方なくフジコはモタモタと上着のボタンをはずしにかかる。
「駄目。仕草の一つ一つ、指先にまで充分に心を配るのよ。気持をリラックスさせて。ほら、音楽に少し体を揺らすの。そうそう。なかなか飲み込みがいいわねぇ。音感もありそうよ。」
そんなのいきなりできるかよ、と思いながらも何とか着替え終わる。
「じゃぁまず、柔軟体操ね。って、浴衣で柔軟はできないわね。ちょっと待って。」
再び楽屋から黒いジャージを出してくる。
「これって、健ちゃんの。」
「大丈夫よ。洗濯してあるから。あたしは結構綺麗好きなんだから。じゃぁ、同じ格好してくれる。」
と、いきなり両足を百八十度開いてぺたりと尻を床につける。とても老人がやっているとは思えない。老人の着ぐるみの中に若いダンサーでも入ってるんじゃないだろうか。
「それって、できないよ。」
「何よ、体、固いのね。広げられるだけでいいから。息を吐きながら、体の力を抜いていくのよ。そしたら、少しは楽に足が開くから。四十八手の基本は体の柔らかさよ。背中押すからね。」
足を百度程度に開いて尻餅をつくフジコの背中を健ちゃんが押す。
「無理せずに、少しずつよ。少しずつ足を開けばいいんだから。これは、しかし、一日がかりだわね。」
「こんな事が本当に役に立つんだろうか。」
「アクロバティックな体位を幾つも連続して見せなきゃならないのよ。男は立ってるだけでいいんだけど、女はそりゃあ大変なんだから。」
「良く知ってるんだね。」
「そりゃあんた、何度か和江さんに舞台指導してるもの。」
「それを僕にも伝授してよ。」
「いきなりは無理ね。二人でかなり高度な動きを練習したのよ。相方の男は気がついていないと思うけど。彼女の熱心さには頭が下がる思いだったわ。彼女、体なんかも柔らかかったしね。あんたが真似したら絶対にどっかの筋や関節がおかしくなるわよ。」
「ううん、悔しいなぁ。」
「キャリアが違うだけ。焦らない事よ。あんた、素質が無いわけじゃあなさそうだし。少しずつ積み上げるのよ。まずは、体の柔らかさね。」
「次は?」
「立ち居振舞い。つまり見せ方ね。」
「その次は?」
「うーん、四十八手の体の動きを覚えてみる?」
「やるよ、僕。」
「今の柔軟体操をしっかり覚えて、暇を見つけてやる事。」
「わかった。」
「次ね。ジャージを脱いで。ちょっと、立ち居振舞いに気をつけるのよ。ジャージを脱ぐなんて簡単な動作でさえ、どんな風に他人の目に映るかを意識してよ。決して無造作にしない事。脱いだらステージに立って。ちょっと歩いてみて。行ったり来たりするのよ。」
健ちゃんはステージから降りて客席の後ろから叫ぶ。
「背中曲げない。足をもっと内股にして。踵で歩かないの。膝を曲げない。手の指の先も意識して。」
全く注文が多いとフジコは辟易し始める。
「全体に体が萎縮してしまってるのよ。もっとリラックスして。うーん、よし、足と手を投げ出すようにして歩いてくれる。そうそう。もっと前に、もっと前によ。」
だんだんフジコの体にも熱が入ってくる。
「はい、ストップ。見てごらん裾が乱れきって、あんたの性器が丸見えになってるわよ。」
「仕方ないよ。あんな歩き方をしたら。」
「じゃあちょっと待ってて。」
しばらくすると自分も浴衣姿で現れた。
「いい。見ててよ。」
音響部屋でごそごそしていた健ちゃんが出てくると、ホールの中はいきなりロックンロールのリズムで満たされた。
健ちゃんは、リズムにのり手や足を投げ出して自由奔放に歩き始める。
「さぁ、ついて来て。」
健ちゃんは、器用にお尻をクネクネさせながら体を動かしている。
フジコも真似してついて行くが、フジコの浴衣がすぐに乱れるのに対して、健ちゃんのはほとんど乱れていない。
浴衣だけではない。息の乱れ方も、フジコの方が激しい。
「修業よ、修業。一つ言わせてもらえれば、お腹で呼吸をする事。これも、暇があればやってみるといいわよ。息を吸う時には口から息を吸い込むんじゃ無しにお尻の穴から息を吐き出すようなつもりで。逆はわかるわね。これだけで、結構体がポカポカしてくるんだから。」
しばらく歩く練習を続ける。フジコはそれだけでヘトヘトになった。ただ、浴衣の裾の乱れが少なくなった。
「だいぶん体もこなれてきたようね。じゃあ、今日はもう少し、踊りの仕草をマスターして終わりにしましょうか。これも、自分の体に染み付けるのよ。」
健ちゃんは、ちょっと古めの演歌を引っ張り出してきて、これまた器用に体をくねらせる。
「いい。目の動き、腰の動き、手の動きを良く見て真似るのよ。いろいろ言ってもどうせすぐにはできっこないから、せめてその三つの動きの基本を身につけて頂戴。これは、絡みやる時も大事よ。特に目の動き。お客と視線を合わせない時と、合わせる時のけじめをつけるの。合わせない時は、流し目で避けていく。合わせる時は、上目使いに合わせていくのが基本ね。」
結局、その日はそこまでで終わった。まだ日の高いうちにミュージックホールを出たが、フジコはもう体がクタクタだった。
「時間があったら見といて。明日は、これをやるから。」
と、健ちゃんから大学ノートを預かった。それは、かつて健ちゃんが和江と一緒に作った四十八手とその繋ぎの動きを線画で示したものだった。
這いずるように千願寺に戻ると、境内を掃いていた秀がフジコの様子を見かねて駆け寄ってきた。
「大丈夫か、フジコ。」
「大丈夫だよ。大丈夫だけどね。」
「大丈夫だけど、どうした。」
「裸踊りってね単に裸を見せるだけじゃないんだって事が痛いほどにわかった。何にでも、それなりに苦労があるんだよ、秀。」
「そうか、でも随分疲れてるみたいだから、とにかく本堂にでも行こう。蒲団敷いてやるよ。」
「ありがとうね。」
フジコが秀に抱えられるように近付いた本堂の上がり框に康弘がいた。
無関心に秀達を見ていた。
「誰、あれ?」
「住職のお客さんらしい。」
「ふーん。」
フジコは本堂の片隅に秀が敷いてくれた蒲団に体を横たえて天井板の模様を眺める。
湿った風が流れてくる。雨が近付いているらしかった。
お歯黒トンボが部屋に飛び込み、タオルケットの端にとまり、無心に羽を閉じたり広げたりしている。そのトンボと視線が合った途端、とっくに忘れてしまった遠い記憶の一部が蘇った、ような気がした。
だが、それがどんな記憶だったのかを思い出そうとしているうちに寝入ってしまう。


(続く)