(十四)


「おお来たか。随分賑やかになるな。」
そう嬉しそうに言う住職の声でフジコは目覚めた。
「お世話になります。」
と、秀が頭を下げている。
もう一人、康弘はそっぽを向いたままだ。
「坊主、もう酔いは醒めたか。」
住職がそちらに声をかける。
「酔ってなんかいねぇって何度言ったらわかるんだ。」
「そうか、まだまだいけるか。そりゃあ楽しみだな。お前さんはいける口か?」
と、秀に尋ねる。
「ええ、まぁ。」
「よし、今夜はさっそく宴会だな。席ができるまでちょっと待ってろ。それともあれだ、今日は天気もいいし、境内でバーッとやらかすか。」
「墓のある場所で、ですか。」
「なに、気にしなくていいよ。賑やかな方が仏も喜ぶんだ。」
秀が違うんだけどなぁと言う顔をしている。
康弘は相変わらずそっぽ向いているが、目の色が気持ち穏やかになった。
フジコがもそもそと起き出した。体の節々が痛い。
住職が気がついて、
「おお、君がフジコちゃんか。平林が随分と気に入ってやがる。」
「お邪魔します。」
ペコリと頭を下げる。
「和江さんの再来だそうじゃないか。」
「そんな、和尚さん、そんな事無いよ。買いかぶり。」
「今日、さっそく練習始めだったな。」
「うん、体の節々が痛い。」
「健ちゃんか。」
「あれで本当に六十歳なんですか?それにしては、元気がいいんだけど。」
「いや、自称六十だ。実際は、もっといってる筈だよ。最後の彼女と別れた時に、もう六十だしなと言ってやがったから。あれが五年前だ。ちなみに最後の彼女は二十だった。」
「すごい。」
「週に三回しかできなくなったって嘆くんだよ。女房の墓の前で。」
「奥さんって。」
「三年前に風邪こじらせてね。健ちゃんより十五ばかし年上だった。」
「すごい関係だ。」
「ミュージックホールのオーナーの一人娘だった。年上女房なんで、浮気は公認だったな。うちの人は性が強くってって、よく呆れてたからな。」
「ますます、すごい。」
「とにかく、そういう町の話題には事欠かない。みんな、ここに集まってくる。さて、まずは着替えさせてもらうか。」
そう言いながら住職は庫裏に入って行った。
しばらくして奥から住職が呼ぶ。
秀とフジコが顔を見合わせ、秀の方が「はい」と返事をする。
「ちょっと運ぶのを手伝ってくれ。」
言いながら一升瓶を三本ばかし抱えて出てきた。
出て来た姿格好を見て、秀もフジコも、康弘でさえぶっとんだ。ベージュのダボダボの半ズボンに白いランニングシャツ、下駄とくる。とても坊主には見えない。
「奥に食べ物を出しといた。コップと一緒に持ってきてくれんか。」
「俺が行くよ。」
今まで黙っていた康弘が腰を上げた。
「そうか、坊主、すまんな。」
「俺は坊主じゃねぇ。」
「あの人ちょっと不気味だね。」
康弘の姿が見えなくなってフジコが言う。
「愛想悪いだけだろ。」
「なに、ああいう年頃なんだ。お前らも通ってきただろ。」
と住職が煙草に火をつけながら言う。
「僕、あんな風に通る余裕も無かったな。帰り場所を用意できない頼りない親を持ってしまった家出娘としては、その日の飯食うのに必死だった。」
「おお、何だか楽しい事情がありそうだな。酒飲みながらゆっくりと賞味させてもらおうか。」
「僕の体験談は酒の肴かい。」
「他人の不幸は、我が喜びってね。」
「それでも坊主か。」
「坊主も人間だって事だ。酒も飲めば、女も抱く。さてさて、飯がくるまでつまみながら一杯やろうや。」
康弘が、コップとスルメを盛った皿を持ってきた。
「食い物、これしかねぇのか。」
康弘が尋ねる。
「何だ、その不服そうな面は。ありがたいお供え物だ。感謝していただくんだ。」
「供えてあるのを取って来たの?」
「ああ、そのまま放っとくと犬や猫、それに山鳥も寄ってくるからな。墓石の上や周囲に糞をして始末に終えない。だから仏様に成り代わってあいがたく賞味させていただくんだ。」
「死人に口無しってか。」
康弘が、初めてニヤリと笑う。
「そうとも言う。」
「僕、飲めない。」
「そうか、裏の井戸に麦茶が冷やしてある。勝手に汲んでおいで。井戸の中に引きづり込まれないようにな。食い物はな、もう少ししたら届けられる。」
「わざわざ頼んでくれたんだ。」
「馬鹿を言え。向こうから酒と食い物が歩いて来るんだよ。そう言う風になっとる。」
住職が言った通り、しばらくして境内の向こうの門の先で車の止まる音がし、女の姿が現れた。風呂敷包みをぶら下げている。フジコ達の姿を見とめて、入って来るのを躊躇している様子だった。住職は、そちらに向かって手を上げ、おいでおいでをした。
女が漸く意を決したようにこちらに歩み寄る。
四十過ぎの化粧の派手な女だった。
「こちらはな、なんだ、駅前の呉服屋の後家さんだ。」
「嫌ですよ、後家さんだなんて。ちゃんとキミコって名前で呼んでくれなきゃ。この人、人前ではあたしの事後家さんってしか呼ばないんですよ。」
「いやぁ、すまん。毎日、食い物を持って来てくれるんだ。」
「今日は少し多めにって事だったけど、こう言う事だったんだね。それならもっと持って来たのに。」
「いや最初はな、このフジコくんだけだと思ってたんだ。」
「邪魔なら退散しましょうか。」
と、秀がからかう。
「あたし以外にお寺に女を泊めるの?」
「平林に頼まれたんでいやいやだよ。」
「嘘おっしゃい。」
「和尚さん、信用無いんだ。」
「手が早いんだから。」
女は、そう言いながら住職の右の二の腕を軽くつねる。
「こう言う事だったんですね、食い物が歩いてくる。」
秀がさらに突っ込むと、
「あらいやだ。じゃぁ、何、この人が待ってたのは食べ物だって事?毎晩、毎晩、通ってきてあげてるのに。もういいわ。あたし、帰ります。」
秀が言い過ぎたと首をすくめる。
住職は慌てて
「何を言ってるんだ。俺が誰を待ってるか、キミコが一番良く知ってるだろ。」
「どうせ食べ物でしょ。あたしは二の次なんでしょ。」
「よく言うよ。飯を食わない日はあっても、キミコを思わない日は無いんだぜ。この入墨は誰のために彫ったと思ってるんだ。」
そう腕を捲し上げると、確かにハートマークに「K」という入れ墨が見えた。
キミコが嬉しそうにその腕に縋りつく。
「よくやるぜ。」
康弘が呟く。
「全くだな。」
秀が応える。

フジコが目覚めると、秀も康弘も住職さえもがだらしなく眠りこけていた。
昨夜は随分と賑やかだったな。フジコが誰に言うでもなく呟く。
呉服屋の後家は、途中で抜けて帰っていった。
フジコは、疲れて先に眠ってしまったのだ。
開け放した本堂に差し込む月の光が清浄として眩しい。
その中をついと横切る小さな影があった。
「あっ、トンボだ。」
こんな夜中に飛ぶトンボもいるんだ。
その後を追うようにフジコは起き出す。
どこに飛んで行くんだろう。
本堂から境内に出て、裏手に回る。そこから先は墓地だ。墓石の群れが月の雫の下で白々と佇む。
その中を縫うようにトンボが飛ぶ。
勇気を出して、一歩足を踏み出した。
不思議と怖さが薄れてゆく。
墓石と墓石の間を一つ一つ名前を確かめお辞儀をしながら通って行く。
「見られていることを意識するのよ」
健ちゃんの声が頭の中で聞こえる。
フジコは振りとシナをつけ、静かな墓地を踊り揺らめきながら歩いている。
月光がスポットライトだ。
ふと、小さな墓石の前で足が止まった。
フジコはその墓石に絡みながら静かに踊る。
最大限のシナを見せつける。
わずかに開いた唇から恍惚の吐息が漏れる。
「フジコちゃん、まだ感じたらあかんよ。」
和江の声が響く。
「和江さん。」
せつなくフジコが呟く。
「まだよ、フジコちゃん。」
「和江さん、見て。」
いつしか着ていたものを全て脱ぎ捨てている。
淡い月光の中でフジコのからだが白くくねる。
「僕、やれるよね。」
「当たり前やないの。フジコちゃんだけや、うまくやれるの。」
墓石に体をこすりつけながらフジコは次第にのぼりつめ、やがてはてる。
たかだか五分ほどの間の事だったろう。が、後で思い返せば一時簡にも二時間にも思われた。
体も心も一点に集中し、時間を超越し、そこから自身の内なるエネルギーを引き出す。
もちろん、始めての体験だった。
終わって後、自分の中に何かしら自信らしきものがむくむくと芽生えてくるのを感じる。
それは、今までフジコから完全に欠落していたものだった。
「ありがとう和江さん、僕、頑張るよ。」

再び目が醒めるともう朝で、縁側に腰をかけて秀達が握り飯を頬張っていた。
「起きたか、フジコちゃん。」
住職が気がついて、
「ほれ、握り飯、残しといてやったぞ。」
「全くよく眠るなぁ。」
夜中の出来事は、とフジコはまだ完全に起きやらぬ頭で考えた。
夢だったんだろうか、それとも現実だったんだろうか。
夢にしては、墓石の冷ややかな感覚がやけにリアルに体の方々に残っている。
それは、ひんやりとした和江の眼差しに繋がって行く。
確かに昨夜、和江と一緒にいた。和江と肌を合わせた。木目の細かいしっとりとした、しかし張りのある肌だった。
和江のしなやかな足とフジコの足が絡まりあって、フジコはエクスタシーに達したのだ。
それから。それから、どうしただろう。そこから記憶が無い。やはり夢だったのだろうか。
這って縁側まで移動する。昨夜、あれから雨が降ったのだろうか、境内が濡れている。
「雨、降ったんだ。」
「ああ、すごい土砂降りだった。酒盛りしてたらいきなり振り出して、雷もなってたもんな。」
「彼女、ちゃんと帰れたでしょうかね。」
「大丈夫だろ。お前らがいなけりゃ泊まっていってのにな。」
「あれ、来いって言ってくれたの、和尚さんですよ、なぁ。」
と、秀が康弘に同意を求める。
康弘が少し体を動かしてそれに答える。
「ずっと降ってたの?雨。」
「ああ、朝方までな。」
「そう、じゃぁ、やっぱり夢だったのかなぁ。」
「何?」
「何でもない。」
握飯を頬張りながら、康弘の入れてくれた茶を飲む。
「あんた、お茶入れたりできるんだ。」
「当たり前だよな。」
「何もしない人かと思ってた。」
「そりゃ、人間の見方が甘いな。昨日、俺が来た時は、彼が黙って雑草抜きしてた。だからだよ、フジコが戻ってきた時、俺が境内を箒ではいてたの。」
「あんた、いい奴なんだ、全然喋んないけど。」
フジコの言葉を康弘は体で拒絶した。
踏み込まれたくない奴なんだなと、フジコは考えた。
「フジコちゃんは、今日もまたミュージックホールか。」
「うん。明日だもん、女将さんの前でやるの。」
「俺も立ち会えって言われてるんだ。」
「ええ?和尚さんも。よろしくお願いいたします。」
「俺もいいかな。」
と、秀。
「うん、秀も応援してくれるんだ。いいでしょ、和尚さん。」
「女将に頼んでやらぁ。」
「あんたは?」
「俺は、いい。」
康弘がボソリと言う。
「じゃぁ、ここで祈ってて、上手く行くように。」
「何をするんですか、あの人。」
フジコがミュージックホールに出かけて随分たってから、ボソリと康弘が秀に尋ねた。
「言ってなかったっけ。その、なんだ、お座敷芸なんだけどな。お座敷に人を集めて、人ってのは主に男なんだけど、その人達の前で男女の絡みを見せるんだよ。」
「秀さんと?」
「俺は、やらねぇよ。清さんって人とやるんだ。」
「男女の絡みって、つまりセックスって事でしょ。」
「まぁ、そうとも言う。」
「フジコさんって、秀さんの彼女じゃないんですか。」
「そうだよ。」
「嫌じゃないんですか?余計なお世話かもしれないけど、秀さん以外の人とセックスするわけでしょ。」
「そりゃ諸手を上げて賛成ってわけにはいかないよな。」
「じゃぁ止めればいいじゃないですか。」
「止めて止まるような女じゃない。」
「俺なら別れちまうな、そんな女。」
「ああ、確かにそう言う選択肢もあるなぁ。でもな、フジコはフジコで必死なんだ。必死で自分を見つけようとしている。今まで随分苦労してきてね、その中で失われちまったものを探してるんだよ。俺は、そういうフジコが好きなんだ。守ってやりたいと思ってるんだよ。」
「分からない。」
「うん。分かれと言う方が難しいから、分かろうとしてくれなくていいよ。俺の救いは、相方の清さんが信用できるいい人だって事だな。」
康弘はますます混乱していく。そう言う時の彼の処世術は無視する事だった。
今回もそうする事にした。

早めにミュージックホールに行ったが、健ちゃんはもう起きてステージの上の卓袱台で何やら書き物をしている。
「早いわね。ちょっと、その辺で柔軟体操でもしててよ。すぐにこれ終えるから。」
「何それ?」
「あなたの表現能力を引き出すためのレッスンプログラム。」
「今日の?」
「今日だけじゃなくて、しばらく続けなさいよ。一回で終わらせちゃうわけじゃないんでしょ。」
「勿論。」
「だったら、表現の方法を色々探究してみるのもいいわよ。」
「そのためのプログラムなんだ。」
「ただねぇ、本来フジコちゃんがやらねばならないのは、四十八手でしょ。相方無しでそれをどう練習するか。昨日手渡したノート、少しくらい見てくれた?」
「それが、まだ、エヘヘ。」
「千願寺に宿泊してたんじゃあ、仕方ないか。」
「柔軟やりながら目を通します。」
「うん、あと二十分ばかし、適当にやってて。」
フジコは、椅子の上に脱ぎっぱなしの昨日のジャージを手にとって匂いをかいで見る。
「これ、また借りるね。」
「新しいのが奥にあるわよ。」
「臭くないから、これでいいよ。」
そう言って下だけジャージに履き替えると、床に座って背中を伸ばしながら大学ノートを広げる。
大学ノートは、毎ページ汚い平仮名と線画でびっしり埋められている。
ページの一番上の行に「いわしみず」だの「うきばし」だの基本となる体位、次の行には「いわしみずからしぐれちゃうすへ」などと移動していく体位の名前が書かれ、そのページには一行目に書かれた体位から次の体位への移動の様子が何段階かの線画で図示されている。図と図の間の余白には、「もっときもちよさそうに」とか「てをそえる」とか、添え書きや矢印がところ狭しと書き込まれていた。
擦り消えた部分や消し損ねた部分もあって、とにかく見難い。
「それ全部和江さんが書いたものなのよ。あの子、平仮名しか書けないし書くの遅いんであたしが手伝ってやろうとしたら、自分で書かないと身につかないって、頑固に拒絶するの。でも、二人で色々と考えた挙句の結晶よ、それ。」
「すごい。」
「ちょっと待ってて。」
そう言って健ちゃんはステージの裏に回って、しばらくごそごそしていた。
「あったあった。これよ。よかった鼠にも齧られてない。」
健ちゃんの手には木でできた小さな人形が二体握られている。
顔も体ものっぺら坊のツルッとした奴。手垢で随分と薄汚れてはいる。
「これね、ほら、関節を動かせるのよ。」
「健ちゃん、何それ?」
「和江さん、これを絡ませながら研究してたわ。」
「何でそんな物持ってるの?」
「こう見えても美大生崩れですからね。昔使ってたデッサン用の人形よ。」
確かに、人形に線画のとおりの格好をさせ二体を組み合わせると、より具体的に動きが見えてくる。
ステージの上で人形を絡ませながら、大学ノートに絵を書き、下手くそな文字を一生懸命書き込んでいる和江の姿がフジコの脳裏に浮かぶ。
人形を目の前に置きノートに書き込まれた線画通りに組み合わせ、女の側の格好を取ってみる。今度は逆に男の側の格好をしてみる。
「さて、できたわ。」
と、健ちゃんが裏の白い新聞広告の束を手に、フジコにおいでおいでをする。
「いい、ちょっと説明するからね。」
そう前置きして、健ちゃんが説明を始める。
それは、健ちゃんがフジコのために時間をかけて考えてくれた一連の見せ方のレッスンプログラムだった。何枚かの新聞広告の裏側にびっしりと絵と文字が書き込まれている。
「ポイントは体の見せ場での止めと視線の流し方。それと、次の見せ場へのスムーズな移動よ。あたしは四十八手は教えて上げられないけど、そのベースになる見せ方の技術くらいは教えて上げられる。後は、自分で体得して。まぁ、とにかく始めましょう。」
そう言って卓袱台を片付け音響室に入り、シャンソンを流す。
「さぁ、歩いて。」
その日午前中いっぱい、シャンソンと健ちゃんの手拍子にのってステージの上をグルグルとまわった。
それからカップヌードルを食べ、午後からは寝技の練習。
ジャージから薄桃色のネグリジェに着替え、音楽もシャンソンからムード音楽に変えた。
「もっと太ももをみせるのよ」とか、「顎を上げるの、それだと顔が見えないでしょ。」とか、健ちゃんの駄目出しに答えながら、しばらくステージの上をグルグルと転がる。
それから健ちゃんの考えたストーリーと振り付けでステージ上を動く。
「いい、日舞の要素も取り込むのよ。きっと役に立つから。」
結局それはストリップの練習だった。
「ああ、あたしの役目はここまでね。でも、基本ではあると思うのよ。和江さんも何度かここに来て、ストリッパー達と練習してたから。」
「そうなんだ。」
受身としてしか見えなかった和江が、そうではなく、できれば自己表現の追及をのぞむ能動的な女として見えてくる。
「さて、あたしの考案したレッスンはここまで。少しは役に立ったかしら。」
「たぶんね。何にも、基本すらも無かったんで、他人に自分を見せるって事については少なくとも分かったような気がする。健ちゃん、僕、もう少しここにいていい?このノートと人形を貸しといてくれる?」
それからお腹がすくのも忘れて和江の残したノートに取り付く。
人形をノートの通りに動かし、絡ませ、自分も同じ格好をしてみる。
それを、帰りの遅いのを心配した秀が迎えに来るまで何度も繰り返した。
時折、健ちゃんがアドバイスしてくれる。それがとてもありがたかった。
しかし、そうしてのめり込めば込むほどに欲求不満がたまっていく。
目の前に、和江や清治のいない苛立ち。
ノートと一緒に人形も借り、秀のトラックに乗り込む。もうとっぷりと日が暮れている。
トラックが千願寺の門の前まできた時、
「ねぇ、秀。僕を清さんのアパートまで連れて行ってくれる?」
フジコが秀を見ずに言う。
秀は、その思い詰めた表情で、フジコが何を考えているのかが読めた。
「フジコ、それって。」
「お願い。秀。」
「そうか。言い出したらきかねぇからなぁ。仕様がねぇ。」
「ごめんね。」
「いいって事よ。納得いくように、後悔しねぇようにやるのが一番だよ。フジコを置いたら、俺は帰るぜ。明日の朝、迎えに来てやらぁ。」
「恩にきるよ。」
清治はまだ帰っていなかったが、部屋に鍵はかかっていず、フジコは勝手に上がりこんで電気をつける。
ミュージックホールから借り出した衣装に着替える。白い長襦袢だ。
そうして、部屋の真中で和江の残した大学ノートを開き、見入った。
おそらく和江もこの部屋で、一心に大学ノートを完成させようとしたのに違いない。
また、何度もノートに見入り、自分の芸を完成させようとしたに違いない。
だからフジコも、一心に見入った。そうすることで和江と一体になれるかのように。
フジコは、そのように清治の帰りを待った。

「清さん、もう上がりだろう。」
徳にそう言われて時計を見る。
十一時半を過ぎていた。
「いいよ、大浴場、十二時までだろ。その後片付けるの手伝ってやるよ。」
清治が答える。
明日、女将達の前でフジコと絡まねばならない。だからと言うわけでは無いが、どうにも夫婦寮に帰る気がしない。
それは、昨夜からずっと続いている体の火照りのせいだと、清治自身気がついている。
本当にフジコと絡まなければならなくなって以来だ。鼻の奥が何やら生臭い。血の匂いに似たものがこびり付いている。その匂いが、清治の体に微かな変化をもたらしている。
どうにもじっとしていられない。初めて女郎屋に連れて行ってもらう時のように、何とも落ち着かない。
夕方休憩中に厨房の椅子でうたた寝をしていて和江の夢を見たが、その夢がさらに清治を落ち着かなく、イライラさせる。
清治が、和江に四十八手の手解きを受けている夢だった。
清治のアルバイトだけでは二人食べていくにはきつく、お座敷を始める事を決めた頃だ。
「感じたらあかんよ、清さん。感じるふりせなあかんよ。」
和江が言う。
「静かにうちを抱いて、裸にしてちょうだい。」
最初は、和江の言う通りにはなかなかできなかった。
一番困ったのは、自分の肉体の制御だった。勃起すらしない。
ようやく勃起しても、色々な体位を練習するうちに力なく萎れてしまう。あるいは、早々と果ててしまう。
「ごめん、和江。やっぱり駄目だよ。」
「駄目な事あらへんよ。清さん、ようやっとる。慣れたら大丈夫や。焦らんでええから。少しづつ自分で自由にできるようにするんよ。」
和江の体は清治の腕の中で信じられないくらいに柔らかく、しなやかに曲がった。
それから何ヶ月かろくに食事も取れなかったが、懸命に練習した甲斐あって清治は自分の体を自由にコントロールできるようになっていた。
ほとんど外にも出ていないので二人は日焼けもせずに真っ白な体で、痩せ細り、伸び放題の髪の毛と髭の間で目だけが妖しく輝いていた。
その状態で、初めてお客の前に出る。
清治の前の相方の大前市太郎のように事前にその日に見せる四十八手の順番を打ち合わせるのではなく、その時の清治の動き、あるいは和江の動きを互いに察してそれに合わせようと決めた。さらに、一つ一つの体位を説明するのではなく最初から最後まで体位を連続的に、かつ、獣のような交わりとして見せようと心がけた。
それが受けた。
二人は、お客の前で、互いの吐息すらも絡みつかせるように交わった。
清治のほとんど崩さない表情の中から時折洩れ出る溜息とも気合ともつかない声や、和江の快感に流されないようにじっと耐えている表情と、それが僅かに崩れる瞬間の声が、計算されたものであるにもかかわらず、お客はそれと気付かず、二人の姿態に惹きつけられた。
その時と今とでは清治の体の生理そのものが違う。その時は、研ぎ澄まされた感覚が清治の下腹部には宿っていた。それが、清治の体をコントロールしていた。長くお座敷から離れているうちに、当然の事ながらその感覚は失われていく。調度、ナイフが赤さび、ぼろぼろと崩れ、風化していくようにだ。
が、フジコと絡むという事が現実のものとなった時に、再びかつての感覚が蘇り始めた。それが、清治をして落ち着かなくさせている。
赤錆の下から、かつて砥がれた事のある感覚が現れ出でようとしている。
落ち着かない気分も、和江から四十八手の指南を受ける夢も、そんな体の変化がもたらしたものだった。
「風呂掃除終わったら、一杯おごるぜ徳さん。」
「お、そうかい、うれしいねって言いたいところだけど、ごめん、このところ体の調子が思わしくねぇんだ。」
「どうしたい。」
「年も年だかんな。いろいろとガタが来始めてるんだろう。」
「そりゃ、大事にしないとな。」
「ありがとよ。でも、まぁ、そう言うわけだ。せっかく言って貰ってるのにな。」
「いいって事よ。体の調子が戻ったら、いつでもおごるぜ。」
丸屋旅館の橋を渡ったところで徳と別れ夫婦寮に戻る道々、
「俺は何をやってんだろう。」
と、自問する。
フジコと言う小娘に振り回され、そこから波紋のように派生した平林や女将の思惑に流され様としている。それを激しく拒絶するどころか、何だか小便臭い高校生みたいに自分では抑制できない気分の変化に戸惑っている。
「情けないこった。」
見上げると、月明かりの空に木々が黒々と枝を伸ばしている。それが微かに揺れている。
時折リスか何かが走るのだろうか、枝の折れる音、下草の揺れる音がする。
「清さん、ええんよ、それで。」
そんな声が耳の奥で聞こえた。
「和江。」
昔のように、和江がすぐ隣を歩いているように感じる。
夜風の中で和江の体温が伝わって来るようだ。
昔は、二人肩を並べて夜道を歩いた。部屋に戻ると、服を着替えるのももどかしく、蒲団に潜り込み、互いの体温を感じながら抱き合うようにして寝たものだ。
「うち、清さんの温かさが好きや。」
和江は、よくそう言ってくれた。
「はよ帰って寝よ。」
「そうだな、和江。」
夫婦寮の玄関を入ると、清治は自分の部屋に灯りがついているのに気がついた。
「消し忘れたのか。」
清治は、頭をかきながらドアを開け、部屋にあがろうとし、そのまま固まってしまう。
部屋の真中に白い長襦袢を着た女が待ちくたびれて寝むりこけている。
我が目を疑ったのは、それが和江に見えたからだが、清治の気配を感じて起き上がった女を見て少し苦笑いをした後、
「フジコ、何やってんだ、こんな所で。」
「清さんが帰って来るのを待ってたんだよ。でも、いつの間にか寝ちまってた。」
「そうか、秀は。」
「千願寺だよ。」
「そうか。すぐに迎えに来るように連絡してやろう。」
「清さん、秀に連絡なんかしなくていいよ。」
「しかしなぁ、こんな夜中に嫁入り前の娘が男のわび住いに押しかけるのもちょっと、どうかと。」
「清さん、僕、本気だよ。」
「そうか。そうだな。でも、その話は明日しよう。」
「清さん、あんた、ずるいよ。自分だけ聖人君主みたいな顔して、自分だけが苦しみを背負い込んでるんだみたいな事、本気で思ってるの? ねぇ、何かを得ようと思うと、何かと別離しないといけない。それは、その事は、誰であっても苦しい事なんだよ。僕だって苦しいんだ。清さん一人が苦しいわけじゃないんだ。僕だって生きていくために僕なりに努力して苦しんでる。でも、その苦しみを清さんのせいにしようなんて、僕、これっぽっちも考えちゃいないよ。清さんと一緒に、清さんをパートナーとして次にあるものを見つけたいんだよ。当たって砕けろだよ、清さん。清さんの中にあるものを僕に教えてよ。」
「しかしなぁ、フジコ。そう簡単に言うけどなぁ。」
「清さん、これ何か知ってる?」
そう言って大学ノートを見せる。
「何だこれは。」
ペラペラと大学ノートを広げて、その手が止まる。
「わかる?清さん。」
「これって、もしかして。」
「わかった?」
「和江のか?」
「こんなノートがあったんだよ。」
「どこで、これを?」
「隣町のミュージックホール。」
「何で、そんなところに。」
「和江さん、自分の表現能力を何とか高めようと、たまに顔を出してたみたい。」
「平林の親分から紹介されてたのは知ってたけれど。一、二度程度の事だと思ってた。」
「健ちゃんに相談しながら、このノートを作ってたんだよ。」
「それでか、俺がリードされる事が多かったのは。」
「そうだよ。清さんの知らないところで、和江さんは随分と努力を重ねていたんだ。何故だと思う?」
「分からない。」
「清さんをパートナーとして、自分達の芸を高めていくのは当然で、それよりももっと高いところを求めてたんだと思うよ。」
それは、フジコ自身の意見ではなかった。健ちゃんの受け売りだったが、フジコだってそうするだろうと思う。パートナーは、個々に努力を積み重ね、その重ねた物を互いに持ち寄り切磋する。それでこそ二人寄り添って、二人以上の力が出せるんだ。
「もっと高いところ?」
「そうだよ、お互い一度の人生をかけてんだもん。」
しばらく清治はうつむいて考えていたが、
「分かったよ、フジコ。」
「分かってくれた?」
「準備をしよう。ちょっと待っててくれ。」
清治は共同炊事場まで行き、そこで素っ裸になる。
こんな夜中に誰か起きてくる者もいない。清治はタオルを濡らすと、体の隅々まで良く拭き始めた。
和江、今日お前の見せてくれた夢はこの事だったのかと、心の中で問う。
裸のままで部屋に戻ると、フジコに手伝わせて薄手の浴衣を着付ける。
そして、薄い敷布団を一枚。その上に二人正座する。
「いいか、お客はこうして敷布団の上に二人お辞儀したままで迎えるんだ。始まりは、こうだ。まず、お客にお辞儀して、本日はようこそいらっしゃいました。只今より、四十八手の奥義をご披露させていただきます。どなた様もごゆるりとご堪能ください。」
そうして、フジコを横たえる。
「獣のような交わりをお見せしようと、和江とは決めていた。一応基本の形と流れはあるが、その時の気分で形を変えていた。フジコも今までに色んなセックスをしてきただろ。それを思い浮かべて、体で再現するんだ。ただし、再現するだけだとポルノ映画の方が数段上だ。交わりを見せるだけなら外国のブルーフィルムで事足りる。お客は、それ以上の物を求めてきてるんだ。何だと思う。難しい言葉でいうと、お座敷でしか味わえないエロスの極致って奴だな。それは、つまり、形式美って奴と似ている。」
「ちょっと清さん。」
「うん?」
「説明だけで世が明けちゃうよ。」
「そうか、そうだな。まずは、手順通りにやるから。」
そう言うと、清治は戸惑いながらフジコの乳房に手を伸ばす。
和江のとは違う弾力が伝わってくる。和江の乳房は、小振りで固めだったが、フジコのは若さで清治の手のひらを押し返してくる。乳房の上を形なりに手を沿わせる。そのまま、フジコの体を襦袢の上から愛撫する。薄い生地を通して滑らかな皮膚を感じる。そして、その下に、弾けるような肉体があった。
フジコの側は、まるでマッサージしてもらっているような気になる。
「どうだ?」
「うーん、気持いい。」
「おい、そうじゃなくて、俺達はセックスを始めるんだから、もう少し違う反応をしてくれよ。」
「おっと、こりゃ失礼。」
「目を薄く閉じて、時々眉間に皺を寄せて、やや口を開き気味にするんだ。そうそう、本当はもっと感情を入れて欲しいんだが、まぁ、初めてだからよしとしよう。次に、俺の腕を持って上体を起こす。そうしたら、俺が後ろに回る。」
清治は背後からフジコの上体を支え、胸元から手を入れてフジコの乳房をもみしだく。もみしだきながらフジコの襦袢を肩から脱がせていく。フジコの上体が清治に合わせて動く。フジコの肉付きのいい肩が現れ、張り詰めた乳房が現れる。そして、良く締まった腹部、縦横に跳ね上がった活きのいい艶やかな恥毛がむき出される。
若さが重層的に醸し出す造形美に清治はしばし見とれて手を止める。
確かに、フジコの体をベースに形を作っていけば、いい見世物が出来上がるかもしれない。
清治は、その体に唇を軽く這わせる。フジコは目を閉じ集中しながら清治の動きについていく。その表情は、しかし、とてもお客に見せられたものじゃない。
「薄く目を開け、フジコ。そうそう、顎を突き出して。」
清治の頭が白い体の上を何度か往復するうちに、フジコの表情も柔らかくなっていく。
「そうそう、なかなかいい。」
清治の手や唇の動きに合わせて、フジコも徐々に雰囲気に入っていく。
しかし、清治の時折の段取りを説明する声に正気に戻る。
その事にあからさまに不快な表情をするのを清治は見て取って、
「俺達がやらなければならないのは、確かに物理的にはセックスだが、その実、擬似セックスだ。演じている二人は、雰囲気を醸し出さなければならないが、決してのめり込む事があってはならないんだ。常に頭の中に醒めた自分を作っておいて、お客の反応や相方の反応に気を配る。そして、次の段取りを組み上げるんだ。しかし、お客には本当にセックスしているように見えないといけない。できるか?」
「やるよ。」
清治の目つきが変わりつつある。かつて和江とコンビを組んで四十八手を見せていた頃に近付きつつあったが、清治本人はその事に気がついていない。
「いいか、見てろ。」
フジコの前に仁王立ちになって、しばらく気を集中させると、やがて清治の一物に血が通い大きく膨れ上がる。もう一度気を集めると、今度はそれがたちまち萎びていく。
「すげぇ。」
「この程度の事ならば、まだできるようだ。」
「すごいよ、清さん。」
「つまんない芸だよ。これに茶瓶をぶら下げて上げ下げできる芸人が昔いたと聞いた事がある。」
「女にも芸があるの?」
「お金を下でくわえ込んで一枚づつ落としていくのや、バナナを器用に剥き出せるのや、書道ってのもあった。そう言った芸は花電車と呼ばれていた。」
「まだいるのかなぁ、そんな芸を見せてる人。」
「おおかた引退したろう。探せば、一人くらいは見つかるかも知れない。さて、フジコも俺も素っ裸になったところで、いよいよ四十八手の第一段だな。心の準備はできてるか。」
「あたぼうよ。」
「もう今さら言わなくてもいいな。俺達の芸のベースは段取りだが、いかに段取り通りに、段取りらしくなく見せることができるか。また、それ以上の感動をお客の中に残せるかが勝負だ。気を抜くな。」
「合点。」
「おっと、その前に、これ。」
「何?」
白い小さな壜で、昼間、平林が清治に放り投げて寄越した物だった。
「清の字、これあの子に渡してやってくれ。」
「何だこれ。」
「うちの島で働いてる子に譲ってもらった。あれだ、水商売の必需品だよ。これをあそこに塗るといい。」
「俺のか?」
「馬鹿野郎。」
客を取っている女の子が愛液の代用品として使っているものだった。
「いらないよ、僕は。」
「これ使わないと擦り切れて痛いぞ。」
「できるんだよ、別に感じて無くても濡らす事できるんだ。」
「そんな芸を持ってたのか。」
「生きてく上で身に付けた特技だな。嫌な奴とやらねばならない時もあったから。今までに数少ない幸せだった時の事を考えると、じわっとくるんだ。」
「俺も嫌な奴の一人か。」
「おいおい、仕事しようぜ。」
「よし、じゃあまずは第一手岩清水からな、始めるぞ。」
清治は、第一から順番に形を教えていく。フジコは、ためらいながらも必死でついていく。何度かやって形を覚える。
「俺の肩に足をかけて。そうだ。」
教えながら、自分が和江からはじめて手解きを受けた時の事を思い出す。
あの時は必死だったが、冷静に見るとおかしなもんだ。
男と女が足を絡ませ、開き、性器を露出し、入れたり抜いたりかき回したりして、必死に組体操をしている。しかも、そこには快感が入り込む余地も無い。神様が見れば、俺は人間の性器をこんな事のために作ったんじゃないぞと嘆くだろう。地に満てよとこしらえ、その手助けのために快感を与えた筈だ。
それをまるで見世物のように、いや、見世物として使用する準備を始めているのだ。
これは堕落なのか、進化なのか。
時代をはるかに遡れば、天の岩戸の前でも、女性が性器を見せながら踊ったと言う。って事は、その頃から何一つ変わっちゃいないのだろう。神を模倣して作られたのが人間ならば、神を真似て性器や性行為を見世物にできるのも人間に与えられた特権なのかも知れない。
最後まで教え終わると、今度は幾つかの形を組み合わせて一連の動作にする。
「試しにやってみよう。この足を、こう振りほどいて。駄目だ駄目だ、淀み無くやらなきゃ。左手で体を支えるんだ。」
「なるほど、こりゃ重労働だな。」
「しなやかに動けるところまでは程遠いな。とりあえず、明日は動きやすい形ばかりを組み合わせよう。」
二人が試行錯誤を終えて、一段落つくともう夜が明けかけていた。
「和江さんは偉いや。」
朝方の冷え冷えとした空気の中で、清治と一枚のタオルケットに包まりながらフジコが言う。
「体中が筋肉痛だ。こんなに大変だとは思いもよらなかったよ。」
「そりゃ、始めたばかりだからだろ。慣れれば、何てことも無くなるよ。」
「清さん、知らないんだ。和江さんが、どれだけ陰で努力してたか。あの大学ノートだって、和江さんが作り上げたんだよ、清さんの知らないところで。」
「そうだな、確かにあいつは努力家だった。和江がいなけりゃ、俺、今ごろどうなってただろう。」
そう言いながら、清治はもう寝息を立て始める
「全く、自分だけ聖人面しやがって。」
フジコは清治の一物を思いっきり握り上げた。

それからフジコは、一時間ばかしうつらうつらしただろうか。
夢とも現ともつかない中で、和江の声を聞く。
「フジコちゃん、まだ感じたらあかんよ。」
フジコの体を愛撫する和江の手の動きを感じたように思えるのは、先ほどまで清治に体中を撫で擦られた名残があり、錯覚を起こしたからだろうか。
和江の体温や吐息すらも感じる。
和江の体がひたと寄り添い、フジコの足に自分の足を絡めてくる。それだけで、フジコは声が洩れる程に感じた。和江の手が、フジコの乳房を揉みしだき、腹部を這い、下腹部で静かに揺らめき始める。
そうすると、そこから体全体に快感がひらひらと舞い散っていくのだ。
その繰り返しの中で、フジコは濡れそぼり登りつめ、はてた。
我に返り、まだ荒い息の中で清治を見る。清治は昨夜の疲れからだろう、何一つ気付かずに眠りこけている。
フジコは、タオルケットからそっと体を抜く。白く伸びた肢体が薄暗い部屋の中にすっくりと立つ。
そのまま衣服を着け、夫婦寮を抜け出る。
まだ朝の七時をまわっていなかったが、いくら山間部でももうすかり明るい。
ちょうどやって来た列車で隣町まで乗り、千願寺に戻ると本堂で丸くなって寝ている秀の毛布に潜り込み、そのまま前後不覚に寝入ってしまった。

清治は昼前に目覚めると、いつものように部屋の掃除をし、丸屋旅館に向かう。
のそりと現れた清治を見て、安田が、
「あれ、清さん、今日はシフトに入って無かったよ。休みなんじゃないのか。」
「そうかい。そりゃ弱った。体動かしてないと落ち着かないんだよ。ただ働きでもいいぜ。手の足りてねぇ仕事ねぇかなぁ。」
「って、いきなり言われてもなぁ。」
そこへ徳が現れる。
「おい、安田さん、チビが無断で休んでるもんで、厨房が大変だ。」
「チビが?珍しく病気かなぁ。」
「いや、どうもアパートは出てるらしいんだよ。連絡が取れねぇんだよ。」
「臨時で俺、入ってやろうか。」
「そりゃ助かるよ。」
「三時までなら手伝えるぜ。」
「充分だよ。願ったりだよ。」
厨房は、確かにチビが一人いないだけで、洗いかけの皿の山がいくつもできていた。
源の言う通りの材料を保管場所から出してきて、指定された通りに包丁で切っていくのがチビの仕事だったが、それを徳が皿洗いを兼ねてやっているがための惨状だった。
「俺が皿、片付けてやらぁ。」
「恩にきるよ、清さん。」
それから清治は、三時前まで無心に皿を洗い続ける。

フジコは、やはり昼前に目覚めると、秀と康弘が千願寺の境内や本堂の掃除をするのに交じった。
秀は、フジコに箒を手渡しただけで何も言わない。
朝、目覚めた時に隣にフジコが寝ていたので驚いたが、その疲れ切った体を黙って抱きしめた。
フジコが目覚めてからも何も言わないのは、フジコの表情が既にある事に集中し、心ここにあらずだったからだ。秀は、フジコのそう言う表情の時を何度か見ている。思い切り大袈裟に言えば、リングに上がる前のボクサーみたいなものだ。これから始まる事にしか意識が無い。そう言うフジコの表情を、秀は嫌いではなかった。
境内の掃除が終わると、フジコは和江の墓前の石に腰掛け、頭の中で、昨日の清治との練習をさらっていた。大学ノートは清治の所に忘れてきたらしい。
季節はもう夏に入っている。が、それにしては涼しい、秋晴れの日のような午後だった。
「今年は空梅雨だったね。」
フジコが和江の墓に語りかけた。
「自信ないけど、今日、頑張るよ。」
風がそよぐ。
「でも、和江さんって、何故死んじゃったのかなぁ。随分と頑張って、人生にチャレンジしてたじゃないか。」
和江の墓石につっと停まったのはトンボ。お歯黒トンボだ。
「チャレンジの先に見つけたものが自殺だったの?僕は、何を見つけるんだろうね。」
トンボが首をかしげる。その様子が、「さて、何を見つけるんやろね」と、和江が首をかしげているように見え、フジコはクスッと笑う。
「そろそろ行くね。」
「フジコちゃん、頑張ってな。」
そう言いたげにトンボが飛び立ち、フジコの前を横切っていく。

清治は三時過ぎに厨房を出た。
「助かったよ、清さん。」
そう言う徳の声に送られて、旅館の赤い橋を渡る途中にスエコとすれ違う。
「七時からよ、清さん。」
「ええ、分かってますよ。ちょっと、和江の墓参りしてきます。」
「遅れないでね、時間に。」
「勿論。」
スエコと別れ、橋を渡りきったところで矢島が追いかけてきた。
「清さん、俺も行くよ。」
「いいよ、一人で行きたいんだ。」
「しかし。」
「大丈夫だよ。千願寺には住職もいるし。」
「そうかい、清さん、くれぐれも気をつけてくれよ。」
「わかったよ。そうだ、これ、ちょっとの間預かっといてくれないか。邪魔になるようならフロントに渡しておいてくれてもいい。」
そう言いながらフジコが忘れて行った大学ノートを差し出す。
「清さん、これって。」
「違うよ。昨日遊びにきた客人が忘れて行ったんだよ。」
「何だ、そうか。いいよ、預かっとくよ。」
「頼んだぜ。」
その様子を物陰から見ていた男がいる。立居が送り込んだ豊田だった。
清治から預かったノートを抱え、橋を旅館側に戻ったところで矢島が振り返ると、足早の清治はとっくに茂みの向こうに回り込む大きな曲がり角を曲がっており、豊田がゆっくりとした足取りで清治の後を追い、まさに曲がろうとしているところだった。
一瞬、矢島の胸中に嫌な思いが走る。
が、豊田の鷹揚な素振りに不振なところは見えなかったので、特に気にはかけなかった。

フジコは、丸屋旅館の露天風呂にいた。
午後四時過ぎの明るすぎる露天風呂の湯気に自分の裸身をおしげもなくさらして、川のせせらぎを聞いている。
早くに丸屋旅館に着きすぎてしまった。
スエコが見つけて、
「あら、清さん、さっき墓参りに行くって出てったわよ。」
と声をかける。
「本当ですか?姿見なかったなぁ。どこですれ違ったんだろ。」
「六時には戻ってくると思うけど。清さん、時間には正確だから。」
じゃぁという事で、フロントの前の喫茶コーナーで煙草を吸っている所へ、再びスエコが現れた。
「まだまだ時間があるから、お風呂にでも入ってらっしゃいよ。これ、うちの大浴場の入浴券。」
「あ、かたじけないです。」
「露天風呂もあるから、体冷やしながらゆっくり浸かるといいわ。逆上せないようにね。」
大浴場の湯はフジコには熱すぎた。これでは、すぐに逆上せてしまうと、露天風呂に移動する。
大浴場にも露天風呂にも、まだ客の姿は無い。
週末近くなら、早めに旅館に到着した宿泊客が一番風呂目指す姿もあるのだろうが、平日だと、宿泊客すら覚束無い事もある。田舎の小さな無名の温泉には人は集まらないのだ。
そこに四十八手の見世物を呼び水にして人を呼んでこようと言う。平林始めとして、千願寺の住職やスエコ達が清治とフジコの見世物に少しばかり期待をかけているのには、こういう事情があった。
まだ清治達の耳には入っていないが、丸屋旅館で試しに興行して上手く行けば笠野形の他の旅館に清治達が派遣される話も、笠野形旅館組合の面々の間には、平林の音頭取りで出来上がっている。
だから、明日の本興行日には、狭い座敷に各旅館の集めた馴染みが四十人ばかり集まる事になっていたが、これも清治達には連絡されていない。
フジコは、まだ筋肉痛の残る二の腕や脹脛をゆっくりと揉む。
「まったく清の字は。」
と、平林の真似をしてフジコがぼやく。
「こんな事ならもっと早くから練習しとくんだった。」
清治と実際に絡んでみるまでは、漠然とした不安が澱のように心の奥底に沈んでいただけだったが、絡んだ後ではその不安がより具体化する。
それは、より素晴らしい絡みを見せたい、見る人を官能の世界に引きずり込みたいと言うふつふつと湧き上がる闘志に裏打ちされ、フジコの鼻の奥にツーンとした血の匂いを呼び覚ます。その匂いが、フジコの体を締め上げる。背筋が伸びる。肌がキュッと収縮しながら呼吸する。その肌が、ぬめりを含んだ湯を弾き飛ばし、フジコの全体の輪郭を常よりも輝かせている事をフジコ自身は気がつかない。
その時、フジコはフジコ自身が自覚する以上に女であった。
しかしフジコは、自分の事を意識するより清治や秀の事を考えている。
「自分一人聖人面するんだから。」
そういう清治が好きなんだろうなと思った。それは、秀には無い幼児性だ。清治は、必要以上に人に踏み込み人を傷つける事、人から踏み込まれ傷つけられる事を小さな子供のように恐れている。だから、常に距離をとろうとする。
対して、秀。秀は、全て分かった上でフジコに合わせてくれている。フジコを静かに抱き込んでくれる。それはそれで頼りがいがあって好きだ。両方好きだ。
「僕って、贅沢な女なんだな。」
今まで、結構苦労したけど、それらは全て清さんと秀に出会うためにあったのかも知れない。そう考えると、運命と言うものに感謝したくなる。
「これからどんな事が起こるか分からないけれど、今を忘れずに前向きに行こう。いや、今までだって僕はいつも前向きだったな。もっともっと前向きにチャレンジしていこう。」
フジコがそんな風に風呂の縁に座って考えている時、隣の男風呂がいきなり賑やかになる。
二、三人、入ってきたようだった。そちらに注意が行って、フジコの思考は止められる。
野太い聞き覚えのある声だ。
「だからよぉ」
と、一人がそれまでの冗談口調と打って変わって、真剣に話し始める。
「俺は、清の字達を応援したいんだよ。」
平林だった。
「おう、何度も言わなくても分かってるよ、それは。」
もう一人は、千願寺の住職だ。
「奴らが、きっと客を呼び寄せてくれると思うんだよ。」
「今の時代は、そんなに甘くねぇぞ、しかし。」
「そうだな。そんなに甘くねぇ。」
「うまくいきそうだったら、大衆紙に声かけて記事にしてもらうってのもいいな。」
「深夜番組なんかにも取材させてな。」
「そういや、女将の知り合いの知り合いに深夜番組受け持ちのプロデューサーがいたよな。」
「そうだ、そうだ。以前も取材に来るって時に和ちゃんが死んじゃったんだよ。」
フジコは、しばらく二人の会話を聞いていたが、いきなり川にジャブジャブと入り込み、浅瀬伝いに男風呂に姿を現した。
平林も住職も一瞬あっけに取られる。
川から素っ裸の女が現れたのだ。
やがて住職が我に帰って
「おい、狐じゃねぇだろうな。尻から尻尾でもはえてねぇか。」
「フジコちゃんじゃないか。」
「ちゃす。」
「本物か?」
「尻尾なんかはやしてないよ。」
「びっくりするじゃねぇか。」
「向こうに一人で入ってたら親分や和尚さんの声が聞こえたんで、こっちに来ちゃった。」
「そりゃぁ、いいや。」
「いいけど、状況を理解してるのか?」
「まぁ、いいじゃねぇか、ヤクザの癖に堅い事言うなよ。」
と、住職。
「ヤクザじゃねぇ。」
「裸の付き合いってやつだ。な、フジコちゃん。」
「そうそう。」
「しかし、なかなか綺麗な体してるじゃねぇか。」
「ごっつぁんです。」
「そりゃぁ、こっちの台詞だ。なぁ。」
「おい、そりゃいいけど、元気になったブツをこっちに見せびらかすな。」
と、千林が住職の股間をちらりと見ながら言う。
「うらやましいか。こんなシチュエーションで元気にならねぇ奴の気が知れねぇ。」
「うるせぇ。」
「親分、病気なんだ。」
「悪い遊びをし過ぎた報いだよ。」
「それなら糞坊主だって、そうじゃねぇか。」
「俺のは、毎回成仏してるから、いい遊びなんだよ。」
「ほざくな。フジコちゃん、こいつはな、坊主の癖に女遊びがすごいんだぜ。」
「一昨日の呉服屋の後家さん以外に?」
「呉服屋のって。お前、できてんのか?キミコさんと。」
「おいおい、フジコちゃん、変な事言わないでくれよ。晩飯作ってもらってるだけなんだから。」
「あれ、じゃぁ、その入れ墨は?」
「こいつか?こいつは若気の至りだよ。もう二十年も前のだ。」
「あれぇ、ひどいんだ。キミコさんを騙したんだ。可哀想。」
「全く、隅に置けねぇ生臭坊主だよなぁ。」
「おい、変な事言うから、見ろよ、萎びちまったじゃねぇか。」
「それでいいんだよ。ところで、フジコちゃん、清の字とは、どうなんだ?」
「どうって?」
「一回くらい寝たのか?」
「うん、昨日ね。」
「あいつ、もうできねぇと思ってたけど。」
「で、どうだった?良かったか?」
「何聞いてんだよ。」
「いいも、悪いも。」
と、フジコが筋肉痛をもみほぐしながら嘆息交じりに言う。
「どっちなんだ。」
「結果は、今夜ごろうじろ、だよ。」
「ちげぇねぇ。」
その時、ドアが開いて、二人組の客が入ってきた。が、裸のフジコを見て驚き、慌ててドアを閉める。
フジコとヤクザと坊主が、それを見て大笑いする。
笑い声が、温泉の湯気と共にせせらぎに揺らめいて、切り立った山襞に消えていく。
「さて、僕もうあっちに戻るよ。」
「おう、後でな。」
フジコは、また浅瀬をジャブジャブと女湯に戻っていった。
シオカラトンボが、その後を追いかける。

康弘は、千願寺の境内に一人ポツンと残されていた。
住職は平林が迎えに来て早々と出かけたし、秀は朝からそわそわと落ち着き無く、今しがたトラックに乗って出かけた。出ぎわに一緒に行くかと、もう一度声をかけてくれたが、断った。
境内の片隅で、蟻が列を作って引越しをしているらしい様をじっと見ている。
俺は何故ここに来たんだろう。と、自問する。
親父だと言う男に会うため?
しかし、探す気も起こらない。生まれてからこっち、一度もあった事の無い男だ。
是非、会いたいというわけでは無い。じゃぁ何故、はるばる来たんだ?逃亡するだけなら、こんな田舎の温泉地にまで足を延ばす必要なんて無い。
ここに来れば、もっと簡単に親父が見つかると思っていたのは、確かだ。
どうせ逃げても、早々に補導されて少年院送りだ。だったら、父親だと言う男を一発二発、殴りつけてからにしようと思った。
しかし、何のために?母親の恨みを晴らすか?
今まで自分を無視し続けた事を後悔させてやるか?
どれも理由が幼稚だと思った。
そんな幼稚な理由だと、殴りつけたこちらに後味の悪さが残るだけだ。
電車の中でサラリーマンを殴りつけた時の様に。
と、向こうから背の高い男がやって来た。
「すいません、住職いますか?」
その男が尋ねる。
「いえ、只今外出しています。」
「そうか、もう出ちゃったのか。気が早いな。君は?」
「厄介になってる者ですが。」
ぶっきらぼうに応えて、その男を睨みつける。男は、そんな事にお構いなく、
「そうか。ちょっと、墓参りさせてもらいに来ました。」
「住職いませんが。」
「いいよ、後で会う事になってるから。」
男の飄々とした物言いに康弘はいらいらする。
「誰ですか?一応、後で住職に言っておくんで。」
「ただの墓参りなのに?まぁいいや。じゃぁ、清治が来てたと伝えてもらえますか。杉田清治です。」
男は、そう言い捨てると、すたすたと行ってしまった。
杉田清治。
しばらくして、その名前と記憶が結びついた。心臓が半鐘のように鳴り始める。
あいつが、杉田清治だ。俺とお袋を捨てた男だ。
そいつに、いきなり会えるなんて。
康弘は、清治の後姿を目で追いかける。走って追いかけたいが、体が弛緩してしまったように動かない。
何故、動けないんだ。
足も、手も、力が抜けた。
汗ばかりが、だらだらと流れ出る。
こんな事は生まれて初めてだった。
気ばかり焦る。追いかけて、どうする?
殴る。殺す。
どうしよう。とりあえず、もう一度、もう一度相手の顔を見て、その後で考えよう。
そう自分をとりなす。その事に切れた。自分をそのように押さえ付ける事に慣れていない。
唾液を蟻の行列に吐きかけると、本堂に走りこんだ。

豊田は、獲物を追う。
矢島が清治から大学ノートを受け取る所を目撃する。
駅前まで清治を尾行し、電車の待ち時間で立居に連絡する、
「杉原が、例のものを矢島に手渡したぞ。大学ノートだが、それでいいんだな。」
「矢島からは、まだ連絡が無いが。」
「あいつは、見たところ杉原のシンパだ。」
「そうか。」
「あんた、矢島という男に騙されてるんだよ。」
「余計な心配はしなくていい。」
「やるぞ。」
「まだだ。矢島がこちらに連絡してくるのを待て。」
「期待薄いな。」
「いいか、勝手な真似はするなよ。」
電話は、そう言って向こうから一方的に切られた。
電車の待ち時間に清治は駅前のうどん屋に入る。
豊田も少し遅れて入り、清治の後ろに気がつかれないように腰掛けた。
亭主がビールを持ってくる。
清治の机の上に置きながら、
「いよいよ、だってね。」
と、話し掛けている。
「ああ。」
「期待してるよ。」
「あまり期待されてもなぁ。今日、おかみさんは?」
「病院。定期検診だよ。うるさいのが居なくってせいせいすらぁ。」
「とても病気には見えねぇな。」
「本当だ。清さん達のおかげで、またこの町が賑やかになるかねぇ。」
「だったらいいけど。期待はできねぇよ。」
「そう言わずに、頑張ってよ。キツネだったよね。」
「ああ。」
次に亭主は、愛想笑いを浮かべて豊田の方を向く。
「ビールをくれ。」
亭主に顔を覚えられないようにうつむきながら注文する。
「はいよ。」
亭主が、カウンターに回りこんで、うどん球を湯に放り込んでからビールの栓を抜き、豊田のテーブルにグラスと共に置く。
「今から?」
清治の隣を通る時に声をかける。
「千願寺。」
「和江さんのかい?」
「ああ。」
「和江さん、喜んでると思うよ。」
「どうだかねぇ。嫉妬してたりして。」
「いやいや、清さん。和江さんは、そんな了見の女性じゃないよ。喜んでるに決まってるって。」
豊田がビールを飲み干して、
「お愛想。」
金を支払って、先に出て行く。駅前に一台待機しているタクシーに乗り込んだ。
「変なお客だね。愛想が悪い。」
「確かに、ちょっとね。」
豊田は、タクシーで千願寺に先回りしたのだった。

村野峻は、初めて旅館の仕事を無断欠勤した。
一昨日から、いろいろな考えがグルグルと頭の中で回っている。
その中心には、あの夜の父の最後の姿があった。
自分達兄弟の無事を確かめた後で、もう一度火の手に包まれた家に入っていった、母を助けるために。
それが、父を見た最後だった。
母の最後の姿は、それより一時間ばかし前。夕食が終わり、父が洗い物をしていた。
いつもの平和な一日の終わりだった。
母は、その日は少し体調がいいようだった。
「風呂、入れようか。」
峻の問いかけに、にっこりと
「そうね。お願いしようかね。」
そう答えてくれた。
あの日、俺があのボイラーのスイッチさえ入れなければ。
それが、長年峻を苛んできた思いだった。
「君が悪いわけじゃないんだよ。」
と、あの男は言った。何て名前だったっけ。畑中?
悪い男は別にいる。製品の欠陥を知っていて、売りつけた男。
政治家と組んで、全ての罪の責任を回避した男。
その男が、何と自分の身近にいたのだ。杉田清治。
ある日、ひょっこりと厨房に顔を出した。それ以来、あの男は飄々たる顔をして旅館で働いている。
怒るべきなのだろうと、峻は思った。
何故、俺は怒れないのだろう。あの男にも、あの男の会社にも、政治家にも。
そうだ、あの男の上役とか言う男が、昔尋ねてきたな。
マスコミばかり意識していた。誠意ある謝り方じゃなかったのは事実だ。
その後ろに並んでいた部下達の、人を食ったような顔、顔、顔。
そのさらに後ろにあの男はいて、しゃあしゃあとした顔で人生を歩んできたんだ。
俺たち兄弟が苦労している間に。弟が途中で病死したのも、もしかしてあの男のせいかもしれない。
怒るべきだ。
峻は、そう言い聞かせる。
怒りを掻き立てるために、清治と対峙しようと夫婦寮に行ったが、フジコ達に阻まれた。
そのまま、不完全燃焼のままで一日を悶々と過ごし、結局、今日無断欠勤してしまった。
何をする気にもなれずに、隣町のパチンコ屋にでも行こうと駅前のロータリーにいたら、杉田清治がうどん屋に入っていくのを見かけた。
そのまま、駅の待合室で清治が出てくるのを待つ。
来た。
清治は、峻に気付かずにホームに出て行く。
峻は、その後を追った。
どうする。峻が自分に問う。
どうするんだ。俺は、どうしたらいいんだ。
あの男の胸倉を掴まえて殴りつけるか。
その程度の事で、本来俺が抱くべき怒りは収まるのか。
父や母を俺から奪った男だぞ。
ディーゼルカーがけたたましいブレーキの音を立ててホームに入ってくる。
峻は、結局何もできないままに清治の後について乗り込んだ。
ゆっくりと動き始めたディーゼルカーの起こす風の中に、気の早いアカトンボが巻き込まれる。

十二畳の座敷の真中に赤い布団が敷いてある。
「ここがステージか。」
フジコが呟く。
浴衣姿の平林と住職がのそりと部屋に入ってくる。
「ウッス。」
フジコが手を上げて挨拶する。
「おお、全裸のフジコちゃんもいいが、長襦袢姿もさらに色っぽくていいよ。」
「そりゃ、ごっつぁんです。」
「どうだい?」
「緊張してるよ。」
「そんな風には見えねぇけどな。」
「こんな事するんじゃなかったって後悔するくらいに。」
「まだ引き下がれるぜ。」
「やるよ。」
そこへ健ちゃんがやって来る。
「照明持って来たわよ。」
「照明?」
「そんなもん頼んでねぇぞ。」
「邪魔じゃねぇか?」
「そうだよな。前は、そんなもん使ってなかったぜ。」
「頭の古い人は駄目ねぇ。今時のショービジネスは、いろんな道具を使ってムードをこさえていくのよ。いい。」
そう言うと、健ちゃんは蒲団の対角線上に、布団から一メートルづつ離したあたりに照明器具を置く。
器具のつり下げる取っ手の所を本体の下に回すと、それが台になって、調度いいくらいの傾斜が器具に与えられた。部厚めの木材を下に敷いて、畳に器具が直接付かないようにする。健ちゃんは、何枚かゼラを試して、これが良いわねと、一人で納得する。
薄い色がついているかついていないかくらいのピンクと、反対側はこれも薄い山吹色。
照明の中に入ると、白い長襦袢の影のところだけが淡いピンクに染められる。
「おう、なかなかに色っぽいな。」
「胸元、ちょっと開いてくれる?」
フジコは言われるままに、胸元を開く。
「どう?お肌が生き生きしてるでしょ。」
「そうだな。しかし、これじゃあ、かぶりつけねぇぞ。」
「もう、かぶりつきなんて時代じゃないの。特に、ストリップじゃないんだから、もっと品良く見て欲しいのよ。」
「少し違う気もするが、まぁ、今夜はこれでやってみよう。」
「ところで、清の字はまだか?」
「そうだな、遅いな。いつもは時間には正確な奴なんだが。」
「おおかた緊張しちゃって、どっかの便所でヒィーヒィー泣いてンじゃねぇのか。」
「清さん、そんな事しないよ。」
そこへ、スエコが入ってくる。
「あら、みなさん、おそろいで。清さんは?」
「まだなんです。秀が迎えに行くって出てったけど。」
「秀って、あなたの彼氏の?それなら、さっき戻って来てたわよ。」
「何処行ったんだろ。」
「失礼します。」
しばらくして、そう言いながら入ってきたのは、秀だ。
「秀、清さんは?」
「それが居ないんだよ。駅までの道にもいなかったし、一度、千願寺にも戻っては見たんだけど、いない。夫婦寮にも行ってみたんだぜ。」
「どっかですれ違ったんだろ。あいつが時間に遅れるなんて珍しいが、それだけ緊張してるって事だな。今頃、和ちゃんの墓の前でおろおろしてんのかも知れないぜ。」
「そうだな、待つのが長いと楽しみも倍になるってな。」
「和尚さん、それってプレッシャーだよ。」
「悪い悪い。」
「だから糞坊主だって言ってんだよ。」
「何だと。」
坊主とヤクザのいつもの口喧嘩が始まりそうなところに安田が、
「失礼。住職、呉服屋のキミコさんから電話が入ってます。」
「お前ぇなんか、いなくってせいせいすらぁ。」
ヤクザの憎まれ口を背中で聞きながら事務所に向かう。
電話の向こうのキミコの声は、随分と興奮していて、よく聞き取れない。が、千願寺で何か大変な事が起こっているのは確かな事のようだった。
「ちょっと、寺に戻るよ。剛三、車と運転手借りていいか。」
「俺が行こうか。」
と、立ち上がりかける秀に、
「いいよ、お前はフジコちゃんの側にいてやってくれ。」
「こんな大事な日にエロ問題か?」
「どうも、何だか大変らしい。」
「キミコちゃんのヒステリーじゃないのか?」
「だったらいいんだけどな。とにかく行ってくるよ。清治が来たら先に始めてくれ。」
「いいよ、今日の観客は俺達だけなんだ。手前の帰りを待ってやるよ。」
「お寺で何かあったのかなぁ。」
「分からんなぁ。坊主からの連絡を待とう。それより清の字だよ。こんなゴタゴタしてる時に、あいつだけのらりくらりと何やってやがんだ。」
それから二十分ばかしして、住職から平林に電話がかかる。
「何してんだ。」
「おう、ちょっと大変だ。」
住職の声が震えている。平林は、それに只ならぬ様子を感じ取った。
「誰が大変なんだ。」
「この間から来てる若いの。」
「そいつが大変なのか。」
「それと清治。」
「清治もいるのか?」
「ああ。」
「どう大変なんだ。」
「まぁ、ちょっと来てくれ。できるだけ早くな。」
「早くったって、お前が車持って行っただろう。」
「そうか。何でもいいや、とにかく早く来てくれ。」
電話が切れると秀を呼び出した。
「千願寺まで乗っけてってくれるか。」
「何かあったんですか。」
「うん。要領を得ないんだが、とにかく大変らしい。あいつがあれだけ慌てるってのは、滅多に無いこった。」
「清さんもいるんですか?」
それには答えない。
「いるんだ、清さんも。」
いつのまに出てきたのか、フジコが今にも泣きそうな顔で尋ねる。
「おう、フジコちゃん、心配しなくていいよ。俺と坊主と、フジコちゃんの彼氏とで問題片付けちゃうから。」
「僕も行くよ。」
「フジコはここで待ってろ。」
「秀、僕も連れて行け。」
梃子でも動かない決意の時の表情だ。
「分かったよ。フジコも連れて行きます。」
「勝手にしろ。」

千願寺の境内に続く石段の前にはパトカーが数台止まっていた。
トラックをその後ろに停めて、石段を駆け上がる。
「フジコ、それ。」
秀に指摘されて、フジコは初めて自分が長襦袢姿のままなのに気がつく。
どうりで裾が絡まって走れない筈だ。裾をたくし上げて走る。長襦袢より白い素足が、山寺の石段に眩しく映える。
境内に人の姿はなく、喧騒は本堂の裏の墓場からする。
本堂の横辺りにちらほらと警察官の姿がある。
「おーい、こっちだ。」
住職がフジコ達の姿を見つけて呼ぶ。
「何だ、フジコちゃんまで来ちまったのか。危ないから離れてた方がいい。」
「一体何があったんだ。」
「おう。あれだ。」
フジコの方をちらと見て、言いにくそうにする。
「僕なら、大丈夫だよ。」
「うん。清治が刺されたらしい。」
「清の字が?で、容態は?」
「それが、近づけねぇんだ。」
「どう言うこった。」
フジコが走り出す。
「おい、危ないぞ。」
「フジコ、止まれ。」
本堂を回りこむ。墓場の入り口に警察官が何人かいて、走ってくるフジコを手を広げて止めようとする。
「止まりなさい。」
と叫ぶ一人の頬にフックを入れ、怯んだところ、向う脛を蹴り上げた。警察官がひっくり返る。
もう一人が、長襦袢の袖を引っ張り、フジコの乳房が露わになる。あっと驚くその顔を思いっきりひっぱたく。
もう一人は、殴る振りをすると怖気づいてあっさり通してくれた。
警察のバリケードを抜けると、ちょうど和江の墓の前あたりに男が一人座っている。
遠目に見て、清治かと思った。
清治が、うつむいてナイフを持って座っている。近付くと、そのすぐ前に一人、血だらけになって倒れている。それも清治だ。
フジコは混乱した。
「清さん。」
警察官に引っ張られた襟元を直しながら声をかける。
「寄るな。」
座っている方が顔を上げて怒鳴る。
康弘だった。
「お前。」
「近寄ると、お前も殺すぞ。」
「清さん、お前が刺したのか?」
「ああ。」
「何故?」
「俺の親父だからだ。」
康弘が何を言いたいのか理解できない。おそらく、動転しているのだろうと考えた。
「とにかく、ナイフを置けよ。」
「近寄るなと言ってるだろ。」
清治が少しうめく。
「清さん、生きてるんだ。病院に連れて行くぞ。」
「刺すぞ。」
「勝手に刺せよ。とにかく、病院に連れて行く。」
フジコがさらに近付く。
「止めてくれよ。そっとしておいてくれよ。俺の親父なんだよ。」
「何わけのわかんない事言ってるんだよ。死んじまうよ、清さんが。」
「殺そうと思ってたんだよ、たぶん。殺したかったんだ、俺。親父を殺したかったんだ。長い間、ほったらかしにしやがって。一人ぼっちだった。だから、心の中でずっと殺し続けてきた。だから、殺すのは俺だよ。俺が殺すんだ。そうしたかったんだ。殺したかったんだよ。」
「そこで勝手にほざき続けろ。」
フジコは、康弘を無視して清治に近付く。
康弘がナイフを突き出す。
その切っ先にフジコがぐいと顔を出す。
「どうした、やれよ。お前は、誰でも良かったんだ。誰かを殺したかっただけだろ。違うか?だから、やれよ。」
「違う、違う、違う。俺が殺したかったのは、親父だ。」
「お前の親父なんかここにはいない。」
「やすひろ。」
清治が途切れ途切れに言う。
「清さん、喋らないで。」
「やすひろ、だな。悪かったな。本当に悪かった。」
「お前、何で謝るんだよ。」
「ありがとよ。」
「やめてくれよ。」
「かずえ、かずえか?」
フジコが清治を抱きかかえる。
白い長襦袢が清治の血に染まる。
「そうだよ、清さん。」
「かずえ、俺も幸せだった。」
「清さん。」
「やすひろに会ってやってくれ。俺の息子だ。」
「清さんの?」
「やすひろ、かずえさんだ。とうさんの伴侶だ。」
「親父。」
「ごめんな。おまえのかぁさんじゃなくて。」
康弘がナイフを取り落とす。
「フジコ。」
「何だよ、清さん、ここだよ。」
「かずえだ。」
と、目で和江の姿を探している。
「かずえは?」
そう言うと、目をつぶり、大きく息を吐く。
「そうか、そうだったな。フジコ。」
「何?」
「かずえのところに。」
「動いちゃ駄目だ。」
「頼むよ。」
「わかった。」
清治を抱き起こそうとするが、フジコ一人では無理だった。
「おい、お前。」
康弘が弾かれたように近付いて、清治の反対側を支えた。
清治をそっと和江の墓の前に座らせる。
「なぁ、やすひろ。これでいいんだよ。」
「喋るな、親父。」
「お前、何なんだよ。」
「これでいいんだ。な。」
ふっと息を吐くと、清治の体は力なく地面に崩れ落ちた。
「死ぬな、親父、死ぬな。」
康弘が清治の体にしがみつき、号泣する。
フジコが清治の頭を抱きしめる。
平林や住職、秀、そして警察官達が周りを取り囲んだのは、そのすぐ後だ。
「清さん。」
フジコの悲痛な叫びが山に木霊した。


(続く)