(十五)


「風邪ひくぞ。」
椅子に座ったままうたた寝しているフジコに誰かが毛布を掛けてくれる。
「うん?秀、ありがとね。」
「何言ってんだよ、フジコ叔母。」
「え?何だ、幸助か。」
「秀叔父は、一昨年死んだだろ。」
「そうだったね。さて、もう店閉めようかね。お客も来ないみたいだしね。」
「ああ、手伝ってやるよ。」
「あれ、幸助。また背が伸びた?」
「伸び盛りだかんね。」
店先の暖簾を自慢げに背伸びせずに取り外す。
その横顔が清治に似てきたと思う。
「本当に清さんそっくりになってきたね。」
「俺、じさまの顔、知らねぇし。」
「だから、お前みたいな顔だよ。」
カウンターの上の小型のテレビが、昭和の出来事を特集している。
ちょうど、万国博覧会の頃が映し出されている。
あれから、三十年だ。

康弘は、涙ながらに「俺が殺した」と、言い張った。
警察で事情聴取を受けても、それしか言わなかった。
が、ナイフの入手先や刺した動機など、辻褄の合わない供述ばかりで、さんざん警察をてこずらせた。結局、その前の傷害罪だけが問われる事となり、少年院送りとなった。
が、フジコにはどうしても康弘が清治を殺したとは思えなかった。面会が許可されてからは、何度も康弘に会いに行った。フジコ一人だったり、秀と一緒だったり。
「あんた、本当に殺したの?」
「ああ、ナイフで腹を一突きだ。」
「全然違うじゃないか。腹を一突きどころか、一体何箇所ためらい傷を作ったと思ってるんだ。」
「無我夢中だったんだよ。」

矢島は、清治を殺したのは政治家が寄越した男だと思っている。
「犯人は、彼じゃないと思いますよ。」
と、清治を焼く煙が空に一筋たなびくのを見ながらフジコに言う。
「誰?犯人を知ってるの?」
「直接の犯人は知らないけれど、後ろで糸を引いている奴が必ずいます。」
「誰、それ。」
「残念ながら今は、言えません。」
清治の遺骨は、和江と同じ墓に収められた。
千願寺の住職が清治のために覚えにくい、ながったらしい戒名をつけ、自分で読教していて言い詰まった。
清治の遺骨を入れるために、和江の墓の口を開く。
骨壷を墓石の中に入れようとして、住職の手が止まる。
「何だこれは。」
中からビニール袋にくるまれた何冊かの大学ノートが出てきた。中には、白黒写真も入っていた。
「これ。」
と矢島が言う。
「たぶん、清さんがずっと隠し続けていたノートですよ。」
「何のノート?」
「五豊商事と政治家との癒着の証拠です。これ、俺に貸してくれませんか。悪いようにはしませんから。清さんのかたき取ります。」
「どうする、フジコちゃん。」
「もう、清さんもいないんだ。いらないよ。あげるよ。」
それから何ヶ月か後、次期総理大臣候補と商社の社長が雑誌社の特集に取上げられ、国会の証人喚問に呼ばれる事となるが、フジコにとっては、そんな事どうでもいい事だった。

「杉田清治が殺されたぞ。」
豊田が立居に連絡する。
「誰にだ?」
「知らん。あんた、俺を裏切ったな。」
「馬鹿もん。で、ノートはどうした?矢島と連絡が取れたが、杉田清治からはノートは受け取っていないと言っている。あの馬鹿もん、もう必要ないからと渡した金全額返してきおった。」
「俺の成功報酬は?」
「金は杉田清治には手渡っていない。お前にも渡す筋合いは無い。」
「杉田清治は死んだじゃないか。」
「殺せばいいってもんじゃない。大事なのは、あの男が持っているはずのノートだ。お前は、その目的を果たしていないだろう。」
「裏切ったな。」
「何とでも言え。」
立居は、豊田からの電話が切れた後、豊田の事務所に電話を入れる。
「お前のところの男がミスをした。いろいろネタを持っている。危険だ。始末してくれ。」
それから三日後、豊田の死体が川に浮いた。

村野峻は、清治の後を追いかけ、墓場の入り口で清治の前に回りこんだ。
回り込んだはいいが、どうしようというあても無い。
清治の顔を見て、混乱した。
俺は何をしようとしている?
いきなり村野が現れて、清治も一瞬とまどったが、
「おっす、チビ。どうした。」
いつも通りの挨拶だった。
「あんたは、俺の両親を殺した。」
「いきなり何の事だよ。」
無表情な村野の顔に、清治はどう反応していいのかわからない。
「あんたは、俺の家族を破壊した。」
「何か新しい冗談か?」
こいつは、何を平和な顔してるんだ。
村野の中で、言いようの無い塊が膨れ上がった。
それは、怒りでもなく、悲しみでもなく、今まで自分の中に押さえ込んできたものの凝縮された姿だった。
その塊が、村野の咽喉の奥をふさぐ。
「お前が焼き殺したんだ。」
俺のせいだ、俺があの日ボイラーのスイッチさえ入れなければと、今まで自分に向けてきた感情を、ようやく外に吐き出す。
あの後、謝りに来た商社の社長と、その取り巻きと、ぞろぞろ後をつけてきたマスコミ関係者達の視線が、お前らは社会的弱者だ、弱者らしく差し伸べられた手に縋って大人しくしてろと村野たち兄弟を押さえ付け、押さえ付けられたまま従順に今日まで生きてきた。
だが、もうそれもお終いだ。
こいつさえいなければ俺達はもっと幸せになれた。俺達の不幸の源は断ち切らねばならない。
「かぁさんは体が弱く、逃げる事もできなかった。」
そう言いながらポケットからジャックナイフを出し、清治の体に突き立てる。
死んだ弟が形見にくれたナイフだった。
村野兄弟は、大人しく従順な兄弟ではあったが、弟は自分達の身は自分達で守るんだと、いつも大き目のジャックナイフを持ち歩いていた。
ナイフを抜くと、血が吹き出た。
清治の驚いた顔。
「とうさんは、そんなかあさんを助けるために火の中に飛び込んだ。」
もう一度。
目に血が入って、見えにくくなる。
「弟は、病気で死んだ。両親がいれば、死ななくてすんだろう。」
さらに、二度、三度と突き立てる。
清治は、背中を向けると、墓場の中をよろめきながら進んでいく。
村野峻がその後を追いかける。
和江の墓の近くで倒れ伏した清治の体に、さらにナイフを突き立てた。

豊田は、清治が村野峻に何度もナイフを突きつけられているのを目撃した。
村野がナイフを清治の腹部に突き立てたまま走り去った後、豊田は、倒れた清治に歩み寄る。
こいつを殺すのは、俺だろ。俺の金を横取りされてたまるか。
まずは、金だ。矢島が手渡したと思われる札束を探して、清治のポケットを探る。が、何も出てこない。矢島が清治にまだ何も手渡していなかったから当然であったが、豊田には、そんな事は分からない。
「立居め。」
村野を知らない豊田は、立居が裏切って別の男を寄越したと頭から思い込んだ。
さっきの奴だ。さっきの奴を追いかけて、金を取り戻すんだ。
清治の体を探っているうちに血だらけになった。
あきらめて立ち上がりかけたところを、康弘に見つかる。
「おい、何してんだ。」
康弘は、血だらけの男と、倒れた男を交互に見て、身構える。
倒れている方が苦しげにうめき、上を向く。
それが清治である事を認め、康弘は悲鳴のような声を上げた。
「殺したのか、お前、殺したんだな。」
豊田に殴りかかる。豊田は、間一髪でそれを避け、山に逃げた。
康弘は、どうしていいかわからなかった。とりあえず、清治の腹部からナイフを抜き取り、手に持ったまま立ち尽くす。そこをキミコに見つかった。
キミコは、住職から、康弘が一人で留守番しているから、食事を差し入れてやってくれと頼まれていたのだった。
「何してるの。」
血だらけの康弘を見て、ヒステリックな声を上げる。
その声に、康弘は切れた。
「寄るな。殺すぞ。」
キミコが走り去り、康弘が取り残された。
清治がまた、息を吹き返した。立ち上がろうとして、力が出ずに倒れる。
「親父。」
「誰だ、お前。」
「お前の息子だよ。」
と、康弘。
取り乱しているからだろうか、自分自身の声が遠い。
脳細胞全てに蜘蛛の巣のような膜が張っている。
そのせいで自分でない誰かが喋ってるんじゃないか。康弘はそんな風に感じた。
清治が、見えなくなりつつある眼を見開く。
「息子?俺の?康弘か、お前、康弘か?」
「ああ、俺の名前、覚えてくれてたのか。」
「当たり前じゃないか。自分の息子の名前を忘れるか。大きくなったな、お前、大きくなった。何年ぶりだ。よくここがわかったな。」
「もう、喋るな、親父。」
「ああ。俺は、もう駄目みたいだ。悪いな折角来てくれたのに。」
「親父。」
どうせなら、俺が殺してやりたかった。いや、俺が殺すんだ。ずっと、親父を殺す事を考えてきたんだ。こいつは、俺とお袋を捨てた男だ。
しかし、俺は、俺は、この男が好きみたいだ。そうなんだ、他の奴らがそれぞれの父親から愛されるみたいに、俺はこの男から愛されたかった。ずっと、そうだったんだ。その事を願ってきたんだ。俺の心の底を執拗に掻き毟るいらいらは、全てそこから発している。
康弘の中に殺意がむくむくと湧きあがってくる。それは、憎しみによる殺意ではなかった。その対象を愛するが故の破壊の衝動だった。
しかし、こうなってしまったら俺がこの男を殺せないじゃないか。おれが、殺す筈だった。
そこにキミコの連絡で警察がやってくる。
「寄るな。寄ると、この男を殺して、俺も死ぬ。お前らも皆殺してやる。」
生きる目的も方法論も、全て瓦解してしまったような自暴自棄に襲われる。
住職がやって来て何かを叫んでいるが、キンと醒めた脳髄の中で、意味不明の記号が木枯らしが吹いた時のように渦巻くだけだ。
その木枯らしの中で、為す術も無く康弘はくるくると舞う。
最悪だ。最悪だよ。吐き気までしてきた。
血の匂いにむせ返り、ますます混乱していく。
最後にフジコがやってきた。フジコは、強い意志を伴った眼差しで康弘を見る。
あれは、死ぬ間際のお袋の眼差しと一緒だ。
「かぁさんは、絶対にとぉさんを許さないからね。」
そうだよ、あの時のかぁさんの目だ。そう言って、かぁさんは死んだ。
俺は、そのかぁさんの言葉と共に生きてきたんだ。
そう思った途端に体の力が抜ける。張り詰めた脳髄の中の液体が緩み始める。
フジコ一人が、康弘にとって意味のある記号となる。
色を持ち始める。
フジコの白い着物が赤く染まっていく。それだけが唯一色として認められる。
あれは、親父の血だ。
すべてが終わって、康弘はフジコとただ二人、この惑星に取り残されたような錯覚に陥る。
惑星以外のところから延びて来た手が、康弘に手錠をかける。
その後、取調べの間も、判決を受ける時も、頭は常に誰もいない惑星の上だった。
目覚めてはいるが、冴えてはいない。得体の知れない喪失感が康弘の頭の中を絶対零度の空洞にする。
あらゆる事象は、自分とは関係の無いずっと地の果てで起きているように思える。
だから、少年刑務所に拘置されてからも、自分の周囲で何が起きていようが無関心であった。意識をそちらに向けようという意志が働かない。
意志の方向は、清治が目の前で息を引き取った時の方向のままで固定されていた。
それが溶解し流れ始めたのは、やっと面会が許可され、フジコがやって来てくれた瞬間からだ。

フジコは、清治が殺された後も笠野形温泉に留まった。
「いい加減に観念して、俺のところへ来いよ。」
と、秀がフジコの顔を見るたびに言ってくれたが、せめて清治を殺した本当の犯人がつかまるまではと丸屋旅館でアルバイトをしたり、健ちゃんのところでストリップをしたりで食いつないだ。特に、健ちゃんと始めたお座敷ストリップは好評で、秘湯ブームの到来もあって、深夜番組にもたまに取上げられるようになった。
「あんたのお父さんを殺した奴ね、じつは、もう別の奴に殺されてたんだって。」
あの日、笠野形温泉から姿を消した男が二人いる。
一人は豊田で、もう一人はチビと呼ばれた村野峻だった。
警察は、この二人に焦点をあてた。
康弘が握り締めていたジャックナイフは十年近く前の製造で、メーカーは既に倒産していた。ナイフからは康弘の指紋以外に、村野の指紋も見つかった。
警察は、豊田と村野の後を追ったが、二人とも発見されず、豊田は三ヵ月後に他殺体で発見された。
フジコは、その事を康弘に告げたのだった。
「俺が見つけ出したかったって顔してるよ。」
「そんな事ねぇよ。」
「清さん、最後にあんたに会えて嬉しかったと思うよ。」
「そうかな。一度も会いに来なかったぜ。」
「会いに行きたくても行けなかったんだよ。どの面下げて会いに行くんだってね。あんたのおじいさんも会わせてくれなかっただろうし。」
「本当に会いたかったら、そんな事関係なしに会いに来るだろ。」
「それができない男なんだよ、清さんは。自分一人、聖人君主面したがるんだ。まぁ、そういうのがロマンだったんだろ、清さんの。」
「わからねぇ。」
「理解しろとは言わないよ。僕にもわからないし。でも、愛してやってもいいと思うんだよ。おっと、もう死んじまってるか。」
「かぁさんを見捨てた奴だ。」
「それも、何か事情があったんだよ。他に女作って女房ほっぽり出すほどの根性は無かったよ。それに、見捨てたわけじゃないと思う。お墓参り、行ってたと思うよ。自分が行けなかった時は、和江さんに頼んだりして。」
「その和江って女も自殺したんだろ。あいつが殺したのかもしれない。」
「それもね、おいおい話してあげるから。和江さんって人が何故死んじゃったのか、段々分かってきたんだよ。こういうのって年輪って言うんだね。そうそう、あんたのおじいさん、昨日退院したんだってさ。」
「じじいが?」
「年寄りは怪我したりすると長いね。一時は命も危ぶまれてたけど、何とか取りとめたよ。何故だと思う?」
「知らねぇよ。」
「自分が死んだら、あんたの罪が重くなるからだってさ。」
「会ったのか?」
「おう、一応な。あんたが元気だって、報告しといてやったから。喜んでたよ。」
「お節介焼きだなぁ。何でそんなお節介焼くんだよ。」
「あんたが清さんの息子だからさ。」
「わからねぇ。」
「別に理解しなくてもいいよ。秀が、ここ出たらおいでって。一緒に仕事しようって。」
「俺、前科者だし。」
「関係無いよ。秀だって裸一貫で仕事始めたんだから。」
「あんたは?」
「何?」
「あんたは、秀って人と一緒には住まないのか?」
「僕と秀は、心で繋がってるんだよ。一緒に住まなくても大丈夫だ。」
「そんなのきれい事だろ。」
「きれい事でも何でも、秀は僕の事好きなんだからいいんだよ。」
「でも、いつかは一緒に住むんだろ。」
「いつかは、ね。」
「だったら、俺がここを出たら、あんたを秀って人の所に連れてってやるよ。」
「あんたが?」
「あんたと秀のいる生活でないと嫌なんだよ、俺。」
「おっ、少しは素直になってきたか。」
「あんたのために言ってやってるんだよ。」

村野峻は、激しく後悔していた。
それまで、確かにやり場の無い憤りに歯を食いしばる事が何度もあった。
その度に優しかった父親や母親の顔を思い出して我慢したのだ。
それが、一時の感情に流されて人を殺めてしまった。
自首しようと何度か警察署の前まで足を運んだ。
一度は、中まで入ってカウンターの中の婦警に声をかけたが、忙しいからと待たされ、その間に気が変わって出てきてしまった。
別に自首するのが怖いわけではない。
罪を償う必要はあると思っていた。
ただ、自首することによって、父や母の名を汚す事を恐れた。
最近は、テレビでも自分の顔写真が流れている。
見つかるのは時間の問題だ。
ある夜。
笠野形温泉から真っ直ぐに日本海に出たあたりの海辺に程近い、漁師の道具置き小屋に潜り込んだ。
部屋の片隅に船に使うのに余ったからだろうか、ガソリンの缶が置いてあり、ゆするとチャプチャプと音がした。
深夜。彼は、その缶を持って海辺に出る。
昔、まだ弟も小さく、母親も比較的元気だった頃、家族そろって海水浴に行った事がある。
家族で夜の浜辺を散歩した事を覚えている。
「とうさん、かぁさん、敏夫。」
そう呟くと、缶の蓋をあけ、ガソリンを体にかけた。

康弘は、少年院を出ると、秀の事務所に身を寄せた。
まずは、見習から初めて、秀の進めで大型トラックの免許を取り、秀の右腕になった。
その頃から、フジコも遍歴をやめ、秀と一緒に住むようになった。
時が流れ、康弘はどこかからきれいな脚の女の子を拾ってきて一緒に住むようになり、やがて子供が生まれる。
それが幸助だ。
だが、幸せは長くは続かない。
康弘夫婦が、隣家の火事の類焼で幸助を残して焼け死んだ。
秀とフジコが、幸助を連れて海水浴に行っている間だった。
それからしばらくしてバブル経済がはじけ、秀の会社も取引先の倒産に引きずられてつぶれてしまう。
銀行に身ぐるみ持っていかれたが、さいわいフジコと秀はまだ籍を入れていず、秀がフジコのために建ててくれ、フジコ名義にしていたこの居酒屋だけは残った。
秀は、その後、必死に働いて会社の再建を目指したが、過労がたたって、あっと言う間に死んでしまった。
残ったのは、フジコと清治の孫の幸助と居酒屋だけだった。
幸助は優秀で、店を手伝いながら国立大学を目指している。
俺がフジコ叔母を幸せにしてやるからなが、彼の口癖だった。
「あたしは、この店があるからいいよ。」
秀の思い出のある店だ。清さんや康弘の忘れ形見の幸助とも一緒に過ごせている。
清さん、あんたの孫は、あんた以上に優しいよ。
いつかは、清さんや和江さんの事を幸助にも話してやらなくちゃいけない。
和江さんの自殺の事も。
フジコには、自殺した和江さんの気持がわかるような気がする。
和江さんは、その時の最善の策を取ったのだろう。
自殺が最善の策?
和江さんは、生きるのが下手な人だった。
清さんを愛する事と、自分を表現していく事、その間で悩んだに違いない。
清さんとの生活で、幸せをかみ締めればかみ締めるほどに、自分の仕事が辛くなる。
仕事にのめり込めば愛のあるセックスができない。
とは言え、仕事を離れては自分の生き様が見出せない。そのように生きてきたから。それしか、生きる術を知らなかったから。
このままでは、清さんを幸せにはできない。
今は、まだいい。でも、清さんも自分も時とともに変わっていく。
変わっていく中で、二人の幸せな姿はどこにも見出せない。
戻してあげよう。和江さんなりに、そう考えたに違いない。
清さんを、元の生活に戻してあげよう。
自分が身を引く事が、清さんの、そして自分にとっての幸せなんだ。
しかし、自分にはこれ以上身を引く場所が無い。
どれほどに彼女の心は揺れ動き、どれほどに思い悩んだ事だろう。
その結末は、その時代を背景として前向きに生きようとした和江にとっては、もっとも前向きな選択だったのだろう。
でも、清さんと離れる事は、和江さんにとって本当につらい事だったんだろうな。
それを思うとフジコは和江が不憫でならない。
清さん、あの世で幸せにしてる?
テレビでは、万国博覧会が終わり、それからいくつか世相を紹介した後、サイゴン陥落、ベトナム戦争の終焉をやっていた。
その頃はやった歌という事で「時の過ぎ行くままに」と若手歌手が歌っている。
「音痴だな、こりゃ。」
幸助が呟く。
その言い方が、清さんにそっくりで、思わず横顔を見る。
と、トンボが一匹。
「あれ、トンボ。」
「なんで店の中にトンボがいるの?まだ春先だし。」
「だって、ほら。」
フジコが指差した先を、確かにトンボがツィーッと横切るのが見えた。
「いないよ、そんなの。」
「シオカラトンボだよ、あれ。」
店の外に向かってトンボの幻影が長く伸びる。
「清さん。清さんだよ。」
「フジコ叔母、大丈夫?」
「あはは、気のせいだね。」
でも、確かに見えた。
あれは、トンボだった。
夏の名残り。
そうだ、フジコ達にとっては、あの時代は夏だったんだ。
夏の名残のトンボ、一匹。
「夏の尻尾だ。」
そう言うと、涙が溢れて止まらなくなる。

(終)