(三)




厨房に入ると、徳さんが、汚れた皿と格闘していた。
清治が、その横に並んで、
「手伝うよ。」
「助かるよ、清さん。アルバイトも何人か雇ったらしいけど、今時の奴ら、手際が悪くって役にたたねぇ。すぐに、サボりたがるし。」
「今時の、ねぇ。」
清治は、手際よく皿を積み上げては、汚れを落としながら呟く。
「ところで、徳さん、ボイラーの具合はどうだい?」
「ああ、清さんに見てもらってから、おかげさまで調子がいいよ。」
「そうかい。」
「しかし、驚いたねぇ、清さん、とんだ特技を持ってるもんだ。」
「特技なんて程のもんじゃないよ。ちょっと、分解して油をさしただけさ。あのタイプのは、石油を送る為のポンプが、よく詰まるんだ。詰まりをほって置くと固形化して、やっかいだけど、定期的に油さえさしてやれば、結構長持ちするよ。」
「へぇ、じゃぁ、近々、久しぶりにやってもらうかな。」
「いいよ。明日の早朝にでも、やるか。」
「そりゃありがたい。」
「そうだ、あいつだ」と、清治が呟くが、皿を洗う音にかき消されて徳には届かない。
清治は、「まったく、今時の若いのは」と、二口目には偉そうに、そう言っていた代議士の顔を思い出していた。
その代議士は、ガダルカナルの激戦を生き抜いてきたと、酒を飲むたびに涙ぐみながら話していたが、本当かどうか、疑わしいものだった。
隊内で上手く立ち回って、激戦前に戦場を離れたというのが、もっぱらの噂だった。
行ってないんじゃないかと言う者さえいた。
が、本人は、テレビのトーク番組でも、ガダルカナルの話をし、涙を浮かべた。
公共の場では言わなかったが、事あるごとに、「最近の若いのは」と、若者の文句を言う。
ヒッピーの姿を見かけると、「あいつら、ガダルカナルにでも送り込んでやればいいんだ」と言う。
本当に戦争で悲惨を味わった者なら、どんなに自分の理解を超えた連中の姿を見ても、よもや戦場に送り込めなどとは言うまい。
だが、彼の取り巻き達は、苦笑いを浮かべながらも、手を揉み、彼の意見に同調した。取り巻きには、商社の者もいれば、マスコミもいた。清治も、その一人だった。
彼の名は、神田。
そうだ、
「神田洋介。」
戦後、何処から現れたか、荒木何某という古い地方の代議士の秘書から、その娘の夫となり、当初は荒木姓を名乗っていたが、荒木が死に、二年もたち、荒木の持ち田が全てこちらに移行したと見るや、元の神田姓に戻った。
荒木は県議止まりであったが、神田は国政に打って出、あれよと言う間に建設大臣にまで踊り出た。そう言う意味では、荒木は、良き後継者を得た事になる。
荒木を上手く利用したと謗る者もいたが、蛇の路は蛇、荒木も草葉の陰から手を打って喜んでいる事だろう。
運が良い事に、この神田は、清治の女房照子の母方の遠縁であった。
照子の母親の兄の嫁の弟の息子と言う事で、この神田に会う道を作るのに、あまり歓迎もされていない照子の田舎に帰り、現金の詰まった菓子折りをたずさえ照子の親戚回りをし、漸く神田が墓参りに帰省しているところをつかまえて、面会が実現した。
それからは、マスコミや、他の商社マンに混じって、彼の金魚の糞となる。
彼が右を向けば、右を向き、彼が白を黒と言えば、黒と言った。
ただ、頭のいい男だったので、たんにお追従だけでは飽きられる。そのために外された番記者を沢山見た。
清治は、この男のために、持てる時間と金を最大限に使った。
そうすることで、彼が製品担当している大型ボイラーが、飛ぶように売れた。
その頃、神田洋介は、まだ、駆け出しの代議士だったが、建設業界に明るく、顔と押しが利いた。
例えば、地方から、ヘルスセンター建設等の計画が上がってくると、この代議士が管轄部門に一本電話を入れてくれる。それだけで良かった。暫らくすると、その計画を落札した工事業者から電話が入り、清治の部下が見積書を書く。価格交渉も無しに注文がくる。
売値の半分が粗利であった。その粗利の半分を政治資金として、神田に手渡す。
それ以外に、会社の中で、使途不明金として処理される金子があり、それは、料亭で神田の個人的な懐に入ったり、神田の愛人に、清治が直接手渡す事もあった。
清治は、神田に、単に遠縁であると言う以上に可愛がられた。
そのために、清治は、並々ならぬ気配りと行動を取ったのも事実だ。
神田の愛人の買い物にまで付き合わされた事も二度三度ではなかった。
そのために、家庭崩壊を招くのだが、会社から熱い期待をかけられて動いている身にすれば、その期待に応えるのに必死で、自分の身辺にまで気が回らない。
一緒に行動する部下も何人かいたが、部下達に自分の仕事を押し付けるのは、清治には忍びなかった。
当初、清治が扱っていたのは、業務用大型ボイラーであった。やがて、それも一巡したあたりで、直接販売から代理店販売に移し、さらに新しい市場獲得の為に、個人宅向けのボイラーの展開に着手する。
それが、清治の命とりとなるのだが、その頃は、その事を知る由もない。

「いやはや、清さん、助かったよ。全く手際がいいんだから。」
厨房の裏口を出てすぐのところで、宿泊客から見えないように身を隠しながら、清治と徳は、煙草を吸っている。
「で、また一緒に働けそうなのかい?」
「ああ。寮の一室も使わせてもらえる事になったよ。」
「そりゃいいよ。また、飲み仲間が増えた。」
そこに厨房チーフの源が通りかかった。
「おーい、源さん。」
「先程は、どうも。」
源が近づきながら挨拶をする。顔は笑っているが、目までは笑っていない。そんな男なのだろう。
「どうも、杉田です。」
「厨房で仕事していただけるんですか?」
「いや、まだ、わからないんですが。」
「清さんは、たいてい何処でもこなせるよな。」
と、徳が割り込む。
「仲居でも、皿洗いでも、玉葱の皮むきでも、なんでもやりますよ。」
「そりゃ、心強い。以前も、こちらでお仕事されてたんですって?」
「ええ、一年ほどですが。」
「清さんって、すごいんだ。ボイラーの修理までやってくれるんだから。あのボイラー、旧式だからって、直せる人がいないんだよね。」
その徳の言葉を無視して、
「以前、俺は、赤坂の料亭で板前修業してたんですよ。」
と、源。
「赤坂で?」
「そうそう、社長に声かけられて、この温泉に来たんだよな。」
「そうなんです。なかなか腕が上がらなくって、半ば腐りかけてたら、ここでやりなよって、社長に声かけていただいて。」
「最近、この旅館の料理の味があがったって、評判だよ。源さんのおかげだな。」
「そりゃ、かたじけない。」
源が煙草を出したので、清治は、自分の吸いかけの煙草を火種に差し出す。
「でね、赤坂の料亭で、何度かお見かけしませんでしたか?」
「赤坂って、高級料亭だろ、源さんが修行してた店って。そんなところに清さんが?合わねぇなぁ。清さんのイメージじゃないよ、それって。」
「俺、一度見た顔って、結構覚えてるんですよ。」
「赤坂かぁ。」
神田洋介に何度か連れて行かれたことがあった。
「お会いした事ありませんか?」
会っているかも知れない。
ちょうど、清治が任されていた家庭用ボイラーの構造に、日本の建築基準に抵触する問題がある事がわかったあたりだ。
なんとか回避する術を見つけろという事で、神田洋介に相談し、ついに、神田洋介と社長との面談を実現させ、それ以後、清治の会社は、あらゆる面で神田洋介を支援する事となった。
源と会っていたとすれば、その頃だろう。社長と神田洋介との面談には、赤坂の料亭を利用した。
清治の会社は、その後、神田洋介の紹介で多くの代議士とコネが出来たが、出て行く物も多かった。金と気をふんだんに使って、建設業界にコネクションを深めていった。
その甲斐あって、国の建築基準が、五豊商事が輸入するボイラーに合うように改定された。
環境問題の片鱗も無かった時代に、家庭用ボイラーの二酸化炭素排出基準と、低燃費基準を盛り込んだのだ。
知らぬ者の目からは、ほんの少しの改定だったが、五豊商事にとっては、追い風だった。
清治達の扱うボイラーは、燃焼効率の良さと、それ故、僅かに二酸化炭素排出量が国産より少なかった。それで充分な程度の改訂だった。
が、そのおかげで、日本のメーカーの独占だった家庭用ボイラーに海外製品販売のチャンスが訪れたのだった。
しかも、改定内容は、海外製品に仕様変更は必要なかったが、国産製品には仕様変更を余儀なくするものだった。
この件で、清治は会社から表彰され、金一封を受け取ったが、部下と共に一晩で使い切ってしまう。
また、この件は、一見五豊商事の奮戦により実現したかに見えたが、その実、海外からの圧力に官庁が屈したと言うのが背後に隠れた真実であった。

「一度でいいから、赤坂なんて場所で飲んでみたいよなぁ。」
「駄目、駄目。清さんには、似合わないよ、そんな気障な場所。」
「だよな。」
源は、腑に落ちない顔をしている。
「おかしいなぁ、俺の顔覚えの良さには、定評があるんだが。」
「猿も木から落ちるってね。」
「河童も川、流されるってか。」
清治と徳の冗談も、源には面白くない。
「よく間違えられるんだよ。」
清治が慰める。
「何処の誰だか、こっちはとんとご存知無いんだが、たぶん、向こうさんもこちらの事はご存知ないだろうなぁ。」
「誰なんだよ、清さん、それ。」
「だから、誰だか分からない。でも、昔、ある人間に良く間違えられてたのは、事実だよ。」
「変な話だな、そりゃ。」
五豊商事を追われるように辞めて暫らくは、名前を変えて、潜んでいた。
合田と言う刑事が、そんな清治を執拗に追っていた。
清治が、身を隠したのは、会社への忠誠心のためでは、勿論、無い。
自分が身を隠す事によって、かつての部下達に訴追が及ばないようにという、清治にできる精一杯の行動だった。
しかし、結果的には、収賄疑惑の渦中に巻き込まれてしまい、会社からも、神田洋介からも、司法の手からも追われる事となる。
最後に清治に残ったものは、部下を護り切ったと言う自己満足だけだった。
源の苦りきった横顔を見ながら、清治は、その事を考えている。
「ともかく、俺は、そんな料亭に出入りできるような優秀な人間じゃあ無いよ。」
「そうか、まぁ、いいですよ。人違いですね。」
源は、そう言うと、ついと立ち上がり、
「失礼しました。」
と、言い置いて、厨房に戻って行った。
「源さんも、いきなり変な事を言うなぁ。気を悪くしないでよ、根はいい人間なんだから。」
「いや。」
変な事では無いよと、清治は続けたかった。
絶好調から奈落へと突き落とされる時の何と早い事よ。
清治が、会社から表彰を受けてから半年後に、一件目の火災が発生した。
折からの景気の良さに後押しされて、半年の間に、代理店を通して、ボイラーは三百台近く販売されていた。なお受注残が百台近くあった。
原因は、ボイラー周辺での煙草の火の不始末とされた。
それは、焼け出された者のそのような証言があったからだ。煙草の火の不始末にしては、焼け方が激しいと言う現場の消防士の声は、無視された。
「杉田さん、ちょっと。」
ある日、矢島というボイラー技術員に呼ばれて、実験室に出向いた。
矢島は、いつになく深刻な顔をしている。部長の島村も呼ばれていた。
「どうした。」
「ええ、メーカーからは、正式なアナウンスは来てないんですがね、ボイラーの構造に、ちょっと問題が。」
「問題?どのタイプのボイラーだ。」
「この間から販売している一般向けの奴です。このボイラーの構造は、ご存知ですよね。」
清治達が輸入している海外製のボイラーは、自動車のエンジンの原理を取り入れ、ガソリンを細かくして燃焼室に噴霧し、さらにそれを圧縮して燃焼効率を上げられる仕組みになっていた。噴霧状態については、サーモスタットで調整し、燃焼温度が高すぎるとガソリンの粒を大きくして、燃焼効率を下げる。これにより、微妙な燃焼温度調整が可能になり、燃費も格段に良くなる。それまでの国産の三分の一の燃料消費と、広告ではうたっていた。
「サーモスタットで調整しきれない部分は、この弁が作用して、燃焼室の温度を下げるんです。この弁とサーモスタットとの連動部分が問題だと思われます。
何千回に一回の割合で、サーモスタットが効き過ぎて、燃焼室の温度が下がりすぎるんです。この時、温度調整部は、燃焼室温度が高すぎると見て、ここの弁を開いています。で、燃料供給部は、燃焼室の温度を上げる為に、ガソリンをより細かくして、噴出します。すると。」
いきなり、上部温度調整弁から、炎が噴出した。
「ね。一時的に、自動車のエンジンと同じ状況になるんです。原理は、それを使ってますからね。ただ、この時、近くに可燃物が置いてあったりすると、どうなります?」
「この事は、他の誰かには?」
島村が頭を掻き毟りながら尋ねる。
「今のところ、私と、島村さん、杉田さんの三人だけです。」
この会社では、相手を役職で呼ばずに、さん付けで呼ぶことが多い。
「この問題への対応は、全て私の指示で行う事、いいか。」
と、島村が言う。
「まず、矢島君。この問題を至急メーカーに確認してくれ。テレックスは使わずに、電話でやり取りするんだ。証拠を残すなよ。メモも駄目だ。対応策が明確になるまでは、極秘で行動する事。」
「しかし、部長。」
「なんだ、杉田。」
「ユーザーに、使用者に、このボイラーを使わないように連絡したほうがいいんじゃないでしょうか。こうしている間にも、火災が発生する可能性が高いわけですし。」
「バカな事を。どこに、その証拠があるんだ。単に炎が吹き出る事が確認できただけだ。それは、あくまでもボイラーの問題点と火災とが関連するかもしれないと言う可能性を示唆しているに過ぎない。でも、その証拠は何処にも無い。証拠が無いのに、うかつな事はできんだろ。会社の信用問題にまで発展するからな。いいか、だから、暫らくは、あくまでも極秘に、だ。」
それから、程なくして、全く違う場所で、何件かの火災が発生したが、全国に散らばっており、消防署同士の連絡網も無かったので、その関連性を調べる者は無かった。
矢島が、メーカーからの報告を島村と杉田に伝えた。その内容は、清治達を落胆させるものだった。
「つまり。」
と、島村が机の角を握りこぶしで叩きながら言う。それが、彼のいらいらした時の癖だった。
「これが、仕様だって言うのか。」
「そうです。これは、欠陥ではなく、機能だって事です。これで、一気に燃焼温度を下げ、燃焼部の内壁のダメージを少なくしているんだって事なんです。」
「じゃあ、ボイラーの前に何か物が置いてあったらどうするんだ。」
「そのような場所には、このボイラーは、設置されないと、言ってます。」
「海外じゃぁそうかも知れないが、日本じゃぁ、狭くて当たり前の場所にほとんどの家は建ってますからね。ボイラーの前に何かが置いてあるのは、当たり前。って事は、このボイラーを使う限りにおいては、火災が発生するのも仕様が無いって事ですか。」
清治の問いに、部長の島村も黙り込んだ。
「よし、わかった。だが、まだ動けない。今後、全国の火災情報に目を光らせるんだ。」
清治達は、手分けして全国の新聞紙を買い集め、地方版の火事のニュースに目を光らせた。
札幌で発生した火災では、逃げ遅れた老婆が焼死した。清治達の持つ、ボイラーの顧客リストに、その家は記載されていた。
そうこうする内に、岡山のユーザーから問い合わせがあった。ボイラーから炎が吹き上がるのを見たという内容だった。
島村は、清治を引き連れて岡山まで、高価な手土産付きで、状況確認という名目で出張した。状況確認の協力お礼と言う事で、少なくない額の札束が入った封筒を手渡した。
が、それで、問題の種が消えてなくなったわけではない。
火災発生件数が増加するにしたがって、ボイラーとの関連性が浮上してくるのは、目に見えている。
対策方法をメーカーに依頼したが、返答はボイラー本体部分のおおよそ八十パーセント近い部品の取替えだった。
清治達は慌てた。
「現在の出荷台数は?」
「おおよそ四百台です。」
「一台当たり、部品費用で十五万、人件費が主張費も含んで、一万か。」
「全台数取替え作業やるとしておよそ七千万、そんな費用、何処から出るんだ。」
「費用もさることながら、今の技術員数だと、一日五台がいいところです。土日祝日も働いても三ヶ月近くかかります。」
「しかも、その結果、燃焼効率が悪化して、この製品のメリットが無くなってしまいます。」
「それより人命だろ、大事なのは。」
「これから、何件火災が発生するか。」
「先日、札幌で発生した火災では、逃げ遅れた老婆が焼死しています。」
「よし、新聞広告を使って、ボイラーの使用停止と販売中止の案内を流すように本部長に進言してみよう。」
島村が、ついに決意し、本部長の大野に進言したが、
「駄目だ。」
その一言だった。
「しかし、こうしている間にも、さらに火災が発生します。」
「うちのボイラーと火災の関連性は?その証拠は、どこにあるんだ?」
島村は、清治と矢島を呼んで、状況を説明させた。
「よし、分かった。下がってよし。」
「明日には、新聞広告が打たれるだろう。」
「これで、枕を高くして寝られますね。いつ火災が発生するか、気が気じゃなかったものなぁ。」
と、清治達は、胸をなでおろした。
が、本部長の大野が取った行動は、火災とボイラーの関連性を示唆する情報のもみ消し工作だった。立居という常務からの指令だった。
大野は、五豊商事がマスコミに対して持っているコネクションを使い、ボイラーと火災との関連性に言及しそうな記事があると、事前にその情報を察知し、圧力をかけてもみ消させた。
もみ消し工作は、代議士の神田洋介を中心とした政界パイプラインもフルに利用された。そのために動いた金は、並大抵では無かった。
千葉で、ついに一家全員焼死するという事故が発生した。
若夫婦とその三人の子供、夫の両親、夫の弟の八人が亡くなった。特に、夫婦の子供のうち、六歳になったばかりで、もうすぐ小学校にあがる三女の笑顔の遺影と焼け焦げた赤いランドセルの映像が、世間の涙を誘った。
世間の口に封が出来なくなってきたのは、この辺りからだ。
噂が噂を呼び、毎日沢山の問い合わせの電話がかかってきた。
すべて、ユーザーからのものだった。
「爆発する前に引き取ってもらおうか。」
どこで話が拡大したのか、火災が爆発になっていた。
消費者連合組合も動き出し、独自で調査を始めたとの情報が入る。
「あそこは、止められんよ。我々の手の届かない、コントロールできない団体だ。我々も手を焼いとるんだよ。」
神田洋介が、常務の立居に電話で連絡を入れてきて、そう言った。
やがて、火災とボイラーの関連性がまことしやかに囁かれ始めた。
北九州で、両親は子供を助ける為に焼死、二人の子供だけが焼け出される事故が発生した。子供が焼け跡に向かって泣き叫ぶ姿が、あらゆるメディアに流れた。
それが、さらに消費者連合組合の動きに拍車をかけた。
やがて、政財界の癒着を暴く事に命をかけたフリージャーナリストの三ツ谷という男が、その独特の嗅覚を効かせて、五豊商事の回りをうろつき始める。三ツ谷は、結局、立居が依頼した事務所の人間によって、自殺と見せかけて殺された。
が、これが悪かった。
三ツ谷は、もし自分が死んだ時にはと、最も信用の置ける人間にメモの一切を手渡していたのだ。三ツ谷の死により、それが全て公開された。
彼は、神田洋介や清治達が思っていた以上に、深く情報を収集していた。中には、五豊商事の社員でないと知らないような内容まであった。
特に、五豊商事と神田代議士との癒着の部分。何日にどこの料亭が使われたかまで調査されていた。
常務の立居が、神田の事務所に呼ばれた。
「どう始末をつける積もりだ。」
神田洋介は、静かな、しかし、押さえつけるような口調で、立居を責めた。
「どう、とは?」
「何故、あのフリージャーナリストを殺したんだ。」
「あれは、先生に、ご迷惑がかかっては、と。」
「殺せと、誰が言った。」
「独断です。でも、私も殺せと言ったわけでは。黙らせて欲しいと。」
「どこを使ったんだ。」
「真田組系の流山事務所です。」
「あの総会屋事務所か。」
「はい。」
「よし、この件、なんとか収拾つけるが、そちらもそれなりに、血を流してもらわねばならん。」
「と、言いますと?」
「流山事務所に鉄砲玉を一人、差し出させる。三ツ谷を、強請り目的で殺したと自供させる。だから、そちらから流山事務所に、相応の金を渡してもらおう。さらに、そちらで誰か一人、全ての罪を負って自殺してもらわねばならないな。」
「杉田あたりでいかがでしょうか。」
「あんな下っ端殺しても仕方ないだろ。本部長の大野にやらせろ。自筆で遺書を書かせるんだ。世の為になると信じて、家庭用ボイラーに手を出し、私、神田に、そのメリットを説き、納得させ、輸入、拡販したが、結果的にこのような火災の原因を作ってしまい、まことに申し訳ない。死してお詫び申し上げる。いいか、死してお詫び申し上げるんだぞ。」
「かしこまりました。」
「五豊商事と政界とのルートは、暫らく断っておけ。心配するな、ほとぼりが冷めれば、また、こちらから繋いでやる。互いの繁栄のためにな。」
事態は急転した。
三ツ谷の死が、強請り目的とわかり、大野が自分の非を認めて自殺し、五豊商事社長が記者会見で、ボイラーと火災の関係の可能性を示唆し、ボイラー使用者には迷惑料を手渡し、すべて五豊商事の責任で修理する、大野は、私利私欲のためではなく、日本の将来のエネルギー問題を憂いて社長のみならず、神田代議士を説得し、その心を動かした、その正義感が自らを自殺に追いやったと信じている、会社は、彼の熱き心を今後の行動の指針に据えていきたいと、涙ながらに語った。
清治達ボイラー部隊全員が駆り出され、全国のボイラー修理の任にあたった。
約四ヶ月、全国を転々とし、全てのボイラーの修理を終えて会社に戻ってみると、自分達の部隊の部屋が無く、所持品は、すべて焼却されていた。
「どう言う事ですか。」
清治達は島村に食って掛かったが、島村は、上からの命令の一点張りで、埒もあかない。
「私も、明日から釧路出張所勤務だよ。」
清治達も、それぞれ、地方拠点に飛ばされることになっていた。
「待ってください。部下の中には、ローンでマンションを買った奴や、子供が生まれたばかりの奴らもいるんですよ。」
「分かっているが、上からの命令ならば、仕方ないだろ。」
「そうですか。分かりました。」
清治は、その足で、常務の立居の部屋を訪ねた。
「この度の事の顛末、すべて私のノートにメモしています。」
「証拠となるものは、すべて焼却したはずだが。」
「信頼の置ける人間の所に預けてあります。」
「何が言いたいんだ。」
「私の地方転勤は構いませんが、部下達は許してやってください。」
「話は、それだけか。」
「はい。」
「分かった。下がれ。」
翌日、社内臨時報で清治達の地方転勤は撤回され、全員、新規プロジェクト室という新しい部屋に集められた。清治が室長だった。
「やりましたねぇ、杉田さん。室長ですよ。」
部下達は、口々に清治の昇進を祝ってくれたが、清治は、何かふに落ちないものを感じた。
案の定、会社は、清治達に具体的な仕事を、いつまでたっても与えなかった。
「これって、一体どういう事なんでしょうかね。食堂に行っても、誰も話し掛けて来ないんですよ。」
部下達は、次第にいらいらし始めた。
「ご存知ですか。」
矢島が、同僚の口を割らせて聞き出した事を報告する。
「部長職以下の者は、絶対に新規プロジェクト室の者とは口をきいてはならないと言うお触れが出てるそうです。」
「どうりで、食堂でも、廊下ですれ違っても、誰も何も話し掛けて来ないはずだ。」
「何て事だ。会社は、我々を村八分にするつもりなんだ。」
「今時、村八分か。昭和の時代に?」
「今まで、会社の為に必死に働いてきた我々をか?」
「我慢するんだ。ここで爆発したら、会社の思う壺だぞ。」
清治は、ありきたりの言葉で部下をなだめる他に手を思いつかなかった。
その日の午後、清治は、立居を食堂でつかまえた。
「どう言う事ですか。」
「何がだね。」
「我々の扱いです。」
「君達は、不良品を世に出して、皆に迷惑をかけたんだよ。本来は、地方拠点に出てもらって、二度と帰れないところを、本社に残してやったんだ。それだけでも良しとしなければならないだろう。自殺した大野君や、自ら地方拠点にとんだ島村君を見たまえ。彼らに恥ずかしいと思わんのか。」
「あれは、あのボイラーの展開は、全社をあげてのプロジェクトだと言ったのは、あなたでしたね。」
「あれは、言葉のあやだよ。君達が、誠実に仕事ができるように、後方支援したんだよ。それが、何だ、会社を裏切るような真似をして。」
「裏切る?」
「そうだ。欠陥を承知で販売するなんて、裏切りもいいところだ。」
「そのようにおっしゃるのですね。ねぇ、立居常務。三ツ谷というフリージャーナリストがいましたよね。」
「あれは、街の暴漢に襲われたんだろ。」
「先日も申し上げましたが、彼よりも数倍詳しいメモがあったとしたら、どうします?」
「どんな風に詳しいんだ。」
「三ツ谷が持っていた情報は、社長と神田代議士との料亭での会見日時だけで、その内容や、それによって起こった事柄までは、さすがに彼も踏み込む時間が無かった。」
「で?」
「ここに、一冊のノートがあったとしましょう。そのノートには、神田代議士以外の政界の大物との会見や、手渡された金の額、その後に、建築基準に手が加えられ、当社ボイラーの国内販売が可能になった事などが書かれていたとします。」
「何が言いたいんだ。そんなでっち上げのノート、もし持ってるんなら即刻渡しなさい。」
「もしと言う話ですよ。もし、私が持っていたら、即刻、部下達をもっとまともな部門に回してくれるように常務に圧力をかけさせていただきますよ。」
「持っているんなら、渡したまえ。」
「渡せません。ただし、部下の一人でも左遷されたり閑職に追いやられるような事があれば、ただちにマスコミにリークします。」
「君は、会社を裏切るのか?」
「裏切りません。会社が、部下達を裏切らない限り。」
清治は、敗戦の日を思い出していた。
教科書に墨が塗られ、自分の信じてきた事が、特に大人達に信じ込まされてきた事が、同じ大人達の手によって、ことごとく覆された。
結局、と、清治は思った。互いに裏切りあう事が生きる事なのだろう。
ならば、もうこれ以上、裏切る立場にも、裏切られる立場にも立ちたくない。
もう、たくさんだ。
「で、君はどうするんだ。」
立居の言葉に弾かれたように、胸ポケットから辞表を取り出し、立居の前に置いた。
「何だこれは。こんなもの、直接、私が受け取れるわけ無いだろ。君の直属の上司を通して持ってきなさい。」
目の前の男は、結局、一個の人間として見れば、単なる腐れオヤジだ。
「あんたが、自分で持っていけばいいだろ。」
清治は、そう言って席を立った。
その日のうちに、清治はアパートを片付け、会社の人間の前から姿を消した。
翌日、神田洋介から、立居のもとに電話が入った。
「杉田が、私の所にも、脅しの電話をかけてきたよ。飼い犬に手を噛まれるとは、まさにこの事だな。」
「はい、監督不行き届きでした。申し訳ございません。」
「こちらに飛び火するような事がないように、わかっているな。」
「承知しております。」
清治の部下達は、その電話で閑職から開放される事となった。
そして、姿を消した清治は、名前を変えて各地の木賃宿を転々とする。
二年近く、誰にも連絡をせずに、社会の底流に身を隠した。
それが、誰にも迷惑をかけない方法だと思ったからだ。
その間に、部下達は、それなりに評価を受けたが、離婚した女房は、すがる先を全く見失い、精神的に追い詰められていった。
清治に後悔の念があるとすれば、元女房に、何一つ手を差し伸べられなかったと言う事だろう。
彼女をして、孤独の内にその人生を終わらせる事になってしまったのは、すべて清治のせいだと感じていた。
だからなのだろう、和江をそんな目には合わせたくないと、心から、そう思った。
が、それも虚しく、和江もまた、孤独のうちに首を吊った、のだろうか。

「清さん、灰が落ちるよ。」
徳の声に我に返る。
おはぐろトンボが、二人の前をついと通り過ぎた。



(続く)