(四)





大家の電話がかかってきた事を告げる声とノックの音で、畑中は目を覚ました。
「いや、すいませんねぇ、いつもいつも。」
畑中は、内心、大家と顔を合わせてしまった事をあまり喜んでいないのを悟られないように、ことさら愛想良く礼を言った。
「いいんだけどね。ここで会ったが百年目だよ。家賃を置いていっとくれよ。」
「あ、家賃ね、そりゃ当然ですよね。」
一体誰だ、電話なんかしてくる奴は、と、舌打ちしながら受話器を取ると、聞きなれぬ老婆の声だ。
あっちも老婆、こっちも老婆。俺には老婆しか縁が無いに違いない。
「あのぉー、畑中さんですか?」
「そうですが。」
大家は、畑中の後ろで、電話に聞き耳を立てている。
おそらく、畑中が電話を終えるまでそうしていて、電話が終わるや、家賃の請求をするつもりだ。
「私、山中荘の。」
「山中荘?」
「ええ、先月お見えになられて、杉田さん、杉田清治さんの連絡先を教えてくれって。」
「杉田清治?」
「広角社の畑中さん、ですよね。」
畑中は、実はフリーのジャーナリストだが、名刺に書く社名の所だけ、広角社という友人が経営するちっぽけな出版社の名前を借りていた。
「ああ、杉田さんのね、連絡先。確かにお願いしましたっけ。」
「見つかったんですよ。いえね、杉田さんご本人の連絡先じゃないんですけどね。杉田さんを見かけたらここに連絡するように言って欲しいって頼まれてた方の連絡先なんですけどね。」
「はぁ。」
「それじゃぁ、役に立ちませんかねぇ。」
「いえいえ、その方のお名前と連絡先を言っていただきますか。」
「今ですか。」
「ええ。」
「あの、謝礼は。」
「ああ、謝礼ね。ああ、そうか、そうですよね。わかりました、じゃあ、謝礼を持って受け取りに伺います。」
そう言って電話を切る。
まったく、どいつもこいつも、謝礼目当てでどうでもいい情報ばかり持って来やがると、舌打ちながら振り向いて、大家と顔が合った。
「謝礼も大事だろうけどね。こっちの家賃もね。もう、三ヶ月溜めてんだよ。」
「ええ、ええ、勿論ですよ。今度、原稿料が手に入ったら必ず払いますから。」
「原稿料って、この前もそう言ってたじゃないですか。いつ入るんですかね、その原稿料。」
「もうすぐですよ、もうすぐ。ちゃんと、封を切らずにお渡ししますから、ね。」
追いすがる老婆を振り切って部屋のドアを閉めると、上着をはおって、汚い字で謝礼と書いたポチ袋に百円札を入れて、部屋を出た。
「全く、せんじゃくいずくんぞこうこうの志知らずだな、全く。」
そう呟きながら、せかせかと背中を曲げて歩く。

畑中は、十年近く前に、暴漢に襲われて死んだ三ツ谷の大学の新聞部の後輩だった。
勿論、彼は、三ツ谷の死を暴漢に襲われての偶然の死だ等とは信じていない。
それは、彼の死後にある出版社からリークされた情報の内容を見ても歴然としている。
三ツ谷が死んだ時、畑中は、小さな業界新聞社を編集長と喧嘩して飛び出して、偶然再会した三ツ谷の後を追って、フリージャーナリストの修行をしていた。
と言っても、三ツ谷とてフリージャーナリストとしては、まだまだこれから売り出しの身であった。畑中を教育などという余裕などは、当然無かったので、うるさくまといつく畑中を鬱陶しくさえ思っていた。
畑中も、人生は、そんなに甘いものだとは思っていなかったので、三ツ谷の後をくっついて歩き、あわよくば、三ツ谷のヤマを横取りしようとさえ思っていた。
だから、三ツ谷が死んで、自分とは全然違うルートから、自分が知りもしない情報が公表された事について、腹立たしさと悔しさが残った。
それを糧にして、今日まで来た。
三ツ谷は、方法論としては、真っ向から政治家や企業家に闘いを挑んだ。それだけ正義感が強かったのだろう。が、畑中には、功名心はあっても正義感は無い。だから、自分は、三ツ谷みたいなドジは踏まないと思っている。
もっと、地道に情報を積み重ねる。獲物としての政治家や企業家が気がつかないように。
足元から情報を積み上げて、一気にすくい倒してやる。そのためならば、奴らの靴だって舐めていいと、思っていた。
だが、当の政治家や企業家は、彼の事など洟も引っ掛けなかった。それが、余計に悔しかった。いつか、自分の下に膝まづかせてやる。とくに、神田洋介。
三ツ谷が殺されて暫らくして、彼は、三ツ谷が公表しなかった情報も持って神田を尋ね、自分を取り立ててくれたら、このような情報は全部自分のところで押さえてやると言った。直接言ったのではない。そう取り次いでもらった。勿論、はったりだった。結果、見事に門前払いを食わされた。そればかりではない。帰り道、物陰にひそんでいた男によって、さんざん殴り倒され、証拠の品を持ち去られてしまった。たいした内容ではなかった。神田洋介の愛人に、五豊商事の社員が、何か包みを手渡している写真だ。
これは、畑中が、三ツ谷の女房から取上げた唯一の品だ。ネガは無い。焼き増しもし忘れた。畑中とは、功名心に駆られた、その程度の男だった。三ツ谷も神田洋介さえも、それを見切った。知らぬは本人ばかりだった。
畑中は、先程電話をくれた老婆のアパートに行く電車に飛び乗ったが、思い直して慌てて下車すると、反対側に止まっていた電車に乗り換えた。
電車は、当初、畑中が目指していたのとは反対の方角に走り始める。
五つ先の駅で降り、二十分ばかり歩き、古い文化住宅の一室のドアを叩いた。中から、痩せた女が顔を出し、畑中を認めてドアを閉めようとしたが、畑中は、靴先を隙間に挟み込んで、無理やりドアを開かせ、中に入った。
「来ないでください。」
と、女が言った。
「もうすぐ家の人が。」
とも言ったが、それを無視して押し倒し、欲望を満たすと、その前より凶暴な顔つきをして立ち上がった。さっきから奥で赤ん坊が泣いている。
「やかましい。泣き止ませろ。」
「だって、あんたが。」
「うるさい。早くしないと、首をへし折るぞ。」
女は、急いで胸元を合わせると奥へと引き込み、赤ん坊をあやす。
「ちょっと、用意してくれねぇか。」
「また、無心ですか、いい加減にしてください。」
「何だと。」
「あの人に知れてしまう。」
「あんな奴、怖くも無い。俺とお前の関係は、先刻承知の上だ。なんなら、聞いてみろ。」
「そんな酷い。」
女は、畑中の所業を酷いとなじったのではなく、自分の置かれている状況の酷さを嘆いた。
三ツ谷さえ生きていたらと、思う。
女は、三ツ谷の元女房で、加奈子と言った。
三ツ谷が殺されて心細い思いをしているところを畑中につけこまれた。
畑中の感覚では、なるべくしてなったと、思っている。
畑中にすると、女は二種類しかいない。自分と肌の合う女と、合わない女だ。そして、合う女より、合わない女の方が圧倒的に多い。
だが、合う女は、とことん搾り取れる女だ。
加奈子は、初めて会った時から合う女だと思っていた。
三ツ谷が殺された時、いや、その前から、機会があれば、なるようになりたいと思っていた。
畑中は、加奈子は、その事に気がついていないだけだと思っている。
だから、三ツ谷の葬式の後、畑中とできてしまった時、さめざめと泣いて畑中をなじったが、畑中には、さらに関係を重ねる事をねだっているのだとしか聞こえなかった。
その通り、その後も畑中を拒む事は無かった。それに図に乗り、金をせびり、自分の業界新聞時代の子分のような男にそわせ、さらに欲を満たし、金を引き出す対象とした。
それを酷いと言いながら、畑中がもう一度抱きすくめると、そのまま自分から倒れていった。
彼にとって、女とはそう言うものだった。
加奈子は、五千円ばかりしか持ち合わせていなかった。子供のおしめ代だと言うのを無視して、むしり取り、アパートを出る。
電信柱の陰に隠れている男がいた。それが、三ツ谷の元女房、加奈子の今の亭主、中畑の子分のような男だった。中畑は、彼の名前を知らない。
「ネズ。」
と、声をかけた。ネズミを縮めてネズ。
ネズと呼ばれて、ビクッと顔を上げる。が、中畑とは顔を合わせようとしない。
「終わったぞ、ネズ。」
そう言い捨てて中畑は、駅の方に歩いていく。ネズは、その後姿を暫らく呆然と眺めていたが、やがて、はじけるようにして、自分の家に入っていった。女の布きれを引き裂くような苦悶の声がした。壁に肉を打ち付けるような音と。

中畑は、殺伐とした気分で歩いている。
女の家を出たところでネズに会ったからに違いないと、思い込もうとしている。
そうでなくとも、時折、殺伐たる気分になるのだ。
それは、古い傷が、極寒の中でうずくのと似ている。自分の所業のせいだとは、決して思わない。
人生とは、むしりとるか、取られるかだと思っている。
そのために、誰かをどれほど苦しめたからとて、自分自身がその報いを受けるだろうなんて、想像した事も無い。この男にとって、神すらも、むしりとる対象なのだ。
むしりとられる奴、苦しめられる奴、辱めを受ける奴は、最初からそのように出来ているのだ。そう言う奴らは、その程度の存在価値しかないのだ。
それが、この男の哲学だ。
それでも、時折襲ってくるこの殺伐感は、さすがに、この男にも良心らしきもののかけらがあるからなのだろうが、この男は、そのことすら無視して生きている。
良心などは、生きていく上で邪魔になるだけだと思っている。
父親もそうであった。彼の人生観は、父親から譲り受けた。父親は、その父親から譲り受けたと言っていたから、彼の家系は、代々、良心とは別の次元で生きる家系なのだろう。
例えば、駄菓子屋からお菓子をこっそりポケットに忍ばせて帰ってくると、誉められた。
逆に、学校で学級委員などに選ばれて帰ってくると、こっぴどく叱られた。なぜ、そんな得にもならない事を引き受けるのだと。
また、父親が学校に怒鳴り込んだ事もあった。
「息子は、とりあえず義務教育だけ出てもらえば、それで結構。その間にも、自分の得することだけをやれって教育してんだ、それ以外の余計な事を吹き込むのをやめてもらおうか。」
校長までが出てきて、人間の善について説いたが、この父親は聞く耳もたず、結局、それを押してまで畑中を教育しようと言う熱血漢もいなかったので、その後、畑中は、学校内でも腫れ物に触るように扱われた。
人生の指針となるものを与える事のできる第三者がいなかったので、畑中にとっては、父親の考えが正しいのだと信じざるを得なかった。
そして、その通りの人生を歩んできたが、別段、それで不自由する事など無かった。
義務教育を終え、工場で働きながら、相変わらずけちな盗みなどを繰り返していたが、世間の事が分かってくるにつれ、自分のやっている事が実にチンケな事だと言う事が見えてきた。学が無いと、自分のように、身の回りの事柄で、ちまちまと盗みをしたりで、あたかも得をしたかのように思えるが、学のある奴らは、その知識を総動員して、実は、もっと大きな得を手にする事ができる。しかも、自分など、盗みをするにも、いつ見つかるか、見つかってしまうと、監獄で臭い飯を食わされる事を覚悟しながらやらないといけないが、学のある奴らは、平然といろんなところから盗んでいるようだ。見つかっても、適当に言いつくろって、その場をしのぎ、また得を手にしているではないか。
よし、この世は学だ。そう思い込むと、彼は独学で高校に入学し、大学にまで進んだ。
そんな事に金は出さないと言う父親を見限って、アルバイトと奨学金で苦学した。
勿論、三つ子の魂変わらずで、彼を友人に選ぶ者もいなかったし、誰かと親しく付き合おう等とは、彼も思わなかった。
大学を卒業して業界新聞社を選んだのは、在学中に、いくら学があっても、大きな得に近づける者は少ない。代々の家系であるとか、相応の努力を積まねばならないとか、厳しい条件があるようだ。自分には、そのような家系は無いし、相応の努力を積むつもりも無い。とすれば、得をしている奴等から、さらに、その得を掠め取るのが良かろう。そのためには、できるだけそう言う情報が沢山入る場所にいた方が良かろう。そう、考えたからだ。
大手新聞社は入社競争も厳しいし、入社後も先輩や同僚と、したくもない付き合いをしないといけないだろう。小さな業界新聞社ならば、比較的自由が利きそうだ。だから、業界新聞社を選択した。
彼が選んだのは、エネルギー新聞社と言い、もともと大手新聞社の編集長が独立して作った新聞社で、電気、ガス、石油等の業界に特化した記事を配信していた。
設立当初より、政治家や業界の不正を暴き、それなりの評価を得ていた。
記者には、思想家崩れの者が多く、社内では、日々、激論が交わされていたが、彼は、そのような事に一向に興味は無く、加わる事もしなかった。できるだけ大きな不正に近づき、そこから利を得る事、そのためならば、他人を蹴落としても良いと思っていた。
そんな彼に、唯一付いて来た男が、三年後輩のネズという男だった。
ネズは、前歯の出たネズミそっくりの顔つきをしており、人の顔色を見ながら動くところも、ネズミそっくりだった。小さい頃から馬鹿にされ、苛められる役回りだったが、まわりの者が思う以上の能力を自分は持っており、いつかは、それを見せ付けてやるんだと常に思っていて、そのチャンスを狙っていた。
が、ネズの思いを受け入れ、相応の付き合いをしてくれる者は、新聞社の中には、畑中以外にはいなかった。他の記者達は、相手にもしなかった。
畑中は、ネズが他の記者達のように議論を好むタイプでは無かったし、社内をうろついて、たまに役に立つ情報をもたらしてくれると言うところで、付き合っていた。
ネズは、畑中が自分を認めてくれていると一人合点し、彼に色々と相談事を持ちかけているうちに子分のような存在になってしまった。畑中に言わせれば、それがネズの持って生まれた宿命なのだ。そう言う意味では、三ツ谷の女房も同じだった。
三ツ谷は、畑中が新聞社に入社した時には、既にフリージャーナリストの道を歩んでいた。
エネルギー新聞社社長のかつての部下で、エネルギー新聞刊行時には三ツ谷も声をかけられたが、フリーの道を選んだ。その背景には、三ツ谷なりの激しい正義感があった。
三ツ谷の祖母は、台風で堤防が決壊し、濁流に押し流され、行方不明のままだ。その河川の堤防は、政治家の息のかかった土木会社が工事を請け負っていて、どうもそれが手抜き工事ではなかったかと言われていた。しかし、誰にその真実を確かめる手立ても無く、彼は、大好きな祖母を飲み込んだ濁流の跡に涙した。その政治家とは、神田洋介の義父の荒木であった。三ツ谷が、神田洋介周辺をしつこく探っていた背景には、そんな事情があった。
三ツ谷は、結婚したばかりで、生活費を稼がねばならず、フリーの立場で記事を書いては、エネルギー新聞社にも持ち込んだ。
畑中は、三ツ谷の追っているヤマの大きさを伝え聞いていた。だから、新聞社で三ツ谷の姿を見かけるたびに近づいては、情報収集しようとした。しかし、それは、店から物をくすね取るのとは訳が違った。三ツ谷を酒に誘い出し、飲ませた上でと考え、それを実行したが、あまり酒を飲まない三ツ谷に、この手は通用しなかった。
そうこうする間に、畑中は、編集長と折り合いが悪くなり、口論の末、いきおい三ツ谷のようにフリーの道を歩くはめになってしまった。
畑中は、三ツ谷を頼った。三ツ谷も、最初は、親切に教えてくれたが、畑中の目線の先にあるものが、どうも自分とは合わないと感じるや、彼との間に距離を置こうとし始める。
そんな矢先に三ツ谷は殺された。
畑中は、三ツ谷の拾い集めた情報を入手しようと、加奈子に近づいたが、その甲斐も無く、一週間後に、三ツ谷の集めた情報は、三ツ谷の最も信頼する大学時代の友人の男からリークされてしまう。
ただし、この情報は、神田洋介や五豊商事の立居らの手によって手際よく処理され、五豊商事社長のお涙頂戴の記者会見によって幕を閉じた。
それ以来、どのようにつついても、三ツ谷があげようとした神田洋介と五豊商事中心の政財界癒着の糸口は見えなくなってしまった。
畑中が、加奈子から取上げた証拠写真も、神田洋介の手先によって消滅させられてしまった。
それ以来、畑中は、加奈子に、三ツ谷の敵を討ってやると言葉巧みに近づき、自分の欲望を満たす対象としたが、実際に、彼女に約束した事のほんの僅かも実現できていない。
偶然、五豊商事の社員情報を入手しなければ、三ツ谷が死んで十年以上たっており、五豊商事のことなど、彼自身も忘れ去ってしまうところだった。
彼が、偶然入手したのは、不法投棄されたコンピューターのテープメディアだった。
とある海岸に、ダンボール一箱分がぞんざいに放置されていた。教えてくれたのは、たまに飯を食わせてやっている、浮浪者だった。
屑を探して海岸に足を運び見つけたのだと言う。
中のデータを解析してみよう。畑中にしては、知恵がまわった。
テープメディアを使うほどの企業なら、そこそこ大きな企業に違いない。
その中身には、金のなる情報が埋まっている可能性もある。
たいした内容ではなくても、企業名さえ明らかになれば、業界ゴロと言われる人間のところに持っていけば、買い取ってくれる可能性もあった。
彼は、こんな時のために知り合いになっておいた大学院生に連絡を取る。
捨てられたばかりのようで、海水に浸かっていないのいが幸いして、大学院生は、いとも簡単にデータを読み出した。
「それでも、徹夜したんですからね。」
と言う大学院生に彼女と共に焼肉を食べさせ、打ち出したリストを畑中の部屋に運び込ませた。
「企業の人事情報ですね。ほら、大手企業なんかは、早々とコンピューターを導入して、社員情報なんかを管理してるでしょ。」
「そうだな。」
と言われても、畑中は、そういう事には疎い。
「でもって、そのデータのバックアップを一定期間保管する企業も出てきたんですよね。大きな所では、ヨネビシなんかがそれです。で、保管期間を過ぎたデータに関しては、保管を委託された企業が責任を持って廃棄する事になってるんですが、その多くは、さらにその下請け業者に任されます。いい加減なところだと、このケースのように金だけ受け取って、適当な場所に捨ててしまうようです。たいてい、埋められるんですが、今回のように、まるで中のデータも消さずに放り出すなんて、本当に個人情報保護もあったもんじゃない。まぁ、そのような規制も無いわけですから、日本の情報化なんてこんなとこ止まりなんでしょうね。だから、アメリカの亜流だって言われるんですよ。」
「で、このリストは、一体どんな内容なんだ。」
「大手何社かの十年前の人事情報ですよ。社名は、ここに出てます。部署名、個人名、住所は、すべてカタカナで見辛いです。何本かのテープをまとめて出力してますから、さらに見辛くなってますが、容赦ください。こちらも、無い時間の中でやってるんですから。」
「わかったよ。ありがとう。このデータが高く売れたら、もっといい物食わせてやるよ。」
リストは、カタカナ五文字に縮められた会社名を頭に、何桁かに分離された数字、その後ろに円マーク付きの金額を現すらしい数字が並んでいる。どうやら、給与リストのようだ。
数字の羅列の後に、各数字と部署名や、人名、住所を照らし合わせるリストが続く。
それらが、何社かまとめて、一定間隔で切り取り線のつけられた長い用紙に印字されている。会社ごとにデータの記録の仕方は微妙に異なるが、見慣れれば、畑中にも、データの内容は把握できた。
記録された年代を見れば、だいたい十年前に遡って三年分くらいのデータだとわかる。
あまり古いデータでは役に立たないと、ほとんど失望しかけた頃に、“ゴホウ”の文字を発見した。五豊商事だろう。十年前というと、三ツ谷の事件の何年か後だ。
さらにリストを見ていく。十年前、十一年前、十二年前、十三年前に“ナイネン”の文字を見つける。三ツ谷は、“ボイラー”をキーワードにして追いかけていたはずだ。
“ナイネン”、つまり“内燃”は、“ボイラー”の符号に違いない。
十二年前には、その部署は忽然と姿を消している。それ以外の部署は、無くなっていたとしても、だいたい、どこかに吸収されたのであろう事が、推測された。例えば、“ギョルイ”が、次の年には“カイサン”に変わっており、おそらく五豊商事の業種から見れば、海外から魚関係を中心に輸入していた部署が、海産物に手を広げたのだろう。“ギョルイ”は、二課構成だったのが、“カイサン”で三課構成になっているあたりを見ても、おそらく、この推測は間違っていないと思われた。
それが、“ナイネン”だけは、どこにも引き継がれていない。さらにおかしい事に、翌年に“シンキ”と言う部署が生まれ、またその翌年には消えている。
メンバー構成を見ると、“ナイネン”のメンバーは、ほとんど全員“シンキ”に移動しており、その翌年には、どうやら全員別々の部署に散らされているようだ。
畑中に、さらに詳細に見る目があれば、“スギタ セイジ”の名が、“シンキ”の翌年から見当たらない事に気がついただろう。年齢こそは記載されていないが、給与額を見れば、定年退職ではないことくらいわかるはずだ。
しかし、データが、社員名をキーに並べられていれば、さすがの畑中もすぐに気がついただろうが、このリストは、部署名を第一キー、課を第二キー、役職を第三キーとしているので、よほど丹念に見なければ、気がつくべくも無い。
どちらにしても、もう十年以上前の事だ。何か新しいネタが転がっているとは思えないと、畑中は考えた。
彼に時代感覚と政治家を理解する頭さえあれば、すぐに、このリストにお金の匂いを嗅ぎ取れたことだろう。
嗅ぎ取れたとしても、彼に、それをお金に変える才が、あるかどうかは、また別の話だ。
取りあえず、“ナイネン”に所属していた人間のその後だけは調べておこうと思った。
それくらいの頭は働いた。
大方の者は、後が追えた。
“ナイネン”つまり、内燃部には、仕事熱心な人間が多かった。一度仕事にとりかかると、三、四日は帰宅しないような、そんな連中ばかりだったので、別の部署に回されても、それなりの成果を残せた。
だから、労せずして、今の所在を突き止めることができたし、多くは、役職についていた。
一人、“スギタ セイジ”だけは後が終えなかったが、責任のある役職に付いていた訳でもないので、畑中は、あまり重要視していなかった。
が、杉田一人の行方が追えないのが、どうにも居心地よくなかった。だから、あえて彼の住んでいたアパートを訪ね、情報を求めたに過ぎない。
三ツ谷が追っていたヤマの全ては、大野と言う本部長が握って自殺したものと、頭から信じ込んでいた。
だから、アパートの大家から連絡があった時も、あまり気が乗らなかったのは事実だ。

「これなんだけどね。」
と、山中荘の大家が、しわくちゃになった紙切れを差し出した。
「四十過ぎくらいの男の人に渡されたんだよ。もし、杉田さんから連絡があったら、必ずここに連絡するように伝えてくれって。」
「で、連絡は?」
「無いよ。あるわけも無いだろ。あたしゃ、そう言ったんだけどね。その男の人にも。だってねぇ、突然姿を見なくなったんだから。」
「それって、何か事件にでも巻き込まれたとか。」
「知らないよぉ。でもねぇ、杉田さんが居なくなってからしばらく、この辺りに人相の悪い人達がうろちょろしてたからねぇ、どうなんだろうねぇ。」
「人相の悪いって、やくざみたいな?」
「ゴロツキって感じじゃないんだよ。ほれ、ちょうどスパイ映画に出てくるみたいな。」
「借金抱えて逃げたんじゃないんですかね。」
「そうかもねぇ。でも、家賃は、ちゃんと払ってくれる人だったけどねぇ。出る時も、半年分前払いして出てったんだよ。そんな人が借金を踏み倒すかい?」
「人は、見かけによらないってね。」
しわくちゃの紙片を押し広げて、何とか文字を読もうとするが、住所はおろか、電話番号も読めない数字が幾つかある。
「あんた、何で今頃杉田さんの事を?」
「いや、ちょっと知り合いなもんでね。」
「そうかい。ま、あたしゃ、いただけるものをいただければ、それでいいんだけどね。」
これで金を取るのかいと、口の中で呟きながら、大家にポチ袋を手渡した。
大家は、中身をあらためて、これだけかいという顔をする。
「また、何かあったら連絡してくださいよ。今回は、あいにく、手持ちが無かったんで少ないかも知れないですが、次回は、もう少し奮発しますから。」
それで、大家の顔が輝いた。
「杉田さんは、いい人だったよ。生真面目な感じのねぇ。でも、仕事が忙しかったらしくて、殆ど姿は見かけなかったねぇ。そのせいで、奥さんもねぇ。」
「ご結婚されてたんですね。」
「ええ、綺麗な方でねぇ、何でも社内結婚だとかで。最初は、明るくて、ほがらかだったんだけど、ご主人が、杉田さんが、あまりに帰宅されないんで、段々にねぇ、落ち込んじゃって、お子さんができてからは、育児にも疲れてたみたいでね。それでね、とうとう離婚だよ。」
そこまで喋って、畑中の顔をちらと見る。が、これ以上、彼からお金は出てこないと見て、
「おや、まぁ、こんな時間だ。ちょっと、何してんだい、もう忙しいんだから。さ、帰っとくれ。」
大家は、いそいそとアパートに入っていった。

「杉田清治さんのお身内の方ですか?私、杉田君の同窓生で、今、同窓会名簿を作ってるんです。」
もらった紙片には、住所と電話番号が書いてあったが、住所は、県名がかろうじて読み取れるくらいで、後は変色しているのと、字が独特のカナクギ流なのとで、読める部分が少ない。
電話番号は、市外局番が二文字程度と、最後の三文字がかろうじて読めた。
が、県が静岡なので、後は、真中の二文字と終わりの四桁の最初の数字を推測するしかない。
県名の次の郡の名前を地図帳で類推して、とりあえず、真中の二文字の内の先の一文字ははクリアした。これで、手当たり次第にかける先が、千件から百件に減った。それでも、百件。ただ、真中の二文字のうち後の一文字に使用されている数字は、一から三までの数字である事が分かった。これで、三十件に絞り込めた。しかし、電話帳をめくっても、絞り込んだ三十件のどこにも杉田姓は見当たらない。
とりあえず、絞り込んだ三十件に電話をかける。
一分話して、市外通話料金を取られるから、約百二十円。三十件だと、三千六百円。これは、畑中にとっては、痛い出費だ。
しかし、全てにかけるまでもなく、すぐに杉田清治の関係者に行き当たるだろうと、甘く考えた。
駅前の電話ボックスを占領して、約三十分。畑中は、げっそりした様相で、ボックスから出てきた。長電話が終わるのを待ちかねた男が、畑中の肩にわざと強くぶつかってボックスの中に入っていったが、畑中は、そんな事に腹を立てる余裕など無かった。
全てにかけて、杉田清治の関係者に行き当たらなかったと言う事は、その言伝を山中荘の大家に手渡した男が、もうどこかに引っ越してしまっているか、わざと知らない振りをしているかのどちらかだ。
そう言えば、ある一軒は、「杉田清治さんの」と、言いかけたところで、「違います」と、すぐに電話を切られたが、後で考えると、どうも怪しい。
かと言って、その電話番号を覚えているわけも無い。
また最初からかけ直すかと、大量に十円玉を用意し、もう一度ボックスに入り、受話器を取った時に、ふと閃いた。
「恐れ入ります、そちら五豊商事 人事部様ですか。」
「そうですが。何でしょう?」
さすが大手ともなると、すでに各部署に直通番号を入れている。
「林田君の今の住まいを知りたいんですが。」
「残念ですが、個人情報をお教えするわけには、参りません。」
「そうですか。私、林田君の同窓生で、今、同窓会名簿を作ってるんですよ。杉田清治さんと社内結婚されて依頼、連絡が取れていないので、ぜひ、教えていただきたいのですが。」
「残念ですが、やはり、規則は、規則ですから。」
ここで引き下がらないのは、さすが、腐ってもジャーナリストのプロ魂だ。
いきなり涙声になって、
「私、私、白血病の宣告をうけまして、余命幾ばくもないんです。」
最近、そう言う映画が流行っているから、結構効果があるだろうと踏んだ。
「そうおっしゃられても。」
相手の声の調子が、やや弱くなる。
「私、昔、林田君の事を密かに、密かに。」
ここで、声を震わせる。
涙こそ出ないが、条件反射で、鼻水が出てくる。
それをすすり上げて、
「死ぬまでに、一目。お願いですから。」
「ち、ちょっと待ってくださいよ。」
受話器の向こうで、ロッカーを開け、ファイルを引き出し、ペラペラと紙を捲る音がする。
「あ、ありがとうございます。」
「社員情報は誰にも漏らしてはいけないんですから、ここだけにしてくださいよ。」
「勿論です。」
暫らくして、
「あれ、あなた、確か林田さんの住所っておっしゃいましたよね。」
「は、はやし、あ、はい。」
肯定とも否定とも取れる返答を取り乱した声に載せる。
「杉田清治さんの奥さんですよね。」
「はい、見つかりましたか?」
「杉田さんの奥さんは、林田さんではなくて、沢田さんですよ。」
「右目の下に泣き黒子のある。」
「いや、残念ながら、写真が無いので、そこまではわかりませんが。」
「ちょっと、出っ歯気味の。」
「いや、だから、分からないですけど。」
「あ、でも、そうです。沢田さんです。沢田さんでいいんですよ。」
「あなた、本当に。」
と、人事部の男が言い切る前に、ガシャリと、受話器を置いた。
これで、絞り込める材料は出たので、次は、三十件の中に沢田姓を調べてみた。
見つかった。しかも、一軒だけだ。これなら、話が早い。
畑中は、小躍りして、早速、そこに電話をかけた。
「はい。」
電話を取ったのは、暗い声の若い男。
「沢田さんのお宅ですか?私、杉田清治さんと同級の者で、今度、同窓会名簿を作る事になりまして。」
「杉田なんての、知らねぇよ。お前、さっきも同じような電話かけてきただろ。」
「そちら、杉田清治さんの奥様の。」
「何なんだよ、お前。どこの回し者だ。」
「回し者?」
「それとも警察か?」
「い、いや、そんな怪しい者じゃぁ。」
「杉田なんて、いもしない男の事を尋ねるなんて、かなり怪しいじゃぁねぇか。」
「康弘、誰からなんだ。」
受話器の向こうで、もう一人、年老いた男の声がした。
「誰からでもいいだろ。」
康弘と呼ばれた若い方がぞんざいに答える。
「友達か。」
「うるせぇ、じじいは黙ってろ。」
「やれやれ」と、畑中は思った。とんだ所に電話をかけてしまったみたいだ。
「ともかく、杉田なんて男は、ここにはいないよ。」
「杉田?杉田って言ってるのか?その人は。」
と、また老人の声。
「おう、そうだよ。それがどうかしたのか。どうせ悪戯電話だよ。」
「ち、ちょっと、代わってくれるか。」
「なんでぇ、じじい。お前の知り合いかよ。」
康弘に代わって年老いた男が電話に出る。
畑中は、手持ちの小銭を数えてみた。十円玉は残り八枚。一分以内に話をつけないといけない。
「孫の康弘が大変失礼なことをしました。」
と、年老いた男は、丁寧に孫の非礼を詫びた。
「いえ、とんでもない。杉田清治さんをご存知なんですよね。」
「存じておりますが、できれば、その事でお電話などしていただきたくは無いのですが。」
「どういう事です。」
「杉田清治のおかげで、私は、酷い目に遭いましたので。できれば、その名前は、忘れたいので。」
「まぁ、何かご事情がおありになるんでしょうが、たしか、娘さんが杉田清治さんと、ご結婚されてますよね。」
「そのような事も、忘れてしまっております。」
「じゃあ、娘さんは、もう杉田さんとは。」
「娘は、十年前に死にました。」
「それは、ご愁傷様です。ところで、今、出られた方は、もしかして、杉田さんの。」
「ご推測通りですが、あれには、言わないようにしております。」
「じゃあ、杉田さんが今、おられる場所も、ご存知では。」
「勿論、知りません。ですから、もう二度と電話をしないでいただけますか。」
「そうですか。」
「全く、あの男は、最初から信用はしておりませんでしたが、せっかく、仕事が上手くいくようにと、政治家を紹介までしてやったのに。」
そこで、金が尽き、電話が切れた。
畑中は、最後の言葉に飛びついた。
近くのタバコ屋で、持っているお金を全て十円玉に換えて、公衆電話に走った。
あいにく、人が入っている。煙草三本ばかり吸って、ようやく空いたので、奪うように受話器を取って、先ほどの番号に電話する。
出たのは、若い男だった。
「何だよ、お前。じじいなら出かけたよ。」
「そうですか。それは残念。」
「一体、何の用なんだよ。」
「君、杉田清治さんの息子さんだよね。」
「だから、そんな男、知らないって言ってるだろ。」
「君は、父親の名前も知らされていないのか。」
「おれの父親は、とっくに死んだよ。」
「お父さんは、何て名前の人なんだい?」
「知らねぇよ。知ってても、あんたには、関係ないだろう。」
「いやねぇ、ちょっと、ある事で、君のお父さんに会いたいんだよ。」
「だから、死んだって言ってるだろ。」
「たぶん、そう聞かされているだけなんだろ。いいかい、今から言う住所を何かに控えてくれるかい?」
「何で、そんな事しなけりゃならないんだい。」
「頼むよ、それで、君の方で、何かお父さんに関する事がわかったら、葉書かなんかで連絡して欲しいんだ。」
「そんな事するいわれは無いよ。」
「その代わりに、こちらでわかった事は、全部報告してあげるから。」
無理やりに住所を控えさせて、電話を切った。
しかし、向こうから何か新しい情報が手に入るだろう何て事は、もとより期待していない。
一度、この杉田清治の息子とは顔を合わせて話をしないといけないと思った。

畑中は、三ツ谷の記事の切抜きを引っ張り出して、読み返してみた。実に十年ぶりだ。
五豊商事と神田洋介の癒着の可能性が書かれているが、それは、あくまでも疑いのレベルで終わっている。
確かに、ある時期を中心に、五豊商事の社長、常務クラスと神田洋介の打ち合わせに名を借りた宴会が盛んに行われており、建設官僚の名前などもあがっている。
ある時期とは、建築基準が、今後の燃料不足を想定して、エネルギー基準も盛り込んだ形で改定された時期だ。それが、五豊商事の輸入する家庭用ボイラーに追い風となり、飛ぶように売れている。対して、国内メーカー各社は、すべてその基準に合わせて、自社製品を改造せざるを得なくなり、大きな痛手を受けている。
これが、癒着が疑われる所以だ。
三ツ谷は、さらに、全国で発生した火災に着目し、その五パーセントの家庭が五豊商事のボイラーを使用していた事を突きとめている。五パーセントと言えば、たいして多い数字とは思えない。しかし、全焼し、家人が焼け死んだ事故だけを引き出し、さらに、アパートでの火災をここからはぶき、放火の可能性があるものもはぶくと、この五パーセントが、三十七パーセントに跳ね上がる。
つまり、三ツ谷は、政財界の癒着により、死ななくてもいい筈の人々が、死ぬ事となった、それも、焼死などと言う悲惨な死を受け入れねばならなかったと言う事を、暴きたかったのだ。
この後、五豊商事の本部長が自殺し、その遺書が公開された。自分は、今後の日本のエネルギー事情を憂いて、海外からボイラーを輸入する事に踏み切った。大型ボイラーでは、既に日本でも実績のあったメーカーのものであるから、まず大丈夫であると確信し、事前テストの手を抜く事となってしまった。それがために、何軒かのお宅の火災の原因と目される事となってしまい、非常に悔いている。死して、世間と会社にお詫びしたい。
そういう内容だった。
五豊商事は、さらに、全国に技術者を出し、既に取り付けてあるボイラーを火災が発生しないようにと、改造しているが、燃費も格段に悪くなり、使用者からかなりクレームを受けた筈だ。納品前の物については、キャンセルを受けつけ、その在庫処分で、一時的に財務状況を悪化させている。
建設官僚は、建築基準改訂を次期尚早として、旧来に戻してしまった。
が、これで、世間的にも、追求の手が止まったのは事実だ。

畑中は、もう一度“ナイネン”に所属していた者に連絡を取った。
断られるのを覚悟で、杉田清治について聞きたいと、単刀直入に申し入れた。
矢島と言う、技術サービス会社に部長職で出向している男が会う事を承諾してくれた。
矢島が待ち合わせに指定したのは、相手の顔もほとんど見えないくらいに薄暗いジャズ喫茶だった。喋っている者は一人としていない。
腕を組んだり、上をぽかんと見上げたり、それぞれが、思い思いの格好で、他から独立し、音楽の中に身を任せている。それぞれが、完全に他から切り離されているように見えて、実は、ジャズというけたたましく破廉恥な音と空間を孤独に共有していた。
畑中は、指定された店の奥の席に足を運んだ。髪を少し伸ばしてますと聞かされていたが、店内は、老若男女、ほとんど髪を伸ばし、ジーンズをはいている。
さらに奥に足を運ぶ。最も奥の柱の陰に、中年の男が一人、柱に身を寄せるようにして座り、目を閉じて、ジャズを聞いている。その男に見当をつけた。
「失礼ですが。」
と、耳元に顔を近づけ、
「矢島さん、でしょうか。」
男は目を開け、うなずくと、自分の隣の席を指差す。
「お電話させていただいた、畑中と言います。」
矢島は、ジーンズにグレーのブレザーを着て、髪と髭を上側だけ伸ばし、ときおり、まるでジョン・レノンのように遠くを見るような目つきをする。
矢島の隣に座りながら名刺を差し出す。
矢島は、それを、軽く会釈して受け取り、
「ここ、いいでしょ。」
「え?」
「この席、ちょうど柱の陰で、あまり音が入ってこないんです。喋っても、声が店の方に行かないから、他の人の迷惑にならないんで、マスターも文句言わないし。」
確かに、入り口に立った時より、幾分、音量は低くなる。
しかし、日頃ジャズ喫茶などに出入りしない畑中にとっては、それでも、うるさくて喋っていられないところだが、矢島は気にせず、話を始める。
「清さんのお知り合いだとか。」
「私ですか?」
慣れないので、畑中の声がつい大きくなる。マスターらしきアフロの男が、コーヒーをテーブルに置きながら、畑中に向かって口の前に指を立て、シーッとやる。
さっきより低い声で、
「私ですか?」
「ええ。どのようなお知り合いなんですか?」
「お電話でもお話しましたが、子供の頃、よく遊んでいただいたんです。」
「清さんに?」
「ええ。」
「清さん、面倒見良かったからなぁ。」
「矢島さんは、杉田さんとは。」
「五年ばかし、一緒に仕事をしました。」
「ボイラーの?」
「ええ。」
「欠陥品だったらしいですね。」
「欠陥品じゃあないんですよ。あれが、機能だったんです。燃焼効率を上げる為に、ごくたまに、炎を吹き上げる。」
「そのために火災も発生したんですよね。」
矢島が怪訝な顔をする。
「あなた、本当に清さんのお知り合いですか?」
「勿論ですよ。杉田さんから、清さんから聞いていたんです。」
「清さんから?そうですか。口の堅い人だったが、やっぱり、誰かに言いたくて仕方なかったんですね。苦しんでらしたから。」
「苦しんで?」
「ええ。自分が手がけたボイラーのせいで、何人かが無くなったわけですから。」
「杉田さんが手がけた?手がけたのは、ほら、もっと上の、自殺された。」
「本部長ですか。あれは、社長や、もっと上を守る為の人身御供ですよ、絶対に。清さん、自分の手柄を吹聴するような人じゃなかったから、社内でもほとんどの人が知らないですけど。」
「と、言うと?」
「政治家に社長を合わせる段取りをしたのは、清さんなんですよ。それまで、建設業界には、口利きがいなかったですから。」
「杉田さんって、政治家と知り合いだったんですか?」
「どんな知り合いなのかは、良くは知らないですけどね。」
「最近、杉田さんからの連絡が無いんですが、そちらには、ありますか?」
「無いんです。私も、清さんに会いたくて。会って、お礼がしたいんですよ。」
「私もなんです。いろいろお世話になりましたから。就職の時も。」
と、畑中は、矢島にカマをかけてみる。
「そうですよね。私なんか、清さんがいなかったら女房子供を路頭に迷わせてたかも知れない。」
「あなたも、杉田さんから就職を世話してもらったんですか?」
「いや、私の場合は、会社を辞めずにすんだって話ですよ。ボイラーが駄目になって、閑職に追いやられて、飼い殺しの状態で、もう会社を辞めようかと思っていました。それを、清さんが自分を犠牲にして、助けてくれた。」
「ほう、それはいい話だ。杉田さんらしいなぁ。」
「でしょ。どんな事をしてくれたのかは知りませんが、ある日、いきなり清さんがいなくなって、その翌週には、我々全員、閑職から開放ですよ。」
「杉田さんに、そんな力があったんだ。」
「政治家に口を利いてくれたんじゃないかって、我々は噂したんですがね。」
「その時の政治家って、神田?」
「だったっけかなぁ。あまり、政治方面には明るくないんで。」
「神田、洋介。」
「ああ、そんな名前を何度か聞きました。」
「今や、大物ですね。次期総理大臣候補ですよ。」
「さすが清さん、すごい知り合いがいたもんだ。じゃあ、今は、その政治家の下で?」
「いや、そうじゃないみたいなんです。」
「ますます会いたいなぁ、清さん。」
矢島は、そう言いながら、涙さえ浮かべている。
「その政治家に命を狙われているとか。」
「まさか。そんな、ゼロ・ゼロ・セブンじゃあるまいし。でも、そうなんですか?」
「いや、まさか、そんな。」
「ボイラーと火災の関係が明確になった時も、清さん、必死で上を説得してましたねぇ。この先、何人の人を焼死させるんだって。」
「上の方は、どうなさったんですか。」
「もみ消してましたよ。特に、立居さん。おっと、今の五豊の社長だ。」
畑中の目が輝いた。神田洋介の前に、五豊商事の社長。その方が、危険度は少なそうだ。
「ともかく、もし、杉田さんの居場所が分かったら、連絡いただけますか。私も、何かわかりましたら、ご連絡いたします。」
そう言って、畑中は席を立つ。矢島は、もっと喋りたそうな顔をしていたが、「よろしく」と、頭を下げて、また音楽に入っていった。
ジャズ喫茶を出ると、初夏の陽射しが高揚した畑中の目をいる。
五豊商事から金を引き出すために、どうようなカードを用意するか。
そればかりを頭の中で転がしながら、畑中は、街の喧騒の中に溶けて行った。


(続く)