(五)






「じゃあ、俺、今日は帰るよ。」
清治が、そう言って丸屋旅館総務部長の安田の前を通り過ぎようとすると、
「ちょっと待てよ、清さん。」
と、流れ落ちる汗を拭き拭き安田が呼び止めた。
「悪い、今日は、ちょっと、駄目なんだ。」
何を勘違いしたか、清治が酒の誘いを断るような言い方をする。
「違うよ、清さん。帰るって、一体どこへ帰るつもりなんだ。」
「ああ、そうだなぁ、とりあえず、和江の墓に顔見せて、今日も寺の住職の所に世話になるか。」
「今日も、って。」
「昨日も、朝まで飲んでたんだ、住職と。」
「いくら和江さんの墓が近いからって、毎日、住職の世話になるわけにもいかないだろ。寮を用意するから、そこに住みなよ。」
「そりゃ、ありがたい。」
「ちょうど独身寮が一室空いてるから。」
「独身寮か。夫婦寮は無いのかい。」
「清さん、今、独身だろ。」
「そりゃまぁ。でもなぁ。ほれ、あれだ。」
安田は、漸く清治の意図を察した顔をして、
「夫婦寮ねぇ、うん、空いてるには空いてるが、空きっぱなしの所が一室あった。」
「ふーん、もしかして、あれか、幽霊話か?」
「御明察。和江さんには悪いが。」
「何、いいって事よ。ありがちな話だ。夏も近いし。」
「でもな、本当に出るらしいぜ。」
「和江が?」
「じゃないと思うんだが。」
「和江でいいよ。」
「居着かないんだよ、その部屋だけ。」
「じゃあ、俺が居着いてやるよ。」
「じゃあ、律さんに掃除しとくように電話を入れとくよ。」
「いいよ、俺がやるから。和江と一緒に掃除するよ、昔みたいに。」
「おい、清さん、止めてくれよ、縁起でもない。」
「じゃあ、家具も何も無いんだな。」
「たしか、前の夫婦が、箪笥なんかを一通り置いて出てったと思うよ。」
「そりゃ、なおさら大助かりだ。」
清治は、安田から部屋の鍵を受け取って、事務所を後にした。

丸屋旅館の玄関先は玉砂利の敷かれた、広めの前庭になっている。大き目の踏み石が、赤い擬宝珠の木製の橋の所まで続く。丸屋旅館から道路に出るには、客も従業員も、この橋を渡らねばならない。従業員用の橋を渡そうという案も過去にはあったが、谷を渡すため、結構高くつくので、結局断念し、今まで通り、従業員は客と同じ橋を渡る事となった。
前の社長の佐久衛門は、これを是非何とかしたいと言っていたなと、清治は懐かしく思い出した。
橋を渡り、谷川沿いの山間の道を駅に向かって下る。橋を渡ってすぐの所にバス停があるが、次の笠野形温泉駅前行きのバスの時間を見て、歩く事に決めた。
時折、前方の木立の間にリュックを背負った若者二人の姿が見え隠れするのは、峠越えで隣町から歩いてきたものと思われた。
万博より前、六十年代には、そういう若者の姿が、そこかしこにあった。
最近は、それがバイクや自転車に変わって来ている。ヒッチハイクといって、国道沿いなどでダンプカーをつかまえて放浪する若者もいる。
どちらにしても、清治の若い頃には、考えられなかった姿だ。
ろくに食べ物が無いのに、勤労動員で無理やり働かされた。サボろうものなら非国民とののしられ、往復びんたで済めばめっけものだった。
また、清治のような愛国少年は、サボる事など考えもしなかった。
木炭バスの燃料用の木の切り出しに、毎日のようにこんな山の中を歩かされたなぁ等と考えながら道を下っていると、後ろからクラクションを鳴らされた。
車をやり過ごそうと道の端に体を寄せると、黒塗りベンツがすぐ横に停まり、後部座席の窓が開いて、三枚刈りの迫力のある顔がぬっと出る。
その顔に「おい、清の字」と呼ばれて、やっと相手が誰だか判別ついた。
平林剛三だ。
かなり肉がつき、あごのところがダブついているので、清治が知っている平林剛三の顔とは、かなり違っているが、清治の事を「清の字」と呼ぶのは、この男しかいない。
平林剛三は、笠野形温泉の顔役として、昔から地元のチンピラを束ねている。
「よお。」
と、清治が答える。
「久しぶりだな。生きてたのか。」
「当たり前だ。生きてるよ。」
「そりゃ良かった。」
平林剛三は清治より七歳ばかし年上だが、俺、お前で呼び合えるのは、その昔、平林が他県から進出してきた別の組と抗争していた時に、たまたま、清治が平林の命を救う事があったからだ。
そうでなければ、平林は清治から見れば、不当に搾取するだけの人間になる。
そうであっても、不当に搾取はされたのだが。
平林の稼業は、用心棒であり、温泉町の顔役である。つまり、温泉町に息づくあらゆる稼業の者、特に清治達のように表に顔を出せない稼業の者達から、みかじめ料を搾取する代わりに相手が彼の島の中で、他の同業者や警察等といざこざを起こした時、起こしそうな時に、裏から手を回してうまく処理してやるのだ
清治達、つまり、清治と和江は、特にどこかの旅館と出演契約を締結するなどという稼業では、勿論、無かった。
一室貸し与えてもらえさえすれば、どこの旅館でやらせてもらっても良かったのだ。が、そこは、義理と人情が働いて、一度やらせてもらった旅館の口利きを最優先した。
客は、清治達が呼び込みをして引いてくるのでは無く、旅館に問い合わせが入ったり、旅館側から馴染みの客に声をかけたりした。
料金は、その時に取り決められる事が多かった。問い合わせを受けてくれる旅館側にも相場感というものがあり、その感覚に準じて客は値決めをする。
清治達は、たいてい当日に旅館から、今日の仕事の有無と、客層、凡その人数、そして、客が支払う料金を知らされる。
その情報を元に、出し物を決める。出し物と言っても、清治と和江の場合だと、四十八手のどれをどの順番で見せるか、と言う事になる。
四十八手は、江戸時代に決められただの、いやもっと古いだの、発祥も定かでなく、その内容、順番など、特に定説というものも無い。清治達は、和江の前の相方の市太郎から伝授された内容、順番を正としていた。
それは、破廉恥なスタイルの愛撫から始まり、徐々にアクロバティックな体位へと展開するものだった。
馬鹿な夫婦が、浮世絵に書かれた四十八手の一つを真似ていて手首を挫いた、等という川柳が江戸時代には残っている。
それを、少しずつ体をずらしながら、しかも快楽を表現しながら、次々に体位を繰り出す。
そして、最後にクライマックスを迎え、和江がはてる。
余韻を残しつつ二人は起き上がり、布団の上でお辞儀したまま客が出て行くのを待つのだが、その時に客の代表が、旅館と取り決めた料金を清治の前に置いていく。
清治は、その中味を検めたりしない。
客が全員出て行った後、清治と和江は着替えをし、置かれた札束の中から、事前に旅館から聞かされていた金額の半分を部屋に置いて出て行く。
旅館が事前に集金し、清治達に手渡すような事は、決してしない。
清治達がやっている事は、万一官憲に見つかると猥褻罪でお縄頂戴となり、旅館がそれに絡んだいた事が知れると、営業停止になる事もある。だから、あくまでも旅館が預かり知らぬところで清治達がやっているという態を取らねばならない。
清治達が勝手に見世物をやって、勝手に部屋の使用料として宿泊費を置いて帰っているというわけだ。
旅館側は、清治達が部屋を出た後、この料金を回収する。
そして、二割を宿泊料として受け取り、三割を清治達から預かった金とする。
帳簿に載って来ない金だが、これが平林剛三の懐に入る。
公に陰毛を見せる事さえご法度なのだから、もろに性器を露出する清治達の見世物は、さらに罪が重い。
官憲に捕まれば、何年くらい込むか分からない。しかし、赤線廃止からこっち、国家権力は、狂ったように性に対して潔癖であろうとし、至る所に官憲の目を光らせている。少し売れ始めると、もう目をつけられる。古い因習の名残だと、文句を言っても始まらない。
そんな事は、「マダム・チャタレイ」論争ともども芸術家に任せておけばいい。
清治達は、闇に隠れて生業を行い、息をひそめて官憲の目を逃れる。それでも、後で警察から呼び出しの来る事がある。
こんな時に、平林剛三が、こっそり裏に手を回して、清治達を助けてくれる事になっていた。
平林は、若い頃から、向こう見ずで腕っ節は強かった。正義感は全くと言っていいほどに持ち合わせていなかったが、理由も無く押さえつけられる事には、猛烈に反発した。
だから、徴兵され陸軍に配属されたが、何度か上官を殴り倒して、営倉に入れられている。
彼の反骨精神は、別に誰かを助けようとして発揮されるものではなかったが、結果的に誰かを助け、彼が犠牲になって、営倉送りになる事が多かった。軍とは、そういう所だった。
この正義感無き抵抗こそ、彼を町の裏社会に君臨させる事になる、もっとも大きな要素といえる。
戦後、シベリアに抑留され、そこで、彼は、没落した軍部に成り代わって権力を得、思うままにそれを振りかざし、何人もの対立者を凍土に生き埋めにしたが、義理人情に厚い彼は、寄って来る者には、裏切らない限り手厚く遇した。彼のせいで、祖国の土を踏めない者も多かったが、彼のおかげで極寒のシベリアを生き延び、無事帰国できた者も多かったのだ。
終戦三年後に帰国。その後、しばらくは新宿あたりでブラブラし、どう流れ来たか、この笠野形温泉に根を置き、地元のやくざを追い出したり吸収したりしつつ勢力を拡大した。と言っても山間部の小さな地区だ。たいした地盤でも無かったが、彼にはお気に入りのようであった。ここでは、警察署長といえども彼には頭が上がらなかった。
それは、警察署長が、かつてシベリアで彼の手下であったからだと人々は噂したが、表立って言う者はいない。この小さな町で、噂はすぐに尾鰭を付いて広まる。平林は、その事を良く知っており、自分のかつての手下であったとしても、決してなれなれしくせず、相手の立場を尊重し、必要な時にしか接触しなかった。
自分を守る為に相手の立場を尊重してやる事。まさにそれが、裏社会で生きているとは言え、平林を、一応この町の名士として人々に認識させる要因ともなっていた。
平林にとって、清治に対しては、命を助けてもらったと言う恩こそ感じるが、それ以外の利害関係は無いので、接しやすかった。また、誰も彼もが平林に対して腰を低くして接するので、一人くらい溜め口で話せる相手が欲しかったのも事実だ。だから、清治のまるで悪友のような言葉使いも、知らぬ者から見れば奇異に映ったが、平林にすれば嬉しい部分でもあったのだ。そういう相手は、清治以外では、隣町の寺の住職くらいだった。清治にしてみれば、誰に媚びへつらう事も止めていたので、相手が町の有力者であっても、和江の客以外には愛想する必要は無いと考えていた。ただ、ルールさえ守ればいいと。
そのルールが、みかじめ料だった。ルールさえ守っていよう。それ以外は、誰も束縛しないし、誰からも束縛されない。それが、誰をも裏切る事の無い最善の生き方だと、清治は思っていた。
「いつ来たんだ。」
「昨日だよ。」
「乗ってけよ、町までおりるんだろ。」
「じゃあ、遠慮無く。」
清治が平林の隣に座ると、平林の手下の運転するベンツが音も無く走り出した。
「いい車だろ。」
「ベンツか。」
「日本には、まだ台数が少ない。」
「高いんだろうな。」
「ああ、買うときも高いが、修理する時も結構高い。修理できる技術者が少ないんで、はるばる東京から来て貰っている。そうすると、出張旅費だなんだと取られる。」
「トヨタにしとけばいいのに。」
「ステータスって奴だな。」
「今朝方、丸屋旅館の駐車場にも停まっていたが。」
「あれは、大企業の社長のだ。お忍びだとさ。金くれたんで、うちの若いのを張り付かせておいた。」
「ほう。」
「変な奴らに写真撮らせないようにだとさ。他人に見られて困る事ならしなけりゃいいんだ。」
「あんたに言われたくないだろ。」
「俺は、誰にも隠し事してない。公明正大に生きてるさ。」
「そうか。」
「清の字。お前はどうなんだ。しばらく顔を見なかったが。五、六年か。」
「七年だ。」
「和ちゃんに恥ずかしくない生活をしていたのか。」
平林は、和江の事を和ちゃんと呼び、贔屓にしていた。清治達に客を沢山引っ張って来てくれたのも平林だった。
「恥ずかしながら、そうじゃない。」
「それじゃあいかん。」
平林が真面目な顔をして、清治の方に向き直った。
「ところで、どこまで乗せて行ってもらえるんだろう。」
平林の説教が始まりそうなのを察して、清治が話題を逸らす。
戦争帰りの老人は説教し出したら止まらない。清治は、そういうのが苦手だった。
「どこまでって。何処に行くつもりだ。」
「和江の墓に行こうと思っている。」
「千願寺か。しばらく住職にも会ってないな。あの生臭坊主、元気にしてるのかな。」
「ああ、実は、昨日一緒に飲んでた。」
「相変わらずだな。」
そう言いながら葉巻に火をつけ、
「おい。」
と、運転席に声をかける。
「千願寺ですね。合点です。」
運転席の手下は手馴れたものだ。平林が行き先を告げる前に、もうハンドルを回している。
「いいのかい。忙しいんじゃないのか。」
「俺みたいな人間が忙しいと、世間様が困るだろ。」
千願寺の住職は、確かに生臭い坊主で、何度か和江の客になって、和江を抱いている。
清治とも酒を酌み交わす仲だが、そんな事には頓着しない。
和江の何が気に入ったのか、そんじょそこらの女より、和江の体はありがたいのだと言う。
平林剛三も、一度和江を抱いている。
それがルールだった。
清治と和江が、初めて、この町に流れて来た時だ。平林は、若いのを清治の所に寄越して、みかじめ料の話と、試し抱きの話をさせた。
試し抱きとは、つまり、この笠野形温泉で色にまつわる仕事を始める者は、必ず平林剛三の元に女を一晩寄越さねばならないと言う、平林が、その手の裏商売の総元締めである事を認識させる為に勝手に定めたこの町の掟だった。
そのような掟は、この町に限らず、いたるところにあったので、和江は嫌がることなく平林の元に出かけた。
平林は、その夜のことを昨日の事のように覚えている。
遠目から見た和江は、痩せ細った貧相な女に見えた。どうせ抱いてもつまらなかろう、適当に事を済ませて、追い返してしまおう。
そう思っていた平林の前に、
「和江でございます。」
和江は手をついて挨拶をした。
うつむく和江の肩の線を見て、葉巻に火をつけかけていた平林の手が止まった。
遠目で見るより肩に力がある。平林の見下した視線を撥ねつける強情な力。
さらに、顔を上げたその和江の目に、平林は吸いつけられる。その目は、男のあらゆる煩悩を取り込み、力とし、自分の存在価値としてしまうような目だった。性の修羅場を掻い潜って来た者だけが持つ事を許される視線だと言っても過言ではない。清治の知らない、もう一人の和江の目でもあった。清治が知っているのは、天涯孤独の恐ろしさを身に染みて知っており、そのために、自分を守ってくれる相手に全身で縋り付く目だった。
平林の見た和江は、自分の身一つで生きていく覚悟を決めた女の目で、どちらも和江であった。
平林は、思わず身を乗り出し、和江の肩を押さえ、もう片方の手で和江のあごの線をなぞった。両方の手のひらに、和江の肉体の持つ弾力性が伝わってきた。
「服を脱いで、あそこに寝るんだ。」
平林は、奥の間の蒲団を指差してそう言った。
和江は立ち上がると、奥の間に行き、シミーズ姿になって布団の中に身を滑らせる。
平林は、座ったまま和江の肩から背中、臀部にかけての思いの外の肉付きに見惚れていた。
それは、和江が、清治と暮らすようになってから身に付けたものかもしれない。
「着痩せするタイプか。」
年甲斐も無く弾んだ気持を気難しさに隠しながら、褌姿になった平林は、和江を裸にしていった。
弾力性のある乳房、なだらかな腹部の白さと、黒々とした陰毛のコントラスト、乳房の上や右の腰骨の辺りにある黒子のワンポイントに、平林は、欲情を押さえきれなくなる。
そのまま和江の中に入り込み、包み込まれ、翻弄される自分を知る。
和江は、醒めた自分に気が付かれまいと、ひたすら相手の動きを取り込み、増幅させていただけなのだが、和江の体の作りとその動き自体が、和江の中に入った男にとっては凹型の鏡のようなものだった。
自分の煩悩の反射光を体の一点に浴び、攪拌され、やがて一気に己の無力を思い知らされ、やがて果てる。
平林も、和江の細く白い体の上で果てた男の一人だった。和江にしてみれば、自分の体の上を通り過ぎていった一人のオスでしかなかった。その事が、平林には、和江の白い体の照り返しの中で痛いほど身に染みた。
人は、必ず何らかの痕跡を残す事を求める。それが、限られた命を意識する者の定めだろう。和江の体は、それを拒絶した。そして、あろう事か、そう求める事の虚しさを、果てるその一瞬に思い至らしめる。
豪胆に見えて、実は繊細な神経を持つ平林だからこそ、そこまで感じ取れたのかもしれない。
ともあれ、平林は賢明な男だったので、それ以上、和江の体に触れようとはしなかった。
和江が招く新たな境地に達する事を望むより、自分の地位を守る事を選んだ。
果てるなり平林は、和江から体を離した。
「服を着ろ。」
そう言って、自分は裸のままに布団の上にあぐらをかいて、葉巻に火をつける。
「お湯、使わせてもろうて、ええですか?」
「向こうだ。」
平林の指し示した先に、和江はシーツを巻きつけて湯を使いに行く。
「バスタオルは、適当に使ってくれ。」
「はい。」
和江が風呂場で湯を使う音に、平林は、もう一度欲情し始めた自分を知るが、それをおさえつける。
「あきまへんでしたか?」
バスタオルを巻いて出てきた和江が、ハンドバックから赤いチエリーの箱を取り出して火をつける。
「あ、いや。」
口ごもるように返事をすると、和江の方を向いて、
「和江さん、だったよな。」
「はい。」
「なかなか良いよ。」
「おおきに。」
「丸屋旅館だったな。」
「はい。」
「予約もそこが取り次いでくれるんだな。」
「はい、そのように聞いてます。」
「まぁ、いつまでも裸じゃ風邪を引く。服を着てくれ。若い者に送らせるから。」
「それより、体、清めましょか。もう一回、お風呂入りますから。」
「いや、いいよ。相棒が心配してるだろ、早く帰るんだ。」
平林は、自分の意外な優しさに内心驚いていた。
平林が向こうを向いて葉巻を吸っている間に、和江は手早く洋服を身に付け、平林の後ろで正座し、手をついて、
「以後、よろしくお頼み申します。」
と、静かに頭を下げる。
「うむ。」
と言いながら、なお、平林は和江を帰したくない衝動と闘っていた。
平林にとっては、女は欲求を満たす為の道具でしかなかった筈だ。彼の立場上、女に入れ込むのはご法度だと、自らに常々言い聞かせてきた。
それが何だ、この体たらくはと、葉巻の煙をわざと鷹揚に吐き出して、我が身を落ち着かせる。和江を乗せた車が遠ざかる音を聞きながら。
それ以来、平林は、和江への思いをひた隠しながら清治、和江のコンビに客を紹介してやり、裏から支援をしてやった。
和江の葬儀の夜、参列せずに事務所で一人ブランデーを飲みながら、涙を浮かべていたが、その姿を誰も知らない。
それどころか、和江は、平林が彼女を自分の思い通りにしようとするのを拒絶しきれずに自殺したのだと陰で言う者もいた。
「清の字。まさかお前、信じてんじゃないだろうな、和ちゃんを自殺に追い込んだの、俺だって話。」
「そんな話があるのかい。身に覚えがあるんだろ。」
「バカ言うんじゃない。俺はなぁ、つまり、あれだ。」
「分かってるよ。」
平林がポケットからハンカチを出して、鼻をかんだ。一見、涙を隠しての事のように見える。清治は、そんな平林に熱い友情を感じた。
おかしな話だと、清治は思った。俺は、和江を高く評価してくれる相手に共感を覚えるようだ。それは、和江を通してこそ共有できる何かがあるからなのだろうか。その何かが、漠然として見えないが、例えば体内回帰のような意識なのかもしれない。和江を媒介として体内回帰を体験し、それを共有する。そうすると、和江は観音様みたいなものか。
だから、あの生臭坊主も、和江、和江と言っていたのか。
その生臭坊主が、千願寺の門前で清治と平林を出迎えた。
「お前んところの若いのが電話くれたんだ。珍しいじゃないか、ヤクザが寺に来るなんて。性根入れ替えたか。」
「ヤクザじゃねぇ。世話人と呼んでくれ。」
「どう呼んだって、やってる事は同じだろ。」
「相変わらず口の悪い坊主だ。おまけに手が早いとくる。この寺に来てもご利益ないのは、この生臭のおかげだな。」
「手が早いのは、極楽浄土に連れ添って上りたいからだ。」
「お釈迦さんに蹴り落とされろ。」
「まぁまぁ、二人とも。」
清治が割って入る。そうでなければ、延々と続きそうな雰囲気だった。
「ともかく、まずは、和ちゃんに挨拶させてくれ。」
と、平林。
「和江さんが墓石ともども逃げ出してない事を祈るんだな。」
「バカ言うな。墓石抱いて喜び勇んで迎えに来てくれるよ。」
「そりゃあ逃げる方向を間違っただけだ。」
「また始まった。」
と清治が溜息をつく。
昔から、二人が顔を合わせると憎まれ口しかきかない。
墓場の中をヤクザと坊主の憎まれ口が飛び交った。
が、さすがに和江の墓の前に来ると、二人は神妙になる。
「いい女を亡くしたな。」
「ありがたい体だった。」
そう言いながら線香を立てる。
住職が小奇麗に掃除してくれるのだろう、墓の周りには草一つ生えていない。
墓石には、何やら長ったらしい戒名が書かれている。
百万ぐらい積まなければ、付けて貰えない戒名なのだそうだ。
それを、住職が坊主の特権で、ただでつけてくれた。
俺がこの墓に入る時も見劣りしないように長いの頼むよとは、前日、清治が住職と飲んでる時に依頼した内容だが、清治も、住職も、とっくに忘れ去っている。
平林が、しばし手を合わせた後、住職が
「さて、久しぶりに庫裏で一杯やるか。」
と、清治達を誘う。
「住職、俺、ちょっと今日は、いけないんだ。」
「どうした。」
「ああ、和江と住んでた夫婦寮を片付けないと。」
「おお、あそこに住むのか。そういや、この前、出るからお経を読んでくれって言われてたな。」
「出るのかい。」
「おお、そう言うもっぱらの噂だよ。」
「和ちゃんか?」
「さて。」
「和ちゃんなら、いいじゃねぇか。願ったりだろ、清の字。」
「そうだな。足の無い和江と、また、一稼ぎしようか。」
「こら、二人とも、本人の墓の前で不謹慎だぞ。」
「坊主、お前が言い出したんだろ。」
「俺は、町の噂を話しただけだ。」
また、憎まれ口を叩きあいながら、二人は庫裏にあがっていく。
清治は、声をかけずに帰ろうとした。と、平林が振り返って、
「帰るんなら若いのを使ってくれ。どうせ、夜まで外で待ちぼうけだ。清の字を送った後は、町で三、四時間ばかしパチンコでもして時間つぶししろと、言っといてくれ。」
清治は、その通りに伝えた。

丸屋旅館の夫婦寮は、旅館からさらに十分ばかり坂を上った山陰にある。
日当たりが悪いので、若く足の達者な者で住みたがる者は少ない。
独身寮が町中にあり、若い夫婦は、多少狭くとも独身寮に入りたがる。
ベンツを降り、夫婦寮の玄関口に立つと、もう、日は山に沈んで、真っ直ぐな廊下の向こうが薄暗い。
玄関横の律の部屋をノックする。
律は、温泉の仲居の古株で、もう何十年も住み続けている。
生涯独身で、行き場もないので、夫婦寮の管理人として旅館が居場所を与えている。
「はぁい。」
と返事ばかりで、しばらく待っていると、もたもたと律がドアを開ける。
「ご無沙汰してます。」
もう薄暗くなりつつあるのに部屋の電気を点けていないので、おそらく清治の顔が見えないはずだ。
清治が顔を近づけて、
「杉田です。清治です。」
律は、なお顔を近づける。そして、ようやく、
「あれ、まぁ。清さんかい。見違えるように大きくなって。」
「おいおい、律さん、どこの清治と間違えているんだい。俺は、元からこの大きさだよ。」
「そうだったかねぇ。で?」
「また、世話になります。」
「住むのかい?また、旅館で働くのかい?そうかい、そりゃ良かった。しっかり働くんだよ。」
「前の部屋にもぐり込むんで、よろしく。」
「はいはい。で、あの人は?和江さんだったっけねぇ。一緒に来たんだろ?」
「律さん、しっかりしてくれよ。和江は死んだじゃないか。」
「へ?いつ?」
律は、和江の事を覚えていたが、和江の葬式でオンオン泣いた事をすっかり忘れてしまっている。
胸元からハンカチを取り出すと、
「いい人だったのにねぇ。この間も大きな柿をくれてねぇ、一個でも一人じゃ食べきれないよって言ったら、じゃあ一緒に食べましょうって、皮剥いてくれて、一緒に座って食べたんだよ、そこの玄関先の石の上で。」
そう言えば、和江は、ぼんやりしたい時、玄関先の石に腰掛けるんだって言っていた。
「じゃあ、律さん、部屋の掃除があるから。」
「ああ、ああ、部屋ならたまに掃除しといてやったよ。窓も開けて風通しといたから、カビなんか生えてない筈なんだけどね。和江さんが帰ってきた時のためにねぇ。なのに、ねぇ、死んだなんて。」
清治は、ハンカチを鼻と涙でぐしゃぐしゃにしている律を残して、廊下の一番奥の左手、かつて和江と住んでいた部屋の前に立った。
一度、大きく深呼吸して、鍵を回し、ドアを開ける。
ほとんど何も無い部屋の真中に和江が繕い物しながら座っており、ドアの音で振り向いて、清治を認め、優しく微笑む。
清治には、そんな過去の風景が垣間見えた。
昔なら、それから、お座敷の準備を始めるのだ。
「帰ったよ、和江。」
誰も答えないのを知ってはいたが、つい、声に出る。
部屋に上がると、襖の陰に隠れていた和江が出てきそうだ。
後ろから、清治に抱き付いて、清治の目を両手でふさぐ。
最初は、無口だった和江も、清治との生活の中で、そんな一面も時折見せるようになった。
清治は、そんな和江にほのぼのとした幸せを感じた。
和江もそうだった筈だ。
不意に涙がこぼれる。
この部屋に来るんじゃなかった。
そう思った時、
「うち、嬉しかった。」
和江の声が聞こえた。それは、空耳に違いなかったが、清治には、それで充分だった。
「そうか。そうだよな。俺も、そうだった。」
だから、再び戻ってきたのだ。
気を取り直し、拳で涙をぬぐうと、部屋の中を見回す。
律の言った通り、時折、掃除をしていてくれていたらしく、大きなほこりは落ちていない。
かって知ったる上がり口の押入れから箒を取り出し、掃き始める。
箒が畳をこする音に和江が眠たい目をこすりながら出てきてくれないかと、淡い期待をいだく。
「和江、いるなら出てきてくれていいぞ。いや、出てきてくれよ。俺は、お前に会いたいよ。」
もう暗くなった部屋の中に、そう呟きながら箒がけする清治がいる。
湿気交じりの初夏の風に汗ばむ。
もうすぐ、和江の命日だ。
ふと手を止めた清治の中に、新たに形になりつつあるものがあった。
いつまでもこんなじゃいけない。和江に申し訳ない。
俺は、和江と暮らしたこの部屋から、新しく一歩を踏み出すべきなのだろう。
方角は見えない。とっくに世を捨てた俺だ。今さら方角もあるまいが、和江と再び巡り合う幸せに向かって歩く事だけが、自分に残された道であるように清治には思えた。
和江との生活を形作るのだって手探りだった。ならば、和江と巡り合うために、手探りで何かを始めてもいいはずだ。いや、そうすべきなんだ。
いつしか、箒がけを止めた清治は、部屋の真中に座り込んで、和江と歩いてきたあれこれを思い出す。
そこから、次にすべき事の手がかりをつかもうとした。
が、昨夜の深酒が尾を引いたか、やがてうつらうつらとなり、浅い夢を見始める。
和江が微笑みながら寄り添う夢だった。



(続く)