(六)





フジコが、助手席でかすかな寝息を立てている。
秀は、それをじっと見ている。
昨日、笠野形温泉に到着した。
丸屋旅館も、人に聞いて、前までやって来た。
丸屋旅館の駐車場にトラックを止めて、二人で、旅館の建物を見ていた。
「あの橋を渡れば、丸屋旅館だよ。」
「うん。」
「行くの?」
「うん。」
生返事だけで、フジコは動こうともしない。
しばらく沈黙が続いて、
「ねぇ、秀、やっぱりトラック出してくれる?」
「いいけど、どこに?」
「うん。」
「うんじゃ分からないよ。」
「とにかく出して。」
結局、丸屋旅館を通り過ぎ、まだ奥にある二軒ばかしの旅館も通り過ぎ、峠を越え、山向こうの町に出た。あと一つ山を越えれば日本海で、それだけで、なんとなく広々とした賑わいを感じる。海は、まだまだ遠いにも係わらずだ。
待合いみたいな猥雑なネオンサインの、一応ビジネス旅館と書かれた所に泊まろうと秀は提案したが、フジコがもったいないと蹴り、結局、パチンコ屋に隣接する駐車場にトラックを止めた。
一度、パチンコ屋の店員が様子見がてら出てきたが、何も言わずに引っ込んだ。
その後は、誰も出てこなかった。
やがて、店も閉店し、明かりも消え、駐車場の車も秀のトラックだけとなり、前の国道の車の数も極端に減った。
しっとりとまといつくような闇の中に、秀達は、いた。
日本海側独特の闇だと、秀は思った。長く心の中に押し込んで、思い出すのを避けていた闇だ。
それは、子供の頃の記憶に結びつく。
両親と、祖父母の思い出だ。
秀は、小学校低学年くらいまで、新潟に住む父方の祖父母の家に預けられた。
豚を飼いながら生活する祖父母の家もかなり貧しかったが、秀の両親は、さらに貧しく、秀を手元に置いて育てられなかったのだ。
父や、母に会えるのは年に数回だけだった。
両親が尋ねてくる日、秀は、駅に続く下り坂のてっぺんで待った。
そこからだと、駅に到着する列車が良く見えた。
駅のホームに列車が滑り込み、人を吐き出し、やがて煙を吐いて発車する。
改札口から、まばらに人影が出てくる。
二人連なった人影が見えると、両親かと目を凝らす。
父が先に立ち、母は、たいてい父より少し後ろを歩いていた。
が、秀を見つけると、母は父を追い抜いて駆け寄ってくる。坂の長さに息を切らせて、それでも少しでも早く秀の所に駆けつけたい一心で、坂を上ってくるのだった。
そして、秀を抱き上げ、長い長い頬擦りをしてくれた。
父は、それから遅れてやってきて、母の後ろから手を伸ばして、ごしごしと頭を撫ぜてくれる。
そして、必ず、
「大きくなったな。」
と、言ってくれた。
母は、何も言わない。この前、秀と別れた日から今日まで、秀と再会できる日まで、その日がくる事だけを頼りに生きてきたのだ。言葉なんか要らない。会うたびに大きくなる我が子を、その過程で抱きしめられなかった分を、再開のほんの僅かな時間のうちにできるだけ取り戻したいかのように、ただひたすら抱きしめ、頬擦りする。
そこに介在できるのは、涙と嘆息だけであった。
両親は、祖父母の家に宿泊したことが無い。
泊まらずに日帰りでやってきた。
祖母が毎回泊まっていくように言うのだが、生活のために仕事を休むわけに行かないからと、父が丁重に断って帰っていった。
その両親を見送るのも坂の上だった。
母は、何度も振り向き、手を振った。父は、先に立って歩きながら、遅れがちになる母を何度も叱っていた。
両親が泊まって行かなかったのは、実は、母が祖父に歓迎されていなかったからなのだと言う事を後で知った。
それは、母が水商売の出身であったからでもあるのだが、何よりも、母が日本人である事が祖父には許せなかった。
母は、あまり祖父母の家に入ろうとせず、秀と外にいる事が多かった。
母と秀が外にいる間、祖父と父は、朝鮮語で口論していた。
秀には朝鮮語が理解できなかったので、二人が何を言い合っているのか、さっぱりわからなかったが、母が、「おじい様は、母さんが日本人なのが気に入らないのよ」と、教えてくれた。祖父は、朝鮮民族であることのプライドが非常に高い人だった。
本国でも貧しかった祖父は、日本に行けば一旗上げられるという説明を真に受けて、日本にやって来た。が、祖父達を言葉巧みに船に乗せた男達は途中で姿を消し、日本で待っていたのは、奴隷のような待遇と差別と、毎日続く重労働であった。
それでも民族の誇りを失わず、途中知り合った祖母との間にできた子供にも、民族の誇りと思想を叩き込んだはずだった。
戦後、かの半島に理想の国家が建設されつつあると聞いて、家財を投げ打って新潟までやって来た。が、仕事運に恵まれず、貧しいままであった祖父に、家族全員で祖国の地を踏む財力も無く、それならば、せめて子供達だけでもと考えたが、父も、また、その弟も、そんな積もりはさらさら無く、父の弟に至っては、日本人として生きていくんだと、祖父母の家を飛び出す始末。
父は、日本人の母と知り合い、祖父の反対を押し切って結婚した。やがて秀が生まれる。
祖母は、実は、密かに秀の両親を応援していた。が、古いタイプの女だったので、夫の前では、そんな事おくびにも出せなかった。
「俺は」
と、祖父は父相手に言っているらしかった。
「お前を日本の女と結婚させる為に、こんな新潟くんだりまでやってきたんじゃないぞ。」
「わかってますよ、父さん。」
反論する父の声は、祖父の尖った声に比べて、はるかにトーンが低く、ゆったりとしていた。
「しかし、あちらに渡って、どうやって暮らせって言うんですか。」
「あちらは、朝鮮民族の国家だぞ。民族が互いに助け合って、王道楽土を作り上げているんだ。何も心配する事なんかありはしない。あちらへ行けば、誰かが何とかしてくれる。」
しかし、生憎、父は、そんな楽天的な思考は持ち合わせていなかった。今まで、散々苦労したから、うまい話には必ず裏があると、経験則で知っていた。
「私は、日本で育ったので、朝鮮語は、片言でしか喋れない。そんな人間を誰が助けてくれるんですか。」
「やはり、日本なんぞで育てるのではなかった。お前は、民族が信頼しあうと言う事の重大さを何一つ理解しとらん。」
「そんな。この日本の国の人々も、良く見れば、我々朝鮮民族と何変わるところがありません。」
「だからお前は愚かなのだ。親を敬う心を忘れ、愛国心も民族意識も薄れ、ひたすら実利ばかりを追う国民と我々を一緒にするな。」
「しかし。」
父親は、必ずここで反論を止めた。
しかし、我々は、同じ民族の中でも差別を受ける側なのですよと、彼は言いたかった。
そこから這い上がる為に、日本という国を選んだのではないのか。日本だと、氏素性を隠せるではないか。
その日本ですらも、かつての因習が目を覚ましつつある。また、それ以外に、同じ民族同士でも、富める者と貧しい者との間の溝が、どんどんと深まりつつあった。
そのような状況に立ち向かい、なんとか生きていかねばならない現実が、父親の前にはあった。
だが、日本にやって来た経緯が詐欺まがいで、朝鮮人ということで蔑まれ、ひたすら重労働を強いられてきた祖父からは、その部分がスポンと抜け落ちていた。同じ苦しみを共有する仲では、民族は団結できる。祖父には、その美しい思い出しか残っていない。祖父には、それ以外の何も財産となるものは残されていないのだ。それを打ち壊してしまうには、父親は、祖父を愛しすぎていた。
「分かりましたよ、お父さん。でも、ともかく、そのためにもお金を稼がねば。」
「金、金、金。本当に嘆かわしい。金しか頭に無いのだ、この国の人間は。」
理想国家が建設されようとしている半島に戻るにも、我々にとっては多額の金が必要なのだ。そんな余裕は何処にも無い。それに、かの国に戻れたとしても、そこでも金が物を言うに違いない。我々のように貧しいものは、それ相応の努力を強いられる。ましてや、同じ民族が集まった地だ。かつて差別される側であった我々が、そこに入れば、必ずやまた、差別される側に回されるのだ。人間とは、そういうものだ。必ずどこかに他人との差異を見つけ出し、自分を優位に立てようとする。他民族間でも、民族の優劣をつけたがる。同じ民族の中では、その傾向が、ますます顕著になり、陰湿化し、周到性を帯び、悲壮となる。人間とは、そういう愚かしいものなのだ。
父親は、心の中で、祖父にそう反論する。
しかし、あなたは、どのように考えてもこの地で果てねばならない。
心の中にある美しい祖国への愛を胸に秘めて、豚の匂いと糞にまみれて果てていくのだ。
そう考えると、父親には涙しか出ない。その現実を、自分でも打開できない悔し涙だ。
祖父は、我が息子のその涙を、崇高な自分の民族意識を理解してくれたがための感動の涙であると勘違いする。
「アボジ。」
秀の父親は、その父の泥にまみれた皺だらけの手を取り、そう慟哭する。
祖父は、同じく涙の中で、
「お前達は、秀を連れて祖国へ行け。祖国の土となるのだ。私は、私は、この地で、豚の世話をしながら、お前達の幸せを祈る。」
そうして、二人抱き合い、涙にくれる。
以上のような事は、後々、秀が秀の父親の弟、トキ叔父と秀は呼んだが、そのトキ叔父から聞かされた話だ。
秀は、父と祖父が、そのような口論を続けている間、母親と二人、家の裏手の豚小屋の横の細い坂道を登り、我が家を見下ろせる小高い丘の斜面で、花を摘んだりして過ごした。たまに、豚の世話や、豚小屋の横の小さな畑の仕事の手を止めて、祖母も混じった。
秀の母親も、貧しさの中で育ち、頼る者のない身だった。同じ貧しさの中で、それ以上の、女だからと言う理由で受けた苦しみを共有する立場の者同士、相通ずる所があったのだろう。母と祖母は、秀を遊ばせながら、互いの苦労話をしあったと言う。これも、トキ叔父から聞いた話だ。
やがて、夕闇迫る頃、両親が帰っていく。
秀は、両親を出迎えた坂の上に立ち、両親の乗った列車が煙を吐いて、見えなくなるまで見送った。
列車が、向こうの山を回り、その煙すら見えなくなると、涙と洟で汚れた顔をごしごしとこすり、祖父母の待つ家に帰る。
夜の闇がそこまで迫っているのがわかる。しっとりとした絡みつくような空気が体を包み始めるからだ。
それが、裏日本特有の夜の感覚である事は、トキ叔父に引き取られ、都市部に住むようになって知った。
秀の大好きな両親は、秀に会いに来る途中の列車事故で死んだ。
列車は、線路に置かれた石に乗り上げ、転覆し、何メートルか下の川に転落した。
助かった者と亡くなった者との差は、乗っていた車両が、崖の斜面で止まったか、勢い余って川の中に沈んだかだった。川の中に沈んだ車両に乗っていた人々は、ほとんど溺死した。秀の両親は、川に沈んだ車両の真中に乗っていたらしい。
どれだけ無念であったろう。秀に会いたいと念じつつ息を引き取ったに違いない。
秀は、その日も、坂の上で待った。が、列車は入って来なかった。
いつも両親が来る筈の時間になっても列車は来ず、人々はホームで待ちくたびれているのが見て取れた。やがて、駅員があたふたと、ホームにいる人々に何かを告げ始める。
人々は、線路を覗き込んだり、遠くを見る風であったが、やがて、改札から出てきて、駅前の一つしかない公衆電話に並び始めた。
「今日は、もう、来ないよ。」
祖母が秀を呼びに来た。
「来るよ。」
秀は、涙が出そうになるのを必死でこらえてそう言った。
「たぶん、何か用事が出来たんだよ。」
「来るよ。」
そう強情に言い放って、家には帰らず、両親を待った。
やがて、日が傾き、空が赤く染められ、夕闇があたりを覆い始める。
祖母が食事の準備が出来たと呼びに来た。
お腹はすいていたが、それよりも母に抱きしめられたい思いが強かった。
ついに母は来なかったと言うどうしようもない空洞が、心の中に広がりつつあった。
拭いても拭いても、涙が流れた。
やがて、世界から色が消え、しっとりとした闇が秀を包んでいった。

そうだ、あの日の闇と同じだ。
結局、両親が死んだのだと分かったのは、あれから五日後だった。
普段は近づきもしない警察官がやってきた。
おそらく裏手の豚小屋の匂いに辟易していたのだろう、顔をしかめながら、手短に両親の死を告げた。遺骸を引き取りに来るようにと。
悔やみの言葉の一つも無かったとは、祖父が死の直前まで悔しがって言った言葉だ。
「全く、日本人って奴は。」
それからの記憶があまり無い。
葬儀屋が、ばたばたと全てを片付けた。
まるで、死肉にたかる剥げ鷹のように見えた。
参列者は、家を飛び出した父の弟だけ。
棺が運び出される段になって、初めて、両親を引き剥がされる激しい痛みを感じ、棺に縋り付いて泣いた。
それまで、同じように呆然としていた祖父母も、
「アイゴー。」
と、泣き始めた。
「生まれてこの方、色々な辛さは味わった。味わい尽くしたつもりになっていたが、これほどまで凄まじい辛さが、まだ残っていたか。」
祖父が絶叫した。

秀は、ハンドルに突っ伏して、傍らのフジコを起こさないように声を殺して泣いている。
両親の死の悲しみは、幼い時から心の中に押し込んできた。そう言う意味では、あの時以来、両親の死に涙したのは初めてではないか。
それから祖父母は相次いで息子夫婦の後を追った。
残された秀は、父の弟、トキ叔父に引き取られ、祖父母と暮らした新潟の片田舎の掘っ立て小屋を離れ、都心に程近い小奇麗なアパートに引っ越した。
持てるだけの荷物を持って、トキ叔父の後に従い、坂道を駅のホームに向かって下りて行った。あの坂を駅に向かって下りて行く、最初で最後だった。
改札口をホームに抜ける時、ふと振り返って坂の上を見た。坂の上で、両親と祖父母が手を振っているように見えた事が記憶の中に鮮明に残っている。
「いいか、お前は朝鮮人の子供である事を忘れろ。」
二人になると、トキ叔父がそう言った。
「アボジにどう教えられたかは知らんが、ここは日本だ。日本で、日本以外の顔をしてれば、嫌がられるのは当たり前だ。立場が違えば、我々も同じ事をするだろう。昔、昔、我々の祖先は、この国に文化をもたらした。それは事実だろう。しかし、昔の話でしかない。いいか、民族のプライドなど、あっても何の役にも立たないんだ。郷にいらば郷に従え、だ。分かるか?」
「うん。」
その時、秀は小学校二年生だ。分かるも何もあったものではないだろう。が、秀には理解できた。
学校では、秀は一人ぼっちだった。担任の教師にも無視された。それは、秀が貧しく、給食費さえも持って行けない事が多かったせいでもあるが、何よりも、同級生がしょっちゅう秀に向かって発していた言葉、
「臭い、臭い、臭い、豚臭い、朝鮮人は豚臭い。」
この言葉に集約される民族差別のせいだと秀は子供ながらに感じていた。
祖父が、豚の餌を集める為に町中を汚いリヤカーを押して歩く姿が、彼らの差別意識をより助長していた。
そのような言葉は、町の大人達の口から聞かされる事もあった。
秀が歩いていると、井戸端会議の女達がいっせいに秀の方を見る。
そして、ひそひそ話をするのだが、その中に「朝鮮人」だの、「豚臭い」だのと言う言葉が聞き取れた。よしんば、それが秀の空耳であったとしても、小学校に上がった時から、友達と信じて仲良くしようと思っていた同級生から、ずっとそのように聞かされてきた秀を責める事はできないだろう。
また、そんな目に合うのも、自分が朝鮮人という他人とは違う重石を背負っているせいだと思ったとしても、仕方ないだろう。自分が他の者と同じ日本人だったらと、心の底から願っていたとしても、誰も秀を責める事は出来ない。
それと同じ事をトキ叔父の口から聞かされたのだ。祖父ならば、何を言うかと、秀を一括しただろう。
その年頃の秀にとっては、民族のプライドよりも何よりも、孤独から開放される事の方が大事だった。
トキ叔父と、知った人のいない町に住むようになって、しばらくは、秀も平和な日々を過ごせた。
何も知らない友達は、秀を日本人の友達と同じように付き合ってくれたし、家に招待もしてくれた。その幸せは一年ばかり続いたろうか。心無い教師によって崩されるまでは。
表向き日本人の顔は出来ても、この国の公共の仕組みは、騙し通せないようになっている。
住民票には、彼の出生の全てが記載されている。
そのような事を気にしなくていい国ならば、秀は、集団生活を身に付け、頭も良かったので、優秀な部類に入れただろう。
また、出生は出生として、それを隠したい本人の気持を慮るだけの社会性のある人間ばかりならば、やはり、彼の持って生まれた能力を早くから発揮できたのだろう。
異質ではあれ、優秀な人間を受け入れ、その能力を育て、活用するノウハウを待たぬ国に生まれた秀も不幸ならば、優秀な才能の芽を摘んでしまった国も不幸である。
秀の人生は、ある日、ある心無い教師の一言で大きく変わってしまった。
田原という教師だったが、デモシカ教師と言うのがいるとすれば、まさに彼であった。
教師にデモなるか、あるいは、教師にシカなれない、と言う安易な選択肢の中で、戦後の教師不足にかこつけて、最も不適切なタイプの彼は教師になり、その歪な性格で生徒に順列をつけ、えこ贔屓した。
授業内容は、面白くは無かったが概ね間違った知識は与えておらず、上職の先生からの受けが良かったので、彼の被害者は、彼から阻害される生徒だけにとどまっていたので、より、始末が悪かった。
また、田原から見て、他の生徒とは少し異なる秀は、阻害すべき生徒だった。
秀が、他の生徒に比べて、ややがさつであったのは、彼のそれまでの生い立ちから見ても仕方が無い事であったが、田原には、それが許せなかった。また、秀は、実に記憶力が良く、感覚も鋭かったので、勉強などしていないように見えて、成績はいつも上位にあった。
まさに、貧困家庭の秀才であったが、それも、田原の気に食わないところであった。
その田原の目が、学校に登録されている秀の戸籍を見た時に、輝いた。
が、彼にしても、悪気は無かった。学校の教師が、悪気も無く一人の生徒を傷つける事がいかに重大な問題であるかは、デモシカの彼には考えすらも及ばない。彼は、ただ、贔屓にしている生徒が、どんなにしたって秀の上に立てないので、その生徒に救いの手を差し延べたかっただけにすぎない。その生徒には、医者の息子で、塾だ、家庭教師だと、所得に見合った教育の機会が与えられていた。彼もまた、優秀な生徒の一人ではあったが、どんなにしても、秀には勝てなかった。
その日、前日に行われたテストを成績順に返却していた時だ、いつも通り、秀が一番最初に名前を呼ばれた。
「やっぱり、秀が一番か。」
「すごいよな。」
と、子供達が口々に秀を褒め称えた。秀も、満更ではない顔で解答用紙を受け取りに前に出た。その彼に、田原は、こう言った。
「いつもいつも、頑張るなぁ、秀は。朝鮮人にしては、よくやっているよ。」
秀は、その言葉で目の前が真っ暗になった。
子供達は、担任の言葉を聞き逃さなかった。
「なんだ、皆、知らなかったのか。秀は朝鮮人なんだぞ。朝鮮人に負けて悔しくないのか。悔しかったら、もっと頑張れ。」
戦前、戦中の教育を受けた田原は、当然のような顔をして、秀を打ちのめした。
それ以来だ、秀は、誰の家にも呼ばれなくなった。
だが、その程度の事は、その後に続く彼の生活の中では、予兆程度のものでしかなかった。
村八分と言う、日本古来の、いや、どこの国にも存在する情報閉塞地獄が彼を見舞う段になって、彼は、ようやく知ることになる。祖父のかたくなな民族意識の由来と、トキ叔父のそれを捨てて生きざるを得ない理由を。
秀は、どちらをも選ばなかった。子供ながらに、自分の力だけでは絶対に抜け出せないものを感じた。が、誰かにすがるのは嫌だった。自分の力でなんとかしようと思った。それは、自分の能力への過信でもあったが、その時点で、秀が選択する最善であったかも知れない。時至るまで、他にどうしようもなかった。
彼は、自分に必要なものを考えた。子供の世界に必要なものは、相手を地面に打ち倒すだけの力だ。その力を得るには、実践をつめるだけの度胸だと思った。
それからの秀は、乱暴者のレッテルをも貼られ、さらに孤立していく。
秀が、フジコに出会ったのも、そんな頃だった。出会ったと言っても、秀の方が勝手に覚えていただけなのだが。
その日は、地区の少年野球チームの入団テストの日だった。
彼の住む地区の少年野球チームは、全国遠征するほどの強さを誇っていた。
勿論、秀も野球をやりたい年頃だったので、入団テストは受けたかったが、受けたところで入れてはくれまいと、しかし、テストの様子だけは運動場の片隅で壁を相手にキャッチボールしながら伺っていた。
一瞬、騒がしかった運動場が静かになるのを感じて、振り返ると、マウンドに一人の女の子が立っていた。長い髪に赤いスカート。
我が子の入団テストの様子を見ていた父兄から、あきれた声があがる。
「女の子だよ。女の子の癖に。」
子供達は、好奇の目を向けた。
「女に何ができるんだよ。」
ざわざわと言う声が運動場に広がる。
「あの子、母親がいなくて。父親は、どうしようもない飲んだくれだってさ。どうりでねぇ。」
フジコは、そんな声を無視して、監督の肉屋のオヤジに食って掛かっている。
「どうして、女が入団テストうけちゃあいけないんだよ。」
結局、肉屋のオヤジは、フジコに根負けして、テストを受けさせる事にした。
「どうせ、女ですから、たいした事できませんよ。受けさせるだけ受けさせましょう。どうせ、落とせばいいんですから。」
そんな風に父兄を納得させた。
が、その声は、フジコの第一投目で消えた。
誰よりも早く、延びのある球を投げた。
秀も、壁相手のキャッチボールを止めて、フジコの姿を追った。
その後の短距離走でも、一番早かった。
「こりゃ、どうも、うちのチームの誰よりも早い。」
肉屋のオヤジは、親を説得する側に回りたかったに違いない。
それを察した親達が、
「女の子に野球が出来るはずないでしょ。それに、チームに女の子がいるなんて、そんな恥ずかしい事、遠征に行って、他チームからなんて言われるやら。」
と言い、肉屋のオヤジの口を封じてしまった。
「君が女でなかったら。」
心の底から悔しそうな肉屋のオヤジと、羨望の混じった冷たい眼差しの親たちを尻目に、フジコは、運動場に唾を吐き、颯爽と引き上げていった。
秀は、すごい女がいるもんだと思った。
その頃、秀が小学校三年生で、フジコが同じ小学校の五年生だった。
お互いに、それ以来知り合う機会も無く、十年近く後、秀がフジコと知り合った時も、しばらくは、それがあのフジコだとは気が付かなかったが、秀のフジコへの感情は、たまたま町で知り合った女が、あのフジコであったと、気が付いた時に生まれた。
自分の生きるスタイルを早々と決め、秀は、その道に邁進した。
中学に入ると、腕っ節の強い一匹狼と、はや近隣の中学生の評判になった。
たまたま知り合った朝鮮人の老人から古武術を教わり、なお腕を上げる。武勇伝はいくつもあり、数え上げるときりが無い。
義務教育を終えると、上には進学せずに、自分で働いて生きていく方を選んだ。
誰かと交わろうとか、どこかの集団に潜り込もうとは思わなかった。
確かに、彼の出生を知って、声をかけてくる団体や、グループもあったが、全て断った。
自分一人で何ができるか、何処まできるか、見極めたかったのだ。
トキ叔父の元を出て、住み慣れた町を離れ、新しく住み着いた町で職を求めた。
秀は、自分の父親が朝鮮人で、母親が日本人である事を隠さなかった。
日本人、朝鮮人のどちらからも冷たい視線を向けられる事が多かった。
日本人からは朝鮮人のあいのこ、朝鮮人からは自分の本名も知らない中途半端な男だと。
秀は、自分の本名を聞かされていなかった。戸籍を調べれば分かるのだろうが、それは、自分の生きる地盤を確保できるようになってからだと思った。
それに、名前や国籍、民族などどうでもいい、自分は自分だと言う、過去の体験への怨念めいた意地もあった。
そんな秀を雇い入れてくれたのは、寺田と言うシベリア抑留体験のある運送業の男だった。
寺田は、シベリアで、ロシア人に待遇改善を申し入れたが、結局仲間の裏切りにあい、凍死寸前の目にあう経験を持っていた。
それが元で、容易に人を信じず、頼らない事を信条としていたが、秀の中にもその匂いを嗅ぎ取った。
人を頼まず、自分の力だけで物事をやりとげようとする種族。
「いいか」
と、寺田は常々秀に言った。
「トラックの運転席が小さいながらも自分の城よ。何をしようと勝手だが、あまり疎かにすると、しっぺ返しに会う。それは、誰のせいでもない。皆、自分が悪いんだ。きちんと接しさえすれば、トラックはお前を裏切らない。」
最初は助手席に乗せられ、寺田と共に、仕事を求めて全国を渡り歩いた。
秀に転機が訪れたのは、ある大雨の日だ。それは、寺田にとっても、生業を大きくする転機であったといってもいい。
激しく降りしきる雨の中、秀は、いつもの通り、トラックの助手席で仮眠を取っていた。
寺田は、先頃懇ろになった飲み屋の女の元に入り浸っていた。
雨は、さらに激しく降り続いた。
秀達がトラックを止めた近くには川があって、その水かさが、見る間に増えていった。
消防団員が土嚢を積み始めたが、とても間に合いそうになかった。
やがて、消防団員の一人がトラックのドアを激しく叩いて、
「おい、逃げろ。このままじゃあ濁流に飲まれる。」
「逃げろって、どこまで逃げりゃいいんだ。」
「このあたりは、どこも低地だからな。逃げるとすれば、あそこまでだ。」
消防団員が指差したのは、何キロも向こうの山だった。
「どっかの家に逃げ込むよ。」
「駄目だ。この分じゃ、二階辺りまで水が来るぞ。そうなったら、水が引くまで身動きできん。早く逃げろ。」
そう言い置くと、消防車に乗り込んで走り去った。
秀は一瞬考えたが、運転席に乗り込むと、トラックのエンジンをかけた。
勿論、運転免許は持っていない。が、寺田の隣で、トラックの運転は見様見真似で覚えている。
既に冠水し始めた道路を、山に向かってひた走った。寺田は、後で助けにくればいい。それよりもトラックだ。秀は、そう判断した。正しい判断だった。
秀達がいたのは、天井川が町の真中を流れる、広大な平野部だった。
とにかく、ひたすら山に向かって走る事が大事だった。
道路は見る間に水かさを増し、タイヤの半分が水に浸かり始めた。
それでも止める事はしなかった。エンジンに水が入らない限り、走り続けられる。
漸く緩やかな上り坂に差し掛かった頃には、もうタイヤ全体が水に浸かっていた。
そのまま坂の中腹まで一気に駆け上り、やっとトラックを止めて振り返ると、広い平野部のほぼ全体が土色の濁流の中にあった。
秀がトラックを止めていたあたり、川の近くの家は、流れに押し流されている。轟々という川の音や、バリバリと柱の砕ける音、助けを求める悲鳴までが聞こえてくるようだった。
寺田は、確か駅裏の飲み屋街の路地に面した家のどれかだ。
その辺りは、一階部分が水没していたが、たいてい、一階は店屋で、二階が住居だ。女とよろしくやっているとしたら、二階の筈だ。家の建てこんでいる辺りなので、流されている気配は無い。まず大丈夫だろう。
水は、二日ばかりで引き始めた。トラックをかつて町の道路であった泥濘の中に進めてみる。スリップするし、どこが道路だか分からない場所も方々にあり、それは危険な事であった。が、寺田を救出しない事には、結局、秀も干からびてしまう。持ち金は、すべて寺田の胴巻きの中にあった。
ようよう元のトラックを止めてあった場所にたどり着くと、茫然自失の泥にまみれた男がいる。
「寺田さん、おやっさん。」
秀が声をかけると、泥の中を尻餅つきつつ寄ってきた。その泥だらけの顔は、紛れも無く寺田だった。
「お前。」
と、寺田は、自分の目を疑うように何度もこすり、
「生きていたのか。トラックも。お前が?」
「ああ。」
「そうか。良くやった。良くやったぞ。」
泥だらけの手で、秀の頭をぐしゃぐしゃに撫ぜた。
それから、寺田と秀のコンビは忙しくなった。
まともに動くトラックは、彼らのトラックを含めて、僅かしか残っていなかった。
大洪水の後始末で、ゴミの廃棄から、陸送の仕事まで、休む暇も無く仕事が舞い込んだ。
「お前、トラックの運転は、どうだ。」
と、ある日、寺田が切り出した。
「この前やったじゃないか。」
「違う。ちゃんと免許とらねぇかって言ってんだ。」
「そんな金ねぇよ。」
「俺が出してやる。」
「だって。」
「何、この前の恩返しだと思えば安いもんだ。免許、取れ。」
秀が免許を取るのを待ち兼ねたように、寺田はトラックを新調した。
「見ろ、四トンだ。でっけぇだろ。」
それまでの二トン車を秀に与えると、寺田は、四トン車を駆って、鬼神のごとき働きをした。
「おやっさん、過労で死んじまうぞ。」
「何、四トンの借金払っちまうまでさ。」
寺田も、秀も、倒れなかったのが奇跡と言っていい。貧しさから抜け出るために、張り詰めた気の中で動いていたからだろう。
やがて、寺田は、秀に大型免許を取らせ、もう一台四トンを新調した。
国全体の景気の高揚感が秀達の仕事を支えた。
やがて、社員が新しく増え、トラックは五台に増えた。
ある日、寺田は秀を呼びつけた。
「どうだ、秀。俺の会社も随分と大きくなってきた。」
「そうだな。借金の山だがな。」
「大きなお世話だ。それでだ、秀、お前、どうする?」
「どうするって?」
「俺は、お前には随分と感謝している。会社大きくなったのも、お前があの時、機転を利かせてくれたおかげだよ。本当にありがとう。」
「何だよ、改まって。」
「日本の景気も悪くない。仕事の量も増えている。」
「そうだな。」
「そこでだ、お前、選べ。おまえ自身で選べ。」
「何を。」
「お前の道だ。これからどうするのか。このまま、俺んところの社員でもいい。あるいは。」
「あるいは?」
「あまり言いたかないが、独立するか。」
「俺に出てけってか?」
「違う。お前なら、自分一人でやっていける。自分で会社をおこさねぇか。わからねぇところは、俺が手伝ってやる。教えてやれっから。仕事だって、お前の手が空いている時は回してやれる。だから、この際、お前、独立したほうが良かねぇかってな。」
「独立ったって、トラックがねぇよ。」
「我が社は、借金の山だ。だから、まとまって退職金はやれねぇが、俺達が最初に寝泊りしてた二トンな、あれをやる。退職金代わりに持ってけ。整備すれば、後十年は走れる。」
「二、三日考えさせてくれ。」
結局、秀は、寺田運送から独立し、フリーの運送業を始めた。
以前のようにトラックに寝泊りし、全国を駆けた。
銀行の預金も増え、そろそろ四トンに手を出そうかと思い始めた頃に、フジコに出会った。

フジコは、その頃、暴力団の下っ端と同棲しており、少しずつ相手の本性が見えてきて、何とか逃げ出そうとしていたところだった。
相手も、その事を察して、自分の手下を付き添わせ、四六時中フジコを見張らせていた。
自由になるのは、トイレと風呂ぐらい。
その下っ端の所属する組の若頭がフジコを気に入って、たびたび相手をさせられた。下っ端にしてみれば、上に取り入る為の唯一の材料がフジコだったのだ。
フジコは、その若頭が鳥肌が立つくらいに嫌だった。
毎度セックスの相手をさせられた。それくらいは、生き延びる為に何度かやって来た事ではあった。別に愛など無くても相手と体は合わせられる。
流行の純愛ドラマなどを見ると、その嘘臭さに唾吐きかけたくなる程度には、フジコも様々経験していた。
が、この若頭の愛撫だけは、何とも気味が悪かった。
まるで、蛇のようなのだ。蛇のように執拗にフジコの体をまさぐった。
いつ頃からかフジコは不感症になっていたので、セックスは自分の快楽の為の道具ではなく、単に住み心地を良くする為だけのものだった。だから、できるだけ時間は短いほうが、フジコにとってはいい。
それが、この若頭は、たっぷり二時間くらいもかけて体中を撫で、さすり、舐める。
普通そこはセックスには関係無ぇだろうとフジコが叫びたくなる箇所にまで舌を入れてくる。
しかも、その時の相手の表情。うっとりと白目をむいて、自己陶酔の極致なのだ。
それが、さらに気持悪い。
体中が相手の唾液でベタベタになり、さらに、その上から体を擦り付けてくるので、何とも不快な匂いが漂い始める。
子供の頃によくやった唾液を手の平につけて指でこすって匂いを嗅ぐ、あれだ。
そのうちに、フジコにも自分の体の様々な箇所を舐めるように要請する。
風呂にも入ってねぇだろと言いたいが、とりあえず、相手の要求に応えとかないと、こいつの下っ端、フジコの本来の同棲相手からどんな目に合わされるかわかったもんじゃない。
やがてフジコの口の中が、いろいろな匂いで一杯になり、吐き気がしてくる。いっそ、こいつの顔に思いっきりゲロをもどしてやろうかとも思う。そうしたら、もっと悦ぶのかも知れない。
最後に自慢の真珠五個入りで、フジコの体を突いて来る。が、これも、フジコにとっては痛いだけ。不快さを顔中で表して終わる時を待っているのだが、それが、相手にとっては、いいのかも知れないとは、ずっと後、そいつらの元を逃げ出した後で思い至った事だ。
とにかく、その時は、早く終わって欲しいと言う思いと、人間は、何故このような気持の悪い行為に快を見出すんだろう等というフジコにしては哲学的な思いが、交互に浮かんでは消えた。
何度か逃げ出そうとしたが、必ず下っ端の下っ端に連れ戻された。そいつを体で誘惑しようと思ったら、何とホモだった。しかも相手は、フジコの同棲相手。これを浮気とか、三角関係だとか言えるのかどうか。
ともかく、早く逃げ出すに越したことは無い。
身の回りの必要な物だけをズタ袋に詰め込んで、いつでも逃げ出せるようにはしていたのだが、どうしても切っ掛けが掴めない。
新装オープンのスーパーのバーゲンと共に、そのチャンスは訪れた。
その界隈では珍しい三階建てのスーパーで、特価商材を大量に用意して客寄せしていたので、店内はごった返していた。
「ちょっと、トイレ行ってくるから。」
何でこんな混雑したスーパーに端くれとは言え極道が来なくちゃいけないんだとブーたれている見張り番に、そう伝えると、フジコは女性用トイレに入った。
狭いトイレの中は、店内以上に混雑しており、奥の方でちょっとした口論すら始まっていた。割り込んだ、割り込まないと言う類の口論だったが、それは、トイレの奥に店外からも入ってこれるドアが用意されているからだった。
見れば、開いたドアの向こうはスーパーの仕入れ商材の搬入口のようで、ドアを開けっ放しにしたトラックが一台止まっていた。
フジコは、ためらう筈もなく、そちらのドアから店外に出た。
晴天の平日の町のアンニュイがそこにはあったが、フジコにそれを感じている余裕は無い。
急いで店を離れ、この町から姿をくらまさなければならない。
しかし、駅までのこのこ歩いて行って、国鉄に乗るというのも、いつ組の連中に見つかるか知れず、危険極まりない。
と、目の前に止まったトラックのエンジンがかかった。助手席側のドアは半開きのまま。
フジコは、それに飛び乗った。
フジコと同じ年格好の若者が運転席にいて、あっと声をあげる。
「乗せてね。」
最高級の笑みを返したつもりだったが、
「おい、降りろよ。」
相手の反応は冷たかった。
「このトラックは、女人禁制なんだよ。」
それは、寺田とやっている時からの互いの暗黙の了解だった。
「追われているの。」
「駄目。」
「助けて、お願い。でないと、殺される。」
殺されると聞いて、若者も怯んだ。
「殺されるって、誰に。」
「いいから、後で説明するから、今はともかくトラックを出して、お願い。」
「しゃぁねぇなぁ。」
「恩に着ます。」
そう言うと、フジコは助手席に身を伏せて、外から姿を隠す。
「何処まで乗っけて行けばいいんだよ。」
「とりあえず、町を出て。」
「それから?」
「その時、考える。」
「あてずっぽうだな。」
「それが僕の取り柄なんだ。」
「そうですか。僕の取り柄ですか。でも、ともかく、町を出たら適当な駅の前で降ろしてやるから、そこからは電車で行ってくれよ。」
「でも、お金無い。」
「そんな事、俺が知るか。」
「ねぇ、悪い人に追われてるんだ。」
「あなたも悪い事をしたからでしょ。」
「冷たい男だなぁ。ねぇ、僕の死体が海に浮かんでもいいってわけ?」
「あっしにゃあ、かかわりねぇこってござんす。」
「そうでござんすか。」
フジコは暫らく考えていたが、
「じゃあいいや、ここで降ろして。」
「そう言うなよ、とりあえず隣町まで乗っけてやるから。」
「いいよ、もう。」
そう言うなり、助手席からフジコの姿が消えた。
曲がり角でトラックを減速した時に、ドアを開けて飛び降りていた。
急停車したトラックのバックミラーに、走り去るフジコの後姿が写った。
「危ねぇ奴だな、全く。」
秀は、そのままトラックを走らせていたが、何を思ったか、空き地に乗り入れると、そこからユーターンして、もと来た町に戻った。
しばらく町中を転がしていると、何人かの男に追いかけられているフジコが目に入った。
その駆けっぷりの素晴らしい事。
「乗れよ。」
秀は、フジコと並走しながら、そう声をかける。
「恩にきるぜ。」
開いた助手席からフジコが乗り込む。
追いかけてきた男のうち、威勢の良さそうなのが一人、トラックの荷台に捉まったのが、フジコの側のバックミラーから見えた。
「一人、ぶら下がってるよ。」
「よし来た。」
トラックを何度か蛇行させて、それを振り落とす。
「来てくれると思ったよ。」
「嘘をつけ。」
「何で。」
「初めて会った人間を助けに戻るようなお人よしは滅多にいないよ。」
「ここに一人。」
「ちげーねぇ。」
「フジコって言います。」
フジコが改まって自己紹介する。
「何フジコだ?」
「うーん、忘れた。」
「何だそりゃ。」
「田中だろうが、林田だろうが、フジコは、フジコだ。」
「なるほど。秀だ。」
「何秀?」
「忘れた。けど、秀だ。」
「お互い様だ。」
「ちげーねぇ。」
「それ、口癖?」
「何?」
「ちげーねぇって。」
「成る程、ちげーねぇ。あらびっちゃん、びんどびーんってのも言えるよ。」
「変なの。」
「ちげーねぇ。」
「何で戻ってきてくれたの?」
「お人よしってのもあるんだが、古今東西、稀に見る中距離ランナーの走りを見てみたかった。」
「何だ、そりゃ。」
「お前、足速いな。」
「フジコだ。」
「おう、フジコ。本当に足が速い。びっくらこいたぜ。」
「へへっ。」
「元陸上部か?」
「いんや。フジコは、野球をやりたかったでごんす。」
「じゃあ、ソフトボール部か」
「フジコは、硬式野球がやりたかったんだ。」
「そりゃすごい。」
「調子に乗って、変な事言っちまったぜ。」
「変なこっちゃ無いよ。女が硬式野球やれないって法律は無いぜ。甲子園には行けねぇかもしれないけど。」
「行きたかったんだよ。本当に。」
「ぎょへっ。」
「ここで会ったが百年目、冥土の土産に聞かせてやらぁ。」
フジコの脳裏に、久しぶりに、あの運動場の風が舞った。
父兄に冷たい目で見つめられながら、マウンドに立った時、あの時に吹いていた風。
「あれは、お前だったのか、フジコ。」
「冷たい視線のキャッチャーが構えたミットまでの距離は、たどり着けるはずも無い甲子園までの距離であるかと思えた。」
「こい。ここまで投げられるなら、投げて来い。」
「僕は、大きく振りかぶる。父兄の冷たい視線が体に痛い。そして、腕振り下ろし、ボールが手から離れる。」
「で。」
「見事、ボール。キャッチャーのはるか頭上を飛んでった。」
「嘘をつけ。」
「何で嘘なんだよ。」
「だから、見てたんだよ、俺。」
「何を。」
「フジコが投げるのを。」
「嘘だろ、何故?」
「俺もやりたかったんだよ、野球。でもな、俺、朝鮮人って、仲間はずれにされてたから、入団テストを横目で見てたんだよ。そしたら、女だてらにマウンドで投げる奴がいて、そいつの球が、やたら速くて。ありゃ、へたすると、あのチームのエースより速かったぜ。」
「走りもな。」
「おう、走りもだ。唖然とする皆を後に残して去って行くお前の後姿の格好良かったこと。」
「こんな感じか?」
フジコが背中を見せる。
「おう、そんな感じだよ。あれが、お前だったのか。とんだ偶然だなぁ。」
「近くの小学校だったんだな、じゃあ。」
「うん、俺、小学校三年生で、お前、五年生。」
「何だ、年下じゃんか。」
「おねぇ様」
「よせやい。秀も苦労してんだろ。僕よりも随分としっかりして見える。」
「見えるだけじゃなかっぺよ。ところで、フジコは、何をしたんだ、あの町で。」
「何もしてないよ。」
「何もせずにあんな暴力団まがいの連中に追いかけられるのか?」
「まがいじゃないよ。暴力団そのものだよ。その情婦だったんだよ。」
「そうか。」
「何だよ、その目。女が一人でこの世を渡っていくには、そりゃあ、言葉にできねぇいろんな苦労があるんだぜ。」
「そうだろうな。」
「おい、秀。」
「なんだよ。」
「お前だって、体張って生きてるだろ。僕だって、体張って必死で生きてきたんだよ。」
「そうか。」
「それの、どこが悪いってんだ。」
「悪かねぇ。」
「そうだろ。」
「悪かねぇよ。」
「わかってるじゃん、秀。」
「悪かねぇけど、暴力団には関わるなよ。あいつら、人を人だと思っちゃいない。」
秀は、一匹狼で来たのだが、少ない友人の何人かは暴力団事務所にスカウトされた。
ピストル持たされ、そのまま行方知れずの者もいる。
女を何人か囲って羽振りを利かせている者もいたが、女を商品のように扱い、特殊浴場に売り込んだりしていて、秀の方から離れて行った。。
「そうだな。いい勉強になったよ。」
ややあって、
「何処まで乗って行くんだ。」
と、秀。
「決めてない。」
「好きな所まで乗って行けよ。本当はこのトラック、女人禁制なんだが、フジコは特例だ。」
「かたじけない。」
結局、フジコは、二つ県境を越えた辺りの繁華街で降りていった。
「世話かけたな。」
「いいって事よ。」
「元気でな。」
「そっちもな。しかし、何やって食ってくんだ。」
「心配ご無用。女一人、その気になれば食っていく道くらいごまんとあらぁ。概ね、どの道も経験済みよ。じゃあな。」
「おい、フジコ。」
「何だよ。」
「持ってけよ。」
そう言うと、秀は胴巻きから札の塊を取り出し、その半分をフジコに手渡した。
「いかんよ、こんなの。」
「やるんじゃない。貸しだ。それと、困った事があったらここに電話しろ。一応、俺の事務所だ。留守の方が多いけどな。」
「ありがとう。でも、これ多すぎる。せっかくだし、借りるのこれだけにしとくよ。」
フジコは、札束から三枚だけ抜き取ると、後を秀に返した。
「大丈夫か。」
「あたぼうよ。じゃあな。」
一度、トラックから降りたが、秀がエンジンを駆けるともう一度、助手席に飛び乗った。
「何か忘れもんか?」
そう言う秀の唇にフジコは自分の唇を重ねた。
「これは、ほんの気持だよ。」
秀が我に返った時には、助手席のドアがバタンと締まり、フジコの姿は無かった。

それからも秀は、多忙を極め、全国をトラックで駆け巡った。
事務員と運転手を一人づつ雇い、二トンを四トンに代え、小さいながらも運送屋社長として、寺田からも信頼を受け、仕事を互いに回し合いながら手堅く地盤を築いていった。
フジコはフジコで、ウエイターをやったり、妖しげな本のヌードモデルに手を出したりして、生活の基盤を形作っていた。
ただ、借りた金を返すために、自分の所在を秀には知らせていたので、秀は近くを走る時は、フジコに連絡を取って会った。
秀は、フジコに自分の会社の事務員にならないかと声をかけた事もあったが、フジコは、自分には向かないからと断った。
「それって、僕、絶対に秀に迷惑かけると思うよ。そんなの嫌なんだよ。」
「フジコは、何を追いかけてるんだ。」
「わからんちん。でも、もう暫らくは、今のままでいるよ。何を追いかけてるのか分からないけど、追いかけ続けるのが好きなんだ。」
「そうか、俺は、そんなフジコが好きだな。」
フジコは、そんな風に秀と会いながら、浜置隆二のシンパになって、快感を得る事よりもスポーツでも楽しむようにフリーセックスを謳歌した。
しかし、それは、フジコが決して好色だからではなく、それまでのフジコの生き方を見た時に、フジコが自分を納得させる為に選択せざるを得ない道なのだと言う事が、秀にはなんとなく理解できた。逆に、そういうフジコが愛しく感じられ、ある日、どちらから言い出すともなく愛をかわす事になる。
フジコは、愛情半分、感謝半分で秀と寝た。と、同時に、追いかけるべきものの延長線上にあるのだと信じて、浜置とも寝た。そうしても、フジコの中には何の矛盾も生じなかった。肉体的関係は、フジコにとっては、まさにテニスでも楽しむようなものだった。
フジコにとってのスポーツとセックスの違いは、スポーツ、特に自分が極めたかったスポーツは、女だからという理由で断られた。セックスは、フジコが女だからと言う理由で、男達は誰もがフジコとそれをしたがったが、だからこそ、生活の為にも必要だったが、むしろ自分の思いを特別な男に伝えたり、特別な男と何かを共有する事の前提としてあって欲しいものだった。
浜置と秀は、フジコにとっては、自分の体を媒介として存在する男達であるのは当然の事ながら、浜置には勿論愛情を感じていたが、秀には、それ以上の何かを感じていた。
愛情は、醒める。それ以上の感情は、得体が知れないだけに醒め様が無い。
ただ、清治に会ってからのフジコは、清治にも同じ感情を感じていた。
秀と清治の違いは、自分の肉体が介在しているかいないかだけの違いで、それは、フジコにとっては非常に些細な違いだった。
フジコにとって困った事には、清治や北海の亭主から聞かされる和江にも、同じ感情を抱きつつあった。それは、フジコにとっては意外だった。同性をそのような対象とした事がなかったから。その感情に、ある時は狼狽し、自分に裏切られたような思いすらした。
今まで、同性に、しかも、もうこの世にいない同性に、そのような思いを抱いた事は無い。無いだけに、その感情をどのように処すればいいのかが皆目わからなかった。
ただ、確かに、時として狂おしいばかりに激しく和江の後姿を追い求める自分を感じるのだ。
母とか、姉とか、自分を見捨てていった者達への思いの代替なのだろうか。
いや、それでもないようだった。もっと、しっとりした、肉感的な思い。
例えば、和江が目の前に現れて、フジコの肉体を求めた時に、フジコは、それを拒絶できないだろうとさえ思った。
和江に愛撫される夢さえ見た。その夢の中で、フジコは確かに感じていた。
和江の醒めた視線と、フジコの醒めた視線が絡まり、和江がフジコの体中を撫で摩りながら
「フジコちゃん、感じたらあかんよ。」
と、意地悪く言う。
もう、その瞬間に、フジコの口から狂おしい吐息が漏れる。
写真すら見た事も無い、会った事すら無い相手なのに。
たしかに、夢の中の和江は実体があり、表情や性格すらあった。あったように思える。

「フジコは、清さんが好きなんだろ。」
浜置相手に嫉妬しなかった秀が、清治相手には嫉妬した。
「うん、好きだよ。でも、どうして?僕、秀も好きだよ。」
でも、秀が嫉妬の相手として感じているのは、実は清さんではなく、和江さんなんだ。
それは、秀には言えなかった。誰にも言えない。フジコの中に生まれた秘密だった。そんな秘密は、生まれて初めてといっていい。
だから、清治とお座敷で絡む事を決心した時も、あえて秀に断った。
「秀、僕ね、清さんとやるよ。」
「やるって、何を。」
「清さんと和江さんがやっていた事。和江さんの代わり。」
「フジコって、でも、今までもやって来たじゃないか、同じような事。俺は、そんなフジコに反対なんかしたこと無いだろ。」
「今度のは違うんだよ。特別なんだ。安っぽいエロ本のモデルなんかとは、もちろん違う。」
「清さんとやる事が、そんなに特別なのかよぉ。」
秀が口をとがらせる。一見、並大抵以上のしっかり者の秀だが、自分をフジコにさらけ出せば出すほどに、幼児性が出てくる。それは、秀の心の底に仕舞い込まれ、微かに生き続けてきた欲求なのだろう。フジコだからこそ、フジコにしか見せない秀の幼児性は、フジコにとっても何とも言えない甘酸っぱさを思い起こさせてくれる。だから、秀は好きなんだと思う。が、今のテーマはそんなことじゃあ無い。
「そうじゃなくって。」
口では言えないもどかしさを感じた。
和江の思いを引き継ぐ事。
女としての和江に寄り添い、自分も一人の女として闇の中で白く輝き、男達の視線を吸いつけ、そして。うーん、なんだ?そして?
そして、その先に、何があるんだろう。
和江が生きてこの世にいない以上、和江との距離は永遠に埋まりそうに無い。
フジコの思考は、いつもここでストップする。
だから行動するんじゃないかと、自分に言い聞かせる。
秀には、勿論、そんなフジコのジレンマが理解できない。
「ま、いいか。とにかく、行動あるのみ。」
「何だ、結局それじゃんか。当たって砕けろ。砕け散らないようにな。」
「そうしたら、秀、かけらを集めてくれる?」
「おう、草の根分けてでも全部探し出してやらぁ。」
「ありがと、秀。」

日本海に程近いパチンコ屋の駐車場にトラックを止めて、秀はフジコの寝息を聞いている。
目が覚めたら、本当にフジコは実行に移すのだろうか。
何があっても、フジコを見守ってやれるのは自分しかいないのだと、秀は自分に言い聞かせる。
と、いきなりの通り雨だ。
雨に滲むトラックの運転席で、秀はフジコの肩をそっと抱きしめた。





(続く)