(七)


「畑中さん、電話だよ。」
と、呼びにくる大家の声が柔らかい。
それもそのはず、二年ぶりに溜まっていた家賃を全額支払い、再来月分までをその上に積んでおいた。茶菓子を付けるのを忘れなかった。
これで、前のようにつっけどんな言葉が出てこよう筈も無い。
畑中自身も、自分の思い通りに物事が進み始めて浮かれ始めている。
漸く自分の出番が来たか、と。

杉田清治のかつての部下、矢島に会い、ターゲットを五豊商事社長の立居に定め、暫らく彼の身辺を洗ってみた。
五豊商事と言えば、今や日本の商社の十本の指に入る。
周辺を少し嗅いだだけで、いろいろなアラが出てきた。が、畑中が得ようとしている、次期総理大臣候補 神田洋介へと繋がるものが何一つ出てこない。
勿論、過去のボイラー事件との絡みなど影も無い。
業を煮やした畑中は、直接、立居に会いに行く事にした。と言って、アポも無い状態で訪問して、立居が会ってくれるだろうなどと言う馬鹿げた期待等は、さすがに持っていない。だが、彼のとった行動は、結局似たようなものであったのも事実だ。
彼は、毎日決まった時間に立居の秘書を訪れ、名刺を置いて帰った。名刺の裏には、“杉田清治”と書いた。
ある日、畑中にとってラッキーが重なる。
まず、立居が帰社したばかりだった事。秘書は、畑中の渡した名刺を持ったまま、立居に呼ばれた。立居は、自分の要件を喋った後、ふと秘書の持っている名刺に目を止めた。秘書も、立居の視線に気が付き、深く考えずにそれを差し出した。
立居は名刺の裏を見、“杉田清治、”の名前を見たが、そこに特別な感慨は浮かばない。
サラリーマンたるもの、一々過去の行状を覚え、気にしていたのでは、神経や胃袋がいくつあっても足りなくなる。
「追い返したか。」
そう秘書に確認した途端、杉田清治の顔をおぼろげに思い出す。
「いや、待て。引き戻せ。会おう。」
会う気になったのは、これも偶然だ。
かつて、神田洋介とのコネクションをフルに使い、出世し、権力を存分に振るっていた立居も、社内の新しい派閥の台頭に頭を痛めていた。
彼らは立居を社長室に押し込め、自分達の地盤を着々と作っていった。
それは、旧体質から新体質への脱皮の姿であったが、権力を一度でも手にしたものは、権力の置かれた状況に対して第三者的でありえなくなる。まるで自分の既得権のようにしがみ付くのだ。それが、どんなにささいな物であったとしてもだ。
立居とても例外ではなく、新勢力の力を何とか今のうちに削いでしまおうと躍起になっていた。
そこに現れた畑中は、立居から見ると新勢力の回し者だった。
彼が畑中に会おうとしたのは、あわよくば彼を自分の勢力に巻き込み、新勢力の情報を聞き出そうと言う軽率な判断を自分に下したからだった。立居は、そこまで追い詰められていた。
畑中は、いつものように追い返されても気にもせず、五豊商事のロビーを暫らくうろついた後、玄関先のガードマンと立ち話をして道路に出たところを、立居の秘書に捉まった。
「畑中さん、ですよね。」
「そうですが。」
「失礼いたしました。社長が、立居が会うと申しております。」
「え?お宅の社長が?私に?そりゃまたどうして?」
「さぁ。」
会いに来ておいて「そりゃまたどうして」も無いものだし、呼び止めておいて「さぁ」も無いものだが、どこからどう見ても安っぽいブレザーを着たゴロつきの畑中に、一部上場企業の社長が会うなどとは、呼び止められる方にも、呼び止める方にも想像もつかなかった。
秘書に案内されるままに社長室に入ると、大きなテーブルの前のソファーに、意外と貧相に座った立居がいた。
「座りたまえ。」
そう声をかけられて、畑中はソファーに腰をおろした。
「誰に雇われたんだ?」
立居は、話を早々に切り上げたかった。畑中を呼び戻した事に後悔していたからだ。頭髪はろくに櫛も入れておらず、肘の擦り切れそうなブレザーを着、よれよれのズボンを履いている畑中は、どう見たって一部上場企業の社長室にふさわしくなかった。なぜ、この男がここにいるんだと、我に返った立居は自問していた。
それで、秘書がコーヒーを運んできたのを見て、
「誰も頼んじゃいないだろ。」
と、八つ当たりした。
「いや、調度、今飲みたいと思ってたところなんだ。灰皿もお願いしますよ。」
と畑中。
秘書が困って立居の方を見る。立居は、しぶしぶうなずく。
「で、誰の依頼なんだ?」
「さてね。」
ここはバックに誰かついていると勝手に想像させていたほうが得策だぞと、畑中にしては知恵が働いた。
「山下か?大橋か?」
「そこはご想像にお任せしましょう。」
そう言って、ゆったりと煙草に火をつけようとした途端、
「おい。」
と、立居が一括する。
さすが、子会社も入れると五千人近い社員に号令する立場にあるだけに、その声には気迫がこもっている。
畑中は、火がついたばかりの煙草を取り落とし、おたおたとカーペットの上をはいずった。
ようよう煙草を拾い上げ、ソファーに座り直した畑中に、
「取引きせんか。」
「取引ですか?」
「ああ。」
「その内容によりけりですが。」
「情報を集めてくれ。それに金を払おう。奴らから幾ら貰ってるんだ?」
「それも、ちょっと。」
「そうか。じゃあ希望の額を言え。」
畑中は、指を三本立てて見せた。三万円のつもりだった。仮にも一部上場企業の社長相手に三万円と言うのもチンケな話ではある。
畑中にとってラッキーなのは、この額を立居が勝手に読み違えてくれた事だ。
「うむ。三百万か。今手持ちにそれだけの金は無い。ここに百万ちょっとある。これで当面の軍資金になるだろう。」
そう言い、茶色い封筒を畑中に投げてよこした。
畑中は話の展開にびっくりして、すぐには手を伸ばさなかった。
立居は、それを額が不服なのだと読み違えした。
「他にまだ、何が必要なのだ。」
気を取り直して畑中が尋ねる。
「さる筋から、杉田清治という人物の名前を聞いたのですが。その人物について、社長は何かご存知ですか?」
「杉田清治か。実は、あまり良く覚えておらんのだ。」
「神田洋介氏との関係は?」
「神田大臣か?」
「はい。」
「大臣と、杉田という男との関係?」
立居は、さらに焦る。一体、敵対勢力は何をつかんだと言うのだ。
「杉田と言えば、そうだ、私に辞表を直接手渡しおった。うん、思い出したぞ。そうそう、我社と神田大臣との癒着に関する資料を持っているとか言っていたな。どうせハッタリだろうが、火の出ないうちに火種は始末しておくに限るから、確か、奴の条件をのんで奴の部下達を閑職から引き出してやったな。しかし、奴は、その後行方知れずだ。しかしなぁ、奴の部下だった連中、全員子会社の中間管理職で、そんな大きな力を持っている奴はおらん筈だぞ。」
「杉田を始末したと?」
「ばかな。始末するには値せんだろ。行方だけは知っておこうと調査させたが、結局、雲隠れしたままだ。」
「その杉田清治が出てきたら、どうします?」
「奴の情報は古い。今さら何の影響力も無いよ。」
「ボイラー火災で一家離散した家庭の子供の話と、杉田清治の話を、どこかの週刊誌が取上げたとしたら?」
「そんな子供だまし。」
「そうですか。」
畑中は、肩を落として立ち上がった。
「ちょっと待て、何処へ行く。」
「いや、私の力が社長をお救いするかと思っていたんですが、あまりお力になれそうに無くて。杉田清治のラインを潰そうと思っていたんですがね。」
「待て待て。忘れ物だ。」
立居は、茶色い封筒を拾い上げて、畑中に手渡した。
「あまりお役に立てないんじゃあ、いただくわけにはいかないなぁ。」
そう言いながら、しっかりと封筒を握っている。
「まぁ、そう言わずに。今後も色々と情報を持って来てくれたまえ。」
そう言いながら、畑中をドアの所まで送っていく。
畑中は、そうされて満更でもない。しかし、立居が何故ゴロツキの畑中に対して、そう言う行動に出たのか、深くまでは考えない。それが畑中の限界だった。
立居は畑中がエレベーターで降りていくのを見届けて、慌てて神田洋介に電話をかけた。
つまりこう言う事だ。立居は、対抗勢力が神田以外の政治家と手を結びかけているのでは無いかと疑った。確かに、このところ神田派の独裁は目に余るものがあった。週刊誌でも醜聞がよく取上げられていた。対抗勢力は別の政治家と組み、神田と立居の二人を同時に失脚させようとしているのではないか。
立居程の海千山千の男でも、追い詰められると判断ミスをする。特にここ何十年、窮地に立たされた記憶が無い。
それだけに、危機に当たっての心構えが出来ていなかったと言っていい。
さらに、こういう事が言える。いつの時代も、もっと手広く考えれば、殆どの生命体は、種の保存の為に権力闘争を繰り広げる。そして、若く、力に満ち溢れ、種を守るに足る能力を持った者が、その権力の上に座る。しかし、それもその力を維持できる間だけだ。
種は、その者に種を維持するだけの力が無くなると、新たな権力者を求め始める。
一度頂点に立つと後は老いさらばえ落ちていくしかないのだが、えてしてその事には気付かず、あるいは気付いていてもその事は無視し、種の保存のためではなく自己の保全の為だけにその座を維持したがるようになる。それが、知を得た人間の悲しさだ。老いさらばえ、落ちていきつつも、なお自己を守る事に執着する。つまり「陥る」事だ。一度保全に陥ると、様々な判断ミスを重ね始める。それも自己の培った手練手管を駆使してミスを糊塗していくので,種そのものが抜き差しならぬ所に至るまで、誰もその事には気が付かない。幸いにも、五豊商事がそこまで行き着くのは、もっと後の事。その頃には、立居は元会長として、一見優雅な人生の終末を迎えている筈だ。
つまり、五豊商事には、権力の頂点に立ち、それを守る事に汲々とした者が、立居の後にも最低二人いると言う事だ。
こう言う事も言える。時代はそのような愚かさを充分に許容できるだけの力に満ち溢れていた。
そのお陰で、畑中程度の男でも時代の許容力の中で二重三重の幸運に恵まれ、チャンスを掴む事ができた。

畑中は、古巣のエネルギー新聞社の近くでネズに電話を入れた。この時間なら、まだ外回りに行かずに、社内にいるはずだとつけた見当は、外れていなかった。
「ネズか。」
「はい。」
相変わらず暗い奴だと、軽蔑の念を声色にも現して、
「今、時間無いか?」
「無いって事も。」
無いですと、口の中で答える。
「『ウミネコ』まで出てこいよ。ちょっと相談事だ。いいだろ。話は十分程度で済むから。」
じゃあすぐにと、言った割には三十分近く待たせてネズが『ウミネコ』に現れた。
「遅いじゃないか。」
と詰る畑中に、
「ちょっと、いきなり。」
電話が、と最後は口の中で答える。
畑中は、それを無視して、
「頼み事があるんだ。」
「俺に、ですか。」
「調べて欲しい。いいか。」
と、ネズに出した依頼は、十数年ばかし前、五豊商事輸入の家庭用ボイラーが原因で焼け出された者達の現在の連絡先。
「出来るか?」
「出来ない事は無いですけど、少し時間をいただかないと。」
「一週間。」
「短いなぁ。もう少し余裕を。」
いただけませんかと、呟くネズに、
「五万円出すよ。」
ケチな男だ。
立居からは百万を越える額を貰っておきながら、依頼する相手には五万円しか渡さない。
「五豊商事は、しかし、今やエネルギー新聞社の良きスポンサーですから。」
「十万でどうだ。」
「しかし。」
「ネズ、俺は今フリーなんだ。それって、束縛が無い代わりに、情報収集先を制限されるって事なんだ。ネズ。お前が頼りなんだ。」
そんな事は無かった。その気になれば、図書館でだって新聞を繰って調べる事はできる。
しかし、畑中にはそのために必要な根気と能力が無い。
「頼むよ。」
「もう一つ、条件いいですか。」
「何?何だ?」
ネズは、口の中の唾液を音を立てて飲み込むと、
「今後、二度と内の奴に手を出さない事。」
「何だそんな事か。」
「子供もそろそろ知恵が出てきます。聞けば、子供の前でも平気で、あれだそうじゃないですか。」
「いいけど、お前の内儀さんが俺を放してくれるかな。」
「普通の家族でありたいんですよ、子供の前では。」
「分かったよ、二度とお前の内儀さんには近づかない。」
それから一週間、ネズからの電話を今か今かと待っていた。
畑中とて、愚鈍ではない。ただ待っていただけでは、勿論、無い。
静岡まで出かけ、清治の息子の康弘に会っている。
会っていると言う表現は正しくない。顔を見ただけだ。
電話番号を頼りに沢田家の場所を探し当てた。旧家だけあって地所は広い。ぐるりと囲んだ板塀越しに、広い庭と母屋、離れの小さな屋根が見える。入り口は、門の格子の引き戸か、裏の勝手の小さな開き戸。勿論、杉田清治の事でと乗り込めば追い出されるに決まっている。しばらく、近くの空地から様子を窺っていると、背の高い高校生らしき男が中に入っていった。ダブダブのズボンに、大き目のガクラン。眉を剃り落しているのが遠目にもわかった。
その男が中に入って暫らくすると、何か大きな物を壊す音がする。そして叫び声。
「康弘、止めて。」
老婆の声らしい。
「だったら、素直に出せよ。」
「康弘。」
電話で聞き覚えのある老人の声。
「最初から大人しく出してろよ。」
乱暴に門の引き戸が開けられると、先ほどの高校生らしき男が出てきて、走り去った。
「あそこのお孫さん、いつもあれなんですよ。」
振り返ると、大根の飛び出た買い物篭をぶら下げて、老婆が立っている。
「随分荒れてるようで。」
「荒れてるなんてもんじゃないですよ。奥さんも旦那さんも青痣だらけでねぇ。そりゃ、もう、お気の毒で。一度、息子さんが止めに入られたんですけど、大怪我させられて。それ以来、誰も近づけない状態でねぇ。」
「警察とか呼べばいいのに。」
「なかなかねぇ、そんなわけには行かないみたいで。何度か警察も来たんですけど、旦那様が追い返してしまわれて。それで余計に調子にのってるんだと思うんですけどねぇ。」
「まさに、手のつけようが無いって奴か。」
「小さい頃は可愛かったんだけどねぇ。やっぱり、父親も母親もいないってのが良くないんだろうね。お嬢さんもお気の毒にねぇ。一度は結婚されてたんですけど、出戻って来られて、暫らくしていきなり病気でねぇ、亡くなっちゃって。」
最初は丁寧だった老婆の喋り口が徐々にぞんざいになる。
「そりゃ気の毒な。」
「でしょ。それで、奥様が甘やかしちゃったんですよ。旦那様は旦那様で、逆に厳しくされて。父親は、どこでのたれ死んじまったのか。あら、やだ。私とした事が。」
そう言うと、老婆は、ひょこひょこと沢田家に入っていった。
それから一時間あまり後、隣町の繁華街を歩いていて、康弘の姿を再び見る。
近くにホテルを取り、夕食がてら飲みに出て来た時だ。
街のチンピラ然とした奴らと立ち話をしていた。どうやら、随分親しいい様子だった。
康弘が、その中の一人にお金を手渡すと、別の男が近付き、手に何かを握らせる。
そのまま男達はそれぞれ別の方向へ去っていった。
康弘は、辺りを窺いながら暫らく歩き、とあるビルの地下へと降りていく小さな階段に消えた。
畑中は、何も彼の行方を追っていたわけではない。
が、腐ってもジャーナリストだ。康弘の動向に何かを感じて、同じように階段に消える。
階段を降りると、手製のモノクロのチラシと、落書きだらけの分厚めの扉があった。
扉を開けると、小さな薄暗い部屋で、その先にもう一つ扉があって、その奥からは、ロックのビートが漏れ聞こえてくる。
流石の畑中も一瞬引き返そうかと思ったが、勇気を出し、二つ目のドアを開く。
中は、薄暗く何やら時折光がチカチカして、それがなお、店内を見通しにくくしている。
充満した煙が目に染みる。
体の大きい、モヒカン刈りの男が出てきて、畑中の事をジロジロと値踏みでもするように見る。
男が何か言っているが、店内に流れるロックの音がうるさくて聞き取れない。
畑中が、耳を指差して「き・こ・え・な・い」と口の形をつくる。
男は、さらに畑中の耳に近付いて、
「一人か?」
「そうだ。」
「チャージ。」
「いくら?」
「三千円。」
畑中が金を差し出すと、
「ステージの近くが空いてるが、どうだ。」
「近くでなくていい。飯食えるか?」
「焼き飯くらい。」
「オーケイ、それとビール。」
畑中が案内されたのはステージに程近い小さな丸テーブル席で、天板の座りが悪く、手で押さえていないとビールが滑り落ちそうになる。
後ろは店内よりさらに薄暗いボックス席になっていて、何人かの男女が蠢いている。
その内の一人が煙草に火を点けた時、グループの中に先ほど見た康弘らしき姿を見つける。
グループは七人ばかり。女が三人いる。康弘は、端から二番目に座って、一番端の女の肩を抱いている。
ビニール袋を口にくわえている者もいて、ラリっているのがわかる。
暫らくして、康弘がポケットの中から、小さな包みを取り出し、テーブルの上に広げた。
中の一人が、それを取上げて眺める。煙草のようにも見える。
それがマリファナだろうと見当をつけたところで、いきなり背中を殴りつけられた。
相手は手加減したのだろうが、それでもかなり利いた。
「何じろじろ見てやがるんだ。」
振り返ると、眉を剃り落し髪の毛を茶色に染めた男が立っている。
ボックス席の康弘とは反対側に座っていた男だ。康弘の方にばかり注意がいって、全体に目配りできていなかった。
その男が、さらに顔を近づけてくる。目に生気が感じられない。爬虫類のそれのようだった。
「何をジロジロ、俺達の方ばかり見てやがるんだ。」
やや舌をもつれさせて、さらに問い掛けてくる。
先ほどのモヒカンの店員が駆けつけてきて、その茶髪を引き離す。
康弘達何人かがやって来て茶髪をなだめにかかるが、茶髪から何やら耳元で囁かれ、康弘が畑中に顔を近づけ、
「てめぇ、何処の者だ。」
「いや、私は、何も。」
畑中が言いよどんでいるところへ、さらに別の男が、
「サツかよぉ。」
「違う、違う。」
慌てて手を振る。
モヒカンの店員が畑中の腕を捕まえて立たせ、入り口とは反対のステージの横のドアから連れ出した。
そこは、コンクリート討ちっぱなしの小さな部屋で、楽屋兼事務所のようだった。ギターを抱えた危なげな男達が一斉に畑中の方を見る。
「持ち物、皆出しな。」
モヒカンが畑中の腕を押さえながら言う。
「分かった。出すから腕を放してくれよ。」
「逃げるなよ。」
畑中は、上着のポケットの中のもの、と言っても財布と手帳、ハンカチ、ボールペンをテーブルの上に置いた。
「あやしい者じゃない。ジャーナリストで、若者風俗の特集を組んでるんだ。」
そう言いいながら、いつも持ち歩いている友人の雑誌社の名前の入った名刺を差し出す。
モヒカンは、財布の中味も全て引き出し、特に怪しい物が無いのを確認すると、
「よし、わかった。そこの裏口から出て行け。二度とこの店には顔を見せるな。それと、さっきの連中には、街ですれ違っても目を合わせるな。うちの店でも、一番危ない連中だ。」

翌日、畑中は、再び沢田家の近くにいた。
先日会ったお手伝いの老婆が出てくるのを待っていたのだ。
老婆は昼前に買い物篭を下げて出てきた。畑中は駅前のスーパーまで後をつけると、店内で先回りし、わざと老婆に体をぶつける。老婆がよろめいたところをさっと腕を出して支えた。
「おっと、ごめんなさい。大丈夫ですか。」
「おやまぁ、こちらこそ、もっとしっかりと歩かないとねぇ。」
「先日は、どうも。」
「どちら様でしたっけ。」
「沢田さん家の前で。」
「ああ、あの時の。」
「ええ、近くに引っ越してきましてね、たまたまブラブラしているところに。」
「まぁ、そうなんだ。じゃぁ、あれだね、嫌なところを見られちゃったね。」
「いえいえ、私、雑誌記者でして、いろんな若者の風俗をレポートしてるんですよ。お宅のお坊ちゃんなんか、まだ、まともな方ですよ。」
「あれでかい?」
「ええ。あの程度なら一過性のもので、そのうちに飽きてくると逆に親孝行になったりしてね。」
と、口からでまかせを言う。
「そうならいいんだけどねぇ。旦那様や奥様が、どんなにお喜びになるか。」
「沢田家と言うと、この辺りでは旧家ですよね。」
「そうそう、昔の藩士の家柄でね。」
「ほぉほぉ。」
と相槌を打ちながら、老婆の買い物籠を持ってやる。親切心からではない。老婆の心に隙を与えて、いろいろ聞き出すためだ。
「そうすると、かなり優秀な方々が親戚筋にはおられるんでしょうね。」
「そうだねぇ、でも、だいたいあれだね、地元のお役所勤めだね。旦那様がそうだったからね。」
「政治家になった方もおられるんじゃないですか。」
「政治家ねぇ。いないねぇ。」
「次期総理大臣候補の神田代議士のご実家が、確かこちらの方だったような。」
「ああ、あの人ね。そうだねぇ、たしか、奥様の遠縁に当たる方だねぇ。お嬢様のご結婚式の時には、祝電が届いてたと思うんだけど。」
「お嬢様って、お亡くなりになった。」
「そうそう。最初、旦那様は反対されて。どこの馬の骨とも知れない相手に娘は嫁がせられないってね。あらまぁ。最近の事となるとすぐに物忘れするのに、古い事だとしつこく覚えてるもんだね。でも、どうしてあなたがお嬢様の事を。」
「先日お聞きしましたが。」
「あらまぁ、そんな事まで喋っちゃったかね。」
「ごめんなさい、別に覚えてるつもりなかったんですけど。」
「あら、いいんだよ。口の軽いあたしが悪いんだからねぇ。どうなっちゃったんだか、良く分からないんだけど、お嬢様が離婚されて戻って来られてねぇ、お子様を連れて。それが、ほら、昨日の康弘坊ちゃんだよ。それから半年くらいしたら、可哀想に、お嬢様、病気でお亡くなりになられて。」
「離婚の原因は、さだめし、ご主人の浮気ですか。」
「それがねぇ、良く分からないんだよ。ご主人には何度か会った事あるんだけど、生真面目そうな、そんな浮気なんてしそうにない感じだったんですよ。」
「じゃあ、あれだ、性格の不一致。」
「そうかねぇ。」
「人は見かけによらないですからねぇ。」
「たまに帰ってこられた時なんか、本当に仲良くって幸せそうだったけどねぇ。旦那様も、それでようやくお二人の結婚をお認めになられて。そういや、さっき言ってた政治家ねぇ、なんだっけ。」
「神田代議士。」
「そうそう、ご主人の仕事に役立てばってねぇ、旦那様と奥様、大臣に是非紹介したいって、親戚筋にお願いしてらしたっけ。」
「へぇ、神田代議士にねぇ。」
「おや、ここでいいよ。奥様に見つかったら何て言われるやら。」
老婆は、結局、畑中に買い物篭を持たせ、沢田家の近くまで運ばせたのだった。
老婆と別れて道々、次に攻めるべきは杉田清治の息子、沢田康弘本人だなと、畑中は思う。
しかし、相手はかなり凶暴そうだ。
下手に近付いて怪我するのも馬鹿らしい。
ネズがボイラー火災の被害者を見つけ出してくれれば、うまく操作し、被害者と康弘、二人を会わせるって手もあるぞ。そして、日本人好みのお涙頂戴話に仕立て上げ、雑誌社に売りつける。それと同時に、立居にもその情報を流し、出版差し止め費用をたんまりといただく。
立居一人を悪者にし、杉田清治も、その息子も、ボイラー被害者も、全てその企業活動の被害者にしてしまうのだ。
畑中は、もう全てが上手くいったような思い込みに浸る。

「見つかったのか。」
「ええ。」
ネズの蚊の鳴くような声が受話器の向こうから聞こえる。
「よくやった。すぐにでも会えるか?」
「『ウミネコ』でお会いしましょうか。」
「よし、じゃあ、三十分後に。」
「いいでしょう。」
エネルギー新聞社の近くの『ウミネコ』という喫茶店には、約束通り三十分きっかり後に到着した。
ネズは、熱帯魚の泳ぐ大きな水槽の前の席で、エンジェルフィッシュに指でちょっかい出しながら、畑中を待っていた。
畑中がネズの前の席に腰掛けて、漸く気がつく。
「待たしたか?」
「いえ、ここ、結構暇潰せますから。」
そう言われて、畑中はエンジェルフィッシュを見る。
別に代わり映えのしない熱帯魚が、水槽の中をゆったりと泳いでいる。
「いいネタ見つかったか?」
「ええ、すぐにね。」
「そうか。」
その割には、連絡が遅かったじゃないかと言う言葉を飲み込んだ。
「その後を探ってたんですよ。」
「何のその後?」
「北九州で子供だけが焼け出された火事、覚えてますか。」
「そんな火事、いっぱいあるだろ。」
「その後ですよ、三ツ谷さんが色々と表立って動き始めたの、正義感に駆られて。」
三ツ谷が動いたのなら、面白みがあるかも知れない。
「で?」
「焼け出され、親を無くした子供の今の居場所がわかったんですよ。」
「それを追ってたのか。で、今はなんだ、その、親を無くして、食うに困って、売春でも始めて、今や監獄の中とかじゃあないだろうな。」
「それは無いですね。兄弟二人が生き残ったんですが、一人、弟の方は交通事故で亡くなってます。もう一人は、一時期、確かにぐれてましたが、今は真面目に働いてますね。」
「それって、全然面白くないなぁ。もう少しドラマチックに生きてるのって、いないのかい。」
「悲劇的なのって、それくらいです。」
「何だ、つまらん。」
「と、すると」と、畑中は、頭の中を巡らせる。やはり杉田清治の子供と、その焼け残った子供を引き合わせる事だな。そこに、何かドラマが生まれてくれればいいのだが。
「板前修業やってます。」
「え、何?」
「その子は、今、真面目に板前修業やってます。」
「そうかい。」
ますます面白くない。
杉田清治の子供と、その子供を、どうやって引き合わせるかだ。
まさか、あの康弘って奴が、どっかに連れて行ってやるからなんて子供だましの言葉にひょこひょこと付いて来るわけも無い。
「村野竣」
「え?」
「村野竣ってのが、その子の名前です。」
「何処にいるんだ、今。」
「笠野形温泉。」
「聞いた事無い温泉だな。」
「そうですね、旅館が三軒程度の信州の小さな温泉です。秘湯紹介って深夜番組のコーナーに取上げられた事があります。そこの丸屋って旅館にいます。どうします?」
「どうしますって、行くしかないだろ。」

翌日の午後、畑中の姿は、笠野形の駅前にいた。
朝の六時に出て、六時間ばかし電車に乗り継ぎ、揺られた事になる。
とりあえず、前日、村野竣に電話を入れてみた。
夕食後で忙しそうだったので、用件だけ手短に話す。
相手は、余り乗り気ではなかった。
「君の話を聞かせて欲しいんだ。」
「あまり喋るような事ないですけど。」
「苦労したんだろうね。」
「そりゃまぁ。」
「お父さん、お母さんがいなくて、悔しい思いをした事もあるだろ?」
「無いとは言えませんが。」
「私が、どれくらい役に立つかは分からないが。」
「すいません。今、一番忙しい時なもんで。」
「じゃあ、明日、伺うよ。三時過ぎならどうだろう。」
「いや、来ていただいても。」
受話器の向こうで「チビ」と声がする。
村野竣が、それに答える。
確かに、皿を洗うガチャガチャした音が聞こえてくる。
「忙しいんで。それじゃあ。」
電話は、一方的に切られた。
畑中にしてみれば、村野竣の苦労話には興味が無い。
両親と早くに死に別れて苦労する話など、世の中にごまんとある。今更、そんなもの取上げてもマスコミは見向きもしないだろうし、それでは立居を強請る材料にはなり難い。
ドラマを作り上げなければならない。大衆が涙する感動的なドラマを。そのために、彼を、村野駿を杉田清治の息子に会わせる事しか考えていない。
二人が、それぞれの人生を抱えてスパークしてくれなくては、畑中の計画は果たせないのだ。
「まだ、ちょっと早いな。」
腕時計を見ながら、車のいないロータリーを横切り、古い暖簾のうどん屋に入っていった。
入り口に一番近い席に腰をかけると、
「きつねうどん。」
「はいよ。」
店主が応える。
「それとビールね。」
女将が、ビールの栓を抜きながら、
「暑くなりましたね。」
と、愛想する。
「お客さん、珍しいね、こんな時に温泉旅行ですか。」
店主が、カウンターから声をかける。
「ええ、ちょっと、取材に。丸屋旅館って、ここから遠い?」
「丸屋旅館なら、バスで五分、歩いても二十分くらいですよ。そこの道をまっすぐに歩いていけば、いやでもたどり着けます。赤い橋が目印ですよ。」
畑中は、うどん屋の女将に教えてもらったとおりに、川沿いの道を歩きながら、どうやったら村野竣を世間に感動的に登場させられるかを考えた。
まず、村野の過去の記憶を呼び起こさせる。取材にかこつけて、できるだけ細かな部分まで。特に、火災が発生し、彼ら兄弟が逃げ延び、両親が焼け死んだところ。そして、彼の話に相槌を打ちながら、さらに記憶を呼び覚まさせ、彼を悲劇の主人公に仕立て上げる。それ以後、彼の周辺で起こる出来事は、すべて彼の過去と結びついていなければならない。畑中が、そのお膳立てをするのだ。畑中のストーリーの中で、期待通りの動きをしてもらう為には、多少とも誇張された部分があってもいいだろう。彼は、世間の同情を一身に担う悲劇の主人公なのだ。いや、主人公になりきってもらわなければならない。
その上で、加害者の一人である杉田清治の息子に会いに行かせるのだ。
ところが、杉田政治の息子は、世間から目をそむけ、不良仲間と怠惰な生活を送っている。ここからが肝心だ。
村野に彼を厚生させる役目を担ってもらわなければならない。なに、裏でうまく糸を引くさと、畑中は自分があたかも万能であるかのように考える。
そして、二人で五豊商事に乗り込ませる。その先にあるのは、次期総理大臣候補と目される神田だ。
そうなれば、一流商社の社長と次期総理大臣が自分の思うままだ。
普通の人間ならば、そう単純に事が運ぶとは思わないが、彼は、たまたま運良く、五豊商事の社長から少なからずの金を引き出せた。もうそれだけで、全て自分の思うように事が運ぶのだと勘違いしている。その楽天的な性格が、親から引き継いだせこさと相俟って、彼を破滅へと向かわせている。
丸屋旅館のフロントから村野竣を呼び出してもらい、喫茶コーナーで一杯五百円也の高いアイスコーヒーのストローを銜えながら村野を待つ間、さらに畑中の妄想は膨れ上がる。
村野と康弘を利用して、次の金稼ぎのネタも仕入れられるだろう。そうだ、村野と康弘の話をルポルタージュとして売り出そう。映画化されるかも知れない。そうしたら、もう今のようにあくせくと稼ぐネタを求めて飛び回らなくてもよくなるのだ。
「お待たせしまして。」
畑中の前に現れたのは、痩せ身の何処といって特徴の無い、しかし真面目さだけが取り柄のような青年だった。
畑中の予定では、もう少し悲劇のヒーロー然とした風貌を持っているはずだった。
畑中は一瞬鼻白んだが、自分が彼を変えるのだと思い返し、
「まぁ、座りたまえよ。」
「ここで、ですか。俺達、従業員が、こんなところで。」
「いいじゃないか、休憩中なんだろ。」
「はぁ、でも、やっぱり困りますよ、皆の目があるんで。裏手に従業員用の食堂があるんで、そこでいかがですか。」
「そこならば、いいのかい?」
「はい、二十分くらいなら。」
吸殻で山盛りになった灰皿をはさんで、村野は腰掛けた。
座りの悪い丸椅子だった。
遅めの昼食をとる者が数名。
メニューは、カレーとうどんとラーメンしかない。
「すいません、こんなところで。」
「いや、いいよ。」
「ここって、安いんですよ。カレーライスが五十円なんです。先日の旅館の残り物ですけどね。」
「へぇー。」
と、相槌を打っているが、畑中には興味ない事だった。
村野は、それを見て取って、
「で、何の用でしょうか。」
「ああ、実は。」
と、畑中は、例の出版社の名刺を見せ、
「火災というものを取上げてね、生き残った人の証言を拾い集めて、改めて火の恐ろしさをアピールしようと思ってたんだよ。ところが、だ。」
畑中は、ここで間を持たせるために煙草に火を点ける。
「吸うかい?」
差し出したのはダンヒルだ。
「いえ、吸いません。火災の原因にもなるでしょ。」
「おっと、こりゃ失礼。」
慌てて山盛りの吸殻の中に突っ込んで、改めて残念そうに見やる。
村野は、つっと席を立つと、コップに水を汲んできて、自分のグラスの水で吸殻の山の埋もれ火を消しながら、「どうぞ」と、畑中にもう一つを差し出した。
「ところが、だねぇ。」
間を持ち損ねて、慌てて取り繕う。
「調べているうちに、一定期間のうちに、在る特定のボイラーが原因による火災が異常に多いのが分かった。」
「五豊商事のボイラーです。」
「知ってるのか。」
「五豊商事の社長が、沢山部下を連れて俺達兄弟のところにやって来ましたよ。」
「で?」
「俺達が就職するまでの学費の面倒を見させてくれって。でも、引き取られた叔父の家も貧しかったんで、俺も弟も中卒で働き始めた。奴ら随分得したろうな。」
「その時、火災の原因について何か言ってた?」
「今後のエネルギー事情も踏まえ、良かれと思ってアメリカから輸入したんだけど、このような欠陥を持っているとは夢にも思わなかったって。プロジェクトのリーダーは責任を感じて自殺してしまったんで、社長が自らお詫びに回っているって。」
「なかなか良い話じゃないか。」
「そうですか。でも、部下と一緒にマスコミも一杯連れて来ていて、マスコミに向かって喋っているみたいでしたよ。部下の人達の態度も悪かったし。」
「そうなのか。ところで、火事に遭った時の事なんて、今更思い出したくもないんだろうね。」
「ええ。」
「うん、私も君の気持を察して聞かないようにするよ。」
それは、ハッタリだった。
なんとか、火事に遭遇した時の事を思い出させ、彼の怒りを掻き立てなければならない。
「輸入物のボイラーが買えるなんて、君の家は裕福だったんだねぇ。」
「とても裕福なんて言えなかったですよ。オヤジは真面目な勤め人でしたが、お袋が病気がちで、ほとんど寝たきりでした。オヤジの稼ぎは殆どお袋の治療費に消えてましたから、俺達は、ほころびだらけの服を着せられてました。でも、俺達不平一つ言わなかったですよ。オヤジはお袋に優しかったし、お袋も自分が俺たちに迷惑かけてるの知っているから、御免ねって言いながら、話し相手になってくれたし。」
「そうかい、そうかい。」
と、畑中は、一応感動はして見せるが、彼の精神回路が、そのような感動を持ち合わせているわけがない。親子の愛情等というものに触れて育った事がないので、そういう世界を現実のものとして受け付けないのだ。さりとて、それを嘘だと切って捨てる状況でもない。感動した振りをして、無視をする。
「じゃあ、あれだ、ボイラーを買ったのは。」
と、カマをかけて次の言葉を誘い出す。
「ええ、お袋の為なんです。オヤジがね、病弱なお袋が少しでも快適に過ごせるようにって。」
「それが、仇になったのか。」
「そう言う事ですね。」
「気の毒に。火事の時には君達兄弟だけが助かったんだよね。君達が玄関の近くにいたって事かい?」
「オヤジは、寝てる俺たちを、まず外に出したんですよ。それから、お袋を助けに火の中に入っていった。」
「それで。」
「ええ。」
畑中は、間を持たせようと煙草をくわえかけて、あわてて元に戻した。
こういう時は、しばらく沈黙するに限る。
「さぞや悔しいだろうね。」
「ええ。でも、いつまでも誰かを怨んでも、両親が帰ってくるわけでもなし。仕方ないですよ。事故だと思って諦めるだけです。」
ここで、畑中は、少し食い込む。
「それが、避けられた事故だったとしてもかい?」
「どういう事ですか?」
「聞きたいかい?」
「いや、いいですよ。今ごろ聞かされても。もう、十数年前の事ですから。」
「最初から、事故が発生するのが分かっていたとしたらどうする。」
「馬鹿な。」
「そうだろうな。一部の欲深い連中のために、君達家族が犠牲になっただなんてね。考えたくも無い。でもね、えてして世の中、そんなもんなんだよ。いや、資本主義がどうのと、古臭い主義主張を振り回す気は無いんだ。資本主義の国だろうが、共産主義の国だろうが、何処の国にだって欲深い奴らは、いる。そして正直者を食い物にする。それが、人間、いや、生きとし生ける者の姿だ。君達の家族は食い物にされた正直者ってわけさ。」
「いい加減な事言うのは止めてください。」
「いい加減な事じゃないよ。いいか、一人の男が自分の出世のために、欠陥品をアメリカから輸入し、政治家を巻き込み、五豊商事を巻き込んで売りに出した。ところが、政治家も商社も、その男より一枚上手だった。その男から国内販売権を奪い取り、自分達で展開し始めた。しかしだ、最初にその欠陥品を欠陥品と知って国内に売り出した男、この男がいなければ君達家族は犠牲にならなくてもすんだんだよ。」
「はぁ。」
「いや、いきなりの話で戸惑っているかも知れないが。」
「いえ。」
「君は、国のエネルギー事情を思えばこその、涙ぐましい企業努力ゆえの犠牲者だと聞かされたし、そう信じているだろ?」
「そうじゃないんですか?石油も後何十年しか持たないんでしょ?」
「君は本当に企業が社会の為にあると信じるのかい?水俣病やイタイイタイ病は、誰が引き起こしてると思うんだ。全ては、人間の欲得から出た物だ。企業も、欲得尽くめなんだよ。」
何故、ここまで熱弁を振るうんだと、畑中自身不思議だった。別に社会正義に目覚めたわけではない。ただ単に、自分より得している奴らが許せないだけだ。
その嫉妬心が熱弁を振るわせる。
それと、この過去に不幸を背負いながらも糞真面目に生きている青年にいらついている事もある。
この男に現実の、真の姿を見せてやりたい。
「知りたいだろ?」
「何ですか?」
「その男の名前。君の両親を死に追いやった男の名前だよ。」
「いや、別に。」
「知りたくないのか。」
つい大声を出してしまった。
「知ってどうなるものでもないですし。」
「その男は、君達を不幸に追いやりながら、のうのうと生きてるんだぞ。」
「もしそれが本当ならですよ、その人も随分と悩んだんじゃないんですか?だって、俺達の家族以外にも沢山の人を死なしちゃったんですよ。」
この男は、なんと能天気な。
「君は、馬鹿か。」
「失礼な。」
「いや、失礼。つまりだ、そんなにまで人間の善意を信じているのか。」
ここで畑中に対して怒らせてしまっては、元も子もない。村野の怒りは、あくまで杉田清治をトリガーとして、政治家や企業家に向けられなければならない。
「俺達の両親は、他人を大事にする事を教えてくれたんです。」
何と馬鹿げた親達もいるもんだ。畑中の親は、畑中にひたすら他人から掠め取る事を教えた。金こそがこの世の善の塊であり、それを得るためには、あらゆる手を尽くし、人を陥れてでもいい。最後に金を手に入れられれば、それが即ち善き事を為した結果であると。畑中は、それまでの経験から、やはり自分の親の教えが正しい事を確信するに至った。
「それは、いい事だな。だが、その男は、そのようには考えていない。自分の利益の事しか考えていない。その為ならば、人を何人殺めても良いと思っている。そのように考える人間も多いのだよ。五豊商事の現社長もそうだ。かつてのボイラー拡販に裏で手を貸していた男だ。それに神田洋介次期総理大臣候補。この男も、五豊商事の手がけるボイラー拡販事業が有利に運ぶように政財界に圧力をかけ、その見返りを受け取っている。」
「本当ですか?」
「その筈だ。だが、証拠が全て隠滅されてしまっている、残念ながら。でも、確実に言えるのは、この男達の欲得尽くめの行動が君達家族の未来を奪った。そして、奴らはその事を忘却の彼方に押しやり、何事も無かったかのような顔をしている。いや、奴らは、人生の成功者だ。君達の人生を踏み台にして、一人勝者の美酒に酔っている。悔しくは無いか?」
「そりゃあ、多少は悔しいですけど。」
「ところで、私の知っている限り、犠牲者は君以外にもう一人いるんだ。」
「犠牲者?」
「ああ。ボイラーによる犠牲者だ。だが、火災のせいじゃない。そうだ、ボイラー連続火災事件の発端を造った男の名をまだ教えていなかったな。」
「はい。」
「そいつが、この不幸な事件の引き金になった。忘れてはいけない名だ。いいか、その男は、杉田清治と言う。」
「杉田清治。」
「ああ、そして、この男の一人息子が犠牲者の一人だ。」
「何故、その息子が犠牲者なんですか?」
「杉田清治は、自分の出世のために、女房子供を捨てた。そのために、息子はグレてしまった。杉田清治の息子として生まれなければ、彼は、あんなにグレる事も無かった筈だ。」
「そうでしょうか。」
「そうなんだ。そう、それで君に一つお願いがある。杉田清治の息子と一度会ってみてくれないか。」
「俺が?どうしてです?」
「いいか、君達の事を世間に報道して、世の中の注目を引き付け、君達を踏み台にして登りつめた奴らに相応の事をさせるためだ。相応の事って、わかるよね。そのためには、君一人じゃあ力足らずなんだ。必ず君たち二人で動いてくれないと。」
「良く分からないなぁ。」
「会ってくれれば分かるよ。」
「はぁ。ともかく。」
もう休憩時間が終わりますからと、村野は席を立った。
こうなればと、畑中は急ピッチで頭を働かせた。杉田清治の息子に直接会って焚きつける必要があるな。
村野が、もう少し燃え上がってくれるかと思っていた。怒りに燃えた村野を引き連れ、杉田清治の息子と会うと言うのが、畑中の中で予め組み上げられていたストーリーだった。

畑中は丸屋旅館を出ると、ちょうどやって来たバスで笠野形温泉駅に急ぐ。今なら、静岡方面に向かう急行を拾えるかも知れない。そうすれば、なんとかその日のうちに杉田清治の息子、沢田康弘の家のある町に着ける。
別に康弘に訪問の約束を取り付けたわけでもない。が、行けば会えると思っていた。
駅に着くと、十五分の待ち合わせで急行列車があった。
ホームに出て、今来た方角、丸屋旅館のあるあたりを見る。
山と山に挟まれて、もう、その辺りだけは日が暮れている。
源泉井戸のある辺りから沸きあがる白い湯気が、微かに見て取れた。




(続く)