(八)



清治は、和江に抱きしめられる夢を見ていた。
和江が、寝ている清治の蒲団にそっと入ってきて、清治を抱きしめる。
和江の柔らかい唇が頬や前頭部に触れる。吐息が耳朶をかすめる。
和江と呼んで、その体を抱きしめようとして腕が空を切り、目が覚める。
何時の間に引っ張り出したのか掛け布団が一枚、体に掛けてある。
日当たりの悪い部屋でも、さすがに窓から乱反射した陽光が入り込み、清治の顔のところまで伸びていた。その温かさがちょうど和江の体の温かさと同じだと思った。
しばらくそこを懐かしんだ後、のそりと起き上がると窓辺に歩いていって、舌打ちする。
以前は、窓辺に二人分の洗顔用具を置いていた。それを取りに行こうとしている。
洗顔用具は、まだ、清治の古びたバッグの中だった。
共同便所の隣の共同炊事場で歯を磨いていると、
「部屋、箒かけといてあげようか。」
律さんだ。
「いや、今日はいいよ。時間あるから、自分でかけるよ。」
仲居手伝い経験者の清治は、いきなり、昼から出て夜の宴会が終わるまでのシフトに組み込まれていた。
「最近の学生、嫌がってやってくれないんだよね。」
と、総務部長の安田が言っていた。
午前中に部屋の片づけをしてしまって、午後、旅館に出る前にフジコに電報を打っておこうと思った。
文面は、もう決まっていた。
“コトワラレタ クルヒツヨウナシ”
フジコは怒るだろう。だが、清治はもう決めていた。
よしんばフジコにその才能があったとしても、和江の代役としてフジコの体を見世物にしてしまうのは、やはり忍びなかった。一度でもフジコを利用し、自分の人生を歩き直そう等と考えたことが、今となっては恥ずかしい。
「あかんよ、清さん。」
和江なら、そう言うだろう。
自分は、既に世を捨てた人間だ。
和江と出会い、和江と共に歩めた事だけでも良しとしなければならない。
旅館の女将や安田には、うまく断っておこう。そして、とりあえず首にされるまで、この旅館で働こう。ここに骨を埋めたっていい。和江と一緒に埋葬してもらえれば本望だ。
フジコは前向きな女なので、清治などが心配しなくても自分で自分の歩む道を見つけるだろう。
何度か話の中に出てくる秀とかいう青年、しっかりしていそうだ。フジコの事をきちんと面倒見てやってくれればいいが。フジコは、糸の切れた凧みたいなところがあるからな。
「あかんよ、清さん。」
また和江の声が聞こえたような気がして、掃除の手を止める。
と、部屋の隅に壁紙の綻びを見つけた。
日当たりが悪く、湿気の多い部屋なので、壁紙もすぐに剥がれて来る。特に清治達のような稼業の者に高い壁紙が買えるわけも無く、町のスーパーで一番安いのを買って来て、和江が一人で張り直したものだ。
その時の壁紙のままだろうか。近付いて見ると、どうやらもう一度誰かの手で張り直されているようだ。前のを剥がさずに重ねて張られているので、一枚剥がすとすぐ下には和江の張った壁紙があった。
懐かしさにかられて、少し剥がして見る。何、後でちゃんと張り直しとけばいい。
だが、勢い余って和江の張ったのまで剥がしてしまった。
慌てて張り直そうとして、和江の張った壁紙の下のザラ半紙に目を止めた。
それは、壁の凹みを直すために何枚か重ねて張られていた。
薄暗い部屋の隅なので目を凝らさないと見えないが、変色した紙に薄く鉛筆の文字が残っていた。
最初の一行目に清治の視線が釘付けになる。
そこには、下手くそな字で「せいじ」とある。その次の行には「清治」。
それが、何度も繰り返されている。
和江は漢字がほとんど書けなかった。漢字を覚える前に地震で一家離散、その後は一応学校には通えたようだが、預けられた親戚の家の仕事を押し付けられ、まともに修学していない。
平仮名の読み書きは出来たようだが、漢字となるとてんで駄目だった。
だから、人前で字を書くことは全くしなかった。どうしても字を書かなければならない時、名前は平仮名で自分で書き、住所は清治が代わりに書いてやった。
清治の名前が書き付けられた紙を剥がすと、次の紙には「すき」、「好き」。その次には「しあわせ」、「幸せ」。そして「うれしい」、「嬉しい」。
下手くそな字だが、和江が清治のいない間に必死で字を書けるように練習していた事が見て取れた。
清治は、そのザラ半紙を一枚一枚丁寧に剥がし始める。
和江は、おそらく旅館あたりから貰って来た余りもののザラ半紙に、こつこつと字を書き付けていったのだ。何のために?
ただ字が書けるようになりたかっただけではあるまい。
何のために、この何も無い部屋の中で、清治がいない時を見計らって一人、漢字の練習をしていたのだろう。
部屋の真中にポツネンと座り、字を書く和江の姿が浮かび上がってくる。
おそらく、今書いている文字を口に出しながら、下手くそながらに丁寧に書き付けたに違いない。
清治の目から溢れ落ちた涙が、ザラ半紙を濡らす。それを慌ててゴシゴシと拭く。
「うち、嬉しかった。」
和江の声が聞こえるような気がする。
「俺もだ。」
清治が呟く。
清治は、ザラ半紙を全部剥ぎ取ると、丁寧に折りたたんで懐にしまった。
そして部屋をでる。
「行ってくるよ、和江。」
昔のように声に出して言うと、勢い良く開き戸を閉めた。
表では律が玄関先を掃いていた。
「おや、清さん。今日は一人かい。」
「ああ。行ってきます。」
そう言って寮を後にしたが、再び戻ってくる。
懐から先ほどの紙を出して、
「律さん、和江ね、漢字を書く練習をしてたんだよ、ほら。」
律に見せると、律は不思議そうに、
「おや、知らなかったのかい。暖かい日は、ほれ、そこの石に腰掛けて、一生懸命に書いてたよ。おや、清さんには内緒だって言われてたんだ。」
「へぇ、そうかい。和江、そんなに字が書きたかったんだ。」
「手紙を書くんだってね。」
「手紙?」
「何でも、是非伝えたい事があるって。」
「誰に?」
「さてねぇ。それこそ、和江さんに聞いてみればいいじゃないか。」
律は、少しボケかけているようだ。
和江が死んだ事を時々忘れる。
大方、和江の幽霊話は、律のこの言動が発端になっているようだ。
ただでさえ日当たりが悪く湿気の多い部屋だ。入居した夫婦は長くは耐えられないのだろう。早々と出て行く理由を和江の幽霊のせいにしたとしても不思議は無い。
清治は道々歩きながら、そんな事を考えた。

清治が、フジコに電報を打つために寮を出、町の郵便局に向かって丸屋旅館の赤い橋の前を通り過ぎようとした時、旅館の駐車場からけたたましくクラクションが鳴った。
見ると、大型のトラックが止まっている。
自分が呼び止められたと思わずに、さらに先を急ごうとすると、もう一度クラクションが鳴る。清治は、ようやく自分が呼び止められたのだと理解した。
トラックの助手席から降り、走ってくる者がいる。フジコだった。
「清さん。」
フジコが手を振りながら駆けて来た。
清治は咄嗟に状況が理解できない。
「フジコか。」
怪訝な顔で問い掛ける。
「そうだよ。」
「何やってんだ、こんな所で。」
「そりゃ無いよな。清さんが寂しがってると思って来てやったのに。」
「そりゃ、かたじけない。しかしなぁ、あれだよ、今電報打ちに行くところだよ。」
「誰に?」
「フジコに。」
「僕は、ここにいるよ。」
「そうだな。電報打つ手間が省けたって事か。しかしなぁ。」
「何だよ、歯切れ悪いなぁ。」
「いや、フジコに来るなって打つつもりだったんだ。」
「来るなって言われても、来ちまったぞ。」
「そうだよな。困ったもんだ。」
「何で来ちゃあいけないんだよぉ。」
「いや、やっぱり、あれだ。」
「何がやっぱりだ。」
「断られちまった。」
「断られたって、お座敷?」
「ああ。」
「そりゃひどい。せっかく僕、覚悟を決めて来てやったのに。誰が断ったんだよ。」
「そりゃ、まぁ、女将だな。」
「女将って、旅館の?」
「総務の安田さんも。」
「誰それ?」
「徳さんも。」
「それから?」
「それからって、そうだな。」
「おい、清さん。」
「何。」
「話作ってないか?」
「作ってないよ。」
「清さん、嘘つくの下手だからな。まぁ、いいや。じゃぁ、僕が直談判してくる。」
「談判って、誰に?」
「女将ってのに話をするのが早そうだな。」
「怖いぞ、ここの女将。」
「どんな風に?」
「山姥みたいな顔してる。」
「いいよ、ここで待ってて。僕行ってくるから。秀と待ってて。そうだ、清さん、秀、知ってるよね。」
そう言ってフジコがトラックの運転席を指差す。
秀が運転席から軽く頭を下げる。清治もそれに応えた。
何度か会っているが、親しく会話した事が無い。しっかりした青年である事は、見た目で分かった。
が、フジコから清治の事をどのように聞かされているのか、あまり清治と視線を合わせたがらない。
二人取り残されても、気まずい思いをするだけだ。
「ちょっと待てよ、フジコ。誰が女将か知ってるのか。」
「誰か、その辺の人に聞くよ。例えば、ほら。」
と、フジコが指差した先にスエコが歩いている。
「全く運が良いよ、フジコは。」
スエコが清治に気がつき、やって来た。
「清さん、例の子、来たの?」
「いや、まぁ、来たとも、来ないとも。」
「何よ、はっきりしないわねぇ。もしかして、逃げられたの?」
そこにフジコがしゃしゃり出る。
「もしかして、僕の事? 僕は、逃げ出したりしないよ。」
「え、ちょっと、清さん、この子?」
「いや、まぁ、その。」
「フジコです。」
「あら、そう、そうなの。ちょっと、清さん。」
と、スエコが清治を引っ張って橋の袂まで連れて行き、
「まるで子供じゃない、大丈夫なの。」
その顔は、どこかホッとしている様にも見受けられるのは、気のせいか。
「ええ、まぁ、たぶん。」
「後で、私のところによこしてちょうだい。」
「女将さんの所に?」
「当面の仕事が必要でしょ。」
「まぁ、そうですね。」
「フジコちゃん、だったわね。」
と、女将がフジコに声をかける。
「後で、私のところに来てちょうだい。総務の安田に言えば場所を教えてくれるから。」
そう言うと、スタスタと行ってしまった。
「誰?あれ。」
フジコが後姿を見送りながら尋ねる。
「女将だよ、丸屋旅館の。」
「そうなんだ。」
「と言うわけだから、フジコ。帰っていいぞ。」
「何馬鹿な事をおっしゃって。ここまで来ちまって、おいそれとは帰らんねぇ。なぁ、秀。」
声をかけられ、秀は何事かとトラックを降りてくる。
「やぁ。」
清治が、もう一度挨拶をする。
「どうも。」
秀も少し頭を下げて応え、フジコに
「どうした。何かトラブルか?」
「トラブルもトラブル。大トラブルだぁ。清さんが僕に帰れと言う。」
「いいじゃないか。帰ろうよ。」
「秀まで。秀、僕は悲しいぞ。」
「なぁ、フジコ。」
と、清治がなだめにかかる。
「あれは、どう考えたって、フジコのような女の子がするようなこっちゃない。」
「じゃあ、和江さんは?」
「和江は、もともと、そんな生き方しか知らなかったんだ。」
「僕は、和江さんの後を追いたいんだ。」
「そりゃあ、和江がそんな事聞いたら、喜ぶだろうけど。」
「清さん、お願い。ね、お願いします。」
あまりに必死なフジコを見て、清治も心が動く。
フジコはフジコで、何故自分がここまで食い下がるのか、自分の事ながら今一つ理解できない。
でも、ここは意地の見せ所だと土下座でもしそうな勢いだ。
「フジコも言い出したら聞かねぇからな。」
秀が呆れる。
「そんな僕が好きなんだろ。」
そう言われて、秀は、ちらと清治の方を見て、
「違げぇねぇ。」
「よし、じゃぁこうしよう。取り合えずフジコは俺が預かる。でも、嫌になったら、いつでも帰ってくれていいんだぞ。」
「帰るわけないじゃないか。」
「例えばの話だ。」
「僕は、お座敷やるんだ。」
「やれやれ。」
清治は、どんなに言ってもフジコが頑として考えを変えそうに無い事を悟る。
清治からすれば、フジコの情熱は全く青いものに思えた。その青い情熱が、懐かしくもあり、愛しくもあった。それ故に、できればその情熱を無くして欲しくないと言う、心の底の漠たる思いもあった。

「あなた、それって、どういう事なのか分かってるの?」
スエコが尋ねる。
大きな一枚板の机の向こうで、スエコが眼鏡越しにギョロリとフジコを見る。
フジコは、その向かいのソファーに座って、居心地悪そうに貧乏ゆすりをしていた。
「どういう事って?」
「社会の一番底辺を這いずる事なのよ。」
「それって清さん達に失礼じゃないかなぁ。」
「人間性の事を言ってるんじゃないの。体を張って見世物をやるって事、その事を言ってるの。河原乞食になるって事を言ってるの。わかる?」
「河原乞食?」
「昔から、河原者って言ってね、見世物や皮職人や、人がやりたがらない仕事で生計を立てている人の事をそう言ったの。時には人に非ずって、非人って言われた事もあるわ。それは、厳しく日常から排除される事でもあるのよ。あなた、それでいいの?」
「清さんは排除されていない。」
「あの人は、自分から日常を投げ捨ててしまっているから、それ以上排除され様も無いのよ。」
「和江さんは?」
「和江さんは、不幸な生い立ちの中で、やっぱり、その道を選ばざるを得なかった。当館の死んだ亭主が清さん達の芸に理解があったからこそ、この温泉場では誰からも後ろ指さされずに済んだのよ。他所ではどれだけの辛い思いをしてきた事か。でも和江さんは、そんな中でもプロ魂を持ってたわ。例えば、体型を常に一定に保つ努力をしていたし、けっして日焼けしないように気をつけていたし。和江さん本人が気付いていたかどうか、自分の見せ方についても注意を払っていたわ。和江さんがやるとね、裸と性行為を見せるだけに終わらなかったのよ。そこには、和江さん自身の人生哲学みたいなものも表現されていたわ。誰も、和江さん自身でさえも意図していなかったと思うけど。それが和江さんの性行為に鬼気迫るものを生み出していたのよ。見る人誰もが引き込まれる迫力をね。何故だか分かる?和江さんは、そこでしか生きる術を見出せなかったのよ。彼女にとって、そこが崖っ淵。そこで踏ん張らなければ、もう何処にも踏ん張る場所がない事を充分に知っていたのね。」
「女将さん。僕に、フジコに、何処まで出来るかは分かりません。でも、やって見たい。和江さんを追いかけてみたい。」
と、女将が大声で笑い出す。
「あんた、清さんに惚れたんではなくって、和江さんに惚れてるの?」
「そうかも知れません。和江さんの話を聞けば聞くほど、和江さんに近付きたくなるんです。」
「相手は、もう死んでるのよ。」
「知ってますよ。その理由、何故和江さんが死ななければいけなかったのかも知りたい。」
「和江さん、それ聞いたら喜ぶわよ。あの人、いつも自分は天涯孤独ですって言ってたから。」
「清さんがいたのに?」
「清さんでさえも埋められない、深い心の溝があったんでしょうね。」
「心の溝か。」
フジコは、昔、見世物小屋の裏手で見た女を思い出していた。
その見世物小屋は、年に一度、近くの大きな神社の祭りに必ずやって来た。
赤ん坊の頃、青森の山奥に捨てられ、大蛇に育てられた蛇女と言うのが売りだった。
入り口の台の上の中年男の唾を飛ばしながらの口上にもかかわらず、客の入りは今一つだった。
隣の見世物小屋は、これも毎年やって来たが、何処から拾ってくるのか来る度に違った奇形の人を用意して出し物を変えていた。
牛から生まれた牛女とか、山羊に育てられた山羊女とか。牛女と言うのは、事故か何かで顎が八割方無くなり、横から見ると舌の根元までが見え、それが、肉屋の店頭に並んだ牛の舌にそっくりだった。
山羊女は、生まれながらに足の間接が逆に曲がる奇形で、その女性が山羊のように舞台の上を歩くと、観客は「おお」とどよめいた。
毎年出し物を変えれば、人は物珍しさから銭を払う。
が、蛇女の小屋は毎年蛇女だけ。
どの見世物小屋も、「売り」を除けば、大抵似たり寄ったり。蝋を飲む老婆とか、鎖を鼻に入れて口から出す中年女とか、犬の曲芸とか。入り口の口上程の緊張感は、見世物小屋の中には無い。祭りの参拝客は、それでも口上の面白さと売りの物珍しさに曳かれ、見てのお帰りの御代を握り締めて小屋に入る。
蛇女も、大きなニシキヘビを一匹飼っており、それを見たさに、最初の何年かは客の入りも良かったようだ。
口上の中年男が「さぁ、蛇女が登場だ」と叫ぶと、中の中年女がニシキヘビの尻尾のところを、外の参拝客に見えるように持ち上げる。小屋の壁面には蛇女の絵がおどろおどろしく描かれており、その絵の真中にニシキヘビの尻尾が見えると、あたかもそれが蛇女の胴体の一部であると錯覚するのだ。
そうすると、サクラ交じりの何人かが小屋に入って行く。つられて入っていくと、丸太で仕切られただけの舞台では、趣味の悪いチャイナ服の女が犬に曲芸をさせている。
しばらく見ていると蛇女の登場と相成るが、それは蛇の剥製の間から女が頭を出し、異国の歌を歌っているだけのものであった。舞台の頭数を数えると、どう見ても先ほどの犬の曲芸の女に違いなかった。
見世物小屋は祭りが終わると、翌日には早々と小屋をたたみ次の祭りへと向かう。
フジコは、祭りの後の神社の境内の白々とした空気が好きだった。見世物小屋も、そこに所属する人々が助け合い、粗末な小屋の解体作業をしていた。見ると家財道具も運び出されており、どうやら全員がそこで共同生活しているようだった。男女関係なく小屋に取り付き解体する後ろの空き地で、女が一人、焚き火に鍋をかけ、吹き零れないように見ている。それは、例の蛇女であった。
舞台化粧をしている時は美人とは言い難いと思われたが、素顔の彼女の横顔は、どこか憂いを含んで美しかった。
やがて小屋の方から男が一人現れ、異国の言葉で女に声をかける。女は気の無い答えを返す。男は、そんな女の後ろから覆うようにかぶさる。女が、一言きつく言葉を発する。男は、小屋の方を気にしながら女の胸を揉みしだきはじめる。女は、無表情に男のするがままに任せている。やがて、小屋から声がかかり、男が立ち去る。
残された女は、また、自分の世界に入って行く。大きく溜息をつく。
その時、フジコは、女の中にある深い深い世界、北国のブリザードの中で息づくような冷たい孤独を垣間見たような気がした。
「ともかく。」
と、女将が言う。
「同じ女と言う立場から、あなたに決してお薦めはしません。止めるのが本当なんだろうね。でも、まぁ、あなたも大人なんだから、自分で良く考えた上での事ならば止めません。清さんと和江さんの昔のよしみで、昔と同じ程度の協力はして上げられると思うわ。清さんと相談して、いつから始めるのか、また連絡ちょうだい。」
「それなら、もう決めてるんですけど。実は、和江さんの命日を第一回目としたいんです。」
「和江さんの命日?もう一週間も無いじゃないの。」
「はい、期待しててください。」
呆れる女将を尻目に、フジコは社長室を飛び出した。

その頃、旅館にかかる赤い橋の上で、清治と秀が手持ち無沙汰な時を過ごしていた。
まだ半分程も残っている煙草を川に放り投げると、
「本当に反対しないのか。」
と、清治が尋ねた。
「何度も反対してますよ。でも、あいつ、言い出したら聞かないから。」
「俺だったら、縄付けてでも引っ張って帰るんだがな。」
「そうしたいのは、山々ですよ。」
「そうしろよ。」
秀がまじまじと清治の顔を見る。
何を言ってるんだこのオヤジはと、秀は言いたかった。
フジコを寄ってたかって、その気にさせ、こんな信州の温泉くんだりまで出向かせたのは、あんた達だろう。何を無責任な事を言ってるんだ。と、秀の目は語っていた。
秀は、そう言う代わりに、
「フジコも俺も、小さい頃から宛てにできる親もいなくって、苦労して育ってきたんです。まともに教育も受けてないし、親の愛情すらろくに知らない。俺は、こうして仕事が見つかって、人生の中で目標も出来たけど、フジコには、まだそれが見つかってないんだ。それを必死で探してるんですよ、あれで。まるで糸の切れた凧みたいだけど。必死なんだ。その通過点に清さんとの出会いがあるんですよ。」
「通過点にしては、いささか重たいなぁ。」
「確かに。でも、俺はそんなフジコを見守ってやりたいんです。俺、あいつの事が赤の他人に思えないんです。」
「そうなのか。」
清治が自信なげに煙を吐き出す。この季節にしては涼しい川からの風に、それが拡散していく。
清治は、困り果てていた。
確かにフジコにはっきり断る事もせず、ここまで来させてしまったのは自分の責任だ。こうなったらフジコの望みをかなえてやりたい。だが、自分が和江とやっていたような事がフジコ相手に出来るとはとても思えない。だが、フジコの青い、しかし熱い思いを身近に感じる事は、その思いが何故、あるいは何処から出ているにしろ清治にとっては自分がとっくに失ってしまった熱さなのだ。だから、随分と懐かしく心地良いものだった。
「もしかして、やる気も無いのにフジコをおもちゃにしたくて誘った何て事は無いでしょうね。」
「まさか、何を言うんだ。しかしなぁ、君らは今からやろうとしている事の意味が分かっているのか?社会の底辺を流離う事になるんだぞ、下手をすると。最近、特に取締りが厳しい。官憲に追われて暮らす事になるかも知れない。君はフジコを失うことになるかも知れない。勿論、俺もだ。」
そう言われて、秀は言葉を飲み込んだ。
本当は、「いいです。それでも、フジコを守ってやります」と言いたかったのだが。
どんなふうに守れるのか秀には具体的な姿が思い浮かばなかった。
清治は清治で、はっきり断る事も出来ない自分に不甲斐なさを感じていた。
俺は、この話を断って、そのせいでフジコを失ってしまう事の方を恐れている。
そう思っている。そう思いながら、もう一度煙を吐き出そうとしたところで背中を激しくたたかれ、むせた。
振り返ると、徳だった。後ろにチビもいた。
「何を時化た顔してるんだい、男二人が。」
「何だよ徳さん、ビックリさせるなよ。」
徳は、その言葉を無視し、秀の方を見て、
「新顔かい?」
「いや、ちょっとした知り合いでね。」
「そうかい、そりゃ邪魔して悪かったな。」
「いいよ、何てこと無いよ。」
邪魔して悪かったと言いながら、徳も煙草に火をつけた。
「ところで清さん、今日ボイラー見てくれるかい。」
「どうした。」
「いよいよいけなそうだよ。変な音がするんだ。」
「そりゃ、ファンが原因だな、たぶん。なんかでかいゴミが引っかかってるんだろ。いいよ、夕方の忙しくなる前に見てやるよ。一時間もありゃ、分解して掃除してやれるよ。」
「恩に着るよ。」
「ボイラー技師かなんかやってたんですか。」
二人の会話を聞いて、秀が不思議そうに尋ねる。
秀にしてみれば、清治は、チャランポランではなさそうだ、逆に随分しっかりしてそうだが、人生の裏街道を歩いているのも事実で、掴み所の無い変なオヤジだった。それが、ボイラーの話となると、さらに説得力のある話っ振りになる。ますます分からないオヤジだった。
「いや、売ってたんだよ。昔ね。人手が足りなかったんで、よく修理にも駆り出されたもんだ。それでね、素人ながらに修理が出来るようになってね。」
「結構有名な会社だったよな、清さんが昔勤めてた会社。なんて名前だったっけ。」
と、徳が清治の顔を覗き込む。とても、そんな顔には見えないと、言いたそうだ。
「昔は、俺の頃は、ちっぽけなつまらない会社だったよ。」
「サラリーマンだったんだ。」
秀が、なお理解できないと言う顔で見る。
「いや、まぁ、若い頃だよ。」
「そうだよ、商事会社だよ。でかい商事会社だったよな。」
「徳さん、もう止めようや、その話。」
「悪い悪い。」
清治が本当に不快な顔になったので、徳は慌てて煙草の火を消し、チビを引き連れて厨房に戻っていった。
チビが、徳に、
「清さんって、本当の名前、何て言うんですか?」
と尋ね、
「杉田清治だよ。」
と、徳の答えるのが、川の音にかき消されながら途切れ途切れに聞こえてきた。
「あんたは、変な人だ。」
秀がボソリと呟く。
「そうだな。」
本当は頼りないだけなんだと言う言葉を飲み込んだ時、また誰かに背中を叩かれた。
フジコだった。
「何だよ、男二人時化た面して。」
「どうだった、山姥との対決は。」
「グーだよ、清さん、グー。」
「何がグーなんだよ。」
「やらせてくれるってさ。」
「嘘だろ。」
清治の複雑な顔。
秀は、どこか拗ねた表情で、
「良かったな。」
と、フジコの肩を叩いた。
「これで逃げも隠れも出来ないよ、清さん。」
と秀が言うのを、
「何で清さんが逃げんのよ。秀、反対してたのは、おぬしだろ。」
「いや、まぁ、これには深いわけがあるんだが、そうか、あの女将がやっていいって?余程客に困ってるのかな。」
「これで、天下晴れてのコンビだな、僕と清さんは。」
「いや、まだ、もう一軒行ってもらわねばな。」
「何処何処、何処でも行くよ、僕。」
フジコは、調子ついている。
「ヤクザの親分。」
「やくざ?」
「ああ、この温泉場を牛耳っているやくざでな、怖いオヤジだ。ここで色商売するには、まず、その親分に抱かれないといけない。変態的な奴だが、フジコは大丈夫だろ?」
フジコは、返事の代わりに生唾を飲み込む。
「そいつの許しがでれば、万事オッケーだ。」
「許しが出ればって、出ない事もあるんだ。」
「ああ、こいつの変態プレーに耐えた女だけが、ここで商売できる。」
フジコが、秀の顔を縋るように見る。
清治は、そこに追い討ちをかける。
「フジコ、俺たちがやろうとしている事は、所詮その程度の事なんだよ。そこには夢も希望も無い。あるのは、お前の肉体と好色な男達の視線、そして僅かな金だけだ。フジコなら耐えられると思うけどな。」
秀の詰るような視線を清治はとらえる。
フジコは、突然黙ってしまった。
少し言い過ぎたかなと反省の色を浮かべかけたところに、フジコの大粒の涙を見る。団栗型の目から、ポツリと落ちる。
「どうした。怖い話をし過ぎたか?」
「違うよ。清さん、そんな話ばっかりして、やっぱり僕が嫌いなんだ。僕がお調子者だから手を焼いてるんだ。どうして、もっと早くにその事を言ってくれないの。」
「おいおい、フジコ、それは誤解だよ。」
「いや、絶対にそうだ。ねぇ、秀。僕達は何のためにはるばるここまで来たんだろうね。」
「そりゃ、違うって言ってるだろ。」
「清さん、こりゃいよいよフジコに謝らなきゃ。」
秀が清治に耳打ちする。
「フジコ、ごめんよ。」
「いいよ、謝るふりなんかしてくんなくても。」
女が泣き出すと、本当に手におえない。
「本当に、心から謝ってるんだ。」
「本当に?」
「ああ、だから泣くなって。」
「じゃあ、清さん、フジコとコンビ組んでくれる?」
「わかった、組む組む。」
そう言いながら助けを求める清治の視線を、最初わざとそっぽを向いて無視したが、清治を憎めなくなっていた秀は、
「清さん、そろそろ仕事だろ。フジコの機嫌は俺が取っとくから、仕事に行きなよ。」
と、助け舟を出す。
「そうか、悪いな。じゃぁフジコ、機嫌直せよ。五時の休憩の時に、ここでまた会おうな。」
と言い置いて旅館の裏手を厨房に下っていく清治を、フジコはアッカンベーをしながら見送った。

事務所の掲示で今日の仕事の割り振りが配膳手伝いである事を確認し、厨房の横の配膳部屋に向かう前に、清治はロビー片隅の公衆電話に立ち寄った。
公衆電話は二階ホールに上がる大階段の下にあり、客の目から見えにくくしてあったので、
従業員も使用できた。先客で、チビが電話を終えたところで、清治が声をかけると、いそいそとその場を立ち去る。
清治は、その姿を横目で見送り煙草に火を点けると、ポケットをまさぐり、クシャクシャに丸まった平林の電話番号を引きずり出し、ダイアルを回した。
しばらく呼び出し音がして、若い男の声が平林剛三の事務所であることを告げる。
取次ぎを頼み、煙草一本分待つと、漸く平林が出て来た。
「杉田です。清治です。」
清治が名前を言うと、やや間があって、
「おお、清の字か。誰かと思ったぜ。」
「忘れられてたのかなぁ。」
「馬鹿野郎、昨日会ったばかりだろ。そこまで耄碌してねぇぞ。清の字から連絡してくるなんて未だかつて無かったからな。」
そう言えばそうだ。よくよく思い出してみれば、別に避けていたわけでは無いが、清治から平林に連絡を取るような状況は今までに無かった。
「で、どうした。やっぱり出たか、和ちゃん。」
「いや、そうじゃなくて、実は」
と、手短にフジコの事を話す。
「おいおい、清の字。俺ももう若くはねぇ。だから、昔みたいな、あんな事はしてねぇんだよ。風俗は若いのに任しててな、やつらヒモ稼業だ。俺みたいに女の独立を守ってやるなんて気、さらさら無いみたいだな。ま、俺んとこは、そんな奴らの寄付金で成り立ってるから、あんまり文句は言えねぇんだけどな。」
清治が、それを言うなら上納金だろと返すと、
「そうとも言うな。」
「一度だけ昔に戻ってくれないかなぁ。」
「つまり、俺がそのフジコって娘を脅して、考えを改めさせればいいんだな。」
「ただし、手荒な事はしないでくれよ。」
「しかし、いいのか。」
「何が。」
「お前、風太郎だろ、今。もう一度、そのフジコって娘と組めば、昔みたいに食いっぱぐれは無くなるんだぜ。更正のチャンスじゃねぇか。」
「それを更正って言うのかなぁ。」
受話器の向こうで平林も苦笑する。
「フジコには、もっとまっとうな道を歩んでもらいたいんだよ。」
「相変わらず人だけは良いんだな、清の字。」
「何とでも言ってくれ。」
「お前の頼みだ、断るわけにもいかねぇだろ。仕方ねぇ、明日の夜俺んところに寄越せよ。」
「今日じゃ駄目か。」
「そりゃ何でも急すぎるぜ。」
「無理を承知だ。」
「ちょっと待ってくれ。」
しばらく若い男と相談しているのが、内容までは聞き取れ無いにしても、手で塞がれた受話器から伝わってくる。
ややあって、
「よし、スケジュールの調整はつきそうだ。しかし、ちょっと遅めだぞ。今晩十時でいいか。」
「十時だな。了解。」
「そっちから見て駅の向こう側に新しくできた、待合っていうか、今時はラブホテルって言うのか、そこのフロントのババァに平林って名前を出してくれれば、部屋まで通してくれるよ。」
「温泉街にラブホテルか。」
「結構流行ってるらしいぜ。物珍しさと、それと、あれだ、隣の声が聞こえねぇ。俺達は、隣の声が聞こえた方が、燃え上がったもんだがな。とにかく、そこの用心棒もやってるから顔は効く。一番広い部屋を押さえとくよ。」
「別に部屋は広くなくてもいいが、よろしく頼まぁ。」
「まかせろ。」
その電話を切ってフジコ達を探しに出てみたが、もう姿は無い。
五時の休憩の時に会う約束をしているので、その時に伝える事にしたが、できれば今すぐにでも話をして、フジコに考え直す時間を与えたかった。
おそらく平林は、上手くやってくれるだろう。フジコは、きっと清治とのお座敷を諦めるに違いない。しかし、多少とも傷つくのも確かだ。それが、フジコとの関係の最後になるのは寂しいとは言え致し方無いが、傷つく事によって、その心に風穴の一つも開いてしまうかもしれない事が気がかりだ。
「おーい清さん、そろそろ仕事にかからないと。」
徳が清治の姿を認めて、厨房の入り口から声をかける。
まだ日は高いが、これから夕食に向けて旅館はフル回転を始めるのだ。


(続く)